2ヶ月過ぎて・・
こんにちは
2ヶ月過ぎると写真のアップロードに手こずるようになる。
皆様お元気でしたか?と、語りかけてももう誰も反応してくれないかもしれないなぁ。
久しぶりに自分のブログを開いてまずやることといえば・・最後に書いたのはいつだった?という事。
そうか・・12月の22日。冬至の時だったんだな。ってことは、そのあと起こる事をその時は予想だにしてない。年末の過ごし方についてもう計画してて段取りしながら過ごしていたはず。
いろんな事がありまして・・。
結論から書いちゃうけど、サル吉くんの父が逝ってしまいました。
10月に東京の友人夫婦がこちらに来た頃は、GO TO割引でみんなが少しずつ移動を始めていた。
でもその時まだ北海道の感染者数はあまり減ってなかったし、年末を大人しく小樽の実家で年越しをするかそれともお義父さん連れて温泉行くか悩みどころだった。だけど様子を見に行った時にお義父さん自らがネットで調べて以前2度ほど一緒に行ってる余市の穴場ホテルが年末営業してるという情報を教えられた。
そうかー。そんな自分でも調べちゃうくらいなんだもの。だったらしっかり感染対策して行きましょ♪と予約。
「12月29日に予約取れたよ。」と、電話するととても嬉しそうだったから、その後再び感染者増大でとうとうGO TOも休止となったけど逆にキャンセルが出て空いてるならそのほうがいいよねと、そのまま予約してあった。
前回ブログ更新した何日か後に、電話で話して「体調は変わりない?温泉行けそう?」と聞くと「大丈夫。」との返事だった。
年末年始で定期的に受診してる近所のクリニックが休みになるから、血圧の薬をもらいに行こうと家を出たお義父さんが途中で歩けなくなってその病院の人に迎えに来てもらったのが12月28日。
心不全で体の浮腫みが酷く、レントゲンでは肺炎もある。緊急入院となりそこから救急車で大きな病院へ。
電話があってそりゃあびっくりして途中で早退してきたサル吉くんと慌てて小樽へ。
その頃、まさに小樽でクラスターが発生してて札幌⇔小樽間も不要不急の往来禁止とまで言われてた。
まさかと思ったけど、そこから3週間入院してるお義父さんとは一切面会出来ず。とりあえずの入院準備を整えて病院には運んだけど、それを手渡すことすら叶わず病院職員に託すのみ。
入院当日の夕方、担当医からの話を聞く事が出来たんだけど「肺炎」と聞いてもしかしてコロナ?って思ったからまずはそこ聞いたけど、それは陰性。病院側としても最初にそこを調べたらしい。そりゃそうだよね。
心不全がひどい。腎不全も起こしてる。肺炎もある。血液検査のデータを見せられたけど、ちょっとゾッとするような数値だった。
本人よく自覚症状もさほどなく自宅で1人でいたよね って思うけど、高齢者って一気に状況が悪くなるわけじゃないからいろんな機能が衰えてきてもそのまま低め安定でバランス取ってるみたいなんだよね。
だから薬を使う治療によってそのバランスが逆に悪影響を及ぼす場合も十分あると。もう最初っからあまりいい話は出ず。
そんな状況になってから、そういえば・・と思い当たることもあった。
月1ペースで様子を見に行って「調子どう?」と聞けば「調子いいよ♪最近体重も増えてきたし」。
そのセリフをただ鵜呑みにしてたけど、一緒にご飯とか食べてその食事量を見てたくせにそれで体重増えることに疑問を持たなかったのはうかつだった。
浮腫による体重増加じゃないかってそこで気づいて病院に行ってたら・・。
携帯は持ってたお義父さん。でも、院内どこでも電話OKなわけでもないからベッド上安静の状態ではこちらから電話をかけるわけにもいかず、それでも時々こっそり部屋から電話がかかってきてた。
まず第一声は「すまないけど、温泉は俺の分はキャンセルしてくれ」ということ。でもそれくらいしっかりしてたから安心だった。個室料金払って1人部屋になれば電話出来ていいかなと思ったり、でも他の患者さんとの会話があるほうが刺激になっていいかなと思ったり。だって誰もお見舞いに行けないんだもんね。
肺炎が少し改善してきて少しリハビリも始めてます。状態を聞く電話を入れるとそんな話だったのでわずかに光が見えたかなと思ったのも束の間、肺炎再燃。そして状態さらに悪化の連絡。
12月28日に入院して2月2日に亡くなるまでの間、最後の10日間は特別に面会が許されたけど(個室になったこともあり)、その時には意識はあったけど会話は出来ず。1日の尿量が20ccしか出てなかったお義父さんの体は、痛々しいほどパンパンでした。
個室になれば面会が出来たんなら、もう少し早く言ってくれたら・・せめて会話が出来たのに。いろんな思いが残るけど、何もかもが今の状況下での入院という不運がつきまといました。
東京と山形からお義兄さん達も到着。施設入所中の叔母さん(お義父さんの妹)も、外出禁止だったのを特別に許可をもらってお見舞いに来てくれました。その日だけ尿量が150ccに増えたお義父さん。言葉は出ずともちゃんとみんなの声は届いたんだなと確信した日でした。
入院して何日かのうちは、これはもう1人暮らしは難しいだろうと退院後の事をサル吉くんと相談。
とりあえず常に家に誰か(私)がいるってことで我が家に連れて来るのがベストだろう。だとしたら2階にお義父さんスペースを作らねばね。と、2階が居間でお風呂も2階の我が家をどう整えるか なんて家族会議も。
ちょうど元同僚とラインでやり取りしててそんな話になって、彼女も自身の親を呼び寄せて同居してると。
大変さは覚悟しなきゃな・・という気持ちではあったけど、でもいろいろ考えて私のほうからサル吉くんに持ちかけたら「そんな風に考えてくれてありがとう」なんて言われちゃったよね。
お義父さんは、そんな風に世話をかけたくなかったんだろうね。
3月の誕生日が来たら車の免許は返納する。と決めてたお義父さん。これまで事故も起こさず週に3回ボウリングに自分の運転で通い、自分の事を全部自分でやり、家の中もちゃんと整えてた。
私たちにはそんな事言わなかったけど、妹である叔母さんには電話で「そろそろけいこ(お義母さんのこと)のところに行きたいな」って言ってたんだって。後からそれを聞いた時胸が痛かった。
2012年のお義母さんの時の写真とこの写真は一緒に撮影された金婚式の時のもの。
夫婦で遺影にしようと決めてたもの。いつも自然な笑顔で写真に収まるお義父さんなんだけど、殊更にこれ素敵なんだよ。
こうなってしまってから、最後まで独居は寂しかったかな。同居すべきだったかな。なんて口にするのは偽善っぽくて嫌だから言わない。施設に入って上げ膳据え膳の生活のほうが楽じゃない?という話にも結局乗り気にならなかったお義父さん。その一生は最高にカッコイイよ。
コロナ渦での葬儀をどういう形にするか・・ここら辺も悩みどころだった。しかも真冬の北海道だし。
でも家族が納得出来る形・後悔の記憶が残らない形で見送る事が出来たこと。今はこれが本当に良かったと思ってる。
お義父さんの顔を見れてから見送るまでの最後の10日間。お義兄さん達が我が家で合宿生活のように滞在してたこともあり息子4人嫁2人が久しぶりにゆっくり顔を合わせる事も出来てその様子をおそらくお義母さんは見守ってくれてたと思います。
病院から連絡が来るたびに小樽へ そういう時は不思議と荒れた天気も穏やかになったし。
夢にも全く登場しないお義父さん。多分積もり積もった話をお義母さんとしてて忙しいのかもね。
まだこれから実家の片付けという大仕事もあり、いろいろな手続きもまだ半ばというところ。来月四十九日が終わるまではなんだかんだとありそうですが、そういうことは残った家族の最後の親孝行ですからね。こういう時何より良かったと思うのは、兄弟みんな仲が良い事。男ばかりの4人兄弟って、ベタベタした関係は一切ないんだけどいざと言うときに本領発揮する感じが素晴らしい。嫁2人も大活躍(自分で言っちゃうけど)ですから。いやほんとにね、陰で結託してる嫁達の力は大きいよ。
思いがけず私の友人からも斎場や自宅にお花が届いたりで、真冬の葬儀が全然殺風景じゃなくて嬉しかった。
写真の下の鮮やかなカトレア。最後にお義父さんの柩にこれを余すことなく入れれて私は満足でした。
まだもうしばらくは同じような状況が続くんだと思います。コロナにならなくたって普通の病気にも思いもよらない落とし穴があるってこと。誰とも会えない入院生活ほど辛い時間はない。
だから皆様も、とにかく健康に気をつける生活を。
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