ことのは日和

本と映画と心と体のこと。 体験、体感、学び、考える。そんな日々のことのは日和

映画『平場の月』再考してみた

前回『平場の月』を観た直後に感想として記事をアップした。

 

uchiunekosalon.hatenablog.com

 

ただ、あの記事は“入り口としての感想”にすぎなかったと今は思う。

 

映画『平場の月』には、一般的な映画レビューでは扱いきれない深層がある。
鑑賞直後に言語化を試みて挫折した理由も、場面の多さではなく、どこを核に据えるべきか判断できなかったからなのかもしれない。
表層のドラマを追うだけでは、この作品の本質には届かない、と感じた。

 

ひと言で言うなら――
この作品は「大人の恋愛ドラマ」ではない。

 

年齢を重ねた人間が持つ“地層”、
その人の奥底に沈殿している根源的なものが、
ふとした拍子に滲み出てしまう物語。

 

表面だけを見ると鈍感で優柔不断に見える人が、
ある誰かにとっては確かな優しさとして立ち上がることがある。
逆に、強さに見える振る舞いが、実は自分を守るための“鎧”であることもある。

 

この映画は、人の“表と裏”が揺れ続ける、その微妙な振幅を描いているように思う。

 

書き始めると終わりが見えないほど多層的で難しい。
“感動する映画”という評価も間違いではないが、感情だけで受け取ってしまうと、この揺らぎの深部は見落とされる。そのままではもったいない。

 

特に――


須藤と青砥がどのような「生き方の地層」を持っているのか、
そしてその差が物語の底でどのように作用しているのか。
これが前回の記事で扱いきれなかった部分だと思う。

 

この視点は単なる“感想の続き”ではなく、切り口のレイヤーが違う。
だから今回、あらためて別の記事としてまとめることにした。

 

人物の構造と関係性の非対称性に焦点を置き、
映画が静かに示していた深いテーマを整理してみたい。

 

重複する箇所があっても、
それは私の内側で何度も響いた部分だと理解してもらえると嬉しい。

 

「須藤」と「青砥」を分ける“生き方の地層”

須藤は、人を思いやる優しさを持っている。


ただその優しさは、生まれつきの人格というよりも、弱さから生まれた“鎧”が時間と共に形作られたものに見えた。
彼女の強さは、脆さと紙一重の「生存戦略」でもある。

 

対して青砥は、そのほぼ反対側にいる。

 

彼は、大切なものの優先順位が曖昧で、
「本気」と「惰性」の境界がその瞬間瞬間で揺れてしまう。


結婚前のエピソードも、離婚も、家族との関係も、そして過去の須藤への告白も――すべてその青砥らしさが滲み出ている。

 

その結果、母の死より須藤の存在を重く扱っていたように見える。


これは“愛の量”の問題ではない。


青砥自身の「今ここ」にしか誠実でいられない性質と、
自分の感情の深さに無自覚な軽薄さが浮かび上がった瞬間だった。

 

映画は「母の死」と「須藤の死」を対比させる構造で作られている。

 

その対比によって――
青砥の内部で、どちらの死が本当に彼を揺らしたのか。
その差異が露骨に現れる。
この点こそ、この作品の核心だと思う。

 

死そのものの重さは変わらない。


ただ、青砥の内側での扱いはまったく違う。


その差が、彼という人間の生き方を露わにしている。

 

青砥は味方によって「軽薄」にも見える。


けれど、実は“深く愛しても、その深さを長期的に参照できない”生き方をしているのではないかと感じた。

 

彼は“今この瞬間”にだけ圧倒的に誠実になれる。
その場にいる相手を強く抱えてしまう。
須藤は、その「今ここ」の強度を青砥の中に長く残した存在だった。

 

つまり青砥の愛は深い。
ただし、深さと継続性が一致しない。
彼自身がその重要性に気づかない軽薄さも併せ持つ。


だからこそ須藤の死によって、
初めて自分の中に積もっていた“深さ”を認識してしまう。

 

須藤の最期の言葉が示すもの

須藤の最期のひと言――


「青砥、検査へ行ったかな。」


これは静かな重さをともなって響く。

 

自分の最期に向き合う場面でさえ、
須藤の言葉は青砥の未来に向いていた。


それは優しさであり、鎧であり、彼女の地層そのものであり、
そのまま青砥の人生の地層へと流れ込んでいった。

 

だからこそ須藤の死は青砥を壊すほどの衝撃となる。


断片的だった記憶がひとつにつながり、
“自分にとって須藤がどれほど大きい存在だったか”を
初めて自覚してしまった瞬間だったのかもしれない。

 

まとめ

この映画は“死に涙する物語”ではない。
“人がどのように生き、どのように関係を結ぶか”という深層の構造を描いているように感じた。

 

『平場の月』は、

その地層の差を、
静かに、
そして驚くほど正確に浮かび上がらせてくる作品だったと思う。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。

今日の文章が、皆さんの時間や生に少しでも光を投げかけるものになれば幸いです。

よろしければブックマークでまたお越しください。

 


www.youtube.com


www.youtube.com

 

 

目眩の夜と、これからのブログについて

映画「平場の月」をナイトシネマで観に行った帰り、久しぶりにメニエールの発作がきた。


深夜、家族はすでに寝ていて、頼れる人は誰もいない。PCの前に座ってブログを書こうとしたちょうどその時、急に視界がゆらぎ始めた。

 

目眩と吐き気。
私は昔から「吐く」という行為がとにかく苦手で、できる限り我慢してしまう癖がある。それでも、あの強烈な回転の感覚には抗えず、結局は吐かざるを得なかった。

これはまずい、と判断して、いつも持ち歩いている乗り物酔いの薬を飲んでなんとかやり過ごす。けれど、薬が効くまでが遠い。横になっても天井がぐるぐる回るようで、眠るどころではない。結局、3時間ほど目眩と格闘することになった。

 

思い返せば、最初の発作は10数年前だ。
突然、強い回転性の目眩に襲われて病院に運ばれた。目眩は一瞬ではなく、何分も続き、落ち着いたと思っても数日、長ければ数ヶ月は余韻が残る。
その時は「頭位目眩症」と診断された。検査では低音の難聴が少し見つかりつつも、メニエールの可能性もある、という曖昧な結論だった。

 

その数年後、また同じような目眩に襲われる。
このときも結局「頭位目眩症」との診断。前回と同じ理由からだ。

 

そして昨年のはじめ。
また目眩がきた。今度は種類が少し違った。洗濯機の中で縦横無尽に回されるような回転ではなく、遊園地のコーヒーカップを最大速度で回したような横方向の回転が、延々と続く感じ。落ち着くまで数時間、病院で診てもらった結果は「メニエール病」。

 

そして、また数日前にも同じ発作が起きた。

 

今年はどうにも体調が定まらず、やりたいことが体に止められるような感覚が続いている。


メニエールはストレスが引き金になりやすいと言われている。でも、今の私にとってのストレスは「体調そのもの」なのかもしれない。

 

この体とは、これまでも、そしてこれからも付き合っていかなければならない。扱いづらい部分も多い。それでも、向き合わずに放置するわけにはいかない。ここで改めて、どう過ごしていくべきかを考えている。

 

そう考えたとき、このブログも、少し使い方を変えてみてもいいのではないかと思った。


日々のことを、もう少し素直に書いていく。
難しい言葉じゃなくて、もっと平易な言葉で。
誰かにとっての「専門的な読み物」ではなく、人が生きている日常の息づかいが少し残るような、そんな記録にしていけたらと思う。

 

※ちなみに、まだうっすらと回転は続いていますが、元気ではあります。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。

今日の文章が、皆さんの時間や生に少しでも光を投げかけるものになれば幸いです。

よろしければブックマークでまたお越しください。

 

 

映画「平場の月」を観た

少し前に映画「平場の月」を観てきた。

 

 

世の中にある映画ブログとは違った視点で、この映画に対する感想を持ったので、ブログにまとめようと思ったのだけど、挫折。

あまりにも多くの場面にメッセージが詰め込まれていて、まとめるのに時間がかかり過ぎてしまう。

ひとつだけ言うなら、単なる大人の恋愛を描いたものではない。年を重ねたことで深みが増したことで、その人という地層ができあがり、その深い部分にある根源的なものを目で見るのは難しい。だけど、どこかにその存在を言い表せられないけれど、表出している瞬間がある。

誰かにとっては、例えば鈍感ではっきりしない人でも、誰かにとっては、その鈍感さが優しさになる。

そして誰かにとっては強さだけれど、それは弱さであり、自分を防御するための鎧でしかなかったり。

書き出すとキリなく出てくる不思議な映画。

劇場では多くの人が涙していた。

だけど、感情的に捉えて見てしまうと見逃してしまう大切なメッセージが多く埋め込まれていたように思う。

もちろん、人の命と人と人との繋がりを描いたものだから、涙が出てもおかしくない。だけど、ひとつ疑問なのは、なぜ、青砥も劇場で映画を見た人も青砥の母の葬儀のシーンで泣く人はいなかったのだろう。

 

須藤の最後の言葉は「青砥検査へ行ったかな」と、相手を思う言葉だった。

私はそこがとても切なかった。

一生一緒にいたいと思ったその人を置いて旅立つ。

その時に、一緒にいたかったではなく、その残る相手の健康を願った。

【作品概要】

『平場の月』は朝倉かすみの同名小説が原作で、山本周五郎賞受賞、直木賞候補にもなった評価作。


大筋は、中学時代の同級生である青砥健将(堺雅人)と須藤葉子(井川遥)が、35年後に再会し、時間の厚みを背負った大人の恋愛を描く作品。

 

特別な人生ではなく、どこにでもある普通の人生を舞台にすることで、観客が自身の“生活の延長線”として感情移入しやすい構造になっている。

 

 

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。

今日の文章が、皆さんの時間や生に少しでも光を投げかけるものになれば幸いです。

よろしければブックマークでまたお越しください。

 


www.youtube.com

 

 

 

Â