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婚前交渉、同性愛etc.の解釈に大きな違いを産む聖書的「人間観」の有無

最近いよいよ、日本のキリスト教界各方面から「婚前交渉は罪ではない」「同性愛は罪ではない」(あるいは、「罪と言うな」)という言説が上がってきているように感じられます。

思えば私も、こういった議論に対して聖書から、そして聖書以外のソースからも色々な反論をしてきましたが、

最近気づいたのは、手当たり次第に反論していてもあまり意味がないのではないか、ということです。例えば、聖書からどこか聖句を引いても、このような言説に従事する人たちにしてみれば「それはそういう意味ではない(キリッ)」で終わりになってしまうのです。

なので、どうにかして、そういう人たちにも「届く」(かどうかは正直わかりませんが・・・)ように、今迄にない方向からの議論をしてみたいと思い投稿を作成しました。

人の身体に対する尊敬

突然ですが、もし自分の子供がオモチャの銃をもち、撃つつもりがなくとも人に向けたとしたら、皆さんはどうしますか。私だったら怒って注意します。

それは、それは防衛のために絶対必要といった極端な状況でない限り決してやってはだめで、みだりにやってしまえば人の尊厳を踏みにじる行為となると考えるからです。

さて、なんでこんなたとえを出したかというと、聖書的背景をベースに考えたとき、婚前交渉というのはいかに本人たちが合意しているといっても、人の身体への尊厳をないがしろにする行為ではないか、と考えるからです。

そもそも、キリスト教は人間の身体に関して極めてユニークな思想を持っており、果たして婚前交渉は罪かどうかという問題を論じる前にまずこれに触れる必要があると私は考えます。

創世記にさかのぼれば、神はご自身のかたちに似せて人を造られたとされています。

創世記1:26 ...「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。.....

さらには、創世記2章にある人の創造の詳細には驚くべき記述があります。神はご自身の「息」を人に吹き込まれた、とあるのです。(ここで使われる「息」は、稀にですが「霊」もしくは「魂」と訳されることもあります。)

2:7 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

こんなユニークな考え方は他の宗教には見当たりません。

長くなりすぎないように駆け足で行きますが、これを引き継いで発展させたような記述は新約にも散見されます。例えばパウロが書いた第一コリント人への手紙。

3:16あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。 
3:17もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。

これは「イエス様がご自分の肉体を「神殿」と喩えた」ヨハネの福音書2:19-2:21とも呼応します。

もっとも、文脈からすると、1コリント3章では「集合的にキリストの身体」である信者の集まりを指して「神殿」と言っていると見て取れます。では個々人の身体のことはどうなるのか、議論がありそうです。

しかし6章まで読み進めるとこれは解決します。

6:15-20あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。
遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。 
しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。 
不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。 
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。 
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

もう間違いありません。私たち信者は集合体として「宮」と呼称されているとともに、

個々の身体が「聖霊の宮」なのです。私たちの一人ひとりの身体もまた「神殿」であり「その中に神の霊が住まうように」設計されています。

今回、なんであえてこんな迂遠な聖書談義をしているかというと、

聖書は、人間の肉体を単なる動物の高度な1バージョンと考えているのではなく、神のかたちに似せて造られ、神の霊が宿(りう)る特別なものと定義している

と示したかったからです。

現代の進化論一辺倒の思考様式にあっては、ノンクリスチャンならば「人は猿から進化した動物」と考えてしまうことは通常ですし、たとえクリスチャンであったとしても「人は神が導いた進化プロセスにより猿から進化して出現した」とかそういう折衷的な考えを持つ場合があります。

しかし聖書のポジションは「人は神のかたちに似せて神によって造られた」です。これは厳然として変わりません。

聖書が既に旧約のころから「人は神のかたちに似せて造られた」という思想から生まれた独特な傾向を示していたことは、ユダヤ教のある逸話からも伺えます。

あるラビは、水浴して身奇麗にすることを神への賛美だと考えたそうです。それは「神は人をご自身の姿に似せて造られた」からです。そうすると、その肉体を粗末に扱えば神への侮辱となり、逆にいつも綺麗に保っておくのは神への賛美というわけです。

ちと脱線しましたが、この同じ思想が根底にあるということが、キリスト者が「隣人を愛する」どころか「敵」さえも愛せと言われたり、人から頬を打たれても打ち返さずと言われたりしていることと深く深く関係があると思われます。

「二つめの戒め」の背景と婚前交渉

よくクリスチャンの間では「神を愛し、人を愛しなさい」と言われます。

リベラル進歩主義の信徒さんもこれが大好きなようで、特に「人を愛しなさい」の点から、反サベツ、移民受入、イスラムとの融和に持っていく傾向にありますね(笑)

しかし、深く考えるとこの言葉の奥にはこのような含意があるように見受けられないでしょうか。

我々は、神を愛し、また畏れ敬っているからこそ、神のすがたに似せて造られた人というものを傷つけたり穢したりすることは憚るべきで、むしろこれを愛さなければならない

例えば、ヤコブの手紙にもこうあるとおりです。

3:9私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。
 3:10賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。

「神を褒め称えているキミが、その同じ口で神の似姿である人を呪うなんてどう考えても矛盾してるやろ」ってなわけですね。

ここを勘案すると、重要な第二の戒め「人を愛す」の裏には、なにか漠然とした「人類愛」があるわけではなく、「神のかたちに似せられて造られた」ものだからこそ、人をおろそかに扱ってはならないという神への畏れが見られないでしょうか?

で、話を戻して婚前交渉。

結婚していない男女が、互いに合意して性的関係に入るということは「自分の身体は自分のもので自分の好きに扱っていいのだ」という現代社会の前提では何の問題もないように見えます。

しかし、自分自身の身体が、神の姿に似せて、しかも神の霊を宿すように、神によって造られたものであれば話は違ってきます。

以前に当ブログで指摘したのは、「相手に望まない妊娠をさせる可能性のある行為は罪じゃないんですか?」ということでした。

プログレッシブ・キリスト教の水面下での浸透:欧米から日本へ (23) プログレッシブ・キリスト教神学に応答する(3) 「婚前交渉は罪ではない」by リベラル牧師&進歩主義信徒 ( Christian News Watch から転載し...
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「いや避妊してるからダイジョブッス」とはいってもゴムの避妊確率は実際は90%くらいであったりとか、実際に「ちゃんと避妊してたのに妊娠」という事例が本当にあるとか(私の周囲でも確実に複数にありました)そういった実際的な視点を忘れてはならないのももちろんですが、

こういう「おふざけで妊娠可能性のある行為をする」というのは

まさに女性の身体への侮辱行為、ひいてはそれを造られた神そのものへの侮辱行為にもなるのではないか、ということです。

冒頭では「おふざけで人に銃を向ける」という行為を例に出しました。「人に銃を向ける」行為は、人を死に至らしめる可能性があったり、あるいはそのことを仄めかせ威嚇したりあるいは力を見せつけ侮蔑するための行為となりえます。そんなこと、自分が殺されそうだという極端な状況でもない限りやってはダメでしょう。

かたやこちらは、「新しい命を宿す可能性のある行為」です。こちらも、実は容易ならない帰結を秘めているのです。

もし「生命を宿す」ことになったら、その女性が出産を選ぶにせよ、万が一中絶を選ぶにせよ(←あってほしくはありませんが)、女性の身体に大きな負担をかけあるいは重大なリスクに晒します。

(後者の場合胎児が望まぬ「死」を遂げるというあまりにひどい事態です・・・この問題を扱うなら別の記事が必要なほど大きな話なので今は詳しく触れませんが)

そんなリスクのあることを、遊び半分でやってもいいのでしょうか。

いや、遊びじゃない!真剣だ!僕らのは真実の愛なんだ!」と主張する向きもあるかと思いますが、

そんなに真剣なら、どうして人の生き死にの話に成りかねないことを何のセーフガードもなく行うのでしょうか。(筆者個人的には、その「真剣だ」という主張がむしろ余計ふざけているとしか思えません。)

繰り返しますが、ゴムは統計的に完全なセーフガードにはならないことが分かっています。

その後起こりうる事態に責任を持てる能力のある男女が両者でよく話し合って、合意して、堅い堅い約束をして、さらには周囲の人間にもそれを周知して、はじめて妥当だといえるものなのです。

二人の愛があれば!周囲の人間なんて関係ない!

まー若いときはそう思いがちですね。しかし万一子供ができたら、経験者として、賭けてもいいです、カップルだけで周囲の協力なしに子育てなんて、ほぼドン詰まり一直線ですよ。

金はどうする?子育て負担は?夜寝れないときは?ケンカだらけになりがちの夫婦関係に必要なのは周囲の「第三者」の助けです。

ジージ・バーバ、あるいは友人、親戚でもなんでもいいですが、とにかく誰か「二つ返事で駆けつけて、手助けしてくれてなおかつ信頼できる人」が必要なのです。

所帯を構えるってこれくらい面倒くさいことなんですよ。だから籍入れたり挨拶したりいろいろやるのです。遊びでできることではないのです。

子供のころ「火遊びはするな」ときつく親から言われていた人は多いと思いますが、

たとえ本人たちは「大丈夫だから、うまくやるから」とは言っていても、まさに「火遊び」のごとく、実際リスクは厳然として存在しています。

そして必ず一定以上の確率で、「火事」、つまり女性に望まぬ妊娠をさせ、最悪の場合責任も取れず中絶を選択させてしまう事例が存在するわけです。

でなければ妊娠中絶が年間何十万件もあるはずがありません。

「僕らは大丈夫、うまくやるから」じゃなくハッキリ言て「アブナイ火遊びはやめなさい」の一言です!

で、話を戻し上述したような聖書的な視点に戻ります。

ここで小まとめをすると、こうです。

まず男性に向けてですが、もしあなたが神を畏れるなら、神が造られ、ご自身の霊が住まうようにされた神殿の宮である女性の身体でそんな「火遊び」をするのは、神への侮辱にならないのか、ということを考えてほしいのです。

そして女性たちに向けては、神様の目から見たらそのような特別な価値と意味合いがあるあなた自身の身体にわざと「火をつけさせる」ような遊びは、おやめなさい、と言いたいのです。(万が一相手方からの暴力、脅しや強要により、やむなくそうしてしまったというなら話は別です。)

それでも大丈夫というクリスチャン男女のために

いきなりですが↓この図を見てください。

イメージ 1

たぶん子宮ガンのリスクを啓発するためのものですね。HPVの感染によりリスクが高まるので、みだりに性的関係に入らず、意識を持ってほしいということらしいです。

でも私はそれと同時にこの図は(まったくの偶然ですが)ある聖書的真理をも示していると思います。

....交われば、一つからだになることを知らないのですか。『ふたりの者は一心同体となる。』と言われているからです

実際に複数の人と性的関係を持った人は、まさにこのような状態になる可能性がある、ということです!

今現代、敬虔なクリスチャン家庭育ちでもない限り、結婚するまではゼッタイに童貞・処女でなければいけない、と考える若者はそれほど多くはないでしょう。

しかし、ここには落とし穴があります。聖書によるならば、性的関係を持てばそれだけで「一心同体」になったとみなされます。

そして、自分だけでなく相手も複数の人と関係を持っていたとしたら、その人たちまとめてまるごと「一心同体」ということです。

これ、ある意味で「乱交」状態に通じるものがありますよね。よくよく考えるとひどく気持ち悪くないですか?

結婚まで貞潔を保っていない場合は当然この状態に陥りますし、あるいは自分がそうでも相手がそうしていなかった場合は、見も知らない人と「一心同体」になってしまう可能性があるのです。

(また、実際的な話として、たとえ自分が初めてでも相手が複数と関係を持っていた場合、そこから性病その他の感染が生じるという心配も当然あるでしょう。)

ちなみに、律法では、配偶者が亡くなった場合には、その相手は戒めから解かれ、別の人と結婚してもよいことになっていました。(これは新約(Iコリ7:39)でも引用されています。)

つまり、原則的に、相手が生きている間に別れて別の相手と一緒になるのは姦淫だということです。

現代の基準では厳しすぎると思いますか?

では、こんな場合はどうでしょう。

(あなたが男性と仮定して)もし「イマカノ」と歩いているときに昔肉体関係のあった「モトカノ」と鉢合わせしたら、あなたはどうしますか?

笑ってごまかす?

いやもっと困るケースがありますよ。もし「イマの妻」と妻との間に生まれた子供を連れて歩いているときに昔肉体関係のあった「モトカノ」と鉢合わせしたらどうしますか?

何よりも、「モトカノ」とあなたの関係を、どうやって子供に説明するのですか?これ非常に困るでしょ?

そして当然ながら、全知全能の神様の目から見たら、あなたの過去はすべてお見通し。そうして、あなたが過去誰と関係があってその誰は今誰と関係があって・・・神様はすべてご存知です。

どうでしょうか?私自身は、自分の過去を考えると、救われる前の話とはいえ、神様にそれを知られているという事実が非常~に居心地が悪いです。

だから、もし今の若いクリスチャン男女にはそういうことを避けてほしいのです。これ当然の話でしょう?

「目的外使用」

さて、人間の身体が神の目から見るとどんなものなのかわかってきたところで

「同性愛行為」について考えればおのずと見えてくるものがあります。

新約聖書は、Iコリ6:9およびIテモ1:10において「男色」を悪徳として挙げています。ここでは、性的志向(嗜好)といったものは忘れましょう。パウロはこれらの箇所では別段そこを論じてはいません。

ただ、人間の身体をそのように扱うこと自体が神の創造された身体の「目的外使用」であって、本来神の霊を宿す宮のようにと造られた相手の身体を侮辱する行為と言えるでしょう。

さらにもうひとつ。これ、日本人にはなかなか理解できないと思いますが、ユダヤ教の背景を勘案して「神殿」と言うとき、ちょっと意識する必要があるのは「聖なる場所」という恐れがそこにあるということです。

旧約の第二歴代誌26章に出てくる逸話ですが、ウジヤという王があるとき高ぶって、本来王でさえも立ち入りを許されない神殿の領域に入り込み、ただちにらい病で撃たれます。

神殿には「聖別された祭司たち」しか決して入れない場所がありました。

だから、パウロが人の身体を「神殿」に譬えたとき、こういった「恐れ」を余計考慮にいれる必要があります。その内部に「許されていない」人が入り込むのは(異性間であっても同性間であっても同様ですが)厳に慎むべきだ、という思想があるのです。

さらには、以前の投稿で触れたように、男性どうしの行為は冗談では済まされないような健康リスクが付いてまわります。これは本当に警告してもしすぎではないと私は思っています。

“昨日の同性婚イベントでは、木村草太さんが「世論調査も『同性婚に賛成ですか?反対ですか?』と、まるで同性婚を拒否する権利があるかのように思われる質問ではなく、『同性婚を認めるとあなたにどんな不利益がありますか?
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「愛は愛だ」みたいなフワフワしたイメージに惑わされず、真剣に考えてほしいです。

いっときの快楽はあるのかも知れませんが(私は経験がないのでよくわかりませんが・・)自分あるいは相手の健康を傷つける可能性のある行為をどういいつくろえば「愛」などと言えるのでしょうか?

ローマ書13:10に「愛は隣人に対して害を与えません」とあるではないですか!

そして、旧約聖書の最初から見られた神の創造の業を見ると、この結論はますます強化されます。

男がなんら責任を問われない位置にいながら女性の身体を使用して快楽に耽るのが、神の造られた女性の身体への侮辱であることと同じく、

神が造られた意図では想定されてもいなかった形で人の身体に入り込みこれを性的刺激のために用いるのも、やはり相手の身体、および神の創造の業への侮辱と考えざるを得ないのです。

人間への尊厳を失う社会

話は変わりますが、最近、ニューヨーク市ほか複数の米国自治体では「partial birth abortion」という妊娠中絶手法を許可する条例を制定したそうです。

この条例は妊娠中絶をなんと「出産の直前まで」行うことを可能にするそうで、その手法としては(生々しくて恐縮ですが)胎児の頭だけを産道に残して胎児の身体を外に出し、それから器具を挿入して胎児の脳を破壊し、中絶するのだそうです。

最近、フェミニストの人たちのツイッター投稿を読む機会が多いので、妊娠中絶の問題について語ると私の気はやや重くなります。女性が妊娠中絶をするとき「なぜ責任を取らず逃げた男は責められず女ばかりが責められる?」という憤懣は、確かに理解できなくはありません。

しかし、「人は神の姿に似せて神によって造られた」という真理は胎児にもひとしく当てはまります。というより、妊婦検診を受けたり配偶者に付き添って超音波診断で画像を見たことのある人ならわかるでしょうが、胎児は本質的に大人となにひとつ違わない完全な意味での人間なのです。

ところが米国の「進歩的」な自治体は、「胎児は人間か否か?」という議論をとうに超えて、「出産の瞬間までなら『やっぱりやめた』ができる」ということにしてしまったようです。予定日より早く生まれる赤子なんてたくさんいるのに、いつから「人間ではない」ことになってしまったんでしょうか・・。

それどころか、バージニア州の「進歩的」な知事(自らも医師資格を持つ)は、「赤子が生まれてきたあと、医師と母親が話し合って[赤子をどうするか]決める」ことさえ示唆したようです。そんなことを許可する法制が採用された、というわけではないようですが、自治体首長がこのようなことを考えているのはやはり注目に値すると私は思います。

多くの場合、米国リベラルは聖書を(牽強付会に)引用して自分たちの政策を推進しようとしますが、一方でこのような人たちの中からは「人は誰であれ、神の姿に似せて造られた」という畏れが急速に消え去っているような気がします。

自分達にとって都合の悪い人間は「脳を吸いだしてゴミ箱にポイ捨て」してよい、とまで考えている人までおり、それが自治体トップなのです。

ここで私は尋ねます。あなたは1)「人は猿から進化した動物」と考えますか?それとも2)「人は神の姿に似せて神によって造られた」と考えますか?

私は、この人間理解が1)か2)かによって、人の生き方は、特にクリスチャンの生き方は大きく変わるのではないだろうか、と思っています。

というのも、その人間理解が1)に寄れば寄るほど、「人を愛しなさい」という戒めから「神による創造」という背景が消え去っていくからです。

そしてそれは「自分が考える人類愛のアジェンダ」に変質していってしまう傾向が見られます。

私の観察するところによれば、たとえ口では「愛」や「平和」を唱えていても、自分たちのアジェンダに同意しない人に出くわすと途端に憎悪をむき出しにし、ひどい場合には話も聞かずに罵倒を繰り返す人たちが存在します。

もちろん、言葉の使い方は私自身も気をつけなければならないと自戒していますし、人はだれしも熱くなると見境がつかなくなることがあります。

ですが、それにブレーキを掛けるのが、イエス様の「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタ5:44)という言葉だという気がします。そしてその根底を支えるのが「人は神の似姿に造られた」という思想だと思うのです。

だから対照的に、1)「人は猿から進化した動物」という理解のうえに、「人を愛しなさい」という戒めを置く場合、それは早晩いびつな変形を遂げて、

人類愛のために●●(サベツ禁止、軍備廃止、等)に賛成しないヤツは全員排除しろ!

ということになってしまうのは当然の理だと思います。

私は今、神による人間の創造という理解を欠いたままの世俗世界と、そんな哲学に同意して進むリベラル進歩主義キリスト教界を観察するにつれ、懸念を強く持ちます。

「敵でさえも神が造られた」という理解がないのならば、もはや彼らの敵意の発露を引き止めるものは何もありません。

蛇足になりますが先日私は、30年の牧介経験を持つあるベテラン牧師さんが、「婚前交渉はなぜ罪か」を真剣に説明しているのに、それを質問する側の、はるかに若い「自称キリスト教伝道師」さんがまともに答えに取り合わず、あまつさえ「しっかり学んで吟味せず妄想で聖書を語っている」などと侮蔑しているのを見てギョットしました。

“@Santou @Kiyomasa70 黙示録の「大淫婦」とは何を表しているのか、そもそも黙示録は何のために書かれたのか、黙示文学とは何なのか。それをしっかり学び吟味せず妄想だけで聖書を語るのは、個人のレベルなら勝手ですが、責任ある立場なら控えた方が良いのではないかと思いますよ。聖書にはそれぞれ執筆背景があるのです。”
twitter.com

件の牧師さんは相手の無礼に対しても怒らず丁寧に語っていましたが、相手のほうはまるでまじめに話し合いをする気もなく最初からバカにしている様子で、虹色アイコンの活動家と一緒になって冷笑する始末です。

それを見て、私は、「ああ、これこそが終末の光景なのだな」と納得がいきました。

マタイ5:11に、「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです」とあるとおりです。

そうして、そのような場合に罵り返したい、やり返したいという衝動が湧いてくるものですが、おそらくイエス様はそれを承知の上で

5:38-39「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」 

5:44「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい

と続く箇所で説教されたのだなあ、と私は理解しています。

それは、すべて「神様の義と栄光が表される」ためです。

プログレッシブ・キリスト教の水面下での浸透:欧米から日本へ (21) プログレッシブ・キリスト教神学に応答する(1) じつに20回の長きにわたって、プログレッシブ・キリスト教(別名:キリスト教進歩主義)を取り扱ってきましたが、その中でやや思...
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キリスト教界における、「婚前交渉は罪ではない」「同性愛は罪ではない」という風潮について論じたつもりでしたが、最後は思わぬ方向に向かってしまいました。しかし、これらはすべて底でつながった現象だと思います。

教会外の世界も、それとともに歩むリベラル進歩主義キリスト教界隈も、「神への畏れ」を急速に失いつつあります。それに伴い、聖書に堅く付き「罪は罪だ」という立場を堅持するクリスチャンへの嘲弄、侮蔑、罵倒、圧力はますます激しくなるでしょう。

しかし、そのような時代にあってこその働きもあると私は信じています。なのでこのブログや他の媒体を通じて、発信を続けていきたいと思います。

祈り:父なる神様、どうかこの日本にいる忠実な信者たちを強めて、しっかりと立たせてください。この闇の世の中にあって灯火となれるよう、地への塩となれるよう、一人ひとりに導きを与えてください。さらに、この不完全な世界で傷つき、病み、苦しむ人々が一人でも多くイエス様と出会い救われますように。イエス・キリストの尊い御名によって、アーメン。

トランスジェンダリズムの本質:追補6

向こう側に見える深い、深い闇(2)

前投稿の続きです。

私は、西欧および日本での、自称トランス「女性」たちと、彼らの女性スペースへの進出を拒む女性たちの論争を観察するにつれ、ある考えが浮かんできました。

トランス運動とは、本質的に女性を不利にし、女性と女性性を貶めるものではないでしょうか?

本質的に「反女性的」なトランス運動

そもそもトランス運動においては、

男性から女性への転換を志すMtFと女性から男性への転換を志すFtMが主要な構成員ですが、

この二者の様相は全く異なります。

男性から女性へ転換するMtFは、みてきたとおり、西欧においては、多くの、時としてあらゆる「男性的な特徴」を保持したまま「女性としての『自認』」をもとに転換し、

その結果往々にして利益を得ることができます。

すなわち、女性の困惑や恐怖をよそに女性用スペースに進入するだけでなく、

女性競技で上位を独占したり、

1位になったテリーミラーさん。 同じ試合で2位になったこちらもトランスジェンダーのアンドレイヤさん. 精神的にはもちろん女性でも肉体は男ですからね。
temita.jp
あまつさえ「女性リーダー」として活躍し名声さえも受けることがあります。

Credit Suisse director Philip Bunce, who spends half of his time as 'Pippa' has been heavily criticised online
www.mirror.co.uk


「ときどき」女性として過ごすという習癖をもつCredit Suisseの重役Philip Bunce氏が「ビジネスにおける女性トップ100」の一人に選出されたことで非難の声が起こっている。

対して女性から男性へ転換するFtMが同様の利益や自由にあずかっているかといえば、まったく非対称な結果といえるでしょう。

転換により社会的に男性になったとしても、他の男性より有利になる点はなにひとつありませんし、アクセスできる場所が広がるわけでもありません。

スポーツの世界で男性競技に参入し活躍するFtMはごくわずかな例しかありません。

また、例えば昨今「多様性の推進」が取りざたされる政治の世界でも、男性から女性へ転換したMtF候補者が少しづつ増えていますが、奇妙なことにその逆はほとんど聞きません。

これなどは考えようによっては「本来女性が座るべき席が少しづつ奪われている」ともとれるでしょう。

そして、トランスジェンダーのムーブメントの前面に立っているのは多くの場合MtFですが、

ケイトリン・ジェンナーにしても誰にしても、「華々しく着飾った女性」のイメージを増進させるばかりです。

性転換したオリンピックメダリスト、ブルース(ケイトリン)ジェンナー氏(リンク先)

(まるで男性の立場から勝手にこしらえ上げた理想の女性像を推進しているようにも見えます。)

さらに、かかる人物たちは、もともと肉体は男性で体力もありますから、激務にも耐えられ、男性時代?のキャリアや名声を生かし、世間の注目を引くような仕事をすることができるでしょう。

いっぽうで、このようなムーブメントがどれほど進展しても、

生まれつきの女性たちが地道に仕事をしながら給与や待遇で男性との差に直面したり、

人生の折々に女性特有の身体症状や病気で苦しんだりとか、

あるいは出産子育てをしながら仕事を続けようと苦闘している現実にスポットをあてるような効果は一切ありません。

私自身は男性ですので、この点についてあまり知ったような口をきくことはできないかもしれません。

しかし、少なくともMtFの活躍によって流布される「女性像」は、

生まれつき女性の女性たちが直面する実際の人生の現実とは往々にしてかけ離れている気がします。

それは西欧でも日本でも同じなのではないでしょうか。

そして、そのMtFが進出すればするほど、女性たちは安全な居場所を失い、活躍の場を失い、存在感をも奪われていき、

そうしてその後釜に座るのは 女性と自認する男性たちなのです。

これもまた極めて不条理ではないでしょうか?

裏切られたフェミニストたち

私は、この投稿を書くための下調べの過程で、あるフェミニストが書いたある興味深い「詩」を読みました。

「なぜアライ(性的少数者の権利推進のためにともに戦う人たち)がTERFになっているのか」というものです。

(ちなみに、この詩の全体は苺畑カカシさんがブログで訳出しておられます。)

Disclaimer: The views and opinions expressed in this article are those of the author or authors, and do not necessarily reflect the official policy or position of Womenarehuman.com. Assumptions made in the analysis are not reflective of the position of any entity other than the author or authors.
womenarehuman.com

ここでは、男性器を備えたままのMtFトランスたちがいかに女子刑務所や女性用シェルターに入り込み、

また反対する女性たちをTERFと呼んで虐待し、暴力で脅し、性行為を強要し、

それでいて「自分は女性」と主張する、たったそれだけで女性として社会から認められ、

それどころか、女性たちが自分の身体的特徴について語ることさえ「オフェンシブだから(例:子宮について話をすると子宮のないトランス女性が傷つく)」と禁じようとしている、

といった不条理を皮肉な調子で風刺しています。

しかし、もっと興味深いのは、後半部分です。

この詩の作者は、かつてトランスたちのための空間がつくられるよう戦う準備があったといいます。またデート相手が少ないことや、「彼女」と呼んでほしいことなど、あるいはヘルスケアの権利や尊敬を受ける必要があることなどについて、ともに戦ってあげたい、

そして男性からの暴力に対抗するために共闘しようと思っていたというのです。

彼らのアライになろうと思っていた、そして多くの女性たちがそう感じていた、と主張します。

多くのTERFはかつてアライだったというのです。

しかし、トランス活動家たちはそんな女性たちの申し出を踏みにじり、

そのかわり女性たちのスペース、スポーツや組織での地位、果ては性器までを欲しがり、

また女性たちの使う言葉までも制限しはじめたのです。

この詩では、そんな苦い思いとともに、

トランスたちが、ただ質問をしただけの(例:「トランス女性はなぜ女性なのか?等) 相手に敵意を向けることで、自分のアライをみずから敵に変えてしまった、と痛烈に指摘しており、

コメント欄には多くの賛同意見が書かれています。

このような女性たちは、かつて専断的な男性の支配や横暴に対抗するため性的少数派であるトランスと共闘することを選んだのかも知れませんが、

現在、それをはるかに上回って専断的て横暴なトランス活動家たちに「裏切られた」と感じているのです。

Lの離脱したLGBT運動は何になるのか

さて、このような論争を背景に。

昨年ロンドンプライドマーチでレズビアンたちの小集団によるトランスへの抗議が突如として起こったあと、

LGBT運動の主流としては、レズビアンたちを責めるのみで騒動を治め、抗議者女性たちの言い分は黙殺したようです。
Pride in London has been “hijacked” by a group of anti-transgender campaigners who forced their way to the front of the march. The annual Pride march today was set to be led by Mayor of London ...
www.pinknews.co.uk
一方で抗議者たちからは、LGBT運動全体から「L」を離脱させよう、という声も上がりました。

それにしても、もしこのような抗議や離脱が広がっていき大規模なスケールで起こったら、このLGBT運動なるものは、一体何になるのでしょうか。

それは、もう明らかです。

男性側の多様な性的志向(嗜好)を満たし、それを公的に認定させようとすること、それが運動の主眼になってしまいます!

女性から男性に転換するFtMが脚光を浴びることはその逆に比べてむしろ稀であることは前述したとおり。

いっぽう男性側としては、同性愛者であったり、バイセクシャルであったり、あるいは自ら性自認を「女性」として転換したうえでの、女性あるいは男性を志向(嗜好)した性愛であったり、じつに色々なものがあるのでしょうが、

ただただ、そんなものを追求する運動に協力することよって、女性たちが得られるものというものは、一体何でしょうか?

むしろ、それで得をするのは、性的欲望のままに振舞う男性たちだけなのではないでしょうか?

何よりも、LGBT運動そのものが、TとLとの根本的な対立(→というよりTによる一方的な侵略)をうまく調停する能力を持たないとするならば、

いったいこれ以上女性たちに何の利益を齎すでしょうか?何もありません!

私は思います。

LGBT運動はその実、不当な迫害を受けている少数派救済のための運動として始まったのかもしれませんが

(もっとも、それ自体私は少々疑っています。少なくともこの日本においては・・・・)

トランスの進出に恐怖と困惑を感じる女性たちの声を黙殺する姿勢を今後も打ち出すならば、もはやその弱者救済運動としての大義名分を完全に失うことになるでしょう。

そうなってしまったら、それは「性的少数者」なる男性たちの、いろいろな肉的な想いをより広範囲に満たし、なおかつそれを社会に強引に認めさせるための乗り物に過ぎなくなります。

キリスト者、特にキリスト者男性は何をなすべきか

いっぽう私は、トランス運動vsフェミニストの論争を観察する過程であることに気づきました。

多くのフェミニストたちは、彼女たちがしばしば目撃してきた、無責任かつ身勝手で欲望本位の男性たちの振る舞いに絶望し、それがゆえにフェミニズムに立っているかのように見えます。

そのような男性像は、昨今よく報じられる性的暴行事件、女性が犠牲になった殺害事件や女児が命を落とした虐待事件により再確認・強化されており、

またそういった事件に際して被害者を責めたりあるいは加害者を擁護するかのような言説が流布していることもあいまって、

フェミニストたちをしてますますその信条に固執させるに至っています。

私は、以前からフェミニズムに対して強い警戒感を持っていたのですが、

この投稿作成の過程でそんなフェミニストたちの声を聞くにつれ、

フェミニズムとは、いわば、

気まぐれに女性に肉体関係を求めながらいざとなったら逃げたり、

あるいは力と脅しにモノを言わせ言うことを聞かせようとしたり、

家族やパートナーである女性たちの必要よりも自分の欲求ばかりを優先したりする、といった

世の男性たちに往々にして見られる身勝手さに対する、当然のリアクションなのではないか、

と感じるようになりました。

なので、そのような声を聞いて、(別にフェミニズムの思想を取り入れたわけではありませんが)

私自身何か強く悔い改めを促されたような気がしました。

というのも、クリスチャンになる前の自分は、女性に対して責任ある態度をとっていたとは言い難く、

違法なことをしたことこそありませんが、往々にして身勝手な振る舞いをしていた、と思います。

ずいぶん前の話ですが、それでも罪深い行いだったという事実は変わりません。

そしてクリスチャンになり、結婚して何年もが経ち、やっと自分が目指すべき男性像のようなものが見えてきましたが、これは見えてきた、に過ぎず、到達できたとは到底いえません。

しかし、ここで私は自分自身に奮起を促すためとともに、同時に全てのクリスチャン男性に対しても呼びかけたいと思います。

いまこそ本気で、聖書が示すあるべき男性の生き方を目指そうではありませんか?

聖書は、男性が女性との関係でどう生きるべきかきちんと語ってくれています。

それは、女性たちを呆れさせるような、世に往々にしてみられる男性たちの姿とは似ても似つかないものです。

Iコリ7:1-2さて、あなたがたの手紙に書いてあったことについてですが、男が女に触れないのは良いことです。 しかし、不品行を避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。 

1テモ5:2年とった婦人たちには母親に対するように、若い女たちには真に混じりけのない心で姉妹に対するように勧めなさい。

エペ5:25-28
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。 
キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、きよく傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。 
そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。 

第一ペテ3:7同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。

これらは決して時代遅れな古文などではありません。字数制限があるので全てを取り上げることはできませんが、聖書には今でも私たちの生き方を導くのに有益な言葉がたくさんあるのです。

それに加えて、我々クリスチャン男性には、イエス様ご自身という、追うにはあまりにも高すぎるにせよ、はっきりとした目標があります。

対照的に、上述にて例示したLGBT運動において推進される男性側の性的志向(嗜好)においては、

上述のエペソ人への手紙の一節が示す、一人の女性に対して貞節を尽くし命を捨ててまで愛そうというような、聖書が定めるような自己犠牲的コミットメントの形は、影も形もありません。

そこにあるのは、

「僕の『性的志向(嗜好)』・ワタシの『性的自認』」を認めろ!認めないのはサベツだ!」

僕が僕が僕が、ワタシが、ワタシが、ワタシが・・・・

欲しい、欲しい、欲しい、

ただそれだけではないですか。

中でも、トランス運動家に至っては自らの欲求を最優先し、本来なら盟友であったはずの女性たちの声を無視するありさまです。

こんなことでは、女性たちをしてフェミニズムに走らせたあの身勝手な男性像となんら分けるところはありません。

それではどうでしょう、いったい、キリストの身体である教会が、

聖書的な男性像、聖書的な男性の生き方を信徒男性たちに勧め、またこれを社会に広めるかわりに、

煎じ詰めれば生まれつきで悔い改めのない男性たちの肉の欲求の発露に過ぎないLGBT運動を是認し、

あまつさえこれを応援するなどとしたら、一体どうなのでしょうか?

これって、あまりにも、あまりにもバカげたことではないでしょうか?

そんなことが、キリストの使節であるキリスト者の、地上における使命なのでしょうか?

おわりに

・・・・ちょっと長広舌が過ぎたかもしれませんが、これだけは言いたいです。

心ある教会指導者や奉仕者、信徒の皆さん、

もしご自分の教団や教会がLGBT運動や運動家と関わりを持つようなことがあった場合、

その行く先に何が待ち構えているかをよくよく考えていただきたいです。

例えば、トランス運動は、究極的に女性の権利と決して融和することはありえません。

また、この根本的欠陥が是正されない以上LGBT運動そもものもまた、女性に犠牲を強いることでしか推進しえないことになります。

そして、これを突きつめれば結局は一部の人間の『肉』の欲求の前に、全てをひれ伏させようというグロテスクな運動になりかねません。

教会外の世界にそのようなものが広がるとしたら、あるいは仕方ないことでしょう。終わりの時代について聖書に預言されていることでもありますから。

しかし、私たちクリスチャン男性までもがそれを是認するべきなのでしょうか?

むしろ、そのような世情の中にあって、

聖書が示す、一見『男性の本能』にことごとく反するかのような指針を、あえてイエス様のために実践し、

ノンクリスチャンの人々の間で無言のうちに証となることこそが、今最も求められていることではないでしょうか?

トランスジェンダリズムの本質:追補5

向こう側に見える深い、深い闇(1)

先日、性同一性障害特例措置法について日本の最高裁が出した判決が話題になっています。
岡山県新庄村の臼井崇来人さんが、手術を受けないと性別変更できないのは憲法違反だと - Yahoo!ニュース(KSB瀬戸内海放送)
headlines.yahoo.co.jp
原告は以前当ブログでも批判的に取り上げさせていただいたことのある、女性から男性に転換しようとしているFtMの方。

今回は、純粋に「クリスチャン事情」とは言えない内容になりますが、従前の「プログレッシブ批判」のシリーズにも多少なりとも関連があり、また今後欧米と日本の社会でどのようなことが起きるかについての参考として掲載したいと思います。 「人権問題」に見...
blogs.yahoo.co.jp
当該特措法の定めである戸籍上の性別を変更する条件として、「生殖能力を喪失していること」、つまり性別適合手術を受けていること、という定めが憲法に違反しているか否かが争われたこの裁判。

最高裁にまで上げられた結果、かかる条件は「現時点では違憲ではない」と判断されました。もっとも、社会情勢などにかんがみて「違憲の疑いが生じていることは否定できない」ともしています。

早速、英語話者向けメディアでは「日本の裁判所はジェンダー変更について『断種』を強制している」としてネガティブな報道がなされました。

Human rights and LGBT activists on Friday denounced a ruling by Japan's Supreme Court upholding a law that effectively requires transgender people to be st
www.japantimes.co.jp

このJapan Timesの報道では、2017年に欧州人権裁判所では管轄下にある同様の『断種』法を持つ22の国に対し、これを廃止するよう命令した、という事情とともに、

日本も国際潮流に合わせ変化すべき(手術要件を撤廃し手術なしで性別変更を容認すべき)といった人権団体の声を紹介しています。

いっぽうこれとは別に、2019年1月5日、元参議院議員の松浦大悟氏が、「みのもんたのよるバズ!」という番組で、野党提出の「LGBT差別解消法案」を批判する意図で「男性器のついたトランスジェンダーを女湯に入れないと差別になってしまう」と発言し、これも議論を巻き起こしました。

朝鮮半島情勢2019 日韓関係のレッドライン越えた韓国!保守リベラル問わずコリグジットに苛立つ米!南北官民共闘で波状 ...
www.youtube.com

これらは、一見別々の事象ですが、俯瞰的に見ると、大きな流れが起こっていることがわかります。

まず、トランスジェンダー活動においては、「性別適合手術を受けずとも、『自認』だけで性別を変更できるようにする」が至上命題になっており、これに「多様性」「人権」「反差別」の世情が少しづつ後押しをしている。

そして、もう一つは、「性的自認による差別を一切禁止する」ことの法律的扱いを軽率に決めてしまうと、

「たとえ男性器があっても女性と自認すれば他の女性と差別せずに女性として扱う必要が生じた」場合「女性と自認しさえすればあらゆる女性専用スペースに入ることが可能になる」

という事態が起こりうる(そして、今西欧社会では現実に起こっている)という事実から、公衆の耳目を必死で逸らそうとする人たちがいる、ということです。

他方で、実際には、「『自認』だけで性別を変更し」「それにより女性と自認する人たちが女性専用スペース使用を許可されるようになったらどうなるか」について、SNS上で激しい議論が展開されています。

これらの事象を観察する過程で、私は何か底知れない闇のようなものを垣間見た気がしました。

正直、「クリスチャン事情」から離れてしまっているような気もしますし、闇を覗き込み続けることで自分も引き込まれそうになってしまいそうというような怖ささえ感じるのですが、

「性のあり方の多様性」がいったいどんな場所に人間社会を連れていくのか、ということを、キリスト者の皆さんに、特に深く考えずにLGBTアジェンダに賛同してしまっている人たちに、是非知っていただきたく、この投稿をしました。

地獄絵図:トランスジェンダリズムの終着駅

以前の投稿でもご紹介したように、今西欧トランスジェンダー運動では「男性器のある女性もいる」が一種のスローガンになっています。

そうして、「(男性から女性へ転換しようとする)MtFトランス『女性』」をいかに生物学的女性と同じように扱うか、ということが運動の主眼となっているのです。

繰り返しになりますが、ここでは「たとえ男性器があろうとも、トランス女性は女性」というドグマから始まって、

「トランス女性を女性と認めないのはサベツ」という高圧的な主張に繋がり、

それが「男性器があろうとトランス女性を女子トイレ、シャワー室、スパ施設等に受け入れないのはサベツであり許されない」という運動を引き起こし、

その結果、女性たちに大きな困惑と恐怖を与える結果になってしまっています。

さらにあきれたことに、男性器のあるMtFトランス『女性』が、自らを「レズビアン」と自称し、女性たちに言い寄るだけではなく、

自分たちがパートナーとして選ばれないことがわかると、「トランスフォブ」といった言いがかりをつけるなどして女性たちを指弾し始めています。

さらに、ここへきてかかる女性スペースへの侵食や望まぬ性的誘い等に嫌気の差した女性たちが、フェミニストたちを中心に、彼らMtFたちに「No」を突きつけると、

今度はそのような女性たちにTERF(トランス除外的急進フェミニスト)というレッテルを貼り攻撃。

そのような実態の例を一部ご紹介したのが2つ前の投稿だったわけですが、

以後も、裏づけを強化するために、筆者はSNSなどで情報収集していました。

そうすると、その実態は、思っていたより遥かに度を越して酷いものでした。

以下は、TERFへの憎しみの発露として出てきているTLの例。

殺害を脅迫するようなものが多数含まれています。

注:極めて過激なものが含まれますので、精神状態が弱っている方は飛ばすことをお勧めします。

(「みざべる」さまのTwitter投稿から引用させていただいております。)

“チンコ(girldick)しゃぶれとかレイプしたいとか、山のように出てくる”
twitter.com

イメージ 1

「私はTERF殺し(マスクを着けナイフを構えて)」
「このトラニーはTERFsを殺す」
「食らえTERFS(斧を振りかざす画像とともに」
「私のところにTERFを連れてこい(ナイフを構えて)」
「TERFsについて唯一のいい事は奴らには感情がないから、そうしたいときにはいつでも奴らを殺してもいいってこと」

イメージ 2

「ねえいつ私たちはTERFsに火をつけることを始められるの」
「2017年はTERFに出会ったらいつでもやつらの歯に蹴りを入れてやる年」

「もしあんたがTERFだったら文字通りナイフを持ってって喉を刺してグリグリしてやりたい」
「教えといてあげるけどもしあんたがTERFなら実際にあんたの喉をスライスしてナイフでズタズタにして脊椎を切断してやる」
「TERFも?構わない撃ってやれ」
「TERFであることを誇りにしてるTERFたち..私は奴ら全員をボコボコにするためにここにいる」
「TERFsとTWERFsを早く破壊してやるにはどうしたらいいだろう?」
「TERF虐殺が私の夢」
「全てのTERFたちを燃やしてやれ」
「完全に有罪だ、全てのTERFsは火の中で死んでよし」
「TERFsはくそったれの火の中で死すべき」
「急進フェミニストたちとTERFsは行ってくそったれの火の中で死ぬ必要がある」
「とにかくTERFの顔にパンチするのはいつだって素敵な日」

イメージ 3

以下同様。

イメージ 4

あとに続くのは、あまりにも低劣で吐き気のする内容なので翻訳する気も起きません。

(最後のほうには、このような自称トランス「女性」たちが、自分の持つ男性器で「TERF」女性たちに性的サービスを強要したり加害する旨をほのめかす記述が含まれています。)

いかがでしょうか?

トランス運動というものは、「セクシャリティの多様性」を認め、性別違和により生きづらさを抱えている人たちを救うために始まったものかも知れません。

ところがそれはいつのまにか、「女性と自認していれば手術をしてもしなくても女性」というところを経由し、「男性器のある女性もいる」ということになってしまいました。

そうしてそれに反対する者は誰であろうと強い攻撃に晒され、脅しを受けている。

しかも、脅すほうは「自分は女性と自認している」と主張しながら、他方で「自分の男性器で加害してやる」とまで言う輩がいるのです。

こんな不条理なことがあるでしょうか?

欲望と本音を露にして恥じない国内『トランス』活動家

私の観察したところ、日本での議論はまだここまでは暴力化していないようです。

しかし、「自認だけで自称トランス『女性』たちを女性と認め女性スペースへの進出を許可せよ」という人たちは一定数おり、

その危険性を認識し、これを拒む女性たちと、いわゆる「トランス女性たち」の間で論争が起こっているのは同じです。

ただ、その様相としては、対等でオープンな議論というより、西欧と同様、自称「トランス『女性』」が被害者ポーズをとりつつ「差別!」「暴力!」「トランスフォビア!」といったマウンティングを試みている、これまたある種の地獄絵図に近いものがあります。

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ところがところが、そのような「トランス」『女性』の中には、自分を女性だと主張し、自分たちを受け入れない女性たちを「サベツ」「トランスフォビア」と牽制しているにもかかわらず、

どうしたわけか同時に女性の身体や女児への欲望を隠さないようなツイートをするもの、女性との性行為への欲求を露わにしたもの、自ら認めるものさえあったのです。
トランス女性が「性にはグラデーションがある」「ペニスのついた女性もいる」などと言っても、女性は「私にも性別違和があるな」と言ってはいけません。
togetter.com

その「本音」の部分の詳細は↑のリンクをご覧下さい。

(あまりに露骨でとても内容を転載する気にはなれません。しかし、上記3例のTLの発信者が、その中でどのような心情を述べているかをご確認いただくことができます。)

私はこれを見て背筋が寒くなりました。

そして、何か底知れないものが裏に感じられてなりませんでした。いえ、そのような言説に従事する人たち一人ひとりというより、何か背後にある大きな「霊的」な動きのようなものです。

自らは女性や女児への欲望をむき出しにしつつ、恐怖を感じて拒絶しようとする女性を見下し、「サベツ者」と罵倒するその姿。

上述したような国内の例も、今はまだ「一部の極端な例」かも知れません。しかし、ひとたび「自認のみで、手術をすることなく性別を変更することが認められ」たら、

上記のような人も法的には『勝利者』となる、わけです。

自分を女性と「自認」しながらも同時に女性への欲望をたぎらせつつ、なおかつ自分自身は「レズビアン」であって、

場合によってはそのgirl dickで女性に性的な行為をしたいという欲求さえうかがわせるような者であっても、

法的には「女性」として扱い、女性用施設への完全なアクセスを認めなければならなくなる、ということです。

いま、先進諸国を中心にまるで、そのような薄気味悪い動きがうねりのように脈動しています。

少なくとも、今現在日本の法律は『男性器を持ったままでは女性としては扱えない』と明確にしていますが、

そうであるにもかかわらずこのような攻撃が女性たちに対して行われているとしたら、もし女性たちが法律の支えを失ったらどうなるかは火を見るよりあきらかでしょう。

奇妙な非対称性: 男性器官を重んじ、女性器官を切り捨てる

再び西欧の話題に移ります。

じつは、これらの事情を観察している間、さらに奇妙なことに気づきました。それは、MtFとFtMの間の「非対称性」です。

男性から女性に転換しようとするMtFの運動においては、「男性器があっても」というスローガンのもと、

髭を生やし、ホルモンや手術を全く受けていない人物さえもが「トランス『女性』」を名乗っている例さえ見受けられます。

"I'm widening the bandwidth of how to be a woman." Alex Drummond talks to BuzzFeed News about why she kept her beard after transitioning – and how others react.
www.buzzfeed.com

Alex Drummond氏は女性と自認しているが、髭も剃らないしホルモンも手術も受けないという。「いかにして女性であるとういうことかについて、幅を広げている」のだとか。

ところがです。いっぽうで、教育機関を含む、米国社会の様々な箇所に浸透したトランス活動家たちは、「自分は男性かも知れない」という性自認を抱きはじめた少女たちに「乳房や子宮があっても男性・手術は必要ない」と教えてはいないようです。

むしろ積極的に乳房切除や子宮除去を推奨しているような気配さえ見られるのです。それも、中学生や高校生といった年齢の子供たちに、です。

トランス運動を批判するフェミニスト法律家Jennifer Chavez氏は、今米国の若者たち、特に若い女性たちを席巻するトランス運動の実情について、ある母親の声を紹介しています。

Radical feminists are unmasking the horrors young girls have experienced in transgender clinics in addition to exposing the abuse lesbians have endured for publicly opposing "gender identity" ideology.
www.christianpost.com

「13歳の娘が、スポーツも好まず典型的な男性的興味も持っていないのに自分はトランスジェンダー少年だと告げたため衝撃を受けた」

「自閉症スペクトラムであり長らく他の少女たちとフィットできない経歴を持っていた彼女は、学校で行われたプレゼンから自分がトランスジェンダーだという考えを得た。そこでは5%の生徒がノンバイナリーあるいはトランスジェンダーと自認し、うち幾人かがホルモン治療を、16歳1人が乳房切除を受けた」

「『私は専門家の指導を得るためにジェンダー医師に娘を連れていきました。彼は彼女の新しいアイデンティティを受け入れ、私には彼女を男性代名詞で呼ぶこと、男性名で呼ぶこと、また乳房を平らにするバインダーを買うようにと言いました』」

「治療家は母親に対し娘に性徴遮断薬を与えるように指示し、彼らの安全について偽りの保証をして、ジェンダーを「探索」するのに安全な道があると教えた。医師はまた、もし母親が従わなければ娘は高い自殺リスクを負うだろうと注意した。」

「自分が反対の性であるという子供の信念に疑問を持つことはコンバージョンセラピーの禁止されているいくつかの州や司法管轄では違法行為となっており彼女の苦悩を募らせる。『私は4年間この悪夢の中におり、懸命の努力にも関わらず娘は今年18歳になったら医学的転換を受けることを計画しています』」

これは一例ですが、この記事では同様の事例が他にも紹介されています。

・・・・・・・それにしても、なぜでしょう?きわめて奇妙ではないでしょうか?

もし性が「自認のみ」で決まるなら、ホルモンや手術にことさらにこだわる必要は、むしろないはずです。

それなのに、男性から女性に転換しようとする人たちについては「男性器があっても女性」として称揚し、あまつさえ女性スペースへも手放しに歓迎するよう周囲に求め、

一方で、なぜか自分の性自認に疑いを持つ少女たちには、積極的に自らの女性器官を切断するよう促しているようです。早い場合には13-14歳といった低年齢で乳腺を切除しているといいます!

Thirty-three of these girls were under 18 at the time of surgeries a taxpayer-funded researcher is studying to validate transgenderism. Two were only 13 years old, and five were only 14.
thefederalist.com

米国だけでなくイギリスからの情報でも、こういった傾向は推察されるものです。
<トランスジェンダリズム運動の本質(2):君臨支配のメカニズムと「性別のない社会」 トランスジェンダリズム運動の本質 ...
blogs.yahoo.co.jp
イギリス唯一のNHS傘下のジェンダーアイデンティティクリニックであるTavistock Clinicでは、2009年で97件の受信数が、2016-17年では2000件以上に急増し、そのうち、昨年の件数では1400件が少女たちに関するものだと示しています。

ここでは、ほとんど中学生くらいの少女たちが、乳房切除とはいかないまでも、チェストバインディングや、ホルモン剤、テストステロン等の投与を推奨されているというのです。

ところが対照的に、そのような若年の少年たちが「自分は女性かもしれない」と申し出た場合に、積極的に若年での去勢手術に誘導されているというニュースは聞きません。

というより、上記のイギリスの例にあるように、そもそもそういった治療に移行するのは数からして女児のほう多いという実態があるようです。

これは、まだ点と点が辛うじて繋がっているような状態でしかありませんが、こういったトランス運動の本質というものが何か、

表面的な「ケンリ」運動としての装いとは全く違う別の何か、思ってもみなかったような「本質」が見えてこないでしょうか・・・・・・・・・?

制限字数が尽きかけているようなので、続きは次の投稿に譲りたいと思います。

日本キリスト教界の偉いセンセのあまりに吞気なLGBT観

最近キリスト新聞、通称キリ新をよく覗かせてもらってます。

記事中には時々ウヘっと思うようなサヨク調のものもあったりしますが、中国でのキリスト者迫害の様子などもちゃんと報じており、その点では結構参考になっていますが。

そんな折、日基の正教師で牧師の経験もあり、今は大学の教授をしておられる川島堅二さんという方のコラムが連続して「セクシャリティ」の問題を取り上げていたので、最近定期的にチェックするようにしていました。

しかし、それが思わず苦笑してしまうような内容でした。

 ゴールデン・グローブ賞で作品賞&男優賞の2冠を獲得した話題の映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観た。イギリスのロッ...
www.kirishin.com

今月に入って発表された記事で、川島先生は昨年公開されて大ヒットした、ロックバンド「クイーン」のボーカリストでゲイとして知られていたフレディー・マーキュリーの半生を描いた「ボヘミアン・ラプソディ」という映画の感想を述べたあと、こう続けます。
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 かくいう私もセクシャリティの多様性を認めるまでに相当な時を要した。神学校を20代半ばで卒業して教会の伝道師・牧師として働いた10年間は、ほぼ一貫してカール・バルトの倫理学の立場であった。神は人間を男と女に造った。したがって男と女という性別は神からの賜物(Gabe)であると同時に課題(Aufgabe)なのだ。同性愛は、この課題に背を向けること、神の戒めを軽視することだと考えていた。

転機は30代半ばでキリスト教主義の女子大へ転職して訪れた。そこでは多様なセクシャリティへの配慮がごく自然に行われていた。例えば夏休みの恒例行事、学生宗教部主催のキャンプ。宿舎に一つしかない浴室の使用を男女別の時間帯で分けると共に、特に独りで入浴したい人のための時間が設定されていた。そういう中で、自分がレズビアンであることを学内礼拝で証しする学生も自然と現れた。当事者とまったく出会うことなく同性愛者について判断していた自分の偏見に少しずつ気づかされていったのだった。

現在の日本のキリスト教界もこの気づきのプロセスにあるのだと思う。依然として偏見に満ちた言説がある一方で、状況は確実に変わってきている。同性愛を「双方の立場から」論じ合った書物ジェフリー・サイカー編『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』(2002年)、カナダ合同教会の取り組みを紹介したアリソン・ハントリー『カナダ合同教会の挑戦』(2003年)、同性愛断罪の根拠とみなされてきた聖書テキストの網羅的かつ精緻な見直しを試みた山口里子さんの『虹は私たちの間に』(2008年)、牧師でレズビアン堀江有里さんの『レズビアン・アイデンティティーズ』(2015年)、そしてゲイであることをカミングアウトしてから牧師になった平良愛香さんの『あなたが気づかないだけで神様もゲイもいつもあなたのそばにいる』(2017年)――前世紀にはこの問題について日本語で読める書物がほとんどなかったことを考えれば格段の前進である。

・・・・・・・・・・

足踏み状態はあるかもしれない。しかし、この歩みにもはや後退はないのだと改めて思う。

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・・・・へ、そ、っそうなんですか(汗)。もはや日本キリスト教界は、先へ先へと進むしかないんですね?(やだなあそんなの・・・)

なんだか、レズビアンの学生さんに会ったとかで、自分の中の偏見が解け(ここまではいいのよ)、

それで宗旨替えをなさって「教会が多様なセクシャリティを認めるのはヨイことなのだ~」と今は思ってらっしゃるわけですね。そこには、より明るい教会と、そこに集う多様な人たちの美しい姿が思い浮かべられているのかしら。

でもねえ~。こういった界隈の事情を国内海外問わずつぶさに観察してきた私からしてみると、

な・・・なんて世間知らず、吞気なんだ

としか言いようがありません。

あのですね、「多様なセクシャリティを認める」てことはどういうことかと言うと、

かつては疎外されていたゲイの人たち、レズビアンの人たちが教会での交わりを回復し、悔い改めの涙を流すヘテロの信徒たちと和解し、めでたしめでたしで終わる・・・

わけ ないのですよ!

だって、記事中名の挙げられている堀江有里さんは、どんな主張の持ち主か、ご存知ないのでしょうか。

そのラディカルフェミニスト特有の「家父長制が~!」とかのアジェンダは別としても、

他の論文で、いま話題の同性パートナーシップ制度について、「1:1のモノガミーでない関係を排除してしまう」ので、性的マイノリティの立場からは疑問視されうるという可能性を示唆しているのですよ。

第21号 『社会システム研究』 2010年9月 37 同性間の〈婚姻〉に関する批判的考察 ― 日本の社会制度の文脈から ―
www.ritsumei.ac.jp


ちょっと小難しい話になっちゃいましたが、これって要するに、

「パートナーシップ?いやいや、1:1の関係だけじゃなく、3つ巴とか4つ巴の関係も認めてあげなあかんちゃうの、エコひいきはあかんよ」てことです。

ョーカイ(←何のギョーカイや!)の用語で簡潔に言うと「ポリアモリ」ですね。

このような活動家の界隈には、この堀江女史よりさらにあからさまに、ポリアモリをキリスト教の文脈において肯定的にとらえようと定義せんとしている人もいます。

LGBTというコトバはだいぶ認知度が上がってきましたが、 まだ耳にしたことがある方は少ないかもしれません。
ameblo.jp


この方はポリアモリについて「イエス様が教えた「互いに愛し合いなさい」や、パウロの語った「愛は全ての律法を成就します」にも沿っているなぁと」と感想しています・・・が・・・そ、そうですか。一度に複数の人たちと性的関係に入るのがイエスやパウロの言う愛の教えに沿ってる・・・と?(ボーゼン)

話をものすごく端折るとこういうことです。同性間の性的関係を認めてしまったら、もはや多数が入り乱れるポリアモリを否定する根拠もなくなります。だってそれだってリッパな「性的志向」(嗜好)なのですから。

そんなの一部の活動家だけだって?

いやいや、「多様なセクシャリティ」てどういう意味か、よく考えるべきだと思うんです。

多様、ってことは、そこには「あれはダメ」「これはダメ」という制限をできるだけ設けないということですよ?

いま現状では、いちおう、ペドフィリアと獣姦は、それぞれ児童への虐待と、動物への虐待ということで、活動家界隈では否定されています。(いつまで続くか怪しいもんですが)

でも、「一度に多数と関係したい」てセクシャリティは、当事者たちが合意してたら相手への裏切りとかの面で指弾することができません。だから、当ブログで何度も指摘しているように次には必ずこれが来るのです

いくらなんでもそんなこと・・・

ふむ、でも上述したように一部の人たちが提唱する理論の上ではそうですよ。

で、大事なことは、LGBT推進派内部においてそれを決定的に否定し、排除する理論は生まれてない、ということです。

同性愛は1:1のコミットした関係でなければならない、それ以外は姦淫だぁ!

という規範は、存在しないのです!そんなものもともとないのです。少なくとも僕は見たこと無いです。

まあ、「包摂」とか「非サベツ」が彼らの身上なので、そんな規範作りようもないんだろうけど・・・。

だから、この理論をハッテンさせてけば、そのうち、「セクシャリティは多様。だから特定のパートナーを決めずに不特定多数と入れ替わり立ち代わり関係することも認めれ。合意してれば問題ないでしょ?

なんてのも出てくると思います。

したらどうするつもりなんでしょ?


このカラクリ、まあ、センセには、理解していただけないかな~・・・・

ともあれ、話を戻すとこの川島センセについては、もっとノンキな記事も書いておられました。
小学校1年から4年までわたしの担任は若い独身の女性教師f先生だった。入学したばかりのころ、「学校ではわたしをお母...
www.kirishin.com

----------------------
・・・・・・・・・
もう40年近く前になるが故・井上良雄先生をご自宅に訪ねた折、たまたま同性愛のことが話題になった。その時、先生は「人には右利きもいれば左利きもいる。同性愛もそのように考えればいい」と言われ、左利きのわたしは目から鱗が落ちるような思いだった。わたしの幼少期、左利きはまだ矯正の対象だったが、現在はむしろそのままでというのが一般的である。利き手の違い同様、性的指向の違いもありのままで自然であると、多くの人が認識する社会を願わずにはいられない。

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そ、そうなんですか?利き手の違いと同じ?

まあ確かに、世の中左利きの人たちは昔は「ギッチョ」などと呼ばれ矯正され、不便を強いられてきました。

しかし、現在はそのような風潮は薄れましたし、スポーツ界でも多くの左利き選手が大活躍しています。

じゃ、性的志向(嗜好)も、利き手の違いと同様ととらえ、受け入れてあげたらいいんですね?

すると、どうなるでしょう。ゲイカップルレズカップルが教会に来て結婚したい、と言ったら、「利き手が違う」のと似たようなものですから、トーゼン、センセは祝福してあげて、そして司式を頼まれたら応じてあげるんですね?

で、数年後次にそのゲイ/レズカップルがやってきて「ワタシたち、カップルなのに子育てできないなんて不公平・サベツだと思ったんです。なので代理母/精子提供で赤ちゃんをつくりました!」と言って赤ちゃんをお披露目するとします。どうしますか?

いや、無論どんな場合であっても赤ちゃん本人の誕生については、無条件で祝福してあげないといけませんよ。


代理母にしても精子提供にしても、貧しい国の女性たちへの搾取につながったりとか、あるいは同じ精子提供者を生物学的父に持つ子供たちの人数が数十人に膨れ上がるとか(←アラブの王族かッ)、どんどん新たな社会問題を生み出すのですが、

一度同性カップルを異性婚と同等なものと社会が認定してしまえば欧米同様必ずその方向に進むでしょう。

だって、「ワタシたちも子供を持てないのはサベツだ」となるのは必定ですから。

さらには、法制度上「異性婚=同性婚」「異性愛=同性愛」という国の立場が確立されたら、

学校教育は大幅に修正を迫られます。「子供にはあまり同性愛のことを教えないでほしい」といった親の希望は100%無意味なものと棄却されるでしょう。むしろ、今迄日陰にあった同性愛や同性愛行為を積極的に青少年に教えるべき、といったことにさえなりかねません。

最近巷では、ニュージーランドのある議員が国会で同性婚の法制化に向けて行った演説が話題を呼んでいるようです。
blogs.yahoo.co.jp

んでもって、ところが、です。

ここでさらに落とし穴があります。男性同士の性行為については絶対看過できない恐ろしい帰結があるのです。
“昨日の同性婚イベントでは、木村草太さんが「世論調査も『同性婚に賛成ですか?反対ですか?』と、まるで同性婚を拒否する権利があるかのように思われる質問ではなく、『同性婚を認めるとあなたにどんな不利益がありますか?
blogs.yahoo.co.jp

異性愛行為と(男性間)同性愛行為は、生物学的、解剖学的、医学的に全く種類の異なるものです。

「利き手」の違いなんてものではありません。左利きであっても健康に一切害はありませんが、(男性同士)同性愛行為は、そもそも構造的に、さまざまな感染症の危険および免疫機構の低下を齎すのです。

それにしても言うにことかいて「利き手の違い」・・・・・とは。日本キリスト教界でこういった無責任で出放題の言説に従事する著名教職者が散見されることは本当に嘆かわしいことです!
青木保憲(あおき・やすのり). 1968年愛知県生まれ。愛知教育大学大学院を卒業後、小学校教員を経て牧師を志し ...
www.christiantoday.co.jp
別のクリスチャン誌クリスチャントゥデイによく寄稿しておられる青木保憲師は、同様に映画「ボヘミアン・ラプソディ」の感想を発表してましたが、その中で同性愛とエイズの「関連はまったくの思い込み」だと断言。

・・・・え?ソースは何?専門でもないのにこんなこと言っちゃって大丈夫なの?だって、とあるゲイサイトからして「感染経路は男性間性行為が8割」て言っちゃってるのに・・・

しかも、こういったセンセ方は、欧米のLGBT運動とそれに関連する事象がどんなことになっているか知る由もなさそうです。

最近当ブログでもお伝えしたように、既に、レズビアンとMtF(男性→女性)トランスジェンダーの間では凄絶な争いが勃発しています。

いや、争いというより、「ペニスがついてても女性だ!」「だからペニスついたままでトイレにもシャワー室にも入らせろ!」「ついでにオレたちの性の相手もしろ!でないとサベツだ!」とムリ無体を言って後者が前者を一方的にイジメているだけというのが実情のようですが・・


カオスです。混乱です。さしずめ、ソドムとゴモラもこのようなありさまであったかも知れません。

もし我々日本社会が「立ち止まることなく進み続けていた」ら、どうなるでしょうか?こうなってしまうのではないでしょうか?

ただ、まあ教会外の世界がよしこんなふうに変わってしまったとしても、いたし方ありません。とても残念なことですが。

しかし、キリスト教教職者がそんな「変化」に賛同したり協力するのは言語同断、

ましてや、もしも信徒たち、特に子供たちを守ることを少しでも気にかける信徒、信徒奉仕者あるいは教職者であるなら、教会の中だけはそんな風にはしない、という決意を持ちたいものです。(まあ川島センセや青木センセにもはや期待はしませんが・・・)

聖書の教えをガクモンにしてしまう危険

なお冒頭の引用記事で、私はちょっと興味深いことに気づきました。

川島氏は、昔は自らの神学的理解を元に同性愛に反対していたそうです。

ところが、レズビアンの生徒との出会いといった出来事を契機に立場を変えたとおっしゃるのですね。

悪く言えば「変節」したわけです。なぜそのようなことに?

私の推測では、結局氏にとっては、聖書は「神の言葉」、それも「命を挺して自分個人を罪から救い出してくれた神から自分に向けて直接語り掛けられた言葉」ではなく、

単なる「ガクモン」だったのではないか、ということです。

ガクモンに、新説はつき物です。ある有力な説が十年たったら時代遅れになるなんてザラ。歴史の教科書だって最近になって「実はこうだった」なんてこと、よくあります。

川島氏の当初の立場は、当初カール・バルトのなんじゃら学をもとにしていたそうですが、これって聖書ではないんですね。カール・バルトさんが解釈してひねり出した(バルトには失礼ですが)ものに過ぎません。聖書を理解していく際の参考にはなるかもしれませんが、神の言葉そのものではありません。

英語でよくtake a grain of saltと言うのですが、そういうものを文字通りに受け取ってはいけないと思うのです。どこかに誤りがあるかも知れない、と心の隅で意識しながら読むべきです。キリストに直接触れた弟子たちの時代から1000年も2000年も経ってからニンゲンが書いたものなんですから。

ところが、本当に不思議なのですが、キリスト教界には「聖書は文字通りに受けとらない」「誤りがあるかも知れない」と疑うのに、こういうガクモン書はものすごく大切に大切に押し頂くヒトって結構多いんですよね。

で、さらに奇妙なことに、結局もっと良い学説が出てきたり、何かのきっかけがあったらすぐ転向してしまうわけですよ。

こういった有様を見ると、やはり思います。

聖書の意味をより深く理解しようとする過程で「ガクモン」を利用するのはいいことかも知れませんが、

聖書を「ガクモン」の範疇でのみ理解してことたれりとしてしまったり、ましてや聖書より「ガクモン」を信頼してしまうのでは、おかしな方向に進みかねないな、と。

これ頭が人並み以上によい人たちに多いような気がするのですが、「ガクモン」を自分の信仰生活の土台にしてしまっては、むしろ「教えの風に吹きまわされる」ことになってしまう危険を多いに孕んでいるのではないでしょうか?

聖書が語る結婚を崩してはならない

もしも、聖書のメッセージが自分に対して直接宛てられたもの、という意識があれば、そうはならないでしょう。

私は、自分が結婚するに際して主任牧師から得得と言い聞かせられた以下の聖句を、十数年たった今でも事あるごとに思い出しています。

エペソ5:25-32
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。 
キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、 
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、きよく傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。 
そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。 
だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。 
私たちはキリストのからだの部分だからです。 
「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」 
この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。

なぜ頻繁に思い出すかというと、自分が到底この基準に達していないからです。しかし、同時に、自分の妻(と結果恵まれた子供たち)を真に幸せにするには、まずこの基準を目指し続けるしかない、と確信してもいるからです。

本当に、一人の夫として、この聖句は読めば読むほど厳粛な気持ちにさせられます・・・・。

なぜなら、括弧内の引用にあるように、この結婚の神聖性は神による人間の創造(創世記2:24)の時から打ちたてられたものであり、

なおかつキリストの到来によって新たに示されたのが、キリストと教会の関係を「型」にした結婚生活にせよ、少なくともそうなるように努力すべきだという命令。

結婚とはじつに深遠な営為であり、いかに重要なものと考えられていたかわかろうというものです。

そして、これは信者であるないに関わらずいえることですが、相手に対するこういったコミットメントを捨ててしまったら、その先にあるのは(よほどラッキーな家庭を除いて)かなりの確率で家庭不和、争い、悪くすると離婚や崩壊家庭でしょう。

「それはわかった。だけど自分の基準を他人に押し付けるな!同性愛であったって愛だ!」

という声を未だに挙げるヒトもいるかもしれません。それなら、自分の好きなように、好きな相手と一緒になり、またその帰結(特に男性間に多い)をその身に受ければいいでしょう。教会の外で行われることについてなら、警告はしますが止め立てしようとは思いません。

しかし、教会の内部についてなら、聖書には結婚の何たるかがここまではっきり明確に定義されており、それが神の創造の業ともキリストと教会の関係にもかかわりがあると示されている以上、人間が勝手にこしらえ上げた別の物をそこに持ってきてムリヤリ当てはめるなどという乱暴なことは到底できません。

世のプレッシャーに負けてしまい、神が定めた結婚を無にするようなアジェンダを教会にまかり間違っても持ち込んでしまったとしたら、それは果たしてキリストの「羊を忠実に養っている」ことになるでしょうか?

良識ある教職者なら、特に「神の栄誉を求めるか、人の栄誉を求めるか」に心を留める者なら、そんなことは絶対できないでしょう。

ましてや、そういったケンリ運動の成れの果てが上記に挙げたような欧米社会のカオティックな有様だとしたら、どうでしょう。

もはや結婚というものも家族というものも殆ど意味を成さなくするようなアジェンダを押し頂く人々が幅を利かせ、蟻の一穴をきっかけに、「姦淫」という概念も意味を成さなくなり、いつでも誰が相手でも性行為をすることはいいことだという哲学が横溢するような場所で、

果たして私たちの子供たちの世代は幸せに生きられるでしょうか?

いや、幸せに生きることがキリスト者の一義的目的では決してないのですが、かといって、やってはいけないと聖書があらかじめ警告していることをわざわざ是認することによって混乱を引き寄せるのも、またじつにおろかな行為ではないでしょうか。

日本キリスト教界の偉いセンセ方に、こうした現実的な発想が見られず、

むしろ今進んでいる方向に対してハッピーハッピーの幻想を抱いているとしか思えない状態なのは本当に憂慮すべきと私は思います。また、本当に不思議ですし驚き怪しんでいますが、これが現実なのでしょう。

だって、象牙の塔に篭ってむつかしいガクモンばかり続けていたり、説教台の上から距離を置いて会衆を眺めるばかりで、

個人個人のドロドロゴタゴタに介入する「便所掃除」的な牧介をしたことがないのならば、

何が信徒たちにとっての幸せなのかを真剣に考えたりすることもないし、耳当たりのよいシンポ的アジェンダより遥かに大事なものがあるということには到底思い至らないのかも知れません・・・・

最後にもう一度言います。

聖書は結婚について明確に語っており、聖書的結婚の定義はこれ一つしか存在しえません。

そして、これを崩すことは、すなわち滑りやすい坂道を滑り始めるのと同じ、蟻の一穴から全ての堤防が崩壊することへ続く道です。

教会外の人間ならともかく、キリスト者、特にキリスト教教職者がこんなことに賛同したり加担したりするとしたら、その帰結は有害を通り越して有り余るでしょう。

この警告に耳をとめてくれる方が一人でもおられることを願います。

え~、あけましておめでとうございます。

気づけばはや2019年、先月は一件しか更新できませんでした・・(汗)。

が、まだまだちょくちょく続けて行きたいと思いますので、皆様どうぞ本年もよろしくおねがいします。

トランスジェンダリズムの本質(追補4)

混乱の極み:トランス活動家の暴虐にあえぐレズビアンたち

さてもう昨年9月の話になりますが、西洋トランスジェンダリズムがどんな不条理な場所に行き着いているかを題材にして「トランス運動の爛熟とLGBT運動の崩壊: レズビアンの反乱」というのを書きました。

その中で、ロンドン・プライド・マーチでレズビアンたちの一群がトランス運動家への抗議行動を行ったということをお知らせし、そのとき配布された文書の内容もご紹介しました。

その中で、もしこれが本当ならあいた口が塞がらないと言える、トランス側のトンデもない実態への言及がありました。
「レズビアンがいわゆるトランス女性を性的パートナーに選ぶことを拒否したりペニスを女性の性器として受け入れることをしなかった場合に加えられるあらゆる圧力、例えば強姦や殺害をほのめかす脅迫やトランスフォビックと誹謗することなど、を私たちは非難する。これらの脅迫や誹謗中傷は強要であり強姦文化の表れである。」

「ペニスを女性の性器として受け入れる」?

この種の話題に慣れていない人たちにとっては、もう頭がクラクラしてしまい何がなんだかわからなくなってしまうかも知れませんが、要するに

ジェンダー理論の応用でもって、

1)自分が女性と自認すればペニスを持っていてもその人は女性

2)その「女性」にとっての性的指向が「レズビアン」であり女性をパートナーとして志向する場合がある

3)その場合、そのトランス「女性」のペニスもまた、女性の性器である。したがって相手方レズビアン女性はこれを女性性器として受け入れるべきであって、それを嫌がるのはサベツだ

という論理展開を一部トランス運動家たちはしている、ということらしいのです。

「んなムチャな・・どう考えたって無理やろ・・」

性的自認と生物学的性別が一致するいわゆる「シス」でありかつノンケ(あるいはストレート)、ようするにセクマイ以外の人であったとしても、ちょっと想像するまでもなく、こんな屁リクツ到底通用するはずがない、と日本人の多くは思われるかも知れませんが、

私もまた、まさかこんな話ウソ、ホラ、あるいは「盛ってる」だろ、とちょっとタカを括っていました。

・・・がしかし、どうやら本当に、そういう主張がトランス側から真剣になされており、またそれによって多くのレズビアンたちが困り果てている、ということが実際にあるらしいのです

その内容を追補としてお送りします。

レズビアンたちを襲うムチャなレトリック

ここで、(キリスト教とは無関係ですが)あるブログの内容をご紹介します。↓


イメージ 1


フェアプレーフォーウィメンという、レズビアンの話題を扱うブログサイトがあり、その著者は「Lという字はもはやLGBTに属していない。Tやその他をそこに加えていることによって、Lの意味がないがしろにされている」と多くのレズビアンは主張している、としています。

どういうことかといえば、現代の「アイデンティティ政治」によって、性とは物質的現実が決めるのではなく自分の内面の性的自認という概念で決まることになってしまっているので、

このイデオロギーは、「ジェンダー」が女性なら、男性器があろうが髭はえていようが「女性」だと命令するわけです。

すると何が起きるか。

イメージ 2


「レズビアンとペニスという言葉は同じ文に出てくるべきではない」 

という女性の主張に対し

「トランス女性は女性だ、失せろビゴット(偏狭)め」

と罵倒。

で、この著者さんは「この主張に疑問を持つフェミニストを強姦を仄めかして脅迫するために、「女性ペニス」「レディー・ディック(ディックは男性器の俗語)」といった言葉が使われる例を何度も見た」と言います。(その例が後ほど出てきます)。

で、著者さんいわく、レズビアンというのはホモセクシュアルであり、自分と同じ性の人間に惹かれる、つまり外見も、体臭も、感触も声も備えた器官も女性的であっる女性に惹かれるというのですが(まあ当たり前っちゃ当たり前に見えます、キリスト教的な是非がどうなのかは今は触れませんが・・・)

それに対し、男性からの転換者であるトランス「女性」たちのうち、自分たちをレズビアンと呼ぶ人たちが結構多数出てきているというわけなのです(この引用ブログ著者さんはこれをヘテロセクシャル男性と認識しているわけなのですが)

でその結果女性専用出会いアプリやレズビアン用出会いサイトは、ヘンなカツラやドレスを着た男たちで一杯になっており、レズビアンたちは、「サベツ」になってしまうことから彼らを排除できないというのです

しまいにはバーは閉店させられ、女性同士で出会いたい人たちは、男性の視線を避けるために秘密で組織することを余儀なくされているといいます。

また引用ブログ著者さんは、↓のような例を上げ、攻撃的で強情なトランスジェンダー「レズビアン」たちは女性たちを怖がらせ、出会いの場所から遠ざからせている、との主張。

イメージ 3


左「特にトランス女性には惹かれないというレズビアンはトランスフォビックだ」 

右「じゃあ、レズビアンはディックを舐めないからビゴットだって言うの ? 」に対し「シスレズビアンはディックある無しにかかわらず全員を女性と考えることを拒むからビゴットだと感じる」

加えて、あるトランス「女性」は、トランス女性がレズビアンたちから受け入れられないことをもって「コットンの天井」という言葉を発明したそうで。

イメージ 4


これについてPlanned Parenthoodという団体はこの「バリアー」を克服するための戦略を立てるワークショップを開催していますが、ブログ著者さんはこのアイデア自体を「強姦的に聞こえる」と批判しています。

さらには、メディアでも「一部のレズビアンは「性器の嗜好」によって人々を考慮の対象外にしている」といった批評が流れていることから、レズビアンたちは「差別的」な性的嗜好を持っているといった批判に晒されやすいそうです。

著者さんはそれに対し、そもそも「誰かと付き合う」こと自体差別的なことであり誰しも誰かと性的関係を持ついかなる義務もないと反論していますが。(←あたりまえやん・・・(呆れ))

また若いレズビアンたちはアイデンティティ政治を受け入れさせられることで、自分自身を男性と見るようにとか、性転換をしなければならないといった社会的圧力に晒されているとも。

そしてまたトランス女性と付き合わないのは「排除的」であると聞かされており、同調圧力から本来望まない性的接触をする義務があるかのように感じているとまで。

イメージ 5

上「トランス女性を除外するならお前はレズビアンではない。バギナフェチだ」 

イメージ 6

上「ゲイやレズビアンといった用語で同じ性やジェンダーに惹かれることを隠喩するのは実際、本当にトランスフォビックだ。真剣に考えてみなさい」 

もっともヒドイのが、これ。

イメージ 7

「ペニスは女性でなく女性でありえない」 

という主張に対する返信。

「TERF(トランス除外的急進フェミニストの略)のメス犬めらは、ワタシの女性ペニスでやってやるための穴以外には何の価値もないし何の価値も持ちえない」

・・・・(汗)???

ともあれ、こういうことで、正直心が痛む、と著者さんは言います。

「我々は若いレズビアンたちの世代を見殺しにしている」と著者は嘆くのです。

最後に著者さんは、あるトランス活動家のユーチューブ動画を紹介していました。

この活動家(私が見たところ物凄い早口で聞き取るのに苦労しましたが)要は、こういったレズビアンたちの志向が「ビゴット」であるばかりでなく残酷であると主張していますが、著者さんは、ティーンたちはいまやこのようなレトリックに圧倒されている、と警鐘を鳴らします。
The answer is more complicated than you might think. ⇊ Open the description for more info ⇊ ♥SUPPORT ME Patreon (monthly with perks): http://patreon.com/rileyjaydennis PayPal (one-time donation): http://paypal.me/rileyjaydennis ♥MERCH Available on TeePublic: http://shrsl.com/?gfma ♥SOCIAL MEDIA YouTube ...
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この動画、要するに生物学的女性を愛する女性(レズビアン)に対し、「ペニスの有る女性(MTFトランス)」を愛せないのは「シスセクシズム」の影響ではないかと看破し?それを問い直すよう促しているのですが、これやってること「コンバージョンセラピー」と実質同じに思えます。あのお「性的指向」はゼッタイ変えられないし変えようとしてはならないんじゃないの?ホント彼らは一週回って、ガチガチの宗教保守でもようやらんようなことをやり始めてる・・・・

不条理も不条理、だがこれが西洋の先端トランス理論・・・どうする?

さて引用がだいぶ長くなりましたがいかがでしょうか。

これが西洋トランス運動の最先端です、不条理も不条理、やれやれ、もう頭がハレツしそうだ、という人もおられるでしょう。

また残念なことに、これに近いことを言い出している人たちは日本にも存在します。

で、こういうリクツのためのリクツみたいなものがどんどん発展し、あれよあれよと言う間に幅を利かせるようになる、という展開を私は予期しています。

実際にも米国ではオバマ政権のときに、いつのまにか「女性と自認さえすれば問答無用、女性専用スペース立ち入りを認めよ、でなければサベツ」という流れが、実際に起こったのです。(全米の学校に対する司法省の命令)
昨年10月には、イリノイ州のある学区で1名の「トランスジェンダー」男子が、女子ロッカー室を使用させてもらえないのは差別にあたるとして学校を訴え、これを受け米教育省は30日の猶予期間内に学校がトランス男子生徒の女子更衣室へのアクセスを認めないならば何百万ドルにものぼる公的 ...
blogs.yahoo.co.jp
しかし、それにしてもどうすればこんなにも人間のリクツを「こじらせる」ことができてしまうのでしょうか。

でも、私は思います。これって、まさにローマ書一章に書いてあるとおりなのではないでしょうか。

1:20-24
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。 
というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。 

神は人を男と女につくられ、その男と女が結婚するようにされました。

そして今、その創造の業と、結婚というものの意義を徹底的に破壊しようとする動きが起こっています。

LGBT運動といったものはその最たるものでしょう。

それは、「人間がこうと思ったらこうなのだ」というイデオロギーを極限まで突き詰めた結果、客観的に遺伝子や肉体的な特徴で見て取れるものさえも全く無視し、自分が女、男と自認したらそうなのだ、ということになってしまい、

また同性婚法制化から学校における過剰な性教育までの一連の流れも、本来全ての社会にあった結婚という規範を徹底的に書き換え、男どうし、女どうし、さらには大人と子供といった組みあわせの性的関係さえ、ノーマルなものにしようとしています。

With help from the Thomas More Society, a group of Colorado parents calling itself “Pornography Is Not Education” (PINE) is suing a controversial company that provides hardcore pornography and ...
www.thenewamerican.com

米国で、性教育教材を学校に納入する業者のコンテンツに、ハードコアなものや「大人vs子供」のとかが入っていたことが露見し、コロラド州の保護者団体が提訴。米国では宗教保守層を中心に「性教育の内容が行き過ぎていてほとんどポルノだ」という声が上がっている。

これらの中心にあるものは何か?私の私見では、

「全てを決めるのは人間であり、全ては人間が良いと思うようにするべきである」という信念と、

自分自身の身体を眺めれば誰しも気づくはずの途方も無い妙業と神秘により人間を造り出された「創造主」の存在と、この方が定めた一定の法則を破壊しようとする執拗なまでの憎しみです

聖書が語るまでもなく、人間を造り出したのは人間ではなく、人間より高度な何者かです。あるいは、今ここで創造主を認めたくないという人にとってさえ、人体の中には、人間には想像もできないような絶妙な法則が働いていることくらいは認めるでしょう

そしてそこには男性と女性の機能があり、それは取替え不可なのです。ましてやそこから外れた性的関係は(特に男性間では)まかり間違えれば重篤な病気に繋がりかねません。

ところが、私たちの社会は、私たちを造り出された方に対し敬意を表するどころか、そのかわりに、人間が全ての支配者であり、性別も性機能も性的関係も全ては人間が決定するという奇妙な信念に圧倒されつつあります。この信念はもはや科学さえも無視し暴走する怪物に成長しつつあります。
The formula for each of these articles is straightforward. First, they list a multitude of intersex conditions. Second, they detail the genes, hormones, and complex developmental processes leading to these conditions.
quillette.com
今日びの進化生物学者たちは、以前自分たちに反対していた「宗教右派」ではなく、「左翼」からの攻撃に脅威を感じているという。理由は「社会正義戦士」たちの多くは「性別というものは純粋に社会的構成概念である」と信じているからだ。これは進化生物学に真っ向から矛盾するとこの学者は指摘する。

さらに奇妙なのは、本来レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーといった人たちが、ジンケンのために団結していたはずなのに、実際には「同士打ち」を始めていることです。

しかしよく考えればそれは当たり前の話だと思います。

神の定めた性や結婚のあり方とそれに沿った規範に対するあくなき「憎しみ」のみで団結していた人たち。そんな集団はいつどこでその憎しみが同輩に向くか分かったものではないのです。憎しみによる団結は憎しみしか生みません。

だから、LGBTウンドーってシンポしててかっこよさそうだからって、なんとかアライだとか言って関わるのも、やめておくことです!きっとヘンな争いに巻き込まれるでしょう。

最後に

長くなりましたが、このことからキリスト者はどんな教訓を得られるでしょうか。

色々ありますが・・・

「この種のイデオロギー闘争や活動家には一切関わらない」

「目の前にいる信徒さんをケアし、守ることに集中する」

といったところでしょうか。

でなければ不毛なことになるのが目にみえているからです。

昨今、日本基督教団といったメジャー教団では社会正義?の一貫から「性的少数者のジンケンを守るための理解増進がうんたらかんたら」といった部会などを開いて、教団公認のゲイ牧師さんたちが講師となってガンバってます。

ですが、こういったことをやっている教団は早晩イデオロギー浸透でおかしなことになるでしょう。

活動家というのは権力の中枢に食い込んだりとか、自らの声で物事の軌道を変えていくことを何よりの目標とします。一般信徒さんの福祉ナンか二の次三の次。

もう西洋ではたとえば英国国教会なんかが「もっとLGBTが教職につくべき」とか「神を「彼」と呼ばないようにしよう」とかもうカンゼン意味不明なことになっています。

そもそも聖書を真実とする姿勢を捨ててしまったのでこんなになってしまったといえば身もフタもありませんが、「牧会や奉仕の賜物と召しがある人」がいるかどうかとかそういう事項はガン無視しつつ、「聖書を普通に読む(神様のことを「彼」「父」とバンバン書いてある)」のがイケナイとか、もう信徒はたまったものじゃありません。毎回舌を噛んじゃいます。

シャカイセイギのためには皆犠牲になれ、不都合はガマンしろという超不思議な宗教になってしまっています。「私の羊を養いなさい」はどこにいったのでしょう?

しかし、イデオロギーとアジェンダで動いている人たちに譲歩してしまえば、日本のキリスト教界もこうなってしまうでしょう。

教会は、イエス・キリストを求めてやってくるあらゆる人に手を伸べるべきですが、同時に今いる信徒さんたちを養うことも忘れてはなりません。

「LGBT」などというそもそもが乱雑な括りを未だに使用し、活動家集団のイデオロギーを興味深げに覗き込みつつ、それを取り入れれば何か教会がよりよいものになるとでも言いたげな姿勢を見せる教団もありますが、これは甚だはこっけいです。お笑いぐさです。

他方で、もう活動家たち自身が、凄惨で、どこにも解決のないような仲間割れを起こし始めているというのに・・・・

結局、他人からの名誉が欲しいからこういった無意味なシャカイセーギのバンドワゴンに我も我も乗ってしまうのです。聖書を通じ神から命じられたことだけに集中すればそうはならないはずです。

今後、キリスト教教会や教団の発行物の中でLGBTというフレーズを(肯定的に発している人を)見かけたら、「ああ、この人たちは内情を何もわかってないか、あるいは故意で人をミスリードしようとしているな」と判断し、その主導者からはそっと距離を置いたほうがいいでしょう。

そして、遠大なシャカイセーギの実現とかではなく、目の前にいる兄弟姉妹や真摯にキリストを探し求める人たちを愛することに集中することをお勧めします。
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