2017年02月

プログレッシブ・キリスト教の水面下での浸透:欧米から日本へ(8)

イエスとは誰か:保守とプログレッシブの見解の違い

さて、Benjamin L. Corey博士を含め、必ずしも全てのプログレッシブ・キリスト教徒に支持されているわけではなさそうな珍妙な教えをする教師たちはさておいて、プログレッシブ・キリスト教のもっと本流に近い思想に容赦なく切り込んでまいりたいとおもいます。(K・Fさんゴメンネー!)

社長訓示を聞く社員、聞かない社員

ところで、あるたとえをさせていただきたいと思います。

あなたはある会社の社員だとします。年度の初めにあたって、社長が全社員に向けて訓示をしました。その訓示は、以下のように構成されていました。

1)会社の歴史。創業家の出身地、当初の事業、草創期の幹部社員たちの活躍など
2)今後の事業環境の推移、強力な競合他社の状況など
3)社員がとるべき行動への指針。

社員Aさんは、社長を心から尊敬し心酔しており、一語一句聞き逃さず、すべて暗記するほどでした。

社員Bさんは、やはり社長を尊敬していることはしていたのですが、1)は「どーせ昔の話でしょ!」と適当に聞き流し、2)は「またそんなネガティブなこと言って!そんなのこれからのオレらの頑張りでどうにでもなるって、チョロイチョロイ!」と真剣に受け取らず、3)だけは記憶しておきました。

さて、これを聖書とキリスト教徒にあてはめてみましょう。

1)は創世記その他のモーセ5書とイスラエルの歴史
2)は預言(特に、終末に関する預言)
3)は新約聖書にあるキリスト教徒への指針です。

保守派キリスト教においては、1)も2)も3)もそれぞれ神の言葉であり真正なものと考え、それを土台に、慎重に全ての神学を構築しようと試みます。

プログレッシブ・キリスト教においては、1)は伝説?ホラ話?イスラエル民族の正当性を主張するためのプロパガンダ?考古学的証拠はいっさいなし?と却下され、2)に至っては「アレ?そんなんあったっけ?・・・まあ、きっとなんかの『比喩』でしょ、『比喩』。気にすることないって」ってなノリです。

そして3)の「ごく一部」をとってきて「イエーイ!これがオレらの生き方だぜ!かっけーだろ!」と高く掲げ、同意しない他のキリスト教徒をジロっと睨み「ねえおたく、これ守ってないの?そんなんでシリアスなキリスト者って言えるわけ?」とつぶやきます。

そして、ひそひそと「あいつら『キリスト教』じゃなくて『聖書教』な?おっかしいよな、え?ほら、『教会ごっこ』やってるぜ、『教会ごっこ』。プーッ、クスクス」とささやきあうのです。

まあ、人が何を信じようが全く自由ですし、少々バカにされたところで面の皮の厚い筆者には何てことありませんが(苦笑)。

しかし、ここに大きな問題があります。

こういったプログレッシブ・キリスト教の立場は、イエスが「稀代の大嘘つき」あるいは「迷信家」であると仮定しなければ、到底成立しません。

ぶっちゃけ、この立場は、「まあうちの社長知ってのとおり大ぼら吹きだから。話半分に聞いとこうぜ」とうそぶきながら、なおかつ同時に「オレこそ社長の意向を最も理解した忠実な社員だ」と胸を張って内心他の社員を睥睨しつつ、社長が言っていることの文言内容を自分の判断で勝手にトリミングして、「なあ、これって社長の意向なんだから従わなきゃダメだよ」と同僚に告げるようなものです。

果たしてそんな同僚がいたらあなたはどうしますか?同意しますか?それとも社長の本当の意向を自分で確かめようとしますか?

筆者はこういった点に、プログレッシブ・キリスト教の最大の問題を感じるのです。

では、具体例を以下に挙げてみましょう。

イエスは旧約聖書を信じていたか

プログレッシブな主張においては、旧約聖書というものはそれ自体、時代が古いためその記述が信頼できない、あるいは根拠のない神話であるといった見解がありますがそれはほかならぬイエス自身の発言と大きく矛盾するものです。

これは、なにも高度な神学知識などまったく必要ない、きわめて簡単な作業で確認できます。

まずはマルコ福音書10:6 。
しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。

おや?創世記を「神話」と決め付けたりする人もいますが・・・イエスは、神が人を男と女に造った創世記1-2章の記述を真実だと思っていたようです。これは彼らとは相容れない見解です。

マタイ福音書
23:35それは、義人アベルの血からこのかた・・・

創世記に出てくる人類の2世代目、アベルは伝説ではなかったのでしょうか。どうもイエス自身はそうは思ってはいなかったようです。

また、プログレッシブな立場ではノアの方舟をギルガメッシュ叙事詩のパロディと示唆したり、アブラハムを実在の人物と考えるキリスト教徒を揶揄する場合もありますが・・・・

24:37人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。 
24:38洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。 
24:39そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。 

イエスはノア洪水「伝説」が実際にあったことだと信じていました。プログレッシブな立場にたつならイエスという人物はなんともはや迷信深い無知蒙昧な人物であったということになります!

ヨハネ福音書からも見てみます。

8:56あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」 
8:57そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」 
8:58イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」 

イエスは、ある種のひとたちが断言するように「アブラハムは伝説」であるという「事実」を知らなかったのでしょうか。それとも、知っていて、嘘をついたのでしょうか。不思議ですねえ。

ルカ福音書にもこのような立場の人たちを容赦なく裏切るイエスの言葉があります。

17:28また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、 
17:29ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。 
17:30人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。
17:31その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。 17:32ロトの妻を思い出しなさい。 

おやおや、イエスはアブラハムの甥でモアブ人やアモン人の先祖ロトが実在すると考え、ソドム滅亡の逸話も史実だと信じていたとは!これは由々しき問題です。ロトの妻が「塩の柱になってしまった」という「迷信」を「思い出しなさい」・・・?困りましたね。

旧約聖書の解釈について、イエス自身は全然「プログレッシブ」でもなんでもないようです。むしろゴリゴリの「保守」に近いのではないでしょうか?

もう答えは明らかです。

自らはイエスを信じ、イエスに従っている、と主張するプログレッシブな立場は、イエスを迷信家、偽り者と断定しながらそうしているという極めて混乱したものになってしまっているのです。

そもそもイエスは誰なのか、キリストとは何なのか

プログレッシブな立場からは「いや、イエスは旧約聖書のごく一部分は引用したかも知れないが他の部分は無視している!きっとイエスは旧約聖書が捏造されたのを知っていたに違いない!」という反論があるかも知れません。

しかし、ここで筆者はそもそもの議論をぶつけてしまいましょう。

もしも旧約聖書が捏造だというなら、イエスは一体誰なのでしょうか?

ハッキリ言いましょう。そんな主張に立脚していたらイエスは「キリスト」ではありえません。むしろ、イエスは「ニセ文書」に基づく「ニセキリスト」だということになってしまいます。

旧約聖書がなければ「キリスト」も存在しえません。なぜならキリスト(メシア)とは、プログレッシブ的概念でもヒューマニズム的概念でもなく、すぐれて旧約聖書的な概念だからです。

イエスの弟子や信者たちは、イエスが旧約聖書の各所に預言されたメシアの条件を満たしていたからこそ彼を信じたのです。

ではそもそもイエスはいったいどんな存在だと思われていたのでしょう?

それを一挙にわかりやすく説明してくれる箇所がヨハネ福音書の最初のほうにあります。

1:19ヨハネの証言は、こうである。ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、「あなたはどなたですか。」と尋ねさせた。
1:20彼は告白して否まず、「私はキリストではありません。」と言明した。 
1:21また、彼らは聞いた。「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか。」彼は言った。「そうではありません。」「あなたはあの預言者ですか。」彼は答えた。「違います。」
1:22そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」
1:23彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」
1:24彼らは、パリサイ人の中から遣わされたのであった。
1:25彼らはまた尋ねて言った。「キリストでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」
1:26ヨハネは答えて言った。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。
1:27その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」
1:28この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた。
1:29その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊
1:30私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ。』と言ったのは、この方のことです。
1:31私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」
1:32またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。
1:33私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』
1:34私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」
1:35その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、
1:36イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。
1:37ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
1:38イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」
1:39イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は十時ごろであった。
1:40ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。
1:41彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。
 1:42彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」
1:43その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい。」と言われた。
1:44ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。
1:45彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
1:46ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」
1:47イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
1:48ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
1:49ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です

これらの強調箇所から、洗礼者ヨハネ、そしてその弟子たちのうち、後にイエスの弟子となる幾人かやその友人たちはナザレ人イエスについて以下のことを信じていたことがわかります。

1)彼は「主(ヤハウェ)」から遣わされるために洗礼者ヨハネが道を備えた何者かであり
2) 世の罪を取り除き
3)メシア(油注がれた者)と認められ、
4)「神の子」とも称され
5)イスラエルの王として治める。

上記1)~5)についてイエスを信じていた彼らの根拠は、何も彼らが勝手にひねり出したものではありません。全て、全てが律法、預言者、諸書からなる旧約聖書から来ています。(「モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方」。)

もっとも、プログレッシブの立場のみならず、無神論やイスラム教の立場からも、「いやいや、それは弟子たちや周囲が勝手にそう期待していただけであって、イエス本人は自分がそんなものだとは思っていなかったのだ」といった反論があります。

しかし、こういった各種の称号はイエス本人も認めていたことであることは福音書の各記述から明らかです。

まずは1)の点。

マタイ福音書
11:7この人たちが行ってしまうと、イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。
11:8でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。
 11:9でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。
11:10この人こそ、
『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、
あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』
と書かれているその人です。

洗礼者ヨハネはイザヤ書から、イエス自身は出エジプト記から、と引用箇所に違いはありますが、イエスは「洗礼者ヨハネは自分のために道備えをした者である」ことを認め、洗礼者ヨハネの証言に呼応し、これが真実であることを確認しています。

2)の点。

マタイ20:28
・・・・・人の子が来たの[は]・・・・・多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである・・・・」

3)と4)の点。

マタイ26:63-64
・・・・「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」 イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。・・・

キリスト、はメシアのギリシャ語です。

そして5)の点。

マタイ27:11
・・・・総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは彼に「そのとおりです。」と言われた。

これらはほんの例に過ぎません。イエスは、ヨハネ福音書の冒頭で周囲が信じていたとおりの存在であったことを自分で知覚していました。

そしてそれぞれの称号には、福音書を表面的になぞるだけではわからない含意があります。旧約聖書のそこいらじゅうに預言箇所が埋もれているからです。それら一つ一つを点検していたら膨大な数になるでしょう、今後の投稿で出来る限りお分かちしていきたいとは思っていますが。

それは、ちょうど「ラピュタ」に出てくるような古代建築物遺跡の中にびっしりと根を張った木の根のようなものです。

そして、モーセ五書、預言書、諸書を建築物とたとえるならば、これらはそれぞれてんで勝手に建っているのではなく、古い物を土台にし、その上に新しい物が建っています。

これらの全ての文書は、天地創造、堕罪、楽園追放、洪水、バベルの塔、アブラハムの召命、イサク、ヤコブへの約束の継承、出エジプト、律法の授与、士師記、サムエルとダビデの活躍、王国の分裂と堕落、捕囚期前後の預言・・・・と、後の文書が前の文書を参照したり根拠にする形でひとつひとつ積みあがってきたもの。

イエスはその背景のもと活動し、その背景から導き出される「メシア(キリスト)」として弟子たちは彼を信じたのです。

それを考慮に入れないと、いつか取り上げた山崎和彦師のように、黙示録のイエスは「子羊」だから戦わない、といった、わけのわからない珍妙な解釈に行き着いてしまいかねません。

子羊は、上記のとおり、イエスの重要な称号です。しかし逆に言えば多数ある称号の一つ、なのです。

イエスはいったいどんな存在なのかを把握するためには、山崎氏がしているように新約聖書の何箇所かをチョチョッと覗いただけで結論を出すことなど到底できないのです。

次回は、プログレッシブ神学では決して触れられないメシアの実相にさらに分け入っていきます。

プログレッシブ・キリスト教の水面下での浸透:欧米から日本へ(7)

過激プログレッシブ教師たちの理想社会

Benjamin L. Corey博士はたくさんネタを提供してくれてとても興味深いのですが、「彼に同意しないプログレッシブキリスト教徒もいる」という読者さんからのコメントもあり、あまり長い間彼だけをイジり続けてもラチが開かないので、今回を最後にいったん博士にはお別れしたいと思います。

今回は、Corey博士がFacebookで引用していた記事。

どうやらCorey博士にとって理想のキリスト教がここにあるようです。

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February 3, 2017 by Chuck Queen

ヘブル預言者たちは何度も何度も、地に正義が必要であることを宣言していた。ミカは、何が重要であるかということについて明らかだった。「人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、[憐れみを実行する] 誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。 (6:8)」イザヤは言った。「公正を求めよ」そして彼はすぐさま、彼の時代においてそれが何を要したか、その具体例のいくつかを数え上げた。「抑圧された者を救い、みなしごを擁護し、やもめのために請願せよ」(1:17)。正義を求めるということは、社会で最も脆弱な者たちの傍に立ち、彼らを支持するということだったのだ。それは古代イスラエルにおいて少なくとも3つの主要な集団を含んでいた。やもめ、みなしご、そしてよそ者(外国人、移民、書類のない人間たち)である。預言者たちは、イスラエルの指導者たち、そして広くイスラエルの民を非難した。彼らが自分たちの宗教儀式と実践に忠実であるということに高慢になる一方で正義をなおざりにしたからだ。

不運なことに、多くの、保守寄りで福音派の伝統に立つキリスト教徒たち、たとえばSouthern Baptist Convention に属する教会群やペンテコステのグループなど、あるいはthe Church of God, the Church of Christ などや、さらにメインラインの教団のもっと保守的な教会もだが、彼らは正義について扱っている全ての聖書のテキストを考慮するよう挑戦を受けたことはない。彼らは、正義とは個人が彼または彼女にふさわしい物を得られるかどうかだったり、法律のいくつかの要求を満たすといった意味に過ぎないと考える。彼らは預言者たちの伝統や福音に横溢する修復的司法のコンセプトを習ったことがない。彼らの奉仕者たちによるイエスの伝え方においては、イエスの正義への情熱を強調するような福音書の聖句は無視されるか、あるいは死んだときに天国行けるとか、我々の現在の幸福と健康とか、そういったことにのみ集中するアメリカナイズされた個人主義的世界観による救いにフィットするよう再解釈されてきた。ルカによる福音書は、イザヤ61章の文脈におけるイエスの使命を正義のアジェンダとして定めている。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(4:18-19)イエスの奉仕は、貧しい者、病気の者、悪魔に憑かれた者、罪定めされた者、そして見捨てられた者を対象としていた。イエスは弟子たちを徴募しこの地に対する神の御心(神の御国)を宣べ伝える働きに加わらせ、病気の者を癒し抑圧され悪魔に憑かれた者を解放するために彼らを送り出した。彼の働きは正義と憐れみに焦点を置いていた。多くのキリスト教徒たちは憐れみについては役を担うが、正義についてはそうではない。正義と憐れみは両輪のようなものだが、ふたつの違いを理解することは重要だ。憐れみだけでは十分ではないからだ。

憐れみがホームレスや貧しい者の喫緊の必要に応え宿と食物を与えるのに対し、正義はホームレスや貧困をそもそも作り出している、我々が生きているシステムに対峙するものだ。憐れみは飢えた者にパンを与えるが、正義は誰も過剰なパンを持たず、またパンがないという状態に誰もならないためにシステムを変えようとする。憐れみは戦争の被害者を助けることだが、正義は平和を作り出し戦争を誘発するような要素を排除することだ。正義の働きは、貧困、不平等、戦争、レイシズム、性差別、物質主義、ナショナリズム、医療制度、暴力、移民、環境といった問題に取り組む。正義の働き人や唱道者たちは、しばしば、誰かの特権を奪い他の誰かに不当に特権を与える巨大な経済的、政治的、社会的、そして宗教的システムに対立しなければならない。このシステムは、ところで、我々一人ひとりが生きているものであり我々全員が共犯でもあり、言うまでもなく、それが戦いを複雑化させている。

私は、この国のキリスト教徒たちのうちそんなにも多くが、同族主義、利己主義、保護主義的で、難民や書類のない人たちの境遇を思いやることができないなどと信じたくはない。私は、教会員・教区員たちに神が求める種類の正義を教えることを怠ったキリスト教指導者たちに非難を向ける。

正義のための働きは、全ての人類は神の子であり、神のうちにあって生き、存在しているのだという神学に根ざしている。(使徒の働き17:28-29)全ての人間に価値と尊厳がある。神は世界全体を愛しており、その片隅のみを愛しておられるのではない。私は、イエスが教えたように、異なる人種や宗教に属する者であろうと、私の兄弟、姉妹の番をする者だ。(ルカ10:29-37)全ての人に価値と尊厳があるということを根拠に、イエスはあなたを痛めつけるために出てきた者を愛しなさいとまで教えている。(ルカ6:27-36)キリスト教奉仕者たちや指導者たちから何を教わっていようと、今こそもっと多くのキリスト教徒が正義を行う責任に目覚め、彼ら自身を否んで、十字架を背負い、そして苦しむ難民と移民たちの列に加わるためにイエスに従うべきだ。そして、彼らに助けと希望を与え、大統領、議会、州の立法者たち、そして神の「小さな者」に背を向けるような権力者全てに力強く対抗すべきだ。

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過激プログレッシブ・キリスト教の志を同じくする同僚が書いた論説のこの一文が、Corey博士はいたくお気に入りのようです。
「誰も過剰なパンを持たず、またパンがないという状態に誰もならないためにシステムを変え」る。

スンバラシー!まさに理想社会!

あれ?・・・・でも、これって、もうマルクス、レーニン、カストロ、毛沢東、その他たくさんの賢い人たちがもう試してますよね。

そして全員無残な失敗をして、膨大な数の人間が死にしましたよね?

これを試した国で、経済が発展し、文化が花開き、人々が自由を享受している国って、ひとつもありませんよね。ひとつも。本当にひとつも、です。

どうしたわけか、経済が最も強く、最も多様な文化があり、最も人々が自由な国って、決まって「資本主義」の国ですよね。

でも、このQueen牧師、おそらくCorey博士もでしょうが、「誰かが勝ち組になる一方で誰かが負け組みになる」というシステムを作り出す資本主義というものを、自分たちもその中で生きており自分たちも共犯なのだという拭いがたい罪悪感とともに眺めているようです。

そしてはるかなる理想社会・共産主義への憧れを心に抱いているのでしょう。

まだ頭の中はセーシュン時代にいるのね、きっと。

それ自体は、筆者も若い頃心当たりがあるので、まあ理解できなくはありません。(でもねえ中年に差し掛かってからそんなことを言っているのはちょっと・・・クスクスッ・・・)

あれ・・・!ちょっと待った!

Corey博士はもちろん、Queen牧師も「世界中の難民移民無制限受入政策」を提唱してるんです。

ちなみに、共産中国もソ連もキューバも、さすがにそこまで無茶なことはしていません!(まあ、そもそも移住したいって人もたいして多くはないと思いますが。)

だから、彼らが理想とする社会は、ただ「共産主義」なのではなく「完璧な富の再分配」に加えて「全世界難民移民無制限受入」の二本立てなのです。

まあ、ぶっちゃけ、「アメリカ社会の全ての富を国内の貧困層は勿論、世界中の貧困層に大盤振る舞い!余計な小金を持っている人間がゼロになるまで!」ということにほかなりません。


もしQueen牧師やCorey博士のこういった願望が実現したら、アメリカは長らく歴史に残るでしょう。ドイツに並ぶ世界一愚かな国として。

国境をオープンにし、出入りを自由にし、世界中から移民難民を受け入れ、そして「誰も過剰にパンを持たずまた誰もパンがないという状態がない」システムを施行したら・・・

皆が涙を流して喜び、愛が満ち溢れ、人種宗教を問わず皆が手を取り合ってより良い明日に向かって歩む美しい世界が出来上がる?

・・・というのはQueen 牧師やCorey博士の頭の中だけでしょう。

現実はたぶんこうです。

「倉庫を開けろ!もっと隠してるだろう!」

「金庫を開けろ!金を出せ!」

「ワアアアアア!」

「あったぞ!食料だ!」

「おい、これ持てるだけ持っていこうぜ!」

「金持ちから剥ぎ取って貧しい者に与えろ!」

「革命だ!」「革命だ!」

筆者は、こちらのほうが正直な人間の姿だと思います。

富の再分配は大事なことです。しかし分配するだけじゃ社会は成り立ちません。

そして富っていうものは働く人が長年働きつづけなければ蓄積されません。

そして政治が働く自国民をあまりにも軽蔑し外国人にばかり尽くし続けていたら、モラルが低下するか、あるいは急激な排外主義が台頭するか、いずれにせよいつか必ずシッペ返しが来ます。

しかも、世界中の難民移民を受け入れることにより最もワリを喰うのは、国内の貧困層労働者たちです。労働市場でも競合し、また社会福祉を受ける側としてもパイの奪い合いになるからです。

自国民のうちもっと尊敬を受けるべき人やもっと憐れみに値する人をないがしろにして、とにかく世界中の人間を救えというのです。こんなムチャな話はありません。

まあ政治の込み入った話は本ブログの本旨から外れますのでこのくらいにしておきますが・・・

ともあれ、過激プログレッシブ・キリスト教教師の本分がここで明らかになったようです。

彼らは、自分たちの力で理想の世界を作ろうとします。

そのためには、個人個人ができる範囲の善行をするだけでは到底足りません。

だから、「システムを変える」ことが何としてでも必要です。

ようするに政治権力を得なければ彼らの目的は達成されないのです。

従って彼らの運動を妨げる者は、大統領、議会、州の立法者たち、たとえ何であろうと不倶戴天の敵です。

ここまでは、しかし、上で挙げたような国々で見たような光景です。

でもそのイデオロギーを神の名によって裏打ちするところが、筆者の背筋を寒くさせるのです。

ハッキリ言って、これは宗教でも魂の救いでも何でもありません。

古代神権政治への回帰となつかしの共産主義とが合わさった、いや、それ以上の、ひどくひどくおぞましい何ものかです。

「今こそもっと多くのキリスト教徒が正義を行う責任に目覚め、彼ら自身を否んで、十字架を背負い、そして苦しむ難民と移民たちの列に加わるためにイエスに従うべきだ。」

なるほど聖書には確かに「善行をしなさい」とあります。

でも、「あなたの同国民にも善行を『強制』しろ」とあるでしょうか?

聖書には確かに「貧しい者に施しなさい」とあります。

でも、「あなたの同国民の財布をこじ開けて施しをさせよ」とあるでしょうか?

善行は、各キリスト教徒が、聖書のメッセージを個人的に受け取り、各人が良心に照らして判断し、できる範囲で実行すればよい。

なのに、指導者が自ら神の立場に立ちキリスト教徒が一律にとるべき行動を規定してしまっている。

そうして、1000万人以上の不法移民の受け入れ、テロやイスラム法押し付けや犯罪の可能性の高いムスリム難民の受け入れという苦しい重荷を負うこと、それがイエスに従うということだ、十字架を背負うということだ、と、生活・治安上の不安に怯える市井のキリスト教徒たちに強制しているのです。

しかも、その影響やリスクは、キリスト教徒アメリカ人のみならず、あらゆる仏教徒、ヒンドゥー教徒、シーク教徒など、宗派宗門を問わないあらゆる非キリスト教徒、あるいは宗教を持たないアメリカ国民にも及ぶということも見落とされています。

世界を救うという自分たちの目的を実現するために、キリスト教徒同国人を、果ては非キリスト教徒の同国人さえも犠牲として捧げようというのです。

いったいこれのどこが愛の教えなのでしょうか。

これこそ21世紀の律法主義、いやもっと言えばカルトの教えにほかならないと筆者は思います。

こんな指導者はプログレッシブの中でも例外的な少数派であってほしい、と筆者は切に願います。

おまけ。キリスト教徒の方向け:Queen 牧師の議論を解体する5つの事実

1. 旧約聖書の律法は現代のキリスト教徒には適用されない
プログレッシブキリスト教においては、例えば性倫理に関する規定などでレビ記18章などの律法を持ち出す保守派キリスト教徒に対し「キミはモーセの他の律法を守ってもいないのに、そこだけ取り出して人に押し付けるのはおかしい」といった批判がなされる。

ならば同様に、モーセの律法を根拠に移民・難民の受入を他人に強制するのは間違っている。貧者への施し自体は聖書的な原則のひとつだが、律法からそれを引き出すのはキリスト教ではない。(参考:エルサレム会議。使徒15章etc.)

2. そもそも律法では、移民・難民も同一の律法を遵守することが求められる
「いや、確かに適用はされないが、それでも原則は今でも変らない!」と抗弁する人もいるだろう。

だが、律法ではそもそも神権政治国家を想定しており、在留異国人も同じ律法を学ばなければならず同じ律法が適用される(レビ24:16、申命記31:12、民数15:16等)。律法は他の神への礼拝を認めていない。これこそが重要な原則である。

従って、受け入れた移民に社会福祉を給付しつつ彼らの持ち込んだ宗教(たとえばイスラム)を自由に実践させる現代のモデルは律法の趣旨ではない。彼らも同じ神[ヤハウェ]を恐れなければならず、その神を冒涜する者は石で撃ち殺された。つまり「多文化・多宗教主義」ではなく厳格な「統合主義」であり、統合できない者は容赦なく弾き出すことが想定されていたといえる。

もしも律法を根拠に自国民に対して移民難民歓迎を強制するなら、移民難民にも律法の遵守を強制しなければ筋が通らない。自国民にだけ律法の重荷を負わせ、移民難民は免除するというのは奇妙なマゾヒズムでしかない。

3. 律法では「貧しい者をかたよって庇う」ことが禁じられている
「それでも律法の原則がぁ~・・・」という人がまだいるかもしれない。

だが、レビ記の19:15「さばきをするとき、不正を行ってはならない。貧しい者を片よってかばい、力ある者を曲げて助けてはならない。」を見てみよう。

ここから見て取れるとおり、旧約聖書の「司法」(justice)とは貧しい者の要求をただただ言われるまま満たすというものとは違う。

あくまで正義を行うことが求められる。貧しい者への慈善は奨励はされていても、余剰のパンを持つ者から全て剥ぎ取って貧しい者に分配することなど規定してさえいない。

(いずれにせよ、現代のように、ただただ良い暮らしをしたいがために移住先を「ショッピング」したり、労働できるのに労働せず福祉だけを要求する「ナンミン」が当時いたかどうか・・・おそらくはいなかっただろうし、それゆえ想定もされていなかっただろう。ただ、彼らの要求を全て受け入れるのが「正義」かといえばおおいに疑問が生じることであろう。)

4.  ルカ4章で引用されているイザヤ61章の聖句は社会正義のことではない

Queen牧師が確かに指摘したとおり、ルカ4章ではイザヤ61章の一部が引用され、メシア(キリスト)の働きには、表面的に見れば「社会正義」アジェンダのようなものが含まれることが見てとれる。

しかし、イザヤ61章の該当部分の全体を見ると、違う絵が見えてくる。


主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年とわれわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる。


彼らはいにしえの荒れた所を建てなおし、さきに荒れすたれた所を興し、荒れた町々を新たにし、世々すたれた所を再び建てる外国人は立ってあなたがたの群れを飼い異邦人はあなたがたの畑を耕す者となり、ぶどうを作る者となるしかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神の役者と呼ばれ、もろもろの国の富を食べ、彼らの宝を得て喜ぶ。あなたがたは、さきに受けた恥にかえて、二倍の賜物を受け、はずかしめにかえて、その嗣業を得て楽しむ。それゆえ、あなたがたはその地にあって、二倍の賜物を獲、とこしえの喜びを得る。

イエスが引用したのはごく一部で、他の半分ほどは無視されているのがわかる。

(特に「外国人」「異邦人」に関する強調部分が、ソーシャルジャスティスとはあまりフィットしない記述であるのが非常に興味深い。)

これはなぜか。

理由は、イザヤ61章は確かにメシアの到来を予言したものなのだが、イエスはこのときメシアの働きの一部を成就したに過ぎないからだ。

メシアの降臨の大きな目的のひとつはイスラエルの家の失われた羊を救うことであった。(マタイ10:6、15:23。)

そのようにしてイエスは、初臨の際に福音を宣教し、十字架にかかって罪を贖うことを通じて、律法の重荷に苦しんでいる者、罪の奴隷となっている者を救い出した。

もちろん、それが異邦人にも伝えられることによって異邦人信者にも霊的祝福が分け与えられたのは間違いない。

だが、全体の文脈を読めば、これがイスラエル王国の再興(千年王国)に関する預言であることは明らかである。(それは再臨の後成就する。もし初臨の預言が文字通り成就するなら再臨の預言も文字通り成就するはずだからだ。)

従って、この前半部分は全世界的な「ソーシャルジャスティス」に関する預言では全くない。むしろ、イエスが気にかけていた「イスラエルの家の失われた羊」の霊的救済に主眼を置いた預言であると言える。

もちろん、イエスのもたらした恵みを強調する伝道説教のためにルカから引用してこの節を使うのはよいことであるし、貧者救済の重要性をなんら否定する必要もないが、これを根拠にいわゆる「ソーシャルジャスティス」アジェンダの支持を他者に強制するのはやりすぎである。

5. キリスト教草創期のローマ帝国は稀有な平和時代だったが、やがて移民によって打撃を受け、その後はイスラムによって長い間苦しめられた

「敵を愛し迫害する者のために祈れ」といった箇所や善きサマリア人のたとえを持ち出すことで、移民難民の受入に難渋を示すキリスト教徒を責める人は数多い。しかし、この時代はパクス・ロマーナという稀有な時代であったことに留意する必要がある。

キリスト教徒の「敵」といえば、ユダヤ教指導層とローマ帝国だった。イエスは彼らに対して実力では逆らわないということを説いたが、その結果として数世紀のうちにキリスト教がローマ帝国を席巻してしまった。

ただイエスを信じているというだけで弾圧するローマ帝国により黙って処刑されたキリスト教徒たちの証は、多くの人たちを改宗させた。(処刑を執行する兵士がその任の途中で改宗し処刑されたという言い伝えもある。) これが「敵を愛し迫害する者のために祈る」ことの究極の実践であった。

しかし、仮定の話として、もしもローマ帝国が強力な外敵の脅威に晒されており、キリスト教徒たちがその外敵を嬉々として国内に受けいれるいっぽう、その外敵を排除しようとするローマ帝国指導層を糾弾したら、どうなったであろうか。

社会転覆を図る単なる反乱勢力の一派とみなされ、支持を得られず根絶やしにされたのではないか。

またその後、ローマ帝国はゴート族という民族勢力が大量流入し、紛争と大きな社会変動に見舞われ脆弱化した。

そして東西ローマ帝国に分裂。さらにイスラムの勃興により、イタリア、フランスなどは1000年間ほどもイスラム海賊の襲撃に悩まされ、スペインは一時期イスラム化された。(遠くはアイスランドの教会にさえも「サラセン人から我らをお守りください」といった祈祷文が残っている。)

「外敵を呼び込み、味方を糾弾する」のが真正なキリスト教であったとしたら、このときキリスト教徒は一切の防御や抵抗をせず、むしろイスラム勢力に進んで自らを明け渡すべきであったということになる。

つまり、言い換えれば、イスラムの侵攻を耐え抜いてキリスト教がこんにち現存しているのは、過激プログレッシブ・キリスト教がその当時は存在していなかったおかげである、とも言える。
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