「理論」というものの破壊力:同性婚からポリアモリーへ
最近ツイートした話題ですが、
LGBTクリスチャンを名乗るある方が主宰する「約束の虹ミニストリー」という集会では、「セクシャリティとキリスト教の問題」について話し合う勉強会的活動をしているそうですが、
このほど「ポリアモリー*」を取り上げることにしたそうです。
*双方合意の上で一度に複数の相手と関係を持つこと。
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約束の虹ミニストリーのブログ 教会でありのままのセクシャリティが出せなくてつらいクリスチャンや、教会に行ってみたい・聖書を読んでみたいけど、キリスト教って同性愛禁止なの?
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米国では、すでに「ポリアモリーは三位一体と同じ」と主張するバプティスト派のJeff Hood 博士という牧師をはじめ、キリスト教界内部でポリアモリーを支持する議論が展開されています。
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<プログレッシブ・キリスト教神学に応答する(3) 「婚前交渉は罪ではない」by リベラル牧師&進歩主義信徒; プログレッシブ・キリスト教神学に応答する(5) さらなる最新成果:古代異教崇拝への回帰>
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既に米国におけるこのような展開を観察してきていたので、私は「約束・・・」がポリアモリーを取り上げたことについてはさほど驚きませんでしたが、それでも「とうとうきたな・・・」という感慨はありました。
この「約束・・・」ではかねてから同性婚の法制化について推進の意見を表明しており、
そのブログ投稿内容では随所に「性的指向(嗜好)にかかわらず人と人が愛し合う関係は全て尊い、祝福されるべき」といった信念がうかがえますので、
当然ながらポリアモリーも一種の性的指向の発露であるから「むげに批判したり排除するのは良くない」といった結論になるのは、まあよくある成り行きです。
そして、それらのことを記述する文体には、何か後ろ暗い欲望の実現を企図したものというより、爽やかで温かみのようなニュアンスさえ感じられます。・・・それが、かえって、モノスゴクこわい、と私は思ってますが。
「理論」の行き着く先
私はかねてから同性婚推進運動はSlippy slope、滑りやすい斜面であり、決してそれだけでは終わらない、つづくものが必ず来る、
そして、その筆頭にあるのがポリアモリーに違いない、と考えていました。
同性婚推進運動では、「性的指向(嗜好)によって人をサベツしてはいけない!」という主張が全ての理論の大前提になっています。
なので、「異性愛」という指向(嗜好)に基づいた結婚制度と、並列して、「同性愛」という指向(嗜好)に基づいた結婚制度を設定する必要を説くことになります。そうでないと「サベツ」になるからです。
するといっぽうで、「なぬ?性的指向(嗜好)に基づくサベツはいけない、ということであれば、では動物に惹かれる、幼児・子供に惹かれるといった性的指向(嗜好)も認めろというのか、そんなことをしたらメチャクチャになるぞ!」という反発の声が出てきますが、(日本でいえば自民党のS議員が有名なところです)
これについて、同性婚を推進する人たちは「動物性愛 → 動物虐待だから禁止」「児童性愛 → 幼児虐待だから禁止」という理論が成り立つので大丈夫だ、と、請合ってくれています。
ところがです。「一度に複数の人に惹かれる性的指向(嗜好)」はどうでしょうか?
これについては、もしも相手が合意していたら「被虐待者」がいないため、誰も傷ついていない、だから認めてよいのだ、という展開になりませんか?
「誰も傷ついていない」「愛し合っている」→「だから問題ない」
となってしまうのです。
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3人の子を抱えるシングルマザーが合流、9人家族に…収入は失業手当のみ
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日本でポリアモリー婚を実践する家庭を取材したAbema TIMESの記事。夫婦に、2人の子供たち、妻の恋人、さらに3人の子をもつシングルマザーが加わって同居した。夫婦の子の幼稚園の入園式には全員で出席したという。だが、妻の恋人はある日突然家を出た。次いでシングルマザーも。夫婦の夫は現在「新しいメンバー」を募集しているというが、「自分たちの都合のいいように家族を組み替えているだけではないか」といった意見も寄せられたという。しかし、そのたびに家庭環境が激変することが子供たちにどう影響するかを論じる意見は記事では聞かれない。
日本キリスト教界は率先して婚姻規範を破壊していく?
さらに、私が奇妙な印象を抱いているのは、西洋社会と日本社会におけるこれらの運動の展開の速さの違いです。
米国、英国、欧州等の西洋社会においては、まず教会外の社会で、同棲、離婚、不倫、同性愛行為等が増えたため、聖書から離れて証の力を失っていた教会がズルズルとそれらを認めていったという印象が私にはあります。
上記の拙ブログ過去記事で引用したポリアモリー支持の議論も、まさにその典型的パターンです。「社会にはポリアモリーをやっている人がいるから教会は受け入れる必要がある」という単純な理論です。
(ただ米国に限っていえば、昨今の日本の偏向メディアによってすっかり悪者にされた感のある「保守福音派」が、頑固に「結婚は男女のものである」という立場に立っており、未だかなりの存在感を発揮していますが。)
ところが、日本社会においては「教会外の社会」と「教会内」でほぼ同時に変化が起こっている、
いや、もしかすると「教会の方から先に変化している」というふうにさえ見えます。
これは、キリスト教界の中に、海外の神学校で学んだり、語学に堪能、あるいは向学心のある人たちがいて、悪意はなくとも日本にはない西洋のトレンドをいち早く取り入れようとする、といった日本独特の事情もあるでしょう。
また、「サベツはいけない!」「人を愛するのに良い悪いはない!」とかいった誰にでもわかりやすい主張が、きわめてありがちな(表面的で粗略な)聖書解釈における「愛」のメッセージと親和性が高いのと、
クリスチャンは「あなたは本当に『弱者』を愛していますか?」といった論調に弱い、といった要素もあるかも知れません。
ともあれ、日本の場合、政治家や企業家、あるいは学者といった人たちも、私生活はどうかわかりませんが、公的に「同性愛者」であることを明らかにしている人たちはきわめて少数です。
(そもそも性的指向(嗜好)とその人の職業人としての能力は一切関係ないというスタンスをとる人が多いからでしょうけど。)
ところがキリスト教界となると、わずか1%の人口層に比して、その「変化」の進展はむしろ教会外より早いような気さえします。
大手の日基は既に複数のオープンリーゲイ教職者を叙任していますし、
バプ連はどうしたわけかあのS議員の雑誌寄稿について怒りのにじみ出た?抗議文を発表しました。(それって教団のシゴト?)
www.bapren.jp
20180815 杉田水脈議員の雑誌寄稿による性的少数者差別に抗議し、差別の撤廃に誠実に取り組むことを求めます。
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いっぽう聖公会はトランスジェンダーの教職者を擁していますし、
ルーテル教会にも、今は故人ですが、やはりトランスジェンダーの牧師が在籍していました。(尾辻かな子議員の同性結婚式を司式したとか・・・・)
で、私としては、ゲイ、トランスジェンダーといった属性を持つ人たちが教職者をしている、という事実よりもむしろ、
そのような属性のもと、これらの教職者たちが、あきらかに同性婚や社会変革の推進という政治的立場をとっており、場合によってはそのような教えを会衆に対して行っている
ということに注目しています。
早い話が、会衆を牧介しているというより、活動家をしながら牧師をしているのと同じです。そして、多くのメジャー教団は、もともと左翼的な思想に染まっているからなのか、これらの教職者を是認、あるいは積極的に支持しているように思えます。
そうすると、私は、上述した「理論」の延長でもって堂々とポリアモリーを支持する牧師が日本キリスト教界から出てくるのはそう遠い将来のことではないかもしれないと、思うのです。
lgbter.jp
平良 愛香 / Aika Taira. 1968年、沖縄県生まれ。2003年より、神奈川・相模原「日本キリスト教団三・一(さんいつ)教会」にて主任牧師を務める。
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「セクシュアル・マイノリティにかぎらず、日本には結婚して一人前とするようなパートナー絶対主義が存在すると思うんです。同性パートナーシップ条例についても、『パートナーシップを大切にする同性愛者だけを尊重する』というようなことになりはしないか」
↑「ゲイ牧師」、平良愛香師のコメント。しかし、この意味するところは『パートナーシップを大切にしない同性愛者』、つまり『パートナーを頻繁に変える、一度に複数と関係する』といった習癖を持つ同性愛者も尊重されるようにすべき、ということだろうか?個人的なギモンだが・・・
「性的指向(嗜好)+反サベツ」理論の過ち
私自身は、婚姻と性というものを「性的指向(嗜好)」と「反サベツ」の理論で粗雑に取り扱うのはとんでもない過ちに向かう道筋だと思っています。
「性的指向(嗜好)」などというものは、そもそも「肉的」なもので
(↑あ、クリスチャン用語です、ノンクリスチャンの皆さん、申し訳ありません・・(汗))
すなわち、それは食欲や睡眠欲と同じ、人間の生存のためにうまく備えられたものではありますが、その反面、じつに気まぐれでアテにはならないものです。
もちろん、誰かに惹かれる、ということが一義的に悪ということでは決してありませんが、
人間関係の形成や発展を「性的指向(嗜好)」のみを基準に考えていくということは、きわめて問題があります。
それは、自分で自分の肉体の要求をコントロールするのではなく「自分が自分の肉体の奴隷」となり、それによって周囲の人間関係をも定義する、ということにほかなりません。
結婚については、聖書には「創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。それゆえ、人はその父と母を離れて、ふたりの者が一心同体になるのです。」(マルコによる福音書10:6-8) とあります。
この解釈には色々あるでしょうが、まず何よりも、男女の一組が一心同体として互いに責任を負いあわないといけません。(イエスは離婚には極めて否定的です。)
この「責任を負う」ということは、じつに「性的指向(嗜好)」を遥かに超えた遠大かつ根気のいる作業なのです!
もし夫婦が互いに性的に惹かれあうならば、その関係はおおいに祝福され、もしかすると子供にも恵まれることとなりましょうが、
「性的に惹かれる」ことだけを共にいる動機としていたならば、もはや責任を全うすることはしなくなるでしょう。
(上記のAbema TIMESで取材されたポリアモリー家庭がいとも簡単に崩壊したことに見るとおりです。そこには何の「責任」という概念もありません。)
聖書が定めた結婚は、男女両性がそれぞれ相手への責任を全うする、という決断を求めるものですが(エペソ人への手紙5:22-25参照)、対照的に「性的指向(嗜好)」を基準にした場合は、自らの決断やコントロールより「惹かれるかどうか」ということだけが中心となるので、次第におかしなことになるのは必定です。
ちなみに、「同性どうしだって責任ある関係を築ける!」という人もいるかも知れません。
しかし、それならば「兄弟」としてあるいは「姉妹」として、肉体関係なしに相手を支えればいいというだけの話です(クリスチャンの場合です。少なくとももし自分の教会員の場合なら、私ならそう助言します。ノンクリスチャンの場合その私生活に口出しはしませんが・・・)。
いずれにせよ、なぜそれを男女の結婚と同じ「結婚」と位置づける必要があるのでしょうか?
ましてや、男性間の場合は、性的関係が深刻な健康への影響を及ぼす可能性があることは既に立証されています。
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旧ブログタイトルは「日本ではほとんど報じられない海外クリスチャン事情」です。
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それなのに、どうやって相手への「愛」「責任」を全うしようというのか、不思議でなりません。
この「性的指向(嗜好)」に動機づけられた関係を「結婚」と称する動きの裏には、単に、「異性婚と対応するモノガミー的同性婚」を確立させよう、とする目的にとどまらず、
そもそも「モノガミーでない性的関係」をノーマライズしようとする動機が強く働いている、と私は確信しています。
だから私は危惧するのです。
想像してみましょう。もし日本人の牧師や教職者が、堂々と
「一度に複数の人と関係を持つことは決して罪ではありません。」
「聖書には『互いに愛し合いなさい』とあります。ポリアモリーはその実践なのです」
と教え始めたら?
次第に暗闇に向かうこの世界の中で、日本のキリスト教界は、セキュラーの世界よりも、なお早い速度で暗闇に落ちていくのでしょうか?
それとも、キリスト教界が最後の灯火、地の腐敗を遅らせる地の塩、となれるのでしょうか?
それは、信徒ひとりひとり、教職者ひとりひとりがいかに聖書に堅くつくか、にかかっていると私は思います。