2018年10月

「理論」というものの破壊力:同性婚からポリアモリーへ

最近ツイートした話題ですが、

LGBTクリスチャンを名乗るある方が主宰する「約束の虹ミニストリー」という集会では、「セクシャリティとキリスト教の問題」について話し合う勉強会的活動をしているそうですが、

このほど「ポリアモリー*」を取り上げることにしたそうです。

*双方合意の上で一度に複数の相手と関係を持つこと。
ameblo.jp
約束の虹ミニストリーのブログ 教会でありのままのセクシャリティが出せなくてつらいクリスチャンや、教会に行ってみたい・聖書を読んでみたいけど、キリスト教って同性愛禁止なの?
米国では、すでに「ポリアモリーは三位一体と同じ」と主張するバプティスト派のJeff Hood 博士という牧師をはじめ、キリスト教界内部でポリアモリーを支持する議論が展開されています。
blogs.yahoo.co.jp
<プログレッシブ・キリスト教神学に応答する(3) 「婚前交渉は罪ではない」by リベラル牧師&進歩主義信徒; プログレッシブ・キリスト教神学に応答する(5) さらなる最新成果:古代異教崇拝への回帰>
既に米国におけるこのような展開を観察してきていたので、私は「約束・・・」がポリアモリーを取り上げたことについてはさほど驚きませんでしたが、それでも「とうとうきたな・・・」という感慨はありました。

この「約束・・・」ではかねてから同性婚の法制化について推進の意見を表明しており、

そのブログ投稿内容では随所に「性的指向(嗜好)にかかわらず人と人が愛し合う関係は全て尊い、祝福されるべき」といった信念がうかがえますので、

当然ながらポリアモリーも一種の性的指向の発露であるから「むげに批判したり排除するのは良くない」といった結論になるのは、まあよくある成り行きです。

そして、それらのことを記述する文体には、何か後ろ暗い欲望の実現を企図したものというより、爽やかで温かみのようなニュアンスさえ感じられます。・・・それが、かえって、モノスゴクこわい、と私は思ってますが

「理論」の行き着く先

私はかねてから同性婚推進運動はSlippy slope、滑りやすい斜面であり、決してそれだけでは終わらない、つづくものが必ず来る、

そして、その筆頭にあるのがポリアモリーに違いない、と考えていました。

同性婚推進運動では、「性的指向(嗜好)によって人をサベツしてはいけない!」という主張が全ての理論の大前提になっています。

なので、「異性愛」という指向(嗜好)に基づいた結婚制度と、並列して、「同性愛」という指向(嗜好)に基づいた結婚制度を設定する必要を説くことになります。そうでないと「サベツ」になるからです。

するといっぽうで、「なぬ?性的指向(嗜好)に基づくサベツはいけない、ということであれば、では動物に惹かれる、幼児・子供に惹かれるといった性的指向(嗜好)も認めろというのか、そんなことをしたらメチャクチャになるぞ!」という反発の声が出てきますが、(日本でいえば自民党のS議員が有名なところです)

これについて、同性婚を推進する人たちは「動物性愛 → 動物虐待だから禁止」「児童性愛 → 幼児虐待だから禁止」という理論が成り立つので大丈夫だ、と、請合ってくれています。

ところがです。「一度に複数の人に惹かれる性的指向(嗜好)」はどうでしょうか?

これについては、もしも相手が合意していたら「被虐待者」がいないため、誰も傷ついていない、だから認めてよいのだ、という展開になりませんか?

「誰も傷ついていない」「愛し合っている」→「だから問題ない」

となってしまうのです。
headlines.yahoo.co.jp
3人の子を抱えるシングルマザーが合流、9人家族に…収入は失業手当のみ


日本でポリアモリー婚を実践する家庭を取材したAbema TIMESの記事。夫婦に、2人の子供たち、妻の恋人、さらに3人の子をもつシングルマザーが加わって同居した。夫婦の子の幼稚園の入園式には全員で出席したという。だが、妻の恋人はある日突然家を出た。次いでシングルマザーも。夫婦の夫は現在「新しいメンバー」を募集しているというが、「自分たちの都合のいいように家族を組み替えているだけではないか」といった意見も寄せられたという。しかし、そのたびに家庭環境が激変することが子供たちにどう影響するかを論じる意見は記事では聞かれない。

日本キリスト教界は率先して婚姻規範を破壊していく?

さらに、私が奇妙な印象を抱いているのは、西洋社会と日本社会におけるこれらの運動の展開の速さの違いです。

米国、英国、欧州等の西洋社会においては、まず教会外の社会で、同棲、離婚、不倫、同性愛行為等が増えたため、聖書から離れて証の力を失っていた教会がズルズルとそれらを認めていったという印象が私にはあります。

上記の拙ブログ過去記事で引用したポリアモリー支持の議論も、まさにその典型的パターンです。「社会にはポリアモリーをやっている人がいるから教会は受け入れる必要がある」という単純な理論です。

(ただ米国に限っていえば、昨今の日本の偏向メディアによってすっかり悪者にされた感のある「保守福音派」が、頑固に「結婚は男女のものである」という立場に立っており、未だかなりの存在感を発揮していますが。)

ところが、日本社会においては「教会外の社会」と「教会内」でほぼ同時に変化が起こっている、

いや、もしかすると「教会の方から先に変化している」というふうにさえ見えます。

これは、キリスト教界の中に、海外の神学校で学んだり、語学に堪能、あるいは向学心のある人たちがいて、悪意はなくとも日本にはない西洋のトレンドをいち早く取り入れようとする、といった日本独特の事情もあるでしょう。

また、「サベツはいけない!」「人を愛するのに良い悪いはない!」とかいった誰にでもわかりやすい主張が、きわめてありがちな(表面的で粗略な)聖書解釈における「愛」のメッセージと親和性が高いのと、

クリスチャンは「あなたは本当に『弱者』を愛していますか?」といった論調に弱い、といった要素もあるかも知れません。

ともあれ、日本の場合、政治家や企業家、あるいは学者といった人たちも、私生活はどうかわかりませんが、公的に「同性愛者」であることを明らかにしている人たちはきわめて少数です。

(そもそも性的指向(嗜好)とその人の職業人としての能力は一切関係ないというスタンスをとる人が多いからでしょうけど。)

ところがキリスト教界となると、わずか1%の人口層に比して、その「変化」の進展はむしろ教会外より早いような気さえします。

大手の日基は既に複数のオープンリーゲイ教職者を叙任していますし、

バプ連はどうしたわけかあのS議員の雑誌寄稿について怒りのにじみ出た?抗議文を発表しました。(それって教団のシゴト?)
www.bapren.jp
20180815 杉田水脈議員の雑誌寄稿による性的少数者差別に抗議し、差別の撤廃に誠実に取り組むことを求めます。
いっぽう聖公会はトランスジェンダーの教職者を擁していますし、

ルーテル教会にも、今は故人ですが、やはりトランスジェンダーの牧師が在籍していました。(尾辻かな子議員の同性結婚式を司式したとか・・・・)

で、私としては、ゲイ、トランスジェンダーといった属性を持つ人たちが教職者をしている、という事実よりもむしろ、

そのような属性のもと、これらの教職者たちが、あきらかに同性婚や社会変革の推進という政治的立場をとっており、場合によってはそのような教えを会衆に対して行っている

ということに注目しています。

早い話が、会衆を牧介しているというより、活動家をしながら牧師をしているのと同じです。そして、多くのメジャー教団は、もともと左翼的な思想に染まっているからなのか、これらの教職者を是認、あるいは積極的に支持しているように思えます。

そうすると、私は、上述した「理論」の延長でもって堂々とポリアモリーを支持する牧師が日本キリスト教界から出てくるのはそう遠い将来のことではないかもしれないと、思うのです。

lgbter.jp
平良 愛香 / Aika Taira. 1968年、沖縄県生まれ。2003年より、神奈川・相模原「日本キリスト教団三・一(さんいつ)教会」にて主任牧師を務める。
「セクシュアル・マイノリティにかぎらず、日本には結婚して一人前とするようなパートナー絶対主義が存在すると思うんです。同性パートナーシップ条例についても、『パートナーシップを大切にする同性愛者だけを尊重する』というようなことになりはしないか」

↑「ゲイ牧師」、平良愛香師のコメント。しかし、この意味するところは『パートナーシップを大切にしない同性愛者』、つまり『パートナーを頻繁に変える、一度に複数と関係する』といった習癖を持つ同性愛者も尊重されるようにすべき、ということだろうか?個人的なギモンだが・・・

「性的指向(嗜好)+反サベツ」理論の過ち

私自身は、婚姻と性というものを「性的指向(嗜好)」と「反サベツ」の理論で粗雑に取り扱うのはとんでもない過ちに向かう道筋だと思っています。

「性的指向(嗜好)」などというものは、そもそも「肉的」なもので

(↑あ、クリスチャン用語です、ノンクリスチャンの皆さん、申し訳ありません・・(汗))

すなわち、それは食欲や睡眠欲と同じ、人間の生存のためにうまく備えられたものではありますが、その反面、じつに気まぐれでアテにはならないものです。

もちろん、誰かに惹かれる、ということが一義的に悪ということでは決してありませんが、

人間関係の形成や発展を「性的指向(嗜好)」のみを基準に考えていくということは、きわめて問題があります。

それは、自分で自分の肉体の要求をコントロールするのではなく「自分が自分の肉体の奴隷」となり、それによって周囲の人間関係をも定義する、ということにほかなりません。

結婚については、聖書には「創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。それゆえ、人はその父と母を離れて、ふたりの者が一心同体になるのです。」(マルコによる福音書10:6-8) とあります。

この解釈には色々あるでしょうが、まず何よりも、男女の一組が一心同体として互いに責任を負いあわないといけません。(イエスは離婚には極めて否定的です。)

この「責任を負う」ということは、じつに「性的指向(嗜好)」を遥かに超えた遠大かつ根気のいる作業なのです!

もし夫婦が互いに性的に惹かれあうならば、その関係はおおいに祝福され、もしかすると子供にも恵まれることとなりましょうが、

「性的に惹かれる」ことだけを共にいる動機としていたならば、もはや責任を全うすることはしなくなるでしょう。

(上記のAbema TIMESで取材されたポリアモリー家庭がいとも簡単に崩壊したことに見るとおりです。そこには何の「責任」という概念もありません。)

聖書が定めた結婚は、男女両性がそれぞれ相手への責任を全うする、という決断を求めるものですが(エペソ人への手紙5:22-25参照)、対照的に「性的指向(嗜好)」を基準にした場合は、自らの決断やコントロールより「惹かれるかどうか」ということだけが中心となるので、次第におかしなことになるのは必定です。

ちなみに、「同性どうしだって責任ある関係を築ける!」という人もいるかも知れません。

しかし、それならば「兄弟」としてあるいは「姉妹」として、肉体関係なしに相手を支えればいいというだけの話です(クリスチャンの場合です。少なくとももし自分の教会員の場合なら、私ならそう助言します。ノンクリスチャンの場合その私生活に口出しはしませんが・・・)。

いずれにせよ、なぜそれを男女の結婚と同じ「結婚」と位置づける必要があるのでしょうか?

ましてや、男性間の場合は、性的関係が深刻な健康への影響を及ぼす可能性があることは既に立証されています。

blogs.yahoo.co.jp
旧ブログタイトルは「日本ではほとんど報じられない海外クリスチャン事情」です。


それなのに、どうやって相手への「愛」「責任」を全うしようというのか、不思議でなりません。

この「性的指向(嗜好)」に動機づけられた関係を「結婚」と称する動きの裏には、単に、「異性婚と対応するモノガミー的同性婚」を確立させよう、とする目的にとどまらず、

そもそも「モノガミーでない性的関係」をノーマライズしようとする動機が強く働いている、と私は確信しています。

だから私は危惧するのです。

想像してみましょう。もし日本人の牧師や教職者が、堂々と

「一度に複数の人と関係を持つことは決して罪ではありません。」

「聖書には『互いに愛し合いなさい』とあります。ポリアモリーはその実践なのです」

と教え始めたら?

次第に暗闇に向かうこの世界の中で、日本のキリスト教界は、セキュラーの世界よりも、なお早い速度で暗闇に落ちていくのでしょうか?

それとも、キリスト教界が最後の灯火、地の腐敗を遅らせる地の塩、となれるのでしょうか?

それは、信徒ひとりひとり、教職者ひとりひとりがいかに聖書に堅くつくか、にかかっていると私は思います。

「救い」について (7) 王の王・主の主

前回は、もうすぐ来るべき「獣の国」について私が知っていることおよび推測していることをざっと書きましたが、

今回はその指導者である「反キリスト」「獣」、あるいは「不法の人」についてもう少し、そしてそれを滅ぼす再臨のイエスに移りたいと思います。

ブログで一回で投稿できる文字数は限られていますし、私の筆力で、聖書にはじめて触れるかも知れないノンクリスチャンの方にも理解いただけるよう簡潔に説明できるかは心もとないですが、とにかく書いてみようと思います。

反キリスト登場の道備えとその支配手法

反キリストは、現在次第に変容しつつある先進諸国、およびその他多数の国々を卓越した政治手法で一つに纏め上げ、文字通り「獣の国」を作り上げ、そのトップに君臨します。

その反キリストの登場のための道備えが現在行われており、

その一環として、先進国では、国民にとってはわけがわからないまま、多様な民族背景や宗教を持つ人たちが互いを結ぶ紐帯もなにもないままに一つの地域に押し込められ隣り合って住まわされることが進行しています。

なお、よくこれらの現象について「グローバリスト」や「ジョージ・●ロス」といった言葉を挙げる人たちもいますが、私には専門外ですし、よく分かりません。

(余裕があれば調べたいとは思っていますが。)

私にはっきり分かるのは、ダニエル書2章にある4つ目の国が今まさに形成されようとしており、

それで本来は「決して団結できない」人たちが、「どろどろに混じり合」わされることが進行している、ということです。

(ちょうど、LGBTを包摂するリベラルとそれを毛嫌いするイスラムを共存させようとしているのが一例。)

「国民意識」や「国家アイデンティティ」といったものは、ある特定のグループをまとめ、団結させますが、このようなものを徹底的に解体する動きも広がるでしょう。

その結果、一つの国の住民たちの間で、憎しみ合い、争い合うことが劇的に増えるでしょう。「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません」とあるとおりです。

同時に、主権を持った各国の国民が自由な議論と選挙で政策を決定していくことが退潮していきます。

各国でこれが進めば進むほど、来るべき「獣の国」の力に抗うことができなくなります。

これでグダグダになった暁には、かつては権勢を誇った国々も、いとも簡単に獣の軍門に下るでしょう。

そんな中、彼の統治支配の強力なツールのひとつになるのが、「すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせ」そうしない者は「買うことも売ることもできなくする」(黙示録13:17)仕組みです。

これが実現するのは、キャッシュレス決済が極限まで進歩・普及した状態と考えられます。こうなれば、誰でも自分のアカウントが停止されれば終わりです。

そのようにして、一人の例外もなく反キリストへの礼拝が強制されます。

しかもその礼拝は、

だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう。」(黙示録13:4)

とあるとおり、愛や崇敬ではなく「力と恐怖」を背景にしたものです。

このような政策は、一人も逃さないよう、極限まで追求されるはずです。

「小さい者にも、大きい者にも」(13:16) 刻印を受けさせた、と黙示録にあるように、たとえ子供でさえも免除はされない、と考えられるからです。

(蛇足になりますが、一部西欧では「親の子に対する権威、いわゆる Parental authority 、Parental rights を徹底的に排除しようとする動きがあります。これもやはり「道備え」の一環であると私は見ています。親の管理や承認を飛び越えて、いきなり子供に礼拝を強制する、ということが反キリストのゴールである以上、それが達成されるためには、政府やそれに類する制度が「親の意向に関わらず子を統制できる」ような方向に社会全体が進んでいくはずです。)

そして「とりこになるべき者は、とりこにされて行く。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない」(13:10)とあるように、

反キリストに対する武力抵抗運動は警察あるいは軍事力によりことごとく粉砕されます。

反キリストの出自・個人的特徴

反キリストは、おそらく多重的なアイデンティティを持つ人物だと、宣教団体 Moriel Ministries 主宰の Jacob Prasch 師は主張しています。

(師はユダヤ系のルーツを持ち、ヘブル語とユダヤ教に詳しく、反キリストについて「Shadow of the Beast」という本を著しています。)
www.amazon.com
Shadows of the Beast - Kindle edition by James Jacob Prasch. Download it once and read it on your Kindle device, PC, phones or tablets. Use features like bookmarks, note taking and highlighting while reading Shadows of the Beast.


私はこの説をとても説得力があると思います。

前述したように、世界は、特に先進国諸国は、加速度的に「モザイク国家」化が進んでいきますが、

そのような中で広くポピュラリティを得るには、「米国出身白人プロテスタントキリスト教徒」、あるいは「中欧出身白人カトリックキリスト教徒」や「中東出身アラブ人イスラム教徒」といった属性では、なかなか難しくなってくるでしょう。

(ましてやアジア人仏教徒というのはもっと考えにくい)。

受け入れる人と反発する人の落差があるからです。

むしろ、たとえば一つの例として「血統的にはアラブ人だが出身地は欧州、宗教はイスラムだがリベラル思想やキリスト教にも理解・造詣が深い」とか、そういった人物像が考えられます。

そういう意味では、オバマ大統領の登場はとても興味深い現象でした。

無論私はオバマ大統領が反キリストとは全く思っていませんが、「血統的にはアフリカ人と白人のハーフ、出生はアメリカだが生育はインドネシア(イスラムの国)、宗教的にはプロテスタントキリスト教だが、思想的にはリベラルで、イスラムにも造詣が深くシンパシーも持っている」といったプロフィールは、ひろく各国の人口層に親しみを持たれたことでしょう。

繰り返しますが、オバマ大統領が反キリストというのではありません。

私が言いたいのは、もし反キリストが現れるとしたら、トランプ氏のように、「レッドネック?」にウケそうだがどこからどうみても特定の人口層(例:リベラル)からはモロ反発を買いそうな人物であるということはまずありえない、ということです。

死と復活

反キリストは、登場してからいずれかの時点で一度瀕死の状態となり(あるいは実際に死に)そして復活します。

黙示録13:3「その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。

これは、イエスが処刑され死に、葬られ、復活したという奇跡の模倣ですが、それを目撃した世界を驚嘆させるでしょう。

三年半の活動

前回触れたようにダニエルと黙示録には反キリストについて「三年半」の活動期間が出てきます。

くしくもこれはイエスの宣教期間と同じなのですが、

この三年半がおそらく反キリストの活動のクライマックスです。

そして、この三年半の前に、反キリストにとってのもうひとつの「三年半」があるものと思われます。

つまり、合計7年間の後半部分の三年半に、一挙に全世界の王者として躍り出るわけです。

その根拠はダニエル書にあります。

ダニエル9:27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。

「一週」というのは、ヘブライ語の構造上、「一週間」とは限らず、単なる「7」をも表しているため、それまでに記述のある7週、62週をそれぞれペルシャ王の再建令から49年+434年と考えると、ちょうどイエス初臨(刑死)の時期と一致することは以前述べました。

これと同じ計算を適用すれば、反キリストは7年の間国際政治の表舞台にあり、特にその後半の3年半が重要となってくるわけです。

つまり、反キリストが国際政治の表舞台に出てきたら、イエスの再臨まではたったの7年しかないということです!

逆に言えば、上述のように「世界中の国々の主権を無力化させ、全ての人々が反キリストひとりを礼拝するよう強制する」ための下準備が、既に始まっているとはいえまだそれほどは整っていない現在の状況で、

誰かを指して「あいつが反キリストだ!」といった名指しをするのは、あまり意義のあることとは言えない、と私は思っています。まずは世界の情勢を慎重に見定めるべきです。

「アシスタント」の存在および「像」

反キリストが権力の座に立ったら、いずれかの時点でその「像」が作られ、それに対して礼拝することが強要されます。ここでは「アシスタント」のような存在として「偽預言者」が現れます。(黙示録13:11)

ちょうど洗礼者ヨハネがイエスの宣教に先立って活動したように、「偽預言者」もまた全ての人が反キリストを礼拝するように道を備えます。

また、このような「像」を多数作るということは、反キリストは本来omnipresent(偏在)できない人間の身でありながら、神のように偏在しようとするという願望を持っているといえるでしょう。

歴史上、神を名乗った支配者は決して少数ではありませんが、反キリストの活動はまさに人間が神になろうとする試みの集大成です。

社会情勢に加えてテクノロジーの進歩が一役買い、全ての人の自由やプライバシーを奪って自らを神として礼拝させようとします。

繰り返しますが、そのやり方は、礼拝を拒むなら生活することさえできなくするような、実に徹底したものとなるでしょう。

ユダヤ人への迫害と帰還

前回投稿で論じたとおり、ダニエル書に書かれた聖徒たち」の意味を考えると、

獣の王国は、本質的に「ユダヤ人」に敵対的であり、これを迫害すると考えられます。

繰り返しますが、ダニエル書の時点では「クリスチャン」は存在していないからです。キリスト教徒も迫害されるでしょうが、それは別に論じたいと思います。)

ですので、世界中の人々に自分を礼拝させることに加えて、これが反キリストの活動のハイライトの一つとなります。

その反キリストによるユダヤ人迫害は、最後の「3年半」ですさまじい様相を見せるでしょう。

ダニエル7:25 彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる

反キリストはユダヤ人を絶滅しようとし、またユダヤ人は「彼の手にゆだねられる」とあります。それどのように行われるのかは、タイムラインまで含めた細かな聖書分析をしている人もおられますが、私の知識ではそれをするにはとても足りません。

しかし、ハッキリ言えるのは、その迫害が極限を迎えたときに、イエスは再臨するということです。

2015年の欧州難民危機以降、先進国ではムスリム移民人口が爆発的に増加し、それに伴ってイスラム原理主義からくる反ユダヤ機運も高まっており

そのせいで欧州からイスラエルに移住するユダヤ人が後を絶たないといいます。

また前回述べたように、イスラム主義に加え左翼的反ユダヤ主義や陰謀論的反ユダヤ主義(先日の米ピッツバーグ・シナゴーグ銃撃事件もそれに動機付けられていると見られます)の跳梁跋扈もありますから、ディアスポラから帰還するユダヤ人の群れは今後も続くでしょう。

そして、大まかな流れから言ったら、最終的に、そのイスラエルも獣の国の前には立ちえないでしょう。反キリストが登場後、後半の3年半には、ユダヤ人たちは歴史上なかったほどの困難に直面することになります。

そして、反キリストによる迫害がきわまって、ユダヤ人絶滅の危機が迫るときに、イエスは再臨するのです。

従って「ユダヤ人の帰還」も、イエス再臨が近づいていることを知るインディケーターになり得ると考えます。

イエスの本当の姿

ユダヤ人迫害とイエスの再臨の関連は、ゼカリヤ書の預言書からうかがい知ることができます。

ゼカリヤ書には、世界中の軍隊がエルサレムに侵攻しようとする、としています。そして、まさにその部分がイエスの再臨をはっきりと示す記述なのです。

ゼカリヤ書 12:9-10 その日、わたしは、エルサレムに攻めて来るすべての国々を捜して滅ぼそう。

わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。

ここで「わたし」というのはイスラエルの神ヤハウェです。

そして、その再臨の日ユダヤ人は「自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆」く、とゼカリヤの預言書には書いてあります。

十字架のイエスが息をひきとった直後ローマ兵にわき腹を槍で刺されたことを福音書の中で叙述するさい、弟子ヨハネはこの箇所を引用しています。

つまり、イエス = イスラエルの神ヤハウェなのです!

このことは使徒の働き1章とゼカリヤ書を照らし合わせるといっそう明確になります。

使徒の働き 1:10-12 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。 

そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。 

使徒の働き1章には、刑死から復活したイエスは、「オリーブ山」で集まっていた弟子たちの前で天に昇り、

それを見送った弟子たちに対して御使いが「天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、また」戻ってくる、と告げた、とあります。

ゼカリヤ書が告げる「再臨の場所」は、まさにここなのです。

ゼカリヤ14:3-4 主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。
その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。

さらに、黙示録と照らし合わせると、イエスと反キリストとの対決と周囲の状況が立体的に見えてきます。

黙示録 16:13-14 また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。
彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。

16:16こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。

獣、あるいは反キリストが、「メギドの丘」という場所に、世界中の軍隊を終結させます。

再来のイエスはこれらの軍隊と相対するでしょう。ヨハネはこう記しています。

黙示録19:11-16また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。 
その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。 
その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば[筆者注:ロゴス]」と呼ばれた。 
[筆者注:ヨハネは福音書の冒頭でイエスを「ことば(ロゴス)」と表現しています。]
天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。 
この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。 その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。

19:19また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。

その戦いのさまはどのようになるでしょうか。またゼカリヤ書に戻ります。

ゼカリヤ14:12主は、エルサレムを攻めに来るすべての国々の民にこの災害を加えられる。彼らの肉をまだ足で立っているうちに腐らせる。彼らの目はまぶたの中で腐り、彼らの舌は口の中で腐る。

なんという奇妙な戦いでしょう?「彼らの肉をまだ足で立っているうちに腐らせる」などという記述は聖書の他の部分ではまったく見られません。

しかし、これがまさしく現代の戦闘を預言したものであることを背景に考えれば、得心がいくのです。

つまるところ、この記述は「熱核兵器」あるいはそれに類する兵器が使われることを表しています。

通常爆弾や、砲弾や銃といったものは、まず爆発があり、その爆風やそれに飛ばされた破片、あるいは火薬の爆発力により飛ばされた銃弾で人間を殺傷するものですが、

ここに記載されているのは「立ったまま腐らせる」、つまり一瞬で人体組織の表面が溶けたようになる、ということです。

核爆発ではまず強烈な閃光が周囲の広範囲にある物体や人間に襲い掛かり、それから遅れて爆風がやってきます。だから「立ったまま腐らせる」なのです。

では、再臨のイエスは核武装しているのでしょうか?

いいえ、ここからは私の推測ですが、おそらく集結した軍隊は再臨のイエスを倒すべく一斉に核攻撃を行うのではないでしょうか。しかしシステム誤作動か照準の誤りで同士打ちとなり、かえってこれらの軍隊が全滅してしまうのでしょう。

というのも、その最後の戦いで「同士打ち」が起こることもゼカリヤ書、およびハガイ書という預言書に書かれているからです。

ゼカリヤ書 14:13 その日、主は、彼らの間に大恐慌を起こさせる。彼らは互いに手でつかみ合い、互いになぐりかかる。

ハガイ書 2:22 もろもろの王国の王座をくつがえし、異邦の民の王国の力を滅ぼし、戦車と、それに乗る者をくつがえす。馬と騎兵は彼ら仲間同士の剣によって倒れる。

反キリストの軍隊は、多勢も空しくこうして全滅するでしょう。

その後、イエスは一新された世界の王となるのです。

イエス再臨についての誤解

なお、イエスの再臨について多くの誤解があります。その一つが、「イエスが墓から飛び出して、自分を信じない者を片端から殺戮する」といったものです。


しかし、聖書をちゃんと読んでいればそんなものはナンセンスだとわかります。

そうではなく、

「獣の王国が世界中を支配する」→「ナチスを凌ぐようなユダヤ人迫害が起こる」→「世界中の軍隊がエルサレムに攻め寄せてくる」

このプロセスを経て、イエスが再臨し、この軍隊と相対するのです。

想像してみてください。例えば、世界中がISISに支配されたとしましょう。その状態で、イエスが再臨したらISISはどうするでしょうか?無論イエスを攻撃するでしょう。

それと同じことです。イエスは、人類が最も暗闇に落ちたときに再臨します。

そして、前回書いたように「人類はこれから最もひどい暗闇」に落ちていくのです。

ですから、ナンセンスなパロディをもってイエス再臨をあざ笑っている人たちには、一刻も早く気づいて欲しいですね。

十字架にかかられた王の王、主の主

人類は、イエスの本当の姿(キリスト教用語では「栄光の姿」なんてよく言いますが)をいつか目撃することになります。

私は、その姿を想像するだけで震えます。

それは、その一瞬で世界中の軍隊を滅ぼせるくらいの力を持つ方、王の王、主の主が、

あえて一度身を低くして、私のような罪人の罪を贖うために十字架にかかって苦しみ、死なれた

という事実に気づくからです。これは、ある意味、本当に恐ろしいというか、殆ど考えるだに卒倒しそうなことです。

そして、それは私の罪、だけではありません。

もし、クリスチャンではない方がこれを読んでおられるならば、どうか気づいていただきたいです。

イエスは、あなたの罪を贖われた方でもあるのですそれを信じることで、あなたは救われ、神の国にあずかることができるのです。

一人でも多くの方がイエスに目を向けてくださるように、願っています。

「救い」について (6) 獣の王国

(10/25 タイトルを変更しました。)

イエスの再来について書こうと思ったのですが、その前提条件としては「反キリスト」、「獣」あるいは「不法の人」の出現がどうしても外せないので、引き続き書きたいと思います。

「反キリスト」、「獣」あるいは「不法の人」については、前回も言ったように「ローマ法王●●(フランシスコとか)こそ」「いやオバマ(元)米大統領こそ」「いや、むしろトランプこそ反キリストだ!」といったいい加減な憶測が一部で流布しています。

これについて、私は、ノンクリスチャンの人たちから見ると、「反キリスト」を論じるクリスチャンたちがあたかも「陰謀論」を追いかけているかのようなこっけいな印象になってしまうかもしれない、と危惧しています。

また、「ただの人間」を根拠無く悪魔扱いしてしまうという危険もあります。

むしろ私は、今の時点で「あの誰誰が反キリストだ」などと推察することはあんまり意味がないと思っています。

そうではなく、今聖書から読み取るべきはむしろ、「反キリスト」個人の特徴だけでなく「反キリストが支配する世界はどのような様相になるのか」を知ることで、

それによって現在の時点でそのような世界への変容がどれくらい進んでいるかが理解できるようになり、

ひいては間接的な形でですがイエスの再来が近づいていることもわかるようになるのではないでしょうか。これが私の立場です。

ですので、「反キリスト」が支配する王国の特徴、その他周辺の状況を、大雑把にですが、見てみたいと思います。

ダニエル書の4つの帝国

ダニエルの預言書を見てみましょう。

前回述べたように、この書は本当に不気味な書です。

ペルシャ王による再建令の483年後にメシアが死ぬ、その後神殿が破壊される、といったことを言い当てるなど、執筆当時は知りようのない事項がいくつも書かれているからです。

そのうちの一つが、4つの帝国の興亡です。

ダニエル書に書かれる4つの帝国の興亡のビジョンは、まずバビロンのネブカドネザル王が見た奇妙な夢をダニエルが解き明かす、というところから始まります。

2:31-33 王さま。あなたは一つの大きな像をご覧になりました。見よ。その像は巨大で、その輝きは常ならず、それがあなたの前に立っていました。その姿は恐ろしいものでした。
その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、
すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。

王の夢の中では、異なる材質でできた4つの部分からなる像が出現し、次に「一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕」くことで、全体が倒される。

ダニエルはそのさまを言い当て(2:31-35)、さらにその意味をくわしく説明します。

金の部分がネブカドネザル(つまりバビロン帝国)、銀、銅、鉄と粘土の部分が、それぞれ時代を追って次に現れる国である、というのです。

特に最後、4つめの国については詳細な説明があります。

2:40-43 第四の国は鉄のように強い国です。鉄はすべてのものを打ち砕いて粉々にするからです。その国は鉄が打ち砕くように、先の国々を粉々に打ち砕いてしまいます。
あなたがご覧になった足と足の指は、その一部が陶器師の粘土、一部が鉄でしたが、それは分裂した国のことです。その国には鉄の強さがあるでしょうが、あなたがご覧になったように、その鉄はどろどろの粘土と混じり合っているのです。
その足の指が一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。
鉄とどろどろの粘土が混じり合っているのをあなたがご覧になったように、それらは人間の種によって、互いに混じり合うでしょう。しかし鉄が粘土と混じり合わないように、それらが互いに団結することはありません。

また、最終的に、天の神が起こした国によってこれらの国々を打ち砕かれる、とも。

2-44 この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。

この話でネブカドネザルは驚嘆し、ダニエルを高い地位にとりたてますが、

これら4つの国々は、まさにイエスが到来するまでに成就しました。

すなわち、バビロンがメディア・ペルシャ帝国にとって代わられ、次にギリシャに、最終的にローマ帝国の支配となって、イエス初臨を迎えたのです。

しかも、ダニエルが見た「4つの国々」のビジョンはそこでは終わりません。

4つめの帝国と黙示録の獣

ダニエルはその後、さらに詳細な幻を見ます。今度は、4つの「獣」が現れ、やはり最後に神によって滅ぼされることが示されるのです。

7:3-8 四頭の大きな獣が海から上がって来た。その四頭はそれぞれ異なっていた。
第一のものは獅子のようで、鷲の翼をつけていた。見ていると、その翼は抜き取られ、地から起こされ、人間のように二本の足で立たされて、人間の心が与えられた。
また突然、熊に似たほかの第二の獣が現われた。その獣は横ざまに寝ていて、その口のきばの間には三本の肋骨があった。するとそれに、『起き上がって、多くの肉を食らえ。』との声がかかった。
この後、見ていると、また突然、ひょうのようなほかの獣が現われた。その背には四つの鳥の翼があり、その獣には四つの頭があった。そしてそれに主権が与えられた。
その後また、私が夜の幻を見ていると、突然、第四の獣が現われた。それは恐ろしく、ものすごく、非常に強くて、大きな鉄のきばを持っており、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。これは前に現われたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。
私がその角を注意して見ていると、その間から、もう一本の小さな角が出て来たが、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった。

もはや、これらの幻が、「バビロン」「ペルシャ」「ギリシャ」「ローマ」の4つの国(または王権)であることは議論を待たないでしょう。

最初の獅子のような獣について「その翼は抜き取られ」「人間のように二本の足で立たされて、人間の心が与えられた」という箇所は、先行する4章でネブカドネザル王が精神異常で獣のようになったあと回復したエピソードを彷彿とさせますし、

第二の熊のような獣が3本の骨をくわえているさまはペルシャがバビロン、リディア、エジプトという当時の3大帝国を平らげてしまったこと、

また第三のひょうのような獣については、アレクサンダー大王が絶大な勢力を誇ったものの死去のあとその国ギリシャが4人の将軍たち(後継者たち)によって分けられたこととよく符合しています。

しかし、第四の獣については、上の像の夢と同様、特別に細かい描写がなされています。

7:19-26
それから私は、第四の獣について確かめたいと思った。それは、ほかのすべての獣と異なっていて、非常に恐ろしく、きばは鉄、爪は青銅であって、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。
その頭には十本の角があり、もう一本の角が出て来て、そのために三本の角が倒れた。その角には目があり、大きなことを語る口があった。その角はほかの角よりも大きく見えた。
私が見ていると、その角は、聖徒たちに戦いをいどんで、彼らに打ち勝った。
しかし、それは年を経た方が来られるまでのことであって、いと高き方の聖徒たちのために、さばきが行なわれ、聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た。
彼はこう言った。『第四の獣は地に起こる第四の国。これは、ほかのすべての国と異なり、全土を食い尽くし、これを踏みつけ、かみ砕く。
十本の角は、この国から立つ十人の王。彼らのあとに、もうひとりの王が立つ。彼は先の者たちと異なり、三人の王を打ち倒す。
彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。
しかし、さばきが行なわれ、彼の主権は奪われて、彼は永久に絶やされ、滅ぼされる。

これらの描写は、黙示録にそっくりそのままと言っていいほどの整合性で再現されていますが、その解釈については、一時期にはこんなものが有力でした。↓

「黙示録の獣はローマ帝国であり、十人の角は歴代のローマ皇帝。弟子ヨハネはキリスト者を迫害するローマ権力を隠然と非難するためにこれらのたとえを用いた」

(実際かなりの程度当てはまってもいるとも思います)

それゆえダニエルの「第四の獣」、あるいはそれを踏襲した黙示録の獣は既に過去のものであって、

これらの預言は未来にはなんの関係もないという立場にもつながっていきました(いわゆる「過去主義」)。

しかし、そうすると、この獣のあとに神の国がこれを倒す(ダニエル7:22-27)、という記述と整合しなくなります。黙示録にも、獣が「再来のイエス」によって倒されるということが明確に書かれています。

で、現実はどうでしょうか。実際ローマ帝国は滅亡しましたが、だからといって「聖徒たちが国を受け継いだ」わけではありません。その後も現代に至るまで権力の盛衰はめまぐるしく、「神の国が到来」したとは到底いえません。

だから、「過去主義」は、一部は合ってはいるものの、まだ成就していない部分がある以上、「全部が過去だ」という立場は、聖書の別のどこかを無効にしなければ成立しないわけです。

ちょっと横道:「過去主義の問題点」

また、過去主義の立場に立つと他にもいくつかの問題が出てきます。

(ノンクリスチャンの方には、このあたりの議論は退屈でしょうが、申し訳ありません。この後、現代世界と聖書預言の驚くべきオーバーラップに触れていきたいと思います。)

まずは、「獣」の活動期間です。

ダニエル 聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる

黙示録 四十二か月間活動する権威を与えられた

黙示録にある42ヶ月は 3年と6ヶ月です。従って、ダニエルにある「ひと時とふた時と半時」も3年半と考えられます。(奇しくもイエスの宣教期間と同じです・・・)

そうすると、この4番目の獣が単純にローマ帝国や、過去のローマ皇帝の誰かとか考えると無理が出てきます。ローマ帝国による圧制や迫害は必ずしもたったの3年半で終わってはいないし、何かきっかり「三年半」で区切れるような事件のあと崩壊したわけでもないからです

さらに、もう一つ目につく相違点はこれです。

黙示録17:12 -13あなたが見た十本の角は、十人の王たちで、彼らは、まだ国を受けてはいませんが、獣とともに、一時だけ王の権威を受けます。この者どもは心を一つにしており....

これらの角は「歴代の皇帝たち」というより、「同時代に存在する複数の指導者たち」ではないでしょうか。そうでなければ『心を一つに』することなどできません。

この観点から見ると、弟子ヨハネ存命当時のローマ帝国よりも、むしろ現在の欧州連合といった政治機構のほうが実像に近いと私は個人的に考えています。

とはいえ、性急に「EUこそ反キリストの帝国だ!」といったことは私も言うつもりはありません。ただ、「一枚岩の国ではなく、複数の国からなる政治連合体」ということです。それはEUかも知れないし、あるいはUN系の別の政治連合かもしれません)

また、黙示録13章には「獣の像に息を吹き込んで獣の像がもの言うことさえもできるようにし」たとか、「獣の印を受けていない者は買うことも売ることもできないようにされる」とありますが、これも、過去のローマ帝国時代には実現していません。技術的に不可能でもあります。(逆に、現代に至ってやっと可能になったといえるでしょう。)

そうすると、「第四の獣」は歴史的ローマ帝国なのでしょうか?それとも違うのでしょうか?

これについては諸説あり、

クリスチャンの中でも、「第四の獣は一度滅んだローマ帝国がEUとして復活したものだ」とか、「いや、今度はアメリカという形で復活するのだ」、「いや、かつてのローマ帝国も、現在はイスラム化された地域を含んでいた。そのイスラム諸国が力を糾合して帝国になるのだ」といったさまざまな意見があります。

しかし、私はそもそも、聖句を読むときの見方が違っているのではないか、と思っています。もっと違う見方があると思うのです。

「ユダヤ人の視点」で考えると第四の獣は生き続けている?

まず「聖書を非ユダヤ人クリスチャン」の視点で読んでしまうから起こる誤解がそこにあるのではないか、と私は思います。

そもそも、この獣が圧迫する「聖徒たち」を、クリスチャンの視点だとついつい自分たちと同じクリスチャンと考えてしまいますが。

そうすると、ローマ帝国はヨハネ死去の数世紀後、コンスタンティヌス帝によるキリスト教容認を通じてキリスト教化され、迫害がやんだので、

その時点で「第四の獣はいったん消滅した」という論に自然と導かれますね。

でも待ってください。実は、ダニエル書が書かれた時点では「クリスチャン」は存在しませんだからダニエル書にいう「聖徒たち」は、明らかに「ユダヤ人」のことを指しているのです。

このダニエルとそっくりの獣を描写したヨハネにしたって、聖徒たち」の意味だけを変えているとも考えにくいです。

で、「聖徒たち」は「クリスチャン」ではなく「ユダヤ人」だと考えると、「第四の獣」についてかなりつじつまの合う説明ができるのです。

ぶっちゃけ、「第四の獣」は「一旦滅びた」のではなくずっと現代まで生き続けてきた」と考えるべきではないでしょうか

つまりこういうことです。

まず、ローマ帝国は4世紀にキリスト教化されます。それによって「キリストあるいはキリスト教徒がいったん勝利した」かのように見えますが(これも「過去主義」を補強するひとつの材料です)が、ユダヤ人の視点から見るとそれは違います。

これは、むしろキリスト教化されたローマ(=後裔である欧州キリスト教諸国)によるユダヤ人迫害が始まったのに過ぎないのです!

実際、コンスタティヌス帝がキリスト教を公認したあとには、ユダヤ人のキリスト教徒(いわゆるメシア主義ユダヤ人)は、過ぎ越しの祭りを祝うことを禁止されるなど、いわば「脱ユダヤ化政策」が行われました。

また、「血の中傷事件」といった事例にあるように、市井のキリスト教徒たちもたびたび根拠なくユダヤ人を迫害してきましたし、

十字軍の時代には、キリスト教徒兵士たちが、ムスリムたちがしてきたよりもさらに苛烈にユダヤ人たちを扱ったことも知られています。

ユダヤ人視点でみたら、これらは暴挙であり、まさに「獣」の所業といえるでしょう。

また、ルターは晩年には改宗しないユダヤ人への暴力を示唆するなど強烈な反ユダヤ主義者になり、その言葉はのちにヒトラーに引用されたほどです。

つまり、非ユダヤ人クリスチャンの目から見たら「勝利の証拠」に見える「キリスト教化されたローマ帝国(≒欧州大陸)」はもちろん、イスラム勢力に比して一時やや弱体化していた、ローマ分裂後のキリスト教欧州さえも、ユダヤ人の目からみたら、「迫害の勢力」に他ならないわけです

時代が下って近代では、ヒトラーの台頭はもちろん、そのヒトラーをバチカンが隠然と支持していたのも見逃せない事象です。

しかも、ヒトラー敗北後ユダヤ人迫害が完全にやんだように見えますが、

それから数十年しかたっていない今現在にしてから、既にBDS運動 (Boycott, Divestment, and Sanctions) といった左翼的社会運動、

ならびに移民ムスリムたちによる暴力という形で、欧州や西洋社会のあちこちで「反ユダヤ」の機運は頭をもたげています。

さらには、「ユダヤ人が世界を支配している」といった、それこそ陰謀論でこういった運動を助長しかねない議論をする人たちさえいます。

そういう捉えかたをすると、AD70年のエルサレム崩壊、ディアスポラから、現代に至るまで、「ユダヤ人視点」で見るならば、この「獣」は、

→エルサレムを破壊しユダヤ人をマサダ砦での自決まで追い詰めたローマ

キリスト教化された結果、ユダヤ人を「神を殺した民」として別の理由で排斥し始めたローマ

→ローマが分裂し弱体化するも、あいかわらずユダヤ人には敵対的な欧州キリスト教諸国

→近代にあってもナチズム、左翼的反ユダヤ主義、陰謀論反ユダヤ主義およびイスラム主義という形で抜きがたい敵意が潜んでいる欧州

といった形でずっと生き続けており今も生きている、と考えていいのではないでしょうか。

(こんな主張をしている人は私以外にはまだ見たことがありません。ですので、「個人的見解」の域を出ていないことをあらかじめお断りしますが、私としてはこの見立ての整合性にかなり自信を持っています。)

過去3つの帝国もあわせた超巨大連合体

ただ、そうすると、強大だったローマ帝国が崩壊して他の勢力が勃興した(たとえばオスマントルコ)史実と、聖書の記述は整合するのか、という問題が出てきます。

しかし、私はダニエル2章の記述の細かい点、および黙示録とダニエルの「微妙な違い」に着目することで、これは説明できる、と私は考えます。

まずダニエル2章の描写を細かく見ると、4つめの帝国についてこんなことが書いてあります。

「すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土」

つまり、すねは単一素材だが、足はすねの素材と、もうひとつの別の素材の複合なのです。

つまり、すねはローマ帝国であり、足は、すねの部分の継続ではあるが、さらに別のものを取り込んだ「発展形」と考えられるのです。

さらに、黙示録には、ダニエルにはないこんな情報が盛り込まれています。

黙示 13:2私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口はししの口のようであった。

黙示録の獣は「しし」「熊」「ひょう」それぞれの特徴を受け継いでいるのです。

ダニエルでは「しし」はバビロン、「熊」はペルシャ、「ひょう」はギリシャをそれぞれ表します。

従って、「黙示録の獣」はそれら全ての領土領域を網羅する超巨大勢力と考えられます。

そうすると、「ローマ帝国」は、たんに「素材のひとつ」に過ぎず、そのローマの後裔である西欧諸国は、後にあらわれる超巨大ハイブリッド帝国の一構成要素に収まってしまう。

そこに、かつてのバビロン、ペルシャ、ギリシャ帝国の地域であった、中東、北アフリカ、南アジアの広範囲の国々が連合する。

それが私の推測です。

思えば、分裂後のローマを苦しめたサラセン人やオスマン帝国も(一時期のキリスト教ヨーロッパよりは少しマシとはいえ)お世辞にも「親ユダヤ」とは言えませんでした。

現代になってみると、かつてのバビロンにあたる現在のイラク周辺の中東から北アフリカ、南アジアまでは軒並みイスラム諸国ですから当然のことながら反ユダヤです。

しかもペルシャ=現代のイランに至っては、「核兵器でイスラエルを絶滅する」と公言するほどの過激反ユダヤ主義です。

したがって、ローマの後裔である西欧、そしてそれとは対照的なイスラム諸国も、じつはユダヤ人との関係性を軸に考えると、両方とも「獣」の構成要素としての素質は充分だと考えられるのです。

とはいえ、ダニエルと黙示録は難しい書で、私の解釈はあくまで個人的なものと再度お断りします。本当に興味のある方は、いろいろな解釈を調べてみてください。

次に、これらの考えをもとに、「ダニエルの第四の獣」「黙示録の獣」と今後世界で起こると考えられる変化とがどうオーバーラップしてくるかに移ります。

成就していく「獣の王国」の特徴

この国の特徴を見るために再度ダニエルを見てみましょう。

ダニエル2:40 第四の国は鉄のように強い国です。鉄はすべてのものを打ち砕いて粉々にするからです。その国は鉄が打ち砕くように、先の国々を粉々に打ち砕いてしまいます。
あなたがご覧になった足と足の指は、その一部が陶器師の粘土、一部が鉄でしたが、それは分裂した国のことです。その国には鉄の強さがあるでしょうが、あなたがご覧になったように、その鉄はどろどろの粘土と混じり合っているのです。
その足の指が一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。
鉄とどろどろの粘土が混じり合っているのをあなたがご覧になったように、それらは人間の種によって、互いに混じり合うでしょう。しかし鉄が粘土と混じり合わないように、それらが互いに団結することはありません。

この国は、絶対に混じり合わないはずのものがなぜか隣り合う、不思議な国です。

ですが、このような国を作ろうとする動きは既に始まっています。

一例を挙げましょう。

現代西欧の社会規範は啓蒙主義から発展していて、すなわち宗教の自由や、個人の自立、男女の平等といった考えを奉じています。

しかし、それらはイスラムとは真っ向から対立するものです。

本来その二つは同じ国に共存するなど不可能です。

ところが、現に欧州では、その絶対相容れないはずの二つの精神を、「多様性」のもと包摂しようとしています。

もちろん、これは一例に過ぎません。要は、まるで「モザイク国家」のごとく、互いに溶け合わないようなものを無理やり混ぜ合わようとする動きが広がります。

2015年から現在に至るまで、欧州および北米先進国には怒涛のように移民が押し寄せていますが、これもまたその表れと見ていいでしょう。

北米には南米移民が、欧州には中東・アフリカ・南アジア移民が急増し、それに伴いこれらの国々ではそれぞれ生来の民族、文化、宗教的な均質性が失われていっています。

また、その多民族・多宗教の構成民を結ぶ紐帯のようなものがあらたに醸成されるわけではありません。

ただ単に、「互いに団結」しえないような人々の群れがわけもわからないまま共存させられるのです。

ダニエル2章にある、「それらは人間の種によって、互いに混じり合う」という部分もこれに関連していると考えられるでしょう。

ここでは「混血の推奨」がなされることがわかります。本来、文化的に混じらないものをどうにか混じらせるには、混血させることがひとつの手段です。(既に欧州の一部で始まっています)

で、こういった動きを支えるためにも、それぞれの国民・民族による国家が国家主権を主張する状態から、国家アイデンティティや主権がぼやけた状態に移行する必要があります。(一例として、NO BORDER運動。)

国民の選挙で選出された代表が政策を決定する民主主義ではなく、「わけのわからないまま」国民の意思によらず、超広域の経済圏・政治圏の利益ばかりを優先した政治が行われるようになるでしょう。

本来ならまとまりようのないものが無理やりにまとめられる。

そのようにして、預言にある「異形の大国」が出現するわけです。

これもまた、世界の広範囲で現実に進んでいます。海外事情に詳しいかたは、察してください。

「獣の性質」の拡散

もうひとつ。

黙示録では、人々が「獣の名・数字あるいは刻印」を手か額に受けさせられるさまが描写されいるのですが、これを見て、スウェーデンなどで一部行われているマイクロチップ移植を「すわ獣の印の始まりだ!」と考えている人たちもいます。

ただ、これについて私は即断しません、そうかもしれないしそうではないかもしれない。

ただ、「名」というところが、その意味を読み解くひとつの要素です。

ヘブライ的に考えた場合、「名」というのは意味があります。誰かにつけられた「名」そのものに意味があると同時に(たとえばイエスは「神は救い」という意味です。

誰かが先祖の名前で呼ばれる、といった場合には、その引き継いだご先祖の性質を帯びる、と考えられるわけです。(たとえばイエスを「ダビデの子」と呼ぶ場合には、イエスに対しイスラエルの王権を再び打ち立てる支配者としての期待がかけられている、等。)

だから、「獣の名」を受けるということは、すなわち「獣の性質を帯びる」ということです。

「獣の性質」なんていうとなんだかモノすごそうですが、コレはゼンゼン驚くことではなく、もうすぐにでもその前兆が現れるんじゃないか、と私は考えます。

要するに、「相手の権利の尊重」とか、「平等」とか、「公正」とか、「弱者の保護」とか、そういうものを全て取っ払った状態、と考えれば当たらずといえども遠からずと思います。

「獣」と人間を分けるものは何かといえば「倫理」です。この王国では、いっさいの倫理を捨てた「獣」のような行動原理が標準となるでしょう。

そもそも、現代先進国の「倫理」が何から出てきたかといえば、じつは「キリスト教」なのです。

そして、(書いてあるとおりの実践は難しかったにせよ)、倫理の源となってきたのがなんだかんだいってキリスト教であるとするならば、

「背教」でそのキリスト教を捨ててしまったら、もはや人々が倫理を守る必然性などいっさいなくなります。

(ここではあくまで欧州先進諸国の変容の裏にある事情として考慮しています。日本の場合はまたキリスト教信仰によらない特殊事例と思っていますが、いずれにせよ諸先進国で起こる劇的変化の影響を受けることは避けられないと覚悟しています。

結婚制度や、性倫理などもはや遠い話であり、それどころか衝動的にあらゆる種類の嘘をついたり、街頭でいきなり暴力を振るったり、さらには自分の利益のために子供を殺したり、といった行為は全く珍しいものではなくなるでしょう。

クリスチャンではない読者の皆さんへの勧め

ここまで読んでくださった皆さん、ありがとうございます。

今回もまた非常に長くなってしまったので、「反キリスト」個人の特徴に触れるための余白がありませんでしたが、これだけは確実に言えます。

イエスが再来する前に、上述のような状況を背景に「反キリスト」が現れ、支配者となり、世界中の人々に礼拝を要求するとともに、従わない者を困窮させ、迫害し、ついには殺します。

それが誰で、いつ現れるか、私は確たる答えを持ってはいませんが、前回述べたように「世界宣教が終わり」「背教がきわまる」ときには、「不法の人」が現れるタイミングはすぐそこまで、ということになる、と確信しています。

そして、彼が支配する王国への「変容」が、聖書にあったとおりの形で、現実世界でも着々と進んでいる、と感じています。

だから、私はお勧めしておきたいです。

今、クリスチャンではない人は、できるだけ早くイエスを救い主として受入れてほしいです

今の私たちが生きているうちにかはわかりませんが、「不法の人」の出現は刻一刻と近づいています。

そうなったとき、私たちはやがて「獣の印」を受けるか、それとも拒むか、選択を迫られることになります。

しかし、それは「ある日突然」起こるのではなく、そのような世界への「道備え」として、社会のあらゆる面で変化が起こるでしょう。

ある人たちは上述したような「モザイク国家」の形成を「多様性」とか何とか褒め称えていますが、そのような人たちは酷い欺きに欺かれていると思います。

しかし、現在の世界のなりゆきに奇妙さや不審を感じている方は、どうか聖書に目を向けてほしいのです。

残念ですが、「脱キリスト教」後の先進諸国は、全体として、何のモラルも原則も存在しない異形の姿に成り果てるでしょう。

正直、ひとたびそうなってしまったら、ナショナリズムにも保守思想にもこれを救えないと思います。

しかし、イエスはその「獣の国」の後にいずれ立ち現れる国の主です。

人はイエスを信じることにより、「獣の国」に取り込まれることを避け(無論迫害は受けるかもしれませんが)、いずれは来るべき神の国にあずかることができるのです。

このことは、今後も繰り返し発信していきたいと思います。

「救い」について (5) 再来のタイムライン

(10/25 タイトルを変更しました。)

前回の続きです。

「イエスはいつか戻ってくる」?「いやいやいや、そんなムチャなこと、あるわけ・・・・いったい何を根拠に・・・・」

はい、では聖書に書いてあることと、現実の世界で起こっていることの整合性をまじえながら説明していきます。

聖書翻訳全言語コンプリートまであと何年?
www.christiantoday.co.jp
ウィクリフ聖書翻訳協会は最近、同協会が手掛けるものとしては千番目となる新約聖書の翻訳を完成させた。
ウィクリフ協会というキリスト教団体は、少数民族も含め世界中の民族に伝えるため、聖書を各言語に翻訳し届ける活動をしています。その成果と今後の見通しが先般発表されました。

「世界の言語のうち、旧新約聖書全巻がそろっている言語はまだ全体の約1割しかない。残る9割の言語は、さまざまなレベルで不完全な聖書翻訳しかなされておらず、同協会では2025年までに、必要とされるすべての言語で聖書翻訳に着手することを目指している。」

私は、南米奥地で活動しているウィクリフ協会のスタッフと話をしたことがありますが、

その人によれば少なくとも南米では2百数十言語のうち160言語くらいは翻訳ができているという状況だそうで、

それを聞いたとき私は「世界中の言語をコンプリートするのも近いのではないか?」と思ったりしたものですが、

上の記事によると、世界にはまだまだたくさんの少数言語があり「新旧約聖書全部」の翻訳のコンプリートはまだまだ道は遠いようです。

全体の22パーセントに当たる約1600言語では、まだ翻訳された聖書がまったくない」とも。

同協会は2025年に全ての言語を網羅するプロジェクトに着手するようですね。

時間はかかりそうですが、人工知能やビッグデータなどの応用ができれば翻訳の速度は加速度的に速くなり、もし運がよければ今の私たちが生きている間に完了するかも知れません。

で、なぜ、少数民族も含めた全ての民族言語に聖書を翻訳することが、「イエスが戻ってくる」ということと関係しているのでしょうか。

それは、マタイによる福音書にこう書かれているからです。

マタイによる福音書 24:14この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

この翻訳プロジェクトに限らず、各国で動いている様々な宣教団体が、まだ聖書に触れていない民族に宣教しようとしていますが、

すごく大雑把に説明すると、それらの人たちの働きにより、「歴史上一度も宣教されたことのない民族(注:聖書引用箇所の「国民」はどちらかといえば「民族」に近い原語です)」が地上からいなくなったら、そのとき「終わりの日」が来る、というわけです。

そして、このマタイの福音書の箇所に、その終わりの日に何が起こるか、そしてその最後に「人の子」すなわちイエスが再び現れることが書いてあるのです。

「終わりの日?ああ、はいはいノストラダムスとかと一緒ね」

いや、よくよく考えてみてほしいのですが、これはあてずっぽうの「予言」じゃないのです。「預言」です。

そもそも2000年近く前のユダヤ人が、どうやってイエスという一介の大工の息子の言葉が「全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされる」なんてことを予見できたのでしょうか?

当時のユダヤはローマにとっての属州に過ぎない弱小国でしたし、イエスは哲学で名高いギリシャ人でもなく、社会的ステータスのあるローマ人でもない、「正式に勉強したかはわからないが(旧約)聖書に詳しい大工の息子」に過ぎない存在でした。

他の宗教の開祖と比較してみればわかりますが、そのイエスの言葉が全世界に広まるなんてことは、それこそ、まあ「地球に生命が誕生する確率」ほどではないにせよ、物凄く低いのです。

お釈迦さんは、もともと王族の生まれですし、80歳といった長寿だったので、長期間活動することができたでしょう。

しかし、イエスはたった3年半宣教しただけです。

また、ムハンマドは、商家に婿入りしてある程度財を成し、また宣教を開始してからは強力な軍事力を手にいれ、それを背景に次々と異教徒を制圧していきました。また20人以上もの妻を娶ったとされています。

しかし、イエスは貧しい大工の子で(両親はイエスの誕生時律法に従って鳩を捧げましたが、これは本来羊であるところを、羊を買う余裕がないなら鳩でよいと定められていたものです)、生涯独身で子さえなく、

その弟子たちは軍事力も何も持っていない、その多くは漁師といった労働者階級からなる小さな集団でした。

で、そのイエスは生涯一片の領土も持たず、短期間宣教し、そして十字架にかかって死に、その後弟子たちが「復活して現れた」と主張しはじめ、

そのことが2000年たった今、その当時のユダヤ人が想像だにしなかったような遠くの地域、それこそ北極圏エスキモーとか南米の奥地とかにまで、その言葉が伝えられているのです。

というか、「世界中に伝えられる」と預言されて、今、全くその通りになっているのです。

「まさかね~んなの偶然でしょ?」

では、もう少し預言というものについて説明しましょう。

483年経ったら・・・・・・

次にいきますが、ちょっと、それに際して以前の記事を訂正しなければならなくなりました。
blogs.yahoo.co.jp
今ごろクリスマスネタは何か時期を逸している気もしますが、山崎氏のこの見解はちょっと不用意な誤解を生むのではないかと思われるので、取り上げたいと思います。
上記の過去記事では、ダニエルの預言により「メシアが出現するのはペルシャ王によるエルサレム再建命令からおよそ483年後と示され」た、と論じましたが、

これ、申し訳ありません。ビミョーに、ですが、内容と時期がずれてました。

私は「ダニエルの預言はメシアが『誕生する時期』を言い当てた」ようなニュアンスで書きましたが

本当は「メシアが『死ぬ時期』」を言い当てていたものです。だから30年前後ズレてました。

まず、以下が聖書箇所です。

ダニエル 9:24-27 あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。
それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。
その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。
彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。

「油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない」

つまり、油注がれた者=メシアは、殺される。それが、エルサレム再建の命令から483年後、ということです。

James Jacob Prasch 師という説教師が、この部分について以下のように解説します。(コッチが正確な数え方です。)
www.moriel.org
The Seventy Weeks of Daniel, Sermons in English, {C} Moriel Ministries - God is my teacher Your word is a lamp to my feet And a light to my path (Psalm 119:105)
--------------------------------

我々は考古学と歴史から、メディア人ダリウスの治世の元年が紀元前539年であったと知っている。ダニエルがこれを書いたときは紀元前539年だった。ダニエルは、御使いその他を通じて主によってこれを説明された。彼は聖書を読んでいて、捕囚は70年であることを知り、悟った。しかし、彼はその後、それは単に70年ではない、というメッセージを受け取った。それは、ただバビロン捕囚についての話であって、70X7がそこに出てくるのだ。

この言葉は “shavua”である。“Shavua” はヘブライ語の7から来ている。それが “sheba”である。そこには、70X7がある。7つ、とは一体何だろう?我々はこれが「年の週」あるいは7年のセットであることを見つけ出すために章の最初に戻らなければならない。我々は、彼がエレミヤ書で学んでいたことに戻らないとならない。それは、単に70年、ではなく、70X7倍になるのだ。それが文字通りの意味である。

それは、「490年」と言っているのではなく、「7年が70セット」あるいは「70年が7セット」と言っており、それが490年間となるのだ。過去主義者や歴史主義者が言おうとしてきたことは、イエスが最初に降臨したときこれは全て起きた後だった、ということだ。

これがどう分解されるかを見てみよう。そこには、7週の期間があると書かれている。つまり49年と、62週、つまり434年である。従って、7週、つまり49年、そして続くのが62週、つまり434年が、メシアが来て、断ち切られる前に経過する。そして、最後に、もう一週、つまり7年というひと周期が来る、と書かれているのだ。

テキストは、なぜそれが69週を7週と62週に分けているのかを特に語っていない。しかし、我々は、彼らが3つの勅令を受けていたことを知っている。最初の勅令はネヘミヤ書にある、アルタクセルクセス王によるエルサレム再建の勅令で、ダニエルはこれを参照しており(ネヘ2)、続いて神殿再建の勅令があり(エズラ1)、さらに最初の勅令を、後代の王が王家の記録庫を探させて再度発出した勅令(エズラ7)がある。

ハガイ書、エズラ記、ネヘミヤ記にあるように、人々が帰還してきたとき、無気力あるいは消極的であったことが考えられる。多くの人々はエルサレムを再建することにさえ消極的で、殆どの人々は神殿再建にも消極的だった。49年というのは、物事を立て直して、街と礼拝の場を取り戻すのにどれだけ時間がかかったか、に関わっている。彼らは、戻ってきてすぐ取り掛かったわけではなかった。ハガイとエズラは、彼らが実行するようにと奮闘を強いられていた。これが、7週と62週になぜ分けられているかについて私が推測できる限りの主要な理由である。人々は、神のために働くにはあまりにも自分自身のことに没頭しすぎていたために、物事が、あるべき姿にまで本当に組織化されるまでに期間がかかっていたのだ。

そして、メシアが断ち切られた後に最後の週がやってくる。過去主義者、歴史主義者は、そのことがすでに起こってしまっていたと信じさせたがっている。エルサレム再建の勅令は紀元前451年だが、我々はそれを複雑化させる2つの物事について論じている。

そこで調整するためにおよそ紀元前450年とし、そこに69週の年[注:「週」は7をも表すので69X7]を足すと、メシアは紀元後32年に来て死ぬはずだという事実にたどり着く。

-------------------------------------(引用おわり:訳は筆者)

だから、博士たちは、メシアが何歳で死ぬかはわからなかったものの、その「死ぬ時期」を念頭にしつつ、「星」を発見したので、幼子イエスに会いにくることができた、と考えるのが妥当でした。

(また、贈り物の中に、死者の埋葬に使う「沈薬」なんてものを入れてきた、ということも、「メシアが死ぬ」ことを知っていたからこそ、ということで説明がつきます。)

いやいや、いずれにしてもこの微妙なズレ、あっちゃーーー・・・今の今まで気づきませんでした。訂正してお詫びします。

で、本題に入ります。

ダニエル書は、当たり前ですが、イエスが出現するよりずっと前の書物です。また、イエスを認めないユダヤ教徒にとってさえも、ダニエル書は「聖書」の一部です。

そこに、「ある特定の時期にメシアが来て、殺される」と書いてあるのです。で、実際、自らも「メシアだ」と言い、周囲からも言われた人がそのようになりました。

これだけでは、「その預言を読んでイエスが自称したのだ」と言われてしまうかも知れませんが、

問題は、ダニエル書には「その後町も聖所も破壊される」、つまり、エルサレムも神殿も破壊されてしまう、と書いているのです。(A.D.70のローマ帝国によるエルサレム侵攻。)

だから、これはイエスのこと以外ではありえないのです。

(その後バルコクバという人がメシアを自称したことがありましたが、ダニエルの483年からはあまりにも離れていますし、エルサレム崩壊も過ぎた後でした。)

そんなこと、いったいどうやって知ったのか?

「後付けでキリスト教徒が書いたんじゃないの?」

でも、前述のようにユダヤ教徒さえもがダニエル書を正典の一部にしているだけではなく、そもそもダニエル書は死海文書にも含まれており、ダニエル書の断片については紀元前のものとハッキリしているものがいくつも存在しているのです。

だから、ありていにいえばダニエル書には「人間には知りえないことがあらかじめ書いてあった」ということです。

(これは、「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ・・・」という箇所と同じで、偶然実現したというにはあまりに難しい事項だと思いませんか?)

で、「イエスが戻ってくる」話題に戻りますと、

冒頭、ウィクリフ協会の働きを例にして、「世界中の民族に福音が伝えられたら終わりが来る」ということを挙げましたが、

イエスは、4福音書のうちの3つ(マタイ、マルコ、ルカ)の末尾で、「あらゆる国の人々を弟子としなさい」「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と弟子たちに命じたり、

「(その福音が)エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と預言したり、

使徒の働きの冒頭でも、弟子たちが「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人とな」る、と言っています。

つまり、「こうなれば終わりが来るよ」という条件を明確に示したうえで、その条件である福音宣教を世界の隅々にまでに行いなさい、と言い、そして実際にそうなる、と預言もしています。

「世界中の民族に宣教が行われる」というのは一箇所だけでなく数箇所で言われていて、今実際にそれが現実になりそうな情勢ですから、まさにその「終わりが近づいている」といえる状態が現代なのです。

その一方で、聖書がもう一つ言い当てている事項があります。

それは「背教」です。

「元キリスト教国」先進国を覆う大背教

テサロニケ人への手紙第二 2:3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。

使徒パウロは、イエスが再び来る時期についてこう述べています。

「背教」(apostasy)。

不思議ですね、イエスによれば世界中に福音が宣教されるのではないでしょうか。

普通のイメージでいくと、世界中に福音が広がり、皆が救われ、ハッピーハッピーで、最後にイエス様が来る、みたいな感じ?

(とてもリベラル進歩主義的ですね~。私もクリスチャンになって初めの数年は聖書預言の意味がわからなかったのでそんな未来観を持ってましたが。なつかしいもんです・・・・)

しかし、パウロの第二テサロニケ人への手紙に「背教」とあるほか、イエス自身もこんなことを言っているのです。

ルカ18:8 しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。

だから、これはパウロの思いつきでもなんでもないことがわかります。イエス自身が自分の再来時についてこのようなことを心配しておられるのです。

「世界中に宣教しなさい」と「あなたがたは地の果てまで私の証人となる」と言っておきながら、

「地上に信仰が見られるでしょうか」と心配するなんて、なんか矛盾してるようにも見えますね。

いや、でも、良く考えるとこれってまさに現代の状況に合致してないでしょうか。

だって、今までキリスト教が伝えられてこなかった僻地では宣教が進む一方、歴史的にかつてはキリスト教国であった欧米(とくに欧州)では物凄い勢いで信者数が減り、教会が潰れていっているのです。
www.theguardian.com
Europe’s march towards a post-Christian society has been starkly illustrated by research showing a majority of young people in a dozen countries do not follow a religion.
欧州で16歳から29歳までの人口を対象とした調査では、チェコ共和国で91%が無宗教と回答、エストニア、スウェーデン、オランダにおいても、7-8割が同様の回答をしました。

例外としては、ポーランドは最も宗教的で、17%が無宗教で、リトアニアでも25%と比較的少数でしたが。

イギリスでもなんと7割が無宗教と回答しました。このイギリスでは、英国国教会所属と答えたのがたったの7%、またカトリックは10%に過ぎませんでした。

(若年層のムスリムは6%であり、どうやらこの国のキリスト教人口を追い越しそうな雲行きです。)

この調査は2014-2016年のデータを元にしているということですから、現在はもっとこの傾向が進んでいることでしょう。

調査を行った学者は、欧州における宗教(キリスト教)を「瀕死」の状態とまで形容しています。

「いくつかの例外はあるが、若い成人たちはますます宗教を自認したり、実践したりすることがなくなっている」

「デフォルトとしての、規範としてのキリスト教はなくなっている、そしておそらくは永久に、あるいは少なくとも今後100年は。」

ちなみに、信者数の減少だけではありません。キリスト教を「実践している」人たちの間でも、キリスト教そのものが大変質を遂げているのです。

リベラル神学の毒が回って、「神は同性婚を祝福している!」どころか「三位一体はポリアモリーだ!」と唱える「牧師」さえ出現し、
blogs.yahoo.co.jp
<プログレッシブ・キリスト教神学に応答する(3) 「婚前交渉は罪ではない」by リベラル牧師&進歩主義信徒; プログレッシブ・キリスト教神学に応答する(5) さらなる最新成果:古代異教崇拝への回帰>
北欧では「ゲイパレード」に参加する「牧師」が同時に「教会から十字架を撤去してムスリムのための祈りの場を設けましょう」なんて言い出す。
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2004-2012年の間には、主にアフガニスタン、イラク、ソマリアといった国々からの移民とその家族を受け入れることで総人口が900万人から950万人に増加。
英国でも「アッラーを称える集まり」なんてのを開催したり、
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それは極めて秘密裏のオファーで、誰にも言ってはならない、秘密にしておくようにとのことであった。Roulaさんは「もしかすると内臓を売買する業者なのでは?
もうやりたい放題です。いままでキリスト教が根付いていたはずの地域では、キリスト教を捨てるひとたち、あるいはキリスト教徒を名乗りつつも全く違う教えを信奉する人たちが急速に増え始めているのです。

だから、今の時代の我々としては、マタイによる福音書24章のイエスの預言とこの箇所をあわせて、

「世界宣教がいつ終了するか」「背教がどの程度進行しているか」に注目していれば、イエス再臨が近づいているということが(だいたいですが)わかるということになります・・・!

世界宣教→背教→その後は・・・?

上述、パウロが書いた「第二テサロニケ人への手紙」をもっと詳しく見てみると、イエスが再び来るタイミングについてはこういうふうに言われています。
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旧ブログタイトルは「日本ではほとんど報じられない海外クリスチャン事情」です。
2:1-2さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。 

2:3-4だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。

2:8その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。

背教→「不法の人」出現→イエスがそれを倒す

パウロが言うに、これがイエス再臨に先立って起こる物事の順番です。

なので、「世界宣教がいつ終了するか」「背教がどの程度進行しているか」ということに加え、その次の段階「不法の人」の現れがあれば、いよいよイエスの再臨は近いとなります。

「ああ、『反キリスト』ね。聖書原理主義者って『反キリストはローマ法王だ!』『いや、オバマが反キリストだ!』とか言ってるんでしょ?陰謀論好きだよね~」

いやいや、そんな単純な話じゃないです。

また、このパウロが言う「不法の人」って、パウロひとりの思いつきでもありません。

「反キリスト」、「獣」あるいは「不法の人」と呼び方に違いはあれ、

神に反抗し聖徒を迫害する強大な支配者が現れたのち、これを神あるいはメシアが倒すという預言は聖書中複数個所あります。

上の過去投稿では、「黙示録」「第二テサロニケ」「ダニエル書」の3箇所にある記述が驚くべき整合を見せていることを書きました。

とくに、第二テサロニケの上記の引用箇所は、ヨハネの黙示録の13章と19章のダイジェスト版のようです。黙示録に慣れてない方は、まず第二テサロニケを読んでから黙示録を読むことをお勧めします。

この、「反キリスト」、「獣」あるいは「不法の人」について、これらの3つの聖書箇所からわかることはこういうことです。

・強大な国の指導者となる(その国、あるいは国々の連合には、複数の指導者がいる可能性がありますが、彼はそのトップとなる)

・聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つ(逆じゃないですよ!注意!)

・世界中のあらゆる部族、民族、国語、国民を支配する

・人々に「自分を神として礼拝せよ」と要求し、拒む者を迫害し、殺す

・三年半の間活動したのち、メシアに倒される

ともあれ、イエスの再来について書いているうちにもの凄く長くなってしまいましたので、「不法の人」については次回に譲ります・・・・・・・・・

次回は、この「反キリスト」、「獣」あるいは「不法の人」とその王国をもっと多面的に理解するために、ダニエル書の他の箇所も見てみましょう。

「救い」について (4) 我々は何処に行くか

(10/25 タイトルを変更しました。)

さて、「人は死んだらどうなるのか」ということにまつわる疑問や、「天国(楽園)」というものが実際に成立する条件と、さらには「天国(楽園)は最初からあったのだが、人間の背きによりなくなってしまった」という聖書の考え方を論じてきました。

ここでいよいよ、私自身の体験に留まらず、全ての人にとって「キリストを信じ救われる」ということが必要であるのはどうしてか、ということを説明していきたいと思います。

いくつかの疑問

単刀直入にお尋ねします。

あなたは、自分が死んだあとどこに行くとお考えですか?

もし、「今より良い場所に行ける」とお考えなら、その理由はなんでしょうか。それを保証してくれるものは何でしょうか?

「今より良い場所」は、どこの誰が造り出してくれて、どのようにそこに導き入れてくれるのでしょうか?

無宗教、無神論、仏教徒の方、ムスリムの方、あるいは創価学会員の方など、それぞれのお立場で答えがあるかも知れません。おそらくそれぞれお持ちの聖典や何かで、何らかの答えが与えられている場合もあるのでしょう。

しかし、あなたのその聖典は世界の全てを造られた方をどのように説明していますか?

世界がかつてどのような状態にあり、今はどのような状態に向かっているか、きちんと説明していますか?

もし、「今より良い場所」がいつかの日か作り出されるとして、それはいつでしょうか?

その「今より良い場所」に入るための条件として、どんなことが挙げられていますか?

最初あった「よい」世界がどうなっていったか

私ならこう言います。

まずなによりも、「世界の全てを造られた方」が存在しなければ、「今より良い場所」も将来にわたってずっと存在しようがありません。人間には創造不可能ですから。

聖書は、はじめに創造主という方がおられ、この世界を造られたと語ります。

創世記1:1初めに、神が天と地を創造した。

創造主はさまざまな生物、豊かな植生、そして男女一組の人間を造られました。しかも「最初はよいもの(楽園)として世界を作られた」のです。

1:31 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

しかし、前回述べたように、この「楽園」の秩序は人間の背きによって崩壊してしまいます。神と人の関係はもちろん、人と人との関係の調和も崩れてしまったのです。

また、世界は当初は今よりはるかに豊かだったのですが、大幅に乏しくなりました。

聖書によれば、かつて人間の寿命は今より遥かに長く、(創世記5:5 アダムは全部で九百三十年生きた。)

またかつては、あらゆる動物が生存のために動物蛋白質を摂る必要性が全くないほど植生が豊かで様々な食糧が手に入りました。

創世記1:29-30 ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。
また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。

しかし、いっぽうで、聖書は、アダムとエバが神に背いてから数世代がたつと、人が貪欲、暴虐、高慢に心を奪われていくさまを述べています。

創世記6:5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

6:11 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。

とうとう、その暴虐に満ちた世界を神は洪水により清算します。

(神はノアに箱舟を作らせると同時に彼を通じて警告を与えさせましたが(IIペテロ2:5)、ノアの家族以外は誰もそれを聞き入れませんでした。)

そして、洪水後。植生は以前ほど豊かではなくなったので、神は人が動物を食べることを許します。

創世記9:2-3野の獣、空の鳥、――地の上を動くすべてのもの――それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。

こうして人類は継続できました。ただ寿命は、洪水後、なんらかの理由で急激に短くなりましたが。

しかしその後も、人々は全体としてますます悪に落ちていき、神のことを忘れていきますが、いっぽうで、自分たちの高慢に対して再び神の手が下るかもしれないということを薄々気づいていたようです。

それで、人間の権力の象徴として高い塔を立てれば(創世記10章には「世界最初の権力者ニムロデ」が出てきます)自分たちが「散らされる」ことはないと思ったようです。

創世記11:4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

とはいえその後言語が分岐してしまい、人間たちはこの大事業を継続できなくなったのですが。

ともあれ、人々はこの段階になるともはや創造主である神をその脳裏の隅にも覚えてさえいませんでした。

アダムはかつて園を歩き回る創造主と親しく会話していたし、そして神の言葉にそむくという罪を犯した後にも「神の名によって祈る」という習慣はあったのに、

この塔の時代(バベル)になるともはや創造主とは似てもにつかないものを造り出して拝んだり、権力者が「自分は神の子だ」「現人神」だと主張したりすることさえ始まりました。

しかし、やがて年月が経つと神はアブラハムを選び出し、そしてその子孫であるヤコブにも現れ、またその12人の子供たちから生まれた民に対して、モーセを通じて現れます。

なお、モーセが現れ、エジプトからヤコブの子孫たちを連れ出した頃には人類は堕落を極め、

とくに周囲民族、すなわちカナン人たちは偶像を拝むどころか礼拝の一環として男色女食の乱交行為を行い、あまつさえ幼児を火で焼いて捧げることさえしていました。

レビ記18:3 あなたがたは、あなたがたが住んでいたエジプトの地のならわしをまねてはならない。またわたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地のならわしをまねてもいけない。彼らの風習に従って歩んではならない。

聖書のこの箇所は、絶対に真似てはいけない習慣として、近親相姦、不倫、獣姦、男色、幼児犠牲などを列挙しています。

そんな中神はアブラハムーイサクーヤコブの子孫たちに「律法」を授け、「神と人々」の関係をどうにか回復しようとするのですが、この試みも順調には行かきませんでした。

モーセが死んだあとその従者ヨシュアは民を率いてヨルダン川を渡りカナンの地を占領しはじめます。

そうしてイスラエルの国を形成していくのですが、あるときは神に心を向ける指導者が現れても、別のときは堕落した者が立ち、人々もまたしばしば偶像を拝んだり周囲の民族と同様な性的不道徳もたびたび蔓延しました。

また、一時は強力なダビデ王が地域を平定し、その子ソロモンによって安定した体制が作られましたが、

ソロモンもまた偶像礼拝をしてしまい、その死後すぐ国がイスラエルとユダに分裂してしまいます。

そして、神に立ち返っては堕落し、のその繰り返しの中、神の言葉を聞いた預言者がたびたび人々に警告します。

ただ、大多数の人々がそれに耳を貸すことはむしろ稀でした。聞いても、また時間が経つと忘れてしまうのです。

ごく少数の人たちが神からの言葉を書き留めるのみでした。

しかし、それによるなら、神はこう言っています。

天地の回復

イザヤ書65:17見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。

イザヤは、ユダヤ人がバビロンに捕囚される前のユダ王国で、アッシリアなどの周辺国の脅威に晒されていた時代の預言者です。

そのイザヤは、神はいつか天地を新しくされる、と言っています。

また、この同じ預言書にはますます不思議なことが書いてあるのです。

65:18-25 だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。
わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。
そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。
彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。
彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。
わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。
彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。
彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。
狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」と主は仰せられる。

人間はかつての長寿を回復し(木の寿命といえば数百年から1000年にも及びます)、病気による突然死もなくなり、

また動物たちはもはや生きるために狩りや殺しをしたり、あるいは草食動物が捕食者におびえることもなくなるといいます。

まさに、先の投稿で説明した「最初の世界」の回復です。回復されるのは物質的環境だけでなく、「創造主」と人間たちの親密な関係もまた回復されます。

人の罪をあがない、とりなす者

ところが、その同じ預言書に、「苦しむしもべ」という不思議なものもまた、出てきます。

52:13-15 見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。多くの者があなたを見て驚いたように、――その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。――そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。

このしもべは、多くの人の罪を負い、打たれ、叩かれ、苦しめられ、蔑まれ、自分の命を生贄にするのですが、それによって後に多くの人たちを勝ち得る、というのです。

続きの節にそのことが詳しく書いてあります。長い引用ですが、是非読んでください。

53:1-12 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
主の御腕は、だれに現われたのか。
彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。
彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。
ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。
彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。
彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。
しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。
もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。
わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。
彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

イエスが現れたとき、彼はこの預言のとおりの命運をたどり、また十字架で死ぬ前に弟子たちにも自らの使命はこのとおりであることを明かしました。

なぜ神は、イエスにこのような苦しみを負わされたのでしょう?

それは、人間というものをご自分のところに取り戻したい、以前のような親しい交わりに戻りたい、と願っておられるからです!

ヨハネによる福音書3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

もうひとつ、神の本質を表す聖書箇所をご紹介しましょう。

エゼキエル書18:23 わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ。――彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。

神は、たとえ悪人であっても、彼が滅びることを喜ばないのです。できれば、悔い改めて自分のところに戻ってきてほしい、と願っておられるのです。

こうして、イエスは、あなたも含め、全ての人の罪を贖うために十字架にかかりました。

私の体験談では、過去のひどい罪の自覚により自分は神と会ったときには死刑になるに違いないと感じていましたが、同時にその死刑を他の誰かが受けてくれたのだ、ということを悟った、ということをお話しました。

ちょっと話が逸れますが、

世の中には、いわゆる「犯罪」を生涯犯さないまま亡くなる人はたくさんいるかも知れませんが、

聖書の定義するところの「罪」を生涯犯したことのない人は、(幼時に死んでしまった人や重度の知的障碍を持っている方は除外するとして)いないのではないでしょうか。

たとえばイエスは「女を欲望の目で見るだけで罪」「兄弟に向かって『愚か者』と言うだけで罪」と指摘しています。

厳しすぎるでしょうか?

確かに今の世界ならば、そういった悪い思いが心をよぎっても、明日は仕事や学校です。

やることがたくさんあり、多くの人は、「姦淫してやろう」「あいつを殴ってやろう」と思ったとしても、実行には至らないかもしれません。

しかし、もしあなたが「いつか神の前に立たされ」「その魂は永遠に生きる」としたらどうでしょう?

小さくとも確実に存在するその思いを抱えたままだとしたら、まったく悪というものを持たない神の前に、あなたは何分間、いや、何秒間立っていられるでしょうか?

ましてや、もし、その神が、あなたの心の隅に隠してあるどんな思いも見通してしまう方だとしたら?

生涯の中で、あなたがついやってしまったり言ってしまったあんなことやこんなことを、細大もらさず全てご存知だとしたらどうでしょうか?

そうして、それら心の奥に今まで隠し通してきた罪悪感、後悔の念、暗い思いが全て明るみにされ、清算もされないままに、永遠を過ごし続けなければならないとしたら?

・・・・

人は、もし何らかの事情で罪悪感を抱えていた場合は、「謝れば必ず相手が許してくれる」ということに確信がないと、相手の前に出ることは難しいものです。

どんな人間関係でもそうでしょう。人は、相手に悪いことをしたという自覚があると、まっすぐ相手の目を見て話せなかったり、ついつい相手を避けてしまったりしてしまいます。

しかし、それではどうでしょう、あなたは(クリスチャンではないと仮定して話をしていますが)、今も、将来もずっと、神を避け続けるのでしょうか?

今はいいかも知れません。でも将来は何が起きるかわかりません。そのとき誰に頼るのでしょうか。

いや、それより、あなたは死んだ後、一体自分がどこに向かうか、はっきりとした答えを持っているのでしょうか。

肉体が滅びて、もはや動くことも、口をきくこともできなくなったとき、あなたはどこに行きどう過ごすことになっているのか、確信はあるのでしょうか。

だから、私はこれを読んでくださっているあなたに勧めたいのです。

もし、あなたが「イエスは自分の罪の身代わりとなって十字架で死んでくださった」ことを信じるなら、神は必ずあなたを許してくださるのです。

そこを経ることで、やっと、人間は、神の前に迷わず進み出て、祈りや願いをし、導きを求めることができるのです。

神は、あなたとの関係を回復したいのです。そこで、ご自分の一人子であるイエスを犠牲としてあなたの罪を贖わせたのです。

この話はまた後でします。元の話に戻りましょう。

イエスは「罪を贖い、とりなしをするしもべ」の預言のとおりの生涯を経ましたが、果たしてそれだけなのでしょうか。

いえ、違います。イエスの働きには続きがあります。

来るべき王の王

この同じイザヤの預言書に戻りますが、いつの日か神はこの民族(ユダヤ人)、ひいては全人類の指導者を送るといいます。その特徴のひとつがこれです。

イザヤ7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。

インマヌエルとは「神が我らとともにいる」という意味です。イエスは、マリアという処女から生まれました。

イザヤの預言書にはそのほかにもいつか現れる指導者についての預言がたびたび現れます。上で引用した節の少しあとに、こんなことが書かれています。

9:6-7 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

また、その身元も暗喩されます。

11:1-5エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。
この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、
正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。
正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。

エッサイというのはダビデ王の父の名です。イエスの家系はまたダビデの家系でもあります。また新約聖書では、イエスのうえに神の霊が鳩のようにとどまったと目撃されています。

マタイによる福音書3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。 

このようなことから、イエスの弟子たちは、イエスがたんなる「他人のために死んでくれた良い人」ではない、と気づいていました。

そうではなく、イエスこそが「王」なのです。

すなわち、イエスは天地が一新され回復した世界で王となります。このイザヤ書の箇所はこう続くからです。

11:6-10 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。

先にあげた、この預言書の65章の「回復された世界」と同じことが書かれています。

獣たちさえ、もう生きるための殺し合いをやめます。

獣たちがそうなら、人間たちはどうなのでしょうか?

この預言書の最初のほうにちょっと戻ります。

2:4 主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。

イエスが国々の間をさばかれるので、もはや戦争は起こりえません。

死んでも蘇る

ではもう一度、人は死んだあとどうなるか?その疑問に取り組んでみましょう。

イエスを信じる人たちにはある確信があります。

ヨハネによる福音書6:39 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

蘇らせていただけるのです。

なぜそんなことを信じられるか?

それはイエスご自身が墓から蘇られたからです

イエスは処刑後500人以上の人々に同時に現れたといわれています。(Iコリント15:6)

そして、ユダヤ人宗教層やローマからの迫害の中でも、多数の信者たちが「イエスが蘇って現れた」という証言をやめませんでした。

いい加減な幻覚や、たんなる願望であったとしたら、自分の命を捨ててまでそんな証言をするでしょうか。

イエスは蘇られました。そしてそれだけではなく、「いつか戻ってくる」のです。

イエスはいつか帰還し、イエスを信じる者たちは蘇り、またイエスが王となって治めるべく世界は回復される。

では、そんなことが起きるとして、それはいつなのでしょうか。

聖書には、そのこともちゃんと書いてあります。

それを次回説明します。
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