2018年11月

教会は民主主義であるべきか?(1)

以前取り上げさせていただいたFuminaruさんという方のブログに、最近こんなものが乗っていました。
fuminaru.blogspot.com
キリスト教プロテスタント教会のカルト化と健全性について。映画ネタや時事ネタも時々。
--------------
 教会政治の話になると、私の牧師はほとんど必ずこんなことを言いました。
「神の国は民主主義なんかじゃない。神権政治だ。だからこの教会も、神の統治に完全に従わなければならない」

 そこで思い出すのが旧約の士師記の時代です。王がなく、預言者を通して語られる神の言葉を頼りに、それぞれの部族が自立的に暮らしていた時代です。真の統治者は人間にあらず、神である、というわけですね。

 それはいかにも「聖書的」だと、私たち信徒は思いました。
「神ご自身が統べ治める教会」
 なんと心地よい響きでしょう。
 だから私たちはすぐ「アーメン」と同意して、牧師の言う「神権政治」を受け入れました。

 で、どうなったかと、「牧師の独裁」です。
 結局のところ、神の御心を代弁するのは牧師なのですから。

--------------(引用終わり)

続く記事は引用しませんが、このFuminaruさんという方、とにかく、本当に今までヒドい牧師にばかりにあたってきたのかな~と想像します。その点かわいそうだな、と思います。

で「民主主義(議会制)」か?「神権政治」か?の二項対立しかないかのように書いており、まあその点でも教会生活でのいろいろなポジティブな経験が本当になかったからそうゆう発想なんだろうな~、とその意味でも同情してしまいます。いや、本当に可哀想。

ともあれ、私思うに、教会は民主主義でも神権政治でもうまく行きません。

この二項対立を突きつけて「神権政治はダメだろ?だから民主主義にしろ!」なんてのは、失礼ながらあまりにも短絡的だと思います。

なぜって?それをこれから説明します。

民主主義のリスク

この引用記事の著者さんは、民主主義というのをとても肯定的に考えており、これによって大抵の問題は解決できるかのようにとらえておられるみたいです。

ですが、私は思います。今現代の私たちは、教会を民主主義にしちゃダメです。

なぜなら一発で外部勢力に乗っ取られるような脆い組織になるから。

考えても見てください。民主主義ってどんなにか脆い制度だかわかりますか?

今米国で民主党がちょうどやっていますが、「外部から人を沢山取り込み、彼らに厚い福祉を与え、その全員に投票権を与える」なんてことをやったら、カンタンに権力なんて乗っ取れるのです。
blogs.yahoo.co.jp
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最近全く放置です・・・こっちのブログ(汗)。↑

さらに、民主主義の場合「民主主義を嫌い、これを壊そうと画策する人」にも一票が与えられており、そういった人も、「民主主義を破壊するための運動」を推進する発言権が与えられます。

だから、民主主義制度自体がそういうやっかいなリスクを内在しているのです

そうすると、民主主義制度をとるならばそういうリスクをどうにかヘッジする方策を考える必要がどうしても出てきます。

私は以前「よもぎねこ」さんのブログを拝見していて興味深い知見を教えていただいたのですが、
yomouni.blog.fc2.com
女性であるのに、このような問題に極めてラディカルな発言をなされる。この場合のラディカルは根源的なという意味です。

古代ギリシャの民主主義は徴兵制と不可分だったのだそうです。つまり「国が有事となったら命を懸けて戦う」覚悟があることが、参政権の条件ということ。

これを見て私はハタと気づきました。

国が誰にでも彼にでも参政権を与えていたら、そりゃ「この国を覆してやる」と思っている人も参政権は持つわけで、そうなったら国は獅子身中の虫を飼うことになってしまいます。

人の流入などで、どこから来たか背景がわからないような人にも参政権を与えるのも、当然危険なことでしょう。

だから、古代の人たちはそれなりに知恵を絞ってこういう制度で危険を防いでいたんですね。

しかし、兵役に出ないと参政権がもらえないなんて、現代ではもちろんムリです。

でも、日本の場合純血主義による国籍の付与か、外国人なら帰化の手続きをとるなどしないと日本での参政権は与えられません。

これが万全かは知りませんが、辛うじて「誰でも彼でもやってきて、日本を覆すために運動する」といったことは防げている(つもりな)んでしょう・・・ね?(いや、なんだか自信なくなってきましたが)

民主教会のモロさ

はい、それでは、ひるがえって教会の話です。

教会というのは、(激しい迫害下にある中国や北朝鮮の地下教会、あるいはエジプトのコプト教会などは除きますが先進国では)とてもオープンな場所です。

基本的に、誰でも入ってこれます。そして、教会員になるに際して、特段身元調査とかもありません。

また教会によっては、何ヶ月かの「求道者コース」みたいなのが課せられることもありますが、基本的には言われたことを従順に守ってい(るそぶりをす)れば、洗礼を受けて教会員になれます。

さあ、それで、あるところに民主的教会があって、そこにAさんが加入して、教会運営についても投票権とか発議権が与えられるとします。

でも、その人が、加入してしばらくしてから突然、「同性愛は罪ではない!教会は今までの方針を改めるべきだ!」とか言い始めたらどうしますか?

民主的な教会なら、権利は平等なのですから、形式としてはその問題提起もいちおう取り上げなければいけなくなります。

もちろん、大抵の教団には信条がちゃんと明記されてますから、例えば「我らは結婚は男女のものだと信じます」とか内規に書いてあって、これに違反するからダメじゃないか、と周囲が抑えようとする場合もあるでしょう。

でも、そんなときその人が「これは不当なサベツだ!」と言い出したらどうでしょう。

またそのようなガチの戦法をとらなくとも、少しづつ外堀を埋めていく方法もあります。


いきなり「同性愛行為」とか「同性婚」の認定を迫るのではなく、まずはそういう性質を「ゆる~く」問題視しない方向に持っていくわけです。

また、どんな組織にも、指導部に多少なりとも不満を持っている人というのはいます。

だからそのAさんがそういう人たちを対象に周囲に多数派工作をしかけたら、何人かが同調し「そうだそうだ、今までの方針は間違っている!」と言い出すかも知れません。

何度もいいますが、民主主義って実にモロいのです。

全体のメンバーのたった数パーセントであっても、あるアジェンダを声高に唱え、反対者を口汚く罵倒し、それで周囲に恐怖感を与えることに成功すれば、組織の運営は大きく影響を受けます。

「面倒を起こしたくない」という意識も働きますから、「あいつらにうるさく言われるくらいなら・・・」といった忖度も働き、

そのたった数パーセントを怒らせないために、何かの政策をとったり、あるいは本来とるべき政策を控えたり、ということが起こりえます。

じゃあ、ある教会組織にそういう意図を持った人を数人送り込んだら?

もうそれだけでひとたまりもないでしょう。十年もあれば完全に乗っ取り成功です。

ラオデキア教会の落とし穴

私思うにそもそも「民主主義的な教会運営」ていう言葉自体にワナがあると思うのです。

ヨハネの黙示録には「ラオデキアの教会」というのが出てきます。「ラオデキア」というのはギリシャ語で「人々の意見」という意味だそうです。ヨハネの幻によると、このラオデキアの教会に対してイエスはかなり厳しい言葉を投げています。

3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

ともあれ、教会が「民主」的だとしたら、「民」を中心に考えているわけで、

その教会の方向性は、その中にいる「民」の総意で決定するということですね。

では、その「民」が「私たちはもう聖書は神の言葉とは信じないことにしました」「復活も信じません」「同性愛も姦淫もオッケーです」と、そのの総意に基づき民主的手続きによって決定したら、それは通ってしまうということです。

(民主主義は駆け引きの世界ですから、必ずしも大多数がそう思っている必要はありません。ごく少数が、アクティビズムを通じて多数を黙らせたり圧力を加えて従わせることも可能です。)

・・・で、それでいいんですか?それって教会ていえるでしょうか?

そんなメチャクチャな、と思う人もいるかもしれませんが、何度もこのブログで警告したとおり、そういうことが本当に西洋のリベラル教会では進行しており、また日本の教会も決してこの流れとは無縁ではないのです。

もっと身もフタもないこと言いましょうか。

「民主」ということは「民」が「主」ですよね。「民」が「主」だとしたら、じゃあ「『主』イエス」は一体何処にいるんですか?

漢字を見るだけで、このおかしさというか度し難いほどの矛盾がわかるのです。

「民」が「主」なんでしょ?だったら、「オレたちこそ主」、「オレたちが神だ!」てわけですよ。違いますか?こんなのもはやキリストの教会とはいえないですよね?

ちなみに、黙示録ではイエスが教会の戸を叩いています。

3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。

なんでイエスがそんなことをしているのでしょうか?イエスはキリスト者にとっての主なんだから、堂々と入ってくればいいはずです。

いえ、残念ながらイエスはこの教会から「締め出された」のです。なぜならラオデキア教会が「民」を「主」にしてしまったからです。一つの集団が2つの主を持つことはできないからです。

だから、民主主義を採用する教会は非常に脆いしどこに迷い出てしまうかわかったものではないのです。

神権政治はさらにダメ

さあ、民主主義がダメなら、神権政治はどうでしょうか。それもダメです。だって、「権」がついてるでしょ。もうこれだけでアウトですよ。「権」は「権威」とか「権限」でしょう。これがいかにダメかは、ルカの福音書のこの箇所見ればわかります。

22:24-27また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。 
すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。 
だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。
食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。

もし、引用記事の著者さんが批判していた当該の牧師さんが本当に「教会は神権政治だ」「教会は神の統治に従わなければならない」と言っていたなら、

私はこの聖書箇所をもってそれは異端だと判断しますし、その牧師さんが間違っているという点においては著者さんに同意します。

そもそも、神権政治てキリスト教出現以前の異教社会でも結構使われていたんですよ。王が「自分は神の子」と宣言したり、神の託宣を聞いたというので政策を決定したりとか。

まあ、キリスト教以後でも、イスラムなんかいい例ですよね。預言者ムハンマドは何かあるたびにアッラーのお告げを受けて政策を決定したそうです。

「昨日アッラーがワシにこう仰せられた。だから、これこれをしろ。従わないのはアッラーへの反逆だぞ」みたいな?ヒドい場合には部下の妻と浮気した次の日に「昨日実はアッラーが、他人の妻を娶るのは場合によってはかまわないとワシに仰った」とかも。現代人がみたら「たいがいにせえよ」みたいなやり方ですが、当時は大真面目だったんですね。

話がそれましたが、あくまでその牧師さんが「教会は神権政治」と本当に言ったなら、とんでもない話です。

それこそ「神がこう仰せられたからお前らこれをしろ」的な横暴が行われる危険が満載です。その当該牧師さんは本当に歴史に無知か、それとも言葉の意味をゼンゼンわかってないかどっちかですね。いずれにせよその牧師さんに全面反対するという点においては同意。

でも、です。民主主義も上記のように教会には適さない制度です。

でもじゃあ、いったいどうすればいいんでしょうか?

それはまあ、民主主義でもなく、神権政治でもなく、「『キリスト』主主義」でいくしかありません。

具体的にどうやって?

それはイエス様を見て学ぶしかありません。ヒントは、「あれをやれ」じゃなくて「ついてきなさい」です。

・・・ちょっと今日は時間がないので、次回、詳しく論じたいとおもいます。

自由を奪おうとするアジェンダ

レズビアン、ゲイ、バイセクシャルといった傾向を持つ人たちや、生まれ持った性別と自分の自認する性別が一致していないと感じる人たちとの関わりについて色々書いてきましたが、

どうやらいろいろ書く過程で見えてきたものがあります。

それは、異性愛とは異なる性的傾向を持っていたり、性自認について悩んでいる人たち、とは別に、

そのような人たちをダシにして、他人の自由を奪おうとするアジェンダがある

ということです。

そして、クリスチャンでない人も、クリスチャンである人も、いや、クリスチャンならなおのこと、その裏にあるものを見抜いて、賢く対応すべきではないか、と思います。

最近、日本の一部キリスト教界では、「イエスなら性指向、性自認をどう考える?」とかいろいろな話法でもって、ある種、教会外の世界で異性婚中心の規範や法制度を突き崩そうとする所謂LGBT活動家と同等か、それ以上の熱心さで活動している人たちがいます。

そのような人たちが展開する議論にはいろいろなものがありましょうが、「同性婚」と「性自認」を持ち出してきたら、それは「人の自由を奪おうとする政治的アジェンダ」だと判断して10中8-9は間違いないと思います。

「同性婚」の裏にある本当の狙い

クリスチャンで「同性婚」を望ましいものとして描き出したり、社会に必要不可欠な制度であるかのように言う人がいたら、注意してください。

「同性婚」推進は、同性で好き同士のカップルが添い遂げられるようにしてあげる運動ではありません。

そんなことはもうとうの昔から日本の同性愛者の人たちは養子縁組などをしてひっそりと実行してきているのです。

そうではなく、「同性婚」は、同性愛的関係や行為をメインストリームに押し上げ、誰もそれに対し反対や嫌悪感を一切表明できないように強制するための制度です。

たとえば、ある同性カップルが教会を訪れたとしましょう。AクンとBクンが、「ボクたち愛し合っています。結婚しようとしているので祝福してください」と訪ねてくるとします。

私なら断ります。べつにゲイが生理的に嫌いだからとかではなく、理由は、第一それはそもそも「結婚」ではないし、同性同士で性的関係に至る可能性があるならなおさら祝福できないからです(理由は後述します)。また性的関係に至らないのであれば、たんに兄弟同士として支えあえばいいだけです。

こういう姿勢は「サベツだ!」と言われ炎上するかもわかりません。

でも、よく考えてほしいのは、どっちにしたって、異性婚だってムチャな結婚をしようとする人たちは普通の人は祝福しないのですよね。

例えば「2週間前出会い系サイトで出会って同棲しはじめたC子ちゃんと結婚したいんです!」とか、

「ワシは生涯で何億と言う財産を蓄えてきたが伴侶には恵まれなかった。しかし今75歳になってやっと本当の愛を見つけた・・・3ヶ月前道で偶然出遭ったこの22歳のD子と添い遂げたいと思う」とか、

あるいは50歳のオジさんが発展途上国から16歳の花嫁を連れてくるとか、3回離婚暦のある男が「今度が最後!」といって前回離婚から半年後に結婚、とか、

そういうケースだったら、いくら異性婚だって、すぐには祝福しないです。ていうか普通はしないでしょう。まず事情を確かめようとするはずです。

無論、その異性婚が、きょうだい間、親子間や重婚といった不法なものであったり、あるいは永住権を得るための偽装婚などだったら、絶対に祝福などしないでしょう。

だから、同性間も同様です。これはまず「結婚」ではないし、兄弟どうしとして支えあうのは別に構わないけど、性的関係はやめとけ、と助言するしかありません。

どうしても添い遂げたいなら教会の外でやってくれ、こっちは関知しないよという話です。

要するに私が言いたいのは、人には他人の関係を祝福するかしないか、個別個別に状況を見て自分で判断する自由があるべきだ、という話なのですが、

しかし、「同性婚」という概念は、「異性婚が認められているのに同性婚が認められないのはサベツだ」という理論でもって、

人の性的関係を「あえて祝福しない」という個別の判断の自由を停止させようとしているわけです

これは重大なことだと思います。

誰かを祝福するかしないかは、嫌々ながらではなく、自発的に行われるべきものだからです。

(そして、万一日本で同性婚が法制化されたら、教会の教職への「同性愛カップルを祝福しろ」という圧力は嫌が応でも激しくなるのは確実です。もしかすると「サベツ禁止法」の同時施行によって、断るのは違法行為となるかもわかりません。)

そしてさらに、これには後に続く可能性のある非常に深刻な帰結があるのです。

次に続くものが・・・・

もしかするとですが、ある牧師さんは、情にほだされてしまい、

法制度などなくとも、彼らAくんBくんも普通のカップルと全く変わらないじゃないか。愛し合っているのに祝福しないなんておかしい

と判断し、同性カップルを祝福することを選択するかもしれません。

で、私は半ば確信を持っているのですが、そのような判断をした牧師さんのもとには、

10年くらいたったら今度はXくん(男)とYくん(男)とZさん(女)が来て

僕たち私たち3人は愛し合っているんです。祝福してください」とやってくるかも知れませんよ。(いわゆるポリアモリーです。)

ここで牧師さんが「えっ・・?」と絶句してももう遅いです。

「性的指向(嗜好)でサベツしない」という選択をしてしまった以上、ポリアモリーも一つの性的指向(嗜好)なのですから、これが男男女、女女男、あるいは男男女女、あるいはそれ以上の人数を含む関係であろうとも、「サベツ」してはいけないことになってしまうのです

それだけではありませんよ。

最初に祝福したAくんBくんカップルが、「ボクたち、代理母に赤ちゃんを産んでもらったんです」と連れてやってくるかもしれません。

またはそれに触発され、Fさん(女)Gさん(女)のレズビアンカップルが「私たち精子提供で赤ちゃんを産んだんです」とやってくるかもしれません。

その人のイイ牧師さんが「えっ・・・えっ・・・」と絶句している間に今度は、

さらに触発された別のHさん(女性)が、「ワタシ、シングルマザーだけど子供が欲しいんです。精子提供で子供を設けようと思います」となるかもわかりません。

そもそも、同性カップルが子を設けるには第三者から精子あるいは卵子を貰い受けるしかありませんが、同性カップルがこれをやり始めたら、シングルの人も「どうしてワタシがやっちゃいけないの?」となるでしょう。

(そして今現在でも「精子提供」制度の整っていない日本では「実際に行為をする」ことによる精子提供を受けるシングル女性もけっこういる、とか。)

もともと同性カップルは、子を持ちたいという願望を抱いたら、姦淫に近い行為を経なければ子は持てません。(11/8追記:大阪市で認められたように里親制度で子を持つ場合は別ですが。)

だからこの段階に至ったらもはや、その牧師さんの会衆にとって「姦淫」は全く何の意味もない言葉になってしまいます

このように、「同性カップル」という一つのものを認めるだけで、それに続くあらゆるものがもはや「拒否」できなくなるのです。

そうするとリベラル進歩主義教会が「姦淫は罪ではない」と結論するのも当然の理ですね。もともとの地点が間違っており、食い止めるものが何も無いのですから。

だから、こういう人のイイ牧師さんは、自分の知らないうちにトンでもないことを引き寄せているのです。

神が定め、歴史と文化の中で確立された異性婚という制度を崩すと、もはや性倫理の全面的崩壊まっしぐらなのです。

何を信じどこを目指しているのか

聖書は同性愛を果たして罪と言っているかどうか、という、もう使い古された観のある議論をあえてもう一度蒸し返してみたいと思います。

まずそれは、その「愛」が「性愛」であって、「性的な行為を行いたい」という願望を含むものであるならば間違いなく罪です。

イエスはマタイ伝5:28で「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」と言いました。

つまり、この点においては「異性愛」的傾向の発露であるところの「情欲を抱いて女を見る」行為が罪であると定義されています。実際の姦淫とともに、それを行いたいと切望すること自体が罪ということなのですね。

で、同性愛に戻りましょう。新約聖書には少なくとも二箇所、男性同士の性行為を表しているとされる箇所があります。

第一コリント6:9-10「不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません

第一テモテ1:9-10「すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです

ここでいう男色はアルセノコイタイというギリシャ語から来ており、それは「男」「性行為」の二つを組み合わせた「造語」なのです。

それはギリシャ語70人訳旧約聖書レビ記18:22や20:13の「女と寝るように男と寝てはならない」という節、とくに後者のギリシャ語の表現を見てみるとよくわかります。

新約時代の信者のほとんどはヘブル語よりギリシャ語の旧約聖書を使用していましたから、パウロがこの「造語」を自分で作って書簡に入れ込んだ意図は極めて明白です。「女と寝るように男と寝てはならない」わけです。

しかしまあ、こんなことはギリシャ語をいじくりまわすまでもなく、本当に明白なことなのです。
blogs.yahoo.co.jp
旧ブログタイトルは「日本ではほとんど報じられない海外クリスチャン事情」です。
人体の健康に破壊的影響をもたらしうる行為を「愛」と称したり「罪でない」ということ自体が語義矛盾です。

もちろん、そのことをきちんと把握したうえで、できる限りの防止策をとり、そのうえでその指向(嗜好)にいそしんでいる方がおられるとしたら、その方が教会外の方である限り、私はこれ以上のことは言いません。

むしろ、巷のゲイ情報サイト等には性行為によるHIV感染といった事例が目の前にある危機として取り上げられているのですから、私なんぞがアクティブなゲイの方々に言うのはさしづめ釈迦に説法?といったところでしょう。

しかし、人がもしキリスト者であろうとするなら、

その人は自分の肉を十字架につけ、新しく生まれる必要があります。

ロマ書6:4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

6:6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

6:12ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。

ガラテヤ書5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

これらの言葉は、「情欲を抱いて女を見」がちな異性愛者、に対しても、聖書が硬く警告している行為をしたいと願う同性愛者にも同じように適用されるはずです。

結局それは「盗みたい」「略奪したい」といった願いを密かに抱いているのと同じです。聖書を読みなれている方なら、今挙げた複数の聖書箇所を読み比べればすぐにこの理屈がわかるでしょう。

姦淫も男色も神の国には決して持って入ることのできないものであり、

キリスト者はそのようなことを切望させる情欲、つまり「思い」自体、そしてその「思い」を起こす自分の性質自体を、十字架につけるよう言われているのです。

いや、それとも「イエス様は女を見る者、と言っているから、オレが情欲を抱いて男を見るのはオッケーだ!」というリクツが成り立つのでしょうか?

まさかそんな話にはならないはずです。女と寝るように男と寝てはならない、は新約でも生きている戒めなのですから。

もっとも、勘違いしてほしくないのは、「そういう傾向があるだけで教会出入り禁止」という話ではないということです。

そうしたら異性愛者の男性会員うちの半数以上、あるいは大部分も、同時に出入り禁止になるはずです。

「情欲を抱いて女を見」る罪、詳しくいうならその罪の「性質」、から脱するのは時間も根気もいります。

要は、「自分の肉(クリスチャン用語スミマセン・・・)、すなわち罪の性質」から、反対の方向に、毎日でも少しづつ歩いていこうね、という話であって、

それを「そもそもオレのは罪ではない!」と言うなら、じゃあキミ一体何を信じてるの?どこを目指してるの?、となってしまうのが必定なわけです。

教会が持つ自由への侵食へは「NO」

冗談はともあれ、私が本当に憤っているのは、上述のような同性愛行為にまつわる「不都合な真実」を無視しあるいは隠蔽しながら同性愛行為を「愛」の表れだと誤認させるような語法を展開するとんでもない人たちです。

しかも、それが教会外ではなく「教会内」にいるのです。

なによりも、そのような活動家たちは、クリスチャンが「同性愛は神の前に罪」だという信念を持ち、教会内でそう教える自由を奪おうとしています。

西洋と違って、少なくとも日本の教会は、同性愛者の自由に干渉はしてきませんでした。

教会のその姿勢が気に入らなければ来なければいいだけです。教会の外にはいくらでも同性愛を楽しめるコミュニティがあるはずですから。

しかし、活動家の中には教会に狙いを定める人々がおり、既存教会の信徒から少しづつ、「聖書を文字通り信じ実践する自由」を奪い取ろうとしています。

私は先日自分の教会の会衆の子供たちを見回して思いました。教会外の世界は将来思いもよらない状況に変わるかもしれないけど、

この子供たちが青年・若い女性になっても、教会の中だけは、あらゆる性的穢れから守られた場所であってほしい。

教会の中だけは、せめて教会の中だけは「聖別された」(特別に取り分けられた)場所であり、

そこにいる限り、青年たち若い女性たちは、誰が誰と寝て、別れた、裏切られた、二股かけられた、騙された、思わぬ妊娠をした、中絶をしたとか、殆ど人生を台無しにしかねないような精神的ダメージからは守られていてほしい、

そう思いました。そのように考える信徒、教職者は決して少なくないはずです。

しかし、教会が活動家に一つ譲歩したら、また一つ、また一つと新たな譲歩を要求されるでしょう。

ちょうど、同性婚からポリアモリーへ、いとも簡単に譲歩してしまった米国の進歩派教会のように、

最終的には「姦淫、淫行、不品行はしてはいけない」と若者たちに教えることさえできなくなります。

笑い話ではありません!「姦淫?そうではない、これはポリアモリーだ!」と言い返されて終わりになってしまうからです。

私たちにある自由は、注意していなければ奪われてしまうかもしれません。

ですから、聖書につくクリスチャンのみなさん、表面的で衒学的な議論に騙されないでください。彼らの話法に巻き込まれないでください。

私たちには、聖書を信じる自由があり、その信じるところに従って行動する自由があるのです!

それを守るためには、同性婚という概念には「NO」しかありえないと私なら言います。

「性自認」をレバレッジにしたパワーゲーム

次に「性自認」も同様です。

聖書は「性自認」について何ひとつめぼしいことは語っていません。せいぜい、「異性装」や髪の長さについてのこまごまとした話があるくらいで。

しかし、本当のところは、「聖書は性自認について何を言っているか」ではなく、「性自認を中心とした社会変革を全面に打ち出す人たちが何を目指しているか」が問題なのです。

ズバリ、その狙いは、同様に、「人間の自由な判断を奪うこと」です。

ある教会を想像してみましょう。

生まれつき男性であるが、女性と自認すると主張するIさんが訪れたとしましょう。

とりあえず、牧師はその方から事情を聞き、会衆に受け入れるとします。

でも「困ったなあ・・・ご本人は完全に男性の身体だっていうから、トイレは女性と一緒だと女性信徒から苦情がでるかも知れない・・・」と思い、そこで

大変申し訳ないんですが、トイレについては、男子トイレか、それがどうしてもイヤだという場合は牧師館のをあなた専用にするから使ってもらえませんかね?」と頼むとします。

このように、男性の身体を持つ人と同じトイレは嫌だという女性の権利と、牧師は板ばさみになります。だから、牧師は誰か片方に偏った裁定ではなく、全会衆のためを考え臨機応変に最も良いと思われる判断をしなければなりません。

しかし、「性自認」を絶対視する「トランス運動」基準からすれば、これは完全にサベツ案件で、この牧師は「ヘイト」「トランスフォブ」で炎上確実です。

この基準では「ペニスがある女性もいる」とされているからです。

そのようにして、ある基準により、人間がその場その場で自由に判断する力を奪っていくのがトランス運動なのです。

当然、この場合女性の権利など完全に粉砕です。「弱者であるトランス」が君臨するからです。

こんなものはただのパワーゲームであって、それ以外の何者でもありません。

だから、「聖書は性自認について何と言っているか」なんていうのは本来ほぼどうでもいい話であって、

もしクリスチャンでありながら「自分は男/女として生まれたが女/男として自認している。自分の周囲の人間も全員が絶対に自分を女/男として認め、扱うべきだ」とハードコアトランス運動家さながらに考えている人がいたら、

その人は聖書うんぬん以前に、「他人の自由な判断を認めない単なるコントロールフリーク」です。

自分の都合で周囲の兄弟姉妹に一方的な重荷を押し付けているのです。そこにその人のいまだ癒されていない心の問題があるのです。

そのような人に対して、誰かが自分の自認する性の通りに扱ってくれるとしたら、それは「恵み」「好意」であってそれ以外のものではありません。

私自身は、できる限りそうしてあげたいとは思っており、特にFTMの人たちの場合特段何も感じないのですが、個人や年代によってはそれでも強い違和感を感じる人もいるでしょうし、ましてやFTMの人の場合はトイレをどうするかなど極めて難しい問題が絡みます。

しかし「性的自認の通りに扱ってほしい」がその人にとってのMUSTになってしまえばそれは強制であり押し付けです。

オレ/ワタシを愛せ!オレ/ワタシの思うとうりにオレ/ワタシを扱え!

そんな高圧的アジェンダを持って教会にやってくる人がもしいるならば、その人はキリストやキリストの体である教会に興味があるのではなく自分にのみ興味があり、自分の思うとおりに世界が動いて欲しいと考えているのだとしか言えません。

そもそも、そういう人は自分が一体何を信じているのかを考え直す必要があると思います。そして、もしキリストを信じているというなら、一方的に他人に要求ばかりするのではなく、他の兄弟姉妹と平和に過ごす方法とをどうにか模索すべきでしょう。

まとめ

教会はいろいろな人がやってくる場所ですし、またそうあるべきだと思います。

しかし、もしも教会に対してある特定のアジェンダを押し付けようとする人がいるなら、

そういう人をも無批判に受け入れろとは聖書のどこにも書いてはありません。

むしろ、教職者も信徒も、福音を必要としている人に手を差し伸べつつも、今いる会衆をどう守っていくかを考えるべきでしょう。

また、性と婚姻について一つの点で妥協したら、

留まるところを知らない妥協圧力が次々とやってくるということも知っておくべきでしょう。

私たちは今幸いにして情報社会の発展により海外で起きていることをほぼリアルタイムで知ることができます。だから、西欧のリベラル教会の「失敗」もまた知ることができます。

願わくば、日本にいる人口のたった1%でしかない教会が、教会外よりも早く同性愛を承認してこれを祝福してしまい、その結果教会外の世界よりも早くポリアモリーといった乱倫を受け入れるようになるなどという帰結は絶対に見たくはないものです!

コントロール・フリークという問題

同性愛的傾向を持っていたり、生まれ持った性別と自分の自認する性別が一致していない人たちに対してどう接すればいいのか、私も最近自分なりに真剣に考えていますが、

その過程でふと気づいたことがあります。

そもそも、これは性的指向(嗜好)や、性的自認の問題だと考えること自体が間違っているかも知れない。

そうではなく、ある種の人たちは、「周囲の人たちが自分をどう思い、扱うかを完全にコントロールしたい」という強烈な思いに取り付かれており、この願望を達成するべく火を吐くような勢いで運動している。

これが、むしろ問題をややこしくしているのです。

「同性婚」議論のそもそもの問題点

まず、以下は教会外の話としてしています。

日本では、西洋にかつてあった「ソドミー法」もありませんので、同性に惹かれる人たちが性的活動をすることは完全に自由です。だから、楽しくやっている人たちは自分たちで楽しくやっていて、そのような人たちの間では「同性婚?ナニソレ」なんていう意見さえ聞かれます。

ところが、いっぽうで「性的指向(嗜好)でサベツするのはけしからん!」という理論のもと、「同性婚」を法制化することが絶対に必要だと言い張る人たちもまた存在します。

私自身は、こんな制度露ほども必要とは思わないのでネット上で機会がある毎に反対を表明するのですが、

その度に一定数の人たちから感情的な反論を受けます。ところが、その反論の中には「サベツ!」というもののほかは何一つ説得的なものがありません。

法制度を変更し、国民全体に影響を与えるのだから、「これこれのメリットがある」といって賛成を促すのかと思いきや、そんな手間はいっさいとらず、

果ては「あなたに個人的に何の損失がありますか?」といって、超短期的な要素に視点を逸らし議論をすりかえる有様です。
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結局、推進派の議論を聞いていると、あたかも「反対する権利など最初っからオマイらにはない!」とでも言いたげなのです。(というか実際そう言っている人たちを複数見かけました。)

だからまだ法制化もされていない議論の段階から「他人の自由を根こそぎ奪う気」マンマンなのが、よくわかります。(ガクブル)

そうなったら、「同性婚が法制化」された暁には、それに賛同しない人間をさらに徹底的に叩こうとしてくるのは明白ですね。

で、いっぽう、私は自分の子供たちを見ていて驚いたのですが、彼らはまだ性について何ひとつ教えていないうちに、テレビ番組で海外のゲイカップルなどを見ると「ウエッ気持ち悪い」という感想を漏らすのですが、

実際ゲイ(ウチの子供の場合、レズビアンの場合そのような反応は少ない)カップルをどう見るかなんて、人それぞれの話です。

ある人はなんとも思わないだろうし、別の人は「キモイ」と思うかも知れないし、またある人は「ああ人と人が愛し合うとはなんと麗しい・・・」と感じるかも知れません。

ところが、同性婚法制化推進運動というものは、その、人によっては感じる「ウエッ」という感情とか、その他もろもろの動機によるネガティブな反応や反対論を、ムリに非合法なものにしてしまおうとしているわけですね。

そもそも、人と人との結びつきを祝福するかどうかなんて、個人の内心の自由に属する事項です。

これはときとして異性愛カップルが結婚しようとする場合でさえそうなのです。私はかつて、定職にもつかない友人が突然ガールフレンドと「結婚する」と言い出したとき、ゼンゼン祝福する気になれませんでした。「んなことより早く仕事さがせ」という言葉がのど元まで出かかったものです。

話が逸れましたが、私が同性婚推進派の人たちと議論して決定的な印象を受けたのは、

これは「性的指向(嗜好)」の問題ではなく「彼らが望むのは完全なコントロール」だ、ということなのです。

繰り返しになりますが「性的指向(嗜好)」を満たしたいなら、日本にはゲイ雑誌もあれば、ハッテン場もあり、同性同士で性行為をしてもなんらとがめられません。

しかし、「周囲が自分たちをどう思い、扱い、位置づけるかを制御する」ことが、推進派の人たちにとっての最重要事項であり、ドグマであり、目標なのです。

「理論」を学ばせ、支配する手法

今は去りましたがかつて冷戦時代には、旧ソ連は米国との間のパワーゲームに勝利するべく世界各地で「共産ゲリラ」を組織し、支援していたといいます。

そこでゲリラが決まって学ばされるのが、銃の撃ち方以前に「マルクス理論」だったそうです。

「理論」を学ばせ、思考の過程を支配し、コントロールを容易にするわけです。この「理論」って、独裁国家では結構活用されています。(「思想」、に置き換えてもいいでしょう。北朝鮮の「主体思想」とか、中国でも「習近平思想」なんてものが出てきますね。)

ある理論や思想を構築したうえで、それを絶対真理とし、「それをマスターしていないと一人前とはいえない」「それを習っていないヤツはダメなやつだ」といった圧力を持って、人を支配していくわけです。

私は、「LGBT」理論てまさにこれだ!と思いました。

で、現在まさに日本でも活動家が「講師」となって学校や企業に呼ばれ、何か一方的な情報を受け手に吹き込みつつ、小遣い稼ぎまでしていますが、

そもそも「性的指向(嗜好)は生まれつきだ、変えられない」とか、「性自認」がどうとか、

そういったことは100%純然たる本人の自己申告であり、主観的なものです。

中には、「トランスの脳の構造は他と違うのだ!」と言う人もいますが、

そもそも数万人といったエビデンスを集めてその理論が正しいことが証明されたわけでは全くないですし、

今現在「ワタシは男(女)」と自認している、と主張する人たちすべての脳の構造を調べたわけでもありません。

これはもちろん「性的指向」も同じで、「ワタシはゲイ、あるいはレズビアン」と言う人たちの心の中を覗けるわけではないので、その人の言うのが「性的指向」なのか「性的嗜好」なのか、検証のしようもないのです。本人が言っているだけなのです。

もっとも、何度も繰り返しになりますが、今の日本の社会には自由があります。西洋にかつてあった「ソドミー法」もありませんので、その「性的指向」あるいは「性的嗜好」を持った人たちが、互いに気があって、合意し、性的活動に至ったり同棲したりすることについては何の規制もありません。

その場合、それが指向なのか嗜好なのか、そんなことに注意を払う必要などどこにもないわけです。

ところが、LGBT理論によると、ゲイ、レズビアン、バイセクシャルはみなことごとく「嗜好」ではなく「指向」だ、異論は絶対に絶対にユルサン、といいます。

また、「自認」にしたって、ただ主観的であるというだけでなく、多くの調査では半数以上(調査によっては9割以上)もが、少年少女の時代に「トランス」と自認しても、大人になるとそれは消えてしまうというのですが、
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トランスジェンダリズム運動の本質(追補2) 過去の投稿でトランスジェンダリズムについていろいろ書いてきて、書きたいことはひと段落したつもりだったのですが、更なる展開が見えてきたので記事にしたいと思います。 「ジェンダーウィスパラー」はヘイト...


その、将来どう転ぶかわからない「自認」を絶対視しなければならない、これまた異論は絶対に絶対に絶対にユルサン、という前提で西欧リベラル諸国の法制度や学校制度は構築されつつあります。

こんなものは「マルクス理論」とか、と同じです。

何かでっちあげたドグマを元に、他人の自由な思考力を奪う方便として、「性的指向(嗜好)」や「性自認」という概念を使っているだけです。

既に西洋でも、日本でも、同性同士イチャつきたければその自由があり、また異性装をしたところでタイホもされません。ただ、周囲からどういう目で見られるかを気にしなければ、というだけです。

ところが、それだけでは足りず、「周囲」の内心から言動まで全てをコントロールしろ、というのがこの運動家たちの要求なのです。

私は、そのような運動家たちに対してそろそろ

「もういい加減にすれば?あんたたちの理論なんか僕らゼンゼン信じられないし、あんたたちの言うこと聞く気もサラサラないから」

とハッキリ言うべき時期なのではないか、と考えています。

「トランスジェンダー運動」が引き起こす人権侵害の可能性

上記では「同性婚」の問題に触れましたが、「トランスジェンダー」、いや、正確にいうと「トランスジェンダー」運動、についても同じことが言えると思います。

私は、いわゆる「トランスジェンダー」運動をしている人が持つ問題は、異性装とか、性自認がどうとか、そこではなく、もっと深いところになると思います。

彼(彼女)は、「他人が自分をどう扱うかをコントロールする」ということに取り付かれているのです。問題はむしろ、ここにあります。

本来、他人が自分をどう扱うかをコントロールするのは難しいものです。

誰であっても不意に他人から嘲弄されたり、騙されたり、意地悪をされたり、押しのけられたり、自分が望むより遥かに低い扱いしか受けられなかったりすることがあります。

そこで人は、自分を相応に扱ってくれる人たちと仲間を作りつるみます。しかし仕事場ではヒドいクライアントやムチャばかり言う上司に小突きまわされたりします。それでまた仲間たちに愚痴をこぼすなり、趣味で発散するなりして、日常に戻る、その繰り返しです。

(クリスチャンの場合は、教会が発散や浄化の場になることもあります。もっとも、奉仕奉仕でますます消耗してしまう人もいるようですが・・・)

しかし、他人が自分をどう扱うかについては、たとえ不満があっても、

その解決策は、「自分を相応に扱ってくれる人とできるだけ一緒に過ごし、そうでない人たちとは必要最小限の場合以外はできるだけ一緒には過ごさない」という対処法以外には、なかなかないものです。

ところが、「トランスジェンダー」、つまり生物学的性別と性的自認が一致しない、と主張する人たちの中には、

かたや、日本の法令に基づいて性転換手術を受け、戸籍を変更するなどして、できるだけ自分の生活しやすさを確保しつつなおかつ周囲との摩擦も最小限になるよう、この日本でできることを淡々と実行している人もいれば、

オレ/ワタシは生物学的には女/男だが、自認している性は男/女なのだ。全ての人はオレ/ワタシを男/女と扱わなければならない!診断とか手術の有無は関係ない!

として、意気盛んなアクティビズムに邁進する人もいます。

はっきり言って、こんなの(後者)はムチャもいいとこです。

例えば、もしある人が生まれつき男性なら、どんなに女装しても多くの場合周囲の人にとっては「うん?ちょっと女性っぽいかな?」「いや、やはり男性だろう」とその判断にばらつきが出るものです。

そんなことは、ハッキリ言って本人のコントロールの外にあるものです。

むしろ「何人たりとも100%女と判断しろ」と強制するのは、周囲の人間の自由を侵害している行為だとすら言えるでしょう。

そうすると「いや、ダメだ!それはトランスの人権の侵害だ!」という声が聞こえそうですが、

しかしこれはどうでしょう。この後者の主張を無理を承知で通してしまうと、今度は

たとえ生まれつき男性であっても、女性と自認しているのだから女子トイレ/シャワー室を使わせろ

ということになります。ここまで来ると、生まれつき女性でかつ女性と自認している人たちに対するリッパな人権侵害です!

蛇足ですが、もっと酷い場合は、「ペニスのある女性もいる」とかいう話になります。で、イギリスではその「ペニスのある女性」から「ワタシはレズよ」「ペニスは女性器よ」と言って言い寄られて困る、カンベンしてくれ、と、レズビアンからトランスに対して苦情が出る、といったワケのわからない話まで出てきているのです。
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トランスジェンダリズムの本質(追補3) トランス運動の爛熟とLGBT運動の崩壊: レズビアンの反乱 日本では、トランスジェンダー運動はLGBT運動の一部に収まっています。 というより、この問題についての知識がよくも悪くもいきわたっていないの...


こんなバカな話が日本でも起こったらどうでしょう?それでも「自認」が全てだ!という議論を受け入れるべきなのでしょうか?

教会ではどうするべきか?

ここからは教会内の話です。

私は政治的には上述のような信条を持っているとはいえ、

同性愛的傾向を持っていたり、性的自認が生まれつきの性別と異なると主張する人たちが教会にやって来た場合どう接するかについては、

その人が本心でイエスを信じている限り、その人は他の兄弟姉妹と同じだと考えます。

だから同性愛的傾向を持つ人が来たからといって、別段何か接し方を変えようとは思いません(し、実際変えてもいません。ただ、本人の性的活動について知りえた場合は、タイミングを見計らって、他に誰もいない個人的な場で何か言うかも知れませんが。)

なお、私は、いわゆる「トランスジェンダー」を自認する人たちを自教会で迎え入れた経験はありません。

しかし、もしも前回引用させていただいた「約束・・・」の主催者の人(FtMトランスジェンダー)のような方が来たら、

本人が「クンづけで呼んで欲しい」というなら、私ならその通りにします。

男子との交わりのほうが気が楽だというなら、別にそれも止め立てはしません。

しかし、その人がアクティビズムに邁進しはじめたら、私なら

「ねえ、神様の栄光を表すため他にできることがあるんじゃない?」と問いかけるでしょう。

聖書を読むとわかりますが、かつてキリストへの信仰を持つ初期の信者たちは、たとえ周囲から迫害されていても、神によって義とされているという感謝と平安を持っていました。

私はその域まで達しているかはちょっと自信を持って言い切れませんが、少なくともそうありたいと思っています。

しかし、トランスアクティビズムに邁進すると、ときとして、例えば「投票用紙の色がピンクなのはけしからん」とか、国の法制度から何から何まで根こそぎ変更しなければならず、

周囲の人間が完全に自分を自分の思う通りに扱ってくれるようになるまで、まるで心の平安がゼンゼン得られないかのようです。

はっきり言って、とてもかわいそうだと思います。そして、異性装とかの問題を超えて、まさにそれが、そのひとが根源的に抱えている最大の問題だと思うのです。

私は、そのような人が教会に現れたら、親切に扱い、少なくとも教会の中では居心地よく過ごせるよう心配りをしようと自分自身では心に決めていますが、

同時に、その人のする「アクティビズム」には一切賛同も手助けもしないつもりです。

そして、その人がもし教会外で生きづらいというなら、できるだけ生きやすくなる方法を一緒に考えようとは思っていますが、

いっぽうで、その人が、もしも周囲の人間に結果として何かを強制するような方向の政治活動をしていたとしたら、私なら諌めるでしょう。「そんなのムリなんじゃない?」と。そして、実際に「ムリ」だと思っています。いや、本当に「ムリ」なのです。

それは人間の心を外部からコントロールしようとする営為だからです。

「放置するのはサベツに加担するのと同じだ!」といわれるかもしれません。

でも、そんな論法に乗せられて、運動を手助けしたって、今度は反対する人を「折伏」する必要が出てきます。

もうそうすると、もはや、キリストの体を建て上げるためにクリスチャンをやっているのか、それとも「マジョリティ」vs「マイノリティ」の階級闘争のために教会をやっているのか、わからなくなってきてしまいます(これをやってるのが日基とかバプ連?)。

私はそんなのはイヤです。教会は、政治の場ではないのです。

そして、誰かが教会に来たら、その人が安心して過ごせるようにしたいとは思っていますが、それだからといってその人以外の人たちに不利益を与えるわけにもいきません。それこそ「不公平」です。

教会は、政治の場ではなく、キリストに栄光をお返しする場です。それ以外の活動を混入させるわけには、いきません。だから絶対にそうさせないつもりです。

これが私なりに考えた末の答えです。

クリスチャンのみなさん、どう思われますか。
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