教会は民主主義であるべきか?(1)
以前取り上げさせていただいたFuminaruさんという方のブログに、最近こんなものが乗っていました。
fuminaru.blogspot.com
キリスト教プロテスタント教会のカルト化と健全性について。映画ネタや時事ネタも時々。
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教会政治の話になると、私の牧師はほとんど必ずこんなことを言いました。
「神の国は民主主義なんかじゃない。神権政治だ。だからこの教会も、神の統治に完全に従わなければならない」
そこで思い出すのが旧約の士師記の時代です。王がなく、預言者を通して語られる神の言葉を頼りに、それぞれの部族が自立的に暮らしていた時代です。真の統治者は人間にあらず、神である、というわけですね。
それはいかにも「聖書的」だと、私たち信徒は思いました。
「神ご自身が統べ治める教会」
なんと心地よい響きでしょう。
だから私たちはすぐ「アーメン」と同意して、牧師の言う「神権政治」を受け入れました。
で、どうなったかと、「牧師の独裁」です。
結局のところ、神の御心を代弁するのは牧師なのですから。
--------------(引用終わり)
続く記事は引用しませんが、このFuminaruさんという方、とにかく、本当に今までヒドい牧師にばかりにあたってきたのかな~と想像します。その点かわいそうだな、と思います。
で「民主主義(議会制)」か?「神権政治」か?の二項対立しかないかのように書いており、まあその点でも教会生活でのいろいろなポジティブな経験が本当になかったからそうゆう発想なんだろうな~、とその意味でも同情してしまいます。いや、本当に可哀想。
ともあれ、私思うに、教会は民主主義でも神権政治でもうまく行きません。
この二項対立を突きつけて「神権政治はダメだろ?だから民主主義にしろ!」なんてのは、失礼ながらあまりにも短絡的だと思います。
なぜって?それをこれから説明します。
民主主義のリスク
この引用記事の著者さんは、民主主義というのをとても肯定的に考えており、これによって大抵の問題は解決できるかのようにとらえておられるみたいです。
ですが、私は思います。今現代の私たちは、教会を民主主義にしちゃダメです。
なぜなら一発で外部勢力に乗っ取られるような脆い組織になるから。
考えても見てください。民主主義ってどんなにか脆い制度だかわかりますか?
今米国で民主党がちょうどやっていますが、「外部から人を沢山取り込み、彼らに厚い福祉を与え、その全員に投票権を与える」なんてことをやったら、カンタンに権力なんて乗っ取れるのです。
blogs.yahoo.co.jp
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最近全く放置です・・・こっちのブログ(汗)。↑
さらに、民主主義の場合「民主主義を嫌い、これを壊そうと画策する人」にも一票が与えられており、そういった人も、「民主主義を破壊するための運動」を推進する発言権が与えられます。
だから、民主主義制度自体がそういうやっかいなリスクを内在しているのです。
そうすると、民主主義制度をとるならばそういうリスクをどうにかヘッジする方策を考える必要がどうしても出てきます。
私は以前「よもぎねこ」さんのブログを拝見していて興味深い知見を教えていただいたのですが、
yomouni.blog.fc2.com
女性であるのに、このような問題に極めてラディカルな発言をなされる。この場合のラディカルは根源的なという意味です。
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古代ギリシャの民主主義は徴兵制と不可分だったのだそうです。つまり「国が有事となったら命を懸けて戦う」覚悟があることが、参政権の条件ということ。
これを見て私はハタと気づきました。
国が誰にでも彼にでも参政権を与えていたら、そりゃ「この国を覆してやる」と思っている人も参政権は持つわけで、そうなったら国は獅子身中の虫を飼うことになってしまいます。
人の流入などで、どこから来たか背景がわからないような人にも参政権を与えるのも、当然危険なことでしょう。
だから、古代の人たちはそれなりに知恵を絞ってこういう制度で危険を防いでいたんですね。
しかし、兵役に出ないと参政権がもらえないなんて、現代ではもちろんムリです。
でも、日本の場合純血主義による国籍の付与か、外国人なら帰化の手続きをとるなどしないと日本での参政権は与えられません。
これが万全かは知りませんが、辛うじて「誰でも彼でもやってきて、日本を覆すために運動する」といったことは防げている(つもりな)んでしょう・・・ね?(いや、なんだか自信なくなってきましたが)
民主教会のモロさ
はい、それでは、ひるがえって教会の話です。
教会というのは、(激しい迫害下にある中国や北朝鮮の地下教会、あるいはエジプトのコプト教会などは除きますが先進国では)とてもオープンな場所です。
基本的に、誰でも入ってこれます。そして、教会員になるに際して、特段身元調査とかもありません。
また教会によっては、何ヶ月かの「求道者コース」みたいなのが課せられることもありますが、基本的には言われたことを従順に守ってい(るそぶりをす)れば、洗礼を受けて教会員になれます。
さあ、それで、あるところに民主的教会があって、そこにAさんが加入して、教会運営についても投票権とか発議権が与えられるとします。
でも、その人が、加入してしばらくしてから突然、「同性愛は罪ではない!教会は今までの方針を改めるべきだ!」とか言い始めたらどうしますか?
民主的な教会なら、権利は平等なのですから、形式としてはその問題提起もいちおう取り上げなければいけなくなります。
もちろん、大抵の教団には信条がちゃんと明記されてますから、例えば「我らは結婚は男女のものだと信じます」とか内規に書いてあって、これに違反するからダメじゃないか、と周囲が抑えようとする場合もあるでしょう。
でも、そんなときその人が「これは不当なサベツだ!」と言い出したらどうでしょう。
またそのようなガチの戦法をとらなくとも、少しづつ外堀を埋めていく方法もあります。
いきなり「同性愛行為」とか「同性婚」の認定を迫るのではなく、まずはそういう性質を「ゆる~く」問題視しない方向に持っていくわけです。
また、どんな組織にも、指導部に多少なりとも不満を持っている人というのはいます。
だからそのAさんがそういう人たちを対象に周囲に多数派工作をしかけたら、何人かが同調し「そうだそうだ、今までの方針は間違っている!」と言い出すかも知れません。
何度もいいますが、民主主義って実にモロいのです。
全体のメンバーのたった数パーセントであっても、あるアジェンダを声高に唱え、反対者を口汚く罵倒し、それで周囲に恐怖感を与えることに成功すれば、組織の運営は大きく影響を受けます。
「面倒を起こしたくない」という意識も働きますから、「あいつらにうるさく言われるくらいなら・・・」といった忖度も働き、
そのたった数パーセントを怒らせないために、何かの政策をとったり、あるいは本来とるべき政策を控えたり、ということが起こりえます。
じゃあ、ある教会組織にそういう意図を持った人を数人送り込んだら?
もうそれだけでひとたまりもないでしょう。十年もあれば完全に乗っ取り成功です。
ラオデキア教会の落とし穴
私思うにそもそも「民主主義的な教会運営」ていう言葉自体にワナがあると思うのです。
ヨハネの黙示録には「ラオデキアの教会」というのが出てきます。「ラオデキア」というのはギリシャ語で「人々の意見」という意味だそうです。ヨハネの幻によると、このラオデキアの教会に対してイエスはかなり厳しい言葉を投げています。
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
ともあれ、教会が「民主」的だとしたら、「民」を中心に考えているわけで、
その教会の方向性は、その中にいる「民」の総意で決定するということですね。
では、その「民」が「私たちはもう聖書は神の言葉とは信じないことにしました」「復活も信じません」「同性愛も姦淫もオッケーです」と、そのの総意に基づき民主的手続きによって決定したら、それは通ってしまうということです。
(民主主義は駆け引きの世界ですから、必ずしも大多数がそう思っている必要はありません。ごく少数が、アクティビズムを通じて多数を黙らせたり圧力を加えて従わせることも可能です。)
・・・で、それでいいんですか?それって教会ていえるでしょうか?
そんなメチャクチャな、と思う人もいるかもしれませんが、何度もこのブログで警告したとおり、そういうことが本当に西洋のリベラル教会では進行しており、また日本の教会も決してこの流れとは無縁ではないのです。
もっと身もフタもないこと言いましょうか。
「民主」ということは「民」が「主」ですよね。「民」が「主」だとしたら、じゃあ「『主』イエス」は一体何処にいるんですか?
漢字を見るだけで、このおかしさというか度し難いほどの矛盾がわかるのです。
「民」が「主」なんでしょ?だったら、「オレたちこそ主」、「オレたちが神だ!」てわけですよ。違いますか?こんなのもはやキリストの教会とはいえないですよね?
ちなみに、黙示録ではイエスが教会の戸を叩いています。
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。
なんでイエスがそんなことをしているのでしょうか?イエスはキリスト者にとっての主なんだから、堂々と入ってくればいいはずです。
いえ、残念ながらイエスはこの教会から「締め出された」のです。なぜならラオデキア教会が「民」を「主」にしてしまったからです。一つの集団が2つの主を持つことはできないからです。
だから、民主主義を採用する教会は非常に脆いしどこに迷い出てしまうかわかったものではないのです。
神権政治はさらにダメ
さあ、民主主義がダメなら、神権政治はどうでしょうか。それもダメです。だって、「権」がついてるでしょ。もうこれだけでアウトですよ。「権」は「権威」とか「権限」でしょう。これがいかにダメかは、ルカの福音書のこの箇所見ればわかります。
22:24-27また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。
すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。
だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。
食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。
もし、引用記事の著者さんが批判していた当該の牧師さんが本当に「教会は神権政治だ」「教会は神の統治に従わなければならない」と言っていたなら、
私はこの聖書箇所をもってそれは異端だと判断しますし、その牧師さんが間違っているという点においては著者さんに同意します。
そもそも、神権政治てキリスト教出現以前の異教社会でも結構使われていたんですよ。王が「自分は神の子」と宣言したり、神の託宣を聞いたというので政策を決定したりとか。
まあ、キリスト教以後でも、イスラムなんかいい例ですよね。預言者ムハンマドは何かあるたびにアッラーのお告げを受けて政策を決定したそうです。
「昨日アッラーがワシにこう仰せられた。だから、これこれをしろ。従わないのはアッラーへの反逆だぞ」みたいな?ヒドい場合には部下の妻と浮気した次の日に「昨日実はアッラーが、他人の妻を娶るのは場合によってはかまわないとワシに仰った」とかも。現代人がみたら「たいがいにせえよ」みたいなやり方ですが、当時は大真面目だったんですね。
話がそれましたが、あくまでその牧師さんが「教会は神権政治」と本当に言ったなら、とんでもない話です。
それこそ「神がこう仰せられたからお前らこれをしろ」的な横暴が行われる危険が満載です。その当該牧師さんは本当に歴史に無知か、それとも言葉の意味をゼンゼンわかってないかどっちかですね。いずれにせよその牧師さんに全面反対するという点においては同意。
でも、です。民主主義も上記のように教会には適さない制度です。
でもじゃあ、いったいどうすればいいんでしょうか?
それはまあ、民主主義でもなく、神権政治でもなく、「『キリスト』主主義」でいくしかありません。
具体的にどうやって?
それはイエス様を見て学ぶしかありません。ヒントは、「あれをやれ」じゃなくて「ついてきなさい」です。
・・・ちょっと今日は時間がないので、次回、詳しく論じたいとおもいます。