自由を奪おうとするアジェンダ
レズビアン、ゲイ、バイセクシャルといった傾向を持つ人たちや、生まれ持った性別と自分の自認する性別が一致していないと感じる人たちとの関わりについて色々書いてきましたが、
どうやらいろいろ書く過程で見えてきたものがあります。
それは、異性愛とは異なる性的傾向を持っていたり、性自認について悩んでいる人たち、とは別に、
「そのような人たちをダシにして、他人の自由を奪おうとするアジェンダがある」
ということです。
そして、クリスチャンでない人も、クリスチャンである人も、いや、クリスチャンならなおのこと、その裏にあるものを見抜いて、賢く対応すべきではないか、と思います。
最近、日本の一部キリスト教界では、「イエスなら性指向、性自認をどう考える?」とかいろいろな話法でもって、ある種、教会外の世界で異性婚中心の規範や法制度を突き崩そうとする所謂LGBT活動家と同等か、それ以上の熱心さで活動している人たちがいます。
そのような人たちが展開する議論にはいろいろなものがありましょうが、「同性婚」と「性自認」を持ち出してきたら、それは「人の自由を奪おうとする政治的アジェンダ」だと判断して10中8-9は間違いないと思います。
「同性婚」の裏にある本当の狙い
クリスチャンで「同性婚」を望ましいものとして描き出したり、社会に必要不可欠な制度であるかのように言う人がいたら、注意してください。
「同性婚」推進は、同性で好き同士のカップルが添い遂げられるようにしてあげる運動ではありません。
そんなことはもうとうの昔から日本の同性愛者の人たちは養子縁組などをしてひっそりと実行してきているのです。
そうではなく、「同性婚」は、同性愛的関係や行為をメインストリームに押し上げ、誰もそれに対し反対や嫌悪感を一切表明できないように強制するための制度です。
たとえば、ある同性カップルが教会を訪れたとしましょう。AクンとBクンが、「ボクたち愛し合っています。結婚しようとしているので祝福してください」と訪ねてくるとします。
私なら断ります。べつにゲイが生理的に嫌いだからとかではなく、理由は、第一それはそもそも「結婚」ではないし、同性同士で性的関係に至る可能性があるならなおさら祝福できないからです(理由は後述します)。また性的関係に至らないのであれば、たんに兄弟同士として支えあえばいいだけです。
こういう姿勢は「サベツだ!」と言われ炎上するかもわかりません。
でも、よく考えてほしいのは、どっちにしたって、異性婚だってムチャな結婚をしようとする人たちは普通の人は祝福しないのですよね。
例えば「2週間前出会い系サイトで出会って同棲しはじめたC子ちゃんと結婚したいんです!」とか、
「ワシは生涯で何億と言う財産を蓄えてきたが伴侶には恵まれなかった。しかし今75歳になってやっと本当の愛を見つけた・・・3ヶ月前道で偶然出遭ったこの22歳のD子と添い遂げたいと思う」とか、
あるいは50歳のオジさんが発展途上国から16歳の花嫁を連れてくるとか、3回離婚暦のある男が「今度が最後!」といって前回離婚から半年後に結婚、とか、
そういうケースだったら、いくら異性婚だって、すぐには祝福しないです。ていうか普通はしないでしょう。まず事情を確かめようとするはずです。
無論、その異性婚が、きょうだい間、親子間や重婚といった不法なものであったり、あるいは永住権を得るための偽装婚などだったら、絶対に祝福などしないでしょう。
だから、同性間も同様です。これはまず「結婚」ではないし、兄弟どうしとして支えあうのは別に構わないけど、性的関係はやめとけ、と助言するしかありません。
どうしても添い遂げたいなら教会の外でやってくれ、こっちは関知しないよという話です。
要するに私が言いたいのは、人には他人の関係を祝福するかしないか、個別個別に状況を見て自分で判断する自由があるべきだ、という話なのですが、
しかし、「同性婚」という概念は、「異性婚が認められているのに同性婚が認められないのはサベツだ」という理論でもって、
人の性的関係を「あえて祝福しない」という個別の判断の自由を停止させようとしているわけです。
これは重大なことだと思います。
誰かを祝福するかしないかは、嫌々ながらではなく、自発的に行われるべきものだからです。
(そして、万一日本で同性婚が法制化されたら、教会の教職への「同性愛カップルを祝福しろ」という圧力は嫌が応でも激しくなるのは確実です。もしかすると「サベツ禁止法」の同時施行によって、断るのは違法行為となるかもわかりません。)
そしてさらに、これには後に続く可能性のある非常に深刻な帰結があるのです。
次に続くものが・・・・
もしかするとですが、ある牧師さんは、情にほだされてしまい、
「法制度などなくとも、彼らAくんBくんも普通のカップルと全く変わらないじゃないか。愛し合っているのに祝福しないなんておかしい」
と判断し、同性カップルを祝福することを選択するかもしれません。
で、私は半ば確信を持っているのですが、そのような判断をした牧師さんのもとには、
10年くらいたったら今度はXくん(男)とYくん(男)とZさん(女)が来て
「僕たち私たち3人は愛し合っているんです。祝福してください」とやってくるかも知れませんよ。(いわゆるポリアモリーです。)
ここで牧師さんが「えっ・・?」と絶句してももう遅いです。
「性的指向(嗜好)でサベツしない」という選択をしてしまった以上、ポリアモリーも一つの性的指向(嗜好)なのですから、これが男男女、女女男、あるいは男男女女、あるいはそれ以上の人数を含む関係であろうとも、「サベツ」してはいけないことになってしまうのです。
それだけではありませんよ。
最初に祝福したAくんBくんカップルが、「ボクたち、代理母に赤ちゃんを産んでもらったんです」と連れてやってくるかもしれません。
またはそれに触発され、Fさん(女)Gさん(女)のレズビアンカップルが「私たち精子提供で赤ちゃんを産んだんです」とやってくるかもしれません。
その人のイイ牧師さんが「えっ・・・えっ・・・」と絶句している間に今度は、
さらに触発された別のHさん(女性)が、「ワタシ、シングルマザーだけど子供が欲しいんです。精子提供で子供を設けようと思います」となるかもわかりません。
そもそも、同性カップルが子を設けるには第三者から精子あるいは卵子を貰い受けるしかありませんが、同性カップルがこれをやり始めたら、シングルの人も「どうしてワタシがやっちゃいけないの?」となるでしょう。
(そして今現在でも「精子提供」制度の整っていない日本では「実際に行為をする」ことによる精子提供を受けるシングル女性もけっこういる、とか。)
もともと同性カップルは、子を持ちたいという願望を抱いたら、姦淫に近い行為を経なければ子は持てません。(11/8追記:大阪市で認められたように里親制度で子を持つ場合は別ですが。)
だからこの段階に至ったらもはや、その牧師さんの会衆にとって「姦淫」は全く何の意味もない言葉になってしまいます。
このように、「同性カップル」という一つのものを認めるだけで、それに続くあらゆるものがもはや「拒否」できなくなるのです。
そうするとリベラル進歩主義教会が「姦淫は罪ではない」と結論するのも当然の理ですね。もともとの地点が間違っており、食い止めるものが何も無いのですから。
だから、こういう人のイイ牧師さんは、自分の知らないうちにトンでもないことを引き寄せているのです。
神が定め、歴史と文化の中で確立された異性婚という制度を崩すと、もはや性倫理の全面的崩壊まっしぐらなのです。
何を信じどこを目指しているのか
聖書は同性愛を果たして罪と言っているかどうか、という、もう使い古された観のある議論をあえてもう一度蒸し返してみたいと思います。
まずそれは、その「愛」が「性愛」であって、「性的な行為を行いたい」という願望を含むものであるならば間違いなく罪です。
イエスはマタイ伝5:28で「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」と言いました。
つまり、この点においては「異性愛」的傾向の発露であるところの「情欲を抱いて女を見る」行為が罪であると定義されています。実際の姦淫とともに、それを行いたいと切望すること自体が罪ということなのですね。
で、同性愛に戻りましょう。新約聖書には少なくとも二箇所、男性同士の性行為を表しているとされる箇所があります。
第一コリント6:9-10「不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません」
第一テモテ1:9-10「すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです」
ここでいう男色はアルセノコイタイというギリシャ語から来ており、それは「男」「性行為」の二つを組み合わせた「造語」なのです。
それはギリシャ語70人訳旧約聖書レビ記18:22や20:13の「女と寝るように男と寝てはならない」という節、とくに後者のギリシャ語の表現を見てみるとよくわかります。
新約時代の信者のほとんどはヘブル語よりギリシャ語の旧約聖書を使用していましたから、パウロがこの「造語」を自分で作って書簡に入れ込んだ意図は極めて明白です。「女と寝るように男と寝てはならない」わけです。
しかしまあ、こんなことはギリシャ語をいじくりまわすまでもなく、本当に明白なことなのです。
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旧ブログタイトルは「日本ではほとんど報じられない海外クリスチャン事情」です。
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人体の健康に破壊的影響をもたらしうる行為を「愛」と称したり「罪でない」ということ自体が語義矛盾です。
もちろん、そのことをきちんと把握したうえで、できる限りの防止策をとり、そのうえでその指向(嗜好)にいそしんでいる方がおられるとしたら、その方が教会外の方である限り、私はこれ以上のことは言いません。
むしろ、巷のゲイ情報サイト等には性行為によるHIV感染といった事例が目の前にある危機として取り上げられているのですから、私なんぞがアクティブなゲイの方々に言うのはさしづめ釈迦に説法?といったところでしょう。
しかし、人がもしキリスト者であろうとするなら、
その人は自分の肉を十字架につけ、新しく生まれる必要があります。
ロマ書6:4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
6:6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:12ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
ガラテヤ書5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
これらの言葉は、「情欲を抱いて女を見」がちな異性愛者、に対しても、聖書が硬く警告している行為をしたいと願う同性愛者にも同じように適用されるはずです。
結局それは「盗みたい」「略奪したい」といった願いを密かに抱いているのと同じです。聖書を読みなれている方なら、今挙げた複数の聖書箇所を読み比べればすぐにこの理屈がわかるでしょう。
姦淫も男色も神の国には決して持って入ることのできないものであり、
キリスト者はそのようなことを切望させる情欲、つまり「思い」自体、そしてその「思い」を起こす自分の性質自体を、十字架につけるよう言われているのです。
いや、それとも「イエス様は女を見る者、と言っているから、オレが情欲を抱いて男を見るのはオッケーだ!」というリクツが成り立つのでしょうか?
まさかそんな話にはならないはずです。女と寝るように男と寝てはならない、は新約でも生きている戒めなのですから。
もっとも、勘違いしてほしくないのは、「そういう傾向があるだけで教会出入り禁止」という話ではないということです。
そうしたら異性愛者の男性会員うちの半数以上、あるいは大部分も、同時に出入り禁止になるはずです。
「情欲を抱いて女を見」る罪、詳しくいうならその罪の「性質」、から脱するのは時間も根気もいります。
要は、「自分の肉(クリスチャン用語スミマセン・・・)、すなわち罪の性質」から、反対の方向に、毎日でも少しづつ歩いていこうね、という話であって、
それを「そもそもオレのは罪ではない!」と言うなら、じゃあキミ一体何を信じてるの?どこを目指してるの?、となってしまうのが必定なわけです。
教会が持つ自由への侵食へは「NO」
冗談はともあれ、私が本当に憤っているのは、上述のような同性愛行為にまつわる「不都合な真実」を無視しあるいは隠蔽しながら同性愛行為を「愛」の表れだと誤認させるような語法を展開するとんでもない人たちです。
しかも、それが教会外ではなく「教会内」にいるのです。
なによりも、そのような活動家たちは、クリスチャンが「同性愛は神の前に罪」だという信念を持ち、教会内でそう教える自由を奪おうとしています。
西洋と違って、少なくとも日本の教会は、同性愛者の自由に干渉はしてきませんでした。
教会のその姿勢が気に入らなければ来なければいいだけです。教会の外にはいくらでも同性愛を楽しめるコミュニティがあるはずですから。
しかし、活動家の中には教会に狙いを定める人々がおり、既存教会の信徒から少しづつ、「聖書を文字通り信じ実践する自由」を奪い取ろうとしています。
私は先日自分の教会の会衆の子供たちを見回して思いました。教会外の世界は将来思いもよらない状況に変わるかもしれないけど、
この子供たちが青年・若い女性になっても、教会の中だけは、あらゆる性的穢れから守られた場所であってほしい。
教会の中だけは、せめて教会の中だけは「聖別された」(特別に取り分けられた)場所であり、
そこにいる限り、青年たち若い女性たちは、誰が誰と寝て、別れた、裏切られた、二股かけられた、騙された、思わぬ妊娠をした、中絶をしたとか、殆ど人生を台無しにしかねないような精神的ダメージからは守られていてほしい、
そう思いました。そのように考える信徒、教職者は決して少なくないはずです。
しかし、教会が活動家に一つ譲歩したら、また一つ、また一つと新たな譲歩を要求されるでしょう。
ちょうど、同性婚からポリアモリーへ、いとも簡単に譲歩してしまった米国の進歩派教会のように、
最終的には「姦淫、淫行、不品行はしてはいけない」と若者たちに教えることさえできなくなります。
笑い話ではありません!「姦淫?そうではない、これはポリアモリーだ!」と言い返されて終わりになってしまうからです。
私たちにある自由は、注意していなければ奪われてしまうかもしれません。
ですから、聖書につくクリスチャンのみなさん、表面的で衒学的な議論に騙されないでください。彼らの話法に巻き込まれないでください。
私たちには、聖書を信じる自由があり、その信じるところに従って行動する自由があるのです!
それを守るためには、同性婚という概念には「NO」しかありえないと私なら言います。
「性自認」をレバレッジにしたパワーゲーム
次に「性自認」も同様です。
聖書は「性自認」について何ひとつめぼしいことは語っていません。せいぜい、「異性装」や髪の長さについてのこまごまとした話があるくらいで。
しかし、本当のところは、「聖書は性自認について何を言っているか」ではなく、「性自認を中心とした社会変革を全面に打ち出す人たちが何を目指しているか」が問題なのです。
ズバリ、その狙いは、同様に、「人間の自由な判断を奪うこと」です。
ある教会を想像してみましょう。
生まれつき男性であるが、女性と自認すると主張するIさんが訪れたとしましょう。
とりあえず、牧師はその方から事情を聞き、会衆に受け入れるとします。
でも「困ったなあ・・・ご本人は完全に男性の身体だっていうから、トイレは女性と一緒だと女性信徒から苦情がでるかも知れない・・・」と思い、そこで
「大変申し訳ないんですが、トイレについては、男子トイレか、それがどうしてもイヤだという場合は牧師館のをあなた専用にするから使ってもらえませんかね?」と頼むとします。
このように、男性の身体を持つ人と同じトイレは嫌だという女性の権利と、牧師は板ばさみになります。だから、牧師は誰か片方に偏った裁定ではなく、全会衆のためを考え臨機応変に最も良いと思われる判断をしなければなりません。
しかし、「性自認」を絶対視する「トランス運動」基準からすれば、これは完全にサベツ案件で、この牧師は「ヘイト」「トランスフォブ」で炎上確実です。
この基準では「ペニスがある女性もいる」とされているからです。
そのようにして、ある基準により、人間がその場その場で自由に判断する力を奪っていくのがトランス運動なのです。
当然、この場合女性の権利など完全に粉砕です。「弱者であるトランス」が君臨するからです。
こんなものはただのパワーゲームであって、それ以外の何者でもありません。
だから、「聖書は性自認について何と言っているか」なんていうのは本来ほぼどうでもいい話であって、
もしクリスチャンでありながら「自分は男/女として生まれたが女/男として自認している。自分の周囲の人間も全員が絶対に自分を女/男として認め、扱うべきだ」とハードコアトランス運動家さながらに考えている人がいたら、
その人は聖書うんぬん以前に、「他人の自由な判断を認めない単なるコントロールフリーク」です。
自分の都合で周囲の兄弟姉妹に一方的な重荷を押し付けているのです。そこにその人のいまだ癒されていない心の問題があるのです。
そのような人に対して、誰かが自分の自認する性の通りに扱ってくれるとしたら、それは「恵み」「好意」であってそれ以外のものではありません。
私自身は、できる限りそうしてあげたいとは思っており、特にFTMの人たちの場合特段何も感じないのですが、個人や年代によってはそれでも強い違和感を感じる人もいるでしょうし、ましてやFTMの人の場合はトイレをどうするかなど極めて難しい問題が絡みます。
しかし「性的自認の通りに扱ってほしい」がその人にとってのMUSTになってしまえばそれは強制であり押し付けです。
「オレ/ワタシを愛せ!オレ/ワタシの思うとうりにオレ/ワタシを扱え!」
そんな高圧的アジェンダを持って教会にやってくる人がもしいるならば、その人はキリストやキリストの体である教会に興味があるのではなく自分にのみ興味があり、自分の思うとおりに世界が動いて欲しいと考えているのだとしか言えません。
そもそも、そういう人は自分が一体何を信じているのかを考え直す必要があると思います。そして、もしキリストを信じているというなら、一方的に他人に要求ばかりするのではなく、他の兄弟姉妹と平和に過ごす方法とをどうにか模索すべきでしょう。
まとめ
教会はいろいろな人がやってくる場所ですし、またそうあるべきだと思います。
しかし、もしも教会に対してある特定のアジェンダを押し付けようとする人がいるなら、
そういう人をも無批判に受け入れろとは聖書のどこにも書いてはありません。
むしろ、教職者も信徒も、福音を必要としている人に手を差し伸べつつも、今いる会衆をどう守っていくかを考えるべきでしょう。
また、性と婚姻について一つの点で妥協したら、
留まるところを知らない妥協圧力が次々とやってくるということも知っておくべきでしょう。
私たちは今幸いにして情報社会の発展により海外で起きていることをほぼリアルタイムで知ることができます。だから、西欧のリベラル教会の「失敗」もまた知ることができます。
願わくば、日本にいる人口のたった1%でしかない教会が、教会外よりも早く同性愛を承認してこれを祝福してしまい、その結果教会外の世界よりも早くポリアモリーといった乱倫を受け入れるようになるなどという帰結は絶対に見たくはないものです!
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