新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

震災後、原発後の今だから読める、『切りとれ、あの祈る手を』

 佐々木中『切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』(河出書房新社)が確保できました、と図書館から連絡が来た。半年くらい前に予約したので、12人とか13人の手を経てやっと順番になったようだ(図書館は2週間本を貸してくれる)。
 この本がTBSラジオ「文化系トークラジオLife」で話題になっていたのは去年の暮れだったかな? 語り手が、同書に対して、著者に対して、感嘆と羨望と若干の嫉妬を含んで語っているような気配を感じて、同時代同世代の知識人たちをここまで駆り立てるってどんな本なんだ?とすごく興味が湧いたのを憶えている。

 僕は『切りとれ、あの祈る手を』を貸出カウンターで受け取り、家に帰って寝転んで読んだ。いやここで“読んだ”なんて言うと「お前、なんて不遜なこと言うんだ」「わかってねえな」とかって突っ込まれそうだが。正直、途中退屈なとこがあって本を取り落としたりもしたが、結論から言うとワクワクしながら読み、とても楽しかった。そして「あー面白かった」とパタンと本を閉じることができない、本を閉じても何かずっと引っかかっている感触がまた気持ちよい。
 それにしても憶えにくいタイトルだ。誰かの詩の引用らしいが。詩って。変換候補にも出てこないくらい死語だな。
 でも河出書房、いい本出してるな。『死都ゴモラ』、「シリーズ道徳の系譜」などグッと来る本を出してくれる出版社だ。

『切りとれ、あの祈る手を』の内容を述べるのは僕には無理なのでしない。他の方々の書評がいっぱいwebにあるので参照すると良いと思います。

・斎藤環(精神科医)による書評
http://book.asahi.com/review/TKY201011300142.html
・文芸批評家 福嶋亮大の書評ブログ
http://booklog.kinokuniya.co.jp/fukushima/archives/2010/12/post.html
・編集者・上田宙の書評ブログ
http://booklog.kinokuniya.co.jp/ueda/archives/2011/04/post_1.html
・ガタガタ言いなさんなって
http://d.hatena.ne.jp/tomatotaro/20101216/1292509865
・SYNODOS JOURNAL(著者メッセージと目次詳細)
http://synodos.livedoor.biz/archives/1608062.html

 同書にはいろんなグッと来る言葉が詰まっている。ちょっとだけ挙げたい。

▽それでもなお、そうしたのは何故か。それは本を読んだからです。何時の時代も、誰もがそうしてきたようにね。
▽考え、書くという営みに挑もうとするときに、私にはこのニーチェの言葉が忘れられなかった。彼の本を読んだ、というより、読んでしまった。読んでしまった以上、そこにそう書いてある以上、その一行がどうしても正しいとしか思えない以上、……
▽だから、こういうことになります。本を読むということは、下手をすると気が狂うくらいのことだ、と。
▽要するに読んでいてちっとも頭に入らなくて「なんとなく嫌な感じ」がするということこそが「読書の醍醐味」であって、……ゆえに繰り返し読むのだ、とね。
▽「われわれが文学と呼ぶもの」が現実においていかに狭隘なものか、しかし同時に「われわれが文学と呼ぶもの」が実際にはいかに広大な領野を占めるものか、…

 この本は「革命」について語っている。革命は可能なのか。いや、何が革命なのか。誰が革命をするのか。革命の原泉となる力とは何か。繰り返し語るうちに、話は螺旋状に高いところへ(あるいは暗く深いところへ)移っていく。
 著者が述べる時間軸は長大だ。「文学はもう終わったコンテンツなんじゃないか」という議論があったとしたら、主にそれを語る人はここ数十年のうちこの数年を取り出してそう言うのだが、著者は中世に羊皮紙へ書写していた修道僧たちを連れてきて「そうかな、終わったのかな」と反駁するようだ。いやもっと長くて、最終章では五千年とか三百八十万年というタイムスケールが登場する。
 あるいは、アリストテレスらギリシア諸賢の著作はほとんどが散逸していて0.1%(千分の一)しか後の世に伝わっていない。他の時代においてもそうだった。現代、文学が読まれなくなった(売れなくなった)と言うとき、千分の一が生き残ればもう十分世界にインパクトを与えられるんだ、それをわかってるのか、と反駁する。威勢がいい。気持ちいい。

 僕は去年、会社を辞めるとき、もう出版産業には参加できないような気がしていた。今の形の出版産業は滅び行くさだめではないか。かといって電子書籍など新しい(?)媒体はローンチしないかもしれない。五里霧中。少なくとも自分はここにいる資格はもうないんじゃないか。と思っていた。
 これは、『切りとれ、あの祈る手を』に言わせると、幼稚で素朴な終末論に過ぎない、ということになる。「出版は、終わったコンテンツ」という議論があるとしたら、終わりたいのは言ってるお前だけじゃないかと、文学や出版がどれだけの時間を生き残ってきたかわかって言ってるのかと、ガンガンに説教されたのだ(第五章)。

 同書は「革命」を語り、「読むこと」「文学」を語り、過去の革命(ルター、ムハンマド、中世解釈者革命…)を語り、「何とかの終焉」「終末」を説く者たちを激しく罵る。オウム真理教を「全くの悪しき原理主義」とし、「原理主義者は本を読んでいない。本が読めていない」とし、その終末論の浅薄さを論難される。僕の好きなナチスも同様にけちょんけちょんだ。(もっとも、オウム真理教の終末論の典拠は五島勉『ノストラダムスの大予言』とかなのでその浅薄さは圧倒的なわけだが)

 本が売れない、以前ほど儲からない、産業構造は疲弊している、問題や矛盾がてんこ盛りだ、未来は暗い……業界の問題点をあげつらったら、考えはこんな方向へ向かう。そしてその先に消失点というか終末を予感して、恐怖におののいたり反対に恍惚を感じたりする(もっともこれは「本」業界に限らず、どんな事象もこう考えることはできる。経済だって、政治だって、社会だって、世界だって)。
 だけど同書第五章は、「終末論なんてバカも休み休み言え!」とばかりに一刀両断してくれる。そうだ、本はいつもいつも奇跡のように歴史の荒波を生き抜いてきた。二十世紀のほんの一時期隆盛した出版産業や一握りの出版社が立ちゆかなくなったとして、本を書く・出す、本を読むという人類の営みにどれほどの問題があろうや。
 大好きな映画「薔薇の名前」では、ショーン・コネリー扮する修道僧は燃えさかる図書館からほんの数冊しか持ち出すことができなかった。でもそれで十分なのだ。その時代を生き延びて次の時代に伝わる本は千分の一。新潮社や講談社(あるいは角川書店)以外の大手出版社の文庫で現役の書目はたぶんどこも1万タイトル以下、だいたい数千のオーダーだろう。つまり集英社も文藝春秋も幻冬舎も、光文社も、徳間書店も宝島社も双葉社も河出書房も、いま書店に並べている文庫のうち次代に伝わるのはたった数冊なのだ。新潮社や講談社でも10冊とか十数冊でしかない。それでも文学は続いていくし、革命のタネは枯死しない。てことになる。ていうか全部併せればそれでも膨大な数の本が残っていくことになる。愉快だな。

 終末論なんてバカも休み休み言え、という本書第五章は、今こそ読み返すのがふさわしい。
 大震災、そして原子力発電所事故。とくに原子力発電所事故の終熄が見えない今、「原発事故のせいで日本は詰んだな」「俺の人生も詰んだよ」なんて言辞が囁かれていたのを僕は2ちゃんまとめサイトとかwebのどっかで目にした。とくに3月下旬頃には、理性的で冷静だったはずの反原発の人からも「もうカタストロフが来るんじゃないか」という絶望的な言葉を聞いた。それらは言外にカタストロフを願望していると取られても仕方のない発言だった。
 こういう態度はダメなんだ、それは下劣で幼稚なことなんだ、現実はもっとパワフルで、辛いかも知れないけどカタストロフなんて来ない世界が続くんだ、それを直視して生きるんだ。と『切りとれ、あの祈る手を』は繰り返す。そして、生きるとは革命を続けることだと。読み、書き、あるいは歌い踊り演じ描き、あるいは…。全体で「文学」ということになるのかな。

 僕は最近、図書館で道元の本や禅宗の関連書籍を借りて読むことがあるけど、『切りとれ、あの祈る手を』はある種、禅について述べられた本と似た雰囲気があった。道元もたぶんいや絶対に、革命の旗を立てた一人だろうし、道元の言ってることの多くが「今、ここからお前の仏道が始まる」と繰り返し述べている、それが『切りとれ、あの祈る手を』としつこいくらい似てる気がするのだ。仏道にも革命にも終わりはなさそうだし。
 僕は道元をパンクロッカーの一人として愛している。同様に『切りとれ、あの祈る手を』もパンクロックの傑作だと思う。パンクとは異議申し立てであり、革命であり、運動・行動なのだ。