紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


春、ぬるんでいる

曜日の感覚がずれていて土曜日みたいな金曜日を終えて日曜日みたいな土曜日を歩く。ほんものの日曜日はどんな顔をしてたらいいんだろう。

少しだけ歩こうと思って暮れ方に外に出る。近所のお店を少しぶらついてから適当な路地に入る。わが家から一本奥まった道路では新しい住宅が建設されていて、洋風で綺麗な建物。おしゃれ、よくある感じの。少しの庭と車がぎりぎり寄せられるスペースがついている。ここで繰り広げられるいくつかの人生を想像する。今はいいけど十年後、二十年後どうなっているかなとか(自分には現在しかないと思っているくせにそういう未来は考えてしまう)。それが同時にいくつもあって、そういえばここは林みたいな土地があり、古い家が建っていたのを思い出す(映画『人生フルーツ』みたいな家を想像ください)。あの家には好感を持っていたから、このシムシティ的な造成には少し反感をもつが、わたしが口を出せることではないのだった。

そのまま住宅地を歩く。夕方はどんどん夜に近づき、空が閉じそうになる前の薄青い中に建物や木や鉄塔なんかが黒く型抜きされているのをみて、「あ、デザイン」って思ってしまう。こういうブログテーマあるよね、っていうのが素直な感想だったので情緒がなくてごめんなんだけど、たぶん同じように感じただれかが切り取った風景なのだって思ったらそういうブログテーマ(ひいては他のテーマも)が愛おしいよなと思う。

都会の空は明るくいつまでも影が残る。田舎の夜を思い出しながらの歩行でもある。ふわと石鹸のようなにおいがして、夕方と夜の境目はたまた脱皮された春の抜け殻のようなあわいのにおい。空気はぬるんでいてわたしを包む。草陰からジジジと鳴いているの蝉だと思うんだけど。優等生の蝉。いろんな家があり、瓦の屋根、平らな屋根、集合住宅は直線ばかりでできている、表札の上に守り神、出窓にハート型の植物、人々、たくさんの人が住んでいる。

先般のエントリに書いたような「人間(社会)、生物から離れすぎじゃない」からくる混乱、無事に生きている人々を感じることでだいぶやわらぐ。社会をつくってやっていく生物なのだ人間。過去を(積み上げてきたものを)共有するのだ人間。みたいな散歩で人間性を回復。もう一度洗濯みたいなにおいがして、これは祖母の家みたいだった。団地のにおいなのかも。歩くひと、いぬ、ねこ。生き物の曲線と直線の建物、爪のかたちの月は昨日より少し伸びている。