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シリーズ第9巻を出版しました!

<この記事はしばらくこの位置に置きます。最新記事は2つ下になります。>

拙著「図とデータで解き明かす 日本古代史の謎」シリーズ第9巻を出版しました!

題名は
『古事記・日本書紀のなかの史実③
~オオクニヌシと「出雲王朝」』
です。

オオクニヌシの活躍、そして「出雲王朝」との関係を
科学的視点で解明しています。

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*****
出雲神話といえば、かつては単なる神話としてしか扱われてなかった。
しかし荒神谷遺跡や出雲大社心柱など画期的な発見が相次ぎ、
これまでの認識に大きな見直しが迫られている。
本書では古事記・日本書紀を最新の考古学的成果を踏まえながら、読み解いていく。
そして最後に到達した「出雲王朝」の姿とは?

プロローグ ~ シリーズ全体の仮説

第一章 オオクニヌシの試練
1.稲羽の素兎
2.オホナムチ、八十神に追われる
3.アシハラシコヲ
4.オオクニヌシの試練
5.スサノオの三種の神器とは
6.三種の神器を奪う
7.出雲の国風土記との違い

第二章 オオクニヌシの子孫
1.ヌナカワヒメ
2.妻問いの歌
3.オオクニヌシが倭国に上るときの歌
4.スセリヒメの歌
5.オオクニヌシの子孫
6.オオクニヌシの子 アジスキタカヒコネ
7.オオクニヌシの子 コトシロヌシ
8.オオクニヌシの子孫
9.スクナビコナはどこから来てどこへ行った?

第三章 神の空白地域
1.出雲の倭
2.大山と大神山神社
3.大年神の系譜
4.ソホリとは?
5.シラヒとヒジリとは?
6.神の空白地域
7.オオトシ以下の系譜が示唆すること

第四章 『出雲古事記』は存在したか?
1.古代出雲に隠された3つの系譜
2.出雲系譜は捏造された?
3.『出雲古事記』は存在したか?
4.出雲に『天地開闢神話』はあったか?
5.出雲の「神統譜」と陰陽五行説との関係
6.日本版イソップ神話

第五章 「出雲王朝」の証明
1.「出雲王朝」は存在したか?
2.『出雲古事記』を検証する
3.「出雲王朝」を立証するもの
4.四隅突出型墳丘墓が示唆すること
5.青谷上寺地遺跡は語る
6.「出雲王朝」が教えてくれること

エピローグ 「出雲王朝」の祭祀

*****

ご高覧いただければ幸いです。ご意見、感想などもいただければ幸いです。
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#オオクニヌシと #出雲王朝 #古事記 #日本書紀 

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【訪問ありがとうございます!】初めて訪問くださった方へ

<この記事は、当面この位置に掲載します。最新記事は、下にあります。>

訪問ありがとうございます。このブログは、様々な資料をもとに、日本古代史の真のすがたを解き明かしていくブログです。全体として、ひとつの読み物になってます。初めて訪問された方にわかりやすいよう、これまでの流れをまとめました。

【これまでの流れ】
日本の神話から始まり、中国史書、朝鮮史書を一通り読みながら、日本人(弥生人)の源流である倭人がどこからやってきて、邪馬台(壹)国、そして大和朝廷となったのかを、ひとつの壮大な仮説として導いてきました。その仮説のストーリーとは・・・

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古事記・日本書紀のなかの史実Ⅱ (57) 神武東征④ 北部九州の神武伝承

前回最後に、北部九州その中でも旧筑紫国や旧豊国には、神武天皇の伝承が多く残されている、という話をしました。具体的にみてみましょう。

HP 第363回 邪馬台国の会(2017.10.22 開催)「北部九州における神武天皇伝承 」(河村哲夫)からです。青字は神武東征に関係すると考えられる箇所です。a.b.c・・は、次図に記載した地点です。

ーーーーーーーーーーーーーーー
(3)田川郡
油須原(田川郡赤村油須原)a
神武天皇が通過したと伝えるその昔、天忍穂耳命がここを拠点に周辺を統治したという(『福岡県神社誌』大日本神祇会福岡県支部 昭19)。神功皇后・景行天皇伝承も残る。

英彦山(田川郡添田町)b
神武天皇は日向から天村雲命を派遣して天忍穂耳命を祭った。
・その後、英彦山山頂から筑紫の地勢を見て、川に沿って田川郡に下ったという。

帝階(ていかい)八幡神社(田川郡川崎町田原字宮山の正(しょう)八幡宮)c
社伝によると、神武天皇はこの地に滞在し、猪を狩猟した【猪膝、猪尻(井尻)、猪鼻】。神武天皇は父母・祖父母・兄弟と居を営み、この川を「高日﨑早日川」といい、川崎という地名になったという。

烏尾(からすお)峠(田川郡糸田町・飯塚市頴田)
一羽の烏に導かれ、悪天候のなか無事峠を越えることができた。

(4)嘉麻郡
⑤厳島神社と牧野神社(飯塚市鹿毛馬)
・厳島神社・・祭神は宗像三女神
・牧野神社(相殿合祀)・・祭神は狹野尊(神武天皇)・大山積命・保食命(うけもちのみこと)・倉稻魂命(うかのみたまのみこと)

○『高千穂問題と神武天皇聖蹟』河野桐谷著(南画鑑賞会・昭和15)
風雨のなか目尾山を越えようとする時、蓑笠をつけた一人の翁がやってきて、目尾山は昔、比売神(宗像三女神)が宇佐から宗像に向かうときに滞在された由緒ある地なので祭祀を行うよう進言した。そこで、天皇が山に登って比売神を厚く祭ると、たちまち風雨がやんだ。
・西北の方向に多くの馬が見えたが、それは翁の放馬であった。翁は足白の駿馬を献上したいと申し出たが、その馬が足鍬(くわ)をつけたまま駆け出した(鹿毛馬の由来)。翁が別の馬を献上しようとするとその馬もまた山に向かって駆け出した。馬を探して山の麓に着くと、逃げた馬が草を食っていた。神武天皇はそれを見て、「馬見ゆ」といった(馬見の由来)
神武天皇は馬見山dの麓に社を建て、比売神(宗像三女神)と天照大神を祭った(厳島神社の由来)。

天降八所(あもりはっしょ)神社(飯塚市佐與)e
○社伝によると、この付近の道路がぬかるんで歩行困難であったので、駒主命が別の道を案内し、宗像三女神の霊蹟を目指し、目尾峠(飯塚市目尾)へ迂回して、強石(ごうせき)明神(宗像三女神)を祭った。この付近一帯は宗像三女神の霊蹟という。
目尾山にいたとき、一羽の霊鳥が飛んできて松の梢にとまり、「伊邪佐(いざさ)、伊邪佐、伊邪佐」三声啼いたので、天皇は神の使いと考え、鳥を尾行すべしと命ぜられたその霊鳥の降りた所を鳥居又は鳥尾といい鳥尾大明神と崇め祭った。
・ここから西南に進むうち、天皇の気分が悪くなったので、侍臣の中臣種子命は椎根津彦とともに杉の神木に祈ったところ天皇は回復した。その杉を魂杉とい、神武天皇・椎根津彦・駒主命を併せ祀って「魂杉(たますぎ)大明神」と称した。この場所が「天降八所神社」で、佐與という地名は、天皇が会話中に「左様か」といわれたからである。

⑦目尾(飯塚市目尾)
宗像三女神の聖蹟

皇祖神社(飯塚市鯰田)
祭神は玉依姫・品陀和気命(応神天皇)・息長足媛命(神功皇后)
○社伝
神武天皇が目尾山から沼田(鯰田)に達したとき、道案内の駒主命がはるか雲間に見えるのが竈門の霊峰(宝満山のこと)と奏上したので、天皇は諸皇子とともに丘の上から竈門の神霊を祭ったという。
沼田(鯰田)の丘を発し、立岩付近に到着したとき風雨が起こり、進軍することができなくなった。

撃皷(げきこ)神社(飯塚市中)f
馬見物部の駒主命が一族を率いて、田川の吾勝野で神武天皇一行を出迎えて足白の駿馬を献上し、道案内を申し出たが、この地において風雨のため前に進めなくなり、八田彦は白旗山山頂の天照大神を祭るよう進言した。すると、天照大神は筑紫国を抑えた後に近畿に向かうよう告げたという。

立岩(飯塚市立岩)
熊野神社(飯塚市立岩字浦の谷)
立岩で神武天皇は激しい風雨に襲われ、祖先の神々に祈ると天から雷光とともに巨岩が降ってきて大地に突き立って雨がやみ、戦いに勝ったという。
八田彦とその一族が神武天皇らを出迎え、鉾を河中に突立て浅瀬の標として、無事に渡ることができた。また、雷雨にわかに起こり、天地鳴動し、巨岩疾風の如く飛来して、この山頂に落下した。すると岩上に神現れて「我は天之岩戸神、名を手力男神と言う。巨岩をなげうってこの地の悪鬼を誅す。これよりわが和魂はこの岩上に留って筑紫の守護神たらん。また荒魂は天皇の御前に立ちて、玉体を守護す」と告げた。そこで神武天皇は駒主命に命じて厚く祭らせた
天皇は八田彦の案内で遠賀川を渡り、片島の里に上陸した。
・王渡、徒歩渡、鉾の本、勝負坂等の地名あり。
・立岩神社(飯塚市立岩)
落ちてきたとされる巨岩が御神体とされている。

⑪伊岐須(いぎす)(飯塚市伊岐須)
伊岐須神社(飯塚市伊岐須)
神武天皇が天照大神とスサノオを祭った。よって神武村、神武山という。
高宮八幡(飯塚市伊岐須)
神武天皇が滞在したためこの地を神武という。
このとき大屋毘古の裔の八田彦が多くの一族とともに出迎えた。神武天皇は八田彦の進言に従い、天照大神を東北の岩戸山に祭り、小石をこの山の頂に衛立て素戔嗚尊を祭った。よってこの村を神武村、山の名を神武山という。

宝満神社(飯塚市平恒)
天皇は八田彦の案内で、潤野の地に進み、改めて天祖の御霊を祭った。その地は「姿見」といい、「日の原」ともいう。このとき天照大神から「九州平定後東征すべし」との託宣を受けた。

上山田(嘉麻市上山田)
射手引神社(嘉麻市上山田)
社伝によると、筑紫鎌の山田の庄の東北に帝王山(擂鉢山)gがある。昔、神武天皇東征の時、豊前宇佐から阿柯(赤村)の小重に出でて、猪位金村の兄弟山に登ってニニギノミコトを祭り、西方に向かうとき、この山路を通られたので神武山という。天皇は嘉麻から野谷の里(宮野村)に入り、そこの山に高木の神を祭ったという。
高木神社(嘉麻市上山田下宮)
神武天皇東征の時、宇佐島より田河あたりを経て筑紫の国の岡田宮に向かう途中、山田村からこの村を過ぎて、みずから神産霊大神を祭られた。よってこの山を神武山という。今神山というのは略称である。

足白(あしじろ)(嘉麻市馬見)
鹿毛馬村(飯塚市頴田町)で神武天皇が乗ろうとした馬が、馬見山に入るのをこの地で見送った(『福岡県地理全誌』)。
馬見山・・ニニギノミコトが日向高千穂から足白の馬で天降ったとき、供奉した天の物部25 部のうち、馬部物部が住んだという(『嘉穂郡誌』)。

宮野(嘉麻市宮吉)
神武天皇がこの地を通過した。

(5)穂波郡
高祖神社(飯塚市高田)h――もと高田神宮皇祖廟
○高祖神社社伝
「天皇は高田に進み、八田彦の伴った田中熊別に迎えられ、根智山の打猿を討伐するため、高田の丘から田中熊別と椎根津彦に命令を下された。この地に神武天皇と玉依姫を祭ったのが高祖神社である」
○高田神宮皇祖廟社伝
「玉依姫尊と神武天皇を祭る、大山祇命の裔の田中熊別が天皇を出迎えた」
熊別は椎根津彦とともに賊を平定する決意を述べた。椎根津彦が総大将となり、内野の川上で賊軍を打ち破り、これを追撃した。その勝報が高田丘に伝わったので、天皇は山口に進軍した。その間に打猿は捕らえられて斬首された。
この誅戮の地を打首といい、今なまって牛頸という」

(3)御笠郡における神武天皇伝承
①竈門山(御笠山・宝満山)
祭神は玉依姫。海神の女で鵜草葺不合尊の妃となり、神武天皇を産んだ。

王城神社(太宰府市通古賀)
神武天皇が大野山(四王寺山・王城山・大城山)iに城を構え、事代主と武甕槌命を祭って幣帛を捧げて祈念したという(『福岡県の神社』(海鳥社))。王城山という名は、神武天皇の城が置かれたことによるという。

筑紫郡大野(大野城市)の伝承
神武天皇は大野の邑(大野城市)に赴き、田中の庄で、邑長荒木武彦の奉迎を受け、筑紫郡の諸豪族を鎮撫し、荒木武彦の案内で、宇美に進み、同時に四王子山(王城山)に使いを立て、山上に武甕槌尊を祭って王城の鎮守としたという。

(4)糟屋郡における神武天皇伝承
宇美八幡宮(糟屋郡宇美町)j
宇美八幡宮の神官は、荒木武彦および荒木島主の末裔で、代々「神武(こうたけ)」姓を名乗った。宇美の地には、荒木や神武原(じんむばる)(糟屋郡宇美町宇美大字神武原)などの地名もある。
若杉山で天祖に祈り、糟屋郡を巡幸し、箱崎の地に至り、箱崎宮を創建し、住吉神社と志賀海神社を訪ね、大綿津見の海神族を慰撫したのち席内村(古賀市筵内)に向かったという。

②若杉山の太祖宮(篠栗町若杉)
祭神はイザナギで、神武天皇創建という。『筑前国続風土記拾遺』によれば、太祖神社下宮の鳥居の額には、「神武聖皇帝」と書かれていたという。

鷺白(さぎしろ)山の熊野神社(古賀市大字筵内)
神武天皇が船を海浜につなぎ、この山上の石に腰掛け、四方を展望したという。腰掛石が残っており、大小二石あることから「夫婦石」とも呼ばれている。
田中熊別がここまで従軍し、別れを告げたとき、天皇は柳の木を折って杖を授けたという。

(5)宗像郡における神武天皇伝承
神武(じんむ)神社(福津市津丸字裏谷)k
神武天皇の陣跡という。

神武神社(福津市赤間)
吉武地区の吉留にある八所宮の神が赤馬に乗って神武天皇を迎えたことから「赤馬」と名付けられ、それが転じて「赤間」となったという。

宗像大社(宗像市田島)l
神武天皇は、内殿の王子神社で天神を祭ったという。

八所宮(宗像市吉留)
八神が顕現し、赤馬に乗り人民を指揮して皇軍を先導したという。

(6)遠賀郡・鞍手郡における神武天皇伝承
若宮八幡宮(宮若市水原)m
神武天皇は地盤の固い片島の地に入り、直ちに付近の丘に登って天祖の御霊を祭ったという。その地を壇の上といい、その祭祀の地を嚢祖の杜(嚢祖八幡・飯塚市宮町)という。

②八所宮(中間市中尾)――惣社神社
祭神は大己貴大神・稻田姫命・素盞嗚命・天照大神・神武天皇が祭nったという。

一宮神社(北九州市八幡西区山寺町)---元王子神社
神武天皇が滞在した宮という。

岡田神社(北九州市八幡西区岡田町)――もと岡田ノ宮
この地に留まり、天地神祇(八所神)を祭ったという。

神武天皇社o・崗水門顕彰碑(遠賀郡芦屋町)
岡田宮跡と伝える。「神武天皇崗湊顕彰碑」が建てられている。

ーーーーーーーーーーーーーーー
以上、たいへん詳細に調べられています。河村氏はこれらの記録から、宇佐方面から岡田宮までの行程を推測しています。具体的には、宇佐から筑豊地方に入り、時計回りに岡田の宮まで行軍したのではないか、というのです。

たいへん興味深い考察ですが、これだけの記録でそこまで断定しうるかというと、疑問が残ります。そもそもこうした伝承が、史実に基づいたものであるのかも確定できません。後世になり、創作された可能性もあります。

他にも伝承があります。HP古代史の復元「北九州での神武天皇の痕跡」 (参考文献 福岡県「神武天皇と北九州」)からです。

ーーーーーーーーーーーーーーー
糸島の伝承 
 芥屋(けや)の大門(おおと)p・・神武天皇が禊をしたと伝えられている
 可也山(かやさん)q・・神武天皇がよく登り国見をしたと伝えられている。山頂に神武天皇を祀った可也山神社がある。
 日向峠(ひなたとうげ)r・・神武天皇が通過したという伝承あり

ーーーーーーーーーーーーーーー

この資料によると、糸島市付近に伝承が残されています。神武東征の際、筑豊地方から来たにしては、ずいぶんと遠回りになります。

以上のとおり、神武東征の経路ははっきりしませんが、この狭い地域にこれだけの伝承が残っているのも、事実です。まったく何もないところに、これだけの伝承が伝わるとも思えません。やはり何がしかの史実があり、それを元に伝承が形成されていったと考えるのが自然でしょう。

神武伝承地域


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古事記・日本書紀のなかの史実Ⅱ (56) 神武東征③ 日向を発つ 足一騰宮

イワレビコ(のちの神武天皇)は、日向を出発しました。

豊国(とよくに)の宇沙(うさ)に到着された時、その国の土着の人である宇沙都比古(ウサツヒコ)、宇沙都比売(ウサツヒメ)という二人が、足一騰宮(あしひとつあがりのみや)を作って、御食膳を奉った。

そこからさらに移動し、筑紫の岡田宮にー年間滞在した。またその国から移動して、安芸国(あきのくに)の多祁理宮(たけりのみや)に七年間滞在した。さらにその国から移動し、吉備の高島宮(たかしまのみや)に八年間滞在した。

そしてその国から進んだ時、亀の甲に乗って釣りをしながら、両袖を振ってやって来る者がいて、速吸門(はやすいのと)(豊予海峡、または明石海峡および児島付近)で遭遇した。
そこで呼び寄せて、
「お前は誰か」
と尋ねると、
「私は国つ神くにつかみです」
答えた。

「お前は海路を知っているか」
とお尋たずねになると、
「よく存じています」
と返事をする。

「私に従ってお仕えするか」
と尋ねると、
「お仕えいたしましょう」
と答えた。

そこで竿さおを差し渡し、船に引き入れて、槁根津日子さおねつひこという名を与えた。
この人は大和国造(やまとのくにのみやつこ)らの祖先である。】


日向から宇佐(大分)へと移動します。ここで”ウサツヒコ・ウサツヒメが、
足一騰宮(あしひとつあがりのみや)を作って、御食膳を奉った。”とあります。

ウサツヒコ・ウサツヒメは、宇佐の地の支配者でしょう。彼らがイワレビコをもてなした足一騰宮(あしひとつあがりのみや)とは、どこにあったのでしょうか?

候補地はいくつかありますが、もっとも可能性が高いと考えられるのが大分県宇佐市安心院町にある妻垣(つまがき)神社です。

”妻垣神社は、神武天皇が東征で立ち寄ったとされる所縁ゆかりの地です。日向(ひゅうが)の美々津(みみつ)から船出した神武天皇は、東国へ向かわれる途中、宇佐の地に立ち寄ります。その際、宇佐国造の祖である菟狭津彦(うさつひこ)・菟狭津媛(うさつひめ)の兄妹が一行を迎え入れ、宮を造り饗応しました。

翌朝、天皇は朝霧の素晴らしいこの地をご覧になり、いたくお気に召され、連なる山々よりひと際輝く共鑰山(ともかきやま(妻垣山(つまがきやま))にて自ら祭主となり、御母の玉依姫命の御霊をお祀りします。すると、玉依姫命が川中の岩の上に御姿を現され、岩に足一の印を付けておくと告げられて、一気に共鑰山に騰(あ)がられたことから、社を足一騰宮(あしひとつあがりのみや)と名付けます。
その後、神武天皇は侍臣の天種子命(あめのたねこのみこと)に廟の守護を命じて、東征の途についたと伝えられています。

現在、玉依姫命とを祀まつる足一騰宮は、共鑰山の八合目に社(やしろ)ではなく玉垣に囲まれた大石として鎮座しています。足一騰宮は、かつては三合目に拝殿があり、4月の元宮祭などの神事をおこなっていました。”
(HP「九州の神社」 『妻垣神社(宇佐市)』)

妻垣神社
ところでイワレビコは、なんのために宇佐に立ち寄ったのでしょうか?
ヒントは、日本書紀にあります。

筑紫の国の宇佐に着いた。すると宇佐の国造(くにのみやつこ)の先祖で宇佐津彦(ウサツヒコ)と宇佐津姫(ウサツヒメ)という者があった。
宇佐の川のほとりに、足一つあがりの宮(川の中へ片側を入れ、もう一方は川岸へかけて構えられた宮)を造っておもてなしをした。
このときにウサツヒメを侍臣(ししん)の天種子命(アマノタネノミコト)に娶あわされた。 アマノタネノミコトは中臣氏(なかおみのうじ)の先祖である。】

『日本書紀』宇治谷孟訳)

侍臣のアマノタネノミコトをウサツヒメと結婚させます。ではなぜこの忙しいときに、わざわざこのようななことをしたのか、です。

たまたま二人が出会い、恋に落ちたのでしょうか?
そうではないはずです。
これは明らかに戦力的な意味があったのでしょう。つまり宇佐の地を治めるウサツヒコ・ウサツヒメと同盟関係を結び、これからの進軍を優位に進めようという意図があったと考えるのが自然です。

逆にいえば、進軍の道のりには多くの抵抗勢力がいて、そこを突破するのは容易ではなかったともいえます。

古事記・日本書紀には、畿内に入り抵抗勢力を屈服させたことが記載されています。
一方、宇佐から岡田宮への移動については、何も記載されていません。ところが、地元には多くの伝承が残されているのです。次回はそれらをみていきます。

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古事記・日本書紀のなかの史実Ⅱ (55) 神武東征② 179万2470年の謎

前回、カムヤマトイワレビコ(のちの神武天皇)が東征を決意する高千穂の宮の話し合いについてでした。それを記す日本書紀のなかに、注目すべき点がありました。訳を再掲します。

【45歳になられたとき、兄弟や子供たちに言われるのみ、「「昔、高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)と天照大神(アマテラスオオミカミ)が、この豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)を、祖先の璦瓊杵尊(ニニギノミコト)に授けられた。そこで瓊瓊杵尊は天の戸を押しひらき、路をおし分け先払いを走らせておいでになった。

このとき世は太古の時代で、まだ明るさも充分ではなかった。その暗い中にありながら正しい道を開き、この西のほとりを治められた。代々父祖の神々は善政をしき、恩沢がゆき渡った。天孫が降臨されてから、百七十九万ニ千四百七十余年になる。】


ニニギが天孫降臨してからカムヤマトイワレビコが東征を決意するまでの期間を、179万2470余年としているのです。
一般的には、それだけ悠久の長い年月が経過しているということを表現している、とされています。それはそれでいいのですが、それにしてはやけに具体的な数値です。普通に考えれば、200万年余りなどにすれば充分ですが・・

これは何か意味のある数値なのではないか、と考えるのが自然でしょう。それをみていきましょう。

まず留意すべき点は、日本書紀が編纂された8世紀前半ころに使用されていた暦ー
儀鳳暦(ぎほうれき)です。

儀鳳暦は、中国暦の一つで、中国の唐の天文学者の李淳風(中国語)が編纂した太陰太陽暦の暦法です。

”選者:李淳風
期間:
・中国では唐の麟徳二年(665)~開元十六年(728)の64年間。前は戊寅暦、次は大衍暦。
・日本では、元嘉暦との併用期間を経て、続日本紀の始まる文武天皇元年(697)から本格的に使用開始。次は天平宝字八年(764)からの大衍暦。
定数:定朔、平気、破章法。
・1太陽年= 489428(基実) ÷ 1340(総法)=365.24478日
・1朔望月= 39571(常朔実)÷ 1340(総法)=29.530597日
・1近点月= 27 + (743 + 1 / 12)÷ 1340=27.554540日 (変日)
・1交点月= 27 + (284 + 113 / 300)÷ 1340=27.212221日 (交終)
特徴
・日本では儀鳳暦と呼ばれますが、唐では麟徳暦と呼ばれていました。このころ唐で使われていた儀鳳という元号に由来すると思われます。
諸定数の分母をひとつの数(1340)に統一しました。
・歳差は採用していません。
・定朔の定着。定朔は戊寅暦から採用されていましたが、大の月が4回続いたこともあって、途中で平朔に戻されていました。
・初めて進朔を採用。ただし、日本の儀鳳暦では進朔は実施されていません。
神武天皇即位紀元は儀鳳暦を用いて (ただし平朔で) 推定されたものです。”(国立天文台 暦計算室 暦Wiki「儀鳳暦 (ぎほうれき) / 麟徳暦」)

計算に使われていた1340が重要な数値で総法と呼びます。そして、天武天皇が日本書紀編纂を命じた天武天皇10年(681年)を基準として、神武天皇の即位(紀元に前660年)をその1340年前に設定したという説があるのです。

それだけ1340という数値は、重くみられていたということです。
さらに1340を二乗すると
1340 × 1340 = 179万5600
となります。

儀鳳暦の基準年である麟徳元年(AD664)の179万5600年前を天孫降臨の年とすると
天孫降臨年は、AD664年からみて、
664年 - 179万5600年 = 179万4936年前
となります。
西暦には紀元0年がないので、その分を加えると
179万4936年 + 1年  = 179万4937年(BC)

神武東征出発年は
BC667年
ですから、天孫降臨は神武東征からみて、
179万4937年 - 667年 = 179万4270年前
となります。

ここで4270年という数値が出てきましたが、これを2470と間違えたのだ、という説があります。
なんとなくつじつまは合いそうですが、2470年は4270年の間違いというのも、すっきりしません。

あるいはこの差
4270年 - 2470年 = 1800年
に注目して、
179万4270年 - 1800年 = 179万2470年
とすれば、ピッタリ決まります。

1800年の根拠ですが、
”麟徳元年から遡る1,340年の乗数は甲申年を指し示していた。これを差し引く1,800年も旬周60の倍数だから同じ干支を示す。甲申年を意識していた証拠である。
 古事記には天孫降臨以降三代の一人、彦火火出見尊が高千穂宮に五八〇年間坐す、と記されている。600年×三代=1,800年と、全体を考えていたのかもしれない。
 最古の古代中国、三皇五帝に続く三代、夏、商、周も年代はBC2,070からBC256と言われ、合計はほぼ1,800年である。
 また、計算上、神武天皇東征(BC667)は中国では周の時代になるが、その周の史実は、神武同様、西周から遷都して東周になる国なのである。”(ブログ『日本書紀、最古の年代記録「一百七十九萬二千四百七十餘歳」の解釈』)
との解釈です。

この説にしても、なぜ1800年を引き算しなければならないのか、よくわかりません。

以上のとおり、179万2470年の根拠は判然としません。しかしながらあまりにも具体的な数値であることを勘案すれば、何らかの根拠に基づいたものである可能性は高いといえましょう。

 179万2470年解釈


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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。

拙著です!
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