明治政府が太政官布告第三百三十七号『太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス』を出した日付は明治五年(1872年)十一月九日のことなのだが、それによると「來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」とあり、わずか二十四日後から年が変わって太陽暦の正月になることを発表したのである。毎年新年の準備で忙しくなるはずの十二月が、明治五年にはわずか二日しかないことが急に報道されて、多くの国民は戸惑ったことに違いない。
年末年始は、それぞれの家で日ごろお世話になった方に挨拶回りをしたりするのが普通であったのだが、『新聞集成明治編年史. 第一卷』を開いてみると明治五年十一月の新聞雑誌七十に、「従来新年祝儀、年玉と唱え、扇子並びに菓子折あるいは家業品等携贈」することを止めるようにとの布達が府庁より出されたとの記事が出ている。
『新聞集成明治編年史. 第二卷』を読むと、太陽暦が始まったばかりの明治六年の正月には五節句の廃止が報じられている。五節句というのは、伝統的な 年中行事 を行う季節の節目とされていた日で、宮廷において節会と呼ばれる宴会が年に五回催されていた。江戸幕府が公的な行事、祝日と定めた、人日(一月七日)、上巳(三月三日)、端午(五月五日)、七夕(七月七日)、重陽(九月九日)が五節句なのだが、桃の節句(ひな祭り)や端午の節句や七夕などは宮中で行事が行われていただけでなく、一般庶民においても楽しみにしていた日でもあったのだが、この年から祝日ではなくなり、代りに神武天皇即位日と天長節(天皇誕生日)が新しい祝日として定められたのである。
今でこそ各地で七夕祭りが行われているが、明治六年の七月六日付の東京日日新聞によると、この年の七夕は寥々たる雰囲気であったようだ。
京都では前年の明治五年には先祖を供養するお盆の行事の停止が命じられている。太陰暦では、お盆は七夕の八日後の七月十五日に行われていたのだが、一般の庶民からすれば、明治政府により伝統行事や寺や神社で毎年行われていた恒例の行事が次々と廃止されていくことを快く思えるはずがなかったであろう。
同書で、次の年の明治七年の正月六日の東京日日新聞の記事を読むと、明治新政府の「文明開化」の施策がいかに不人気であったかが良くわかる。
東海道処々にての咄しには、専ら又昔の大陰暦に返ると言えり。或は某県はすでにその布令ありしと言い、或は伊勢大神宮の神託ありしなど評判せり。大抵みな大陰暦とは言わずして徳川暦と唱えり。…
江州*伊勢尾張辺の人気殊に宜しからず、且つ御上の御布命を呑み込みたる者更に無くして、兎角御上を疑う心有りて、政府は百姓町人を困らせる事にばかり掛かりておらせらるように思いこみ、頻りに昔の時世を慕いて、何事に付ても昔し世の能かりし時は云々とばかり言えり。最も是は大坂神戸等にて立派な人達の内にも斯く思う輩多し。今の世は天下一般文明開化に成り行きたる様に諸方新聞紙には書いて有れども、なかなかそう斗でも無しと言えり。
*江州:近江国の異称。現在の滋賀県。
『新聞集成明治編年史. 第二卷』p.103
また石井研堂の『明治事物起原』には、国民の反応について次のように記されている。
これ非常の叡慮なりしかば下民は『耶蘇の正月を採用されし』とて、疑惑する者あり[日要七十号]、『今じゃ三十日に月が出る』の俗謡、海内に洽く、その除年の際の如きは、『昨日は師走の朔日(ついたち)なるに、明朝は天朝のお正月とかや、さすれば、今二日の内に、三十日分の働きせねばならぬ訳じゃが、とても及ばねば、我らにはやはり徳川の正月がいい』と惆悵する者も少なからざりし[日要五十七号]これ亦允のことなり。
十五夜も、円くはならぬ新暦の、有明の月をまちいづるかな (百首)
古と今と暦は変われども、みそぎぞ夏のしるしなりけり(百首)
少し補足すると、月の満ち欠けで一か月が定められる太陰暦では、十五日が満月で、三十日は月が隠れることを意味する「晦日」であった。そして、一年で最後の晦日が大晦日である。
神道では、6月と12月の晦日には「大祓」と言って、月のあかりのない暗い夜に神に祈って心の穢れを取り払う神事が宮中や各地の神社で執り行われ、6月の大祓は「夏越の祓」、12月の大祓は「年越の祓」と呼ばれているが、月が隠れる日に行われる神事が、太陽暦に変わると月が出ている日に行われることになってしまった。「今じゃ三十日に月が出る」という俗謡は、改暦されたことの国民の戸惑いを謡ったものである。
また、節分というのは立春・立夏・立秋・立冬の前の日のことを言い、旧暦では立春が一年の初めの日であった。その前日の大晦日は節分にあたるので豆を撒いて邪気を払い、新しい年を迎えているのが太陰暦であった頃の日本人の正月の迎え方で、今も年賀状に「新春」「賀春」などと書くのは、太陰暦時代の名残である。
太陽暦に移行して季節に約1ヶ月のズレが生じてしまい、節分の豆まきは2月となり、七夕まつりは地域により8月となった。太陰暦でなじんでいた季節の行事や、手紙に添える季節の挨拶や、和歌や俳句の季語などが暦に合わなくなり、国民の不満は決して小さくなかったのである。
明治初期の政府は、わが国の伝統や風俗や文化など古いものはなんでも切り捨てて、西洋風に変えて行くことが正しいことだと信じ、かなり強引に「文明開化」を推進していった。太陽暦の導入もその開化施策の一つであるのだが、全国民生活に重大な影響を与える暦の変更を、年末に近いタイミングで決めたことについては、国民の批判が出るのは当然予想されていたであろう。にもかかわらず、政府が随分急な決め方をしたのは、意外な理由に基づくものであった。
大隈重信の『大隈伯昔日譚』に、その理由が次のように書かれている。
…官吏の俸給といい、その他の諸給といい、王政維新の前に在りては、何れも年を以て計算支出せしといえども、維新の後に至りては月俸もしくは月給と称して、月毎に計算支出することとなれり。然るに、太陰暦は太陰の朔望を以て月を立て、太陽の躔度*に合するが故に二三年に必ず一回の閏月を置かざるべからず。其閏月の年は十三ヶ月より成れるを以て、其一年だけは、俸給、諸給の支出額、凡て平年に比して十二分の一を増加せざるべからず。
*躔度(てんど):天体運航の度数然るに国庫の収入を見るに、その当時の収入は重に土地より生じ、毎年一定してさしたる増減なし。斯くさしたる増減なき収入は、いわゆる入りを計りて出を制する財政上の原則に従い、恰好に平年の支出額に積算したるを以て、閏月あるの年は、収支の額は必ず相適合せずして、支出額上に平年の十二分の一即ち一ヶ月だけの不足を生ずることとなるべし。
円城寺清 編『大隈伯昔日譚 再版』新潮社 p.485~486
明治維新後に官吏の給与は年払いから月払いに替わったのだが、月払いにすると太陰暦では二三年に一度は閏月があるので、その場合は年間に十三回給与を支払わねばならない。そしてたまたま明治六年が閏月のある年であった。当時の政府の収入は閏月のある年でも年間では変わらないので、来年は何もしないと平年の一ヶ月分だけ年間収支が悪化することとなるというのである。
そればかりではない。当時は官吏の勤務日数が少なすぎるという問題があったという。
是のみならず、其頃は一、六の日を以て、諸官省の休暇定日と為せしを以て、休暇の日数は月に六回、年に七十二回の割合となり、加うるに五節句あり、大祭祝日あり、寒暑に長き休暇有、その他種々の因縁ある休暇日あり、総て是等を合すれば一百数十日の多きに上り、而して其頃の一年は平年三百五十余日なりしを以て、実際執務の日数は僅々百六七十乃至二百日に過ぎざりし。是乃ち一年の半が少なくも五分の二は休暇日として消過し去りなり。斯る事情なるを以て懶惰遊逸の風は自然に増長し、一般社会まで及ぼし。且つ政務渋滞の弊も日一日と多きを加え。竟には国家の禍患を構うに至るべし。
その上、当時は外交漸く盛んにして、諸国との往復交渉頗る繁劇に赴きたるを以て、其執務と休暇の定日と彼我一致せざれば、諸藩の談判往々渋滞するを免れず。
素より休暇日の廃存変更は必ずしも暦制の如何には関係せず、上に立つものの意にて如何様にも之を動かし得ざるにはあらざれど、長の年月因襲し来たりし慣例なれば、その根本成る暦制を改革するにあらざれば、是等の弊患を全く洗浄する能わざるなり。
然れども、暦制の改革は、その影響の及ぶ所少小にあらず、従ってこれを断行するもまた容易の業ににあらざるなり。さればとてこれを在来のままに放任し置かば、理論上の弊害はともかくも、実際上の禍患は益々増長し、竟に国家民人を不利不幸の境遇に沈落せしむるやも測り知るべからず。ここに於いて断然大陰暦を変じて太陽暦に更むることと為せり。
同上書 p.486~487
明治初期の官吏には、一年のうち少なくとも四割以上の休暇があったとは知らなかったが、西洋諸国と比べてあまりにも勤務日数が少ないうえに暦が西洋と異なれば、外交にせよ貿易にせよ業務が滞る要因となることは当然のことである。休暇の削減と太陽暦の導入はいずれ実行すべきものであったことは理解できるが、すべての国民の生活に重大な影響を与えることになる太陽暦の導入は、本来なら相当な準備と充分な根回しの上で実行されるべきものではあった。
しかしながら、このような大変革はいちいち国民の声を聴いていてはなかなか実行することが難しいものである。明治政府は財政上の理由から改暦を急ぎ、しかも随分強引に移行したわけだが、このようなやり方でなければ太陽暦の導入はできなかったかもしれない。
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GHQ焚書リストの中には日本人の生きる姿勢や心構えに関する書籍が少なからず存在する。前々回及び前回に「武士道」及び「武道」に関するGHQ焚書を採り上げたが、今回は「臣道」(臣民の道)に関するGHQ焚書を紹介させていただくことにしたい。
「臣道」(臣民の道)という言葉は今ではほとんど用いられなくなっているのだが、一言で言えば「臣下としてあるべき心構え」という意味である。どうしてこのような本をGHQが焚書にしたかと考えながら何冊かを拾い読みすると、GHQが嫌がりそうな文章を結構見つけることが出来る。
最初に紹介するのは、竹内浦次 著『臣道読本』。たとえば英国の紳士道、あるいはキリスト教精神というものがいかなるものであるかについて述べている部分がある。
…過去の精神文化を誇ったアジア民族は、科学と武力と財力とを背景とする狡猾なる欧米人に、政治的に、経済的に、思想的に征服せられて、日本を除いてはほとんど奴隷化され、植民地化されてしまいました。
極端なる差別感を抱く欧米人は「神は我らに世界を支配する権利を賜う」と宣言し、「アジア人は、我らの文化を信奉することによって幸福となる。彼らは元来奴隷的人種で、我らに征服されるように出来ている」と叫び、「スエズ以東に人道なし」の信念を平気で実行して来たのでありました。その標本がインドです。インド人の九割七分は文盲です。平均年齢二十三歳(英人四十五歳)、平均一日収入十六銭(英人二円六十銭)、彼等の半数は半年間は乞食になる。ちょっとの飢饉で何百万人が餓死しても、英人は平気で毎年二十五億の金を絞り上げる。三億五千万のインド人が二千三百の階級に分かれ、二百六十余種の言葉を使い、ヒンズー教、回教、仏教、キリスト教、ジェーン教、シーク教、バルゼン教、ユダヤ教の各派に分かれ、互いに嫉視反目して、争い続ける。
英国は、それを助長し利用して、ますます彼等を奈落の底に落として行く。総督の年収百万円、世界一に富強を誇り紳士国と号する英国が、百五十年の統治により、ある深遠な哲学や仏教を生んだインド民族を、世界一の貧乏人、世界一の無学者、世界一の意気地なしにしてしまった。
これが英国の紳士道であり、キリスト精神であり、国際正義であったのだ。
この点は仏印*もビルマ**も、東インド諸島***も大同小異であったようだ。
いずれも九十パーセント以上が文盲で、皆怠け者、骨なし者にされてしまった。
*仏印:現在のベトナム、ラオス、カンボジア(フランス領) **ビルマ:現ミャンマー(イギリス領)
***東インド諸島:現インドネシア、マレーシアのマラッカ州
竹内浦次 著『臣道読本』増進堂 昭和17年刊 p.172~173
イギリスのインド統治が如何に酷いものであったかについて書かれた書籍の多くがGHQに焚書処分されてしまったために、戦後生まれの日本人はほとんど何も知らされておらず、私も学生時代はイギリスは紳士の国だと思っていた。イギリスの植民地統治の真実を詳しく知ったのは十年少し前のことだが、「国立国会図書館デジタルコレクション」が無ければ、この分野の詳しい本を読む機会を得ることはなかったと思われる。
このような酷い植民地統治はイギリスだけではなく、フランスもオランダもアメリカもよく似たものであったのだが、戦後のわが国では学校やマスコミによる洗脳のために、ひどい植民地統治をしたのはわが国の方で、欧米諸国は現地人に文明を伝えたかのようなイメージを持っている人が多いのが現状である。
続いて『臣道読本』に、英米人と日本人とでは与えられた仕事や役割に対する責任感の強さが異なることについて述べている部分を紹介したい。
日本人の不思議な道徳的情操の一つに、徹底した責任感があります。
英米人の責任感は法律的であり、進んだ者も道徳的に止まります、
マレーやフィリピンの戦線で、住民弊を第一線に押し立て、自分達は後方にかくれて督戦*するのは、責任を最小限度にとらんとす民族的利己心、即ち法律的責任感から来るので、これを「いやしくも免れて恥なし」と申します。
*督戦:後方にいて前線の軍を監視し、逃亡・投降しようとする兵を攻撃して戦闘を強制すること
「バターン半島で最後まで反抗し、力尽きて降伏したのは、人間として最善をつくしたもので、われは名誉ある捕虜なり」と考えるのは、彼等の道徳的責任感であります。
死なぬ範囲で責任を果たす、不可抗力には責任を負わぬ、尻に帆をかけて逃げ出したマッカーサーをさえ英雄扱いするのが、米英の責任感であります。日本人の責任感は宗教的です。超理屈、超打算です。
神武日本に不可抗力はない。愚かなる心にも誠をつくせば、必ず天佑神助がある。祖霊の御助けがある。
その御助けを受けられない時は「武運が拙い」と反省する。
頼三樹三郎が国事に奔走したため、幕府の弾圧を受け、罪無くして刑死する時に
「わが罪は 君が代おもうまごころの 深からざりししるしなりけり」
と詠じ、一言の不平を述べず、足らざるを自ら責めつつ、従容死についたのは武士道的責任感によるものであります。
同上書 p.200~201
以前このブログで紹介させていただいた 西川佳雄著『比島従軍記』(GHQ焚書)に、米兵は常にフィリピン兵を戦場の最前線に立たせて自分たちは安全な後方にひきさがり、フィリピン兵の背後から銃口を突き付けて督戦していたことや、両足が鎖につながれて身動きできないように縛り付けられて、ひたすら機関銃を撃ち続けるフィリピン兵もいたという。
以前このブログで書いた通り、コレヒドール要塞が陥落後十分な武器や食糧を残していながら、大量の米兵が投降してきたのだが、日本軍ならこんなに簡単に降伏することは考えにくい。
督戦隊が存在した点については支那も同様で、同じ漢人でありながら最前線の兵たちは常に後方の督戦隊に監視されていて、もし逃亡しようとすれば督戦隊に銃撃されることを覚悟しなければならなかった。ところが、日本兵の場合には督戦隊の必要はなく、兵士各自が最期まで任務を全うしようと動くのである。竹内は「徹底した責任感」と述べているが、日本軍が死を怖れずに戦い抜こうとする姿勢に、戦勝国が怖れたことは言うまでもないだろう。
日本人の責任感の強さは戦後も同様で、かつては自分の責任で大きな失敗をして社会に迷惑をかけた際に、その責任を取って自殺したという類の話が新聞などで良く報道された。昨今では業務上の責任を取って自殺したという話をほとんど聞かなくなったが、それでも自分の仕事や役割はしっかり果たそうと努力する日本人が多いことは昔も今も変わらない。
では、なぜ日本人の責任感は他国人と比べて相対的に強いのであろうか。この点を突き詰めていくと、日本人の生き方や考え方に関わって来ることになる。
大日本帝国憲法第一条には「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」、とあり第三条には「天皇は神聖にして侵すべからず」と書かれているが、皇位が神聖であり永遠に続くことは憲法によってはじめて定められたわけではなく、太古から日本人に理解されている天皇を条文に示したものである。君臣の関係については「忠」、すなわち裏表のない態度で、誠意をもって仕える関係と理解されていて、世の為人の為になることをすることが「忠」につながると普通に考えられていたのである。
戦後の教育や左翼マスコミの影響のためにその点については相当崩されてしまった感があるのだが、為政者と国民との関係については他国とは全く異なっている。日比野寛 著『日本臣道の本義』には次のように記されている。
かく我が皇位の絶対性と、臣道即ち忠の絶対性とは、全世界に於いて、ただ独り我が国にのみ見ることの出来る特殊の事情である。
支那に於いては、君もし君たらずんば、臣は臣たるの必要ない。君が君として立つに於いて、臣は始めて臣たるの道を履むであろう。即ち、報恩感謝の意味の忠ならば為そう。君がもし無動にして、君として立つ資格を欠いたならば、我は君の恩恵を蒙らぬゆえ恩に報いる所もない。故に我もまた、君を君として戴かないであろう。
暴虐無動の桀たり紂たる*が如きことがあれば、一日も王位にしてはならぬ。というのが支那は勿論世界各国の思想である。即ち支那などでは君と臣とは相互的なもであり、交換的なものであるという観念の上に立っている。即ち君の善政を受ける時は報恩的に之に誠を致し、君が政道を失えば臣はむしろ新しい主権者を欲する。わが国の絶対に対して、彼は相対である。われ等の天皇に対する観念と、彼等の王者に対する観念とは全然相違している。彼のこの相対観念は、孝を百行の本とするところの民衆を基礎とした立国事情から生まれてきたものである。天皇の降下君臨によって肇国せられたるわが国とは、全く思想が異なり、そしてわが国では忠は百行の本なりとすべきである。
*桀、紂: いずれも暴君の代名詞で、夏の桀王は天乙に滅ぼされ、殷の紂王は周の武王に滅ぼされた人と人と相食み、種族と種族と相伐ち、社会と社会と相争って、そこに国を建てて、一人の優越者が自ら帝王と称するようになった国に於いては、君君たらずんば、臣臣たらざるのは怪しむに足らない。身を修めることによって、よく衆望を担い、民衆から王者として選ばれた者でも、それが一旦桀となり紂となって、君の資格を欠くに至れば、忽ち王位を奪われることは、むしろ当然のことである。これらはすべてわが皇国と、根本に於いて成立の事情を異にするからである。しかるに、わが国にも忠を相対的と誤り、忠は君の恩に報いることなりとの謬見を抱く者がないでもない。我と彼とは、その国家組織の上に於いて、根本的相違のあることを、明確に意識しなければならぬ。
我が肇国は他に類例なき上に成就されたものである。皇位の絶対性はわれ等の永遠に抜くべからざる信仰である。この信仰が、即ち忠であって、忠は、当然絶対性をもつものである。これ忠が日本臣道の源泉であり、われ等の生活の一切を支配し包括する根元たる所以である。而して忠が百行の本であり、大義の前には何ものもない所以も、実にここに存するのである。
日比野寛 著『日本臣道の本義』松邑三松堂 昭和16年刊 p.46~48
為政者に実力があり人望もある人物であれば、臣民たちは為政者に忠誠を誓うであろうが、為政者にその実力が無かったり、夏の桀王や殷の紂王のような暴君である場合は臣民が王から離れていき、いずれ滅ぼされる運命にあるのは支那に限らずどこの国でも同様であろう。しかしながら、わが国においては例外的に、臣民の天皇に対する忠誠心が揺るがずに続いてきた。わが国では国家は一つの大きな家のようなものであり、皇室は日本人の宗家の如く考えられてきたといって良い。
「臣道」とほぼ同義だと思うのだが「臣民の道」という言葉も良く用いられていたようである。
文部省教学局が昭和十六年に編纂し刊行した『臣民の道』という本がGHQによって焚書処分されている。
この本は欧米の個人主義的思想を否定し、国体の尊厳と忠君愛国精神を説く内容となっているが、近世史以降の世界の動きやこの難局をどう対処すべきかについて、当時の政府が国民に対してどのように解説していたかを知る意味で、一読の価値はある。また、同書については解説書がいくつも出ており、その多くが同様にGHQによって焚書処分されていることも注目点である。
『臣民の道』で近世史以降に欧米が何をしたかについて述べている部分を引用させていただく。
近世史は一言にしていえば、欧州に於ける統一国家の形成と、これらの間に於ける植民地獲得のための争覇戦との展開である。即ち近世初期にアメリカ大陸が発見せられ、それに引き続いて欧州諸国民は支那・インド等の遥かなる東亜の地へも、大洋の波を凌いで盛んに来航することとなった。而してその全世界への進出は、やがて政治的・経済的・文化的に世界を支配する端緒となり、彼らは世界をさながら自己のものの如く見なし、傍若無人の行動を当然のことのように考えるに至った。
この侵略を欧州以外の諸国はただ深い眠りの中に迎えた。南北アメリカもアフリカも、オーストラリヤも印度も、武力を背景とする強圧と、宗教を手段とする巧妙なる政策とによって、瞬く間に彼らの手中に帰した。阿片戦争によってその弱体を暴露した支那もまた、忽ちにして彼らの蚕食の地と化するに及んだ。我が国は、室町時代末より安土桃山時代にかけて、先ずポルトガル・イスパニア等の来航に接し、後に鎖国政策によって一時の静安を得たけれども、幕末に至りイギリス・フランス・アメリカ・ロシヤ等の来航漸く繁きに会し、神州の地もまた安からざるものがあった。
元来欧州諸国民の世界進出は冒険的興味の伴ったものであったとはいえ、主として飽くなき物質的欲望に導かれたものである。彼らは先住民を殺戮し、或いはこれを奴隷とし、その地を奪って植民地となし、天与の資源は挙げて本国に持ち返り、或いは交易によつて巨利を博した。されば彼らの侵略は世界の至る所に於いて天人共に許さざる暴挙を敢えてし、悲慘事を繰り返したのである。
アメリカ・インディアンはいかなる取り扱いを受けたか。アフリカの黒人は如何。彼らは白人の奴隷として狩り集められ、アメリカ大陸に於いて牛馬同様の労役に従事せしめられたのである。このことは大東亜共栄圏内に於ける諸地方の被征服過程と現状とに就いて見ても、思い半ばに過ぎざるものがあらう。
而して西暦十八世紀末より十九世紀にかけての欧州に於ける産業革命は、彼等の世界支配の勢いを劃期的に飛躍せしめたことはいうまでもない。機械の発明による工業の発達は、夥しい原料を要求すると共に、その莫大な製品を売り捌く海外市場を必要とした。彼らは愈々盛んに原料の獲得と製品のはけ口とを植民地に求めた。やがて勢いの趨くところ、彼ら同志の間に熾烈なる植民地争奪や貿易競争が起こり、かくして弱肉強食の戦いを繰り返したのである。近世に於けるイスパニヤ・ポルトガル・オランダ・イギリス・フランス等の間の戦争や勢力消長史は、海外侵略と密接な関係のないものはない。かかる弱肉強食的世界情勢の形成は、やがてその矛盾を拡大し、ついに西暦1914年の世界大戦の勃興を見ることとなった。
文部省教学局編『臣民の道』内閣印刷局 昭和16年刊 p.3~6
当時の日本人の多くがこのような世界情勢認識を持ち、わが国が攻撃される危機意識を共有していたことを理解せずして、第二次世界大戦は語れないと思う。戦後の学校教育もマスコミの解説も戦勝国史観に立つ状態が続いているのだが、政府やマスコミがこの歴史観を黙って中立的なものに変えることは期待できない。国民の多くが正しい歴史を自ら学んで洗脳を脱出し、政府に圧力をかけるぐらいでないと何も変わらないのではないだろうか。
GHQ焚書リストかの中から、本のタイトルに「臣道」あるいは「臣」を含む本を抽出して、タイトルの五十音順に並べてみた。
分類欄で「〇」と表示されている書籍は、誰でもネットで読むことが可能。「△」と表示されている書籍は、「国立国会図書館デジタルコレクション」の送信サービス(無料)を申し込むことにより、ネットで読むことが可能となる。
タイトル | 著者・編者 | 出版社 | 分類 | 国立国会図書館デジタルコレクションURL 〇:ネット公開 △:送信サービス手続き要 ×:国立国会図書館限定公開 |
出版年 | 備考 |
学童の臣民感覚 | 東井義雄 | 日本放送出版会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1139090 | 昭和19 | |
教育勅語と臣民之道 | 井上清純 | 冨山房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039425 | 昭和18 | |
教本臣道の民 | 阿部仁三 | 目黒書店 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和16 | ||
皇国臣民の責務 | 中岡弥高 | 清水宣雄 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1216963 | 昭和15 | 戦争文化叢書 ; 第24輯 |
皇道原理と絶対臣道 | 田崎仁義 | 甲文堂書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039528 | 昭和18 | |
国体明徴と臣民の正念 | 石川金吾 | 日本精神宣昭会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1224087 | 昭和10 | |
国防国家と臣道実践 | 木島一光 | 大東出版社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1682978 | 昭和16 | |
実践する臣民の道 | 野依秀市 | 秀文閣 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1908032 | 昭和16 | |
詳解臣民の道 | 岡田怡川 | 興亜日本社 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和16 | ||
臣格錬成の新国史教育 : 修正教科書に準拠せる |
中野八十八 | 伊藤文信堂 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1457136 | 昭和15 | |
臣道実践皇道読本 | 日本青年教育会編 | 日本青年教育会 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和18 | ||
臣道実践と農村婦人の立場 | 紀平正美 | 柴山教育出版社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039429 | 昭和19 | |
臣道読本 | 佐々木一二 | 三鈴社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1034058 | 昭和18 | |
臣道読本 | 竹内浦次 | 増進社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039455 | 昭和17 | |
臣道・武教小学 | 小林一郎 | 平凡社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1038338 | 昭和16 | 皇国精神講座. 第1輯 |
神道・仏道・皇道・臣道 を聖徳太子十七条憲法によりて語る |
暁烏敏 | 香草舎 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1111202 | 昭和12 | 北安田パンフレット ; 第47 |
臣民道の本義 | 牧野 秀 | 修養団 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1211768 | 昭和7 | |
臣民道を行く | 暁烏敏 | 一生堂書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039412 | 昭和17 | |
臣民の道 | 高阪太郎 | 東世社 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和16 | ||
臣民の道 | 久松潜一 志田延義 |
朝日新聞社 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和16 | ||
臣民の道 | 文部省教学局 編 | 印刷局 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1914030 | 昭和16 | 呉PASS出版で復刻 |
臣民の道 : 精解 | 三浦藤作 | 東洋図書 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039436 | 昭和17 | |
臣民の道精義 | 佐伯有義 | 広文堂 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039446 | 昭和16 | |
臣民の道精解 | 勝俣久作 | 右文書院 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和16 | ||
臣民の道精解 | 高山林太郎 | 湯川弘文社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039454 | 昭和17 | |
臣民の道精義 改訂版 | 森吉左衛門 | 健文社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039437 | 昭和17 | |
臣民の道精講 戦陣訓精講 | 大串兎代夫 | 欧文社 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和16 | ||
臣民の道全釈 | 木下忠明 阿部喜三男 |
加藤中道館 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1106923 | 昭和16 | |
臣民の道通義 | 紀平正美 編 | 皇國青年教育協會 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1899811 | 昭和17 | |
臣民の道通釈 | 小西重直 高橋俊乗 共 |
富山房 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039431 | 昭和17 | |
臣民の道(点字版) | 文部省 編 | 大阪毎日新聞社 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和17 | ||
臣民の道の実践 | 興亜教育研究会 編 | 目黒書店 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和18 | ||
臣民錬成の教育 :国防体制の学校経営 |
高田師範学校附属 国民学校 編 |
教育実際社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1440014 | 昭和16 | |
註解 臣民の道 | 文部省教学局 編 | 鉄道青年会 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和16 | ||
日本臣格の錬成 | 枩田輿惣之助 | 教育研究会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1025446 | 昭和18 | |
日本臣道史 | 小関尚志 | 刀江書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039509 | 昭和16 | |
日本臣道の本義 | 日比野寛 | 松邑三松堂 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039420 | 昭和16 | |
日本臣道論 | 森 清人 | 富士書房 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039438 | 昭和16 | |
日本臣道わが中心 報効篇 第一輯 |
小谷文済 | 大日本臣道会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1094004 | 昭和14 | |
日本の臣道・アメリカの国民性 | 和辻哲郎 | 筑摩書房 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039409 | 昭和19 | Kindle版あり |
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前回記事で明治時代の電信業の始まりの苦労について書いたが、今回は郵便事業の始まりについて書くことにしたい。
明治政府が郵便事業を開始したのは明治三年(1870年)のことなのだが、それ以前に信書はいかなる方法で運ばれていたのだろうか。
石井研堂の『明治事物起原』には次のように解説されている。
…不完全ながらも、全国中重なる都邑には、飛脚屋の設けあり。各所の飛脚屋互いに気脈を通じ、私に信書の逓送業を営めり。之を三都大飛脚と名つけ、江戸にては京屋、島屋、江戸屋あり。各藩にては、各自分屋敷より国許へ定期飛脚を出し、又政府の公文書は、政府特に使いを発する習いなりし。王政復古と同時に、明治政府は、駅逓司を置き、逓信事務を管理せしめたれども、諸事草創の際なれば、私信は依然飛脚屋の手に委し、僅かに政府の公文書類を宿駅の伝間所に委して伝搬せしめ、重きを駅逓に置かずして、明治三年に及べり。
石井研堂『明治事物起原』橋南堂 明治41年刊 p.243
このように、以前は信書を運ぶ飛脚屋が存在し、明治政府も公文書類の運搬を当初は飛脚屋に委託していたのである。
少し補足すると、「駅逓司」というのは政府の信書物件の送達を司る役所であり、明治三年(1870年)に駅逓権正に着任したのは前島密である。駅逓正は欠員であったので、前島が実質的に駅逓司のトップという立場であった。
彼は慶応元年に、長崎で同地の宣教師から、アメリカでは切手を貼ることで国内各地に信書を送る仕組みがあることを聞いて知っていた。
彼が駅逓権正に着任して四日目のことになるのだが、回議書などに目を通していたときに明治政府が毎月飛脚屋に支払っていた信書の運送費が一か月に千五百両にも及んでいることを知り、わが国にも欧米のような郵便制度を導入すべきではないかと考えるに至ったという。ちなみに明治三年の1両の現在価値をGrokに聞くと、3千円~2万円の範囲内で米価を基準にすると約1万8千円という数字が返って来たが、その数字を基準に考えると毎月の信書輸送費は現在価値にして27百万円ということになる。
当時の政府が飛脚に輸送を依頼していた信書は、東京ー京都の両官庁間に往復する信書と、中央政府から府藩県庁に送達するものが大半であったのだが、信書を送る仕組みが前島によって抜本的に改革されることとなる。前島密の遺稿集には次のように記されている。
私は此の回議書の検閲に依て通信事業の基金額を得る事が出来たのを喜んで、これによって郵便を創設するという断固たる腹案を定めた。その腹案というは、月額一千五百両を費やせば、通信線を東京からして西京以外大阪まで伸ばして、毎日時刻を定めて東京大阪両地より各一便を発する事が出来、そうして官民一般の通信仏を送達される。そうなれば三府竝びに其沿道の人民は、皆其便利を得るからして大に喜んで其通信を託するであろう。そこでその送達賃を以て一千五百両の月額を収入することは決して難い事ではない。さればその一千五百両は三府の間に開始する暫時の郵便基金であって、久しからずして収入から填補して、これをまた新線路拡張の基金に充てる。この塩梅で以て漸次この基金を遞轉運用して行けば、遂に全国に及ぼすこともむつかしくないと。こう腹案は定まった。…
『郵便創業談 : 郵便の父前島密遺稿集』逓信協会 昭和11年刊 p.8~9
前島密は、毎日東京大阪の両地から定時に各一便を出し、公文書だけでなく民間の信書もその便に載せて料金を徴収すれば、1ヶ月で飛脚に支払う千五百両以上の収入を得ることは難しくなく、余ったお金は今後別のルートを開拓するための基金にして行けば、いずれ全国にサービスを拡大できると考えて、早速立案に取りかかったのである。
前出の『明治事物起原』に前島案が解説されているのを要約させていただく。
東京から京都まで公文書を運ぶコストを調査したところ、五百目(1.875kg)の荷物を運ぶのに片道三十六円かかっていることが分かった。しかし、五百目とは随分軽いので、飛脚業者に同じコストでどれくらいの重さ迄運ぶことが可能かを質したところ、三貫目(11.25kg)くらいまでの荷物なら可能との回答を得た。それまでは政府の公文書を送る際に用いていた袋の重さの上限を五百目としていたのだが、今後は政府の公文書だけでなく民間の私信も同時に扱うようにし、重さを三貫目までとして運ばせることで、政府側の支出を増やさずに、国民にも安価に信書を送る手段を提供することが可能になると考えた。
前島の郵便事務拡張の提案に参議の大隈重信は大賛成し、議決承認となる。当時の明治政府には、古い制度を捨てて新しいやり方を提案すると、予算に問題がなければすぐに飛びつくような雰囲気があったようだ。
少し補足すると、明治三年に「新貨条例」が制定され、翌明治四年には「一両=一円」と定められている。したがって東京から京都まで運ぶための片道運賃の三十六円は、現在価値にして六十五万円程度(36×18000円)ということになる。
前島が書いた郵便創設の布告案にはこう書かれている。
飛脚便を…簡便自在に致し候儀、公事は勿論士民私用向に至るまで、世の交際に於いて切要の事に候ところ、是迄商家に相任せ置候より書状の届け方とかく日限相後れ、その遅滞の甚しきは僅々数十里の道のりにて十日余も相掛り、或は
終
に達せざるの掛念もこれ有り。殊に急便にては賃銭高値にて、貧家の者ども遠国近在互いにその情を通じ兼ね、かつ四方の安否、品物の相場等の急速に相分らず、遠国僻在の土地に在りては不便に候。これより追々、諸街道へ遍く飛脚の御仕法立たしめられ、…上下一般急便の書通自由に出来致す候御趣意にて、先ず試みのため…京都まで三十六時間、大阪まで三十九時間限りの飛脚便毎日御差立て、両地は勿論東海道駅々四五里四方の村々も右幸便を以て相達候様御仕法相成り候
同上書 p.26
この布告案を読むと、従来の飛脚便は価格というよりも日数がかかったことの方が重要な問題であったようである。では当時の飛脚便は文書を運ぶのにどれぐらいの日数がかかり、費用はどの程度であったのであろうか。
当時両京の間に発信する官の仕立便という者は、三日を限って達する者として、(三日半を過ぎることもありましたが)その賃金は不同であるが、およそ一便二十三両、外に夜間賊難防護のため人夫一人を増すとして十二両を加えることがあるから、一便の賃銀三十五両になる。
飛脚屋便には仕立便、差込便、早便、並便の区別があって、仕立便とは特に一便を発すること、差込便とは仕立便に差し込んで併送するので、この差込便の賃銭は場合によって七八両から三四両の間を上下し、仕立便もまた差込便の多少に応じて不同である。また仕立便の速度は、東京大阪間が通例三日半で、その他は早便というも両地の間に七八日を費やし、並便は概して半月かかる。その賃銭は四五百文から二三百文でした。
同上書 p.9
「両京」というのは「東京」と「京都」のことで、それまでは東京から京都間の飛脚による運送は三日半を要したのだが、前島密の創設した郵便制度では「三十六時間」と明記されている。なぜこんなに短縮されたのかと誰しも疑問に思うところだが、前島密は明治三年(1870年)に駅逓権正に着任したのち、六月にアメリカとイギリスの郵便制度を研究するために視察旅行に出ており、郵便物を汽車や汽船や馬車で運んでいることや、郵便料金を如何にして設定するか、切手の再利用を防止するために消印を押すことなどを学んでいる。
前島は新知識を吸収して翌年八月に帰国したのだが、当時の政府は官制改革で混乱を極めていて、駅逓頭であった濱口梧陵は*郵便は飛脚屋に任せて置けばよいといった考えであったという。
*濱口梧陵は紀伊国で醤油醸造業を営む濱口儀兵衛家の七代目当主で、津浪から村人を救った物語『稲村の火』のモデルとなった人物
前島は自ら請うて再び駅逓頭に就任したのだが、その後飛脚屋との間に大きな問題が発生した。
当時の官設郵便は東京大阪間と東京横浜間の二線だけだったが、飛脚屋が生き残りをかけて東京横浜の賃料を郵便料金の半額にして対抗してきたのである。これを放置すると共倒れともなりかねず、そうなっては日本の通信事業の発展は望めない。
前島は、東京定飛脚屋総代佐々木荘助を呼んで説得することにしたのだが、このやりとりについて菊池寛は前掲書でこう書いている。
…佐々木は気力識量ともに抜群で、政府の役人の前だといっても頭を下げない。
『三百年来、わが国の通信事業に及ばずながら尽くしたわれわれを賞与すべきなのに、却って世襲の職業を奪い取ろうとするのは何事でありますか。』
と、主張して、郵便の廃止を強調してやまない。当時、政府の一部でも、飛脚屋の運命を憐れんで、通信事業の官有を非難する声はあったのである。前島は静かにこれを聞いていたが、
『それなら、政府が諸君の請願を容れて、通信の事は一切委せることとして、ここに安房のある村に送る一通の信書があるが、いくらの賃金で送りとどけるかね』
と問うた。
佐々木は答えて、
『一人の人夫を特別に使わねばならぬから、まづ一両はかかります』『それでは、これを鹿児島へ送り、根室に送るのにいくらかかるか』
『さあ、それは何十両かかるか分かりません』
前島は、一弾、声を励まして、
『それでは一衣帯水の釜山はどうだね。支那の上海、更に世界の首都は…』佐々木はうなだれて返事もなかった。
前島は言葉を和らげて、通信事業は世界各国みな官営で、それであればこそ外国郵便は勿論、いやしくも人民が一人でも住んでいれば、どんな沿革の孤島へも正確に手紙を届けることが出来るのであると言って、郵便の国家性、公益性を詢々として説くのであった。
『諸君の生活の道を立てることは、われわれ熱心に考えているのです。英国のように民間の者を買い上げるという風にすればよいが、それには御承知のように政府に財源がない…』
そう言って、具体案として、飛脚業者を組織して、内国通運会社をつくらせ、専ら貨荷物の運送に当たらせること、また失業した飛脚は、政府の郵便脚夫に優先的に採用するという救済案を披歴したのであった。
菊池寛 著『明治文明綺談』六興商会出版部 昭和18年刊 p.56~58
この話は菊池寛の創作ではなく、前島密自身が『鴻爪痕』で書いていることを分かりやすく書き直したものである。郵便の公益性を佐々木に説く部分は、某国や財界に対して何も言えない昨今のわが国の政治家や官僚に是非読んでもらいたいと思う。
…(佐々木に)猶英米にはどうだ、露佛にはどうだと聞くと、茫然として気抜の様になり、どうして達し得るか其道を知らないと言って、大に恥入った様子であるから、私は抑も通信というものは、国際上に貿易上にまた社交上に極めて必要な事であって、内国は勿論、外国でも通信の設のある文明国には、遍く達すべき設備が無くてはならない。それを君等の家業のように、一地一部を限った通信では、この大目的に適しないという事を、徐かに言って聞かせ、夫から今官で以て郵便を施設しようとするのは、この大目的を達する為であって、内はおよそ人民の住んでいる地は島嶼であろうが山奥谷底であろうが、距離の遠近を問わず少額でかつ均一な料金を納めて、迅速に正確に音信を通ずる線路を引き、外は欧米諸国と郵便の条約を結んで所謂通信自在の域に到らせようとの大計画である。もし君等に能く此事が出来るならば、我は君等に代って、政府に請願しても宜しいのだと言った。
『鴻爪痕』大正11年刊 p.86~87
前島の説得により佐々木は飛脚業が近代社会に生き残ることが難しいことを納得し、前島も飛脚業者が路頭に迷わないように駅逓寮で雇用することを約して飛脚業者が生き残る道を提案して、円満に交渉を終えることができた。
佐々木は郵便の運送及び郵便事業に使用する物品の運送業務のため、明治五年に陸運元会社(のちの内国通運会社)を設立してその副頭取となった。一方前島はこの陸運元会社設立を機に、各地の陸運会社がこれに加盟することで、全国的な郵便網の整備を進めていった。
佐々木が設立した陸運元会社は明治八年(1875年)に内国通運会社に改称となりその後も順調に業容を拡大していき、この会社が現在の日本通運株式会社のルーツとなっているのである。
現在の日本人が当たり前のように使っている「郵便」「切手」「葉書」という名称を定めたのも前島密だが、新しい制度を一から構築してそれを全国津々浦々に定着させるためには、余程緻密な思考力と強いリーダーシップがなければ不可能なことである。
前島密は一円切手でおなじみの人物なのだが、Wikipediaによると、この切手の前島の肖像画は昭和二十二年の初発行から一度もデザインが変更されていないのだそうだ。他の切手についてはたびたびデザイン変更がなされているが、一円切手については特別扱いで、今後もこのデザインだけは変更することはできないと日本郵便が正式にコメントしているという。
前島は、明治四年の郵便事業創業以来わずか一年四ヶ月で、北は北海道から南は九州まで、全国に統一された郵便網を完成させただけでなく、郵便為替や郵便貯金事業の創設などにも尽力して今日の日本郵政の事業の基礎を築きあげ、「日本近代郵便の父」と呼ばれるに相応しい人物なのである。
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前回の「GHQ焚書」で、武士道に関するGHQ焚書を紹介させていただいたが、剣道や柔道などの武道に関する研究書や解説書、指導書などもGHQによって焚書処分されている。処分された理由は武道の技術的な面というよりも、おそらくはその精神的な面ではないかと思われる。
最初に紹介させていたただくのは、武田寅男 著『国民武道講話』。読み始めると、GHQが焚書処分した理由が何となく見えて来る。
いま我々が日常口にしている「武道」のようなものは、世界のどこの国にもない。武術に類したものは、ヨーロッパにも、支那にも、国々によって、各種のものがあると思うが、日本の武術のように精妙な発達を遂げているものは、他に一つもない。それは、日本の武が、単に殺傷攻防のための形而下の技術として発達したのでなく、極めて高度な精神内容を本体として、所謂技心一体の体系を具え、その本質が、日本民族に特有の大和魂に発して、連綿二千六百年の発展を遂げて来たものだからである。
日本の武は、武道において、全き形態を見ることが出来る。それは日本民族各個の武の修行道であるとともに、日本武の生ける伝統である。この伝統によって、我々は、日本の武の生きて在る姿を知ることが出来、これを学ぶことによって、我々の血に流れているところの武を養うことが出来るのである。
故に、日本の武道は、ただ日本民族によってのみ伝統とすることの出来るもので、その形は、あるいは他の民族も学ぶことが出来るであろうが、その精神を受け、伝えることは困難だと思う。世界のどこにも、日本の武道に似たような体系をすら見出すことが出来ない事実が、これを証明するのである。日本の武道は、有史以前の日本民族の血が生み、建国以来の国風がこれを育てて来た、最も特色のある民族の伝統である。日本人を真に理解するには、日本の武道に触れずに、それを果たすことは出来ない。同時に、真の日本人を作り上げようとするには、武道を経過せずに、これを求めることは出来ないのである。
日本の武道の特色として、第一に挙げられるものは、我を捨てて敵を倒すということであろう。
柳生流の教えに「皮を切らせて肉を切れ、肉を切らせて骨を切れ」と言う言葉は、誰でも知っている言葉であるが、皮と肉、肉と骨の交換を志すのが、日本武道の真精神なのではない。この言葉は、剣術技量の差が、そのように現れるという結果を訓したもので、皮を切らせて肉を切るという巧みなことが、誰にでも出来るものではない。こちらも切られる、然し向こうは必ず切る、彼我ともに刺しちがえて死ぬという精神。所謂相討ちの勝、わが身の生死の如きは問題ではない、ただ目指す敵を討ちさえすればよい。これが日本武道の真精神である。この精神によって突進すれば、後は彼我鍛錬の技量の差が、事を決するのだ。…中略…日本の武術は、自己を安全にして、敵を倒すということは不可能であると喝破している。もし安全を期したければ、戦わなければいい。戦いに臨んで、自分だけが助かろうとは考えられない。何故ならば、敵もまた同じ境地にあるからだ。戦いにおいて、絶対の安全はありえない。ただ安全を願わぬことによって、死中に活を得る道があるばかりだ。――日本の武人は、戦場死闘の体験によって、こう考えている。
武田寅男 著『国民武道講話』国防武道協会 昭和17年刊 p.6~9
西洋にもフェンシングと称する剣術が存在するが、日本の剣道とは全く異なる。武田は、「フェンシングという名称自体が、Fence ―― 垣、防御の意味に他ならぬ。まず自己を安全にしておいて、それで敵を倒そうというのが、最も巧みに考えられた西洋武術の根本精神であると言ってよい」と書いているがその通りだと思う。
日本の武術の究極は、真っ先に我を棄てて敵を伐てというのである。武道の奥義は、どんな武道のどんな流儀でも、自分を護って伐てとは教えない。一見これくらい非論理的な戦術はないのである。
「我が死んで、どうして敵が伐てるか。よしんば伐てたにせよ、我が死んでしまっては何にもならぬではないか」
おそらく、西洋の戦術家はそういうだろう。彼等にとっては、生命への執着から離れることは、容易なことではない。大死一番という心境を悟ることは難しい。死中に活を得るのだと説明しても、死中に万一の活を求めるのは投機である、生中に万全の活を確保するのでなければ、戦術ではないというに違いない。
一見非論理極まるこの逆理の上に、活殺の機微を知る直観こそは、我々日本人が、二千六百年の歴史の中に鍛え得た性能であって、そのよってくる発展の過程が、即ち日本武道の発展過程であると言ってもよいのである。しかし、現在の武道の悉くが、かかる特質を立派に具えているかと言えば、残念ながら、そうは言えない点もある。
徳川三百年の泰平期をくぐって、立身栄達に馴れ、明治大正期の功利的個人主義に浸って来た思潮は、伝統深き日本武道の世界にも、多くの影響を及ぼしている。自我功利、自己保身の観念がそれだ。身を殺して仁をなすと言った大きな勇猛心は乏しくなり、ひたすら自分一身の完成とか、繁栄とかいうことに心を奪われていた。…中略……自我功利の武道は、日本の武道ではない。武道の性格は、常に死んでかかるという精神にある。これを国民武道建設の根本精神としたい。
同上書 p.11~12
戦う相手にとって「常に死んでかかるという精神」で戦う相手ほど嫌なものはないだろう。このような精神教育や武道教育をGHQが嫌ったことは間違いないだろう。
では実際にわが国では学校でどのような武道教育をしていたのであろうか。
小学校教員向けの剣道指導書である 馬場豊二 著『小学校に於ける剣道指導の実際』がGHQによって焚書処分されている。いったいこの本に何が書かれているのか。同書の第一章には次のように記されている。
一、剣道の起源
剣道は剣を手にし戦闘する技術を錬磨せん為に起これるものなり。二、剣道元来の目的
技術を巧妙にし、心身を鍛錬し、敵と闘いて必ず勝利を得んことを期するにあり。三、剣道は武士的人格修養の道なり
武士的人格とは、必ずしも戦闘に従事すべき戦士たる人格をいうにあらずして、尚武の気象に富めるわが国民が、古来伝承せる大和魂、すなわち武士道の精神を体し、忠君愛国の至誠に富み、よく剛健快活にして諸種の活動に堪えるべき日本帝国の国民たるに適する人格をいうなり。四、要は心身鍛錬が剣道の目的なり
文部省剣柔道指導要目に
「剣道及び柔道はその主眼とする所心身の鍛錬に在りと雖も、特に精神的訓練に重きを置くべし。技術の末に奔り、勝敗を争うを目的とするが如き弊を避けるを要す。」
とあるが如く、よく剣道修養の目的を言い表わせるなり。
馬場豊二 著『小学校に於ける剣道指導の実際』明治図書 昭和11年刊 p.1~3
このように、剣道の指導を通じて武士的人格修養を目指すことが明記されている。つづいて著者は、剣道指導の目標について次のように論じている。
…剣道は日本的であるがゆえに尊いと言ったが、それは長い歴史と伝統とを保持して国民性に緊密に結合しているからである。歴史と伝統とは論理を超越して偉大なる力を、わが国民の上に及ぼすものであって、日本国民としての団結は主としてこの伝統と歴史に対する憧れにある。
また剣道は天地の大道を求める態度とも見ることが出来る。剣を用いる形式によって純真なる精神を外に表現し、それを表現したるところを持って内に膽を練り魂を鍛えて、宇宙の大真理に参して人格の完成ということを期する。但しこの人格も単なる人格だけでは無意味である。日本国民としての人格の創造並びに進展である。何となれば我々の社会生活の最高理想の単位は国家生活であると信ずるがゆえにである。概念の上に於いては抽象的に単なる人間、あるいは世界人ということも考えられるけれども、事実に於いて、果たして何れかの国家に従属せざる単なる人間があり得るであろうか。剣道の持つ歴史と伝統とは国民意識を喚起する。国民意識の旺盛なるものは必ず国家に忠実なる士、愛国の士である。
剣道は道であるという以上、単なる力に止まるべきにあらず、単なる術に終わるべきでもない。遂に道に到達すべきである。
剣道は過去に於いて武士道と結び、武士道を伴わざる剣道は剣道ということは出来なかった。それほど剣道と武士道とは緊密なる結合を遂げて一つのものの裏表といった感があった。ゆえに剣道の修業は同時に武士道の修養であった。武士道の根幹をなすものは道義の生活である。従って剣道は道義の発揚ということに重大なる意義を持つ。この道義を個人より国家にまで拡大し、世界にまでおよぼさなければならぬと思う。我々は剣道により国民意識を喚起するとともに、この愛すべき日本国家を道徳的国家にまで高めること、これこそ剣道の大使命ではあるまいか。ゆえに剣道の目標はと言えば、道義的国家の建設即ち之であると確信する。
同上書 p.7~10
剣道も柔道も武道に分類されるのだが、当時の柔道の指導書には「武士的人格修養」についてはあまり述べられておらず、剣道にはその点が重視されているようである。武器を持つことが許された者は、その武器を社会の平和の為、安定の為に活用することは日本人にとっては当然のことなのだが、多くの国で武器を用いた犯罪が少なくないのは、初等教育で人格修養にあまり力を入れていなかったことがあるのだろう。
GHQ焚書リストかの中から、本のタイトルから判断して武道(剣道、柔道など)に関係のありそうな本を抽出して、タイトルの五十音順に並べてみた。
分類欄で「〇」と表示されている書籍は、誰でもネットで読むことが可能。「△」と表示されている書籍は、「国立国会図書館デジタルコレクション」の送信サービス(無料)を申し込むことにより、ネットで読むことが可能となる。
タイトル | 著者・編者 | 出版社 | 分類 | 国立国会図書館デジタルコレクションURL 〇:ネット公開 △:送信サービス手続き要 ×:国立国会図書館限定公開 |
出版年 | 備考 |
刀及剣道と日本魂 | 亘理章三郎 | 講談社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1125975 | 昭和18 | |
剣道教育の実践 : 大和魂発現への小学校 |
吉岡治一 | 文泉堂書房 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1279315 | 昭和9 | |
国民学校 剣道教授の研究 | 馬場豊二 | 明治図書 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1460895 | 昭和18 | |
国民学校体錬科体操武道教育 | 中尾 勇 | 晃文社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1119298 | 昭和15 | 国民学校教育体系 第9 |
国民学校体錬科武道の精神と実際 | 仲瀬敏久 村上貞次 | 清水書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1140589 | 昭和18 | |
国民戦技武道読本 | 旺文社 編 | 旺文社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1035661 | 昭和20 | |
国民武道講話 | 武田寅男 | 国防武道協会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1125972 | 昭和17 | 新武道叢書 |
銃剣術 | 江口卯吉 | 国防武道協会 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1460347 | 昭和17 | 新武道叢書 |
柔道教本 | 木村三郎 | 香蘭社出版部 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和17 | ||
小学校に於ける剣道指導の実際 | 馬場豊二 | 明治図書 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1453152 | 昭和11 | |
体練科武道 剣道篇 | 三橋秀三 | 目黒書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1141135 | 昭和16 | |
日本柔道魂 前田光世の世界制覇 | 薄田斬雲 | 鶴書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1125973 | 昭和18 | |
武道極意 | 鈴木礼太郎 | 平凡社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1236786 | 昭和9 | 武道全集. 第1巻 |
武道宝鑒 | 野間清治 編 | 大日本雄弁会講談社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/3430338 | 昭和9 |
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前回の「歴史ノート」で、嘉永七年(1854年)にペリーが二度目の来日をした際に横浜で汽車の模型を動かしたところ、幕府の役人が子どものように喜んだことを書いたが、ペリーは同時に電信機のデモンストレーションをも実施していた。その時の日本人の反応について、ペリーの『日本遠征記』には次のよう記されている。
…電信装置は真っすぐに、約1哩*張り渡された。一端は条約館に、一端は明らかにその目的のために設けられた一つの建物にあった。両端にいる技術者の間に通信が開始された時、日本人は烈しい好奇心を抱いて運用法を注意し、一瞬にして消息が、英語、オランダ語、日本語で建物から建物へと通じるのを見て、大いに驚いていた。毎日毎日、役人や多数の人々が集って、技手に電信機を動かしてくれるようにと熱心に懇願し、通信を往復するのを絶えず興味を抱いて注意していた。
*1哩:1.609km
『ペルリ提督 日本遠征記 (三)』岩波文庫 p.200
このような反応を示したのは幕府の役人ばかりではなかったのだが、昔から日本人は好奇心が強かったようである。
菊池寛の『明治文明綺談』に詳しく書かれているが、この電信機は当時の最新のもので、外箱には「日本皇帝へ贈る」と英文で彫ってあったという。残念ながら将軍は忌中という理由で見てもらえなかったそうだが、幕府は電信機取扱いの伝習を津田眞道、西周、加藤弘之らに命じたという。幕府はこの文明の利器を国産化することまでは考えなかったようだが、九州には電信機を作ろうとして動き出した藩が存在した。
菊池寛は同書で次のように記している。
献上電信機より四年にして、薩摩藩主島津斉彬は藩士中原猶介に命じて、電信機を作らせ、鹿児島城内本丸から二の丸まで五丁の間に電線を張って、通信を実見している。しかも、斉彬はこれに気をよくして、鹿児島から京都藩邸まで電線を引く費用を調査したという話まで残っているくらいである。国産電信機発明の名誉は、こうして薩藩が負うところとなった。
この発明者、中原猶介は、戊辰戦争で越後口で戦死したため、今日ではその名を記憶する人は殆んどないが、科学者としても軍人としても立派な人物であった。
早くから高島秋帆の門に学び、また江川塾の塾頭もやり、伝記の専門家として、重きをなしていた。彼は実に日本に於ける最初の水雷の発明者で、電信機はその研究の副産物として生まれたものであった。
薩英戦争は、英艦隊が鹿児島湾に入って市街を攻撃したとき、薩藩は中原の発明にかかる水雷を桜島水道に三個敷設したが、遺憾ながら英艦はその直前で針路を変更したため、成功することが出来なかった。
菊池寛『明治文明綺談』六興商会出版部 昭和18年刊 p.30~31
薩英戦争についてはいずれ書くことがあると思うが、この戦争では薩摩藩の大砲が火を噴き、英艦隊は大破一隻・中破二隻の他、死傷者六十三人と多くの損害を受け、戦闘を中止して一度も上陸を果たせないまま横浜に戻っている。しかしながら英艦隊の艦砲射撃により鹿児島の市街地の十分の一が焼き払われてしまった。薩摩藩は戦いに敗れたわけではなかったのだが英艦隊のアームストロング砲の射程距離が薩摩藩の大砲とは比べ物にならない性能であることを知り、小松帯刀、大久保一蔵らは、無謀な攘夷を行なってはかえって国を危うくすると訴えて藩主に薩英講和を説き、その結果薩摩藩は対英講和談判を開始することとなるのだ。
中原の発明した水雷の威力がどの程度であったかは不明だが、もし英艦隊に水雷が命中し、砲撃でダメージを与えていたら英艦隊は早々と退散して、薩摩藩はその後も攘夷の方針を続けることになったかも知れない。
国産電信機で名前を残したのは薩摩藩の中原猶介だけでない。佐賀藩にも田中久重(近江)という人物がいた。この人物は筑後国の出身で、子供の頃からからくり人形の新しい仕掛けを次々と考案して大評判となり「からくり儀右衛門」と呼ばれ、各地にその名を知られるようになったという。その後大坂や京都で蘭学や西洋技術などを学んだのち佐賀藩の精錬方に着任し、日本初の蒸気機関車を製造したのだが、この人物の伝記を読むと、彼は電信機も製作している。
肥前国佐賀藩主の鍋島閑叟(直正)は、オランダ王から幕府へ電信機の贈り物があったとの情報を耳にして、藩の精錬方に研究を命じている。浅野陽吉 著『田中近江』にはこう記されている。
閑叟これを聞き、西洋各国に於いては、英国をはじめ皆之を施設し、針金一本で遠隔の地に通信し得ること、自由自在の利器なるを了解するや、閑叟は是れ政治上又軍事上必須の利器なりとし、精錬方に其の製作研究を命じた。精錬方は協力して大いに研究工夫を凝らした。併し此際一般の佐賀人は当時本邦世俗の如く上下共に未だ海外知識を了解するに到らず、精錬方を閑叟の蘭癖を慰する娯楽場の如く思いたる時節であったので、精錬方も骨が折れたのである。而して精錬方努力の結果は、決して空しからず、電信機製造は同(安政)四年(1857年)六月以前に成功したようである。田中近江父子がその製作に参画したのは勿論である。
同四年六月には、精錬方製造の電信機を、島津斉彬に贈らんが為に、閑叟は近侍長千住大之進を正使とし、電信機製作に与った佐野栄壽左衛門及び中村奇輔を随員として鹿児島に遣わした。…
浅野陽吉 著『田中近江』昭和5年刊 p.74~75
この書物によると、わが国における電信機の製造は薩摩藩の中原猶介よりも、佐賀藩の田中久重の方が早かったことになる。田中久重はその後、国産初の蒸気船である凌風丸建造の中心メンバーとなり、明治以降は電信機関係の田中製造所を設立し、その企業が後に株式会社芝浦製作所となり現在の東芝の基礎となった。東芝のホームページで沿革を確認すると、田中久重は東芝グループの創業者に位置付けられている。
遠距離の通信を瞬時に可能にさせる電信機の普及は国民から歓迎されたことと誰でも考えてしまうところなのだが、現代人からすれば信じられないような民衆の妨害活動が、各地で起こった。
前掲の『明治文明綺談』にはこう解説されている。
鉄道開設の時は、主唱者である大隈の生命がねらわれるなど、囂々たる世論の反対を捲き起したが、電信の場合は、費用も鉄道ほどかからなかったせいか、政治上の反対はそれほどでなかった。
ただ、電信というものに対する民衆の無知や、頑固なる保守主義の人たちによって相当に妨害されて、電信受難の時代が相当長く続いている。一番多い妨害は、電線切断で、これにはずい分政府も手を焼いている。
『新聞雑誌』五十三号(五年七月)に次のような記事がある。
『近頃尾州より帰りし人の話に、尾州より東京までの模様を通視せるに、駿遠*の間は、電信線に礫をなげ、十に六七は破損せり。又柱には種々のらくがきありて、その疎漏なる見るべからず。三尾**の間には之に反し、柱の根には囲いを設け、ひとをして触れることなからしめ、少しも電線の破損せるを見ずと言えり。』
とあるが、電柱に一々囲いをつくるなど、当局の苦心のほども察せられよう。
*駿遠(駿河国、遠江国にまたがる地域) **三尾(三河国、尾張国にまたがる地域)
『明治文明綺談』p.36~37
工事の妨害が余程多かったのだろう。明治五年四月の『新聞雑誌四一』に沿道の妨害を禁じる布告が出たことが報じられている。
妨害運動は地域によってさまざまで、ただ電線を切るだけでなく、迷信と結びついてもっと深刻な事態になったところがある。
中国筋では、電信は切支丹の魔法で、その電線には処女の生血を塗るため、軒口の戸数番号の順に娘を召捕に来るという噂が広まり、そのため大恐慌を起こして、眉を落とし歯を染める娘が続出し、電信線の切断倒壊数知れずという有様であった。
また九州地方は、保守派の中心地であったため、電信線など西洋渡来のものを白眼視する傾向が強かった。神風連は殊に極端で、彼らは昔のままの丁髷に大刀を腰にさして、組元市内を闊歩していたが、彼らは決して電信線の下をくぐらず、また止むを得なくてくぐる時には扇子を頭の上で開いて通ったという。
また奥州方面では、『今度電信を架けるそうだ』という話が、どう間違ったのか、伝染病を引っ張ってくるというので、電線妨害をする者が多く、役所を手こずらしている。また『千里百里隔っていても互いに行くというから、息子が何処其処にいるから、此れを届けて貰おうといって、電線へ風呂敷をしばりつける』者もあったという珍談を、当時の新聞紙は伝えている。
同上書 p.39~40
読んで、思わず吹き出してしまうような話ばかりだが、『新聞集成明治編年史. 第一卷』に掲載されている記事がある。
上の画像は明治五年四月の『新聞雑誌四十一号』の記事だが、「安芸長門辺にて」とあるので、広島県から山口県あたりで実際に起こったことのようである。
このような妨害はただのイタズラとは思えないし、反対勢力が工事を遅延させるためにワザと流言飛語を流した可能性も否定できない。
明確に記録が残っているのではないので断言はできないが、電信網が出来上がってしまうと、信書などを運んでいた飛脚に従事していた人々の仕事は激減せざるを得ない。街道の沿線には飛脚で生計をたてている家が相当あったことと思われ、飛脚が利用した宿屋なども客が激減する危機感を持ったに違いない。
技術の発達によって、人間が従事してきた業務の一部を機械が代替するようになり、機械を生産・販売したり、機械を用いてサービスを行う仕事が生まれる。いつの時代もその繰り返しなのだが、新しい仕事に従事する者は仕事を失う者よりも少ないことが多く、また仕事を失った者が新しい仕事に必要な技能を修得できるのにはかなりの日数が必要となり、習得してもすぐに仕事が見つかるかどうかはわからない。そのために多くの失業者が一時的に生まれて世の中が不安定化することになる。
明治政府は西洋文明の導入が雇用に与える影響を軽視したために、各地で民衆の騒動が発生したのだが、いつの時代もどこの国でも、このような為政者にとって都合の悪い事実はほとんどが切り取られて後世に伝えられることが多いことを知るべきである。
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「武士道」をキーワードにしてGHQ焚書リストを調べると、結構多くの書籍が引っかかる。よく似た言葉に「士道」という言葉があり、多少ニュアンスは異なるが、ほぼ「武士道」と同様な意味で用いられるようなので、それらを加えると「武士道」に関するGHQ焚書は42点存在する。
今日のわが国では「武士道」という言葉はほとんど死語のようになってしまったが、その理由は連合国が日本軍が勇敢に戦うことに怖れをなし、「武士道」に関する書籍の多くを焚書処分したことと無関係ではないだろう。
『武士道と武士訓』という本の序文には次のように書かれている。
比島に惨敗した米兵は、彼等が日頃の傲岸不遜に似ず、我が武士的敢闘の下に辟易し、捕虜となってからその時の物凄さを思い起こし「日本軍は五十人が十人になっても攻めて来る。十人が五人になっても激しく攻撃して来る。そして最後の一人となると、より激しく突撃して来る」と身を震わした。
これは我が武士道精神の前に屈服したのであり、彼らにない神秘の力を日本軍の上にのみ感得したものである。かくて我が武士道精神は大東亜圏以外にも氾濫し、欧米人の心胆を寒からしめたもので、今後の彼等は、剣戟を交える前にまず戦意の喪失を来たし、皇軍の蹂躙に委するより外なかろう。日章旗を仰ぐには、彼等の眼は、はや眩しさに耐えないのだ。…中略…
傲岸であった宿敵米国が、今に及んで我が武士道的気魄に戦慄し、表面を糊塗しながらも、慴伏の色を如何ともし得ない彼等の醜状を見るべきである。これを語るものは誰あろう。曩の駐日米国大使であったグルーである。彼は最近「真珠湾一周年記念」なる一書を出版したが、その中に…悲鳴をあげているのである。
『日本人の態度は、自己の優越性と強力、「英語国民」の劣等生と脆弱という観念から出発している。余は日本国民を無意味に褒めそやそうとは思わぬが、しかし彼等が固く一致団結して政府を支持し、軍部の方針が常に正しいと考えていることだけは確かだ。
日本国民は戦時下における食料の切り詰めを忍び、一杯の飯を半分にしても、種々の困難に耐え忍ぶだろう。人的物的の最後の一滴が尽きるまで、彼等は戦うであろう。
しかも軍隊に一貫して流れている戦闘精神は、決して見逃すことの出来ない日本軍の動力である』
と。もとより彼グルーは、これを以て自己国民への鞭撻に供したものであるが、しかしながら彼等米国国民は、これによって或いは奮起するでもあろう前に、我への抗戦に怯けつつあるを如何せん。グルーの言に敵意の漲るものは認めるが、「軍隊に一貫している戦闘精神」の語を以て、日本精神を築き上げている我が武士道的心胆を認め、この前に屈服の色を示したのは、さすが駐日の年久しかっただけ、日本及び日本人を良くぞ知り得たといおう。
小滝淳 著『武士道と武士訓』日本公論社 昭和18年刊 p.3~6
『武士道と武士訓』は武士道に関する訓話などを集めた本だが、武士でなくとも人生の参考になりそうな文章が少なくない。たまたま目に留まった『武道初心集』の一節を紹介したい。
常々人もなげなる口をきき、理智発明をうわべにしても、死の覚悟が出来ていなければ、今を限りの時に臨み、前後不覚に取り乱し、最期を見苦しくするなら、たとい生前に善行があっても水の泡となり、一時に見下げ果てられ、一生に恥を塗ることになる。
これを戦場について考えても、その時つたなくて勝負に負け、敵に首を渡す際でも、名を問われれば落ち着いて名乗りを上げ、にっこと笑って見せるほどわるびれないのは、かねて討死と覚悟を極めているからである。あるいは療治のかなわぬ深傷を負っても、番頭組頭の聞く前でしかと物もいい、手負い振もたしなみ、人事様に果てるなら、みごとな武士の最期とほめられる。
老人ならばいうに及ばず、たとい年若くとも、大病を受けては覚悟を極め、今生に心残りのないよう遺言すべきは遺言し、礼をいうべきには礼をいい、心静かに死を待つこそ、これが最期に処する武士の嗜みである。然るに本復しない病気であるとの思慮もなく、病気が軽いといわれれば喜び、重いといわれれば嫌がり、かれこれと医者を選び換え、病気平癒の祈願をかけるなど、うろたえるさま目もあてられず、病気重り行くにかかわらず、何一ついい遺そうとしないとは、見苦しい未練である。
このようにして一生一度の臨終をしぞこねるのは、死を心にあてていないからである。戦場で最期を遂げない武士は、覚悟のほどを見せるため、畳の上での最期を、一生一度の大事とすべきである。
同上書 p.96~98
昔の政界や財界には信頼するに足る人物が少なからずいたと思うのだが、今のわが国には信念らしきものもなく、強い者の言いなりに動き、本来やるべきことを後回しにしてポストにしがみつくような人物が多すぎる。わが国で人の上に立つ人物は「武士訓」を学んで人格を磨いてほしいものである。
次に紹介したいのは『武士道と日本民族』。著者の花見朔己 は福島県喜多方市出身の日本の歴史学者で安土桃山史の権威とされる東京帝国大学史料編纂官であった人物である。『会津』、「日本近世史説」『日本武将伝』『日本文化史 第九巻』等の著作があるが、GHQによって焚書処分されたのは本書のみである。
本書によると「武士道」という言葉は、応永十九年(1412年)に制定された今川了俊の壁紙に登場するのだが、当時は「弓馬を主とする武道そのもの」という意味合いで用いられていたようである。
江戸時代になって武士が心得るべき道徳的なことがらについては「士道」という言葉がよく用いられるようになり、「武士道」という言葉も同じ意味で用いられていたが、今日では「武士道」と言う言葉を用いるのが一般的である。
武士道とはつまるところ古来武士が実践躬行して来た道徳であり、日本民族の民族精神が具現化したものとも言えると論じている。
元来わが国民は太古以来尚武の国民で、武を以て国本としたことは疑うべからざる事実である。…中略…この尚武の日本精神が根幹となって、さらに三千年の歴史を経る間に儒教並びに仏教などの精神が加味され、次第に修養を経て発達して完全な形となって、終にひとり武士の守るべき道徳たるのみならず、ひいては今日我々がいう日本精神というものの一形態となったものである。即ち武士道の根幹は尚武の精神であって、さらにこれに儒仏二教が両翼となって扶養して来たもので、かくて次第に完全なる発達を遂げるに至ったものである。
…中略…武士道にはその武士道を立てた教祖とかあるいは祖師というものもなければ、またその武士道の協議を示すところの経典というものもない。…中略…武士道の起源が日本精神に基づき、遠く神代に発して自然的に発達し、中頃儒教・仏教の影響を受けて次第に研磨さられて発達したものであるから、格別取り立てて教祖と言う者はなかったのである。而してまたその経典というものもなかったのである。
これ一つはわが国民が所謂言挙げせぬ民族で、すべて実践主義であったから、これを言語文章に現わして世に伝える必要もなかったであろうし、また一つにはわが国の国家社会の組織が肇国以来のおのづから君臣の分定まって、国民は何ら疑義の挟むべきものがなく、偏に皇室を奉戴し、皇室に於かせられてはまた国民を視ること子弟の如くであったから、国民たるものはおのづからにして臣道を守って、君臣の分を紊るが如きことがなかったからであろう。されば武士道の解釈の如きは、人によってその方法を異にするも差し支えないわけであるが、その徳目の如きは自ずから定まって、その間何らの疑義を生じることがないのである。
花見朔己 著『武士道と日本民族』南光書院 昭和18年刊 p.9~11
わが国が神代から武勇を重視してきたことは、天孫降臨の際に天照大神が瓊瓊杵尊に授けた三種の神器の中に、天叢雲剣があることなど日本神話の中に武器を大切にしてきた記述があることからわかる。
古代においては、物部氏と大伴氏が武を以て朝廷に奉仕していたのだが、武家時代になると武を以て奉仕する対象が変化していくことになる。
わが国民の君に忠を尽くし、所謂一旦ことあらば義勇奉公の年に振るい立つことは、既に古来の伝統的精神で、今更あらためて言うまでもないところであるが、この君とは古にあっては天皇を指し奉り、やや後世になっては己の仕える主を指していうことになって、非常に混淆した曖昧な言葉となったのであるが、武家時代となるとこの君臣関係は、多くの場合、むしろ主従関係を意味するものとなったのである。かの東大寺の大仏再興で有名な僧重源が頼朝の助援を請える書状に、「君」の力によらなければならぬとあったので、頼朝はこれに対し「君」とは自分を指していうのか、もし自分を指すならばそれは恐れ多いことである。自今使うてはならぬと戒めたということであるが(柏木貨一郎文書)、なるほど君という文字本来の意味はそうあるべきである。…中略…
しかしどの道わが国民たるものは、一人として忠君愛国の精神を持たぬ者はないのであるから、天皇の御為に一命を捧げ奉るという精神は必然的に何人にもあるわけで、従って武を以て生命とする武士にあっては、一層その精神に燃え立つわけであったことは既に説いたところである。然るにそれが武家時代になっては、武士がその主と仰ぐものに対して、事ある場合に一命を捧げることを第一のつとめとするに至ったことは明らかなことで、ここにわが中世以降の武家政治の起こった時代とは格段な差別のある所以も了解せられる所以である。
同上書 p.136~137
著者は第八章に「従来の学者によって論じられた武士道の徳目は、決して武士のみが厳守すべきものでないのみならず、むしろこれはわが国民が上下斉しく守らねばならぬ人倫五常の道に過ぎない」とし、武術については武士の専業であったが、「人倫五常の道は常に教養せられ、忠君愛国の念は常に養成せられていたから、何時にても農工商より武士たるを得たのである。これ実に明治に至りて武士階級の廃止せられて国民皆兵の現代に至っても、我が武士道精神はいささかの衰微もみざるのみならず、益々その熾烈を見るに至れる所以である。しかして今日はこの武士道精神を一層助長せしめて、国民精神または日本精神とさえ称えられるに至って、ここに全国民的の精神薫育の中心とさえならんとしつつあるのである。(p.194~195)」と書いている。
武士階級がなくなっても武士道精神が残り、明治以降の数々の戦争に於いて日本軍の強さは敵軍を何度も驚愕させてきたのだが、GHQが武士道に関する書籍の多くを焚書処分にした理由は、このあたりに在るのだと思う。
GHQ焚書リストかの中から、本のタイトルに武士道と関連のある用語を含む本を抽出して、タイトルの五十音順に並べてみた。
分類欄で「〇」と表示されている書籍は、誰でもネットで読むことが可能。「△」と表示されている書籍は、「国立国会図書館デジタルコレクション」の送信サービス(無料)を申し込むことにより、ネットで読むことが可能となる。
タイトル | 著者・編者 | 出版社 | 分類 | 国立国会図書館デジタルコレクションURL 〇:ネット公開 △:送信サービス手続き要 ×:国立国会図書館限定公開 |
出版年 | 備考 |
愛国の熱情と武士道 | 松波治郎 | 博正社出版部 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和17 | ||
皇国武士道 | 森 清人 | 第一出版社 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和14 | ||
産業武士道 | 菊地麟平 | ダイヤモンド社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039374 | 昭和17 | |
士道至言 | 高橋福雄 | 桑文社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1255346 | 昭和12 | |
新日本精神に就いて 武士に現れたる日本精神 |
海老名弾正 渡瀬常吉 | 新日本精神研究会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1257457 | 昭和12 | ひのもとパンフレット. 第3輯 |
空の武士道 | 野口昂 | 河出書房 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1465681 | 昭和8 | |
大義武士道訓 | 大道寺友山 | 鶴書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039553 | 昭和19 | |
大日本建国史 : 附・日本武士道史 | 平原北堂 | 勅語御下賜記念事業部 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1090805 | 昭和13 | |
日本精神と武士道 | 仁木笑波 | 浩文社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1235363 | 昭和9 | |
日本精神文献叢書第13巻 士道篇上 | 河野省三 編 | 大東出版社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1256972 | 昭和14 | |
日本精神文献叢書第14巻 士道篇下 | 加藤咄堂 編 | 大東出版社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1256982 | 昭和14 | |
日本武士道史 | 永吉二郎 | 中文館書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1213312 | 昭和7 | |
日本武士道史の体系的研究 | 石田文四郎 | 教文館 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039575 | 昭和19 | |
葉隠武士道 | 松波治郎 | 一路書苑 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039579 | 昭和17 | 2023年ダイレクト出版復刻 Kindle版あり |
葉隠武士道精義 | 中村常一郎 | 拓南社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039582 | 昭和17 | |
武士団と神道 | 奥田真啓 | 白揚社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1687154 | 昭和14 | 日本歴史文庫 |
武士道 | 安部正人 編 | 大東出版社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1909172 | 昭和15 | |
武士道概説 全 | 田中義能 | 日本学術研究会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1178144 | 昭和7 | Kindle版あり |
武士道教本 | 丸岡英夫 編 | 言海書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1235916 | 昭和10 | |
武士道散華 | 萩原新生 | 牧書房 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1031128 | 昭和17 | |
武士道死生観 | 神永文三 | 宮越太陽堂 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039574 | 昭和18 | |
武士道初心集 完本 | 佐藤堅司 | 三教書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039551 | 昭和18 | |
武士道精神 | 日本文化研究会編 | 東洋書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1236815 | 昭和10 | 日本精神研究. 第4輯 |
武士道精神 | 伊藤千真三 編 | 進教社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1222727 | 昭和12 | |
武士道全書 第三巻 | 井野辺茂雄編 | 時代社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1913230 | 昭和19 | |
武士道全書 第四巻 | 佐伯有義 編 | 時代社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1913238 | 昭和19 | |
武士道全書 別巻 | 佐伯有義 編 | 時代社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039573 | 昭和19 | |
武士道読本 | 武士道学会 編 | 第一出版協会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1257554 | 昭和14 | |
武士道と師道 | 羽田隆雄 | 培風館 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1074555 | 昭和15 | |
武士道と日本民族 | 花見朔己 | 南光書院 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039557 | 昭和18 | |
武士道と武士訓 | 小滝 淳 | 日本公論社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039577 | 昭和18 | |
武士道の権化 加藤清正 | 合志芳太郎 | 合志芳太郎 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和10 | ||
武士道の真髄 | エルヴィン・ベルツ | 天理時報社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039544 | 昭和17 | |
武士道の神髄 | 武士道学会 編 | 帝国書籍協会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039546 | 昭和16 | |
武士道の精神 | 橋本 実 | 明世堂書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039560 | 昭和18 | |
武士道の大義 | 軍事史学会編 | 地人書館 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039555 | 昭和18 | |
武士道の本質 | 井上哲次郎 | 八光社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039572 | 昭和17 | |
武士道宝典 | 佐伯有義 | 実業之日本社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1257560 | 昭和14 | |
武士道要意 | 剣聖会 編 | 剣聖会 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1259523 | 昭和8 | |
武士道論攷 | 古賀斌 | 小学館 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039576 | 昭和18 | |
邦文武士道: 附・武士道と北条時宗 | 新渡戸稲造 石井菊次郎、近藤晴郷編 |
慶文堂書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1235697 | 昭和10 | 武士道は岩波文庫等にあり |
山鹿素行の武士道 | 平尾孤城 | 立川書店 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039565 | 昭和17 |
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嘉永七年(1854年)にペリーが二度目の来日をした際に、横浜で汽車の模型を動かしたところ幕府の役人たちが、まるで子供のように喜んだことがペリーの『日本遠征記』に残されている。
ペリー
小さい機関車と、客車と炭水車とをつけた汽車も、技師のゲイとダンビイとに指揮されて、同様に彼等の興味をそそったのである。その装置は全部完備したものであり、その客車はきわめて巧みに制作された凝ったものではあったが、非常に小さいので、六歳の子どもをやっと運び得るだけであった。けれども日本人は、それに乗らないと承知できなかった。そして車の内に入ることが出来ないので、屋根の上に乗った。円を描いた軌道の上を一時間*二十哩の速力で、真面目な顔つきをした一人の役人がその寛かな衣服を風にひらひらさせながら、ぐるぐる回っているのを見るのは、少なからず滑稽な光景であった。
*1哩=1.6km
『ペルリ提督 日本遠征記 (三)』岩波文庫p.201
蒸気機関車の営業運転が始まったのはイギリスでは1825年、アメリカでは1830年のことで、両国とも鉄道網の拡充のための工事が各地で行われている最中であった。
その後江戸幕府は、万延元年(1860年)に遣米使節新見豊前守一行を皮切りに、次は文久二年(1862年)の遣欧使節竹内下野守一行、第三回は文久三年の遣仏使節池田筑後守一行、その次が慶応二年(1866年)の遣露使節小出大和守一行、翌三年の遣仏使節徳川民部大輔一行の五回にわたり外交使節団を派遣している。
最初に派遣された遣米使節新見豊前守一行が汽車に乗った記録が尾佐竹猛 著『幕末遣外使節物語』に紹介されている。
やがて蒸気も盛んになれば、今やはしり出んと兼ねて目もくるめくように聞きしかば、いかがあらんと舟とはかわりて案事ける内、凄まじき車の音して走り出たり。直に人家をはなれて次第と早くなれば、車の轟音雷の鳴はためく如く、左右を見れば三、四尺の間は、草木もしまのように見えて、見とまらず、七、八間先を見れば、さのみ目のまわる程のこともなく、馬の走りを乗るが如し。更に咄しも聞こえず、殺風景のもの也。(村垣日記)
器械その理蒸気船に同じ、旗二本建つ、右を我朝、左を米利堅とす。その疾き事矢の如く、先車黒烟を発し走り出す。その音山谷に響き渡り、後ろに従う六車凄轢する音雷の如く、車道屈曲すれば衆車これに従う事蛇の行くが如し。樹木近傍にあるもの何なるを分かつ能わず。窓下にある処の草木砂石は皆縞の木綿を引くに似たり。(航米日記)
尾佐竹猛『幕末遣外使節物語』岩波文庫p.46~47
読んでいると生まれて初めて汽車に乗った興奮が伝わって来る。
明治維新を推進したメンバーも蒸気機関車に強い興味を懐いていたのは同様で、彼らは明治政府が成立して間もない時期に、わが国にも鉄道を走らせることを決めたという。
大正4年に出版された小林鶯里の『明治文明史』にはこのように解説されている。
鉄道は、その最初、伊藤、大隈、伊達(宗城)等によって計画せられたのは、東京および大阪より京都間、奥羽および三越、山陽、山陰、西海などを通じて、全国に鉄道を貫通せんとするのであった。而して先ず東京横浜間。大阪兵庫間。琵琶湖敦賀間の線路を予定し、第一に東京、横浜間を起工することに決まったのである。
目的は立った、鉄道を布設することはよいと決まった、が、これを行うには莫大の金がなければならぬ。けれど当時政府は戦乱の費用にすら窮して居た際であって、資金の余裕など少しもなかった。然るに東京横浜間のみにて、五十万円を要する予算であったから、政府の手で之を遂げることはできないので、東京横浜間の商人をして、これを敷設させようと勉めた。
が、維新日なお浅くして、商人等は、万一損失を招くようなことはあるまいかと懸念して、伊藤、大隈等の誘説に従うものはなかった。鉄道は敷きたし金はなしで、いよいよ新政府もその決行に躊躇した…。
小林鶯里『明治文明史』富田文陽堂 大正4年刊 p.438~439
明治政府は建設費の資金調達も考えずに、鉄道を走らせることをまず決めたようなのだが、実は江戸幕府が明治政府より先に、米国と江戸・横浜間鉄道敷設を進めるための約定を結んでいたという事実がある。
『新聞集成明治編年史. 第一卷』p.320~321に明治三年一月六日、九日、十二日の関連記事が掲載されているが、明治政府は旧幕府が米国と約定した日付は慶応三年(1867年)十二月二十三日となっており、旧幕府には権限がなかったとして米国に敷設権がないことを通告したところ、アメリカ公使から度重なる抗議を受けたことが新聞に報じられている。大政奉還があり、王政復古の大号令が出た後の旧幕府との約定を新政府が認めたくなかったことは理解できる。
旧幕府が約定した内容は、わが国は土地のみ提供し、鉄道の建設や経営はすべて米国に委ねるものであったのだが、明治政府は鉄道の経営母体は自国であるべきとの考えであった。しかしそのためには莫大な資金が必要となる。
明治政府が鉄道工事の資金調達で困っていると、明治二年(1869年)に、イギリス公使のパークスがネルソン・リーという人物を紹介してきた。この人物との交渉にあたったのは伊藤博文と大隈重信であった。前掲の『明治文明史』にはこう記されている。
…リーは二つ返事で、その金は自分が供給しようと言った。渡りに船で伊藤らは大いに悦び、公債の性質がどんなものであるか、又リーの性質、身分、資産の有無がどうであるなどの事は、それを調べるの暇なく、ただちにその勧誘に応じ、一割二分の年利で借入の事を契約した。
かくて、リーは本国に帰り、新聞紙上に広告して、九分利にて五十万ポンドの公債を募集した。リーは日本帝国の代人であって、海関税を抵当とするというのであった。ところが、伊藤らがネルソン・リーと交渉したのは、明治二年の末であったが、翌三年の英国新聞紙上に、右の如く広告が載せられたので、之を観た政府は、初めてリーの無資産者であったことを知り、且つ当時にありては、自分の負債を人に知られることは、ともに好まぬ所であるのに、新聞に借金広告をされるなどは、甚だ悦ばぬところであった。殊に保守派のもの等は、鉄道などに莫大の金を下すなどは大の不賛成であった。然るに借金までして、これを敷設することは無論悦ぶわけはない。既にこれだけの事でも新進派の行うところを快しとしておらぬところへ、海関税を抵当とし、わが国の借金を広く天下に触れ回る行為を敢えてした、彼らは国を売るものであるなどと言うて、非常に伊藤、大隈等を非難した。
『明治文明史』 p.440~441
伊藤も大隈も、公債がどのようなものかもわからないまま契約してしまったのだが、さすがに素性の知れない資産のない人物から巨額の借入をする内容で、さらに三パーセントもの鞘抜きをしていることが判明して大問題となった。明治政府は賠償金を払ってリーとの関係を断ち切り、公債は改めて東洋銀行に取り扱わせることにし、九分利付公債を発行して資金を調達することとなった。これがわが国の最初の公債となった。
しかしながら、問題は資金面だけではなかった。鉄道建設に反対する者が少なくなかったのである。
この点について、菊池寛が次のように解説している。
鉄道建設のことは、こんな問題がなくても、初めから猛烈な反対があったのである。
『政府は、そんな不急の大工事なんか起こして何をするのだ』といった声は四方から興った。政府部内でさえ、保守派の人たちは
『大隈は神州の土地を質に外国から金を借り、国を売らんとするものだ。』
といきり立ち、また地主や旧街道の旅籠屋、車曳きなどは死活問題であるといって、試験的に架けた京浜間の電線を切るやら、電柱を倒すやら、おまけに梁山泊にいる食客まで、大隈を刺そうとするなど、物騒極まる騒動になった。梁山泊とは、人も知る大隈の築地の邸だ。そこに厄介になっている食客までもが騒ぎ出したのであるから、その反対がどんなに猛烈だったか分ると思う。鉄道建設の廟議が決したのは二年十月であるが、翌々十二月には早くも弾正台から反対の建白書が出ている。弾正台とは幕府で言えば大目付で、監督官庁である。
(中略)
当時、鹿児島に帰臥していた西郷隆盛も、この鉄道には反対だったのである。彼は折から鹿児島を訪れた岩倉具視に対して、
『開国の道は早く立ちたきことなれども、外国の盛大を徒に羨み、国力を省みず、漫りにことを急に起さば、終に本体を疲らし立行くべからざるに至らんか。此際、蒸気仕掛鉄道興作の儀、一切廃止し、根本を固くし、兵勢を充実するの道を勤むべし』
と切言しているのである。
外債のことでヘマをやってから、大隈の周囲は真に四面楚歌であった。
菊池寛『明治文明綺談』六興商会出版部 昭和18年刊 p.15~17
大隈にとっては同志とも言える井上馨や渋沢栄一まで慎重論が出たのだが、大隈はそう簡単に引き下がらず、三條、木戸、岩倉、大久保などに猛烈に運動して、鉄道計画を実現しようと動いたという。
明治二十八年に出版された大隈重信の回想録である『大隈伯昔日譚』に、大隈が政府内の慎重派と如何なる姿勢で臨んだかについて次のように述べている。
「…斯る衆難群議を排し、かかる反動の気焔を挫かんには、かかる大事業を企成して天下の耳目を新たにするに如くはなし。況んや、今は速かに道路の険悪不便を修理して運輸交通の便を開かざれば、民人の疲弊は将に測られざる者あらんとするに於てをや。且夫れ諸子は此大事業は挫折し、併せて已に着手実行中の事業と改革をせしむるに至らんを恐るれども、余等は却て此事業にして完成を見る能わず、天下多数の反抗を受けて挫折するほどならば、是迄苦心して漸く其緒に就きしたの事業も改革も、到底其成功を見る能わず。必ず中途にして失敗するに至らんと思うなり。毀誉褒貶は世評に任ずべし。成敗利鈍は天運のままのみ、敢えて顧みる所にあらず。此の大事業の成るか、敗るるか、是を以て余等が已に着手し実行しつつあるすべての『進歩的事業』『進歩的改革』の成敗を卜せんのみ」と。
円城寺清 著『大隈伯昔日譚』立憲改進党々報局 明治28年刊 p.506~507
大隈の回想録によると、一緒に矢面に立っていた伊藤も途中で米国に行く事となり、最後は大隈一人で内外の反対勢力と戦ったことが記されている。調べると伊藤は明治四年十一月より、岩倉使節団のメンバーとして欧州を出発し日本を不在にしたため、日本初の鉄道開業は留守を任された大隈のもとで行われることとなった。
しかし、菊池寛が書いている通り、工事が始まると沿線各地でかなり抵抗運動があったようだ。上の画像は五年三月のヘラルド新聞の記事を抄訳したものだが、平坦な地形に線路を敷設する工事にしては余りにスピードが遅い。他国の事例からすれば二ヶ月程度で工事が完了してもおかしくないのに、なぜこんなに工事が遅いのか。その理由を知らされていないと結んで五るが、おそらく工事の妨害があったと思われる。
上の画像は同年の五月の新聞雑誌41の記事だが、電信線の妨害行為を禁じる命令が出ていることを報じている。電線をかけた柱を壊したり、電線を破壊する行為が頻発しないと、このような命令が出ないであろう。鉄道にも同様な抵抗が頻発した可能性が高そうだ。
このような妨害行為と戦いながらとにかく工事は完了し、明治五年五月七日に品川、横浜間を営業運転が開始され、続いて明治五年九月十二日には新橋、横浜間の全線が開通して式典が催されている。
Wikipediaに開業翌年の営業成績がでているが、年間の旅客収入四十二万円、貨物収入二万円、そこから直接経費二十三万円を差し引いて二十一万円の利益であったという。この結果、鉄道は儲かるとの認識が広がり、各地で私設鉄道敷設が計画されることとなる。
大隈のような気骨ある政治家がいなければ、明治五年に鉄道が開業できることは難しかったと思われる。そしてもし、鉄道の開業が早期に実現していなければ、明治政府が推進した『文明開化』施策に関する国民の評価が、劣悪な水準に留まっていた可能性が高い。なぜなら、ほかに政府が推進したのは、伝統芸能・文化・風習などを否定して何でも洋風化したり古い物を破壊したり、政治家が洋装して鹿鳴館で踊るような話ばかりで、『進歩的事業』『進歩的改革』と誰もが納得し喜ぶような事業は少なかったと思われるからである。
菊池寛は前掲書で「日本鉄道の生みの親として孤軍奮闘した大隈のために、鉄道省は何とか感謝の方法を講じているのだろうか」と疑問を投げかけているが、わが国では大隈の銅像は早稲田大学、国会議事堂にあるだけのようだ。
何時の時代であれ、新しいことに取組むことは守旧派勢力と戦わないことには成し遂げることは不可能だ。古い車両や建物を残すことも大切だが、新しいことを実現するために努力した人物の功績を顕彰することも重要だと思う。
東京駅丸の内駅前広場には鉄道敷設に多大の功績を残したという井上勝の像が設置されているのだが、調べると井上はイギリス人技師エドモンド・モレルらの下で実技を習得しつつ路線を敷く実務に携わった人物で、明治四年九月にモレルが死去した後を継いで工事を完了させたという。技術を習得しただけでなく若い技術者を育て、京都大津間の工事を日本人独力でやり遂げるなど鉄道業への貢献は大きいことは理解できるが、大隈の貢献も無視できないものがある。大隈の像が東京駅か新橋駅辺りにあってもいいのではないだろうか。
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梅が咲いているのを期待して寿長生の郷(滋賀県大津市大石龍門4-2-1)を三月七日に訪れたのだが、今年は寒い日が続いたので紅梅が少し咲いているだけで、残念ながら白梅はまだ蕾の状態であった。見頃を迎えるのはおそらく三月中旬以降だと思われる。
寿長生の郷は、四十年前に和菓子で有名な叶匠寿庵が千年の歴史を持つ里山を受け継ぎ、六万三千坪の広大な敷地に菓子の材料として約七百本の梅が植えられており、さらに見事な庭園や茶室があり、近江の食材を用いた食事も楽しめる人気スポットである。
菓子売り場の隣にホールがあり、三月中は叶匠寿庵の創業者が収集したひな人形が展示されている。上の画像は江戸時代の享保の頃のひな人形だが、約三百年も経った古いひな人形が大事にされてきたことに感心してしまった。会場には様々な時代のひな人形が小物や道具類を含めて約百二十点ばかり展示されていて結構楽しむことが出来る。
上の画像は寿長生の郷の総合案内所だが、この古民家は叶匠寿庵のHPによると、忠臣蔵で名高い赤穂藩筆頭家老・大石良雄(内蔵助)と縁のある家であったという。大石良雄は赤穂で生まれたが、大石家の発祥の地は近江国栗田郡大石庄(現:大津市大石)で、寿長生の郷の周辺には広範囲にわたり「大石〇〇」という名の地名が存在し、大石氏に由来する寺や神社が存在する。
大石庄は藤原時代は藤原氏の荘園であったところで、藤原秀郷の一族が下司職となって住んでいたのだが、のちにその一族は荘園の地名を取って大石姓を名乗るようになったという。応仁の乱で一族が討死して一家断絶したが、遠縁の小山氏より小山久朝が大石家を再興させたという。その後、大石良信が八幡城主・豊臣秀次に仕えたが、秀次が切腹したために浪人となる。しかしながら、良信の次男の良勝が浅野長政に仕えるようになり、大坂夏の陣でその武功を評価され、良勝は千五百石の浅野家筆頭家老となり、子孫も代々筆頭家老の地位を約束されたという。
その後浅野家が笠間藩から播磨国赤穂に転封されたので大石家も赤穂に移り、良勝の曾孫が赤穂浪士の大石良雄ということなる。
大石には有名な観光スポットがあるわけではないのだが、古いものが大切に残されている地域なので歴史好きには楽しめそうなところがいくつかあり、せっかく近くに来たので主な所を巡ることにした。カーナビなどでは登録されていない場所もあるので、上の地図を参考にしていただくとありがたい。
寿長生の郷から二キロ程度北に佐久奈度神社(大津市大石中1丁目2−1)がある。祭神は祓戸大神と総称される瀬織津姫命、速秋津姫命、気吹戸主命、速佐須良姫命である。
この神社は天智天皇八年(669年)に天皇の命により創建されたと伝わり、皇室や武家の崇敬が篤く、天皇の厄災を祓い、都を守護する「七瀬の祓処」の一つとされ、古来、伊勢参りの前にはここでお祓いを受けるならわしがあったという。
また当社には忠臣蔵の大石良雄(内蔵助)の曽祖父にあたる良勝が奉納した「騎馬武者図絵馬」(大津市指定文化財)が残されているのだが、公開はされていないようだった。
かって社殿は現在地よりも百メートルほど東の一段低い所にあったのだが、昭和三十九年(1964年)に天ケ瀬ダムが完成し、瀬田川の水位が上がるために現在地に移転されたという。境内からの瀬田川の眺めはなかなか素晴らしい。春には桜が咲き、新緑の季節や秋の紅葉も楽しめそうな場所である。上の画像の橋は大石の玄関口である鹿跳橋で、そこから上流は狭い川幅で水流が激しく奇岩が多いことで知られ、鹿跳渓谷と名付けられている。
瀬田川は天ケ瀬ダムから下流は宇治川と呼ばれ、京都府八幡市にある背割堤で木津川と合流しさらに桂川と合流して淀川となる。
次に向かったのが春日神社(大津市大石富川1丁目9−2)。
決して大きな神社ではないが、大和国の藤原重友が久寿元年(1154年)に奈良の春日社(現:春日大社)の分霊を勧請したと伝えられている神社である。
現在の本殿は棟木に文保三年(1319年)二月十八日に建立したことが明記されていて、国の重要文化財に指定されている。檜皮葺の立派な建物である。
春日神社の左隣に収蔵庫のような建物があったので帰宅してから調べたのだが、春日神社の神宮寺である常信寺という古刹があったのだが今は堂宇はなく、耐火式の収蔵庫のみとなっているようだ。収蔵庫の中には常信寺の本堂に安置されていた平安時代後期に制作された釈迦三尊像仏像(国指定重要文化財)と鎌倉時代制作の地蔵菩薩立像が安置されているとのことである。昭和三十八年(1963年)に滋賀県大津市が編纂した『新大津市史 別巻』に常信寺について詳しい記事が出ているが、「現在無住で一宇の堂しか残っていない」と記されており、堂宇が取り壊されたのは意外と最近のことかも知れない。また『新大津市史 第九巻』には釈迦三尊像仏像の写真と解説が出ている。
時間が厳しかったのと小雨が降っていたので旅程からカットしてしまったが、当初は佐久奈度神社から春日神社に向かう途中にある、富川摩崖仏(大津市指定文化財)を見学する予定であった。摩崖仏は春日神社より一キロほど西にあり、国道四二二号線沿いに「富川摩崖仏」と書かれた道路標識と「岩屋耳不動尊」と彫られた石碑が目印である。そこから細い道に入り、信楽川に架かる橋を渡るのだが、もし旅程に組む場合は春日神社に行く前に立ち寄るのが良い。逆の場合は細い道に入るのに苦労するのではないかと思う。信楽川に架かる橋を渡ると、勢多川漁協の建物と駐車場がある。
かつてこの近辺に霊亀元年(715年)開かれた明王子という寺が存在し、五分ほど石段を登っていくと巨大な岩に彫られた摩崖仏を観ることが出来るという。高さ二十メートルという大きな岸壁に、真中に阿弥陀如来、両側に観音菩薩、勢至菩薩が刻まれ、右下には不動明王が彫られているそうだ。鎌倉時代中期に制作されたと考えられているとのことで、近畿では笠置寺の虚空摩崖仏、大野寺摩崖仏に次ぐ大きさだという。今度この近辺を訪れる時は必ず立ち寄りたい所である。
春日神社から国道四二二号線を信楽川沿いに走り、途中で左折し県道二九号線に入り、途中で右折して関津峠を目指す途中に大石義民の碑(大津市大石東1丁目)がある。カーナビでは登録されていないし住所も定まっていないが、道さえ間違えなければ必ず到着できる。
義民碑は驚くほど綺麗に整備されていて、美しい生花も供えられている。地元の人々は四百年も前の「義民」の行動に今も感謝の気持ちを捧げているのである。碑文は漢文で書かれていて、その左側に案内板が立っていね。この文章を読むと碑文の内容と当時の歴史背景が良く理解できる。
江戸の初期において大石には富川・東・中・淀・竜門の五つの村があったのだが、この村々はいずれも山河に囲まれていて耕作に適した土地が少なく、人々は薪や木炭や柴などを商いすることで何とか生計を立てていた。しかしながら川幅が狭く急流である鹿跳渓谷を通って船で荷物を関津浜に運ぶことは不可能であったため、この碑のある山道を人馬で登り、当時膳所藩が管理していた佐馬野峠(通称:関津峠)を越え、瀬田川沿いの水田地帯である関津浜に運び、そこから水運を利用していたという。
ところが膳所藩の役人たちはこの峠を人馬で越える時も関津浜を利用する時も大変重たい税を課したため、大石の人々の生活は困窮を極めていたのである。
こうした状況を憂い、当時富川村庄屋の彦治と源吾の兄弟はしばしば役人に陳情をしたのだが聞き入れられず、慶長十八年(1613年)十一月に村民の窮状を救うべく幕府巡検使に税の減免を直接訴えたのである。当時は幕府への直訴は固く禁じられており、翌年二月二十四日に兄弟は佐馬野峠に於いて磔の刑に処せられたという。
しかし兄弟の身を挺した必死の訴えが幕府に伝わり、その後膳所藩は大石の人々に重税を免除するようになり、関津浜の運輸の便も図るようになった。そうして郷土がよみがえり、産業も復興したが、人々は彦治・源吾兄弟への恩を忘れることはなかったという。
この義民碑が建てられたのは大正八年(1919年)二月のことだが、兄弟が処刑されて三百年近く経過したのは、藩や県に対する批判と受け取られることを憚ったのであろう。そしてこの碑が建てられてからすでに百年以上の月日が経っている。
案内板の日付は平成二十五年(2013年)二月二十四日になっているが、最後にこう記されている。
私たちは、お二人の尊い行動と犠牲の上に、大石学区民の今日の生活があることを忘れてはならず、感謝と追悼の念を新たにするため、毎年の命日(二月二十四日)に「大石義民祭」を学区民あげて催行することにしている。
また「大石義民のうた」も作られていたらしく、楽譜と歌詞が記されていた。かつてこの歌は大石小学校で唱歌としてうたわれていたそうだ。
一、村すくいし その功
我大石の かがみぞと
とわにつたえし いしぶみや
よみてなかざる 人はなし二、佐馬野に立ちて そのかみを
しのぶ我等 世のために
つくさんことを ちかうべし
神のみ心 胸にして
地域の為に尽くした人や、地域の人々を救うために犠牲になった人を敬慕する碑は各地に存在するのだが、事件から四百年以上経った今も、地域の人々に碑が大切にされてることが伝わってきて、少し目頭が熱くなってしまった。
大石義民の碑から浄土寺(大津市大石東1丁目10−6)に向かう。距離にして1.3キロで3分程度で到着する。
この寺は大石家の菩提寺で、大石家祖先の墓が並んでいる。
一番右が大石良信の奥様の墓で、その左の五輪塔が大石良雄の五代の祖にあたる大石良信の墓。その左の供養塔は鎌倉末期の宝篋印塔でその左は大石良勝の奥様の墓と書かれていた。なお墓地の右手の山には大石家の屋敷跡があるそうだが、ロープが張られていて見学できなかった。
浄土寺から鹿跳橋を渡り瀬田川沿いを四百メートルほど北進すると道路沿いに立木観音駐車場(大津市石山南郷町奥山1231)がある。
上の画像は駐車場から見た瀬田川の風景だが、さらに北に進むと奇岩がいたるところにあり、川幅もかなり狭くなり水流も早いのだそうだ。この渓谷を鹿跳渓谷と呼ぶのは、急流で瀬田川を渡るのをためらっていた弘法大師を、白鹿が背に乗せて岩を跳び渡ったという立木観音の由緒によるもののようだ。
立木観音は立木山の山腹にあり、駐車場から八百段以上の階段を登らないとたどり着けない。日頃の運動不足がたたって、段差のある石段を登り切るのは相当きつく随分汗をかいたが、登りきると達成感はひとしおで爽快な気持ちになった。
階段を避けたい場合は、駐車場から瀬田川沿いを2.5kmほど北進すると「厄除立木観世音参道」と刻まれた標石があるので、左折してその道を上って行くことも可能だが駐車場はなく、途中から車が通れる道ではなくなるので、車で来た人は覚悟して八百段のきつい階段を登って行くしかないだろう。
立木観音の正式名は安養寺で浄土宗の寺であるが、弘仁六年(815年)に弘法大師が開基したと伝えられ、創建当初は真言密教系の寺院であったと思われる。
この寺は、弘法大師が四十二歳の厄年に開いたことから厄除けの寺として有名で、高野山の金剛峯寺の開創はその前年であることから、立木観音は「元高野」とも称されているという。
境内には鹿に乗った弘法大師像がある。寺の由緒では、立木山に光を放つ霊木が目に留まり、そこに向かおうとすると瀬田川の急流に阻まれてしまう。すると弘法大師の前に白鹿が現れて、大師を背に乗せて川を跳び渡り、霊木の前に導いた。太子は大厄に当たる歳に観音様にお導き頂いたと歓喜し、立木のままの霊木に聖観世音菩薩の尊像を刻んだという。
本堂を参拝し、鐘楼で鐘をついて厄を落とし、奥の院で参拝して帰途に就いたが、帰りの八百段の階段は上りより楽とはいえ、膝がガクガクになった。若いころなら平気で登れたと思うのだが、今回はさすがに疲れてしまって予定を切り上げて帰宅することにした。運動不足だと筋肉が衰えてしまうので、これからも山にある寺や神社を散策することとしたい。
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森有禮は弘化四年(1847年)に薩摩藩士森喜右衛門の五男として生まれ、元治元年(1864年)より藩の洋学校である開成所に入学して英学講義を受講し、翌年には薩摩藩の第一次英国留学生として五代友厚らとともにイギリスに密航し、ロンドンで学んでいる。その後ロシアやアメリカを訪れて見聞を広め、明治元年六月に帰国後外国官権判事に任じられ、明治三年秋に少弁務使としてアメリカに赴任。明治六年夏に帰国すると、福沢諭吉、西周、中村正直、加藤弘之らとともに明六社を結成し、『明六雑誌』を創刊して民衆の啓蒙活動に取り組んだ。
森有禮は、明六社のメンバーの中でも特に西欧文明に傾倒した人物として知られているが、彼が明治六年に帰国する二ヶ月ほど前に英文で著した『日本の教育(Education in Japan)』に、外国語を日本の国語にせよという趣旨のことを書いている。『森有礼全集 三巻』に、明治六年(1873年)刊行の英文著作の原文が掲載されている。彼の主張の結論部分は同上書のp.266の後半にあり、自分なりに翻訳すると、
…我々の列島の外では決して用いられることのない貧弱な日本語は、いずれ英語の支配に服すべき運命にある。とりわけ、蒸気や電気の力がこの国に拡がりつつある時代にはそうである。知識の追求に余念のない我々知的民族は、西洋の学問、芸術、宗教という貴重な宝庫から主要な真理を獲得しようと努力するにあたって、脆弱で不確実なコミュニケーション手段に頼ることはできない。国家の法律体系を日本語で整備していくことも困難である。あらゆる理由により、日本語は使えないことを示唆している。
『森有礼全集 三巻』宣文堂書店 昭和47年刊 p.266を邦訳
外国語を日本の国語にせよという議論は森が最初に主張したと言われている。森はこの時期に様々な主張をしていたのだが当時の日本人大衆の感覚とは乖離したところが多く、彼がよく寄稿していた『明六雑誌』にひっかけて、彼のことを「明六の幽霊(有礼)」と皮肉られることがあったという。森がその雑誌に数回に分けて寄稿した『妻妾論』の一部を紹介したい。
道の未だ明かならざるや、強は弱を圧し、智は愚を欺き、その甚だしきはこれを以て業とし、これを持って快とし、かつ楽しむ者あるに至る。是れ乃ち蛮族の常にして、殊にその見るに忍びざる者は、夫たる者の其妻を虐待するの状なり。
我邦俗夫婦の交義苟もその間に行はるあるに非ずして、その実その夫たる者は殆ど奴隷もちの主人にて、その妻たる者は恰も売身の奴隷に異ならず、夫の令する所は敢てその理非を問うことを得ず、惟命是れ従うを以て妻の職分とす。故に旦暮奔走従事身心両ながら夫の使役に供し、殆ど生霊なき者の如くす。然るにもし夫の意に充たざるが如き、則ち叱咤殴撃漫罵蹴踏、その所為実に言ふに忍びざる者間多し。女子は素と忍耐を性とするに由り、悖逆(正しい道に背くこと)斯の如きも未だ以て深く怨を懐くに至らず。
大久保利謙 編『森有礼全集 1卷』宣文堂書店 昭和47年刊 p.244
森は『妻妾論』にてわが国の家父長制的家族制度を批判し、西洋のように夫婦は平等であるべきことを説いたのだが、ここで書いているように、明治初期のわが国の一般的な家庭に於いて夫が妻を奴隷のように扱っていたとは考えにくいところである。
森は明治八年(1875年)に、福沢諭吉を証人として広瀬阿常との結婚に際して、婚姻契約書に署名して結婚している。その契約は三条からなり、それぞれが妻、夫であること、破棄しない限り互いに敬い愛すこと、共有物については双方の同意なしに賃借売買しないこと、という程度の内容であるが、これがわが国最初の契約結婚と言われている。
当時の新聞は、二十七歳であった森の結婚式を大きな紙面で報じており、例えば二月七日付の東京日日新聞では次のように記事を締め括っている。
…冷肉並びに菓子果物などを盛んに机上に並べ、各種の西洋酒の口を抜き、立ち食い立ち飲みの大雑踏にて、立錐の地なき程に至る。日本人には少し不承知だろうが、そこには主人が主人なれば御客も御客で、皆西洋開化の御連中ゆえ、大得意で歓を尽されたり。嗚呼盛なり男女同権の論かな、美なり開化の御婚礼かなと、千秋万歳の千箱の玉を奉る代りに、此記事を書いて御披露奉る。
『新聞集成明治編年史 第2巻』p.283~284
このように当時全国で話題になった西洋式の結婚披露宴を挙行した二人であったのだが、その夫婦の良き関係は長くは続かず、明治十九年(1886)に二人は離婚したという。離婚当時の森有禮は第一次伊藤内閣の文部大臣であった。
その森文部大臣が、明治二十二年(1889年)二月十一日、大日本帝国憲法発布の式典に参加するために官邸を出た時に、国粋主義者・西野文太郎に短刀で脇腹を刺されて翌日死去する事件が起きている。上の画像は『新聞集成明治編年史. 第七卷』に掲載されている、この事件に関する東京日日新聞の記事である。
この日の新聞には暗殺の動機について報じられていないが、西野は斬奸趣意書を懐に入れていたという。その全文が、昭和八年に出版された坂井邦夫の『明治暗殺史』に出ている。
…文部大臣森有禮之(伊勢神宮)に参詣し、勅禁を犯して靴を脱せず殿に昇り、杖を以て神簾を揚げその中を窺い膜拝せずして出づ。是れその無礼亡状豈に啻に神明を褻涜せしのみならんや。実に又皇室を蔑如せしものと謂つべし。…
坂井邦夫 著『明治暗殺史 : 新聞を中心として』啓松堂 昭和8年刊 p.182
この西野の斬奸趣意書に書かれている内容について、目撃者の確認が取れたとの記事が二月二十四日付の東京日日新聞に出ている。
それによると森文部大臣は明治二十年十二月に三重県知事らとともに伊勢神宮の外宮を訪れ、禰宜より社殿の案内を受けたが、靴を履いたまま前に進んで、皇族以外は入内を禁じられている御門扉の御帳を右手のステッキで持ち上げたという。そのあと内宮も参拝する予定であったが大臣は行かなかったとある。この話を聞いて西野が激怒したという。
上の画像の記事の右の「西野文太郎 今や人気の中心」という見出しの記事が出ているが、暗殺犯に人気が集まったということは、それほど欧化主義者の文部大臣は、大衆から支持されていなかったと理解するしかないだろう。
森は大衆から嫌われていただけではなく、在日外国人からも良く思われていなかったようである。
この時期にお雇い外国人として招かれ東京帝国大学医科大学の前身である東京医学校で教鞭をとっていたエルヴィン・フォン・ベルツが、明治二十二年二月一六日付の日記の中に森文部大臣の暗殺事件について次のような感想を記している。
森文相は、一年前、伊勢の大神宮に参拝した時、クツのまま最も神聖な場所にはいろうとして、しかも、そこにかかっていたみすを、皇族でなければ揚げることが許されないにもかかわらず、ステッキ(!)で持ち上げたという理由で、暗殺されたのであった。もし森が真実そういう行為に出たのであれば――それは彼のやりそうなことだが――文相たるものが、国民の宗教的感情をかくも傷つけるという非常な無分別さを、少なくとも表明したことになる。他方、神道が犯人西野のような狂信者を生んだ事実に、だれもが驚いている。
岩波文庫『ベルツの日記(上)』p.136-137
このようにベルツは、森文部大臣の行為を批判しているのだが、ベルツは来日してまだ日も浅い明治九年(1876年)十月二十五日の日記に、わが国の欧化主義者たちが盲目的に西洋文化を導入していたことに批判的な文章を残している。
…ヨーロッパ文化のあらゆる成果をそのままこの国へ持って来て植えつけるのではなく、まず日本文化の所産に属するすべての貴重なものを検討し、これを、あまりにも早急に変化した現在と将来の要求に、ことさらゆっくりと、しかも慎重に適応させることが必要です。
ところが――なんと不思議な事には――現代の日本人たちはそれを恥じてさえいます。『いや、何もかもすっかり野蛮なものでした[言葉そのまま!]』とわたしに厳命したものがあるかと思うと、またあるものは、わたしが日本の歴史について質問したとき、きっぱりと『われわれには歴史はありません、われわれの歴史は今からやっと始まるのです』と断言しました。なかには、そんな質問に戸惑いの苦笑を浮かべていましたが、わたしが本心から興味を持っていることに気がついて、ようやく態度を改めるものもありました。
こんな現象はもちろん今日では、昨日の事がらいっさいに対する最も急激な反動からくるのであることはわかりますが、しかし、日々の交際でひどく人の気持ちを不快にする現象です。それに、その国土の人たちが固有の文化をかように軽視すれば、かえって外人のあいだで信望を博することにもなりません。これら新日本のひとびとにとっては常に、自己の古い文化の真に合理的なものよりも、どんなに不合理でも新しい制度をほめてもらう方が、はるかに大きい関心事なのです。
同上書 p.47-48
いつの時代もどこの国でも、極端な考え方で政策が推進されていくと、その反動も大きくなりがちである。明治時代の文明開化期は近代化が進んだ半面で伝統的社会秩序を動揺させて社会不安をもたらし、各地で士族の反乱が起き農民一揆が頻発した。明治二十年代に国粋主義が広がったのは、極端な欧化主義の反動であったと言われているのだが、欧化主義の行き過ぎについては、欧化主義者の森有礼を暗殺した西野文太郎が日本庶民から英雄視されていたことや、当時日本にいた外国人のベルツが問題視していたことから、その異常さを理解すべきである。
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内容の詳細や書評などは次の記事をご参照ください。
神道関連の書籍は大型書店に行ってもわずかしか並んでいないのだが、戦前戦中には結構多くの書籍が出ていて、その多くがGHQによって焚書処分されている。よく似た内容のものが少なくないが、ユニークな研究も存在するので、そのうちの2点を紹介させていただくこととしたい。
最初に紹介させていただくのは、民俗学者の近藤喜博 著『海外神社の史的研究』で、わが祖先たちが海外に移住した際に現地に建てた神社についての歴史が記されている。著者は支那事変のために召集されて中支の戦線に参加した人物だが、支那に建てられていた神社は支那兵や暴民たちによって少なからず破壊されたそうだ。一方、昭南島(現在のシンガポール)に建てられたシンガポール太神宮は原住民によって保護されたという。
なぜ日本人は海外の移住地に神社を造営したのであろうか。著者は次のように記している。
わが民族の海外に発展伸長するに伴いて、わが神々をその発展せる住居地に奉斎する現象は、近時、制度の漸く完備しかからんとするに相俟って著しい発展を示し、わが領土内に属する南洋旧委統治領・関東州は言うを俟たず、満州国・支那等に於いても年と共に増加の一途をたどりつつあるは人みなの知れる通りであるが、この現象は拓地植民の中枢に、わが神々を奉斎せんとする伝統の心になるものと言うにははばからぬ。しかして奉斎の事情は如何にあれ、その神威は正しく惟神のままに八紘一宇の大精神の如実なる顕現として、重大肝要の地位を占めたまうものと拝せられる。然して反面に於いてこの事実は神々と離れては、一日も真実の生活を営むことの出来ないわが民族の伝統的な古往今来の経過にも起因する。…中略…
例を古い頃に求めるに、江戸時代、近江の人々で商行為を営み、遠く松前あたりへ出向いた中、八幡郷出身の人々が松前屋仲間を結成し、郷土の氏神日牟礼八幡宮へ、馬場の石垣、常夜灯籠五基と永代油料、或いは神輿の寄進等を記録に見られる限りでは、貞享二年より爾後数次に亘ってなし、郷土を忘れないでいるのである。これは顕著な一例であるが、この共同の心が実は海外神社成立の場合にも重要なる作用をなしていることはまた否めないのである。
近藤喜博 著『海外神社の史的研究』明星堂 昭和18年刊 p.~10
当時の日本人にとっては、日常生活の中に神社が無くてはならない存在であったのだが、戦後はすっかり日本人の多くは変わってしまったようである。
海外における神社の造営は、昭和期ばかりではなく、古代にも数多く記録されているという。『古事記』や『日本書紀』に記録されている三韓征伐の話は戦前の日本人には常識であったのだが、戦後の日本人にはタブー扱いされているようだ。
海外の神社として年代的に古く最初に求められるは、何と言っても住吉神である。よってこの神より考察の歩をすすめたい。申すまでもなく古事記仲哀天皇三韓征伐の條に
「新羅の国をば、御馬甘と定めたまい、百済の国をば渡の屯家と定めたまいき。ここにその御杖を新羅の国主の門に衝きたて給いき。即ち墨の江の大神の荒御魂を、国守ります神と鎮め祭りて、還り渡りましき。」
とあるがその根本史料で、墨江大神とは他ならぬ住吉大神で、上筒男・中筒男・底筒男の三柱神に坐しまし、官幣大社住吉神社をわが国における優勢なる社壇とする。
同上書 p.21
この本には朝鮮半島や中国、満州、台湾、樺太などで神社が造営されたことが記されているが、朝鮮の京城府南山(現ソウル特別区)に建てられた朝鮮神宮については朝鮮人の参拝者が急増した統計が掲載されていて興味深い。
神社へ参拝する朝鮮人が増加したのは昭和六年(1931年)の満州事変以降のようで、朝鮮半島の他の地方にある神社でも同様であったという。文中の「内鮮」は「内地(日本国土)と朝鮮」と言う意味で、当時は国策として内鮮一体化がすすめられていた。
地方における神社神祠の祭典に当たり、内鮮官民の参列する者著しく増加の傾向にあるが如き、一般参列者また同様にして、しかも極めて真摯敬虔の態度を以て終始居れるが如き、また神輿の渡御に当たりては、各社とも内鮮人一体となりて奉仕し、神賑の如き朝鮮舞楽、郷土舞踊の奉納を見つつあるが如き、特に国幣小社京城神社の神輿渡御が、隔年ごとに内鮮人交互の奉仕の下に行われつつあるに係わらず、その間毫も支障なく、二日間にわたる神事をば、いとも厳粛かつ盛大に執り行いつつあるが如き、その例枚挙に遑あらざるところにして、神道朝鮮具現のため真に喜びに堪えざるところなり。
同上書 p.262~263
教科書などには日本統治に対する抵抗運動があったことが必ず書かれているのだが、朝鮮各地で神社のお祭りが支障なく行われていたことを考えれば、それほど強い抵抗があったとはとても思えない。
次に紹介させていただくのは神道学者の河野省三述『神道と日本精神』である。この本は昭和十四年(1939年)の五月に行われた河野の講義を文字起こししたものである。冒頭で河野は、わが国は外交関係が緊張した際に日本精神を喚起することで乗り越えてきたことを述べ、日清戦争の時には「日本魂」という言葉で、日露戦争の時に「武士道」という言葉で、第一次世界大戦時にはデモクラシーの国々と対立する中で、「国民精神」と言う言葉で国民の日本精神が自覚されて国難を乗り越えて来たことを述べたのち、その後過激な共産主義思想が流入し再び大きな国難が訪れようとしていることにふれ、大化の改新や明治維新の時のわが国の先人たちのように、建国の精神に立ち返り、高い理想を持って日本精神で国難を乗り切ることが重要だと主張している。
では「日本精神」とは何か。著者の解説を一部紹介させていただく。
日本精神の特色とは何か、その第一の特色は「魂を打ち込む」ということであります。…中略…日本人は魂を打ち込みますから家を造ると神棚を設ける。武道をやる道場ではまず神棚を設け注連縄を張る。…町や村を造ればそこの魂を籠めて鎮守の森が出来る。家族生活が営まれれば先祖の魂もそこに宿る。…さらに日本国家を造れば、ここに偉大なる日本の魂が籠められて、伊勢の大神宮となるのであります。…中略… 日本は魂を籠めた国であります。皆さんも魂を籠めている。だから大和魂を持っているのであります。…中略… 従って今のような時代には緊張する。緊張するということは、魂を籠めることで、真剣になることであります。…中略…
次に日本精神は「強い力を柔らかに表現する」という特色を持っております。強い力を柔らかに現わす。ここに日本人の礼儀作法というものが発達した。武士の情けというのは、この強い力を柔らかに表現したものであります。…中略…
日本精神の…第三の特色としては、あらゆるものを容れる、「包容力が豊かである」ということであります。多くのものを入れてすべてこれを生かす。何でも入れてしまう。ちょうど風呂敷のようなものである。西洋人は国は大きいし、体も大きいが、この包容力に乏しい、ちょうどハンカチのようなものである。ところが日本は支那の文化、西洋の文化を皆入れて居ります。世界で日本ほどあらゆる文化を入れて、それを生かした歴史はございません。…中略…
日本精神の第四の特色はよく工夫する、独り工夫を加えるのみならず発明する力も持っているという点であります。…日本人では必要に迫られますと、いろいろのものを発明するのであります。…かくて世界文化を採り入れて、皆生かしている。日本文化として偉大なる展開をしているのであります。…中略…
第五の特色は日本精神は常に「本質の力」を失わない。言葉を換えて申しますと、日本精神はよくその固有の力を伸ばしているという特色を持っている。…中略…
日本精神の根本は祖先以来の力、祖先の神々のなされた事業の上にあるのであります。言葉を換えて言えば、神々の道ということが明瞭なのであります。神道とは、結局、祖先の道を重んずる道であります。祖先のなされた事業を尊ぶ、この生活であります。日本民族の生活原理、それが神道であります。神の道であります。
河野省三述『神道と日本精神』天理教道友社 昭和14年刊 p.43~52
わが国には自然や文化財の多くが昔の儘に残されているのだが、先祖たちが大切にしてきたものに敬い、よりよいものを後世に残そうとする考え方が、神道を信仰することによって何世代にもわたり継続して来たことが大きいのであろう。
これまで、このブログで神道に関するGHQ焚書の一部を紹介した。
GHQ焚書リストかの中から、本のタイトルに神道や日本の神々と関連のある用語を含む本を抽出して、タイトルの五十音順に並べてみた。
分類欄で「〇」と表示されている書籍は、誰でもネットで読むことが可能。「△」と表示されている書籍は、「国立国会図書館デジタルコレクション」の送信サービス(無料)を申し込むことにより、ネットで読むことが可能となる。
タイトル | 著者・編者 | 出版社 | 分類 | 国立国会図書館デジタルコレクションURL 〇:ネット公開 △:送信サービス手続き要 ×:国立国会図書館限定公開 |
出版年 | 備考 |
天照大神の大道 | 倉光亀蔵 | 誠之道舎 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1056219 | 昭和11 | |
天照大神神格論 | 田中治吾平 | 雄山閣 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1174050 | 昭和5 | |
天照大神の神学的研究 | 補永茂助 | 明世堂書店 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040134 | 昭和17 | |
天照大神の大道 | 倉光亀蔵 | 誠之道舎 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1056219 | 昭和11 | |
天照大神論 | 酒井市郎 | 日本精神科学会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1096277 | 昭和11 | |
戦と神々 | 宮崎興起 | 会通社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1106462 | 昭和9 | |
海外神社の史的研究 | 近藤喜博 | 明世堂書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040141 | 昭和18 | |
神々と国家 | 西田長男 | 明世堂書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039501 | 昭和19 | |
神道と国民的自覚 | 小豆澤英男 | 越後屋書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040076 | 昭和18 | |
神々のいぶき | 満井佐吉 | 青山書院 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1107651 | 昭和18 | |
神ながらの修養 | 田中治吾平 | 雄山閣 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1209159 | 昭和9 | |
神ながらの日本精神 | 川崎左門 | 神霊研究会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1137353 | 昭和9 | |
神ながらの道 | 足立芳之助 | 滋賀県立彦根中学校 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1034905 | 昭和13 | |
神ながらの道 | 筧 克彦 | 皇学会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1914489 | 昭和16 | |
神ながらの道に培ふ興亜建設の教育 | 渋井二夫 | 新生閣 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1455403 | 昭和14 | |
惟神大道より般若心経を駁す | 服部宗明 | 神燎会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040392 | 昭和19 | |
惟神読本 | 久保田眞種 | 世界創造社 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和14 | 昭和9年 大日書房版はあり | |
惟神の礎 | 中沢巠天 編 | 紀元二千六百年奉祝 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040084 | 昭和17 | |
惟神の大道 | 天野弘一 | 目黒書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1109028 | 昭和15 | |
惟神の大道 | 奥沢福太郎 | 平凡社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039506 | 昭和16 | |
惟神の大道と日本精神 | 加藤尺道 | 精神教育研究会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1236535 | 昭和10 | |
惟神の道と大祓詞 :神道と国民精神 |
鈴木真道 岡田米夫 | 神道会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1099832 | 昭和13 | |
教育と神社祭祀 | 河上民祐 | 六盟館 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040135 | 昭和17 | |
近世に於ける神祇思想 | 藤井寅文 | 春秋社松柏館 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040098 | 昭和19 | |
近世に於ける神道的教化 | 河野省三 | 国民精神文化研究所 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1914001 | 昭和10 | 国民精神文化研究 ; 第43冊 |
現代人の神道 | 溝口駒造 | 大日本鶏鳴会 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和12 | ||
皇道と惟神道 | 宇佐美景堂 | 皇道奉讃会本部 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和15 | ||
国民惟神道読本 | 平田 粲 | 新興亜社出版社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1037149 | 昭和16 | |
祭祀と神力 | 有賀成可 | 東大古族学会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040184 | 昭和18 | |
敷島の道と神道 | 斎藤襄吉 | 神廼道雑誌社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1036650 | 昭和13 | |
将来の日本と神道の新使命 | 溝口駒造 | 理想社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1220598 | 昭和11 | |
神意国家神道解説問答 | 高山眞伍 | 皇学研究所 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和12 | ||
神祇教育と訓練 | 大倉邦彦 | 明世堂書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040085 | 昭和17 | 神祇叢書 ; 第1 |
神祇と祭祀 | 出雲路通次郎 | 櫻橘書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040139 | 昭和17 | 桜橘薦書第1期敬通遺編 ; 第1巻 |
神祇に関する制度作法事典 | 神祇学会 編 | 光文堂 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1123602 | 昭和17 | |
新釈日本神典及び神ながら之道 | 松木本貞二郎 | 皇道普及会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1174462 | 昭和5 | |
神社祭神物語、神々の誕生 | 神道研究会 編 | 育生社 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和15 | ||
神社読本 | 曽根朝起 | 平凡社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1211694 | 昭和8 | |
神社文化史 | 中村直勝 | 四條書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040143 | 昭和19 | |
神社問題の再検討 | 加藤玄智 | 雄山閣 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1211668 | 昭和8 | |
神道一日一話 | 矢部善三郎 | 会通社 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和18 | ||
神道概論 | 田中義能 | 明治書院 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和17 | ||
神道学序説 | 河野省三 | 井田書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1047453 | 昭和15 | |
神道講演集 | 山口県神職会 編 | 山口県神職会 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1093397 | 昭和13 | |
神道講演集 | 広田正信 編 | 清明社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1054027 | 昭和12 | |
神道綱要 | 山本信哉 | 明世堂 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040094 | 昭和17 | |
神道講話 | 小室 徳 | 明文社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1036950 | 昭和18 | |
神道古義 地之巻 | 友清観眞 | 山神道天行居 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1029496 | 昭和11 | |
神道史講話 | 清原貞雄 | 目黒書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1220833 | 昭和14 | |
神道思想史 | 山田孝雄 | 明世堂書店 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1914370 | 昭和18 | 神祇叢書 Kindle版あり(いざなみ文庫) |
神道思想の研究 | 梅田義彦 | 会通社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040122 | 昭和17 | |
神道思潮 | 宮地直一 | 理想社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040082 | 昭和18 | |
神道史の研究 | 河野省三 | 中央公論社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040099 | 昭和19 | |
神道心道開教の言葉 | 熊崎健一郎 | 神道心開教本部 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1091032 | 昭和11 | |
神道新論 | 渡辺誠治 | 会通社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1259008 | 昭和10 | |
神道精神 | 日本文化研究会編 | 東洋書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1236819 | 昭和9 | 日本精神研究. 第2輯 |
神道叢話. 第2刊 | 小倉鏗爾 | 錦正社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1097069 | 昭和16 | |
神道叢話. 第3刊 | 小倉鏗爾 | 錦正社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1094610 | 昭和16 | |
神道大義 | 豊田珍彦 | 瓦北文庫 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1056758 | 昭和12 | |
神道大辞典 : 第三卷 | 平凡社 編 | 平凡社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1913359 | 昭和16 | |
神道大成教の研究 | 田中義能 | 日本学術研究会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1220649 | 昭和11 | |
神道哲学 | 田中伊藤次 | 清水書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1255792 | 昭和15 | |
神道読本 | 河野省三 | 昭和書房 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1224546 | 昭和10 | |
神道と国学 | 岸本芳雄 | 白帝社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1683254 | 昭和16 | 神道文化叢書 ; 第4 |
神道と国民生活 | 河野省三 | 明世堂書店 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040080 | 昭和18 | |
神道と日本精神 | 河野省三 | 天理教道友社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1035155 | 昭和14 | 興亜文庫 ; 第13輯 |
神道と文学 | 臼田甚五郎 | 白帝社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1683255 | 昭和16 | 神道文化叢書 ; 第9 |
神道と民俗学 | 柳田国男 | 明世堂書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1453777 | 昭和18 | 明世叢書 2022ダイレクト出版で復刻 Kindle版あり(いざなみ文庫) |
神道の宗教的新研究 改訂増補版 | 加藤玄智 | 甲文堂書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040078 | 昭和9 | |
神道の真理 | 小山陽運 | 神道産巣日会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1210505 | 昭和7 | |
神道の話 | 小倉鏗爾 | 錦正社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1255718 | 昭和13 | |
神道の批判 | 岸一太 | 交蘭社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1174402 | 昭和4 | |
神道扶桑教の研究 | 田中義能 | 日本学術研究会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1211671 | 昭和9 | |
神道・仏道・皇道・臣道を 聖徳太子十七条憲法によりて語る |
暁烏敏 | 香草舎 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1111202 | 昭和12 | 北安田パンフレット ; 第47 |
神道要典国体編 | 山本信哉 編 | 博文館 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040102 | 昭和17 | |
神道論 | 石村吉甫 | 三笠書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1683256 | 昭和16 | 日本歴史全書 |
心霊学より日本神道を観る | 浅野和三郎 | 心霊科学研究会 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1047530 | 昭和13 | |
垂加神道 | 小林健三 | 理想社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040116 | 昭和17 | 日本思想大系 ; 2 |
垂加神道の研究 | 小林健三 | 至文堂 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040120 | 昭和15 | |
随神道は世界最高の宗教道徳哲学なり | 栗野伝二 | 栗野伝二 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1909138 | 昭和13 | |
戦争の神々 : 政治詩集 | 田中喜四郎 | 日本社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1256048 | 昭和13 | 戦争ブツクレツト ; 第2編 |
俗神道大意 | 斎藤一寛 編 | 日本電報通信社 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和20 | ||
谷秦山の神道 | 西内 雅 | 高原社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040119 | 昭和18 | |
仕へまつる道 : 神道と生活 | 溝口駒造 | 四海書房 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040107 | 昭和18 | |
転換期の神道 | 溝口駒造 | 畝傍書房 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040108 | 昭和16 | |
天照皇大日本世界主義 | 小滝辰雄 | 皇大日本会世界社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1095396 | 昭和11 | 皇大日本運動パンフレツト ; 第8輯 |
天照讚歌 | 上原武彦 | 上原武彦 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1092035 | 昭和17 | |
天照民族と世界維新 | 権藤重義 | 平凡社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039460 | 昭和17 | |
天孫民族よ神道に帰へれ | 吉良宇治那理 | 河原資郎 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1096743 | 昭和13 | |
日本宗教大講座 第一巻 神社篇 |
東方書院編 | 東方書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1179493 | 昭和5 | |
日本宗教大講座 第二巻 神道篇 |
東方書院編 | 東方書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1179507 | 昭和4 | |
日本精神読本第6巻 神ながら篇 |
日本主義同志会 | 石塚信夫 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1217113 | 昭和13 | |
日本精神の哲学 附・神ながらのやまとごころ |
鹿子木員信 | 国民思想研究所 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1057097 | 昭和9 | |
日本精神の要諦と惟神の大道 | 橋本文寿 | 立命館出版部 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1256939 | 昭和15 | |
日本精神文献叢書第 7巻 神道篇上 |
河野省三 編 | 大東出版社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1256924 | 昭和13 | |
日本精神文献叢書第 8巻 神道篇下 |
河野省三 編 | 大東出版社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1256930 | 昭和13 | |
風俗習慣と神ながらの実修 | 筧克彦 | 春陽堂書店 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1106907 | 昭和14 | |
武士団と神道 | 奥田真啓 | 白揚社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1687154 | 昭和14 | 日本歴史文庫 |
復古神道 | 小林健三 | 理想社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040115 | 昭和20 | 日本思想大系 ; 5 |
明治以後に於ける神道史の諸相 | 神崎一作 | 京文社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1258133 | 昭和12 | |
琉球神道記 | 明治聖徳記念学会編 | 明世堂書店 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040100 | 昭和18 | |
歴代詔勅全集. 第1巻 天照大神~元正天皇 |
三浦藤作 謹解 | 河出書房 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1041441 | 昭和15 | |
歴代詔勅全集. 第1巻 天照大神~元正天皇 |
三浦藤作 謹解 | 河出書房 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1041441 | 昭和15 | |
我が国体と神道 | 河野省三 [述] | 石川県 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1095220 | 昭和13 |
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前回の「歴史ノート」で、明治の初期から極端な欧化政策が採られて、その最もひどかった時代が鹿鳴館時代であることを書いた。
鹿鳴館は明治政府が薩摩藩邸の跡地に建てることを決定し、明治十六年(1883年)十一月二十八日に落成した建物で、国賓や外国の外交官を接待するため外国との社交場として使用されてきた。
そもそも鹿鳴館が建てられた最大の目的は、欧米諸国との不平等条約を改正する点にあったのだが、肝心な条約改正はほとんど進展せず、鹿鳴館外交への批判の高まりとともに、このプロジェクトを推進した井上馨は明治二十年(1887年)九月に外務大臣を辞すことになる。今回はその経緯について書くこととしたい。
鹿鳴館外交を痛烈に批判した尾崎行雄は、『日本憲政史を語る・上巻』のなかで伊藤博文・井上馨の外交について次のように記している。
はじめ井上公が、条約改正を企てた時は、大変な意気込みであった。乃公*の声望と力量とを以てせば、列国の使臣を説伏し、維新以来の宿案を一決する、何のことやあらんというので、とりかかったのであるが、さてやって見ると、なかなか困難である。列国の使臣は概ね我を侮って、こちらでは多大の譲歩を為すにもかかわらず、容易に応じそうな気色が見えない。
*乃公:俺様、我輩そこで井上候は考えた。そこれは日本の制度文物、民情風俗が、あまりに欧米諸国とちがいすぎているからである。これからはすべて欧米風を模倣し、まるで欧米諸国と同じにしてしまおう。そうでもしなければ、とても条約を改正して、列国と対等の地位に進むことは出来ないと考えた。そうして極端な欧化政策を採りはじめたのである。
従来の日本の習慣を破って、何でもかでも欧米の風俗を模倣し、夫人の洋服や束髪を誘導して見たり、内外男女の交際を奨励したりするのはまだしも、そのため或いは人種改良と称して内外人の雑婚を唱え、甚だしきは日本を耶蘇教国にしようと主張する者さえ現れた。
いわゆる鹿鳴館時代というのは、かくして現れたのである。
この欧化の思想は、明治二十年の春に入って、いよいよはなはだしく、首相官邸と外相官邸とは、宴楽の巷と化し、国事を挙げて声色の間に溺没するかに見られた。殊に四月二十日の伊藤首相官邸における仮装舞踏会の如きは、会するもの、内外朝野の貴顕紳士および貴婦人令嬢、合わせて四百名、その狂態言語に絶するという評判であった。
抑もダンスとは何ぞや。西洋の盆踊りではないか。一方では日本固有の盆踊りを、卑俗低猥なりとして禁じながら、自ら西洋の盆踊りに狂態を演ずるとは何事であるか。しかもダンスさえすれば、条約改正が成就するかの如く思って、謹厳そのもののような山形公や、野人自ら居る西郷公などまでが、妙な扮装をして踊り狂ったとあっては、馬鹿々々しいよりも、むしろ気の毒千万であった。
尾崎行雄『日本憲政史を語る・上巻』昭和13年刊 p.155~156
伊藤博文や井上馨はすべてを欧米風にすれば、欧米との外交交渉もうまくいくと本気で考えたようなのだが、明治二十年(1887年)四月二十日に伊藤首相官邸で行われた仮装舞踏会については、当時の新聞もかなり批判的に書いている。
仮装舞踏会についての「やまと新聞」の記事が『新聞集成明治編年史. 第六卷』に出ている。
「欧化主義の珍ばけものが競い集って伊藤首相官邸の大夜会 貴顕高官皆役者そこのけの扮装」という見出しをみればわかるように、大臣やら高官が夫人とともに仮装して舞踏会に集まったことを、記者も馬鹿々々しいと思いながら記事を書いていることがわかる。
次に、伊藤博文に近い人物の証言を紹介したい。清水伸 著『維新と革新』という本に、伊藤博文の秘書官であった金子堅太郎の証言が掲載されている。
金子の証言によると、明治十八年(1885年)に伊藤が初代総理となったのち、条約改正の件でイギリス公使ブランケットと条約改正の件でかけあった。伊藤はブランケット公使とは懇意の中であった。
伊藤さんが関税の五分はひどい、治外法権も近々立憲政治になるのだからどうかしてくれと公使に話すと、それなら私が何とかしましょうとブランケットが口を利いた。これが条約改正の交渉に応じた最初だと伊藤さんから私は聴いている。
ところが公使は――治外法権を撤廃して内地雑居というか、日本人と一緒に外人は居住せにゃいかぬ。それでは政治上は同等になっても国民的に日本人が外人と同等に交際出来るだろうか。第一あなた方参議にしてからが、いくらパーティに呼んでも男ばかり来る、奥さんは一度も来ない、参議の奥さん方が我々の細君と交際が出来ぬ位なのに、どうして国民が治外法権を撤廃して西洋人と同等の位置を保つことが出来ましょうか。それも出来ぬのに改正改正と呼んでもおかしいではありませんか。――というので、これには伊藤さんは非常に強く感じたようです。
清水伸『維新と革新』千歳書房 昭和17年刊 p.324
イギリス公使からそのように言われたものの、欧米では夜会で脛が見えたりストッキングが見えてはいけないことになっていたので、和服を着せて晩餐会に夫人を連れて行くことは出来ない。洋服を着せるしかないのだが、当時の日本女性で洋服を着る者は誰もいなかった。
婦人に洋服を着せるためにはまず、洋服を国内に普及させることが必要になる。そこで、伊藤はまず宮中から洋装化を始めようとした。陛下も女官も洋装にすれば大臣の婦人も洋服を着るようになるだろうとの考えであった。
宮中の洋装化が始まると、いよいよ伊藤は欧米人との交際をはじめようとした。金子堅太郎の証言を続けよう。
欧米人と交際するには、ただ午餐会や晩餐会だけではいかぬから一つ一緒になって娯楽を共にすることにしよう。それにはダンスがよかろうというので鹿鳴館でダンスを始めることになった。ダンスは毎日やったわけではなく一週間に二度とか、三度ダンスの先生が来て教えたのであります。総理大臣の伊藤さんがそれじゃ男女混合の仮装会をやろうじゃないかと、総理大臣官邸で開くことになった。…中略…
とにかく伊藤さんはどうしても社交的に対等にならにゃいかぬといって宮中に洋服の御採用を願いあげ、率先して鹿鳴館でダンスをやらせ、官邸で仮装舞踏会まで催したのであります。その夜、山縣さんは奇兵隊の軍服を着て、ものものしい帽子をかぶっていたし、佐々木工部卿などは土佐の紙の着物――土佐では礼服だという紙の裃を来てパサパサ音を立てていた。その他いろいろありました。しかし新聞では盛んに悪口をいうた。伊藤というやつは欧米に心酔してダンスまでやるとはけしからぬというのです。
だが伊藤さんは太っ腹のひとで、新聞で何といおうと構うもんか。俺の真意は奴等には分かりやせぬ。書きたいなら書かしておけと打棄らかしておいた。俺は大局から見ているのだ。後になれば俺の真意も仕事もわかるだろうと弁明もしないのが伊藤さんであった。鹿鳴館のダンスも条約を改正するについて欧米人と対等に交際しなければならぬという国を思えばこそであったのであります。
同上書 p.325~327
しかしながら、その当時のわが国は「男女七歳にして席を同じうせず」という考え方が当たり前で、良家の女性がいきなり鹿鳴館に行くこととなり外国人男性と踊るようになると、いろんな椿事が起こることとなる。
伊藤痴遊の『井上公全伝』にはこのように解説されている。
大臣や高等官の婦人令嬢はそれがために舞踊の稽古を始めて、ようやく足の踏み方や手の動かしようを習得ると、すぐに盛装して鹿鳴館へ乗り込んで来ては、衆人稠坐の中で、異人と手を把り相擁して踊り廻る。之を屡々繰り返して居るうちには、男女の間に妙な情合が起こってきて、或る大臣の夫人は眼色髪色の異った子を生んだとか、或は坊大臣が家族の令嬢を強姦したとか、公の席では高言することさえ憚る程の、醜怪な事実が追々に現れてくる。今さらに悪いことを始めたと後悔しても、まさかに中止することもならず、銘々に自分の嬶や娘の警護をしながら、びくびくもので舞踊会を続けられていたのだ。当時、最も流行したのが仮装舞踊会なるものであって、平常は謹厳な人だと言われた者までが繰出して、呆れ返る程の騒ぎを行ったものである。山縣有朋や大山巌が真面目な顔をして、奇想天外より到る底の仮装を、衆人に見せて驚かれたこともあった。渋沢栄一が娘と共に衣装を着け白粉を塗って、羞かし気もなく跳ね廻り、三島通庸のような荒武者までが、山崎街道の猪になって飛び出すと云うような訳で、真面目な考えをもっている者は、皆苦々しいことに思ったものである。
鹿鳴館の騒ぎはこういう次第であるが、其一方に於いては、人種改良というものが、井上の主唱によって組織された。是は日本人の骨組みから変えて掛らねばならぬという意見で、大いに人種の改良を謀ろうとした。それには盛んに外国人と結婚して、その種を取ることとしなければならぬ、といったようなことを唱える。近年になってから流行って来た、種馬を遠く西洋から求めて、日本の馬を改良しようとしたのと同一である。馬鹿もここまで登り詰めれば、愛想が尽きて小言も言えなくなる。
伊藤痴遊『井上侯全伝』忠文堂書店 大正7年刊 p.461~462
条約改正は明治時代における国民的悲願ではあったが、それを成し遂げるために伊藤や井上は欧米人の歓心を得ることばかり考えていたようなのだ。そのために極端な欧化主義が行われ、善良な日本文化や風俗までも破壊されたのだが、井上馨は雑婚を進めて日本人種を改良しようとまで考えていたという。
井上馨の公式の伝記として編纂された『世外井上公伝』の第三卷に、彼の当時の考え方がまとめられている。
我が帝国及び人民を化して、恰も欧州邦国の如く、恰も欧州人民の如くならしむるに在るのみ。即ち之を切言すれば、欧州的一新帝国を東洋の表に造出するにあるのみと。
『世外井上公伝』第三卷 内外書籍 昭和9年刊 p.913
しかしながら、伊藤や井上がここまでして成立させようとして準備していた条約改正案の内容が雑誌に掲載されると、守旧派から大批判を浴びることとなる。
初代農省務大臣であった谷干城は、改正案は外国人本位の条項があり国益に合わないとし、特に大審院の裁判官に外国人を任用するの一条は大問題であるとの建白書を内閣に提出し、辞表も提出している。
また司法省お雇いのフランス人ボアソナードも建白書を内閣に提出し、「今やお雇いの任期が満ちて帰国するにしても、日本国の前途に害をなす為すべき条項については、沈黙していることが出来ぬ」として、大審院の裁判官に外国人を任用することに反対したのである。
さらに板垣退助、勝海舟らも反対意見書を提出し、これらの内容は自由民権派によって秘密裏に印刷されて広められ、条約改正反対の世論が沸騰していくことになる。
私の学生時代には、条約改正の世論が高まったきっかけとして「ノルマントン号事件」があったことを学んだ記憶があるのだが、最近の教科書ではこの事件のことは書かれていないようである。ほかにも条約改正の世論を高めた事件はいくつかあるのだが、ノルマントン号事件は鹿鳴館外交が行われていた頃に起きた重要事件であり、ここで少し振り返っておこう。
明治十九年(1886)十月二十四日の夜にイギリス船籍の貨物船ノルマントン号が、暴風雨に遭い紀州沖で座礁沈没したのだが、白人の乗組員二十六名は救命ボートで脱出し全員生存しているにもかかわらず二十五名の日本人乗客全員とインド人の火夫十二人全員が溺死した。日本人を助けなかった船長の行動に、当然のことながら非難が集中したのだが、在日英国領事は領事裁判権に基づく海難審判で船長以下全員を無罪判決を下したため、日本国民は悲憤慷慨したのである。
条約改正交渉を進めていた井上外相は、世論に押されて船長を殺人罪で告訴したが、横浜領事裁判所は船長を有罪とはしたが、死者への賠償金は支払われなかった。井上外相は日英関係の悪化を回避しようと弱腰であったことから、「媚態外交」と非難されたという。
その事件の翌年に井上の条約改正案が出されたのだが、前述した通り谷干城やボアソナードらから批判され、世論も欧米に弱腰な改正案を「国辱的」だとして許さなかった。
そのため条約改正交渉は延期されることとなり、井上馨は明治二十年九月に外務大臣の職を辞し、鹿鳴館は社交場としての役割を終えた。
欧化主義が誰の目にも明らかな程極端であっただけにその反動もまた大きく、その後は、いわゆる日本主義者が強硬的な外交政策による不平等条約解消とその裏付けとなる軍事力増大を主張することとなるのであるが、このように条約改正の世論が高まったのは、ノルマントン号事件に関する理不尽な判決なしにはあり得なかつたのではないだろうか。ほかにもいくつか不平等条約であるために日本人を怒らせた事件がいくつかあるのだが、その点はいずれ条約改正をテーマにする時に書くこととしたい。
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中国思想に関するGHQ焚書を探してみると、中国の春秋戦国時代(紀元前770年~紀元前221年)に現れた諸子百家に関するものばかりで、大半は孔子が創始した儒教、あるいは孫子の兵法に関する書物である。孫子が焚書処分されたのは理解できるのだが、孔子や『論語』に関する書籍が多数焚書処分されており、児童用の絵本である講談社の『コウシ』まで処分対象にされているのは意外であった。
諸橋轍次 著『儒教と我が国の徳教』という本がある。著者は漢学者で、漢和辞典の最高峰である『大漢和辞典』の編者代表として知られているが、彼の著した儒教に関する本が二点GHQにより焚書処分されている。
著者が儒教とはどのような内容であるかについてまとめている部分を紹介したい。
ごく平易に申しますれば、儒教というものは古人にもすでに論じております通り、己を治め、人を治める学問で、修己治人の学問であるというに尽きるのであります。儒教がすでに孔子によって大成せられたというならば、孔子の考えて居りまするこれらの思想を我々が分析して考えていく時に、この結論を得るわけであります。しかしこれはわずかな時間で出来ることではありませんから、その中の根本的な孔子の思想について調べて行きたいと思います。
孔子の根本的の思想として普通論ぜられて居りますものは、論語にたびたび出て参ります仁という言葉であります。この仁という言葉を私どもが味わって考えてみますと、悉く今申しまする、己を治めるということと、而して人を治めるということの二方面に説かれているようであります。
ある人が仁とはどんなものでうるかと言って質問した時に、孔子は答えて、仁というものは難しいことではない。自分の居る境遇に対して恭しくすることである。自分の守る仕事に対して敬うことである。他人と交際している場合に忠実に、偽りを持たないことである。居処恭、執事敬、与人忠、これが人であると申しております。こういう平易な説明をされておりますが、これは仁の一面が、己を治めるということ、即ち自分にあることをしめしたのであります。その外論語に於いて五十八章も仁を論じたのでありますが、大隊以上の如くであります。
ただ己を治めるということだけを強く説きますると、ややもすると利己的なまた個人的な弊害に陥ることがあります。しかし孔子の申す仁ということは、社会即ちごく広い大きい己を考えているのでありまして、時によっては小我、小さい我を棄てて大我に就くことを意味します。そこで志士仁人は時に身を殺して仁を為すことがあると綿密な注意を施して居ります。即ちごく広い意味に己を治めることを仁と考えるのであります。それからまた人を治めるということに就きましては、だいたい人間というものは、人々相愛して行くところに社会は治まって行くと説いております。これもある門人が仁を質問した。これに答えて孔子は、仁者は人を愛すと説いている。言葉は簡単でありますが、苟もこの愛人の思想なくして人を治めることはあり得ないのである。愛人の思想が即ち社会共済の根本であります。
諸橋轍次 著『儒教と我が国の徳教』目黒書店 昭和15年刊 p.47~49
孔子は法治主義ではなく徳治主義による政治を理想としたのだが、このような孔子や儒教に関する本がGHQによって焚書処分されたのは、戦勝国の政治が徳治主義ではなかったからと理解すればよいのだろうか。あるいは、日本人が孔子を偉人とすることで日中両国が親睦することを戦勝国が望まなかったからなのか。
次に紹介したいのは、桜井忠温 著『孫子』。桜井は日露戦争に出征し、旅順攻囲戦で右手首を吹き飛ばされる重傷を負い、帰還後療養中に執筆した実践記録である『肉弾』ほか、合計十五の著作がGHQにより焚書処分されており、そのうちの三点についてこのブログで紹介させていただいた。
孫子の「戦わずして勝つ」は非常に有名な言葉だが、桜井はこの言葉について次のように解説している。文中で太字の部分は孫子の言葉であり( )内の部分は桜井の補足部分である。
戦わずして敵を服するを上の上とする。人民を傷つけず、城郭を損せず、府庫を焼かざるを第一等とす。方略を以て、人の国を取ることが出来れば何よりである。戦争によらず、外交手段によって、敵国を服した例は昔も今も乏しくない。秦は六国を併呑したが、その多くは戦争によらなかった。イギリスがインドを取ったのも、ドイツが膠州湾を奪ったのも、アメリカがハワイを取ったのも、ソヴィエトが蒙古を侵略したのも皆それである。それにはどこまでも権勢武力を背景としなければならない。軍備無き外交は何の力もない。軍備があればこそ「断じて戦争無し」などと上がってしまう外交官も出来るのである。
ぜひなく戦争をし、敵国を破るのを第二とする。凡そ、用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破る、之に次ぐ。
軍(一軍というのは昔は一万二千五百人である)を全うするを上と為し、軍を破る之に次ぐ。
旅(五百人)を全うするを上と為し、旅を破る、之に次ぐ。
卒(百人)を全うするを上と為し、卒を破る、之に次ぐ。
伍(五人)を全うするを上と為し、伍を破る、之に次ぐ戦争となっても、敵軍を屠らずして服せしめるを最善とし、止むを得ず戦うを次善とする。「人の兵を生かして我が有と為す」という意味もここにある。
この故に、百たび戦いて百たび勝つは善の善なるものに非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり。
百戦百勝――もとよりそうなければならない。しかし、百勝、戦わずして勝つのでなければならない。一戦せずして勝つこそ上の上とすべきである、としてある。
秦将白起、戦いに勝って、七十余城を抜いたが、四十五万人の首を斬った。しかし、秦の士率もその過半を失った。上兵は謀を伐つ。
名称は敵の作戦方針を見抜き、戦わずして敵を服する。敵の腹心を潰し、その羽翼を剪り、敵をして起つ能わざらしむるを「上兵」とする。…中略…
その次は交わりを伐つ。
「将を射んと欲せば、まず馬を射よ」
というに当たる。樹の枝や葉を伐って、その根を枯らすのたぐい、先ずその関係国、親交国を討って、敵国を降す。之を次等とする。その次は兵を伐つ。
これが三等である。いよいよ戦闘という段取り。
その下は城を攻む。
攻城は、師を老し、財を費やすのみとしてある。「攻城の法は止むを得ざるが為なり」とあって、兵家の下策とされている。
桜井忠温 著『孫子』成光館 昭和十六年刊 p.114~118
満洲やチベットやウイグルは、かつては漢民族がほとんど居住していなかったのだが、大量の漢民族を移民させることで主導権をとり、国を奪ったと言って良いだろう。それと同じことが、いまわが国に仕掛けられていることが理解できない政治家が多いのは困ったものである。移民を侵略の武器として利用する国はあの国ばかりではないのだろうが、他国と同様に移民をしっかりと統制しなければ、わが国も、伝統文化も、日本語も溶けていくことにならざるを得ない。
GHQ焚書リストかの中から、本のタイトルから判断して中国思想に関する本を抽出して、タイトルの五十音順に並べてみた。
分類欄で「〇」と表示されている書籍は、誰でもネットで読むことが可能。「△」と表示されている書籍は、「国立国会図書館デジタルコレクション」の送信サービス(無料)を申し込むことにより、ネットで読むことが可能となる。
タイトル | 著者・編者 | 出版社 | 分類 | 国立国会図書館デジタルコレクションURL 〇:ネット公開 △:送信サービス手続き要 ×:国立国会図書館限定公開 |
出版年 | 備考 |
コウシ | オノ タダヨシ | 講談社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1874050 | 昭和19 | |
孔子教の戦争理論 | 北村佳逸 | 南郊社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1210313 | 昭和10 | |
支那思想概説 日支事変に就いて | 諸 橘 述 | 山崎作治 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1093780 | 昭和13 | |
儒学と国学 | 斎藤 毅 | 春陽堂 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1914523 | 昭和19 | 新国学叢書 ; 第8巻 第1 |
儒教と我が国の徳教 | 諸橋徹次 | 目黒書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1684851 | 昭和15 | 教学新書 ; 第10 |
儒道報国時局大講演集. 第1輯 | 浜野知三郎 編 | 斯文会 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1105803 | 昭和13 | |
孫子 | 桜井忠温 | 成光館書店 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1456921 | 昭和16 | |
孫子の兵学 | 友田冝剛 | 国民教育普及会 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1456783 | 昭和16 | |
孫氏の兵法 | 公田連太郎 大場弥平 | 中央公論社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1869559 | 昭和10 | 兵法全集. 第1巻 |
孫子論講:戦綱典令原則対象 | 尾川敬二 | 菊地屋書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1230764 | 昭和11 | |
鍋島論語 葉隠読本 | 山本常朝 述 大木陽堂解説 |
教材社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1909443 | 昭和12 | |
日本精神と儒教 | 諸橋轍次 | 帝国漢学普及会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1235376 | 昭和9 | |
日本精神文献叢書第10巻 儒教篇下 | 山口察常 編 | 大東出版社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1256946 | 昭和14 | |
兵法孫子 | 北村佳逸 | 立命館出版部 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1460444 | 昭和17 | |
論語兵語 | 西川虎次郎 | 軍事学指針社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1054334 | 昭和5 |
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文芸評論家の高須梅渓が大正九年に上梓した『明治大正五十三年史論』によると、廃藩置県以降の明治政府は、復古的、保守的ではなく、むしろ革新的、進歩的に動いたと指摘したあと、次のように述べている。
当時に於ける革新的、進歩的の仕事をした精神、思想は何であったかと言えば、主として近代欧米の文化的勢力に対抗するために、没反省的に発生した欧化主義的実利思想であった。当時の先覚者もしくは少壮気鋭の進歩主義は、わが国における固有の文化と特徴を自省するよりも、一意欧米の文化に心酔して、その思想、文物を輸入することをもって最善の急務としたのである。而して、それは何をおいても、実利という標準から離れることが出来なかった。
今日から見れば、其の皮相浅薄は、笑うべきものであるが、急激に欧米文化の圧力に対抗するに足るべき武力と富力とを得んと焦慮した。当時にあっては、欧米文化の断片を早呑み込みして、直ちに、革新に資するということが、極めて必要で、その皮相浅薄を顧る遑がなかったのである。ことに彼らが、新文化の輸入について、俗衆の無智と戦い、財政の窮乏と戦い、頑迷な保守主義者と戦って、一生懸命に、その新しい仕事を進めて至った熱心と努力とは、日本文化の進展を助長すべき一個の柱礎となったのである。
勿論、当時の政府には、早くから、進歩主義と保守主義とがあって、事ごとに意見を異にした傾きはあったけれども、征韓論の勃発する迄は、それが影になって隠れていた。而して時代は、如何しても、進歩主義者を実際に要求し、且つ進歩主義者の中に、政治家として適当した材能を有するものが、比較的多かったので、勢い、欧化的実利思想を基本として進むことになったのは、当然の帰結であった。
高須梅渓 著『明治大正五十三年史論』日本評論社出版部 大正9年刊 p.100~101
廃藩置県が強行されたのは明治四年(1871年)七月十四日であるが、それまでは旧大名領は旧藩主が知藩事として引き続き旧藩の統治に当たっていたので、実質的には封建的体制が続いていたと言って良い。ところが廃藩置県が行われることによって、旧藩主は東京に住まわされ、政府から新たに知事が派遣されたのであるが、そのメンバーの多くが政府の方針通りに「旧弊打破」「厭旧競新」を推進し、伝統的文化・景観破壊が加速することとなる。
前回の記事で紹介したが、法律で日本服を全廃し洋服に改めよとか、英語を以て国語とせよという主張がされたり、寺の境内や建物が破壊されたり、各地の石仏や石像、路傍の地蔵尊が撤去されたり、盆の行事が停止されるなどこの時期にいろんな命令が出て実行に移されている。
『新聞集成明治編年史. 第二卷』で当時の記事を探してみると、明治六年一月六日付の東京日日新聞で、正月の楽しみである羽子板で顔に墨を塗ることは「醜の極み」と論評されたていたり、同年六月五日の大阪新聞には戸籍をいろは順で記録することを禁じ、あいうえお順で記録せよとの記録がある(明治六年)。
いろは順を廃止して五十音順に変えた理由は、いろは歌には仏教の考え方が反映されていて文明開化の時代に不都合だからだという。廃仏毀釈と同様の考え方がこんなところにも出ていることは驚きである。
磐前県というのは現在の福島県の東に位置していた。上の画像は明治六年三月の郵便報知四五の記事で、念仏踊りが禁止されたことが報じられている。おそらく、いわき市を中心に行われている「じゃんがら念仏踊り」のことだと思うのだが、この時期に禁止されたのち復活され、今ではいわき市の無形民俗文化財に指定されている。
昔は山頂にお堂があり仏像が安置されているような山はいくらであったのだが、多くの山で仏堂や仏像が取り払われた。上の画像は明治七年九月十四日の新聞雑誌の記事で、富士山頂で雅楽を奏して仏法一洗の呪文を誦読し、表口中道の岩洞中に安置されていた不動像を撤去したと書かれている。
また、明治九年の五月二十六日の朝野新聞には力士の丁髷や裸姿を見せる角力(相撲)は「国家の恥辱」だと報じているなど、枚挙にいとまがない。
要するに、政府は古くからわが国に伝わって来た物は、庶民の信仰であろうが娯楽であろうがと何でも否定しようとしていたのである。
斎藤隆三著『近世日本世相史』によると、政府の主要なメンバーが明治五年~六年頃から西洋至上主義的な施策を採るようになり、それが明治二十二~三年頃まで続いたという。
明治初年のわが要路*の執りたるところは、…三四のものの西洋の優れたるあるの故を以て一切万事悉く西洋を勝れりとなし、自ら卑しんで半開野蛮と称するとともに、彼を尚んで文明国となし、苟も碧眼赤髯ならんには一切無差別にこれを畏敬し崇拝して優良人種優良国民となし、その風を移し、その俗を模し、一日も早く一歩も近くこれに接しこれに頼らんことを期せんとなしたるものなり。
*要路:重要な地位しかして東洋固有のものといえば、千年の陶冶を経て独特の発達を為したる精神文明をすらも弊履(敗れた草履)を棄てるが如くにこれを棄てて顧みず、捨てることの遅きを恥じとし速きを競うの風をも馴致せしめたり。
されば善にもあれ悪にもあれ本邦固有のものを維持せんとしもしくは執着せんに於いてはたちまちにして旧弊と罵られ、因循姑息と貶められ、良否無差別ただ欧米の風に倣うを以て文明開化と誇称するに至りしものなり。
すべての雑貨の舶来品なる語が上等品の代名詞となり、和製なる語が粗製品の代名詞となりて怪しまざりしものもまた自ずから当時の風潮を説明したるものなりというべし。これ実に一に一代の大勢の然らしめたる自然の傾向なりといえども、また当代一般国民の極めて無智識なるが上に、永く民をして拠らしむべく知らしむべからずの教義の下に教養されたるものの、たまたま一にも二にも西洋謳歌にありし、為政者の指針に随って饗応し盲走したるに拠るべきのみ。而して上下押なべて滔々たる西洋崇拝西洋心酔の時代を顕出せしむるには至りしなり。明治五六年より、明治二十二三年の自覚期に至るまでの十五六年間は即ち是れなり。
斎藤隆三 著『近世日本世相史』博文館 大正14年刊 p.1056~1058
西洋至上主義的な考えはその後は衰えていったのだが、第二次大戦後に再び増加したのは、戦勝国に都合の悪い真実を知る機会が戦後の長きに亘り失われていたからだと思う。
では、この様な極端な欧化施策はどのようなメンバーが関わっていたのであろうか。斎藤隆三氏の著書の引用を続けよう。
新政府の当事者が国家独立の上より観て、又実際上に自らしたる経験より観て、彼の何者よりも先ず痛切に感じたる者は欧米の軍事の進歩なり。されば新政府は東京に移りて一切のこと未だ緒に就かざるに、早くも明治二年三月というに、山縣有朋、西郷従道の両人を軍事視察として欧米各国に派遣するの挙に出でたり。続いて四年十月には新政府の柱石たる岩倉右大臣自ら全権大使となり、大久保、木戸以下政府の要地にある大官を率いて欧米各国を巡視すべきの議決せられ、十一月横浜を解纜して千里の行程に上る。(中略)
岩倉右府の一行は二年間の歳月を欧米諸国に費し、到る所に驚異の目を睜って発達せる物質文明を観、風俗習慣一切万事ただ徒に彼の為す所に眩惑して、文明開化の国たらんには須らく此くの如くならざるべからずとの信念を強うせしめたると共に、愈々自国を未開劣等等と卑下するの感をさえ之を高めて、明治六年九月をもって帰朝したり。これより西洋文物の鼓吹一層その度を増し、制度文章機械器具風俗習慣何れは撰ぶ所もなく滔々として洋風の移入模倣を是れ力むるに至らしめたり。
同上書 p.1061~1062
と、極端な欧風化を推進したのは洋行組であったという。
山縣有朋、西郷従道が帰国し兵部省入りした明治二年十月に、陸軍の編成・訓練から服装に至るまでフランス式に統一され、のちに分離された海軍は万事英国式となったという。
また、小学校が設立されると、旧来の教育法を棄てて米国の教科書であるユニオンリーダーを直訳したものを用い、法律の制定にあたっては法学者をフランスより招聘して学び、鉄道や電信などのインフラも、専門家の設計・監督により整えていったことが解説されている。
学生時代にこの時代を学んだ際には、極端な欧化政策がとられたのは鹿鳴館時代と呼ばれる明治十年代後半と学んだ記憶があるのだが、このような政策は明治初期から始まっていて、最もひどかった時代が鹿鳴館時代ということである。廃仏毀釈などの大量の文化破壊も、洋行組がかなり関わっていたと考えて良いと思う。
もっとも、この時代に西洋の技術がわが国の社会にどんどん導入されている。
明治五年に新橋から横浜間に鉄道が開通して蒸気機関車が運行され、横浜にはガス灯が設置され、わが国最初の本格的な器械製糸工場である富岡製糸場が操業を開始している。
明治六年には東京から長崎に電信の回線がひかれ、東京から海外への通信が可能となった。また明治八年には、銀座通りを煉瓦・石造の建築に改造されている。
上の画像は明治八年三月三十一日の東京日日新聞の記事だが、英国領事館の一官員がわが国の文明開化に関する感想をスコットランドの新聞に語った内容を紹介している。
この領事官は、ガス灯、電信機、鉄道、郵便、蒸気船、学校、造船場、造幣処、製綿場などの事例を挙げて「シナ人が百余年を費やして、西人と交渉して仕遂げたる実功を、日本にては纔に十余年の交渉にて成し終われり」と日本の進歩の速さに驚きつつも、「日本の現景は、欧州の技術機関の外形に達するのみにて、眞開化の域に進むこと能わず」と、まだ文化水準は独自の境地に達していないとしている。
では、わが国がこのような欧風化を急いだ理由はどこにあったのであろうか。岩倉使節団のメンバの一人で欧化主義者の代表的人物であった伊藤博文の考え方について、昭和九年に出版された秋山悟庵編著『伊藤博文言行録』には、こう解説されている。
公が他年の難問題たる条約改正のために準備として対等の条約を結ぶを肯ぜざらむを慮り、其が口実の材料を消滅し、以て彼と親善を厚うせんとの手段として、盛んに欧米の制度及び風俗を模倣して、以て我邦の風俗改良に着手したるなり。されば一方外務省には彼の縄にて尻を鞭たれたる洋行以来の水魚刎頸の友たりし井上馨氏を大臣に挙げて、之と十分に力を協せこの難問題を解決せんと図りたるなり。然るに余りに急進なる欧化主義たりしがために、社会のある方面の不人望を招き、非難攻撃の声は至る所に聞こゆるに至れり。
秋山悟庵 編著『伊藤博文言行録 第三版』大京堂出版部 昭和9年刊 p.67~68
また大正七年に伊藤痴遊が著した井上馨の伝記に次のような記述がある。
この条約改正に就て、俄か仕込の欧化主義が盛んに唱えられて、到るところに不似合いな、欧米の風俗や習慣が移されて来た。伊藤は暫く措いて、井上や山縣のような人物が、外務と内務の椅子に就いて居た時の政府の方針が、極端なる欧化主義であったということは、唯卒然として之を聞けば、如何にも不思議に思われようが、実は条約改正の必要から、俄か仕込の馬鹿げた欧化主義が、実際に現れて来たまでの事である。(中略)井上があまりにその功を収むる事に急いだため、第一には各国公使の歓心を求むることに腐心し、第二には欧米の文明の外観を模倣して、日本人の頭脳も是までに進んできた、ということを示さんが為に、善悪邪正を一呑みにして何がなんだか、さっぱり訳の解らぬことまでも、そのままに移し植えようとした、その過失は今更咎め立てをしたところで致し方もない…
伊藤痴遊 著『井上侯全伝』忠文堂書店 大正7年刊 p.459~460
伊藤痴遊は、井上らによほどひどい過ちがあったことを匂わせているのだが具体的にどのようなことがあったのか。その点については次回に書くことにしたい。
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仏教に関するGHQ焚書を探していると、仏教の開祖である釈迦に関する子供用の絵本がリストにあるのに驚いた。この絵本は講談社が「大東亜の偉人」を集めたシリーズの中の1冊で、全10冊のすべての作品がGHQによって焚書処分されていることに注目したい。
ちなみにこの絵本シリーズで刊行されたのは、『ウ・オッタマ』、『トヨトミヒデヨシ(豊臣秀吉)』、『ホセ・リサール』、『ジンギスカン』、『コウシ(孔子)』、『シャカ』、『トウゴウゲンスイ(東郷元帥)』、『ソンブン(孫文)』、『ノギタイショウ(乃木大将)』、『ヤマダナガマサ(山田長政)』である。戦後はあまり知られていない人物がいるので補足しておくと、ウ・オッタマはビルマ(現在のミャンマー)独立運動創設者の一人で、ホセ・リサールはフィリピンの独立運動で活躍した人物である。
釈迦が活躍した時代については紀元前7世紀とか紀元前6世紀とか紀元前5世紀とか諸説があり、正確なことはわかっていない。釈迦の生涯については後世の教義と結びつけられてかなりの部分が創作されている可能性が高いのだが、釈迦は王族としての安逸な生活に飽き足らず、29歳の時に出家して王城を抜け出したと伝えられている。今回は『シャカ』の第三節、釈迦が旅に出た部分を紹介させていただく。原著は、漢字とカタカナで書かれているのだが、読みやすいように書き換えさせていただいた。
ある日釈迦は、四五人の家来を連れ、馬に乗って田舎へ出かけました。
どんどん駆けていくうちに、広い広い田んぼが見えてきました。
その田んぼでは、大勢の百姓たちが働いています。暑い陽が上から照りつけています。幾匹もの牛が鞭でお尻を叩かれながら苦しそうに、思い鋤を引いています。釈迦は、この牛が可哀そうで可哀そうでたまらなくなりました。そして、ひょいといま鋤き返されたばかりの田んぼの土を見ました。そこでは沢山の小鳥の群れが押しのけ合いながら何かつついています。土の中から、掘り出された虫を食べているのでした。
「ああ、これが世の中の有様だ。」
と、釈迦はこのあさましい有様をじっと見ていられず、顔を背けて、そこから逃げ出してしまいました。それからまた少し行くと、一人の年寄りが通りかかりました。
頭の毛は、すっかり白く、腰は弓のように曲がっています。杖にすがって、トボトボと歩いている姿は、本当に可哀そうに見えました。その年寄りが行ってしまうと、今度は青い顔をした病人が通りかかりました。今にも斃れそうによろよろと歩いて行きます。
しばらくすると、今度は大勢の男や女たちが大きな輿を担いでくるのに出会いました。みんなオイオイ泣いています。その輿には、色々な花が飾られ、線香の煙が立ち上っていました。
これを見ると、釈迦は急に家来の者から離れて、ただ一人森の中へと入って行きました。
そして、大きな木の下に座り込んだ釈迦は、静かに目を閉じ、そして腕を組んだまましばらくの間、じっと考え込みました。
「この世の中は、苦しいことと悲しいことで一杯だ。なぜあのように、人や動物などが苦しみ抜いて死んでいくのだろう。」
情け深い釈迦の目には、涙が流れていました。
『シャカ』大日本雄弁会講談社 昭和19年刊 p.9~14
なぜ釈迦の生涯を描いた児童向けの絵本がGHQによって焚書処分されたのか。釈迦だけでなく講談社の「大東亜の偉人」の絵本シリーズの全点が処分の対象とされたのか。今となっては想像するしかないのだが、戦勝国からすれば「大東亜の偉人」として日本人から尊敬されるような人物は認めたくなかったということではなかったか。子供たちが「大東亜の偉人」とあこがれるような人物を早い段階で潰しておきたいとの考えがあったのだと思う。
次に『仏教の戦争観』という本を紹介したい。この本は仏教研究者の林屋友次郎と文筆家の島影盟の共著とあるが、林屋の序文によると林家の意見に基づき、島影が脱稿して刊行された本のようである。
支那の戦争意識は、わが国のかつての仇討ち心理に似ている。その名目はいわゆる「仇を討つ」にあったが、要するに憎しみの行為である。それであるから仇を討つことによってその争いは解決しなかった。富士の巻狩に父の仇を討った曾我の悟朗の例を見ても、頼朝は彼を好ましい若者と思って助けようとしたに拘わらず、工藤祐経の子犬房丸から更に仇討の願があったので、やむなく斬首に行なわなければならなかった。憎しみから出発した仇討ちとして、交互に仇を討ち合っては果てしがないからである。忠臣蔵四十七士を死に処したのもそれである。こうして美風が結局社会の正しい発達に弊害となることが解って、仇討ちは禁止されることになった。明治六年の仇討禁止令に
「人を殺すは国家の大禁にして、人を殺す者を罰するは政府の公権に候処、古来より父兄の為に讐を復するを以て子弟の義務と為す風習在り。右は至情止むを得ずに出ると雖も、畢竟私憤を以て大禁を破り、私儀を以て公権を犯す者にして、固より壇殺の罪を免れず。しかのみならず、甚だしきに至りては、そのことの故誤を問わず、その理の当否を顧みず、復讐の名儀を狭み、濫りに相構害するの弊往々これ有り。それ以て相済まざる事に候。これより復讐厳禁仰せ出され候上、今後不幸にして親を害せるる者之有るに於いては、事実を詳らかにして、速やかにその筋へ訴えるべく出で候。もしその儀無くば、旧習に泥し壇殺するに於いては、相当の罪過に候べき條、心得違う処これ無き様致すべきこと。」
とあって、「復讐の名儀を狭み、濫りに相構害するの弊」ととはそれを言うのである。『雑阿含経』にも…釈尊の言葉に、「戦い勝たば怨敵を増し、敗れ苦しまば臥するも安からず。勝敗二つともに捨てて、臥し覚むるは寂静の楽なり」とあって、そうした戦争を禁じられている。
屋友次郎, 島影盟 著『仏教の戦争観』大東出版社 昭和12年刊 p.96
相手を恨んで仇を討てば、相手もその復讐をしようとするためにいつまで経っても争いは解決しない。明治政府は明治六年に「仇討ち禁止令」を出して復讐することを禁じたのだが、そうすることで復讐行為によるトラブルが激減した。国と国との戦争も同じで、お互いの国が相手国を恨み続けては、決して争いが絶えることがない。
著者は続けて、戦争の原因はいかにすればなくすことができるかについて述べている。「四諦」という仏教用語が出て来るのだが、すべての結果にはかならずその原因があるという仏教の考え方に基づいて論じていると思って読んでいただきたい。
四諦による苦の解脱法なるものは、どんな苦を滅する場合にも、まずそうした苦を生じた原因を探り、その原因を滅することによってそれから生ずる苦を滅するのである。この苦を生じた原因を把握するということが、苦の解脱法に於いて先決問題になっている。その目的のためには十二因縁法というものがあって、これによって苦の根源を探求してみると、人生の苦、社会上の苦の総てが煩悩にもとづいているのを知る。煩悩とは、理想と現実の不一致を持ち来たすところの誤った行為で、言葉を変えて言えば、誤った「我」の行為とも、或いは世界及び人生に対する無知から生ずる行為とも説明される。この行為を改めないでは、苦を滅することが出来ないのは、胃病の根元である誤った行為としての大食や間食をやめないでは、いくら薬を服んでも胃病を根本的に治すことが出来ないようなものである。
今度の支那の挑戦を見ると、それは決して支那にとって避けられないものではなかったことを知る。今日の事態をひき起こしたものは支那の煩悩にもとづくものであって、それは苦の解脱法による時は、戦争と言うような最悪の結果を来たさないでも、支那自身の為に平和な解決の道が講じられなければならないからである。支那に理想と現実の不一致をもたらしたものは支那自身の煩悩の行為であるから、その点に気が付くならば、国家の悩みを解消するには、政治を正しくして、国力を回復することが肝要である。日本の今日の発展は欧米諸国から堪え難い屈辱を受けながら、それを堪えて徐々に国力の充実に努めた結果である。支那もそれをやるべきであった。
しかるに支那のこれまでにやり来たったところをみると、支那国民に国家観念無く、為政家はただ利欲を事としている。国を育て、国を護るよりも、国を如何にして儲け多く売るかを政治家の本領としている。一例を挙げれば、李鴻章がロシアに満州を渡す秘密条約を結んでいた事実などがそれである。それに付け込んだのが英国であって、阿片戦争のようなことも起こった。その結果に、理想と現実との一致しない国日の悩みの支那があるにもかかわらず、その原因となった煩悩を除くことを支那出で、ただ権利だけを主張して、暴力で国力を回復しようとしている。最も誤っているのは王正廷の外交で、その裏面に〇〇が暗躍していることは言うまでもない。殊に〇国の毒手に躍って、排日的行為が甚だしかった。
同上書 p.98~100
「今度の支那の挑戦」というのは、支那が支那事変(日中戦争)を起こしたことを指している。戦後の歴史叙述では日本側が一方的に悪者にされるのが普通だが、当時のわが国ではそのような認識ではなかった。戦後になってわが国の歴史認識は大きく変えられたのだが、あの国が大声で主張する歴史は決して鵜呑みしてはいけないとだけ言っておこう。
また「王正廷」は中華民国の外交の重鎮だが、米国留学もあり親米反日の人物であった。伏字の部分は英米と米国だと思う。
仏教関連のGHQ焚書については、これまで暁烏敏 著『神道・仏道・皇道・臣道を聖徳太子十七条憲法によりて語る』を紹介させていただいている。
GHQ焚書リストかの中から、本のタイトルから判断して仏教に関係のありそうな本を抽出して、タイトルの五十音順に並べてみた。
分類欄で「〇」と表示されている書籍は、誰でもネットで読むことが可能。「△」と表示されている書籍は、「国立国会図書館デジタルコレクション」の送信サービス(無料)を申し込むことにより、ネットで読むことが可能となる。
タイトル | 著者・編者 | 出版社 | 分類 | 国立国会図書館デジタルコレクションURL 〇:ネット公開 △:送信サービス手続き要 ×:国立国会図書館限定公開 |
出版年 | 備考 |
印度仏教概説 下 | 大谷大学 編 | 法蔵館 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1225766 | 昭和14 | |
皇国の三大公律と仏教 | 村井昌八 | 文明堂 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1023513 | 昭和13 | |
国体と仏教 | 椎尾弁匡 | 東文堂書店 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和16 | ||
国体の仰信と仏教 仏教哲理の再認識 |
稲津紀三 | 大東出版社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1255759 | 昭和13 | |
国体明徴と仏教 | 利井与隆 | 一味出版部 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1037360 | 昭和11 | |
国家と仏教 | 東京帝国大学仏教青年会 | 日本青少年教育会出版 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040328 | 昭和17 | |
シャカ | ハットリ メイジ | 講談社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1874047 | 昭和19 | |
釈迦と提婆 | 小笠原秀昱 | 新生堂 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1134820 | 昭和17 | |
新東亜の建設と仏教 | 仏教連合会編 | 仏教連合会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1255780 | 昭和14 | |
神道・仏道・皇道・臣道 を聖徳太子十七条憲法によりて語る |
暁烏敏 | 香草舎 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1111202 | 昭和12 | 北安田パンフレット ; 第47 |
大乗仏教と日本精神 | 関 精拙 | 槻道書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1108658 | 昭和12 | |
中道思想及びその発達 | 宮本正尊 | 法蔵館 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040367 | 昭和19 | |
南方共栄圏の仏教 | 長井真琴 | 前野書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040265 | 昭和17 | 日本仏教鑽仰会叢書 |
南方共栄圏の仏教事情 | 中島莞爾 | 甲子社書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040270 | 昭和17 | |
南方仏教の様態 | 竜山章真 | 弘文堂 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040278 | 昭和17 | |
日本精神と仏教 | 高神覚昇 | 第一書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1683677 | 昭和16 | |
日本精神の教育 非常時と日本精神と仏教思想 |
日高進 講述 | 第一人間道場 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1270620 | 昭和11 | 人間道講演集 ; 第3輯 |
日本精神文献叢書第11巻 仏教篇上 | 横尾弁匡 編 | 大東出版社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1256955 | 昭和14 | |
日本精神文献叢書第12巻 仏教篇下 | 横尾弁匡 編 | 大東出版社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1256964 | 昭和15 | |
日本仏教 | 日本文化研究会編 | 東洋書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1226580 | 昭和10 | 日本精神研究第八輯 |
日本仏教概論 | 大阪毎日新聞社 編 | 一生堂書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040249 | 昭和17 | |
日本仏教の性格 | 梅原真隆 | 全人社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040549 | 昭和18 | |
日本文化と仏教の使命 | 伊藤円定 | 日本禅書刊行会 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1021589 | 大正14 | |
念仏護国論 | 加藤仏眼 | 明治書院 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040652 | 昭和19 | |
仏教の戦争観 | 林屋友次郎 島影盟 | 大東出版社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1222754 | 昭和12 | |
兵と菩薩行 | 関山光次郎 | 法喜社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1080042 | 昭和14 | |
水戸学と仏教 | 布目唯信 | 興教書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1038548 | 昭和18 | |
躍進日本と新大乗仏教 | 古川雄吾 | 中央仏教者 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1223171 | 昭和12 | |
我国体より見たる仏教の是非と其実相 | 服部宗明 | 神燎会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040283 | 昭和16 |
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前回の「歴史ノート」で、歴史学者・徳重浅吉が、明治政府は「御一新の名によって嵐の如く旧物を破壊し尽くしたかの観さえある」と書いていることを紹介した。
『文明開化』の時代に、政府は日本土着の習俗や信仰などを「悪弊」「旧習」と呼び、彼らが無用無益と判断したものはどんどん破壊していったというのだが、同様なことが記されている本は少なくない。例えば、歴史学者・斎藤隆三の『近世世相史概観』には次のように記されている。
明治初年の我が当局の執ったところは、当然の域を超えてその度を失したものであった。三四の勝れたもののあるの故をもって一切万事西洋勝れたりとなした。自ら卑んでは未開野蛮としたが、彼を尚んでは文明国とし、苟も碧眼にて赤髯ならんには一切無差別に之を尊敬し、崇拝し、称して優良人種優等国民と呼び、その風を移しその俗を模し、一日も早く一歩も近く、之に接し之に頼らんとは期したのであった。而して東洋固有のものといえば、千年の陶冶を経て特種の発達をした精神文明をすら之を棄てて、その棄つることの遅きを恥とし、速きを競うほどでにもなった。されば苟も本邦固有のものに執着するものは之を罵って旧弊とし因循姑息を貶し、良否無差別欧米の風を追うては文明開化と呼んだ。それが実に明治五六年から明治中年頃までの一般社会の大勢であって、上下唯陶然として西洋の文明に酔い、これが追従に盲走したのであった。
斎藤隆三 著『近世世相史概観』創元社 昭和15年刊 p.205
では具体的に誰がこのような西洋文化至上主義的な主張をしていたのだろうか。同上書には一部の名前が挙がっているが、政治家に同様な考え方の者が相当数いたことは確実だ。
明治六年洋僻家の間に創刊された『明六雑誌』には西周の『洋字を以て国語を書する論』というが登載された。率先廃刀論を称え、又新婦を迎うるに当たり、ゴットの前に夫婦の権利を明らかにして結婚式を挙げた森有禮も、これに前後して英語を以て国語とすべきの論を発表した。その他、或いは東京全市を焼払うて煉瓦石造の建築に改むるべしと唱えたるものもある。又は国法を以て日本服を全廃し、国民を挙げて洋服とすべしと説いたものもあった。明治八九年の世の中は左ほどまでに西洋を謳歌した時代であった。西洋の事情を知るものは得々として世に臨み、洋行帰りなどは一通り彼地を過ぎ来つたるばかりのものにても高官に挙げられ要地にも就き得た。世を挙げて西洋を推称し、西洋に倣わんとしたのである。
同上書 p.209~210
西洋の優れている部分だけを導入するのならわかるのだが、言葉のみならず東京の建物すべてを西洋風に造り変えてしまうというような話が、明治の初期に結構真面目に議論されていたことを知るべきである。
前回記事と同様に、「国立国会図書館デジタルコレクション」に『新聞集成明治編年史』が公開されているので、どんな記事があるのかと思って読み進むと、結構面白い記事が出ているので一部を紹介しよう。
上の記事は明治四年(1871年)五月二十三日の太政官日誌だが、「古器旧物を保存尊重せよ」と述べているが、裏を返せば多くの古いものが破壊されていたことを意味している。リストの中には刀剣や甲冑、書画、陶磁器、漆器などのほか扁額や仏像、仏具、鐘などの記載があるが、廃仏毀釈がこの時期以前から広がっていたことが見えて来る。
明治四年(1871年)と言えば七月十四日に廃藩置県が行われ、知藩事を任命されていた旧藩主は失職して東京移住を命じられ、新たに政府から県令が派遣されている。県によっては、古器旧物だけでなく文化財周辺の森や並木道など文化的景観を破壊することに熱心な県令がいたことは当時の記録を読めばわかる。『新聞集成明治編年史』には、その頃各地で文化財や文化的景観が台無しにされたことを報じる新聞・雑誌の記事が掲載されている。
明治四年(1871年)十月の「新聞雑誌一七」の記事だが、「夏は日陰をなし、冬は風雪を防ぎ、且つ其観美にして大いに旅情を慰するもの」であった東海道の松並木が、電信線を架ける目的で横浜から小田原まで伐り払われてしまい、東海道の風景が台無しになったことが書かれている。
上の画像は、ヘラルド新聞(英字新聞)の記事を明治五年(1872年)二月毎週新聞が抄訳したものである。現在の上野公園は寛永寺の敷地の一部でありそこに徳川家累代の墓もあったのだが、日本政府の命により「幾百年の古木森々と繁茂し、実に美麗の壮観」であった森の樹木を倒し、仏像を破却し、墓を他の場所に移転させる工事が行われていることを伝えている。寛永寺だけでなく芝の増上寺も破却する命令が出たことも記されているのだが、政府が推進している東京の文化遺産・自然破壊に対して、ヘラルド新聞は外国人の目で批判的に論評しているのに注目したい。
耿々美麗の墳墓を破壊するの処置は元より蕃夷の風俗にして、曾て文明の国にはあらざる所なり。実に上野を毀ち、またこの上増上寺を破却するに至りては言語に絶えたり。もはや外国人江戸を見て目を慰め膽を奪う所とてもなく、ただ大名屋敷の空邸と木造の部屋を見るのみ。且はその大名屋敷も半ば壊敗して、唯将さに衰敗を招くのみ。(中略)今将た遅きにあらざれば此論を挙て日本政府再び事を思い返し、名所破却の一挙を拒まんと欲す。
『新聞集成明治編年史. 第一卷』p.435
子供の守り神である「お地蔵さん」は、日本各地の路傍で今もよく見かけるのだが、近畿地方ではこのお地蔵さんのもとに旧暦の七月二十四日ごろ地域の子どもたちが集まる「地蔵盆」という行事がある。
明治五年(1872年)八月の郵便報知十五の記事によると、滋賀県ではこの「地蔵盆」が禁止となりあちこちの石の地蔵を取り払ったことが書かれている。
上の画像は明治五年(1872年)八月の新聞雑誌56の記事だが、京都のお布令でお盆に先祖を供養するお盆の行事の停止が命じられたとの記事である。毎年八月十六日に行われる京都四大行事の一つである五山の送り火は、この記事を普通に読むと、政府により一時的に停止された可能性が高い。
上の画像は明治六年(1873年)一月の東京日日新聞の記事だが、奈良県吉野にある金峯山寺の本堂である蔵王堂(現国宝)の蔵王権現像(現国宝)の処分に関し教部省より指令が出たことを伝えている。この記事には書かれていないが新政府は明治元年六月に吉野全山に対し蔵王権現を神号に改め、僧侶は復飾神勤せよとの通達を出していた。この通達に僧侶たちは抵抗したが、十月に神祇官は蔵王権現が仏体なら取り除けと命令を出した。しばらく膠着状態が続いたが、明治四年正月に上地令が出て山地が取り上げられ、明治五年九月には修験道廃止令が発布されていた。そして教部省は改めて蔵王権現像を取り除くことを命じたわけである。
その後、奈良県は蔵王権現像を取り除こうとしたが、あまりに巨大な像であり動かすことが出来なかったので、政府の許可を得て蔵王権現像の前に幕を張り、金峰神社の霊代として鑑をかけて幣束をたてて神社としたのだが、信者の粘り強い運動が実り明治十九年に仏教に復した経緯にある。
以前このブログで、「一度神社にされたのち寺院に戻った吉野金峯山寺」という記事を書いたが、詳しく知りたい方は参考にしていただきたい。
この記事は明治六年(1873年)一月の郵便報知三十五の記事だが、各地にある石仏や石塔などは堂宇とともに十一月二十九日を期限に一切取り除き、敷石や靴脱ぎなど有用なものにして用いよとの命令が出ている。
当時は政府の施策に対する不満が旧士族のみならず、民衆レベルでも高まって各地で騒動が起こっていたのだが、こんなささやかな庶民の信仰を奪うことに税金を使うこと以外に行政側としてもっと優先してやるべきことがあったはずだ。
上の画像は明治六年八月の新聞雑誌百三十一の記事だが、皇居を洋風建築で建て替えようとした政府に対して、米国ボストンに学ぶ留学生が明治政府の諸施策に対し次のような進言をしている。
御一新以来逐々文明開化という熱に移りけれども、学校教則未だ全く行われず、海陸兵制未だ全く備わらず、工芸技術未だ開けず、外国の条約未だ並立の権を得ず、内閣の法律未だ定立に至らず、その上内外国債逐々相増し、貧窮の下民は凍え餒ゆる者あり。実に国事多難の折柄、政府にある人々非常の名策を施すべきに、ただ今にては只々西洋外見の開化を模し、わが国の事物は皆々短なりとし、彼国の事物は皆長なりとし、是非長短の区別なく何物にても西洋より御借り用い相成り、兼て御触出しの彼の長を取り我が短を補うの御趣意も少々消え失せたりと見ゆ。(中略)今日人民一般の要務を捨て置き、皇宮を建てる西洋風を模し二百万円を費やすは、事の前後物の緩急を失う。素より政府は人民の為に立ち人民は政府の為に設けたるにあらず、全国の富強は人民の富強にあり、人民貧しくして、政府のみ決して富むべき理なし。
『新聞集成明治編年史. 第二卷』p.67
この様な正論が新聞に掲載されたにも関わらず、明治政府による欧化政策はその後も続いたのだが、その目的はどこにあったのか。その点については次回に書くこととしたい。
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イスラム教は七世紀にマホメットが創始した宗教で「マホメット教」と呼ばれることもあるが、漢字圏では古くから「回教」あるいは「回々教」と呼ばれて来た。わが国では最近では「イスラム教」と呼ばれることが最も多く、「回教」と呼ばれることは少なくなっているのだが、昭和の初期に於いては「イスラム教」よりも、「回教」あるいは「回々教」と呼ぶことの方が多かったようである。
このイスラム教について出版された本でGHQにより焚書処分されたものが八点存在するのだが、いったい何が書かれているのだろうか。
日本人はイスラム教のことを詳しく学ぶ機会はほとんどなかったのだが、イスラム教徒の移民が増えて各地で様々な問題が起こっているわが国の現状を考慮すると、もう少しこの宗教のことを知る必要がありそうだ。笠間杲雄 著『大東亜の回教徒』の冒頭にある「回教概説」は非常に判りやすく書かれているのでお勧めしたい。
イスラム教もキリスト教も一神教であり、神様は一人しかいないと考え、さらに偶像崇拝を禁止していることは知っている人が多いと思うのだが、では「偶像排斥」の徹底ぶりがそれぞれがどの程度であるかを知ることは重要である。
…マホメット教の神様もキリスト教の神様も、だいたい同じ宇宙を主宰する神様であるが、両方とも非常にやきもち焼きであって、マホメット教のアラーの神様は、他の神様を信じたり拝んだりすることを絶対に斥けるのである。もちろんキリスト教の神様も同じであるが、マホメット教徒はそれを徹底的に守っている。それは偶像排斥という顕著なる形になって現れているのである。
マホメット教の御寺には絵画も彫刻もなく飾りとなるべき何ものもない。御寺の柱にアラビア語でお経の文句を綺麗に書いて装飾的に掲げたものがあるが、マホメットの像などは勿論ない。キリスト教教会では十字架上のイエスを主とし、十二使徒の像とか、キリストを抱いたマリアの像とか、あるいはキリスト復活の時のお棺を掘っている絵だとかが飾ってあるが、これらは見方によっては偶像に近いものである。仏教も本来偶像排斥であるが、異教徒などが日本等の仏教のお寺を見てこれは偶像崇拝教だと誤解する者がある。日本人は決して「木」や「石」そのものを拝んでいるのではない。西洋人のこんな観察は浅い見方であって、日本人は木や石を通じて本当の仏様を拝んでいるのである。表面に現れている形だけを見ればなるほど偶像であるが、仏様を拝む日本人の心意を彼らは掴めぬのである。もし彼らが、なお仏教を偶像崇拝だと言うならば、キリスト教、特に旧教において、教徒の婦人の乳が出ない時には、マリアの像の乳房に接吻すればよいとか、足が痛む時はキリストの像の足に接吻すれば痛みが止まるとかいう事は完全なる偶像崇拝である筈である。しかしマホメット教は極端な偶像排斥であって、マホメット自身の像すらどこへ行っても見当たらないのである。また彫刻にも絵にもその姿がない。もしマホメットの像を画いたものがあるとすれば、それは後世のマホメット教とはマホメットの姿を知らないし、教徒はまた想像によって教祖の像を描いてはいけないことになっている。ガブリエルという天使がマホメットを伴れて、メッカからエルサレムまで空中飛行を行っている写し絵を時々発見するが、これらは教徒でない者が、芸術的興味から筆を執っていることが明らかである。マホメット教はある意味においては音楽する禁じているばあいがあった。従ってイスラムには回教音楽はない。アラビア民族の文化の中には音楽があり、そのほか、回教民族にはイラン人の如き音楽芸術の天分豊かなものもあるので、普通一般には回教音楽と称されているが、それは仏教音楽とか、キリスト教音楽とか称する意味のものではない。強いて言えば、回教は本来ある程度まで芸術には反対の宗教と言えないことはないのである。キリスト教でいえば、教会に音楽を入れない「クエイカー」(友会)、いわゆる「フレンド」教徒と同様である。ゆえに民族としては芸術心があり、芸術を持っているが、マホメット教としての現われ方に於いては芸術がないのである。しかし学問は非常に発達していて、むしろ回教は芸能を抑えて学問を奨励したのである。
笠間杲雄 著『大東亜の回教徒』六興商会出版部 昭和18年刊 p.13~15
拙著に書いたが、十六世紀に来日したイエズス会のルイス・フロイスの記録には、宣教師らが領主や信者を教唆して、寺を放火させたり仏像を破壊させたことが詳しく記されている。当時において仏像などを破壊する行為はイエズス会宣教師達にとっては正しい行いでありそのためにわが国では多くの寺院が襲われたのだが、一方当時のヨーロッパにおいては「偶像崇拝禁止」は必ずしも守られておらず、キリスト教布教拡大のために大教会に壁画が描かれたり、キリストやマリアの像が彫られるなどしていて、そのための資金作りに免罪符が売られたりしていた。マルティン・ルターは矛盾だらけのローマ教会に抗議して宗教改革を起こし、聖書の原点に戻りカトリック(旧教)と袂を分かつこととなる。
このような経緯から、カトリックでは今も偶像崇拝が継続しており、プロテスタントでは偶像崇拝が禁止されていて教会では宗教画が描かれていないのだが、イスラム教の場合はさらに徹底して偶像排斥が行われ、異教徒の文化財を破壊する事件が起こっている。
アフガニスタンの山岳地帯にあるバーミヤン渓谷にユネスコの世界文化遺産に登録されていた石仏や仏教画などの大半が、2001年にタリバン政権の手によって爆破されたことは記憶に新しい。
わが国は労働力不足を理由に移民を受け入れることは理解できるが、他国並みに厳しい基準を設けておかないととんでもないことになるだろう。法律も整備されていない状況で大量の外国人移民を推進しては、いずれ日本の地域の伝統文化や貴重な文化財の多くが失われることになるのではないだろうか。
わが国は移民を推進する前に、日本人の若い人々が安心して結婚し子供を育てることの出来る環境を整えることが重要であり、子育て世帯の収入増と扶養控除額の引き上げによる大幅な減税策が必要だと思う。
当時のわが国では、「回教」について様々な解説書が存在していたようだが、その多くは偏った内容であったようなのである。武藤欽著『回々教大観』の序文に、著者は次のように書いている。
本書は回教に関する常識の書である。
回教における我々の常識は、今日もなおヨーロッパ的解義によって歪曲されている。これは一日も早く修正されねばならない。回教を制するものは世界を制すとは、千古を貫く至言である。今や世界の宗教界は、キリスト教と仏教と回教に三分されその勢力もまたほぼ同列の程度に於いて鼎立するが、東西の列強中、回教を傘下に迎え、これと同胞至親の関係に立ち得るものは果たしていずれであろうか。
武藤欽著『回々教大観』日本女子美術学校出版部 昭和17年刊 p.5
当時わが国は「大東亜共栄圏」の建設を目指して大東亜戦争を戦っていたのだが、「大東亜」の大半はアジアであり、回教徒のほとんどはこの「共栄圏」の中で暮らしていた。著者は「回教を知らずして大東亜建設など論議してはならない」と述べているのだが、その通りだと思う。
著者は、ヨーロッパ人によって過去何度も回教地帯に大紛争が仕掛けられてきたことを述べているが、ここでは第一次世界大戦について解説されている部分を紹介したい。
世界大戦の重大根拠は、ヨーロッパ人の過剰な優越感、即ち例のヨーロッパ人のみを以て、地球上最高の民族とする彼らの錯誤にありとすべきであるが、これはあまりに抽象論におちる。
史家はわれわれに教える。曰く、第一次世界大戦の原因は、ボスニアの主婦、サラエボに突発した事件――セルビアの青年によって放たれた銃弾と、それによるオーストリア皇太子夫妻の惨死にありと。これは申すまでもなく正しい。されどわれわれは更にこれを掘り下げて考えて見ねばならぬ。…中略…ただセルビアの一青年の一発の銃声が第一次世界大戦の原因だと教えられても合点は参り兼ね、これには常識以上の「謎の幻影」が残されるわけである。こういえば例の戦争製造者たちは怫然色をなしていうだろう。これら各国の世界大戦加担の理由はその宣戦の書に尽くしてあると。だか、それは戦争に加担せんがための宣戦の書で、戦争製造業者の商売宣伝の主意書に外ならない。多少筋道は通って居るとしても、それは下世話にいう泥棒にも三分の理の類でしかない。
世界大戦の原因がややくどくなったようにも思うが、これは特に回教の興亡に関係が深いからなお少々の御辛抱を願う。さて「謎の幻影」は何か。最も端的にいえば、これは「オスマン帝国分割の幻影」である。世界大戦の原因は、セルビアの救援でもなく、小国独立、民族解放の提灯持ちなど生易しいものではなかったのだ。即ち第一次世界大戦は、瀕死の病人トルコの分割奪取、さらに言えば回教宗主国――世界に三億以上の根を張る回教徒の指導者(事実は必ずしもそうではなかったが)トルコ帝国の戦略的優位と、その宝庫とを寸断掠奪せんとするにあったのである。
同上書 p.92~96
学生時代に、サラエボでオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻がセルビアの青年に暗殺されたことで、オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告したことで始まったことを学んだのだが、なぜサラエボ事件から世界規模の戦争になったのかが良く理解できなかった。
オーストリア=ハンガリーと同盟関係にあったドイツと、ドイツと同盟を結んでいたオスマン帝国が中央同盟国側に参戦し、イギリス、フランス、ロシア、イタリア等が連合国側で戦ったのだが、これだけの国々がセルビアの為に戦ったのは、大戦勝利後のトルコの分割の分け前を狙っていたからだという。しかしながらトルコは愛国国民軍を組織し連合国軍と勇敢に戦い、彼らを撤退させて最小限の領土を確保した。
ケマル・アタチュルクの英雄的行動と、これを援助したロシアとによって、回教国トルコは曲がりなりにも最小限の領土を保ち、再生復興の道を発見したのであったが、エジプトは、シリアは、パレスチナは、その地中海に面するトルコ領土は、それぞれ英、仏等に奪取され、ここに居住する多くの人々はオスマントルコの専制時代よりも更に悪い条件の下に置かれたのである。だが、かれらの民族解放の熱意は、この後彼らの流した数斛の鮮血によってついには戦いとることに成功した…
同上書 p.98
中東の歴史は欧米に都合よく書かれた歴史では非常にわかりにくいものだが、回教国の視点から学ぶことも必要だと思う。このような視点で書かれた本がGHQによって焚書処分されているという事も興味深い。
以前このブログでGHQ焚書の『英国スパイ五百年史』を紹介させていただいたが、その本にはサラエボ事件は「英国秘密諜報部が蔭で糸を引いていたことは間違いない事実」と書いている。イギリスが他国にスパイを送り込んでは分断を仕掛け、紛争を起こさせて弱体化させてきた史実を知らなければ、本当の歴史を理解したことにならないのだと思う。
GHQ焚書リストかの中から、本のタイトルにイスラム教と関連のある用語を含む本を抽出して、タイトルの五十音順に並べてみた。
分類欄で「〇」と表示されている書籍は、誰でもネットで読むことが可能。「△」と表示されている書籍は、「国立国会図書館デジタルコレクション」の送信サービス(無料)を申し込むことにより、ネットで読むことが可能となる。
タイトル | 著者・編者 | 出版社 | 分類 | 国立国会図書館デジタルコレクションURL 〇:ネット公開 △:送信サービス手続き要 ×:国立国会図書館限定公開 |
出版年 | 備考 |
印度の回教徒 | 小川亮作 | 地人書館 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040057 | 昭和18 | |
概観回教圏 | 回教圏研究所 編 | 誠文堂新光社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1444937 | 昭和17 | |
回教の歴史と現状 | 加藤 久 | 大阪屋号書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1914320 | 昭和16 | |
回教民族運動史 | 陳捷 中山一三訳 | 照文館 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1045101 | 昭和18 | |
大東亜回教発展史 | 櫻井 匡 | 三省堂 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040064 | 昭和18 | |
大東亜の回教徒 | 笠間杲雄 | 六興商会出版部 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040049 | 昭和18 | 太平洋図書館 |
日本精神と回教 | 原 正男 | 誠美書閣 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1914220 | 昭和16 | |
回々教大観 | 武藤 欽 | 日本女子美術学校出版部 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1914533 | 昭和17 |
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文芸評論家の高須梅渓が大正九年に上梓した『明治大正五十三年史論』に、廃藩置県以降の政治について次のように記している。
廃藩置県後における政府の事業は、復古的、保守的よりも、むしろ革新的、進歩的の色彩を多量に帯びていた。祭政一致主義や、神祇官を儲け、官制を大化革新の昔に擬したのは、主として、反動的作用と一部の国粋的、尊皇的思想に胚胎したもので、その勢力、影響はむしろ一時的であった。これに反して、革新的、進歩的の事業は、大正の今日に至るまでも影響し、持続しているのである。
然らば、当時に於ける革新的、進歩的の仕事をした精神、思想は何であったかと言えば、主として近代欧米の文化的勢力に対抗するために、没反省的に発生した欧化主義的実利思想であった。当時の先覚者もしくは少壮気鋭の進歩主義は、わが国における固有の文化と特徴を自省するよりも、一意欧米の文化に心酔して、その思想、文物を輸入することをもって最善の急務としたのである。而して、それは何をおいても、実利という標準から離れることが出来なかった。
今日から見れば、其の皮相浅薄は、笑うべきものであるが、急激に欧米文化の圧力に対抗するに足るべき武力と富力とを得んと焦慮した。当時にあっては、欧米文化の断片を早呑み込みして、直ちに、革新に資するということが、極めて必要で、その皮相浅薄を顧る遑がなかったのである。ことに彼らが、新文化の輸入について、俗衆の無智と戦い、財政の窮乏と戦い、頑迷な保守主義者と戦って、一生懸命に、その新しい仕事を進めて至った熱心と努力とは、日本文化の進展を助長すべき一個の柱礎となったのである。
高須梅渓『明治大正五十三年史論』日本評論社 大正九年刊 p.99~101
とにかく早急に国力を高めようとして西欧技術や文化を盲目的に受け入れ、急激に洋風化が進められていったのだが、そのために各地でわが国の重要な文化財が失われる危機が訪れることとなる。
明治政府の『文明開化』の実態について、歴史学者・徳重浅吉は自著でこう述べている。
明治の初年は旧習一洗・欧米文物輸入の時代であって…在来のものはすべて旧弊陋習・古薬鑵と軽しめられて、欧風開明・舶来のものに限るように考えられ、それらが御一新の名によって嵐の如く旧物を破壊し尽くしたかの観さえあるのであるが、それこそは実に此の実利主義と表裏相即している精神に原因しているのであった。換言すれば旧弊陋習と断定せられる標準は、最も以て無用無益、実利なしという点にあったのである。
例えば明治三年のように、かつての勅願によって敬造せられ、千有瀚年間朝野の尊信を捧げられてきた奈良大仏を、県令海江田信義等が破却せんとしたのは、之を鋳潰して銅銭にせばやという計画であり、それ故にそれでは奈良三万の住民が将来永く衣食の途を失うと聞かされてすぐに思いとどまった。また明治三年東京府が上野の森を伐り不忍池を埋立てんとて丈量し計画を立てたが、それも茶と桑を植えて産物を増やそうとしたのであり、五年奈良嫩草山を開かんとしたのも同様であった。甚だしきは七年には宮城の外濠を埋め数万件の地面に桑・茶・椿を植うべしと論じたものもある。
徳重浅吉『日本文化史の研究』昭和13年刊 p.368
海江田信義は旧薩摩藩の出身だが、以前このブログで書いたように、薩摩藩は幕末期に藩内に千六十六存在していたすべての寺院を破壊し、梵鐘などは溶かして武器を造ったり天保通宝を密鋳していたのだが、このような史実は明治以降の長きにわたり封印されて来たと言って良い。海江田は明治三年八月から一年三ヶ月程奈良県知事を務め、彼が知事在任中に薩摩藩がやって来たのと同様に、東大寺の大仏を溶かして銅銭を造ろうと計画したのだが、反対にあったために思いとどまったとある。当時の東大寺大仏殿は屋根が歪んでおり、修理が必要な状態であったのだが、この文化財を残すのに大変な苦労があったのだ。
明治政府は西洋の学問を国民に広く学ばせようとし、そのために多くの学校を設立した。その土地や建設費の捻出のために、目をつけられたのが寺院であったという。
森本和男著『文化財の社会史』にはこう記されている。
仏像や仏具を無用の長物と見なし、それを公共のために売却しようとする意見も出された。1873年(明治六年)に神奈川県横浜在住の土志田周作は、仏具を売って基金を作り、その利子を公共目的に出資すべきだという建白書を、集議院に提出した。彼は寺院の仏像、仏具を皇天(国家)の所有物と考えて、全国二十九万六千余ヶ所の寺院を三分の一に減らし、無用となった仏像、仏具を売却して、代金の利子でもって、道路堰堤の築造、あるいは飢饉凶年の時の救荒など、人々の危急の用に充てるように建言した。実際には、小学校の設立に際して、寺院を学校の施設にしたり、あるいは仏像、仏具を売却して、設立資金にすることがしばしば起きた。
1872年(明治五年)八月に学制が制定され、学区制がしかれるとともに就学が奨励された。全国を八大学区、一大学区を三十二中学区、一中学区を二百十小学区に分け、多数の学校が設立された。現実には、学校設立は地元負担となり、校地や建物、資金を地元で準備しなければならなかった。結局地元負担への反発もあって、七年には学制は廃止となり、新たに教育令が制定された。この地元負担となった小学校設立に関して、確固たる建物や予算のないままに強行されたので、寺院や仏像・仏具を無用の長物と見なして、学校設立に充当する動きが生じ、それが廃仏毀釈とも結びついた。
森本和男著『文化財の社会史』彩流社2010年刊 p.44
「国立公文書館デジタルアーカイブ」で土志田周作の建白書を読むことが出来るが、原文が漢文なので私の読解力ではアバウトな意味しか分からない。建白書には全国二十九万六千余ヶ所の寺院を三分の一にすべきと書かれているのだが、江戸時代の寺院数がどの程度あったかについては諸説がある。文春新書『仏教抹殺』には「江戸時代、寺院の数は人口三千万人に対し、九万ヶ寺もあった。それが廃仏毀釈によって、わずか数年間で四万五千ヶ寺にまで半減した。それが現在七万七千ヶ寺(人口一億三千万人)にまで戻している」(p.243)とある。この数字の根拠についても不明でどちらの数字が正しいのかは判断できないが、いずれにせよ明治維新期には人口からして多すぎる寺が存在し、政府や地方の要職には「寺は無用の長物」とし、その跡地や仏像などの金属を有効に活用すべきであると考える人が少なからずいたことについては確かなことである。この時期に廃仏毀釈で多くの文化財を失ったのは、このような考え方を持つ者が多数、国や地方の行政に携わっていたことが大きかったと考えている。
明治初期において政府は『文明開化』という耳触りの良い言葉を用い、わが国の風習や宗教や文化等の多くを否定して、西洋の制度や文化等をあらゆる分野で取り入れようとしたのだが、その反発は地方によってはかなり激しかったようである。『新聞集成明治編年史. 第二卷』に明治六年三月二十八日の東京日日新聞の記事が掲載されていて、それによると敦賀県(現在の福井県)で大規模な一揆が起こったことを報じている。いわゆる越前護法大一揆である。
この一揆は浄土真宗の信徒の多い地域で三万人近くが参加したもので、これだけ大規模なものとなった原因については、同上の東京日日新聞の記事で次のように解説されている。
この一揆の名とする者は、耶蘇宗拒絶の事、真宗説法再興の事、学校に洋文を廃する事、此の三ヶ条にして、其頑民共唱うる所の者は、朝廷耶蘇教を好み、断髪洋服は耶蘇の俗なり、三条の教則は耶蘇の教なり、学校の洋文は耶蘇の文なりと。其他地券を厭棄、諸簿冊悉灰燼とし、新暦を奉ぜず旧暦を固守し、喋々浮説妄誕を唱え、兎に角旧見古態を脱せず。…是併ながら、大野一郡のみにもあらず、吉田丹生、今立の三郡へ波及蔓延、竟には挙国沸擾の形成これあり、不容易大事件、兵力を備えて鎮圧せざるを得ず。…
『新聞集成明治編年史. 第二卷』p.22
少し補足すると、「三条の教則」とは、明治政府が定めた国民教化の教条で、
①敬神愛国の旨を体すべきこと、②天理人道を明らかにすべきこと、③皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむべきこと、の三条を指している。
『耶蘇』とは「キリスト教」の意味で用いられることが多いのだが、ここでは明治政府が矢継ぎ早に出してきた欧化政策全般を指していると理解して良い。福井の人々は政府の神仏分離などの宗教施策も欧化政策の一環と捉え、信仰を中心とする伝統的生活を守るために立ち上がったのである。
この越前護法一揆については以前このブログで書いたので、参考にしていただければありがたい。またこの事件については福井県のHPに『福井県史』が公開されており、その第一章第一節第五項「越前真宗門徒の大決起」に詳細が書かれているので興味のある方は一読されることをお薦めしたい。
新聞では越前の一揆については否定的な内容になっているのだが、当時の政府が『文明開化』をスローガンとして推進していたことのなかには、旧来の伝統文化の破壊とも呼ぶべきものが少なからずあり、地域によっては庶民の抵抗が強かった。明治以降の歴史叙述は、薩摩藩や長州藩にとって都合の悪い史実の多くが封印されていることを知るべきである。
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GHQ焚書の中でキリスト教に関係する本は決して多くはないのだが、いずれの本も戦後の史書には書かれていないような情報が満載で、戦後に出回っている史書とは全く異なる視点を提供してくれる。
例えば『支那事変とローマ教皇庁』という本には、結構興味深いことが記されている。
ちなみに、文中の「ピウス十一世」はミラノ大司教を経て1922年にローマ教皇に選出された人物で、19世紀以来断絶関係にあったイタリア王国との関係を修復し、イタリア政府にバチカンを独立国として認めさせたり、バチカンの絵画館、ラジオ局、ローマ教皇庁科学アカデミーを創設した人物である。また「支那事変」というのは、昭和12年(1937年)の盧溝橋事件を発端とする大日本帝国と中華民国との間の武力衝突を指し、当初は「北支事変」と呼びその後「支那事変」と呼んだが、戦後になって「日華事変」と呼称が変更され、後にこの戦いは日本の中国に対する侵略であるとの認識が広まり、1970年代から「日中戦争」と呼ばれるようになった。今日では第二次世界大戦の開戦責任がわが国にあるかのように論じられることが大半なのだが、当時の世界の論調は必ずしもそうではなかったし、そもそもローマ教皇が日本を支持したのである。この重要な事実が、戦後の長きにわたりタブー扱いにされてきた。ではなぜローマ教皇が日本を支持したのであろうか。
同書の序文に、著者の岡延右衛門は次のように述べている。
支那事変に関して、欧米諸列強が、その政治上の理由から、ややもすれば支那側に加担するが如き態度に出で、これが為に、好むと好まざるに拘わらず、ソ連の赤化政策を援けるが如き結果を招来しつつあることは、「赤化防止の聖戦」を敢行しつつあるわが国民の、最も遺憾とするところである。
しかるに世界に四億の信徒を有し、カトリック教会の頭首として、偉大なる精神的勢力を有するローマ教皇ピウス十一世が「極東の防共聖戦に協力すべし」との指令を発したとの噂が、全世界に絶大なる反響を呼び起こし、対日世論を好転せしむる役割を演じたことは、蔽い難き事実である。
その指令は、非公式を以て為されたとも言われ、或いはその噂は打ち消されたとも言われているが、共産主義の絶対的排撃は、ローマ教皇庁の万古不易の鉄則である。されば、今回の指令発表の有無を詮議することは寧ろ第二義的の事であるから、本書に於いてはその噂に対する世界的反響が如何に甚大なものであったかを紹介するに止め、ローマ教皇庁が一世紀間の長きに亘って、倦まず撓まず精神的に、防共の聖戦を、戦い続けた事実を強調せんとするものである。
なお、ローマ教皇庁の防共に対する態度が、かくの如きものである必然の結果として、ローマ教皇を信仰上の頭首とする日本のカトリック教徒が、全身全霊を挙げてわが大日本帝国の尊き使命たる「防共の聖戦」に協力しつつある事実、及び世界のカトリック教徒が、同様の立場から精神的に日本の「防共の聖戦」を支援しつつある実状を紹介し、併せて、ローマ教皇庁の組織、国際上に於ける地位、現教皇ピウス十一世の人となり及び厳粛を極める教皇の選挙などについて紹介するのが、本書の目的である。…
岡延右衛門 著『支那事変とローマ教皇庁』栄光社 昭和12年刊 序文
ローマ教皇のこの指令が全世界に大きな影響を与えたことは言うまでもなく、特に対日経済ボイコットが相次いで行われていたアメリカでは、カトリック教徒が団結して日本を支持し米国内の反日運動を排撃したことの影響は大きかったようだ。
またわが国には当時二十六万のカトリック信徒がいたのだが、支那事変勃発後に東京大司教主催のもとに「皇軍武運長久祈願祭」が催されて、その趣意書には「共産主義と氷炭相容れない我がカトリック教会は、従来の反共戦線を一層強化して帝国の声明を支持し、もって現下の時局に対処せんとするものである。」と記されている。さらに著者は次のように記している。
カトリックと共産主義は、絶対に氷炭相容れざるものである。わが光輝ある国体と共産主義思想が永久に相容れざることもまた絶対である。二つの「絶対」がカチ合ったのだ。日本のカトリックが全身全霊を挙げて、或いは戦場に於いて、或いは銃後に在って「防共」の聖戦を戦い抜きつつあるあるのは当然である。
然らば、銃後に在る日本のカトリック信徒は何を為しつつあるか、と言えば、各信者はまずその信仰に従い、日本の防共聖戦が完全なる勝利を獲んことを朝夕祈る外、各協会に於いて公に皇軍の武運長久の祈願祭を行い、教区または教会を単位として、或いはカトリックの機関紙の発行所たる「日本カトリック新聞社」が主催して、国防資金、皇軍慰問資金等を募集して献金し、個人としては駐日ローマ教皇施設パウロ・マレラ大司教を始め、宣教師たるとを問わず、また国籍の如何を問わず、率先して献金しつつあるのである。
カトリックの精神総動員は、その防共の精神がその信仰に根強く根底せるだけに、最高度に迄昂揚せらりつつあり、この種の精神運動は、日本カトリックの発祥の地たる長崎教区内に於いては、特に盛んに行われつつある。
同上書 p.19~20
ローマ教皇が日本を支持したことは当時の新聞でも大きく報じられている。「神戸大学新聞記事文庫」では見つからなかったが『新聞集成昭和史の証言 第11巻』に昭和12年10月16日付の国民新聞の記事が掲載されている。
ローマ教会がわが国を支持したのは支那事変の時だけではなく、満州事変後におけるわが軍の行動についても強く支持し、満州国の成立についてローマ教皇が承認したということを以前このブログで採り上げたことがある。この事実も戦後の歴史叙述からはほとんどタブー扱いにされているのだが、『満州帝国とカトリック教』という本によると、満州で布教に従事していたカトリック教会は、昭和六年九月に満州事変が起こり、その約一ヶ月後に世界各地の教会に対して日本軍の駐在を要望する運動をはじめようとしていたことがわかる。
昭和六年「十月二十三日発電通」として二十四日東京朝日新聞に掲載された「満州カトリック本部はわが軍の駐在を要望、世界各地の教会に実状報告」なる標題のもとに…記事をかかげているのを見ても判るのである。その記事の内容は
「奉天にあるフランスのカトリック教満州伝道本部は,満州事変発生以来満州各地に散在するカトリック教会及び伝道支部から引き続き来たる支那良民の被害状況等の報告に驚き、満州三千萬民衆の安泰のため、一日も早く平和の日の来たらんことを希望していたが、最近の報告はますます悪化を示し、馬賊に化しさった支那官兵は、支那良民に対して掠奪暴行をなし、これに応ぜざる者に対しては殺害または放火する等暴虐の限りを尽くし、自分等は目のあたり生き地獄を見せつけられている。これら良民にとってただ一つの頼みは、日本軍が馬賊討伐に来てくれることであって、人類愛に富む日本兵は支那良民の感謝の的となっている。もし日本軍が現駐地を撤退するならば、満州各地は混乱の巷と化し去るであろう、と日本軍の行動を非常に礼讃しており、中には国際連盟を動かして日本軍の増兵を斡旋せられたき旨依頼して来るものもあるので、カトリック教満州伝道本部は、近く世界各地の教会に対し、支那兵及び馬賊によって荒らされた満州の実情を報告し、人道上日本軍の永久駐在を主張する運動をおこすこととなった。」
というのである。これはわが国が満州国を承認する満一ヶ年前の記事であることは特に注目すべきところである。
田口芳五郎 著『満州帝国とカトリック教』カトリック中央出版部 昭和10年刊 p.27~28
もともと支那には確固たる中央政府は存在せず、特に満州では騎馬の機動力を生かして荒らしまわる盗賊団(馬賊)が跋扈していたのだが、そういう連中が傭兵として支那兵に入り込み、あるいは除隊されて馬賊になるなどして悪事を繰り返していた。彼等に対して支那の警察は無力であり、カトリック信者にも馬賊の襲撃による犠牲者がかなり出ていたのだが、日本軍が満州事変の後に駐留することでようやく治安が正常化したのだ。もし日本軍が撤退すれば、いずれ元の不法地帯に戻ってしまうことを多くの支那良民が危惧していたからこそ、満州のカトリック教会は日本軍の永久駐在を強く望んだわけである。
日本が現在満州にあることは、満州住民の唯一の安全保障であるのである。したがって、全盛期のタイ・ヒン及びボクサーの臭味を有する暴虐なる馬賊横行する混乱状態にある今日の支那に於いて、十八省の支那植民は、大群をなして秩序と繁栄との創始者たる日本の保護の下に、安楽と平和を得んために、この地に来たりつつあるのである。
同上書 p.31
1932年3月に成立した満州国を最初に国家承認したのはわが国だが、1934年4月にローマ教皇庁も承認し、その後ドイツ、ポーランド、ハンガリーなど合計23ヶ国が満州国を承認した。満州国成立を通告した相手国は日本を除くと71ヶ国であったが、そのうちの約三割が満州国を承認したことになる。当時の世界はアジア、アフリカ、オセアニアのほとんどの国が欧米列強の植民地であり、当時の世界の独立国の内約三割が満州国を承認したことの意味は大きい。満州国を承認した国の中には、日本と直接利害関係のなかった北欧・東欧・中南米の諸国が含まれる事実は重要なのだが、このような史実は、「満州国」を日本の「傀儡国」だとする歴史観を維持したい勢力には余程不都合なのであろう。戦後刊行された一般的な歴史解説書では、このことがしっかり記されている本はほとんど存在しないといって良い。
GHQ焚書リストかの中から、本のタイトルに「キリスト(基督)」「カトリック」「教皇」「十字」などキリスト教に関連する用語を含む本を抽出して、タイトルの五十音順に並べてみた。
エス・ニールスの『不法の秘密 反基督の印章』は「ユダヤ議定書. 第2篇」として出版されたもので、「ユダヤ議定書. 第1篇」の『世界転覆の大陰謀』の続編である。GHQ焚書処分を受けたのは第2篇のみなのだが、「ユダヤ陰謀の核心」と訳者が序文で述べているような本が焚書処分されていることは興味深い。
分類欄で「〇」と表示されている書籍は、誰でもネットで読むことが可能。「△」と表示されている書籍は、「国立国会図書館デジタルコレクション」の送信サービス(無料)を申し込むことにより、ネットで読むことが可能となる。
タイトル | 著者・編者 | 出版社 | 分類 | 国立国会図書館デジタルコレクションURL 〇:ネット公開 △:送信サービス手続き要 ×:国立国会図書館限定公開 |
出版年 | 備考 |
国体と基督教 | 大谷美隆 | 基督教出版社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1685332 | 昭和14 | |
支那事変とローマ教皇庁 | 岡延右衛門 | 栄光社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1091870 | 昭和12 | |
日本精神と基督教 | 藤原藤男 | ともしび社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1112489 | 昭和15 | |
反共十字軍 独ソ戦の真相とその経過 |
原田瓊生 | 日独出版協会 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1460179 | 昭和17 | |
不法の秘密 反基督の印章 | エス・ニールス | 破邪顕正社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1121670 | 昭和18 | ユダヤ議定書. 第2篇 |
満州帝国とカトリック教 | 田口芳五郎 | カトリック中央出版部 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1214306 | 昭和10 |
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江戸時代の日本人は、髪を結い和服を着て下駄や草履を履くのが当たり前であったのだが、それが急激に洋装に変化していったのが明治の初期のことである。
和装のままでも生活に支障があわけではなかったと思うのだが、周囲の人々の洋装化が進んでいくと、誰しも洋服や革靴が欲しくなるのは仕方がないだろう。しかしながら服装の組み合わせというものは、和洋折衷では決して見栄えの良いものではない。
上の画像は坂本龍馬だが、よく見ると靴を履いている。見慣れていないからそう感じるのかもしれないが、和服に革靴は似合わないように思う。
上の画像は明治四年の岩倉使節団で、中央の岩倉具視も和服で靴を履いているのだが、和服にはやはり下駄や草履がよく似合うと思う。
逆に、洋服を着て下駄・草履を履くのも似合ず、ちょんまげをして背広を着るのもおかしいと誰でも思うのではないか。
過渡期に於いては服装の一部が和洋折衷となることは仕方がなかったと思うのだが、組み合わせによっては全く似合わずに滑稽に見えるのは明治の人々にとっても同様であったようである。
前回記事で紹介させていただいた石井研堂著『明治事物起原』に、文明開化時期のおかしな男女のスタイルが明治五年(1872年)の雑誌の記事になったことが紹介されているので引用したい。
明治五六年頃は、和洋両様の混戦時代なりき。五年冬版〔雑誌〕七十号に掲げる、府下当時の異風変態と題する記事によれば、
切下髪にて洋服足駄を着る者、散髪にて直垂帯刀洋沓を穿つ者、剃髪にて洋服する者、ヘッつい頭にてバッチ洋沓を穿つ者、長髷にて月代を舒し仕合道具を持つ者、野郎つき込鬢にて股脚を露わす者、散髪にて書生羽織を着る者、半パッにてかごを舁く者、ジャンギリ髪にて鳶服を着、蝙蝠傘を持つ女、着袴乗馬の女、茶せんまげにて洋服の女、着袴洋書を脇ばさむ少女等を出せり。また六年三月版同誌に、府下当節見聞の儘として記す所によれば、
府下四民を合して、七分半髪三分斬髪、商人職人の斬髪日に多し、途中なお半髪割羽織帯刀着袴の者あり。夫人の斬髪大に減ず。
とあり。随分混雑の時代というべきなり。
石井研堂著『明治事物起原』明治41年刊 p.13~14
一部意味不明なものがあるが、「異風変態」と題された記事なので、明治の人々にとってもおかしいと思われた出で立ちで街を歩く人が存在したようである。
上から下まで洋装なり和装で統一すれば何の問題もないのだが、当時において洋服や靴は庶民にとって高価なものであり、上から下まで総て洋装で揃えることの出費は結構厳しかったと思われる。そのため、勤労者の身なりが洋風で落ち着くようになるまでには結構な年月が必要であった。
上の画像は幕末期に記者として来日し、当時の日本のさまざまな様子や事件、風俗などを描き残した英国人画家チャールス・ワーグマンの作品だが、洋服を買う前にまず靴から調える人が多かったのではなかったか。
『明治事物起原』には、公務員や職工や学生の少なからずが和洋折衷の服装をしていたという明治五年の記事が紹介されている。
方今(五年五月)外国人警衛の別手組なる者の形容いぶかしきこと甚だ多し。頭は因循姑息の大髷にして、元亀天正以来伝家の陣笠を戴き、古びたる義経袴並びに燕尾服のいかつめらしきを着し、馬具は日本古代の器にて重藤の鞭を揮い、垢じみたる手綱をかいとり、洋人の跡に付き乗行きしは、実に気の毒なるさまなり。〔雑誌四十五号〕
現今尚、洋服を着け、足駄をはき、蛇の目傘をさせる学生職工小役人少なからず、女学校生徒の、つつ袖に袴を着けたるは常の風俗なり。和洋大に混淆し、後始めて帰着する所あるべきなり。
同上書 p.71~72
このような新旧ファッションの混乱の問題は、わが国だけに限らず、洋服を着る習慣がなかった国が洋風化を受け入れた場合には、その過渡期に於いて同様なことが起きたものと考えられる。
かつて日本男児にとって丁髷はかけがえのないものであったと思うのだが、外国人にとっては非常に滑稽なものとして目に映ったようである。同上書に、幕臣であった澤太郎左衛門が幕末期にオランダ留学した時の体験談が紹介されている。
文久二年九月、開陽丸の注文と留学のために、榎本釜次郎、澤太郎左衛門、内田恒次郎等、オランダ国に渡る。当時、頭様も野郎あたまなりしかば、元結びん付油などを、沢山持ち参りき。初め、留学中といえども、決して風俗を変ずべからずと、幕府の約束ありしかば、衣服髪容を変えざりしが、市上に出ずる毎に、見物人に冷罵嘲笑せらるるに困り、衣服だけは洋服を着くることにせしも、何時召還に逢うや知れざれば、斬髪のみは断行しがたく、纔に、帽子にて結髪を掩い隠し居たりき。…ある時の如き、芝居に入りしに、見物皆脱帽なれば、思わず脱帽せるに、見物一同、其まげを見てドッと騒ぎ立ちしかば、居たまらずして、狐鼠々々芝居より出でしこともありきという。(旧幕府、澤氏演説摘要)
同上書 p.5~6
澤太郎左衛門らの場合は、徳川幕府からの約束があったために丁髷を切らなかったのだが、明治元年に英国留学から帰国した中村敬輔、林菫、箕作奎吾、箕作大六らは、英国で断髪して帰って来たという。同上書によると「…帰朝するや、皆断髪頭なりしかば、浪士等の嫉視を怖れ、横浜より江戸に入るに、つけまげにてごまかし、僅かに入京したりという」(同上書p.6)とある。 外国では丁髷を切った方が心の平安を保てると考えたのだろうが、我が国に帰ると逆に丁髷がないことで騒がれてしまうことになる。中村敬輔らはそのことを怖れて、帰国後は付け髷をしてごまかそうとしたというのはおもしろい話ではあるが、当の本人らは真剣に悩み抜いての決断であったに違いない。
明治三四年頃まで東京小伝馬町の牢獄では囚人の頭を五分刈りにしていたので、東京の人々は五分刈りを嫌ったが、洋学者は斬髪を好み、横浜で外人に接する商人らは洋風であることを望んだという。同上書に、明治初期に散髪店が生まれた頃の状況を解説した明治三十一年八月の時事新報の記事が紹介されている。
異国船の、横浜の港に入り来たれば、わが髪結師、一挺の剃刀を携えて船中に出入りし、乗組み人の顔を剃りて意外の儲けに有りつきしは、散髪流行前のことなりし。中にも、横浜の髪結小倉虎吉、原徳之助、松本貞吉、竹原五郎吉なんど、いつか日本にも散髪の流行すべきを思い、今の中に剪刀の使い方を覚えんと、頻りに異国船に出入りして、西洋理髪師の手前を見習い、やや得る所ありし。
然るに、追々チョン髷に暇を出す人々を生じ来りたれば、時機至れりと、小倉虎吉率先して明治一、二年のころ、今の百四十八番館、即ち俗称支那屋敷に散髪店を開き、神奈川県庁に出願して、理髪営業鑑札四十八枚を受け、松本竹原らと腕を揃えて専ら西洋風の散髪を始めたり。これ横浜に於ける、日本人散髪営業者の元祖なり。
同上書 p.7~8
小倉虎吉が横浜で散髪店を開業した当初は、客は外国人ばかりで、料金は月極め一人前銀十五枚と結構な収入が得られたというが、その後参入障壁の低い散髪業者はどんどん増加していき、競争激化により価格も低廉化していくことになる。
また東京における最初の散髪屋は、横浜で成功した理容師を招聘して開いたという。
東京日本橋海運橋際に、加藤虎吉といえる髪結師ありたりき。川岸に造りかけしたる床にて、宛も二階のようになり居たれば、人皆二階床と呼びりき。この床主虎吉は、頗る発明の男にて、明治四五年の頃、魁けて横浜より前記竹原五郎吉を聘し、髪結の傍ら散髪を開業したり。これぞ、東京にて散髪店を開けし嚆矢にして、間もなく、前記の原徳次郎も東京に来たりて開業し、次いで銀座四丁目に原徳之助、平野孝次郎兄弟、築地に徳次郎床、日本橋本町に川名浪吉、麹町平川町に鈴木鐵次郎等の散髪床あるに至れり。
その後市内の散髪者、日を追いて殖えたれば、各町の髪結は先を競いて散髪床を開業せんとは思うものの不案内にて手を下しがたければ、各店の親方はまず二階床に赴きて、五郎吉の理髪の工合を篤と実見し、家に帰りてわが子あるいは親戚の者の頭を刈りて実験し、のち漸く散髪の客を迎える程なりしかば、二階床の繁昌はいうまでもなく、五郎吉の名は流々としてこの社会に轟き渡れり。当時の散髪料は二十五銭なりしも、中には、その上に元服の祝儀として一円二円を投げ出す者多く、二階床の収入は驚くべきほどなりしとぞ。
同上書 p.8~9
その後散髪床がどんどん増えて行き、東京に関して言うと、散髪姿の人の割合は明治八年頃は2.5%、十年頃は6%、十四年頃は8%、十六年頃は9%で、ほぼ全員が散髪しているような状態になったのは明治二十一、二年頃だという。当然ながら髪結屋は商売あがったりになるのでどんどん散髪屋に転業していったのだが、商売を始めたばかりの頃は、慣れない仕事でいろんなトラブルがおこったようである。同上書に東京の事例が紹介されている。
市内の髪結が…始めて散髪を行いたりし頃、刈は刈りても、虎斑にて見られぬ様の頭をなし、更に櫛にてすきつつ、剃刀にて揃わぬ毛を剃り落とし、甚だしきは、剪刀を持つに不案内なれば、剃刀もて髪を截取、揃わぬ所は火にて焼き切るなどの奇談もありしとなり。…中略…
老理髪師某という、府下斬髪店開業の元祖は、日本橋区鎧橋際に開きし某店なり。第二は、今の常盤橋外の庄司の隣の地に開きし、川名というものなりし。鎧橋のほうはその後、客人の耳を剪みしために、閉店したりきと。
同上書 p.10~11
当時はバリカンは存在せず、ハサミと剃刀を使って髪を綺麗に刈ることは容易ではなかったはずだ。素人がやれば虎刈り状態になるのが落ちだが、髪結屋から転業したばかりの理容師ならその程度の失敗話はあちこちであったと思われる。
『明治事物起原』に、明治四年五月版の『雑誌』二号に掲載された髪型に関する記事が紹介されている。
近日の俗歌なりとて、
「半髪頭をたたいて見れば、因循姑息の音がする。」
「総髪頭をたたいて見れば、王政復古の音がする。」
「ジャンギリ頭をたたいて見れば、文明開化の音がする。」
の三首を挙げ、またこの頃の頭様なりとて、
半髪(原注、小びんのある者、小びんをつる者)、惣髪(同、まげを結ぶ者、まげ結ばず後ろにさけたる者)、ジャンギリ(同、いがぐりにて髪短き者、なでつけにて髪長きもの)、冠下、坊主。
の五種を挙げたるを見る。半髪は、月代をそりて結髪せる旧容、総髪は、月代をのばして結髪せるものなり。世情自ずから右の如く斬髪に趣き来たれるに、同年八月九日、斬髪脱刀皆適宜なるべき布告ありたれば、特に流行の度を促したる如く、〔年表〕の同十月の條に、世上に斬髪の者追々殖えるとあり。
同上書 p.12~13
布告が出たので散髪はしたものの、経済的な理由などから靴や洋服を買い揃えることの出来ない国民が相当数いて、明治五年、六年の頃は和洋両様の混戦時代となったようだ。髪型も着る服も履くものも和洋両様が可能とは言え、似合うか似合わないかは別問題である。また文明開化の流れの中で、女性も髪を斬る者が出てきたのだが、この点について当時の新聞論調を調べると、新聞雑誌三五号の見出しを見る限りでは女子の断髪はかなり批判的に書かれている。
近頃府下にて女子の断髪する者あり。固より我が古俗にも非ず、また西洋文化の諸国にも未だかつて見ざることにて醜態陋風見るに忍びず。女子は従順温和を以て主とする者なれば、髪を長くし飾りを用いるこそ万国の通俗なるを、いかなる主意にや、あたら黒髪を切り捨て、開化の姿とか色気を離れるとか思いてすまし顔なるは実に片腹いたき業なり。…
『新聞集成明治編年史 第一卷』林泉社 昭和11年刊 p.441
フェミニストが読めば激怒しそうな記事なのだが、当時の国民の考え方がいかなるものであったかがよくわかる記事でもある。政府による文明開化の推進とともにその反動が各地で起きていたようだ。
その後明治五年十一月に「違式詿違条例」が出されている。今でいう軽犯罪法のようなものだが、その第三十九条で女性の断髪が禁じられていることがわかる。この条例は「文明開化」の流れのなかで、あるいは居住外国人の影響でいろんなトラブルが各地で起こっていたことから定められたものと考えられる。
西洋人が居住したり、西洋の風俗や考え方が流入することはいいことばかりではなく、悪いことも実際に各地で起こっていたのでその規制が必要となったわけだが、この条例を読むと明治初期にどのような犯罪が増えたかについて概ね見当がつく。例えば、
「第七条 贋造の飲食物並に腐敗の食物を知りて販売する者」
「第十条 病牛死牛其他病死の禽獣を知りて販売する者」
「第十二条 男女入込の湯を渡世する者」
「第十三条 乗馬して猥りに馳駆し、または馬車を疾駆して、行人を触倒す者。但し殺傷するは此の限りに非ず。」
「第十八条 人家稠密の場所に於て妄りに火技を玩ぶ者」
「第二十二条 裸体または袒裼し、或いは股脛を露し醜態をなす者」
「第二十七条 川堀、下水等へ土芥、瓦、礫等を投棄し、流通を妨げる者」
今のわが政府の甘々の政策で外国人観光者や居住者が急速に増加しているのだが、何らかの歯止めをかけなければこのままではいずれ大きなトラブルが起こることは避けられないだろう。日本が好きで日本のルールを守ってくれる外国人なら歓迎するのだが、法律で禁止されていないことをやっても罪に問われることがないという考えの外国人が増えては、社会秩序が乱れ治安が悪化していくばかりである。
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前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しました。一時在庫を切らして皆様にご迷惑をおかけしましたが、第三刷が完了して在庫不足は解決しています。
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GHQ焚書のリストの本のタイトル・副題を「文化」「文明」というキーワードで絞り込むと、73点の図書が引っかかったのだが、タイトルがユニークであったので『日本文化の支那への影響』という本の冒頭を読み始めて驚いた。あれだけ排日のスタンスを貫いたあの国が、学芸や文化方面では真逆であったことが記されている。
著者の実藤恵秀は早稲田大学で教鞭をとった中国研究者で、戦前から戦後にかけて多くの著書や翻訳書を残しているのだが、GHQによって焚書処分されているのはこの本だけである。
この本の冒頭の部分を紹介させていただく。
今回の支那事変は申すに及ばず、中華民国の初年以来、日支両国は、政治経済的にはしばしば摩擦が繰り返された。換言すれば政治的経済的には憎悪せられ反対せられ、「打倒」せられ、侮辱さえもされている。
しかし、私の観るところでは、これは近代日支関係における半面だけの事実である。他の半面、文化の方面に於いては、両国は固く握手している。これを正確に言えば、文化の方面に於いては、日本は中国をリードし、指導しており、中国は日本を尊敬し、模倣している。それのみか、盲従している部分すらもある。日本は今や文化の輸出国であり、中国は文化の輸入国である。過去久しきに亘り、日本は中国文化の影響を受けて来た。それが、日清戦争以来、その地位を転倒してしまった。日清戦争以後の中国は、日本のあらゆる文化を崇拝欣慕し、ある程度まで妄信して、模倣これ努めていると言ってもよかろう。
外交的には排日・抗日・侮日と変わって来た中国も、文化の方面では終始「拝日」であったと申してよかろう。両国の政治経済的関係と、両国の文化的関係とはかくも対蹠的であるのは、一見矛盾せるが如くであるが、その実矛盾してはいない。政治的経済的関係は物質的数学的関係である。これに反し文化的関係は、精神的非数学的関係であるからである。政治的経済的関係は、一方の利益はそれだけ他方の損失、一方の進出はそれだけ他方の退却である場合が多い。しかるに文化は無限的で…中略…しかもその原来の持ち主から少しも減少することがないという本質を具えている。一国の文化は全世界の文化となりうる。かかる理由があればこそ、中国は一面日本を排撃しつつも、一面日本文化を排撃しつつも、一面文化を吸収するに日もこれ足らぬ有様なのである。
しからば、中国は日本文化の如何なる方向に於いて、これを崇拝し、模倣し、盲信すらもしているのであるかといえば、あらゆる方面に於いてというに躊躇しない。日本文化を輸入していったのは誰であるかといえば、明治二十九年以来日本に来た留学生である…
中国の日本化の根幹は、日本人の著作の翻訳である。
日本の本が中国に翻訳せらたのは、遠く明治十六年に遡ることが出来るが、日清戦争の前には、当時両国間の低気圧があったため、日本事情を識るというための時局問題のためのもの以外にはなく、学術上の意味でおこなわれたものは未だなかった。真に日本の学術を尊敬して、これを翻訳することは日清戦争後に於いて始まる。
実藤恵秀 著『日本文化の支那への影響』蛍雪書院 昭和15年刊 p.3~5
日清戦争後に中国はわが国に多くの留学生を送り込み、日本人が漢文で著したいくつかの本を読んだり、日本語の本を漢訳してもらって読んでいたが、明治三十四年には初期留学生は自分で翻訳できるようになり、多くの本が漢訳されて中国で出版されたという。
当初漢訳された本は教員関係のものや日本の教科書、法律関係のものが多かったが、中華民国の時代になるとおこり漢文体を否定して口語で自由に書くべしという新文学運動がおこり、そのころから日本文学や社会科学の本などが多数翻訳されたという。
かかるところに、満州事変、上海事変が突発。この間でも日本からの翻訳は、排日記事にならんでも掲載されるという奇現象を示した。たとえば昭和六年十月十日付「文芸新聞」には全段抜きの大活字で「日本占領東三省〇〇中国民衆!」という大見出しがあるのに、その欄外の広告欄には、生田長江・野上臼川・森田宗平・昇曙夢・共著の『現代文学十二講』の訳本の広告が出ていて、その書の四大特色として「段落分明、材料新穎、範囲広大、篇幅宏鉅」とあるが如きがそれだ。
満州事変後は、中国人の考えが、空疎なことよりも、着実なことに向かい、自然科学、その他の化学が本気で研究されるようになり、したがって日本からの翻訳も、科学的な著述、しかも最高レベルの巨大な本が翻刻せられるようになり、商務印書館からは毎週幾冊か、日本の学術書の出版せられないことはないという盛況であった。
この頃中国では、日本を知ろうという意が強く、日本研究の叢書類が多数出版された。その中には、彼ら自身で研究したものもあるが、多くは日本人の日本に関する著述を全訳したものであった。
同上書 p.7~8
彼らは自然科学など西洋の学問の輸入も日本経由で多くを学んだのだが、それは日本人が西洋の学問重要な概念について適切な訳語をいち早く漢字を用いて造語していたからであろう。わが国は幕末から明治にかけて西洋の自然科学を学び、「物理」や「化学」「分子」「真空」「加速」「求心力」など多くの訳語を考案しており、中国人からすれば西洋の学問はいきなり原語で学ぶよりも日本語の学術書で学ぶ方が理解しやすかったと思う。
以前このブログで、戦前に日本に留学していた中国人たちの手記をまとめた『支那の少年は語る』(大日本雄弁会講談社 昭和16年刊)というGHQ焚書を紹介させていただいたが、この当時にかなり多くの中国人が日本に来て学んでいたという史実が、何故か戦後の日本人に知られないようにされている。こういうことが日本人の知られると、中国の排日運動が英米によって仕組まれたことが日本人に悟られてしまうことを怖れているからであろうか。
今のわが国にも多くの中国人留学生が有名大学などで学んでいるようだが、彼らの多くは必ずしも反日ではないのかもしれない。しかし、本来なら本人父兄が払うべき授業料や生活費を、日本人の払う血税で支援するようなバカなことは即刻やめてほしいものである。
これまでこのブログで「文化」「文明」に関するGHQ焚書を1冊だけ紹介させていただいている。
著者の福沢桃介は福沢諭吉の婿養子で「電力王」と呼ばれた人物である。彼の本が焚書処分された理由は、西洋の奴隷制の事を書いたからであろう。奴隷制も戦後の日本人に多くの史実が伏せられているといって良い。
GHQ焚書リストかの中から、本のタイトルに「文化」あるいは「文明」を含む本を抽出して、タイトルの五十音順に並べてみた。
分類欄で「〇」と表示されている書籍は、誰でもネットで読むことが可能。「△」と表示されている書籍は、「国立国会図書館デジタルコレクション」の送信サービス(無料)を申し込むことにより、ネットで読むことが可能となる。
タイトル | 著者・編者 | 出版社 | 分類 | 国立国会図書館デジタルコレクションURL 〇:ネット公開 △:送信サービス手続き要 ×:国立国会図書館限定公開 |
出版年 | 備考 |
アジア文化 | 精神科学会 | 目黒書店 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和14 | ||
アジア文化の基調 | 高楠順次郎 | 万里閣 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1914543 | 昭和18 | Kindle版あり |
イタリヤの文化政策 | 東又清 | 文松堂 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1438878 | 昭和18 | |
勤労青少年の文化と教育 | 鈴木舜一 | 西村書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1682861 | 昭和16 | |
勤労文化 | 鈴木舜一 | 東洋書館 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1062238 | 昭和17 | 労務管理全書 ; 第9巻 |
決戦の文化 | 岡村二一 | 文松堂書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1123438 | 昭和19 | |
皇室と文化 | 及川儀右衛門 | 中文館書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1241023 | 昭和5 | |
皇道文化の世界指導 | 大亜細亜社 編 | 大亜細亜社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1041372 | 昭和16 | |
国学と近世文化 | 河野省三 | 日本文化協会 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和10 | ||
国民精神文化研究 蓮華王座 |
紀平正美 | 国民精神文化研究所 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1117927 | 昭和11 | 第三年第一冊 |
国民精神文化研究. 國家觀 |
国民精神文化研究所 編 | 国民精神文化研究所 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1122045 | 昭和11 | 第三年第四冊 |
国民精神文化研究. 法治主義の問題 |
国民精神文化研究所 編 | 国民精神文化研究所 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1122049 | 昭和11 | 第三年第五冊 |
国民精神文化研究 地理辯證法のデザイン |
国民精神文化研究所 | 国民精神文化研究所 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1122056 | 昭和11 | 第三年第六冊 |
国民精神文化講演集 第一冊 | 国民精神文化研究所 編 | 国民精神文化研究所 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1120015 | 昭和10 | |
国民精神文化講演集 第二冊 | 国民精神文化研究所 編 | 国民精神文化研究所 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1120018 | 昭和10 | |
国民精神文化講演集 第三冊 | 国民精神文化研究所 編 | 国民精神文化研究所 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1118069 | 昭和13 | |
国民精神文化講演集 第五冊 | 国民精神文化研究所 | 国民精神文化研究所 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1091648 | 昭和13 | |
国民精神文化講演集 第六冊 | 国民精神文化研究所 | 国民精神文化研究所 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1118090 | 昭和13 | |
国家と文化 | 大日本原論報国会 | 同盟通信社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1044640 | 昭和18 | 日本思想戦叢書 ; 第3輯 |
シベリヤの自然と文化 | 尾瀬敬止 | 山雅房 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1044282 | 昭和19 | |
少国民文化論 年刊一 | 日本少国民文化協会編 | 国民図書刊行会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1069309 | 昭和20 | |
神社文化史 | 中村直勝 | 四條書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040143 | 昭和19 | |
人生 文化 戦争 | 座間勝平 | 精華書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1037758 | 昭和17 | |
新体制日本の政治、経済、文化 | 大谷竹雄 | 天元社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1278074 | 昭和15 | |
西洋文明の没落 : 東洋文明の勃興 | 福沢桃介 | ダイヤモンド社出版部 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1130737 | 昭和7 | 2022ダイレクト出版で復刻 |
世界に於ける民族闘争と文化戦 | 野一色利衛 訳 | 第一公論社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1062844 | 昭和17 | |
戦時文化政策論 | 松本潤一郎 | 文松堂出版 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1273592 | 昭和20 | |
戦争文化 八月号 | 今藤茂樹 編 | 戦争文化研究所 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和14 | ||
泰国と日本文化 | 柳沢健 | 不二書房 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1123979 | 昭和18 | |
大東亜海の文化 | 高楠順次郎 | 中山文化研究所 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1918753 | 昭和17 | Kindle版あり |
大東亜共栄圏文化体制論 | 国策研究会 | 日本評論社 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和19 | ||
大東亜古代文化研究 | 石井周作 | 建設社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/3440187 | 昭和17 | |
第二ドイツ戦争心理学 : 将校の資質と其の文化業績 |
望月衛 訳 | 中川書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1062857 | 昭和17 | |
太陽の文化 | 磯部 保 | 文松堂書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1267203 | 昭和19 | |
大陸日本の文化構想 | 近藤春雄 | 敞文館 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1267207 | 昭和18 | |
大陸文化研究 続 | 京都帝大大陸文化研究会 | 岩波書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1872093 | 昭和18 | |
拓殖文化 第21巻第79号 | 豊田悌助 編 | 拓殖大学報国会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1545967 | 昭和16 | |
戦ふ文化 | 日比野士朗 | 豊国社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1129880 | 昭和19 | |
中日文化交流の回顧と展望 | 高倉克己 訳 | 立命館出版部 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1918831 | 昭和15 | |
長江の自然と文化 | 齊 伯守 | 大日本雄弁会講談社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1877984 | 昭和17 | |
ドイツの文化政策 | 勤労者教育中央会 編 | 目黒書店 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1265540 | 昭和16 | 新国民文化叢書. 10 |
東南アジア文化圏史 | 舟越康壽 | 三省堂 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1042495 | 昭和18 | |
東洋に於ける素朴主義の民族と 文明主義の社会 |
宮崎市定 | 富山房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1918128 | 昭和15 | 支那歴史地理叢書 ; 第4 |
ナチスドイツの文化統制 | 齊藤秀夫 | 日本評論社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1044594 | 昭和16 | |
南方亜細亜の文化 | 満鉄東亜経済調査局 | 大和書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/3438270 | 昭和17 | 新亜細亜叢書 ; 4 |
南方圏文化史講話 | 板沢武雄 | 盛林堂書店 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1918433 | 昭和17 | |
南方地域文化と資源 | 谷山整三 | 厚生閣 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1065772 | 昭和18 | |
南方文化施設の接収 | 田中館秀三 | 時代社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1267166 | 昭和19 | |
南方文化圏と植民教育 | 舟越康壽 | 第一出版協会 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和18 | ||
南方文化論 | 坂本徳松 | 大阪屋号書店 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1270051 | 昭和17 | |
南洋の文化と土俗 : 東印度民族誌 | 宮武正道 | 天理時報社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1460063 | 昭和17 | |
新潟県国民精神文化講習所々報第1号 | 新潟県国民精神文化講習所 | 不明 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1145266 | 昭和10 | |
日伊文化協定 | 国際文化振興会 編 | 国際文化振興会 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和14 | ||
日本神代文化研究 総論 | 田多井四郎治 | 不明 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1030966 | 昭和12 | |
日本精神文化史. 第2講 (神代篇 上巻) |
一貫会 | 一貫会 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1102242 | 昭和13 | |
日本の新文化建設 | 田村徳治 | 同文館 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1044724 | 昭和18 | リストは19年三省堂版 |
日本文化私観 | 坂口安吾 | 文体社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1130375 | 昭和18 | 岩波文庫版、Kindle版あり |
日本文化史要 | 中村孝也 | 大日本教化図書 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1041511 | 昭和17 | |
日本文化団体年鑑. 昭和14年版 | 日本文化中央聯盟 編 | 日本文化中央聯盟 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1116034 | 昭和14 | |
日本文化と仏教の使命 | 伊藤円定 | 日本禅書刊行会 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1021589 | 大正14 | |
日本文化の研究 上巻 | 浅賀辰次郎 | 宝文館 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和3 | ||
日本文化の再建 | 沢田牛麿 | 日東書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1213402 | 昭和7 | |
日本文化の支那への影響 | 実藤恵秀 | 蛍雪書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1878595 | 昭和15 | |
日本文化の諸問題 | 斎藤 晌 | 朝倉書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1683693 | 昭和16 | |
日本文化の特質 | テイ・モン | 日本タイムス社 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和19 | ||
船と文化 | 松田雪堂 | 文松堂書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1059946 | 昭和18 | |
文化政策と文化運動 | 新野敏一 | 扶桑閣 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1275917 | 昭和17 | 大東亜文化新書 |
文化の転換 | 本庄可宗 | 良国民社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1123306 | 昭和17 | |
文化翼賛 | 黒田静男 | 錦城出版社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1275893 | 昭和18 | |
文明一新論 | 保田与重郎 | 第一公論社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1069554 | 昭和18 | |
満州文化史点描 | 千田萬三 | 大阪屋号書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/3439493 | 昭和18 | |
明治、大正、昭和 絵巻文化の足跡 | 前川伝二 | 前川書房 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和16 |
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慶応四年(1868)三月十四日、明治天皇は京都御所の紫宸殿に公卿・諸侯以下百官を集め、明治維新の基本方針である「五箇条の御誓文」を神前に奉読され、その場に伺候する全員が署名した。
一.広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ。
一.上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ。
一.官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス。
一.旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ。
一.智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ。
いつの時代にせよこのような政権交代があった時には、新政権によって旧来の価値観が否定され、新しい価値観を広める動きが生じることが多いのだが、「旧来ノ陋習ヲ破リ」と言っても旧来の価値観のすべてが誤っているわけではなく、また「世界ニ求メ」た「智識」が誤りでないという保証はどこにもない。
むやみに伝統的な価値観なり慣習を否定してしまうと大いに混乱が生じたり、貴重なものが失われたりすることがいつの時代もありうることは言うまでもない。
明治維新期に古い価値観が否定されて、伝統や文化財、歴史的景観などが失われていったのだが、当時日本に来ていた外国人が、政府が主導して文化・景観破壊を結構厳しい目で見ていたことは当時の記録を読めばわかる。
石井研堂という人物が著し明治四十一年に出版された『明治事物起原』という本があり、「国会図書館デジタルコレクション」で検索することで、誰でもPCなどで読むことが出来る。その一部を紹介しよう。ちなみに文中のジャパンガゼット新聞は明治四年創刊され、ヘラルド新聞は幕末期創刊された何れも英字新聞である。
明治四年秋、電線を張るに妨げありとなし、横浜小田原間並木を伐り払えり。ジャパンガゼット新聞之を惜み、夏は日陰をなし、冬は風雪を防ぎ、かつその美観大に旅情を慰むるに足るものを、さりとは風景を失へり。他日鉄道を設くる時に及び、復び植える能わず、実に殺風景と謂うべしといえり。[雑誌十七号訳載]
又、五年三月二十一日のヘラルド新聞は、東京上野の破却を評していう、今般日本政府の命によって、上野を此節破却中の由。又幾百年の星霜を経し大木数百株を何の故有りて倒す事か、…凡そ由緒ある精巧の事物を破却して之を他に移すとは蕃夷の風にして、既に文明の罪科なり…日本今日、冬夏洋服の新式を用ゆと雖も此等は小事、古来由緒ある旧跡墳墓は謹んで之を存し置かざるは一欠点とす…等の語あり。[毎週四号]外人皆之を愛惜せしを知る。然るに今日尚、上野の古木乱伐聖堂森の破却、凱旋道路の改修等に就ては、外字新聞四十年前の言をくり返さざるを得ざるものあり。
楼閣はやけてあとなき上野山花ぞ昔の香ににほひぬる(百首)
石井研堂 著『明治事物起原』橋南堂 明治41年刊 p.72~73
「開発行為」の名のもとに、歴史ある趣のある住居が取り壊され、敷地にあった巨木が伐り倒されて美しい風景が台無しになったというのだが、破壊される以前に存在していた美しい日本の風景とはどのようなものであったのだろうか。
上の画像は安藤広重筆『五十三次名所図会 藤沢』だが、このような景観がこの時期に各地で失われてしまったものと思われる。
東京の上野公園は寛永寺の敷地の一部であったのだが、この寺は戊辰戦争で中心伽藍が焼失してしまい、子院のあった現在地に移されている。
寛永寺は三代将軍・徳川家光が江戸城の北東の方角、すなわち鬼門を封じるために建てた寺で、戊辰戦争で焼かれる前の寛永寺の敷地はかなり広大なものであった。
『江戸名所図会 巻五』には寛永寺の多くの図絵が掲載されており、中心伽藍の絵だけでも五枚に分けて描かれていて、上の図はその四枚目の根本中堂の絵であるが、境内には樹齢何百年もの大木が林立していた。それらの大木が大量に伐り倒されたことをヘラルド新聞は「文明の罪科」と非難したわけである。
当初明治政府は、跡地を造成して大学東校(現東大医学部)と病院を建築する予定であったのだが、大学東校教授のオランダ人医師ボードワン博士が「東京のような大都会には立派な公園が必要」と進言し、その結果明治六年(1873年)に上野公園が造られて日本初の公園に指定された経緯にある。
この時代の人々は、昔から地域の人々が大切にしてきたものを破壊したり、これまでやってはいけないとされていたタブーを冒してみたところで何も実害がないことを経験し、その後各地で様々なタブー破りにチャレンジしている。
『明治事物起原』を読み進むと、
蛮的の一例として、大和春日の神鹿狩を掲げん。[雑誌]三十三号に曰く、五年正月一六日、奈良県に於て、県令を始め、其他官員数名游猟を催し、春日山の鹿数十匹を狩り取れり。土人神罰を怖る大方ならざりしが、其後少しの異儀も之なきにより却って従来の盲説を悔悟し、皆々安堵の思いをなせりと云。」とあり。
此他、『五年十一月に、安房国(現在の千葉県安房郡)朝夷(あさいな)郡宮下村戸長某院主と談合し、かかる御時節になりては、神社の祭器も不用なりとて、名越山神社の黄金幣束、並に鉾・大鳥毛飾り馬具など残らず売り払いたる由(日要五十四号)といひ『六年三月に、磐前県(現在の福島県浜通り)下、月待日待等無用の祭、観音地蔵等の祭を廃禁し、路傍の馬頭観音十三夜塔まで悉皆取払わせ、寺院にありし皇帝の御位牌等、悉く之を県庁に引揚げ[日要七十三号]、滋賀県の如きは、益もなき業なりとして、古来の地蔵祭を禁止し、あちこちの路傍などにありし石の地蔵を取払はせける。大小様々の地蔵を多く車の上に積重ねて大津の町をひき行くを、爺婆女子供など集りて、その車の前に線香果物等を備へ、手を合せて拝むもあり、涙を流しつつ南無地蔵大菩薩、南無地蔵大菩薩とわめきつつ跡より追ひ行く[報知十五号]など、上代未聞の悲劇を呈し、時の新聞紙さへ、『苟も僧侶乞食に付与する物あらば、縦令一粒半銭といへども、悉く之を貯蓄し学校創建の費用に充る時は、まことに善根功徳といふに至らん[日要五十五号]と放言せし程にて、終に『磐前県菊多郡植田村龍昌寺住職眞禅といふもの、私儀仏門に従事し、遊手にて半生を消却する段慚愧にたへざるにより、帰俗して耕を力めたきよし、県庁に出願して還俗する者ある[報知九号]に至れり。実利一点張の弊、ここに至りて極らずや。
石井研堂 著『明治事物起原』橋南堂 明治41年刊 p.73~75
明治初期には激しい廃仏毀釈も行われたが、神の使いとされていた奈良春日山の鹿を狩猟したり、名越山神社の祭器を売却したりと、神道においても伝統文化やしきたりの破壊行為が行われていたことはあまり知られていない。「変革」の名のもとに古い物が捨てられ、伝統文化がないがしろにされたのだが、その風潮に多くの日本人が乗せられてしまっていた。しかしながら、当時わが国にいた外国人はその点についても批判的であったようだ。石井研堂は同上書でこう続けている。
人々ただ皮相の開化に沈溺して、また心霊の修養等を慮る者なかりしかば、[雑誌](五年三月版三一号)にいへる『ある外国人の説に、方今日本人の書を読む者、多くは会話窮理書地理書等の類に止りて、人生切要なる修身学を講究するものなし、恐らくは本を捨て末に趨るの弊習を生じ、遂に学風偏頗に陥るべし』等の歎声を聞きたりし。されども、洪河の決するは、一簀の土の能く防ぐべきに非ず、社会は漸く堕落の一方に傾けり。
石井研堂 著『明治事物起原』橋南堂 明治41年刊 p.75
明治政府はわが国の伝統的な風習や信仰を「悪弊」や「旧習」と考え、これらを排除するとともに急速に西洋化を推進しようとしたのだが、この点は自虐史観に陥ってわが国の歴史的景観や伝統文化を軽んじる戦後のわが国に通じるところがある。
明治九年(1876年)にお雇い外国人として東京医学校(現在の東京大学医学部)の教師として招かれたドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツは明治九年十月二十五日の日記に、無条件に西洋文化を受け入れようとする日本人を厳しく批判している。
今の日本人は、自身の過去については何も知ることを欲していない。教養ある人士も、過去に引け目を感じているのである。「なにもかも野蛮至極であった」と一人が言った。他の一人は、「われらは歴史を持っていない。われらの歴史は今から始まるのだ」と叫んだのである。他の者たちは歴史の質問には気のない顔で冷笑していたが、余の熱心なる興味を気づいた時始めて、真顔になってくれたのである。これはもとより、今日がすべての昨日に対する最も酷薄なる仕向けとして説明される現象である。しかし、日常の交際に於いては、人を真に痛く傷つける底のものである。
国人がその固有の文化をかくのごとく蔑視することは、国威を外人に対して宣揚する所以ではない。かかる新興日本人にとり、どこまでも重要なることは、新奇の従来に見ない施設・制度を称賛すると同様に、自らの古代文化の真に合理的なものを尊敬することである。かくしてこそ、日本は外国に対し、全く独自の陣地占拠が可能なのである。
エルウイン・ベルツ『ベルツの「日記」』岩波書店 昭和14年刊 p.14~15
このベルツの文章は、第二次世界大戦後のわが国においてもそのまま通用する。敗戦後のわが国では、自国の伝統や文化は西洋的なものよりも劣っていると考える傾向が強い時代が長く続き、歴史的景観や伝統文化の保護よりも開発行為が優先し、多くの地域でその地域の文化的価値・観光的価値が失われ、伝統芸能や技術の多くが衰退していった。
何百年も守られてきた地域の景観を残し、歴史的建造物の文化的・観光的価値を活かして、地域経済の活性化を図ることに知恵を絞っていれば、その後の衰退を免れた地域は少なからずあったのではないかと思うのだが、一度破壊してしまってはもう元には戻らない。
我々の先祖たちが大切に守って来たものの価値を大切にし、それらを新しい時代の中でどのようにして活かしていくかを考えつつ西洋の文化や思想や技術のいい所をじっくり取り入れていく姿勢が必要なのだが、開発利権に飛びつく政治屋が跋扈するようでは地域の伝統的価値は守れない。
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『思想』をキーワードにして面白そうなGHQ焚書を探していると、『アジア民族の中心思想 インド篇』という本が目に入った。著者の高楠順次郎は、明治時代から昭和初期にかけて活躍した仏教学者・インド学者で、東京帝国大学文学部教授、東京外国語学校(現、東京外国語大学)の校長、東洋大学の学長などを歴任した人物である。
この本の前編はインド篇、後半は支那・日本篇となっており、かなりの大部の著作だが、今回は第一講・インド思想概観の冒頭部分に書かれていることを紹介したい。
インド人と西洋人とは民族としては同じアーリア人の系統で、言語についてもルーツは同じと考えられているのだが、考え方が西洋人と大きく異なっているのは興味深いところである。
西洋の文明を論ずる人は、文明は生存競争によって進むのであるというのが普通の根本観念になっている。即ち、生存競争は文明の基だというので、人と人とが競争し、階級と階級とが競争し、国と国とが競争して、世界戦争までやってみたところが、文明は進むどころか世界共倒れになって、どうしてもインドに聞かざるを得ないようになった。インド人に聞いてみると、生存競争は共倒れだということを私どもは初めから考えている。あなた方はそうではないと言ってお進みになった。我々は相互扶助でやって行くより仕方がないと昔から考えている。仏教が起こったのもそうである。あなた方自身で理屈をつけて生存競争ということを過信しておった。それが間違いであったということを今発見したに過ぎない。なるほど、ある程度までは生存競争も必要であろうけれども、生存競争が文明の根本だと理屈づけて進めば、つまり、その教えは行き詰まりとなる。インドでは共存共栄・相互扶助ということが文明の根本だと考えているというのであります。
なお、人間が自然を征服することが文明の根本だというのであるが、これもよく考えてみると、人間が自然を征服するということの初めは、インド人から考えると、人間が自然を征服するといっても、深山や大沢を開くのは良いけれども、猛獣毒蛇を征服するのが文明の根本であるとすれば、猛獣毒蛇に近いような野蛮人を征服するのが文明の根本ということになる。そうすれば、文明の恩恵を与える為に野蛮な人種は征服しても良いのだという事になる。さすれば、さらに進んで、野蛮の宗教は亡びゆくべき宗教である。文明の宗教を信じている者が本当の人間だ。というように段々区別を生じてきて、生存競争から起こる差別思想がどこまでも続くことになる。
インドでは、人間の進歩は自然を征服するからではなく自然に同化するからである。森林生活ができるという事は自然に同化するのである。自然を征服するということはインドの文明には全然ない。獅子がおり虎がいる。あの猛獣毒蛇を人間が征服して幅を利かそうとしてもとてもできることではないから、そういうことは考えない。むしろ、大自然に自分が同化して行くと考えることによって、アーリア人種はインド文明の進歩が出来たのである。インドでは自然を友とするから、動物を決して敵とは思わない。日本の子供は生きたものを見ればいたずらに石を投げつける。あるいは鉄砲を以てこれを射つが、インド人は決してそんなことをしない。人間愛ということをインドでは進めて動物愛としている。だから、動物も人間に親しむ。インドは動物の楽園と言ってもよい所である。それは、自然に同化することが文明の基本だという思想に立脚しているからである。不殺生、無傷害ということが仏の最初の教えであるが、インド人は今にこれを実行している。
高楠順次郎『アジア民族の中心思想 (インド篇)』大蔵出版 昭和16年刊 p.22~24
アーリア人の起源については、古くからペルシャ(イラン)、スカンジナヴィア、ドイツなどの諸説があるが、今では中央アジアのステップ地帯を出自とする説が多数説のようだ。その後トルコ民族やモンゴル民族がこの地域を支配したためにアーリア人は細かい集団に分かれて世界に分散し、各地で独自の文化を形成したとされている。
インドに向かったアーリア人がインダス川上流に定住した時期はこの本では五千年前としているが、この点については諸説があるようだ。いずれにせよ水が豊富な地域に居住したインド・アーリア人ははじめのうちは自民族本位の排他思想を持ち奴隷階級を徹底的に差別していたようなのだが、長い年月をかけて共存共栄・相互扶助であるべきだと考えるに至ったことは興味深いものがある。
戦後のわが国では「思想戦」という言葉がほとんど使われることが無いのだが、戦争やは決して武力戦だけで行われるものではない。特に近代戦に於いては、武力を使う前に、「思想戦」や「情報戦」、「宣伝戦」など、武力を用いない静かな戦いが普通に行われていたし、戦前戦中の新聞などでもそのことをよく報じていたので、当時の日本人の多くが「思想戦」等についてよく理解していたものと思われる。
こういう戦いがあることを知っているかどうかで戦争や外交に関する見方が変わってくると思うのだが、今のマスコミなどはこのような観点から世界の動きを論じることは皆無といって良く、そのために現在のわが国が「思想戦」などでいろんな国から攻撃されているという事を認識している人は非常に少ない現状にある。
GHQ焚書の中に『思想戦経済戦』という本がある。この本は陸軍つはもの編輯部が一般国民の為に国防知識を普及するために昭和九年(1934年)に出版した『国の力叢書』の第三冊目で、非常に判りやすく書かれているので一部を紹介させていただく。
…近代戦は科学の総ての部分を動員する真の智能戦である。
と同時に戦争の規模が拡大し、戦場は砲火を交える野戦地帯のみでなく、従来の銃後たる内地は無論、第一線と同様の危険に曝されるし、一方戦闘人員に於いても、戦争資源に於いても同様、想像以上の膨大な規模を要するのである。
こうした物質的の威力はもとより近代戦の特徴であるとともに、近代戦に於いてはそれに加えて目に見えない戦争手段たる思想戦、政略戦、経済戦等が重要な一要素として、これまた欠くべからざるものであることを銘記しなければならない。近代戦は、武力の雌雄を決する前にこの思想戦、政略戦、経済戦等の勝敗が、まず決せられると言っても過言ではなく、それらに敗れては武力戦に於いて必勝を期す公算は極めて少ないと言わねばならない。
かつての日露戦争に於いて、ロシアが何故に敗れたかと言えば、野戦における敗戦はもとよりであるが、国内的には思想戦に禍され、国民の戦争意思が壊滅した結果であるとも見ることが出来るのである。
即ち当時、明石大佐(後の大将)が欧州に於いてさかんに思想的攻勢を行い、その効果が現実に戦争の上に現れたとも言い得るのである。
また、欧州大戦*においてのドイツの敗北も、その主要な原因は思想戦に敗れた結果であって、「戦争には敗れたが戦闘には勝っている」ドイツがやはり、連合国の思想的攻勢に屈服したのである。
*欧州大戦:第一次世界大戦のこと近代戦における思想戦がこのように重大な役割を演じるのは取りも直さず、近代戦そのものが真の国力戦であり、単に軍人のみの戦争ではなく、国民全体の戦争であることにもとづいているからである。
言いかえれば、近代戦は国民一人残らずが戦う意思を持たねば戦争の継続が一日も出来ないほど、それほど国民の思想信念によって戦争が左右されるのである。
だから、国民の思想が一たび戦争継続を欲しない状態に至れば、もはや取り返しがつかないので、それは直ちに敗戦を意味するのである。
敵は常にこの点を充分観察し、対抗国民の戦争意思を挫く方策を次々に計画し実行し、むしろ武力戦よりもその方面に力を注ぐのが近代戦の要項になっている。
近代戦はこの点であらゆる意味での科学戦であると言い得るのであって、即ちこの思想戦も真に科学的に立案された組織ある一元的統制で行われるもので、この上に、一層この思想戦が科学的である点は、戦時はもとより平時に於いて思想戦が行われていることであって、それには、外交戦、経済戦等が関連してより科学的に統制ある機能を発揮するのである。
『思想戦経済戦 (国家力叢書 ; 3)』軍事科学社 昭和9年刊 p.3~5
文中の「明石大佐」というのは明石元二郎のことだが、彼はロシア国内の反戦、反政府運動を支援して、ロシアの対日戦争継続の意図を挫くことに貢献したのだが、彼の行動を「思想戦」と呼ぶべきかどうかはともかくとして、当時のわが国にはロシアに対してこのような工作を仕掛けた人物が存在したのである。
主要な国では自国を防衛するために、平時において他国からの思想戦や情報戦に対する対策がなされているのが普通なのだが、戦後のわが国では対策をしようにもそれができる人材がほとんどいないのではないだろうか。戦後のわが国は他国から「スパイ天国」と言われて久しいのだが、外国スパイに対する対策を取らないまま戦後八十年が経過しようとしている。そもそも「スパイ防止法」を持たずして、平時における他国からの思想戦や情報戦、宣伝戦を防ぎきることができるはずがないだろう。スパイ防止策が必要であることがわかっていながら、今の国会議員は「スパイ防止法案」の上程すらしない。与党も野党も官僚もマスコミも、どこかの国のスパイ工作に相当冒されているのではないかと考えるのは私ばかりではないだろう。
GHQ焚書リストかの中から、本のタイトルに「思想」を含む本を抽出して、タイトルの五十音順に並べてみた。
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タイトル | 著者・編者 | 出版社 | 分類 | 国立国会図書館デジタルコレクションURL 〇:ネット公開 △:送信サービス手続き要 ×:国立国会図書館限定公開 |
出版年 | 備考 |
アジア民族の中心思想. 印度篇 | 高楠順次郎 | 大蔵出版 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1913135 | 昭和16 | Kindle版あり |
アジア民族の中心思想. 支那・日本篇 | 高楠順次郎 | 大蔵出版 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040365 | 昭和13 | Kindle版あり |
印度思想史 | 木村泰賢 | 大東出版社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1038768 | 昭和16 | 大東名著選 ; 6 |
大川周明博士その思想 | 左山貞雄 | 大同書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1878102 | 昭和19 | |
恩の思想 | 川合貞一 | 東京堂 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1038388 | 昭和18 | |
加藤弘之の国家思想 | 田畑 忍 | 河出書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1239111 | 昭和14 | |
教学と思想統一 | 西晉一郎 | 国民精神文化研究所 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1233191 | 昭和10 | 国民精神文化類輯. 第5輯 |
近世国体思想史論 | 伊東多三郎 | 同文館 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1159126 | 昭和19 | |
近世に於ける神祇思想 | 藤井寅文 | 春秋社松柏館 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040098 | 昭和19 | |
近世日本愛国思想史 | 佐々木臥山 | 表現者 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
大正13 | ||
近代思想の動向と日本憲法 | 森吉義旭 | 青年教育普及会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1232756 | 昭和10 | |
近代政治思想と皇道 | 藤沢親雄 | 青年教育普及会 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1228417 | 昭和12 | |
近代独逸哲学思想の研究. 第2巻 | 越川弥栄 | 修学館 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1038955 | 昭和19 | |
勤王思想の発達 | 本夛辰次郎 | 日本学術普及会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1914427 | 昭和14 | |
決戦態勢下の思想対策 | 三島助治 | 国際政治経済研究所 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1062856 | 昭和16 | |
現代思想戦史論 | 野村重臣 | 旺文社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1062859 | 昭和18 | 日本思想戦大系 |
現代思想の歴史的批判 | 中村孝也 | 青年教育普及会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1232941 | 昭和10 | |
現代の問題としての復古思想 | 竹岡勝也 | 目黒書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1684763 | 昭和14 | 教学新書 ; 第3 |
五・一五事件背後の思想 | 伊福部隆輝 | 明治図書出版 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1459120 | 昭和8 | |
皇国思想の本源 | 紀元二千六百年奉祝会 | 皇国青年教育協会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1038389 | 昭和17 | 皇国精神叢書 ; 第2輯 |
皇道思想はどんな思想か | 鄭 然圭 | 満蒙時代社 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和12 | ||
皇道主義思想の確立 | 藤井章 | 高陽書院 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1038375 | 昭和15 | |
国体思想論 | 広島文理大精神科学会 | 目黒書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1039464 | 昭和18 | |
国体と思想国防 | 志水義暲 | 清水書房 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1044864 | 昭和17 | |
国体の淵源 日本精神日本思想の原理 |
塩田盛道 | 建国講演会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1091495 | 昭和11 | |
国民思想史概説 | 芦田正喜 | 啓明社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1188558 | 昭和3 | |
国民思想叢書. 聖徳篇 | 加藤咄堂 編 | 国民思想叢書刊行会 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1224130 | 昭和5 | |
国民思想の動向 | 水島 斉 | 不明 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1232928 | 昭和10 | 現代国家民族大観 第2巻 |
国旗、皇道、正中思想 | 熊崎健翁 | 五聖閣出版局 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1685276 | 昭和14 | |
思想維新論 | 三島助治 | 国民政治経済研究所 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1273642 | 昭和17 | |
思想決戦 敵思想侵攻と撃碎 | 中井良太郎 | 鳴玄社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1460324 | 昭和19 | 史談興亜選書 |
思想決戦記 | 水野正次 | 秀文閣書房 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1450655 | 昭和18 | |
思想国防の神髄 | 田中智学 | 天業民報社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1460200 | 昭和17 | |
思想戦 | 棟尾松治 | 六芸社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1042016 | 昭和17 | |
思想戦 : 近代外国関係史研究 | 吉田三郎 | 畝傍書房 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1062862 | 昭和17 | |
思想戦経済戦 | 陸軍省つはもの編輯部 編 | 軍事科学社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1457952 | 昭和9 | 国の力叢書 ; 3 |
思想戦大学講座 | 大日本言論報国会 | 時代社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1062852 | 昭和19 | |
「思想戦」と宣伝 | 神田孝一 | 橘書店 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1462333 | 昭和12 | |
思想善導の根本義 | 秦俊七郎 | 民友社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1279582 | 昭和3 | |
思想戦と科学 | 荒木俊馬 | 新太陽社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1460314 | 昭和18 | 日本文化新書 |
思想戦と国際秘密結社 | 北條清一 | 晴南社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1062864 | 昭和17 | 2021経営科学出版で復刻 |
思想戦の根基 | 大日本言論報国会 | 同盟通信社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1062853 | 昭和18 | 日本思想戦叢書 ; 第2輯 |
思想戦の勝利へ | 高須芳次郎 | 大東亜公論社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1038432 | 昭和18 | |
思想戦より観たる敵アメリカ | 小林五郎 述 | 世界思想戦研究所 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1270374 | 昭和18 | 世界思想戦研究所断案 ; 第1輯 |
思想戦略論 | 小林知治 | 地平社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1460326 | 昭和18 | |
思想戦論 | 志村陸城 | 赤坂書房 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1460329 | 昭和19 | |
思想戦を語る | 下中弥三郎 | 泉書房 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1439722 | 昭和19 | |
思想闘争と宣伝 | 米山桂三 | 目黒書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1460328 | 昭和18 | |
思想と剛柔 | 桂川畦菽 | 松雲堂書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1079892 | 昭和18 | |
思想問題と学校教育 | 吉田熊次 | 日本文化協会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1236499 | 昭和9 | 思想問題小輯. 第1 |
思想問題と国民精神 | 亘理章三郎 | 大成書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1176877 | 昭和3 | |
支那思想概説 日支事変に就いて | 諸 橘 述 | 山崎作治 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1093780 | 昭和13 | |
支那事変に於ける 敵の戦場思想工作の一観察 |
教育総監部 編 | 教育総監部 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和15 | ||
新世紀の思想 | 原 勝、林 秀共 | 新興亜社 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和15 | ||
神道思想史 | 山田孝雄 | 明世堂書店 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1914370 | 昭和18 | 神祇叢書 Kindle版あり(いざなみ文庫) |
神道思想の研究 | 梅田義彦 | 会通社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040122 | 昭和17 | |
世界大戦に於ける仏独両軍 戦術思想の変遷 |
リュッカ 廣良一 訳 |
偕行社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1149308 | 昭和8 | |
全国思想関係新聞雑誌調 | 警保局図書課 | 内務省 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和10 | ||
戦争経済思想 | クルト・ヘッセ 本領信治郎訳 | 日本電報通信社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1061405 | 昭和17 | ドイツ戦時経済叢書. 第9 |
戦争思想の研究 | 松下芳男 | 学而書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1465692 | 昭和10 | |
戰爭と思想 | 野村重臣 | 富強日本協會 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1085785 | 昭和19 | |
戦争と思想動員 | 法貴三郎 | 日新書院 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1460320 | 昭和17 | |
全体思想の再検討 | 大串兎代夫 | 国民精神文化研究所 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1228756 | 昭和12 | 国民精神文化類輯. 第19輯 |
総力戦・思想戦・教育戦 | 寺田弥吉 | 敞文館 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1460251 | 昭和18 | |
総力戦と宣伝戦 ナチス思想謀略の研究 |
水野正次 | 新民書房 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1450656 | 昭和16 | |
大東亜戦争と思想戦 | 竹田光次 | 週刊産業社 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和18 | ||
大東亜戦争の思想戦略 | 水野正次 | 霞ヶ関書房 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1450652 | 昭和17 | |
大東亜の思想 | 大串兎代夫 | モダン日本社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1273648 | 昭和17 | |
中道思想及びその発達 | 宮本正尊 | 法蔵館 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040367 | 昭和19 | |
東亜協同体思想を撃つ | 篁 実 | 支那問題研究所 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和14 | 戦争文化叢書 ; 第10輯 | |
東亜聯盟結成論 : 東亜宣化(思想戦)の原則的研究 |
東亜思想戦研究会 | 東亜思想戦研究会 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1457117 | 昭和13 | |
ナチス思想批判 | 蓑田胸喜 | 原理日本社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1268325 | 昭和15 | |
ナチス思想論 | 山本幹雄 | アルス | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1683554 | 昭和16 | ナチス叢書 ; 8 |
日本国防思想史 | 松原晃 | 天理時報社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1460227 | 昭和17 | Kindle版あり(いざなみ文庫) |
日本古来の国民思想史 | 勝俣忠幸 | 東山書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1231363 | 昭和11 | |
日本思想史 | 清原貞雄 | 地人書館 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1038337 | 昭和17 | 大観日本文化史薦書 |
日本思想史概説 | 田中義能 | 明治書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1172397 | 昭和18 | |
日本思想史 近世国民の精神生活 上巻 |
清原貞雄 | 中文館書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1914372 | 昭和18 | |
日本思想と世界思想 | 有馬純清 | 警醒社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1683669 | 昭和15 | |
日本思想の研究 | 補永茂助 | 教育研究会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1176568 | 昭和4 | |
日本精神と大乗思想 | 加藤咄堂 | 時潮社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1235371 | 昭和9 | |
日本精神の教育 非常時と日本精神と仏教思想 |
日高進 講述 | 第一人間道場 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1270620 | 昭和11 | 人間道講演集 ; 第3輯 |
日本的思想の研究 | 永井了吉 | 統治問題研究所 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1100907 | 昭和15 | |
日本の歴史と思想戦 | 佐藤忠恕 | 昭和刊行会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1041414 | 昭和18 | |
日本民族の思想と信仰 | 田中治吾平 | 会通社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1040093 | 昭和18 | |
幕末勤皇思想の研究 | 國學院大學道義学会 | 青年教育普及会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1231128 | 昭和12 | 道義論叢. 第4輯 |
藤田東湖の生涯と思想 | 大野 愼 | 一路書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1687518 | 昭和15 | |
藤田幽谷の思想 | 塚本勝義 | 昭和図書 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1038563 | 昭和19 | |
藤田幽谷の人物と思想 | 松原 晃 | 六合書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1043483 | 昭和19 | |
米国に於ける思想戦 | 東亜研究所 | 東亜研究所 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1439300 | 昭和18 | |
満洲王道思想批判 : 一名・日満独創聯盟期成論 | 千葉命吉 | 大日本独創学会 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1449088 | 昭和8 | |
水戸思想と維新の快挙 | 長谷川信治 編 | 長谷川書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1683854 | 昭和16 | |
明治・大正・昭和教育思想学説人物史 第四巻 昭和前期篇 |
藤原喜代蔵 | 日本経国社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1072139 | 昭和19 |
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前回は「神戸大学新聞記事文庫」の検索を用いて歴史を探索する方法を中心に書いたが、このデータベースの最大の弱点は、当時の経済学・経営学研究者にとって興味深いと判断された記事が中心なので、戦争や大事件にかかわる写真付きの報道記事や政治関連や文化関連などの記事がかなり少ないことと、明治時代の記事がほとんどないことなどが挙げられる。その欠点を補完するものとして、『新聞集成明治編年史(全十五巻)』、『新聞集録大正史(全十五巻)』、『新聞集成大正編年史』(全四十四巻)、『新聞集成昭和史の証言(二十七巻)』など、昔の新聞記事のなかから史料価値の高いものを抜粋して編集されたシリーズ本が、「国立国会図書館デジタルコレクション」で読めることはありがたい。
『新聞集成明治編年史(全十五巻)』については以前このブログで紹介させていただいたことがあるが、当時は大正期以降のものは一般公開されていなかったので読むことが出来なかったし、『新聞集成明治編年史』も「全文検索」機能がなかったので非常に利用しづらかった。しかしながら令和4年5月19日から「個人向けデジタル化資料送信サービス」が開始され、利用者登録を行うことにより、大正期や昭和期の新聞記事の内容が読めるようになっている。また一般公開されている『新聞集成明治編年史』も、「全文検索」機能を用いることにより、探している情報を容易に見つけることが出来るようになったので、一度試しに利用されることをお薦めしたい。
大正時代に関しては2種類の新聞記事集が出版されている。大正出版の『新聞集録大正史』は昭和53年に全15巻が刊行されており、明治大正昭和新聞研究会の『新聞集成大正編年史』は昭和44年から62年にかけて44巻が刊行されている。同じような時期によく似たシリーズが刊行されたのは異例だが、前者は『新聞集成明治編年史』と同様な構成で、原則1年度1冊でまとめられているのに対し、後者は大事件があった年は冊数を多くしており、例えば関東大震災が起きた大正12年は6冊が割り当てられているほか、大正13年も14年も各4冊が割り当てられている。従って大きな事件を詳しく調べたい時は後者の方がヒット率が高いと思われる。
もう一つの特徴は、前者は新聞記事を新たに活字に組みなおして刊行されており、後者は実際の新聞記事を切り貼りして縮刷した体裁になっている。読みやすさでいえば前者に軍配が上がるが、史料価値としては後者の方がありそうだ。
ただいずれのシリーズも終戦後かなり立ってから編集されていることから、大正期の日本人が重要だと考えた記事が編集者の判断でカットされている可能性を否定できない。特に東京裁判史観に矛盾する内容が意図的に伏せられている可能性が考えられるのだが、実際に戦後の日本人に封印されてきたと思われる事件について『新聞集録大正史』『新聞集成大正編年史』に掲載されているかどうか調べることとしたい。
以前このブログで関東大震災のことを書いたのだが、戦後のわが国では朝鮮人暴動のデマを妄信した官憲や自警団などが、関東各地で多数の朝鮮人を殺傷したことばかりが書かれていて、なぜ当時の日本人が朝鮮人暴動を怖れて各地で自警団が結成されたのか、その背景について解説されることは皆無といって良い。このことを書いた私のブログ記事は、検索しても引っかからないようにされており、ほとんどアクセスされないように工作がなされているのではないかと考えることがある。
当時のわが国では無政府主義者の朝鮮人グループがいくつか存在し、大震災を好機としてとんでもないことを計画した人物の一人として「朴烈」という人物がいるのだが、この人物に関する記事を『新聞集録大正史』『新聞集成大正編年史』で検索を試みてみよう。
まずやり方だが、「国立国会図書館デジタルコレクション」のサイトに進み、検索ボックスに「朴烈」と入力してクリック。
5594件のデータがヒットするが、絞り込むために、タイトル欄に「新聞集成大正編年史」と入力してクリック。するとデータが5件に絞り込まれる。どれから読んでもいいのだが、とりあえず一番上の「新聞集成大正編年史 大正14年度版下」をクリックする。
次に、画面右の「全文検索」をクリックし、検索ボックスに「朴烈」と入力してクリックする。すると全部で8件のページがヒットする。上から順番にマウスを合わせてクリックしていくと、左側にそのページが表示される。はじめの3件は本の目次で各新聞記事の見出しが記されている。キーワードの「朴烈」を探しやすいように印が付されているのですぐに見つけることが出来る。目次を読んで求めている内容が書かれていそうな記事を探していき、読みたい記事のリンク、例えば「299 0299.jp2」をクリック。
すると画面の左に11月25日付の大阪毎日新聞の記事が表示されるのだが、関東大震災直後に起こったこの大陰謀事件が2年間以上も記事掲載禁止であったことがわかる。この記事では具体的にどのような陰謀があったかについて書かれていないのだが、予審中に朴は大正天皇と皇太子の殺害を計画していたことをほのめかしたことが知られている。
もちろん朝鮮人の大多数が善良であったのだが、震災以前から一部の過激な革命組織に属する朝鮮人により、物騒な事件が各地で相次いでいたことは、「(不逞)鮮人」とか「義烈団」などというキーワードで検索すればいくらでも記事を発見できる。震災直後の記事には各地で善良な朝鮮人が殺害された記事も出ているが、地域住民が各地で「自警団」を組織したということは、地震のあとで一部朝鮮人による放火や掠奪が実際に起きてもおかしくないと考える人々が全国各地にいたことを意味している。
震災直後には朝鮮人暴動の記事がいくつか出ているのだが、その後そのような記事の掲載が禁止となり、震災後50日以上経過した10月20日に解除され、翌21日に上の画像の右側の大阪毎日新聞の記事が出ている。この話は流言飛語ではなく実際にあったことなのである。そもそも放火や爆薬や毒薬を所持するメンバーが善良な人物である筈がない。その記事の左側は同日付の東京日日新聞の記事で、群馬県藤岡町の自警団により警察で保護されていた朝鮮人が殺害されたことを報じている。
このように『新聞集成大正編年史』には、関東大震災について戦後タブーとされてきた問題についての新聞記事を結構掲載していることがわかる。では『新聞集録大正史』についてはどうか。
上の画像が、大正14年11月25日の朴烈に関する記事だが、ここでは東京日日新聞の記事を掲載している。「国立国会図書館デジタルコレクション」の全文検索では、このページが引っかからなかったのだが、このページはどうやらデジタルデータ化がなされていないようである。
また大正12年10月20日付の大阪朝日新聞の震災中の混乱に乗じて朝鮮人が暴動を起こした記事が掲載されている。この記事によると、
今秋十一月中旬の東宮殿下御婚儀に際して、大官の集合を機に爆弾を投じて暗殺せんとの大陰謀を企て、同氏とともに準備に奔走中の一味が大震火災の突発から急遽予定を変じ、在京の少数同志と語らい帝都の混乱せる機会に乗じ、大事を決行せんとした事実が発覚…
『新聞集録大正史 第11巻』大正出版 昭和53年刊 p.441
とあり、朴烈とその内縁の妻・金子文子とその仲間を逮捕したことが記されている。「東宮殿下」というのは、後の昭和天皇だが、この記事では朴烈が誰の暗殺を狙っていたのかは明らかにされていない。ちなみに、このページはデジタルデータ化されていて、全文検索でヒットするのですぐに探し出すことが出来る。
関東大震災の事例だけでは何とも言えないが、戦後ではタブーになっている事件や言葉を色々キーワードにして調べれば、『新聞集録大正史』でも『新聞集成大正編年史』でも結構多くの記事がヒットするので、これからは『神戸大学新聞記事文庫』とともに、記事を書くための資料として利用させていただくことにしたい。
次に昭和史について同様な新聞記事集が出版されていないかを調べると、『新聞集成昭和史の証言』というシリーズ本と、『新聞集成昭和編年史』があるのだが、後者のシリーズについてはまだ刊行が継続しているため、著作権の関係で、「国立国会図書館デジタルコレクション」の利用は出来ず、国立国会図書館(本館、関西館、国際子供図書館)に行くか、この本を所蔵している大学などの図書館に行く必要がある。この本をCiNiiで検索すると、どこの大学の図書館がこのシリーズ本を所蔵しているかがわかる。
また『新聞集成昭和史の証言』は当初昭和20年迄が本邦書籍から刊行され、それからあとSBB出版会から続刊が刊行されたのだが、「国立国会図書館でデジタルコレクション」の利用ができるのは昭和27年の第27巻までである。それからあとの巻は出版されていないのかCiNii等のサイトを見ても確認できない。
では、『新聞集成昭和史の証言』について、先ほどと同じやり方で、戦後の日本人にはほとんど知らされていない事件である昭和12年の通州事件について検索してみよう。この事件は同年7月29日に冀東防共自治政府の中国人保安隊が反乱を起こし、日本軍の通州守備隊と通州特務機関および日本人・朝鮮人居留民を襲撃し、200人以上が虐殺された大事件である。
この記事はキーワードを「通州」と入れ、タイトルを「新聞集成昭和史の証言」と入力して検索すれば、すぐにいくつかの記事を見つけることが出来る。
第11巻に通州の治安がようやく確保されて、読売新聞の記者が一番先に通州城内に入って報じた8月4日の記事が掲載されている。
…城内に一歩足を踏み入れた余の眼に映じたものは……ああ筆舌に尽くせぬ暴状の跡、われらが同胞の無念の最後であった!鬼畜といえどもかくまでの惨虐は避けるであろう暴状を眼の当たりにして余は悲憤の涙にかきくれたのであった。…中略…
商店街は破壊掠奪のかぎりをつくされ崩れおちた仁丹の広告等の下にニ三歳の子供の右手が飴玉を握ったままおちている。ハッとして眼をそむければ、そこには母らしい婦人の全裸の惨殺死体が横たわっているではないか!空しき風光の地、緑の公園地内にある日本人旅館近水楼は最も悲惨を極め家具一つなく、掠奪された家屋内にあるものは十数名の邦人従業員の死体ばかりだ。…
『新聞集成昭和史の証言 第11巻』本邦書籍 昭和60年刊 p.382~383
この記事の現場の描写はまだまだ続くのだが、刺激がきつすぎるのでこのくらいに止めておくことにする。日本人が支那大陸でどんな酷い目に遭ったという事実については、戦後の日本人のほとんどは何も教えられておらず、逆に日本人が酷いことをしたと、真逆の話にされて洗脳されてしまっている。戦後の公職追放のあとで、マスコミや教育や歴史学会などの主要なポストに左翼が居座って、戦後の日本人に「自虐史観」を定着させる役割を担ってきたのだが、このような真実が国民の間に広まって行けば、「自虐史観」は中国や戦勝国のプロパガンダのようなもので嘘ばかりであることが誰の眼にも明らかになるはずだ。今ではこのような新聞記事が誰でも簡単に読めることを、少しでも多くの日本人に知って欲しいと思う。
関心のある記事を検索して読むだけでなく、その前後にわが国でどのような出来事があったのかを知りたい場合は、好きな巻の好きなページから読み始めればよい。「国立国会図書館デジタルコレクション」で読める明治・大正・昭和の新聞記事集のURLのリストを作成したので、ご両親の生まれた時代や祖父母の生まれた時代がどんな時代であったのかを知る時などに利用していただければありがたい。もしブログなどで引用する場合には、本のタイトル名や出版社名や「国立国会図書館デジタルコレクション」のURLを明記する基本ルールを守ることをお願いしたい。
分類欄で「〇」と表示されている書籍は、誰でもネットで読むことが可能。「△」と表示されている書籍は、「国立国会図書館デジタルコレクション」の送信サービス(無料)を申し込むことにより、ネットで読むことが可能となる。
タイトル | 出版社 | 出版年 | 分類 | 国立国会図書館URL |
新聞集成明治編年史. 第1卷 文久2年~明治5年 |
林泉社 | 昭9 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1920323 |
新聞集成明治編年史. 第2卷 明治6年~明治9年6月 |
林泉社 | 昭11 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1920332 |
新聞集成明治編年史. 第3卷 明治9年7月~明治11年 |
林泉社 | 昭11 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1920337 |
新聞集成明治編年史. 第4卷 明治12年~明治14年 |
林泉社 | 昭11 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1920347 |
新聞集成明治編年史. 第5卷 明治15年~明治17年 |
林泉社 | 昭11 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1920354 |
新聞集成明治編年史. 第6卷 明治18年~明治20年 |
林泉社 | 昭11 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1920367 |
新聞集成明治編年史. 第7卷 明治21年~明治23年 |
林泉社 | 昭11 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1920380 |
新聞集成明治編年史. 第8卷 明治24年~明治26年 |
林泉社 | 昭11 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1920393 |
新聞集成明治編年史. 第9卷 明治27年~明治29年 |
林泉社 | 昭11 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1920400 |
新聞集成明治編年史. 第10卷 明治30年~明治32年 |
林泉社 | 昭11 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1920411 |
新聞集成明治編年史. 第11卷 明治33年~明治35年 |
林泉社 | 昭11 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1920419 |
新聞集成明治編年史. 第12卷 明治36年~明治38年 |
林泉社 | 昭11 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1920426 |
新聞集成明治編年史. 第13卷 明治39年~明治41年 |
林泉社 | 昭11 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1920436 |
新聞集成明治編年史. 第14卷 明治42年~明治45年 |
林泉社 | 昭11 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1920445 |
新聞集成明治編年史. 第15卷 全巻索引 |
林泉社 | 昭11 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1920455 |
新聞集録大正史 第1巻 大正元年~2年 |
大正出版 | 昭和53 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229246 |
新聞集録大正史 第2巻 大正3年 |
大正出版 | 昭和53 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229248 |
新聞集録大正史 第3巻 大正4年 |
大正出版 | 昭和53 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229251 |
新聞集録大正史 第4巻 大正5年 |
大正出版 | 昭和53 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12230955 |
新聞集録大正史 第5巻 大正6年 |
大正出版 | 昭和53 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229255 |
新聞集録大正史 第6巻 大正7年 |
大正出版 | 昭和53 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229254 |
新聞集録大正史 第7巻 大正8年 |
大正出版 | 昭和53 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229213 |
新聞集録大正史 第8巻 大正9年 |
大正出版 | 昭和53 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229217 |
新聞集録大正史 第9巻 大正10年 |
大正出版 | 昭和53 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12283309 |
新聞集録大正史 第10巻 大正11年 |
大正出版 | 昭和53 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229224 |
新聞集録大正史 第11巻 大正12年 |
大正出版 | 昭和53 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229223 |
新聞集録大正史 第12巻 大正13年 |
大正出版 | 昭和53 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12283310 |
新聞集録大正史 第13巻 大正14年 |
大正出版 | 昭和53 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229226 |
新聞集録大正史 第14巻 大正15年 |
大正出版 | 昭和53 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229230 |
新聞集録大正史 第15巻 大索引 |
大正出版 | 昭和53 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12283311 |
新聞集成大正編年史 大正元年度版 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和53 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12231598 |
新聞集成大正編年史 大正2年度版 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和44 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229261 |
新聞集成大正編年史 大正3年度版 上 1月~6月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和53 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229218 |
新聞集成大正編年史 大正3年度版 下 7月~12月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和55 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229239 |
新聞集成大正編年史 大正4年度版 上 1月~6月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和54 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229262 |
新聞集成大正編年史 大正4年度版 下 7月~12月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和55 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12286772 |
新聞集成大正編年史 大正5年度版 上 1月~6月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和55 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229222 |
新聞集成大正編年史 大正5年度版 中 7月~8月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和57 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229252 |
新聞集成大正編年史 大正5年度版 下 9月~12月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和51 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229268 |
新聞集成大正編年史 大正6年度版 上 1月~6月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和54 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229241 |
新聞集成大正編年史 大正6年度版 下 7月~12月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和56 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229221 |
新聞集成大正編年史 大正7年度版 上 1月~3月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和51 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229267 |
新聞集成大正編年史 大正7年度版 上ノ下 4月~6月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和59 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229220 |
新聞集成大正編年史 大正7年度版 中 7月~8月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和50 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229263 |
新聞集成大正編年史 大正7年度版 下 9月~12月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和52 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12283072 |
新聞集成大正編年史 大正8年度版 上 1月~6月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和56 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229219 |
新聞集成大正編年史 大正8年度版 中 7月~9月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和56 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229253 |
新聞集成大正編年史 大正8年度版 下 10月~12月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和56 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12284523 |
新聞集成大正編年史 大正9年度版 上 1月~3月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和57 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229249 |
新聞集成大正編年史 大正9年度版 中 4月~8月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和57 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229266 |
新聞集成大正編年史 大正9年度版 下 9月~12月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和58 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229247 |
新聞集成大正編年史 大正10年度版 上 1月~4月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和57 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229265 |
新聞集成大正編年史 大正10年度版 中 5月~8月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和58 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229215 |
新聞集成大正編年史 大正10年度版 下 9月~12月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和58 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229250 |
新聞集成大正編年史 大正11年度版 上 1月~4月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和58 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229264 |
新聞集成大正編年史 大正11年度版 中 5月~8月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和59 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229214 |
新聞集成大正編年史 大正11年度版 下 9月~12月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和59 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229212 |
新聞集成大正編年史 大正12年度版 上 1月~4月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和59 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12285425 |
新聞集成大正編年史 大正12年度版 中 5月~8月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和60 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229231 |
新聞集成大正編年史 大正12年度版 下 関東大震災期(9月) |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和60 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229235 |
新聞集成大正編年史 大正12年度版 下 関東大震災期(10月) |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和60 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12230929 |
新聞集成大正編年史 大正12年度版 下 関東大震災期(11月) |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和60 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229234 |
新聞集成大正編年史 大正12年度版 下 関東大震災期(12月) |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和60 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229233 |
新聞集成大正編年史 大正13年度版 上ノ上 1月~3月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和61 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229229 |
新聞集成大正編年史 大正13年度版 上ノ下 4月~6月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和61 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229228 |
新聞集成大正編年史 大正13年度版 中 7月~9月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和61 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229227 |
新聞集成大正編年史 大正13年度版 下 10月~12月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和62 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229225 |
新聞集成大正編年史 大正14年度版 上ノ上 1月~3月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和62 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229242 |
新聞集成大正編年史 大正14年度版 上ノ下 4月~6月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和62 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229240 |
新聞集成大正編年史 大正14年度版 中 7月~9月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和62 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12283451 |
新聞集成大正編年史 大正14年度版 下 10月~12月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和62 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229243 |
新聞集成大正編年史 大正15年度版 上 1月~4月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和60 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229232 |
新聞集成大正編年史 大正15年度版 中 5月~8月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和59 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12229216 |
新聞集成大正編年史 大正15年度版 下 9月~12月 |
明治大正昭和 新聞研究会 |
昭和58 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12283904 |
新聞集成昭和史の証言 第1巻 昭和元年、2年 |
本邦書籍 | 昭和58 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12396673 |
新聞集成昭和史の証言 第2巻 昭和3年 |
本邦書籍 | 昭和58 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12396674 |
新聞集成昭和史の証言 第3巻 昭和4年 |
本邦書籍 | 昭和58 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12396675 |
新聞集成昭和史の証言 第4巻 昭和5年 |
本邦書籍 | 昭和58 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12396676 |
新聞集成昭和史の証言 第5巻 昭和6年 |
本邦書籍 | 昭和59 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12396677 |
新聞集成昭和史の証言 第6巻 昭和7年 |
本邦書籍 | 昭和59 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12396678 |
新聞集成昭和史の証言 第7巻 昭和8年 |
本邦書籍 | 昭和59 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12396679 |
新聞集成昭和史の証言 第8巻 昭和9年 |
本邦書籍 | 昭和59 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12396680 |
新聞集成昭和史の証言 第9巻 昭和10年 |
本邦書籍 | 昭和59 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12396681 |
新聞集成昭和史の証言 第10巻 昭和11年 |
本邦書籍 | 昭和59 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12396682 |
新聞集成昭和史の証言 第11巻 昭和12年 |
本邦書籍 | 昭和60 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12396683 |
新聞集成昭和史の証言 第12巻 昭和13年 |
本邦書籍 | 昭和60 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12396684 |
新聞集成昭和史の証言 第13巻 昭和14年 |
本邦書籍 | 昭和60 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12396685 |
新聞集成昭和史の証言 第14巻 昭和15年 |
本邦書籍 | 昭和60 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12396686 |
新聞集成昭和史の証言 第15巻 昭和16年 |
本邦書籍 | 昭和60 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12396688 |
新聞集成昭和史の証言 第16巻 昭和17年 |
本邦書籍 | 昭和62 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12396689 |
新聞集成昭和史の証言 第17巻 昭和18年 |
本邦書籍 | 昭和62 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12396690 |
新聞集成昭和史の証言 第18巻 昭和19年 |
本邦書籍 | 昭和62 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12396691 |
新聞集成昭和史の証言 第19巻 昭和20年 |
本邦書籍 | 昭和62 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12396692 |
新聞集成昭和史の証言 第20巻 全索引(元年~20年) |
本邦書籍 | 昭和62 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/12396693 |
新聞集成昭和史の証言 第21巻 昭和21年 |
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新聞集成昭和史の証言 第23巻 昭和23年 |
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新聞集成昭和史の証言 第24巻 昭和24年 |
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新聞集成昭和史の証言 第25巻 昭和25年 |
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新聞集成昭和史の証言 第26巻 昭和26年 |
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新聞集成昭和史の証言 第27巻 昭和27年 |
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前回は「国立国会図書館デジタルコレクション」の全文検索を用いて歴史データを探索する方法を中心に書いたが、今回は「神戸大学新聞記事文庫」の全文検索を用いて調べる方法について書くこととしたい。
最初に、簡単に「神戸大学新聞記事文庫」について説明させていただく。
このデータベースは、神戸大学経済経営研究所によって管理されている明治末から昭和45年までの新聞切抜資料で、利用するにあたり会員登録などは一切不要で、ネット環境があれば誰でも無料で利用することができる。
現在の神戸大学の前身のひとつである「神戸高等商業学校」が、商業経済関係の新聞の切り抜きを開始したのは明治四十四年(1911年)のことで、大正八年(1919年)に「商業研究所」が設置されると新聞切り抜き事業は大幅に拡大され、終戦後に神戸大学が誕生すると新設された経済経営研究所にこの事業が継続されたのだが、この頃から新聞各社が縮刷版を出すようになったことから事業が縮小され、昭和45年に切り抜き作業が終焉したという。しかしながら明治末から昭和45年まで60年以上にわたって続けられた切抜帳はそのまま残されることとなり、冊数にして約3200冊、記事数にすると約50万件にも及び、わが国ではこれだけの規模の新聞切抜資料は他に存在しないと言われている。
この「新聞記事文庫」に収録された新聞の種類は大手紙だけでなく、経済紙や主要地方紙のほか、「台湾日日」「満州日日」「京城日報」等かつてわが国が統治した地域で発行された新聞などが幅広く採録されており、史料価値が高い。また同じ事件について、代表的な記事を一つ選ぶのではなく、複数の記事を採録していることもありがたいところで、当時の出来事について様々な視点からの論説などを読むことで、日本や世界の情勢や、当時の空気感が伝わってくる。
とは言え、当時の経済学・経営学研究者にとって興味深いと判断された記事が中心なので、戦争や大事件にかかわる写真付きの報道記事や政治関連や文化関連などの記事が少ないのは止むをえない。しかしながら、経済・経営研究者の視点で選ばれた記事だけが切り抜かれたものであり、結果として読み応えのあるものが少なくないのである。
しかも大半の記事の書き起こしがなされておりデジタルデータ化がなされている。したがって前回記事で「国立国会図書館デジタルコレクション」で紹介させていただいた「全文検索」を行うことにより、調べたいテーマに関する過去の新聞記事を瞬時に絞り込むことが可能なのである。
今日の新聞記事の質は相当低下してしまったが、昔の新聞社には優秀な記者が少なからずいて、しっかりと取材して真実を追求しようとする姿勢があった。政府や広告主やどこかの国に忖度して真実を歪めて報道するようなことは皆無とまでは言えないが、少なくとも今の新聞よりはるかに偏りが少なく、今もなお資料価値があることだけは確かである。
では具体的にどのような方法で、過去の新聞記事を探せばいいのか。
以前このブログで、長野朗が『支那三十年』(GHQ焚書)の中で支那の排日運動を仕掛けたのは英米の宣教師であったと書いている部分を紹介したことがある。このような内容は戦後の歴史解説書には一切かかれていないのだが、当時の書物や新聞にはしっかりと記されているので、その探し方を紹介させていただく。
① 神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ「新聞記事文庫」にアクセスし、検索ボックスにキーワードを入力(複数可)してクリックする。
検索ボックスには、間にスペースを入れることで複数のキーワードの入力も可能である。例えば、「宣教師 排日」と入力して検索すると、記事の中に「宣教師」と「排日」の両方の文字が含まれているデータが瞬時に205件抽出される。
②日付順に並び変え、一覧表示件数を増やす
並び順は古い記事から新しい記事に並び替えが可能なので、「並び順」の選択ボックスの右側にある「∨」ボタンをクリックして、「出版年:昇順」を選択。一覧表示件数も同様の方法で500に変更。
さらに絞り込みたい場合は「出版年」の年度を特定年のみとすることも可能だが、既に記事を出版年順に並べているので、マウスホイールを用いて調べたい年度までデータを進めればよい。
③記事の見出しをみて読みたい記事を読む
205件の記事を全部読むことは初めから考えない方が良い。まず記事の見出しをざっと見て、探している情報が書かれていそうな記事を開いてみる。例えば上から2番目の記事「新移民法案の目的」(1912/3/22~3/24)をクリックすると、その記事の画像と翻刻文が表示される。
短い記事ならすぐに読めるが、この記事は連載記事なのでかなり長い。この記事のどこに「宣教師」が出てきて、その前後がどういう文脈になっているかが知りたいのだが、以下のような方法で簡単にできる。
「Ctrl(コントロール)キー」と「Fキー」を同時に押すと全文検索ができるボックスが表示されるので、そこに「宣教師」と入力すると、翻刻文のどこに「宣教師」が出て来るかをオレンジ色で表示してくれるので、その前後だけを読めば自分の探している記事かどうかの判定ができる。この記事にはこの年にアメリカ議会に提出された「新移民法案」の内容が紹介されていて、この法案では日本人は官吏や宣教師、教師、学生、観光者などを除き、アメリカに入国することを禁止することが書かれていたことを報じていることがわかる。とりあえず、支那の排日とは関係が無いので今回は必要のないデータだと判断できる。
長野朗の著作では支那で排日運動が始まったのは1919年の五四運動の頃からという記述があったので、1919年の新聞記事の見出しを読んでいく。例えば4/25付の東京朝日新聞の記事によると、
近時欧米人の長江一帯に於ける活動は頗る注目に値すべきものあるが、最近湖北省樊城、安徽省蕪湖、湖南省常徳及四川省重慶に於ける施設状況は略左の如く、欧米人が耶蘇教会或は青年会を先躯として巧に支那人間に取入り以て一面伝道の美名を藉り、親欧米排日を鼓吹し、或は税関長を介して排日貨を企図すると共に、他面着々自国商権の拡張を進捗せしめつつあるは掩う可らざる事実なるものの如し…
「神戸大学新聞記事文庫」外交23-16
とあり、以下詳細に英米がキリスト教伝道の名を借りて、五四運動の前から支那人に排日を鼓吹していたことが報じられている。このように支那の排日運動は英米の宣教師が吹きかけたことは、先ほどの検索結果を見ればわかる通り、数多くの新聞が繰り返し具体的に報じており真実であったと考えてよいのだが、戦後の日本人にはそのような史実は伝えられておらず、教科書などでは北京の学生たちが抗議運動に起ち上がったのを機に日本の帝国主義に反対する民衆運動が広がったかのように記されている。
教科書やマスコミなどで語られる歴史叙述は、戦勝国にとって都合の良いように書き換えられたものであり、戦後の解説書をいくら読んでも、真実にたどり着けるとは限らないことを知るべきである。
新聞やテレビの解説で「情報戦」とか「宣伝戦」とか「思想戦」、あるいは「陰謀」とか「謀略」「ユダヤ(猶太)」などという言葉が登場することは皆無に近いのだが、「神戸大学新聞記事文庫」で記事検索すると、結構多くの記事がヒットする。
例えば、「情報戦」…1367件、「宣伝戦」…2161件、「思想戦」…2408件、
「陰謀」…1996件、「謀略」…172件、「ユダヤ」…545件、「猶太」…1086件。
これらの記事が毎年同様な頻度で登場するのではなく、特定の年に集中している。例えば「思想戦」であれば、1918年に123件、1919年に277件、1920年に202件、1921年に121件と多く、「猶太」であれば、1919年に174件、1920年に103件と多い。これはわが国やドイツ等に対してどこかの勢力の工作活動が活発に行われていた時期と無関係ではないだろう。ちなみに1918年に第一次世界大戦が終戦となり、1919年には中国で五四運動がおこり、パリでヴェルサイユ講和会議が行われ、1920年に国際連盟が誕生した。
この類の話は戦後の長きにわたりタブー視され、このような話題になるとすぐに「陰謀論」のレッテルが貼られて、誰もが深く考えないようにされてきたのだが、ここ数年間に相次いでおかしなことが起こり、マスコミも政治家も重大な問題に何も触れようとしないことに疑問を覚えて、わが国のマスコミや政治家に圧力をかけている勢力の存在に気付いた国民が一気に増えた感がある。マスコミのニュースの信ぴょう性を疑う人が増加し、戦後に広められて来た歴史叙述にも疑問を覚える人が多くなってきた。
「神戸大学新聞記事文庫」で戦後になってタブーとされてきた言葉で記事検索すると、これまで知らされることがなかった出来事や、これまで考えたことのなかった権謀術数に充ちた世界が見えてくるのだが、時間に余裕のある方は、一度検索してみてどのような見出しの記事がヒットするか試してみられたらよい。見出しをざっと読むだけで、熟読したくなるような記事がいくらでも見つかるので、時間がいくらあっても足りなくなる。
例えば1919年9月20日の大阪朝日新聞は、第一次大戦で敗戦したドイツがユダヤ人の天下となったとを伝えている。
ユダヤ人の天下、実際今日のドイツはユダヤ人の天下である。
金!、金!、金で買えないものは命ばかり。ドイツに一番ない筈の食糧品すら、金を積めば問題はないのだ。食糧欠乏でベルリンでは日々幾十人の死亡者を出て居るのも事実。その食糧が金て購い得るとすれば、今ドイツでは生命さえも金で買えるという事実がある。
それ程貴重な金権は戦争以来大半ユダヤ人の手許に帰した。ベルリンを始めフランクフルト、ハンブルグ、ブレーメンなどの大都会でシャンペンを浴びながら、芝居、舞踊と騒ぎ廻る不景気知らずは、挙げてベルリンの漂浪者である。瀕死に呻吟する本来のドイツが骨骸に徹する庭(程?)の怨恨を並べるのも、また無理ない事と言わねばならぬ。
ドイツの共和国に変ったのを正確に革命と言えるかどうかは問題外として、兔も角もあの大変革に際して、嶄然頭角を顕わし来った者は即ちユダヤである。前内閣が出来た時、エベルト・シャイデマンは幸いユダヤ人生まれでないそうだが、その他の閣員には多数ユダヤ人がいた。今日ドイツの政界を支配する頭領株の七割は、ユダヤ人だといわれて居る。
然もそのユダヤ人は、挙げて国家を超越した世界人で、国家を基礎とした総ての法律と徳義と感情から解放された民族である。フランクフルトの如きは古来有名なユダヤ人町であるが、彼等は休戦の際市街の一部が占領地帯に触れたのを幸い、全市を挙げて仏蘭西領に帰してはどうかと運動した者も少くなかったと伝えられる。彼等の国家に対する破壊力は、到底日本で想像する程生優しいものではない。
「神戸大学新聞記事文庫」社会事情2-126
食糧不足でベルリンでは毎日数十人の餓死者が出ていたなかで、少数のユダヤ人が貴重な食糧を買い去っていく。敗戦後のドイツの政界及び経済界は少数のユダヤ人が支配していたと言うが、当時ドイツにユダヤ人はどの程度きょじゅうしていたのだろうか。
大正15年刊の『国際事情』p.628によると、1920年でドイツに於けるユダヤ人人口は615,029人でドイツの人口に占める割合はわずか0.95%にすぎなかった。そんな少数のユダヤ人が、ドイツ人が貧しい生活を余儀なくされ餓死者も出ていた中で、ユダヤ人は毎日都会で「シャンペンを浴ながら、芝居、舞踊と騒ぎ廻」っていたのだから、ドイツ人がユダヤ人に嫌悪感を抱くようになったことは誰でも理解できるだろう。
教科書などではヒットラーがユダヤ人を迫害した事実は書かれているが、なぜドイツ国民がユダヤ人を迫害するナチスを支持したかについて触れることが無い。キリストを死に追いやったからユダヤ人が迫害されたと解説する人が多いのだが、そんなレベルの話では決してないのだ。ちなみに第一次世界大戦前のドイツの食糧自給率は、布浦芳郎 著『世界食糧戦』によると平均75~80%で、酪農品は50%、大麦は40~50%、小麦は30~40%であった。
一方、わが国の現状の食糧自給率は38%と第一次世界大戦前のドイツの半分程度しかなく、かつ肥料や種子はほとんど輸入している現状にあり、実態の自給率は1割程度だと言われている。
今のわが国の政治家の大半は、労働不足の解消と経済成長の為に大量移民が必要との考えのようだが、他国の事例を見ても、国別、宗教別に何の規制もかけない移民推進政策は危険である。市町村レベルで特定国の外国人居住者割合の上限を定めることや、犯罪率の高い国からの移民制限や、医療目的のみの移住禁止などのルールは最低限必要だろう。大量に移民を入れる前に、なぜルールを決めようとしないのか。
もしわが国に敵意のある国が意図的に大量の移民を送り込み、わが国の行政がそれらの移民に簡単に国籍を取得させたり、一部地域で外国人参政権を認めてしまえば、いずれ我が国の中に外国人が実質的に支配する地域が拡大していくことになるだろう。そしてわが国は、第一次世界大戦後のドイツのように、各地で少数の外国人がわが国の政治や経済を牛耳るようになり、一部の日本人が飢える日が到来するかもしれない。そして、外国人に主導権を奪われた地域の文化や伝統は消滅していくことになるだろう。そうならないために、次回の選挙で、全国民一丸となって売国政治家の一掃をはかりたいものだ。
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過去の事件や人物について詳しく調べたい時にどうやって関連書物や新聞記事を探し出しているのかと質問されたことがある。その方は、私が市販の書籍やネットの検索などではなかなか知り得ないような内容を記事にしているのが不思議であったようだ。
昔は調べ物をする時に何度か図書館通いをするしかなく、私も若いころに図書館に籠もった経験があるが、図書館で意中の本を探すことは容易ではなかった。どこの図書館に行っても図書の分類表(日本図書館協会『日本十進分類法』)に従って整然と書架が並んでいて、「日本史」など目的の書架の近くで大量の本の背表紙を目で追いながら、自分の知りたい情報が書かれていそうな本を探すのだが、本の背中に書かれている書名だけでは何がどのような立場で書かれているかは知ることが出来ないのでまず前書きや目次などを確認し、探している情報がでてきそうな章を斜め読みして参考になる本であるかどうかを見極める作業が必要になる。理科系の本ならばそれほど難しいことではないかもしれないが、文系の本は自分の求めている情報について書かれているかどうかの判断は、実際にある程度丹念に読まないと見極めが難しく、長い時間をかけても良い情報が得られる保証はない。
しかしながら、今ではパソコンの検索機能を活用することによって、求める情報を短時間で探すことが出来るようになっている。例えば、『国立国会図書館デジタルコレクション』には「全文検索」機能があり、この機能を活用することにより、求めている情報が、どの本の何ページに書かれているかを比較的短時間で探し出すことができる。
『国立国会図書館デジタルコレクション』でデジタル資料化の対象となっているものは国立国会図書館の蔵書のうち「明治期以降、1995年までに整理された図書等」で、デジタル化された図書のうち著作権が切れている図書については多くの部分がネット公開されており、ネット公開されていない図書や著作権が切れていない図書も「個人向けデジタル化資料送信サービス」の利用登録手続きをすることにより、かなり多くの著作を読むことが可能となる。このサービスは令和4年の5月から開始されたもので、ネット環境さえあれば誰でも無料で利用できるありがたいサービスであり、読者の皆さんに利用登録されることを強くお薦め致したい。
また『神戸大学新聞記事文庫』は神戸大学経済経営研究所によって作成された明治末から昭和45年までの新聞切抜資料で、約38万件の記事がデジタル化されていて、このサービスは特に事前の手続きは必要なく、ネット環境があれば誰でも無料で利用出来る。
いずれのデータベースも、一部のデータについては文字起こしがなされておらず各ページの画像あるいは新聞記事の切り抜き画像となっているが、大半のデータが文字起こしされており「全文検索」機能を利用することが出来ることはありがたい。「全文検索」でキーワードを入力すると、その言葉がどの本の何ページに何が書かれているか、いつのどの新聞の記事にでているかを誰でも短時間で見つけることが出来る。
この方法は歴史に限らずどんな分野においても利用することが出来るので、古い本や新聞に書かれていることを調べる際には、試しに利用されることを是非お薦めしたい。
では具体的に、どのように調べればいいのだろうか、その方法について述べることにしたい。例えば自分の親や祖父母の出身地の歴史や文化を調べるにはどうすればいいのか。古い神社や寺、あるいは伝統芸能が残されている場合は、寺や神社の名前、伝統芸能の名前を『国立国会図書館デジタルコレクション』の検索ボックスにキーワードを入力し「検索」と表示のある部分をクリックすればよい。
その時に気を付けなければならないのは、明治期の神仏分離で寺、神社の名前が変わったり、地名の場合は明治期の廃藩置県のあとで行われた府県統合や昭和期の市町村合併やなどで地域の名前が変わったり、村が町になったり、町が市になったりしているので、探している情報によっては検索するキーワードを工夫することが必要となる。
例えば丹波篠山市の歴史を調べたい時は、まずWikipediaで過去の市町村合併の有無について調べると、この市は1999年に旧多紀郡篠山町・今田町・丹南町・西紀町の4町が合併して篠山市が誕生し、2019年に篠山市から丹波篠山市に名称変更されたと解説されている。篠山の歴史が書かれた本がいつ刊行されたのかが不明なので『国立国会図書館デジタルコレクション』でキーワードを色々変えてみる必要がある。試しにキーワードを「篠山史」とすると22件、「篠山町史」とすると10件の書籍や雑誌がヒットする。『篠山町七十五年史』、『丹波篠山の城と城下町』、『郷土事典』、『篠山城史』、『多岐郷土史考 上巻』など、使えそうな図書をすぐに見つけることが出来る。ちなみに検索キーワードを「丹波篠山史」「丹波篠山市史」とすると1件も引っかからない。
長い歴史と伝統を持つ市町村はその地域の歴史を調べて出版しているケースが多いので、そのような図書を読んでみたいと思う方は、是非『国立国会図書館デジタルコレクション』の検索ボックスにその地域の名前を入れて「史」と入れるとかして検索を試みてほしいと思う。うまくいかなかったら、市を町にしたり、町を村にしてみたり、あるいはその地域にある古い寺や神社の名前を入れれば何か引っかかると思うのだが、せっかく何点か引っかかっても大半の図書が「送信サービス」の利用者登録をしていないと読めないので、これを機会に登録されることをお薦めしたい。
市や町の歴史よりも、郡や県の歴史を知りたい場合も同様の方法で調べることが出来るのだが、郡や県の名称が明治以降何度も変えられて来たケースが少なからず存在する。Wikipedia等で確認することも可能だが、昭和の市町村合併以前の郡県の名称変更については、「地理データ集」というサイトから「府県の変遷」に進み地図上で調べたい地方をクリックすると、その地域の版籍奉還から府県統合、その後に行われた郡の変遷までが非常にコンパクトにまとめられている。また昭和以降の市町村合併による名称変更については、Wikipediaで確認するのが良いと思う。
自分の先祖など特定の人物のことを調べたい時も、「国立国会図書館デジタルコレクション」の検索機能が役に立つことが多い。歴史上の有名人でもない限りなかなか引っかからないものではあるが、地域や組織の中で尽力した人物であれば、誰かがどこかで記録している可能性がある。
例えば、1867~1869年にかけて英国の文献で登場する柳川藩のIkebe Goiという人物に関する情報を探しておられる外国人の研究者の方から、日本側の資料でこの人物について記されている資料はないかとの照会をいただいたことがある。Ikebe Goiが本名なのか、字はどのように書くのかもよくわからないということであったが、この時は、キーワードを「柳川藩」「池辺」として「国立国会図書館デジタルコレクション」で検索すると1833件の書籍・論文がヒットし、さらにタイトルに「柳川藩」を含むデータを絞り込むことで、『柳川藩資料集』という本のp.455に池辺城山と英国公使パークスとの会談についての記録が見つかった。その記録には「城山は池辺永益の号で通称は藤左衛門のちに節松と称した」と書かれていたことと、Goiは位階の「五位」ではないかと回答し、さらに池辺永益、池辺藤左衛門、池辺節松でも多くの書籍データがヒットすることを追記したところ、随分喜んでいただいた。
このように一昔前なら学究者が何年もかけて万巻の書物を探し集めて紐解いていかなければできなかったことが、現在では極めて短時間のうちに必要な書籍の該当箇所を探すことが出来るようになっていることは知っておいた方が良いだろう。
もし皆さんのご先祖で調べてみたい人物がおられたら、「国立国会図書館デジタルコレクション」で一度検索してみることをお薦めしたい。同姓同名の人物が引っかかる可能性は否定できないが、先祖が生前に交流のあった人物が本の中で登場することで、ご先祖本人であることが確認できるかもしれない。また旅行先で見かけた銅造や人物の名前が彫られた石碑が、その地域でどのようなことを成し遂げた人物であり、その地域でどのような事績が残されているかを調べる時、あるいは調べたい地域の出来事や、古寺古社の由来などを調べる時にもこの手法が有効である。
上記のようにデータを絞り込めるのは、国立国会図書館に所蔵している相当数の書籍の全文がデジタルデータ化されているからなのだが、「全文検索」機能の威力について少し触れておくこととしたい。
例えば、奈良の寺社について江戸時代の寛政三年(1791年)に刊行された『大和名所図会』に、大和郡山市にある矢田寺についてどのように記述されているかを調べる方法について手順を簡単に述べておこう。
(1)『大和名所図会』を探す
最初に、「国立国会図書館デジタルコレクション」で「大和名所図会」で検索すると、この本の解説した本や引用した本が多いので2930件もの書籍がヒットする。そこで、タイトル欄にも「大和名所図会」と入力して検索をし直すと、15件のデータに絞られるので大日本名所図会刊行会『大日本名所図会 第1輯 第3編』がすぐに見つかる。このリンクをクリックすると、この書籍は江戸時代に刊行された『大和名所図会』全六巻を大正八年に復刻した本であることがわかる。他にも何点かヒットするが、三点が国立国会図書館内限定のデータで、他は江戸時代に刊行された書籍の画像データのため、「全文検索」データが利用できない。
(2)全文検索の利用事例
『大日本名所図会 第1輯 第3編』を選択した後「全文検索」をクリックし、検索欄に「矢田寺」と入力して検索ボタンをクリックすると、2件のデータがヒットする。「126 0126.jp2」は『大日本名所図会 第1輯 第3編』の本文p.206~207で、「金剛山寺 矢田村にあり、俗に矢田寺という。本尊は地蔵菩薩なり。…」と長めの解説が記されており、矢田寺の正式名称は「金剛山寺」で、「矢田寺」は俗称であることがわかる。「249 0249.jp2」は矢田寺とゆかりのある「矢田畠笠辻」という場所の解説である。
次にこのページのままで全文検索の検索ボックスを「金剛山寺」と打ち換えて検索すると、6件のデータがヒットし、「128 128.jp2」(本書 p.210~211)に金剛山寺の図会が確認できる。ヒット件数が多いのは、葛城山の山頂にも同名の寺が存在しており、目次と本文が重複してヒットし、さらに図会と図会の目次がヒットしているためである。
もし『大日本名所図会 第1輯 第3編』が文字起こしされていなかったら、この作業には本の目次に「矢田寺」の名前が出てこないので、郡山城あたりから本文を読み進んで探すしかないだろう。このやり方ではかなりの時間を費やさざるを得ない。
(3)「全文検索」でできること
この「全文検索」を用いることによって、いろんなことを調べることが容易になる。例えば以下のような作業が簡単にできる。
・『新古今和歌集』に「桜」を詠った作品がいくつあるか。
これは、『新古今和歌集』のテキストを見つけて「梅」を入力して全文検索すれば、梅を含む全作品を容易に調べることが出来る。
・福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という有名な言葉はどの作品に記されていて、その言葉の前後に何が書かれているか。
検索ボックスに「福沢諭吉」「人の上」と入力して検索すると、三万点以上の書籍がヒットするが、さらに著者名に「福沢諭吉」を入れて絞り込み、適当な書籍をクリックして、「人の上」とでも入力して全文検索すれば、その本のどのページに書かれているかがすぐにわかる。
ある人物がどんな著作を残しているかを調べる際に、ネットで検索してもその人物が出てこないことがよくある。例えばこのブログで紹介させていただいた「須藤理助」や「長野朗」「武藤貞一」という人物はWikipediaには記載はなく、どんな人物であるかについてネットではわからない。
またWikipediaなどに出てきても、その著作の中にGHQが焚書処分した著作が伏されているということが良くある。たとえば以前このブログで何点かのGHQ焚書の一部を紹介させていただいた山中峯太郎の著作はWikipediaの「主な著作」一覧から、GHQ焚書処分された十六点すべてが掲載されていないのは不自然である。松岡洋右は彼の外交官・政治家としての事績が詳しく書かれているのだが、彼が多くの著作を残したことについては一言も書かれていない。
そんな事例は他にも多数あり、GHQによって焚書処分された書籍や論文については、日本国民には読む機会を与えないように、ネット上でも何らかの規制がされているのではないかと考えたくなるところである。
例えば、松岡洋右がどんな著作を残しているかについて調べてみよう。検索ボックスにの右下に「詳細検索」のリンクがあり、それをクリックすると詳細検索のページに飛び、次に「著者・編者」欄に「松岡洋右」と入力して「検索」ボタンをスリックすると、44点の図書と7点の音源がヒットする。
よく見ると重複する図書が存在するのでそれを差し引くと図書数は36点となる。すべての著作が国立国会図書館の蔵書になっているとは限らないのだが、他の著者の事例から類推すると、少なくとも戦前・戦中に出版された書籍の大部分は国立国会図書館が大部分を所蔵していると考えてよいだろう。松岡の著作の内GHQによって焚書処分されたものは8点存在し、彼も焚書された著作の割合が多い人物の一人である。
以前このブログで紹介させていただいたが、GHQ焚書のリストは昭和二十四年(1949年)に文部省社会教育局が編纂した『連合国軍総司令部から没収を命ぜられた宣伝用刊行物総目録 : 五十音順』が刊行されており、「国立国会図書館デジタルコレクション」で全文が公開されていて、ネット環境があれば誰でも閲覧することが可能である。またこの目録は書名と著者・編者名、刊行日がデジタルデータ化されており、全文検索機能を用いることで以下のようなことが可能である。
①焚書された書籍リストから、ある人物が著した、あるいは編集した図書を探す
例えば焚書書籍リストから、長野朗が著した、あるいは編集した著作を探す場合は、『連合国軍総司令部から没収を命ぜられた宣伝用刊行物総目録 : 五十音順』をクリックし、「全文検索」をクリック後、検索ボックスに「長野朗」と入力してクリックすると、17点の検索結果が表示されるので、全部で長野朗のGHQ焚書は17点と思いたいところだが、この目録のデータには相当数の重複があり誤記も多く、また「国会図書館デジタルコレクション」のデータにもかなり誤記が多いので、全点が正確に引っかかる保証はない。このケースでは『現代戦争読本』が文部省側のデータで2点存在し、『支那読本』と『日本と支那の諸問題』の2点が国会図書館側のデータ入力ミスにより引っかからず、長野朗のGHQ焚書は実際には18点である。
②手元にある古い本がGHQ焚書であるかどうかを確認する
例えば実家にある戦前の本がGHQ焚書であるかどうかを確認する時も同様に、『連合国軍総司令部から没収を命ぜられた宣伝用刊行物総目録 : 五十音順』をクリックし、「全文検索」をクリック後、検索ボックスに本の書名や副題の一部でも入力してクリックすることで概ね確認することが出来る。特に書名については新かなづかいで読み替えると検索結果に出てこないので注意が必要である。また目録のデータにも国会図書館のデータにも入力ミスが多いので、念のために著者・編者名で入力したり、タイトルの一部の文字を入れたりすることでたまに検索に引っかかることがある。たとえば丸本彰造著『食糧戦争』は、目録のデータでは著者が「丸山彰造」と誤っているために、著者でいくら検索してもヒットしない。
次回は「神戸大学新聞記事文庫」で記事の探し方について書くこととしたい。
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