桜田門外血染めの雪
安政七年三月三日(1860/3/24) の朝は、桃の節句にしてはかなり寒く、雪が降り積もっていた。
集合地の愛宕山に、水戸の志士17名と薩摩の有村治左衛門が集まったが、彼らの役割は井伊大老の暗殺である。総指揮は關鐡之介で、総代として蹶起趣意書を老中に持参するのは斎藤監物で、先供に狼藉を仕掛ける役、駕籠の右から斬り込む役、左から斬り込む役などが決められていた。
総帥の金子孫二郎は、桜田門での成功を見届けてから直ちに上洛して薩摩藩と共に挙兵するため、定められた通り薩摩屋敷の有村の所に潜んでいた。
關鐡之介らは三々五々山を下って桜田門外に向かった。
文部省が発行した『概観維新史』では井伊大老暗殺の場面を次のように記している。
やがて五ッ時(午前八時)、一同は外桜田の杵築・米澤二藩邸の前に到り、或いは濠に沿いて徘徊して行人を装い、或いは葭掛茶屋に憩うて雪景を賞するに擬し、或いは路傍に踞(うずくま)って、諸侯の登営を観る態をなして、大老の駕の来るのを待った。既にして城中辰の刻(午前九時)を報ずる太鼓の音は、四隣に響き渡った。更に待つこと少時、彦根藩邸の赤門を出た行列は、上下六十人ばかり、儀衛粛々として此方に進み来たった。壮士らは息を潜め、一行を凝視して、徐(おもむろ)に機の到るを待つ。
今や前衛が将に左折して、桜田門に向かおうとした時、銃声一発高く城池に響き渡った。こはこれ当日の指揮に当たった關鐵之介が放たしめたもの。
間髪を容れず、傘を抛(なげう)ち、合羽(かっぱ)を捨てた一団の壮士は、雪を蹴って驀地に前衛を衝き、刀を揮って縦横に斬り込んだ。
雨衣重装、刀の柄に羅紗袋を掛けていた彦根藩警固の士は、不意を襲われて周章狼狽、鞘を払うに暇もなく、刀室(とうしつ:刀の鞘)のまま支え闘うあり。或いは徒らに怒号狂奔するあり。衆多く前衛に気を奪われ、輿側を顧みるに遑(いとま)あらず。乱闘死傷相次ぎ、白雪は倏(たちま)ち鮮血に染んで淋漓華の如し。この時稲田重蔵・廣岡子之次郎・海後磋磯之助・有村治左衛門は輿側を目がけて突進乱斫、重蔵まず一刀を以て輿中を貫けば、衆これに踵いで左右より乱差し、次左衛門は戸を壊って大老を引出し、首級を挙げて、これを刀尖に貫き、大声を発して歓呼し、衆皆これに和す。かくてこの乱闘は殆んど一瞬時にして終わり、一挙の目的は見事に達成せられた。
変を聞いて彦根藩邸より藩士が奔り来たが、既に晩くして、遂に及ばなかったのである。
(維新史料編纂会 編『概観維新史』文部省 昭和17年刊 p.306~307)
なぜ彦根藩警固の士が水戸浪士の襲撃を防ぎきれなかったのか
学生時代に「桜田門外の変」を学んだ際に、井伊大老のような重要人物には彦根藩の武士が大勢で護衛していたはずなのに、なぜ水戸浪士による襲撃が成功したのかと疑問に思った記憶があるが、『概観維新史』などを読むと、その日に雪が降っていたことが重要であったことがわかる。
季節はずれの雪で、水戸の浪士たちが大名行列の近くで傘をさし雨具の笠をかぶっていても、雪見の客と外見は変わらず、誰からも怪しまれることがなかったという。
また、水戸の浪士たちは傘をなげうち、合羽を脱ぎ捨てて、いつでも刀が抜ける状態で行列に向かっていったのに対し、彦根藩の武士たちは雨具を着たままで、雨具を脱ぎ捨てても、刀はすぐに抜ける状態でなかったのだ。
京都市東山区の建仁寺の東に「京都井伊美術館」という小さな美術館があり、そのホームページを調べると、「桜田門外の変 井伊家供頭(ともがしら) 日下部三郎右衛門の佩刀」の画像と解説が出ている。そこには、こう記されている。
季節はずれの大雪のため供侍は柄袋や鍔覆い、鞘革など刀を完全に防護して出立したため応戦できず、悲惨な状況となったことは周知の事実。
刀の柄や鍔、鞘が濡れないようにそれぞれが袋のようなもので覆われていては、袋から出さないことには刀が抜けない。日下部三郎右衛門の柄袋には刀傷があると書かれているが、この人物は負傷し、藩邸で死亡したのだそうだ。
桜田門外の変の犠牲者
誰が大老の首を討ち取ったのかは諸説があるが、目的を果たした水戸浪士らの犠牲も大きかった。稲田は闘死し、広岡、有村のほか3名が自刃し、3名が自首した後に傷や病で死亡し、7名が捕縛されて死罪となっていて、明治時代まで生きた人間は2名しかいないという。
一方彦根藩は、直弼のほかに闘死者4名、重傷を負いその後死亡した者4名、他に5名が重軽傷を負ったというのだが、残りの者については多くの者が逃亡したと噂されていたようだ。Wikipediaによると、「事変から2年後の1862年(文久2年)に、直弼の護衛に失敗し家名を辱めたとして、生存者に対する処分が下された。草刈鍬五郎など重傷者は減知の上、藩領だった下野国佐野(栃木県佐野市)へ流され揚屋に幽閉された。軽傷者は全員切腹が命じられ、無疵の士卒は全員が斬首・家名断絶となった。処分は本人のみならず親族に及び、江戸定府の家臣を国許が抑制することとなった。」とあり、生存者にはかなり厳しい処分が言い渡されている。
桜田門外の大老襲撃のあと京都で挙兵する計画はどうなったか
前回の「歴史ノート」で記したとおり、水戸浪士らの目的は桜田門での襲撃だけではなく、京都で薩摩兵と合流し、ともに朝廷を擁して幕閣を改造することにあった。
桜田門での計画の成功を見届けて上京の途に就いた金子孫二郎・有村雄介・佐藤鐵三郎は、東海道を進んで三月九日に四日市に至ったが、その夜に薩摩藩に捕らえられ伏見の薩摩藩邸に護送されたという。なぜ幕府ではなく、薩摩藩が三人を捕えたのであろうか。前掲書にはこう記されている。
伏見に至れば、京都の形勢は、孫二郎らの予期したところとは大いに相違し、同志の薩州藩士の上京する者一人もなく、目算は既に齟齬していた。蓋し江戸の薩州藩邸吏は、雄介の出奔するを知って、その幕吏のために捕らわれることを恐れ、急にこれを捕えしめたのであった。而して曩(さき)に江戸において義挙の事が決するや、雄介は同志を藩地に帰らしめて、同志の東上と京都守護を名として藩兵の派遣とを促さしめたが、薩州の藩情は輒(たやす)く志士らの意の如くならず、藩はかえって藩士の行動を抑制したので、茲(ここ)に東西の事情は大いに齟齬を生じ、孫二郎らの意図した京都に薩州兵を迎え、天朝を擁して幕府に臨む策は失敗に帰し、孫二郎ら同志は各々悲惨な末路を告げるに至った。即ち孫二郎・鐵三郎は後日、伏見奉行の手に移されて江戸に送られ、孫二郎は斬に処せられた。また有村雄介は藩地に帰り、自刃を命ぜられた。
(同上書 p.311~312)
一方、大坂で薩摩兵の東上を待っていた高橋多一郎・庄左衛門父子らは、三月二十三日に幕吏に囲まれたのだが、高橋父子は血路を開いて四天王寺に入り切腹して果て、他の浪士は捕えられて多くは獄中で死んだという。
また、桜田門から大阪に向かい、高橋多一郎らと合流するつもりであった關鐵之介らは、幕吏の警戒が厳重であったために難を避けて四方に散ったが捕らえられ、多くは死罪となり、難を免れた者は二人だけだったという。
幕府はなぜ井伊大老の死を秘したのか
桜田門外の変で井伊大老が没したのは明かなのだが、おかしなことに井伊家の菩提寺・豪徳寺にある墓碑に、命日が「三月二十八日」と刻まれているのだそうだ。
Wikipediaにはこの理由について、こう解説されている。
当時の公式記録としては、「井伊直弼は急病を発し暫く闘病、急遽相続願いを提出、受理されたのちに病死した」となっている。これは譜代筆頭井伊家の御家断絶と、それにより誘発される水戸藩への敵討ちを防ぎ、また、暗殺された直弼自身によってすでに重い処分を受けていた水戸藩へさらに制裁(御家断絶など)を加えることへの水戸藩士の反発、といった争乱の激化を防ぐための、老中・安藤信正ら残された幕府首脳による破格の配慮であった。
しかしながら、襲撃された現場には後続の大名駕籠が次々と通りかかり、鮮血にまみれた雪は多くの人々に目撃されていた。大老が暗殺されたことは江戸中の人々に知れ渡っていたのだが、藩主が跡継ぎを決めないまま横死した場合は家名断絶とするルールがあった。彦根藩は、それなら水戸藩に復讐するしかないと襲撃の準備を始め、水戸藩は防戦の支度を急いだのだが、両家が正面衝突でも起こしたら幕府の命取りにもなりかねない。そう考えた老中安藤信正は、幕府としてはなんとか両藩の衝突を避けようと考えた。
前掲書にはこう解説されている。
(幕府は)同藩(彦根藩)に命じて、直弼の死を秘して、傷を負うた態に届出でしめ、将軍よりは侍医を遣し、医薬を賜ってその存命を装わしめた。ついで三月晦日に至って、幕府は直弼の大老職を免ずるとともに、水戸藩主徳川慶篤に登城を禁じ、閏三月晦日初めて直弼の病没を公表せしめ、四月二十八日遺子愛鷹の襲封を許し、遂に両家に対して断乎たる処置を取らず、わずかにその間を弥縫して事なきを得たのである。由来幕府の規制に遵えば、当然改易に処せらるべき井伊家に対し、その祖先以来の由緒勤労を思い、かつ一藩の動揺を恐れて、かくも糊塗の策を取ったのであろうが、白昼路上の事変であったから、誰かかかるところで瞞着せらるべき。事実は霹靂の如くに津々浦々に響き渡って、心あるも心なきも、皆時世の変異を感じ、幕府の姑息を嗤わぬものはなかった。
同上書 p.321~322
また彦根藩は、直弼が生存しているという擬装を行うために井伊直弼の首を胴体と縫い合わせたという。Wikipediaにはこう記されている。
直弼の首は…の三上藩邸に置かれていた。所在を突き止めた井伊家の使者が返還を要請したが、遠藤家は「幕府の検視が済まない内は渡せない」と5度までも断り、その使者を追い返した。そこで井伊家、遠藤家、幕閣が協議の上で、表向きは闘死した藩士のうち年齢と体格が直弼に似た加田九郎太の首と偽り、内向きでは「遠藤家は負傷した直弼を井伊家に引き渡す」という体面を取ることで貰い受け、事変同日の夕方ごろ直弼の首は井伊家へ送り届けられた(遠藤胤統は現役の幕閣であり、彦根の近隣の藩主でもあることから有名な直弼の顔を家中もよく知っており、実際には気付いていた可能性が高い)。その後、井伊家では「主君は負傷し自宅療養中」と事実を秘した届を幕閣へ提出、直弼の首は彦根藩邸で藩医・岡島玄建により胴体と縫い合わされた。
(Wikipedia 桜田門外の変)
当時江戸で流行った戯れ唄がWikipediaに出ている。
「いい鴨を 網でとらずに 駕籠でとり」
「いい鴨」は「井伊掃部(かもん)」をもじっている。井伊大老は宮中行事の設営や殿中の清掃を司る「掃部寮」の長官「掃部頭(かもんのかみ)」でもあったのだ。
また死んでいるのに生きていることにしたことを皮肉った川柳もある。
「倹約で 枕いらずの 御病人」
「遺言は 尻でなさるや 御大病」
「人蔘で 首をつげとの 御沙汰かな」
徳川幕府最高の重職である大老がわずか18人の浪人に命を奪われたことによって、幕府の権威が失墜したと良く書かれるのだが、江戸庶民からも馬鹿にされるような見え見えの茶番劇をしたことも、幕府の権威を落としその凋落を早めた原因の一つになったのではないだろうか。江戸幕府はこの事件から7年後に幕を閉じることになる。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
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読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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