2024年 03月 22日
あらためて『通鑑』 |
メモを取りながらあらためて『通鑑』を見ていく.
330年代後半,すなわち前燕は慕容皝,後趙は石虎の治世が始まって間もない時期だが,華北ではこの両政権の対立を軸として政局が推移していく.両政権の間に介在していた遼西鮮卑すなわち段氏鮮卑の攻略をめぐるヘゲモニー争いを経て,340年代の半ばまでこの状況は続く.この間,339年冬には前燕が東晋に対して「并請刻期大挙,共平中原」を,340年には後趙が成漢に対して「与之連兵入寇,約中分江南」を提案するに至る.前燕・東晋連合と後趙・成漢連合の激突である(もちろんそれは現実にはならなかったのだが).後趙では確かに342年12月,「南伐之備」(対東晋)や「東征之計」(対前燕)とともに,「西討之資」(対前涼)が準備されたことはあったが,それ以上ではなかった.
このような華北の政治状況のなかで,前涼は脇役しかも端役的な存在に過ぎなかった.だから後趙に敢然と対決した慕容皝を燕王に冊封した東晋も,前涼の張重華が凉王を求めても,拒否したのである.東晋の使者兪帰の言「若帥河右之衆,東平胡・羯,脩復陵廟,迎天子返洛陽,将何以加之乎」(347年10月)はそのような前涼の位置を端的に表している.
慕容皝を嗣いだ慕容儁は周知のように,帝位に就く.東晋に臣称することはもはやなくなった.そのことが,東晋と前涼との関係にも影響を及ぼすことになった可能性もあるが,それは別途考える必要がある.
by s_sekio
| 2024-03-22 14:55
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