朴裕河による名誉毀損事件の刑事裁判高裁判決に関する件

2017年1月25日に地裁で無罪判決が出た朴裕河事件ですが、今回高裁でその判断が覆り有罪判決が出たことにより、日本では“司法が世論に阿った”という決め付けが横行しています。
韓国内の厳しい論調影響か 「帝国の慰安婦」二審で有罪(ソウル=牧野愛博2017年10月28日05時02分)

“司法が世論に阿った”と断言するためには、少なくとも韓国の名誉毀損関連の法体系がどうなっており、どのように運用されてきたかを知っておかなければならないはずですが、そういった知識を踏まえた意見というのを報道記事含めて全く見かけません。そして、韓国での名誉毀損法運用を踏まえた上で、それを逸脱して世論に沿った判決が出た場合に初めて“司法が世論に阿った”という評価が下せます。
そういった前提知識やそれを踏まえた検討を経ずになされる評価は全て先入観によるものでしかありません。

例えば、日本は死刑制度を維持していますが、ある事件の死刑判決に対して死刑賛成の世論に司法が阿った、と評するためには死刑判決の判例に照らして妥当かどうかの判断が必要になります。私は死刑反対の立場ですが、あらゆる死刑判決に対して死刑賛成の世論に司法が阿ったなどとは考えません。過去の判例に照らして死刑判決が妥当と言えない場合に初めて、死刑賛成の世論に司法が阿ったと評価します。もちろん、判例上妥当だからといって死刑に賛成するわけでもありませんが。

「言論の自由を侵す言論弾圧」?

本件について「言論の自由を侵す言論弾圧」だと決め付けているバカもいますが、日本国内でも名誉毀損に対する刑事裁判はあり、年間200件くらいは起訴されています*1。
刑法に名誉毀損行為を処罰できる規定があり、違憲判決などの理由でモラトリアムされていない限り、その法に基づく告訴と裁判というのも起こりえる話であり、当然有罪となることもありえるわけです。
この場合、言論の自由という憲法上の要請は裁判の中で判断されることになりますが、常に無罪判決しか出せないなんてこともなく、言論の自由を考慮してなお有罪とされる場合もあります。

判決に至った理由が重要

という当然のことから指摘せざるを得ないのは情けない限りです。
上記の朝日記事では、判決理由について以下の一文しか示していません。

 高裁判決は朴教授が「日本によって性的虐待を受けた慰安婦に対し、虚偽の事実を示して名誉を毀損(きそん)した」と判断した。同時に学問や表現の自由は守られるべきだとし、刑事処罰は望ましくないとした。

http://digital.asahi.com/articles/ASKBW41B0KBWUHBI00T.html

「虚偽の事実を示して名誉を毀損(きそん)した」場合に刑事罰に問われるのは、日本でも同じですので、これだけでは何もわかりません。
ハンギョレ記事はその辺をもう少し詳しく書いています。
『帝国の慰安婦』朴裕河教授、控訴審で名誉毀損の有罪(登録 : 2017.10.27 23:13修正 : 2017.10.28 09:53)

 日本軍「慰安婦」被害者の名誉を傷つけた疑いで、1審で無罪を宣告された『帝国の慰安婦』の著者である朴裕河(パク・ユハ)世宗大学教授(60)が、控訴審で罰金刑を宣告された。
 ソウル高裁刑事4部(裁判長キム・ムンソク)は27日、名誉毀損の疑いで裁判に付された朴氏に無罪を宣告した原審を破棄し「歪曲された事実を摘示し、自分たちの意思に反して性的奴隷の生活を強要された被害者に計り知れない精神的苦痛を抱かせた」として、罰金1000万ウォン(約100万円)を宣告した。ただし、裁判所は「朴氏が被害者に苦痛を加える目的を持ってしたことではなく、学問と表現の自由が萎縮してはならないという点を考慮した」と明らかにした。
 朴氏は『帝国の慰安婦』で、日本軍「慰安婦」に対して「日本軍と同志的関係であった」、「日本帝国による強制連行はなかった」などの趣旨で虚偽の事実を記述し、慰安婦被害者の名誉を傷つけた疑いで起訴された。1審裁判所は、検察が『帝国の慰安婦』で名誉毀損表現として起訴した35カ所のうち30カ所は朴教授個人の意見を表明したに過ぎないと見た。また、事実摘示であると判断した5カ所は、被害者が特定されなかったり名誉を傷つける内容ではなかったとの理由で無罪と判断した。
 控訴審の判断は違った。まず裁判所は、事実摘示表現を1審より多い11カ所で認めた。また、クマラスワミ前国連経済社会委員会人権委員会特別報告官など国際機構の研究報告書と河野談話を引用して、日本軍「慰安婦」の大部分が自身の意思に反して動員され、その過程で日本軍が直・間接的に関与した事実が認められると指摘し、朴氏はこれとは異なる虚偽の事実を記述したと見た。裁判所は「朴氏は断定的表現を使って『朝鮮人慰安婦』が自発的に性売買をしたとし、日本軍に協力して共に戦争を遂行したと受け止められるように叙述した」として「これは(国際機構などが認めた)客観的事実と異なる」とした。
 裁判所は朴氏の行為による被害者は特定されると見た。1審裁判所による「多くて数十万人に達する慰安婦全体に対して記述したものであり、被害者を特定して名誉毀損したものではない」との判断を覆した。裁判所は「韓国政府が1993年に『慰安婦』被害者支援事業を始めて以来、登録された『慰安婦』のうち現在の生存者は36人に過ぎない」として「読者としては日本軍『慰安婦』は『朝鮮人日本軍慰安婦』全体よりは自身が『慰安婦』だったと明らかにした被害者を想起する」と指摘した。

http://japan.hani.co.kr/arti/politics/28812.html

重要な争点は、地裁判決では「事実摘示であると判断した5カ所は、被害者が特定されなかったり名誉を傷つける内容ではなかったとの理由で無罪」であったのに対し、高裁判決では「裁判所は「朴氏は断定的表現を使って『朝鮮人慰安婦』が自発的に性売買をしたとし、日本軍に協力して共に戦争を遂行したと受け止められるように叙述した」として「これは(国際機構などが認めた)客観的事実と異なる」とし」「朴氏の行為による被害者は特定される」の部分です。

争点1・名誉を毀損する内容か否か

地裁は「同書の内容全体をみれば、主な著述の動機が『韓日両国の相互信頼の構築を通じた和解』という目的から始まっており、『慰安婦』被害者たちの社会的評価を低下させようという目的があったとは見られないため、名誉毀損の故意も認められない」*2と判断しています。

これに対して高裁は「クマラスワミ前国連経済社会委員会人権委員会特別報告官など国際機構の研究報告書と河野談話を引用して、日本軍「慰安婦」の大部分が自身の意思に反して動員され、その過程で日本軍が直・間接的に関与した事実が認められると指摘し、朴氏はこれとは異なる虚偽の事実を記述した」と判断しました。

記事で引用された部分だけを見る限り、地裁は“名誉毀損の意図がなかった”ことを重視し、高裁は“客観的事実と異なり被害者に精神的苦痛を与えた”ことを重視しています。

私は韓国語原文を読んだわけではありませんが、“名誉毀損の意図がなかった”ことを重視している地裁判決の論理の方に無理があると個人的には思いますね。刑法条文上も“名誉毀損の意図”ではなく「専ら公共の利益に関するとき」*3かどうかを重視していますし(違法性の阻却)。
もし地裁判決が、名誉毀損の事実を認めつつも『韓日両国の相互信頼の構築を通じた和解』という公益を重視する、という理路であれば刑法に照らして理解できるところではありますが、「『慰安婦』被害者たちの社会的評価を低下させようという目的があったとは見られないため、名誉毀損の故意も認められない」では違法性を阻却するのに不十分な気はします。
(但し、地裁判決については「『朝鮮人日本軍慰安婦の中には自発的な意思によって慰安婦となった人がいる』という名誉毀損的事実の適示に当たる表現がある」と認めている部分もありますので地裁判決も、名誉毀損の事実(被害者の特定については下記)を認めた上で、公益を重視して違法性を阻却したのかもしれませんが。)

争点2・被害者は特定できるか否か

地裁は「“慰安婦”集団を指すものであって、それをもって告訴人たちを被害者と特定することはできない」「多くて数十万人に達する慰安婦全体に対して記述したものであり、被害者を特定して名誉毀損したものではない」として、被害者を特定できないから名誉毀損が成立しないと判断しています。
これに対して高裁は、「韓国政府が1993年に『慰安婦』被害者支援事業を始めて以来、登録された『慰安婦』のうち現在の生存者は36人に過ぎない」として「読者としては日本軍『慰安婦』は『朝鮮人日本軍慰安婦』全体よりは自身が『慰安婦』だったと明らかにした被害者を想起する」として、被害者は特定できると判断しています。

これも私は韓国語原文を読んだわけではありませんが、『韓日両国の相互信頼の構築を通じた和解』という目的で書かれた書籍で言及される“慰安婦”が、現在も生存している元慰安婦を想起しないわけがないと思いますので、やはり高裁判断の方が適切だと思いますね。

“司法が世論に阿った”と指摘することは、以下の2つと等価。

(1)「帝国の慰安婦」の名誉毀損に関わる記載は、日韓和解という公益で正当化できる程度であること
(2)「帝国の慰安婦」の名誉毀損に関わる部分の「慰安婦」とは慰安婦集団全体を指し、現在も生存する元慰安婦らを想起させないこと

この2点に同意しなければ、“司法が世論に阿った”という発言は出来ません。
でもこれに同意するためには、「帝国の慰安婦」の韓国語版を読まなければいけませんよね。
仮に読まないにしても、上記2つの争点は理解してなければ、単なる先入観と決め付けということになってしまいます。

そこを無視して「韓国内の厳しい論調影響か」などと書くのは印象操作としか言いようがありません。

世論と裁判の関係

もちろん、世論が司法に全く影響しないわけでもありません。例えば、新潟少女監禁事件では9年以上少女を監禁した罪として逮捕監禁致傷罪の懲役最高10年では軽すぎるという世論があり、司法の論理上かなり無理をして窃盗罪を併合して懲役15年求刑で未決拘置日数を刑に含めないことが求められ、判決は懲役14年となっています(未決拘置日数を刑に加算)。
これは世論によって裁判が歪んだ事例と言っていいでしょう。
この他、朝鮮学校の無償化除外に対する裁判の2つの地裁判決なども、北朝鮮に対する厳しい世論に影響を受けたと言えるでしょうね。

まあ、司法と言っても世論から全く乖離したところに存在するわけではありませんので、ある程度の影響は受けるわけです。

朴裕河事件ではどうか、というのも考える価値はあるでしょう。
ただし、ろくな根拠もなく“無罪に決まってるから、有罪判決は世論の影響だ”というような主張は無価値です。
本来ならそもそも司法が判決を歪めなければならないほどの世論が朴裕河事件に関してあったのか、という点からはじめる必要性があります。

新潟少女監禁事件での犯行に対する厳しい世論や朝鮮学校を差別して構わないと思えるほどの北朝鮮に対する激しい世論に匹敵するものが、朴裕河事件について韓国にあったのでしょうか?
慰安婦問題に関する韓国の認識として、2~3割程度は日韓政府間合意を評価し、ある程度解決された、と考えています*4。
日韓政府間合意を評価しないと考えているのは、4~6割程度です。新潟少女監禁事件や北朝鮮問題における日本の厳しい世論は4~6割程度ではすまないでしょう。
韓国司法が阿らなければならないほどの世論とはちょっと考えにくいところです。

また、韓国司法が阿ったとすれば、なぜ高裁だったのでしょうか?地裁判決は2017年1月で、この時は朴大統領が弾劾され職務停止の状態でした。なぜ、地裁は無罪判決を出せたのでしょうか?
さらに言えば、民事訴訟では2016年1月に朴裕河氏に対して損害賠償命令が出ていますが、これも世論に阿ったと言うんでしょうか?
朴裕河「帝国の慰安婦」裁判の時系列
日本の名誉毀損適用の条件と照らしても、朴裕河氏に対する損害賠償命令は妥当

普通に考えれば、朴裕河事件とは名誉毀損と言論の自由の境界線上にある微妙な事件であって、わずかな解釈の違いによって判決が分かれる性質のものだった、となると思うんですよね。
実際問題として、地裁も高裁も名誉毀損の事実は認めているし、同時に言論の自由の重要性も認めている*5わけで、その上で、地裁は公益を優先し、被害者の特定ができないと判断し、高裁は名誉毀損を優先し、被害者の特定もできると判断したのです。

韓国の名誉毀損法制全体を批判するという文脈なら理解できるんですけどね

それについては以前、「「朴裕河氏の起訴に対する抗議声明」に対する違和感と本来何を問題とすべきだったかについて 」で書きました。
HRWやFreedomhouseが指摘しているように、名誉毀損に関する法制度そのものに対する批判ならば理解はできますし、同意もするんですけどね。

「韓国内の厳しい論調影響か」などと矮小化し、民族差別・外国差別を煽るようなやり方には全く賛同できません。
そういう差別煽動は産経だけでおなかいっぱいです。