警戒宣言解除も長期戦覚悟、全く油断できない
新型コロナウイルスの緊急事態宣言が解除になったが、安心できる状態ではない。第2波が心配である。少なくともワクチンが開発され、最低でも60%以上の人が集団感染し、免疫を獲得するまで長い戦いは続く。
世界でロックダウンが徐々に緩和されていくなか、日本でも5月26日に首都圏と北海道で緊急事態宣言が解除されたことで、全国的な解除となった。しかし、解除後も、治療・予防の「武器」がそろわない間は、「人と人の距離を開ける」「三密を避ける」「石鹸で手洗いを丁寧にする」などの一人ひとりの予防が引き続き重要になる。ウイルスの活性が高まるとされる秋冬には再び牙をむいて私たちを脅かす可能性は高いからだ。
世界的な終息の鍵となる「集団免疫」は、おおむね60%ほどが感染することで、ウイルスはヒトの間で感染を広げられなくなり、流行は沈静化するというものだ。感染者を抑えてオーバーシュートを回避することと、感染者を増やして短期間での集団免疫を形成すること、人類は明らかに相反する課題に挑まなくてはならない。
新型コロナ「第2波」早期到来も、WHOが警鐘
世界保健機関(WHO)も、新型コロナウイルスの感染拡大防止措置を性急に解除すれば、ウイルス感染例が減少しつつある国が直ちに感染の「第2波」に見舞われる恐れがあると警鐘を鳴らしている。
多くの国で感染例が減少する半面、中南米や南アジア、アフリカでは増加傾向にあるとし、世界はまだ新型コロナ感染の第1波に対応している状況と述べた。
感染の第2波とは通常、第1波が過ぎ去ってから数カ月後に発生するケースを指すとしつつも、「感染が急に広がる可能性はあり、現在減少しているからといって、第2波に備えるために何カ月もの時間があると想定することはできない。第1波中に第2波が訪れる可能性もある」と警告している。
スペイン風邪の時も第1波が去ると、だれもがこれで流行のピークは過ぎたと思った。ウイルスがしばらくなりをひそめている間に変異し、“毒性”を高めていることなど知るよしもなかった。
そして第2波が襲ってきた。不意をつかれた政府が事の重大さを理解した時には、すでに手遅れだった。恐るべき破壊力を備えたウイルスが誰彼かまわず襲いかかり、瞬く間におびただしい数の人命を奪っていった。
そうなった時にどれくらいの死者が発生するか推測するのは難しいが、少なくとも全世界で何百万単位の犠牲者が出るのではないだろうか。
おびただしい数の死者が出るばかりではない。各国の企業や組織、さらには国際機関の機能が麻痺することも考えられる。日本やヨーロッパ、アメリカなどの大企業は、主要スタッフを含む多くの従業員が働けなくなり、もはや維持・運営ができなくなってしまうかもしれない。同様に、保険医療当局を含む政府機関や各省庁も、対応能力が著しくそこなわれる恐れがある。
過去の歴史に学ぶ「スペイン風邪」
第2波の恐ろしさを事前に知っておくこと、それがわれわれの命を守るために必要な「武器」となるだろう。
スペイン風邪(Spanish Flu (influenza))は、1918年(大正7年)-1920年(大正9年)に世界各国で極めて多くの死者を出したインフルエンザによるパンデミックの俗称である。第一次世界大戦時に中立国であったため情報統制がされていなかったスペインでの流行が大きく報じられたことに由来する(スペインが発生源という訳ではない)。1918年パンデミックとも呼ばれる。
1918年1月から1920年12月までに世界中で5億人が感染したとされ、これは当時の世界人口の4分の1程度に相当する。その中には太平洋の孤島や北極圏の人々も含まれた。死者数は1,700万人から5000万人との推計が多く、1億人に達した可能性も指摘されるなど人類史上最悪の感染症の1つである。アメリカ合衆国ではパンデミックの最初の年に平均寿命が約12歳低下した。
近年の研究により、スペインかぜはH1N1亜型インフルエンザウイルスによるものと判明した。H1N1によるパンデミックは、スペインかぜと2009年の新型インフルエンザの2回である。
一次世界大戦中の士気維持のため、ドイツ、イギリス、フランス、アメリカ合衆国での病状や死亡の初期報告は検閲により最小限に抑えられた。
一方で中立国スペインにおける伝染病の影響は自由に報道され、アルフォンソ13世の重病を初めとする多数の記事はスペインが特に大きな被害を受けたという誤った印象を生み出した。ここから「スペインかぜ」という呼称が広まった。しかし歴史的・疫学的データは、地理的起源を確実に特定するには不十分であり、その起源には諸説ある。
ほとんどのインフルエンザの流行では、死者が乳幼児と高齢者に偏り、その中間の年齢層の生存率は高いが、スペインかぜでは若年成人の死亡率がその他のインフルエンザと比較して高かった。科学者たちは、1918年のインフルエンザ大流行の死亡率の高さについて、いくつかの可能性のある説明を提示している。
スペイン風邪 流行の経緯
スペインかぜは、記録にある限り人類が遭遇した最初のインフルエンザの大流行(パンデミック)である。
第1波は1918年3月にアメリカのデトロイトやサウスカロライナ州付近などで最初の流行があり、アメリカ軍のヨーロッパ進軍と共に大西洋を渡り、5月から6月にヨーロッパで流行した。
第2波は1918年秋にほぼ世界中で同時に起こり、病原性がさらに強まり重篤な合併症を起こし死者が急増した。
第3波は1919年春から秋にかけて、第2波と同じく世界で流行した。さらに、最初に医師・看護師の感染者が多く、医療崩壊してしまったため、感染被害が拡大した。
この経緯を教訓とし、2009年新型インフルエンザの世界的流行の際にはインフルエンザワクチンを医療従事者に優先接種することとなった。
世界規模で猛威を振るったスペインかぜであるが、世界規模に広がったことにより、死者も甚大になった一方で、生き残った人は抗体を獲得して、集団免疫を形成することによって、感染者の減少へと繋がって収束した。
世界と日本の被害状況
世界全体の推定感染者数は世界人口の25-30%(WHO)、または世界人口の3分の1、または約5億人とされる。当時の世界人口は18億人から20億人と推定されている。
世界全体の推定死者数は1700万人から1億人と幅がある。アメリカでも50万人が死亡したとされる。これらの数値は感染症のみならず戦争や災害などすべてのヒトの死因の中でも、最も多くのヒトを短期間で死亡に至らしめた記録的なものである。
日本では1918年4月、当時日本が統治していた台湾にて巡業していた真砂石などの大相撲力士3人が謎の感染症で急死。同年5月の夏場所では高熱などにより全休する力士が続出したため、世間では「相撲風邪」や「力士風邪」と呼んでいた。
その後、1918年10月に大流行が始まり、世界各地で「スパニッシュ・インフルエンザ」が流行していることや、国内でも多くの患者が発生していることが報じられた。
第1回の大流行が1918年10月から1919年3月、第2回が1919年12月から1920年3月、第3回が1920年12月から1921年3月にかけてである。当時の人口5500万人に対し約2380万人が感染したとされる。
第1回の患者数・死亡者数が最も多い。第2回では患者数が減少する一方、致死率は上昇している。第3回の患者数・死亡者数は比較的少数であった。
日本におけるスペインインフルエンザの被害
第1波 1918(大正7)年8月-1919(大正8)年7月 感染者 2116万8398人 死亡者 25万7363人 致死率 1.22%
第2波 1919(大正8)年8月-1920(大正9)年7月 感染者 241万2097人 死亡者 12万7666人 致死率 5.29%
第3波 1920(大正9)年8月-1921(大正10)年7月 感染者 22万4178人 死亡者 3698人 致死率 1.65%
合計 感染者 2380万4673人 死亡者 38万8,727人 致死率 1.63% (Wikipedia)
参考 Wikipedia: https://ja.wikipedia.org/wiki/スペインかぜ
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