「広島と長崎に測定可能な放射能なし」
「広島と長崎に測定可能な放射能なし」
長崎原爆で忘れてならないのは、長崎医科大学の潰滅である。長崎医科大学は戦前、西日本唯一の総合医科大学であった。
かつて長崎大学教授を務めた小路俊彦は『長崎医科大学潰滅の日』(一九九五年)の中で次のように書いている。
基礎キャンパスの惨劇
出席学生全員死亡の五教室
生理学講堂では清原寛一教授(長崎医大卒、四十歳)により学部一年生に講義が行われていた。講義が始まって間もなくB29らしい大型機の異常に高い爆音に引き続いて「ピカッ」と眼もくらむ閃光が教室内を走った。つぎの瞬間すさまじい爆風とともに木造の講堂は一瞬にして倒壊、さらに熱線のため炎を上げて燃え出した。何が起こったかも分からぬまま多数の学生は圧死か熱線による火災で焼死した。後に判明したところでは三三名の学生は倒壊炎上する教室から何とか脱出していた。もちろんガラス破片創、打撲傷、骨折、熱傷(以下火傷と表現する)を受けた重傷者が大部分だが、なかには傷一つなく、途中で拾った自転車に乗って下宿に帰りついた学生もいた。
しかし、一の矢の爆風、二の矢の火傷を逃れた幸運な学生たちには、急性放射線障害(以下急性原爆症と略す)というとどめの三の矢が待ちかまえていた。三三名中二一名は、被爆後一週目の十六日までに死亡しているが、その症状は汗の出ない高熱、嘔吐、下痢、血便、のどや舌の腫れ、紫斑、急激な衰弱、意識混濁などである。なかには最後まで意識がはっきりしており、母や家族の名前を繰り返し呼んで息絶えた者もいたという。
結局三三名全員が死亡したが、死亡日時不明の八名を除きすべて被爆後二週間以内であった。当日、生理学講義出席者数は記録も焼失して不明だが、生存者の届出はなく、原爆死亡七三名の数字がそのまま出席者数とみなされる。すなわち死亡率は一〇〇パーセントである。
この基礎キャンパスは四教室あり、四一〇名の生徒が講義を受けていた。その生徒全員が被爆死したのである。これを見ても、この原爆のすごさが理解できよう。
この本に「遺族の手記から」が載っている。
その中に、土橋弘基(医専一年生)の父、土橋清英の手記の一部を引用する。
・・・やっと学校裏手の丘で、神の慈悲により、弘基の哀れな姿に遭遇することが出来ました。眼鏡も帽子もありません。ただ破れたボロボロの被服をまとっているのみです。歩行も不自由な程衰弱していましたから、援護して十日後、愛宕町の自宅に収容する事が出来ました。
本人の話によれば、階段教室で授業中、原爆の閃光と同時に建物が潰れ、全員がその下敷となって、一瞬その場は阿鼻叫喚の修羅場と化し、断末魔の捻り声が聞えた。けれどもその後は人事不省に陥り、一切記憶はない。夕刻近く覚醒したので、全力をふり絞って頭上の障害物を押しのけ、同僚四人が脱出に成功した。しかし一帯は火の海で帰宅することも叶わず、すでに日没後で山伝いに帰ることも出来ないので、止むなく四人で裏山で一夜を明かすことにした。非常な渇きを覚え、空腹を訴えたが、勿論水も食糧もなく、仕方なく附近の畑にあった南瓜を生食して、飢を凌いだといっておりました。
自宅では家族全員で看護に努めましたが、原爆症でしょうか、飲食物は嘔吐を催して受け付けません。日々衰弱の一途をたどり、一週間目の八月十六日、家族の見守る中に永眠致しました。
本人は中学卒業後文科系に進むことを志望していましたが、医学は長崎が発祥の地であり、医科に入学すれば自宅から通学も出来て安心だからと私が勧めた所、親思いの素直な弘基は私の意見を受入れて、長崎医専に入学した次第であります。文科系に進んでいれば原爆死を免れていたのに、私がそれを拒否して医科にやったばかりに死んだのです。弘基は私が殺したようなもので、誠に申訳ないと思い、毎月十六日(死亡の日)には必ず香を焚き灯明を点じて謝罪を続けています。この精神的悩みは、私の生ある限り、永く尾を曵き続けることでありましょう。(昭和四三年四月『忘れな草」第一号より)
広島の瀬戸奈々子さんの死とはまた異なる土橋弘基さんの死である。しかし、この死には一つの確実な共通点が存在する。それは国家の殺人による死という点である。土橋弘基さんが講義を受けていた頃、アメリカの捕虜一〇〇〇名たちは何処かで「神隠し」されていたのである。彼らアメリカ人を救うために数万単位で長崎の人々は、一瞬のうちに、そして後遺症で死んでいったのである。
この原爆投下を受け入れて「原爆殺し」を行った連中すべてが戦争終結後に生き延びて、権力と富を独占していくのである。
「弘基さんのお父さん、あなたが弘基さんを殺したのではありません。あなたの、親思いの素直な弘基さんは、『原爆殺し』を仕掛けたアメリカと、『原爆殺し』を受け入れた日本の国家によって殺されたのです」 (引用注:今も同じだった)
二〇〇八年二月二十日、私は小路俊彦氏(長崎医大名誉教授)に会った。外国人の捕虜について尋ねた。「私は全く知りません。長崎に外人の捕虜がそんなにいて、被爆したり、死んだのですか」と唖然としていた。長崎でも語られない物語となっているのだ。
『ナガサキ昭和20年夏』をもう一度引用したい。ジョージ・ウェラーは次のように書いている(日付はない。しかし一九四五年九月のある日である)。
広島で助かった医師が次のように話してくれた。「主たる影響は血流に表れるようです。赤血球と白血球が死ぬと一言われていますが、私たちはそうは思いません。死んでしまうのは血小板なのです。血小板って分かりますか?」。私は知らなかった。「血小板は血流の三番目に重要な成分で、血液を凝固させる作用をします。あそこの男の人を見てください」そう言って紙のように青白い顔をし、壁にもたれているやせた人物を指さした。必死な様子の親族がひざまずいて彼を囲んでいる。「あの人はすでに結核を病んでいて、少し喀血していました。爆心地から四〇〇メートルほどのところで被爆し、倒れましたが見かけではけがした様子はありません。ですが、被爆数日後から咳がひどくなり、喀血もひどくなったのです。調べたところ、血小板が死滅していました」。「何とかできないのですか?」と尋ねると、医師は自分の力不足を謝るように目を伏せ、「何も」と答えた。
長崎で私が得た最も価値ある知識は、心臓、肺、腎臓、肝臓、胃、各臓器に対する放射線の影響の注意深い分析結果だった。すべての場合において多少の損傷が見られたが、多くの場合、ほとんど原形を保っているのに、患者は取るに足りないかすり傷からの出血が止まらずに死んでいる。
それから月日が流れるにつれ、彼らの多くが死んでいった。
泰山弘道は『長崎原爆の記録』の中で、「見よ、この長崎原爆が与えた凄惨さを」のタイトルのもと、患者の写真つきで、死者のことを書きつらねている。
まさに地獄絵図さながらである。写真は泰山弘道が自ら撮影したものである。その一例を記す。
女性(四十八歳)
職業農業
傷病名全身爆傷兼破傷風
八月九日収容す。顔面、前胸部、右肩岬部、左側胸部、右前謄、左右下肢全面は靡欄す。リバノール湿布を行った。
八月十八日に至り破傷風の症状が現れたから、破傷風血清二〇㏄を脊髄腔内に注射したが、八月十九日午後十一時十五分重症に陥り、八月二十日午前零時十五分遂に死亡した。
私は「ファレル准将の覚え書き」の中の「放射能に関して長崎につき詳細な検討をした。そしてこの地域内のどこにも測定可能な放射能を見出さなかった」という文書の一部を記載した(一九八頁参照)。しかし、長崎の放射能被害は甚大であった。
広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編『原爆災害ヒロシマ・ナガサキ』(一九八五年)に長崎について次のように書かれている。
原子爆弾の爆発によって生じるアイソトープは約二〇〇種類に達し、その大部分は放射性である。長崎西山地区の土壌の分析の結果、ストロンチウム八九(半減期五二・七日)、バリウム一四〇(半減期一七・三日)、ジルコニウム九五(半減期六五・五日)、ストロンチウム九〇(半減期二七・七年)、セシウム一三七(半減期三〇年)、セリウム一四四(半減期二八五日)が検出されている。このほか核分裂をまぬがれたプルトニウム二三九も見出された。
これは一九四五年十月三日から七日にかけて実施された調査の結果である。ファレル准将は「広島と長崎に測定可能な放射能なし」と、GHQのマッカーサー司令官とトルーマン大統領に報告書を提供する。
日本政府は、このファレル文書を認めるのである。それは、「広島と長崎には原爆患者はいない」との宣言を日本政府がしたことを意味する。
スイスの国際赤十字が原爆患者に薬を与えようとするのを日本赤十字社が拒否するのである。私は次章でこの顛末を書き、彼らを、原爆患者に薬を与えるなと拒否した連中に、たった一人で天誅を下す。
鬼塚英昭 原爆の秘密[国内篇] 第四章 悲しき記録、広島・長崎の惨禍を見よ 中p200-206より
参照
原爆ホロコースト:長崎
http://satehate.exblog.jp/9404672/
原爆ホロコースト:広島
http://satehate.exblog.jp/9381417/
世界権力構造の秘密 Eustace Mullins 4 タヴィストック研究所:ホロコースト→洗脳と大衆心理操作
http://satehate.exblog.jp/7627172/
広島 ネブラスカ、長崎 フロリダ By Henry Makow, Ph.D.
http://satehate.exblog.jp/12080043/
「原爆ホロコースト」の実態 ~ 「原爆」と「冷戦」の舞台裏 ~
http://hexagon.inri.client.jp/floorA4F_ha/a4fhc700.html
by oninomae | 2009-08-09 01:27 | 放射能・ラジオハザード