官僚・公務員はサーバントであるべきか

しばしば「官僚・公務員は国民のサーバント(公僕・奉仕者)であるべき」という理解を耳にすることがある。もちろん、「civil servant」という公務員の英語表記にも厳然と残ってはいるが、だからといって「サーバントであるべき」と官僚を批判するのはどこか根本的に間違っているように思われる。

むしろ官僚・公務員は、大規模で複雑化した近代社会で必要不可欠なテクノクラート(専門技術者)か、あるいは単なる事務員でしかない、と理解すべきだと考えている。そもそも、「サーバントであるべき」という言い方の中には、「主人」や「顧客」を満足させるための「余分な仕事」への期待が暗に込められている。「官僚政治」というのは、まさにそうした「余分な仕事」への期待によって生み出されているもののはずであるが、「官僚はサーバントであるべきなのに」という理解に基づいて「官僚政治」を批判するという矛盾が、一向に後を絶たない。官僚政治を否定したいのであれば、官僚・公務員を徹底してテクノクラートや事務員として遇するべきである。

そもそも「大きな政府」で公務員の人口比率が非常に高い北欧諸国は、基本的な教育や医療のコストを心配する必要がない一方で、行政サービスそれ自体はあまり懇切丁寧ではないことがしばしば指摘されている。北欧在住の人のブログなどでは、役所や病院の使い勝手はむしろ日本のほうが優れている、という趣旨の記述を見かけることがよくある(北欧万歳の人はこれをどう考えているのだろうか?)。つまり本場の「大きな政府」というのは、行政は「余計なこと」を一切せず、良くも悪くも「お役所仕事」に徹し、国民もそれ以上のことを期待していないのである。

日本では、公務員の仕事で住民からの苦情への対応がかなりの部分を占めているが、これは公務員に単なる事務処理以上の何か、つまり「サーバント」を期待していることの証拠だろう。「脱官僚」というのは、まずこういう官僚・公務員への余計な期待をきっぱり断念することであるはずである。人員や給与水準を減らし、労働条件をきつくすることで「公僕」の精神を目覚めさるべきであるかような物言いがよくあるが、全くのナンセンスであるだけではなく、それこそが官僚政治的な思考様式に他ならないと言っておきたい。