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カテゴリ:読書(09~ノンフィクション)
「岡本唐貴自伝的回想画集」東峰書房 (1983発行)
この本をなぜ読もうとしたか。それはこの著者が白土三平の父親であるからだ。なぜ父親であるというだけで、読もうとしたか。それは、白土三平にとって父親はとても大きい存在であるのにも拘らず、ほとんど語られてこなかったからである。 この本の存在を知ったのは、「白土三平論」(毛利甚平著)による。途中で図書館の貸し出し期間が終わったので、まだ半分くらいしか読んでいないが、初めて纏まった岡本唐貴の著書に気がついた。 もう一つこの画家に興味を覚えた理由に、わが郷土の人だということがある。 岡本唐貴が生まれたのは、現在の岡山県倉敷市連島町西之浦の腕というところらしい。西之浦は良く知っている。彼の実家はそこの地主みたいなところらしい(いつか調べようと思っている)。父親はそれを嫌って若いときから家に居つかず、職業を転々としている。おかげで唐貴(本名は登)は三歳のときから暫らく笠岡の海のすぐ近くに住んでいた。カブトガニ戯れて遊んだ記憶が鮮明なようだ。その後、長崎に行く。小学校は西浦小学校に入り、その後五年の時に常盤小学校に転校、すぐに西浦に戻りここで卒業している。彼はここの裏山から晴れている時は四国の剣山が雪をかぶっているのが見えたと書いているが、現在はその間に水島と丸亀の工業地帯があり、絶対に無理になった。小学校時代に絵の才能を自ら認めるようになる。しかし、絵が得意な子供は日本中に山のようにいる。私も小学校中学生のころ、絵が得意でいつも五段階評価で五だった。何が彼を絵描きに、しかもプロレタリア画家にしたのか。 小学校卒業(1916)後は、岡山市つづいて神戸市に出て、父の家業に従事した。働くことは楽しかったが、父は家業に失敗し、倒産寸前に追い込まれ、古本屋を始める。それを唐貴にまかせた。1917年米騒動と労働争議を目撃。「兵隊が機械的に人を殺すのを見て、言いようのない驚きを感じた」と書いている。驚くのはここまでの経緯が、ほとんど白土三平と酷似しているのである。白土三平(岡本登)も、ものごころ付く時から父親のために引越しを繰り返し、貧乏な環境で過ごし、小学校卒業後から直ぐに働き出し、独り立ち、そしてほとんど同じころに「血のメーデー事件」に出会い、警官が人民を倒すところを目撃している。恐ろしいくらいに似ている。この経緯で思うのが、やっぱり「サスケ」で大猿と同じ道をほとんど疑問もなく歩むサスケの姿である。 唐貴はよく働き、一家を支えるまでになる。その時、父が脳卒中で倒れ、なくなる。1919年唐貴はいったん病を治すために店をたたんで郷里に帰る。直ったころ、遺産分けで50円の現金を手にする。かれはそれで全部油絵の道具を買った。白土三平はこの年のころには既に紙芝居の仕事にかかっていた。物語を作る方向にいっていた事で、少し父親との人生と違いが出始める。 祖父・叔父の仕事を手伝いながら、唐貴は小作人が年貢を納めに来た時の葛藤を体験する。唐貴は帳面を付けているのだが、「葛藤は米の計り方にあり、升目の微妙な計り方が地主対小作の暗黙のたたかいの場になった。斗枡と一升枡の計り方は息を呑むような微妙な呼吸で、米ツブの流し込み方、升のきり方まで、すごい緊張ぶりで私はほとんど感じ入ってしまったことであった。これは農村生活のもっとも基本的な社会的・人間的対立と葛藤の象徴のようなものであることをそのとき深く感じさせられた」と書いている。この文章は私は重要だと思う。当時、小学校卒業で働いていた少年は山のようにいた。しかしほとんどは社会主義者にはならなかった。しかし、唐貴はすでに神戸という都会で一つの店を立ち上げ、運営、終らす体験をしている。その上で、権力が人民を殺す場面も見た。その上でこの封建時代の象徴のような場面をじっくり観察できた。宮沢賢治が金貸しの父親の職業を直感的に人道的立場から嫌っていたのとはまた違い、唐貴の場合は明確に「階級対立」という眼でこれらの職業を観察していたのである。ここから「プロレタリア運動」へは直ぐである。ちなみにこの場面は白土三平の「カムイ伝」の中でほとんどそのまま描かれる。何処かで父親から話を聞いていたのに違いない。 唐貴は画家を志して17歳で神戸に出て、友人浅野孟府に出会う。そして二人で東京に出る。中央美術展で「夜の静物」入選。また、「神戸灘風景」も入選して1922東京美術学校に入学、1923年関東大震災に出会う。駒込の友人宅で震災。一瞬外に出るのが遅かったら、家に押し潰されていたという。坊ちゃんの画家との比較については既に述べた。唐貴はデッサンこそ残さなかったが、比較的詳しくこの日のことを描写している。相当ショックだったみたいだ。短い間に目まぐるしく、描き方が変わったと告白している。暫らく神戸三宮に居て、三宮神社の境内のカフェ・ガスというレストランでサロンみたいな交流をする。アナキスト、新聞記者、学生、労働運動家、詩人、文学的サラリーマン、それに画家、演劇人。 のちの書き方で唐貴はこのように自らの青春を総括している。 「私は神戸で、少年時代労働者街の近くに住み、又青年時代に神戸の東西にある工業地帯で、大きなストライキに出会い、身近な人たちもそれらの動きとの関連があった。私は身をもって社会の底辺におかされたと覚悟した時、生きていく道は、階級闘争のあの生命力をつかむことだと深く感じた。私は三科運動の崩壊を必然と受け止め、方向転換を志した。 階級闘争の道による人間回復、個人主義から集団主義へ、ペシズムからオプチシズムへ、ダダ的な破壊から、絵画の新しい生命力の回復へ。」1926年、いよいよ彼はプロレタリア美術運動に入る決心をする。 1928年、共産党大検挙の巻き添えで第一回目の検挙。1929年、岡山県立美術館にある大作「争議団の工場襲撃」(正確には本人による再生)が完成する。1930年唐貴、結婚。1931年、日本プロレタリア美術家同盟書記長。39年再検挙。共産党に入っていなかったので不起訴になった。そのあと、唐貴は小林多喜二の通夜に立ち会う。つまりは、そのようなところまで唐貴は入っていたということである。唐貴は三時間ほどで多喜二ののデスマスクを写生し終える。この絵はそのときの絵ではなく、この画集の為にもう一度思い出して描いたものである。 1943年、唐貴はあと一年半だと考えて、家族と共に信州に疎開する。この辺りは、非常に正確な情勢判断だった。唐貴は決して政治的人間ではなかったが、生涯をかけて階級闘争を闘うことで当時の情勢のもっとも鋭いところに居たのである。ここにも、情報の多寡が情勢の正しい判断に必要ではないという見本がある。信州で長女が生まれたときの喜びを画集に描いている。 唐貴は戦後を複雑な気持ちで迎えた。「私はプロレタリア美術運動の出直しを、より広汎なより健康な民主主義的美術運動としてやりたかった。ところがふたをあけてみると、政治色の強い民主主義美術運動であった。」唐貴は「中に入ってみなくちゃわからんだろ」という理屈の元に日本共産党にも入党するのであるが、結局約10年後には離党している。唐貴の言う「より広汎なより健康な民主主義的美術運動」の姿は抽象的であり、しかも戦後の高揚とレッドパージが準備されているあの状況下で可能だったのかどうかは分からない。ただ、今の状況下では可能だったかもしれない。唐貴の美術理論は探してみないと分からないし、専門ではない私には理解できない(一部だけ探して読んでみた)が、一旦党に入り、離党し、晩年になって穏やかにプロレタリア美術を一貫して追求したこの姿に、私はやはり白土三平の姿を重ねざるを得ない。 唐貴はこの自伝をあらわして直ぐに他界した。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年11月16日 07時46分10秒
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