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カテゴリ:社会時評
いま、茨木のり子の評伝「清冽」を読んでいる。全体の感想については読み終わったときに書くとして、今日こんなエピソードを読んだ。
茨木のり子が甥夫婦と一緒にボストン交響楽団の演奏会に行ったときである。演奏の前、交響楽団は来日の儀礼ということだったのだろう、「君が代」を演奏した。周りのほとんどの聴衆が起立した中、茨木はじっと座っていた。小声で甥夫婦に言う。「今日私は音楽を聴きに来たのでね。私は立たないけれど、あなたたちは好きにしなさい。」 その三年後茨木にこんな詩が生まれている。 「鄙ぶりの唄」 それぞれの土から 陽炎のように ふと匂い立った旋律がある 愛されてひとびとに 永くうたいつがれてきた民謡がある なぜ国歌など ものものしくうたう必要がありましょう おおかたは侵略の血でよごれ 腹黒の過去を隠しもちながら 口を拭って起立して 直立不動でうたわなければならないか 聞かなければならないか 私は立たない 座っています 演奏なくてはさみしい時は 民謡こそがふさわしい さくらさくら 草競馬 アビニョンの橋で ヴォルガの舟唄 アリラン峠 ブンガワンソロ それぞれの山や河が薫りたち 野に風は渡ってゆくでしょう それならいっしょにハモります ちょいと出ました三角野郎が 八木節もいいな やけのやんぱち 鄙ぶりの唄 われらのリズムにぴったしで 政治の世界では、大阪府議会はどうやら公務員は「起立斉唱しなければ罰則」を議決しそうだ。もう、茨木のように個人の裁量で不起立を選ぶことは難しくなる。こうなれば自らの信条に反して起立斉唱してもしかたない、と言わざるを得なくなった。 茨木は「左翼詩人」だと言われているらしい。 「おお!じまんじゃないが資本論も読んだことのない者が、左派詩人のなかにいれてもらえるなら、まったくいれてもらいたいものだ」と茨木は笑い飛ばす。 そんなことではない。個人を大切にする人。できあいの思想にも、できあいの宗教にも、できあいの学門にも、いかなる権威にも倚りかかるまいとした人。この評伝を読んで、つくづく思ったのは、茨木と詩とがまったくイコールで結ばれるということだ。そういう体験は稀有のことである。 これから大阪府の教職員は個人として決断のときを迎える。起立斉唱しても、もちろんいい。ただ、できたら自らの信条をどこかに生徒に伝わるように発して欲しいと私は思う。 おお、そうそう、18日の参議院で改憲手続法に基づき改憲原案の審査権限を持つ憲法審査会の規定が採択された。社会党と共産党以外のすべての党は賛成票を投じた。国民の大部分が改憲を望んでいないときに、まさにこっそりと改憲手続きを前に進めるということには、私のこの無力な小さなブログで「NO」といっておく。 ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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≪…三角野郎…≫は、自然数を創る・・・
この情景は、昭和歌謡本歌取りで・・・ 「愛のさざなみ」の本歌取り [ i のさざなみ ] この世にヒフミヨが本当にいるなら 〇に抱かれて△は点になる ああ〇に△がただ一つ ひとしくひとしくくちずけしてね くり返すくり返すさざ波のように 〇が△をきらいになったら 静かに静かに点になってほしい ああ〇に△がただ一つ 別れを思うと曲線ができる くり返すくり返すさざ波のように どのように点が離れていても 点のふるさとは〇 一つなの ああ〇に△がただ一つ いつでもいつでもヒフミヨしてね くり返すくり返すさざ波のように さざ波のように [ヒフミヨ体上の離散関数の束は、[1](連接)である。] (複素多様体上の正則函数の層は、連接である。) 数学の基となる自然数(数の言葉ヒフミヨ(1234))を大和言葉の【ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と】の平面・2次元からの送りモノとして眺めると、[岡潔の連接定理]の風景が、多くの歌手がカバーしている「愛のさざなみ」に隠されていてそっと岡潔数学体験館で、謳いタイ・・・ (2024年09月04日 21時15分11秒) |
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