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テーマ:★つ・ぶ・や・き★
カテゴリ:雑感
昔はクリスマスは万人のものではなかった。 戦前の小説「風立ちぬ」では軽井沢の村人がクリスマスを祝っている様子を描写し、このあたりは外国人も多いのでこんな真似事もやるんだろうという記述があり、普通の田舎ではクリスマスなどやらなかったことがうかがえる。また、萩原朔太郎の下記のような詩(青空文庫より)も、中産階級以上でもクリスマスをやる家庭が限られていたことがうかがえる。 クリスマスとは何ぞや 我が隣の子の羨ましきに そが高き窓をのぞきたり。 飾れる部屋部屋 我が知らぬ西洋の怪しき玩具と 銀紙のかがやく星星。 我れにも欲しく 我が家にもクリスマスのあればよからん。 耶蘇教の家の羨ましく 風琴おるがんの唱歌する聲をききつつ 冬の夜幼なき眼めに涙ながしぬ。 その一方で1932年の歳末に起きたデパート白木屋の火災はクリスマスプレゼント用として積んであったセルロイドのおもちゃが燃えたとあるので、この頃には都市住民の家庭の行事としてクリスマスはかなり普及していたのだろう。隣家のクリスマスをうらやましがった子供たちが大人になり、家でささやかな真似事を始めたのかもしれない。そして一方では、銀座で大人がクリスマス用の紙帽子をかぶり、クラッカーをならしてた楽しむような大人の社交文化としてのクリスマスもあった。 しばらく前までのクリスマスの一般的なイメージ、つまり若い男女のクリスマスという形態が普及したのは、おそらく戦後になってからだろうし、それもトレンディドラマ全盛の頃にピークとなって、今は下り坂なのではないか。 最近は少子化の影響もあるのか、クリスマス商戦も地味になった感じもあるが、それでもこの時期はイルミのピークであり、クリスマス仕様のものが眼を楽しませてくれる。クリスマスが過ぎれば新年はあっというまにやってくる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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