ビデオゲームのストーリーは非整合的なのか - 倉根啓

ずっとエルデンリングのDLCをやっていて、ようやく飽き、ほかのことをする気になってきました。ほかのことをするなかで、エルデンリングをやっていたせいで見逃していた『REPLAYING JAPAN』Vol.6の倉根「ビデオゲームのストーリーは非整合的なのか」がおもしろかったので、リハビリも兼ねて以下にまとめます。それほど長くはない論文であるため、誤りが含まれているまとめを読むより、直接読んだほうがいいとは思う。

  • ビデオゲームの物語における時間について、ある種の非整合性が見出されることがある。典型的にはたとえば、『サイバーパンク2077』で「病気の進行によるタイムリミットがある」ことと、それをほっといてサブクエストを進めて時間がかなりの経ってしまうこととの齟齬など
    • (時間に限らない)こういった非整合について、「あくまでゲームの都合であり、虚構世界で起こったことではない」と無視できるケースもあるが、なんらかの形で虚構世界で起こったこととして解釈しなければならない(互いに矛盾しつつも、両立しているように思われる)ケースもある。ここで検討したいのは後者である
    • 時間に関する非整合性のうち、「持続」に関するもの(サッカーゲームの一試合はほんとうの90分ではない、など)については既存の研究がある一方、「順序」に関するもの(サブクエの出来事はどのタイミングで起こったのか?など)についてはほとんどなさそう
  • こうした状況は、倉根(2023)1のフィクションの枠組みを使って記述できる。この枠組みを時間に適用するなら、次のような3層モデルとなる
    • 実時間:映像が流れる現実世界の時間
      • 物語論における物語言説の時間に相当する
    • ゲーム環境時間:ゲーム環境の出来事が位置付けられる時間
      • ここで「ゲーム環境」とは、ディスプレイを通じて提示されるもの全般。ゲームメカニクスを表すものも含まれているなど、(因果関係などの現実的な)整合性は必ずしも求められない
      • 物語論にはこれに相当するレイヤはない。ユールの「イベント時間」がこれにあたる。ゲーム環境時間における順序は(シーン切り替えがなければ)実時間の順序と同じであり、持続についてもなんらかの投影関係があるものとして解釈される
    • 物語世界時間:物語世界の出来事が位置付けられる時間
      • ここで「物語世界」とは、プレイヤーの解釈によってゲーム環境をもとに同定される、一貫した形で理解できる虚構的な世界のこと。どのように同定されるかは、明確な因果関係や時間的前後関係が明示されている場合だけでなく、「メインクエストとサブクエストの区分」といった慣習によるところも
      • 物語論における物語内容の時間に相当する。また、松永の「虚構時間」もこれに相当する
    • これを踏まえると、ここで問題になっている典型例は「サブクエストもメインクエストも含めて提示されるゲーム環境から一貫した物語世界時間を同定する(物語上の時系列を確定する)にあたり、もしサブクエストをまじめに位置付けようとすると、なんだかうまくいかない」といった状況といえる
  • ところでHerman(2004)2では、(ビデオゲームに限らずとも)「物語の中には、語られた出来事を物語世界の時間軸上に厳密に位置付けることが困難、あるいは不可能な作品があることが指摘」されている
    • このように時系列上にうまく位置付けられない状況を、Hermanは「ファジーな時間性」と呼んでいる。複数の可能な配列が同じように確からしくて確定できなかったり、「ある要素はいくつかの要素に対してのみ一意に順序づけられるが、ある要素はほかのどの要素に対しても順序づけられない」といった状況
    • 問題になっているサブクエストなども、このように「大筋となる物語内容と部分的にしか順序づけられない」例といえる
    • こうした場合読者/プレイヤーは「不確定な部分は不確定なまま」で物語世界をモデル化しているようである

というわけで:

非整合を起こす出来事は確かに起きたのだが、その出来事は物語世界時間の特定の地点に位置付けられないため、プレイヤーは具体的に非整合がどの出来事とどの出来事の間で起きたのか曖昧なままにすることができる。[...]これにより、プレイヤーは互いに非整合な内容 $(P, \neg P)$ を想像しつつも、それらが同時に起きること $(P \land \neg P)$ を想像することを避けることができる。


以下感想とか。

本論文の目的は「ビデオゲームの物語における時間のある種の非整合性について、フィクションの哲学や物語論の理論を用いて説明する」というもの。既存の研究を紹介しつつ、倉根自身によるフィクションの枠組みを用いて問題の発生するポイントを同定したうえで、Hermanの「ファジーな時間性」を援用して非整合性を残したままでの物語世界のモデル化が起こっている(のではないか)と提示する感じだろうか。

以前自分が『ライザのアトリエ』における複数の「時間」で考えたようなことを、すっきり整理して、物語論やゲームスタディーズの議論に位置づけていてくれているのがありがたかった(ので今回まとめてみようと思ったわけですね)。たしかにこうした非整合を解消しきらずに受け容れているというのは、実際のプレイヤーの直観とも合致するところだとおもう。そして、そういった受け容れかたというのがより具体的にどういったものなのかについてはHermanの本を読むといいんだろうけど……電子版もないし値段も高いしけっこうハードルが高いな……。

まあいいや。ここからは論文の内容とは関係ないわたし自身の嗜好について。

基本的にこういう「解釈」をするときって、大筋のストーリーの中にそれ以外をどう位置付けるかという構図になりがちなのだけど……そこがじゃっかんもやついてしまうところがある気がするんですよね。もちろん「この小説ってどういうお話だった?」「このゲームってどういうお話だった?」といったやりとりを自分だってしばしばするわけで、この構図はまちがいなく重要ではある。でも、ことビデオゲームにおいて、「物語」と接触している時間よりもそれ以外の虚構的な内容に触れている時間のほうがずっと長いというのもよくあることだ。じゃあ、この意味での「物語」をベースにするばかりでいいんだろうか。

なんというか、一貫した物語には位置付けられないような虚構的内容ぜんたい(ここでいえば、ゲーム環境のうち物語だけでなく虚構的内容を表すものすべて)を等価に扱ったような、フィクションについての理解やコミュニケーション……というのがうまくできないものだろうか、みたいな。いわゆる「創発的な物語」みたいな語り方はすでにあるんだけど、そういうことじゃなくて……漫画の漫符を演出として物語世界から除外するんじゃない、そんなふうな……。いや、あるのかな。あるような気がするんだけど。たぶん、なんかこう、もっと、因果性の外に出たいと思っちゃいません?

おわりです。


  1. 倉根啓. 2023. ゲームプレイはいかにして物語となるのか. REPLAYING JAPAN. 2023, 5, pp. 109-119. / 本論文と同著者によるもの。
  2. Herman, David. 2004. Story logic: Problems and possibilities of narrative. Lincoln: University of Nebraska Press.