『フィクションとは何か』第2章のメモ

第2章 フィクションとノンフィクション

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

承前: murashit.hateblo.jp

※今回も実際の節構成とは異なるまとめ方をしていることに注意(なので、節見出しも同じではない)。流れとしては同じ。

2022/05/02追記:本章の内容については、清塚『フィクションの哲学』の大部分がこれに割かれており、かつ話としても詳細なのでそっちのほうがおすすめかもしれない。(さっき読み返していて、これかなり書いてあるやんけといまさら気がついた……)

虚構と現実

まず、「フィクション(虚構)作品」という語と「表象体」という語は(人工物でない表象体は別にして)おおむね同義であることが改めて確認される。つまり、「ごっこ遊びの小道具としての機能を持つ」ような作品がフィクション作品である。

なお、たとえば学術論文のように相手に信念を抱かせるよう意図して作られたものについて、「その論文によって何かを信じるときにはその何かを想像することを必ず伴うのであって、その意味でその論文は小道具と言えるのではないか」と考えるかもしれないが、そうでない。小説においてはその記述がそのまま想像を命じている一方で、論文の記述はその内容を信じよ、想像せよと命じるわけではない。あくまでその命題が真理である証拠を提示するなどしているだけであり、その結果として読者が論文の主張を信じることになる……という建て付けとなっている。このへんの説明に「現実世界」「虚構世界」とかの概念を組み込む必要がないのはたしかにいいなと思う。 もちろん論文を無理矢理フィクションとして読むこともできるが、それは論文のもつ機能ではないということで退けてよかろう。

そして本書では、フィクション作品に対する「ノンフィクション作品」を「ごっこ遊びの小道具としての機能をまったく持たないもの」とざっくり定義づける。対して、小道具としての機能を備えたすべての作品は、その機能がその作品において周縁的であっても「フィクション作品」である。通常の用法よりも「フィクション」が覆う範囲がやや広い(フィクションとノンフィクションの混合物みたいなことを考えるのがややこしいので、というのもあるようだ)。

「フィクションが実在しないものを扱う」とか(ホームズのロンドン!)「『虚構の対象を扱ったノンフィクション』や『事実について間違った記述をしているノンフィクション』はフィクションである」みたいな素朴な考え方をするのはやめよう、とも。これはまあ普通にそう。

私たちの現在の関心は、「現実」に対立する「虚構」ではない。また、「虚構」と「事実」や「真理」のと対比でもない。

言語行為と虚構

言語の虚構的使用にもとづく考え方では、絵画的な虚構を説明するには十分ではないのは明らか。そのうえで、文学的虚構についても実際のところどうなの、みたいな話が展開される。

まず、虚構的な言語使用を「ふつうの言語使用」から二次的なものとするような(意味論的な)言語理論には無理があるとする。虚構とそうでないものの違いは意味論ではなく語用論の水準にある。ただし、一般的な言語行為論的な枠組みもやはりうまくいかない……という話になっていく。

よくある言語行為論的な枠組みのひとつでは、フィクションとノンフィクションの違いを作者の意図や真理性へのコミットなど、(明示的な……というのも、教訓的なフィクションがあり得るから)「断定」を行わないテクストとして理解する。しかし、このような「なにか(ここでは断定)の機能を欠けさせている」という見方だとうまくいかない。たとえば歴史小説をフィクションとして理解できないし、「作者が、作中のすべての文について真理性を主張し、なおかつフィクションを書いている」というケースもありうる。

続いてサールのふり説(こちらは「(明示的には)欠けている」ではなく「真似ている」)が検討される。この説にもいろいろ難点はあるが、文学的でない(絵画などの)フィクション作品の作者や、人形製作者が「断定のふりをしている」(寄生されるような「真面目な」使用がある)とは考えられないだろう、というのが決定的な反論とされて退けられる。結局文学的フィクションも含めて、「フィクションの書き手は、発語内行為を遂行するふりをしたりする必要はない」。「発語内行為を表象する」とか「言語行為を模倣する」等と言っても同じ。ここらへん、正直否定しきれていないような印象もある。ただ、あんまり読めていない可能性もあるしよくわかんない。

ありうる言語行為論的な枠組みのもう一つは、虚構制作はそれ自体で一つの種をなすような言語行為であるという説。このときフィクション作品は虚構制作という発語内行為の表現媒体であるということになる。しかしこの枠組みもうまくいかない。たとえば断定という発語内行為を考えたとき、断定文はそれが断定という人間の行為における手段/表現媒体であるから重要なのだ(その意味で、ある文が断定文であるのは派生的である)。しかし虚構制作という発語内行為においてこれを適用しようとしてもうまくいかない。小道具がごっこ遊び的に信じさせる機能は、作者の「虚構制作」という行為とは独立している。断定などの行為と異なり、フィクション作品で遊ぶ際には作者の行為のほうに最初から焦点を当てているわけではない。「機能が虚構制作者の意図にもとづくと理解されるかぎりでは、制作者が影響をもってくる。しかし、もとづくと理解せねばならないわけではない」。意思疎通の機能を持つことはあるけれど、それは虚構にかんする機能とは別の話、と。

というわけで、最終的な主張としては「虚構の基本的な概念は言語とは独立である。とりわけ言語の『真面目な』使い方とは独立である」ということになる。

分類の曖昧さについて

なんだかんだで、フィクションとノンフィクションの間には曖昧なところは残る。そのうえで、以下のように述べられる(これはめっちゃ良い方針だと思う)。

虚構を説明する目的は、分類をやりやすくすることではない。そうではなくて、時にとても複雑で繊細な個々の作品の特徴を、洞察できるようにすることである。そういう洞察は、作品を収納する分類箱を明快に指定することに存してはいない。むしろ私たちは、分類に抵抗する作品たちがなぜそのように抵抗しているのかを理解する必要があるのだ。

実際にフィクションとノンフィクションが重なることはある。たとえば有名な『アンナ・カレーニナ』の冒頭の箴言は、トルストイの主張であると同時に、語り手がそれらの言葉を断定として発話したことを虚構として成り立つような機能も持ち合わせているだろう。その意味でこれもフィクションである。

なお、この「機能」という概念を突き詰めることも本書では行わない。作者の意図や慣習などにどの程度の重みを与えるかはいろいろ考えられ、それに従って境界線上の事例もさまざまに現れる。それでも、断定の媒体になってるかどうか、知識を伝える手段になってるかどうかといった点でフィクションかどうかを判断するのではなく、(それが主目的であれそうでなかれ)ひとえにその作品が想像活動を命令するかどうかという点でのみ判断すればよい。

なお、この立場に立ってみると、神話について「もともとはノンフィクションで、のちにフィクションとなっていった」みたいな理解にはならない。それこそニュージャーナリズムの作品のように、最初から想像を命じるような(そしてときにはそこから教訓を得るような)機能を持っていたわけで、その意味で今も昔も(本書における)フィクションであることは共通している。この点において内容が事実かどうかは二次的といえる。

真理・実在および意味論

このあたりは、原則として特定の立場にコミットするものではないということに尽きるようだ。本書の立場において重要なのは、(すでに第1章で述べられたとおり)虚構性は実在性や真理性と独立であること、そして、それらが組み合わされたときにどのような役割を果たすのかといったこと。意味論まわりの話(第11節)は正直あんまりよくわからなかったので置いとく。

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