『The Poetics of Science Fiction』第7章のメモ

セカイの話や。

承前: murashit.hateblo.jp

ざっくりまとめ:

  • 本章の目的
    • 読者がSF作品を読んでいく過程で、その世界や場面をどのように解釈していくのか、そしてそれがどのように変化するのかについて、認知的な観点から検討する
  • おおまかな流れ
    • SFを分析する際、伝統的な「可能世界」の枠組みでは限界があるよ
    • 読んでく過程で読者がその世界のモデルをつくる様子を、ある種の記憶のモデルにもとづいてつぶさに見てみるよ
    • そうやってつくられた世界のモデルにたいし、個々の場面の読みとりがどう影響していくのかのパターンについて、第2章でも触れたEmmottの枠組みを拡張しつつ見ていくよ(……ってことでいいんだろうか。ちょっとここの目的みたいなのがいまいちわからなかった)
  • 感想とか疑問点とか
    • ここまでの話をひととおり活かして個々の作品をやや細かく分析するような内容であり、本書のハイライトのひとつになっていそう。ただ、そのぶんむずかしい……
      • Emmottへの言及が頻出しているけどもちろんとくに読んでいないので……。これとか見るかぎりは認知文体論みたいな分野ではそれなりに基本になりそうではある
      • ただ、コメントしているとおり記憶まわりの話とかどんだけ妥当性がある話なのかちょっとよくわからなかったり
      • それをいえば認知文体論/認知詩学みたいなのが、そこまで(すくなくともしろうとが手を出せるほどには)成熟してないんじゃねえのみたいな話もある
      • あんま細かく考えなくとも演出とかプロットとかみたいな、情報の出し方にかかわる「技術的」な話として見てもいいかもしれない
      • だからといってこのまとめの内容がちゃんとできているかどうかは別だがな……
    • 本書の立場とはまた別の理由(だと思う。被ってるところもあるかも)でこの手の話に可能世界の道具立てを流用することの微妙さみたいなのは自分も前から気になっていたので、その意味で素朴に共感するところはあった
      • そもそもルーズに使うならあえて「可能世界」とか言わなくてもいいだろとか(ライアンの本とかかなりこれ)、雑に形而上学を絡めるのはやめろとか(三浦俊彦とかはこれ)
      • あるいは(このブログでしつこく言ってるような)矛盾の受け入れ/組み込みの話(『1984年』の二重思考だ!)も関連するか1
      • 想像される不整合な世界とそこから抽出される整合的な虚構世界とのズレみたいな話(このへんの話を連想している)に繋げる……のは飛躍があるか。本書のこのあとの議論としては、そういう矛盾などは(語用論的にというべきか)「解消される」こと前提の話っぽいし
    • ともあれ、(ユービックを除いて)例示されるのがわりと古典的な短編ばかりで、かつこれまでの章よりも細かめに分析されるので、それらの実作品を読みつつこちらの分析を読んでくという形でかなり楽しかった
      • そのぶんネタバレもされまくっている(このメモでも公開するためにややボカけど、そこそこしている)ので注意
      • 浅倉訳ってもしかして(良くも悪くも)「親切」なところがあるんだろうかとはじめて思ったんだけど、SF識者にとっては常識だったりするのか!?!?!
      • こないだのゼラズニイのエントリと今回のエントリの初投稿時、なぜかほとんどの箇所で浅倉せんせの表記を「朝倉」にしていることに気づいたので急いで直しました……(雑すぎる……)
    • 取り扱われている(=ネタバレがあるかもしれない)作品のうち、邦訳があるのは以下。どれもおすすめです

7. Macrological: New Worlds

7.1 Preview

新語などの助けを借りて、読者がいままさに読んでいる作品の「世界」をどのように認知しているのかを検討していく……みたいな感じだろうか。

7.2 New Worlds and Possible Worlds

いきなり可能世界意味論についてめちゃくちゃざっくり紹介される。以降の議論の準備としてか、「各々の世界は論理的に可能でなければならないよ2」「可能世界の枠組みを使うことで、虚構に関わる文にもいい感じで『意味』を与えられるよ」といったあたりが強調されている。

でもって、その勢いで可能世界の話はSFとつなげられそうに見えるよねみたいな話になり、可能世界の道具立てを応用したフィクション論やジャンル論が紹介される。たとえばライアン『可能世界・人工知能・物語理論』も挙がってて、同書の序盤あたりの議論が一段落使って述べられている。

ただ、この手の論はSFに適用するには窮屈でありがち。SFはそういった可能/不可能について融通無碍なところがあるのだ。たとえばスタージョン「昨日は月曜日だった」(1941年)3の序盤を見てみれば、いかにも論理的に不可能な(「今日は火曜日であり、かつ水曜日である」的な)状況が描かれているようにみえる。

ただそれでも、こういった一見した矛盾を説明する手管はいろいろある。語り手が狂ってる/勘違いしてるとか、その世界では時間の流れ方が違うとか、その世界での語の意味や使われ方が一見しての(矛盾する)理解と実は違ってるとか。じっさい「昨日は月曜日だった」においても、われわれの現実における1930年代の世界と似たような世界(主人公が「現実」だと思っている世界)が実は超現実な別の世界(神の世界みたいなもん)における「劇の舞台」みたいなものであり、したがって「今日」とかの言葉の使い方は実はこれこれで……という構造をとっている。

あるいは、マルコム・ジェイムスン‘Doubled and Redoubled’(1941年)4について。本作はいわゆる(「閉じ込められてしまう」系の)ループもので、「どんなに行動を変えてみようとも同じ結果になる1日が繰り返されて……」みたいな話になっている。これも語り手の意識が複数の世界を(ある意味で)渡り歩くような奇妙な状況でありつつ、最終的には(「科学的」ではない——魔法がどうとかの話になる!——にせよ)それなりの説明がつけられることとなる。

ほかにもたとえばアボット『フラットランド』の平面世界やヴォネガット『スローターハウス5』のトラルファマドール星人の時空間認識のようなものは、エーコが言うように5想像の域を超えていて「言及できても構成できない」のかもしれないけれど、それでもSF作家とその読者はなんらかの意味でそれを伝える/受け取ることができているわけで、つまるところSFで描かれる別の宇宙というのは、論理的に不可能なことでも可能にしうる(この言い方はちょっと怪しいのだけど置いとかせてください)といったっていいのでは、と。

こうした例を鑑みれば、可能世界の道具立てだけでは限界がありそうだ。これらだけではせいぜいが文単位ないしは個々の世界単位でのスタティックな分析しかできない場合が大半で、作品の中で可能世界たちがどう移り変わっていき、読者が(ときにミスリードされたりもしつつ)それをどう解釈してくのかみたいなのをうまく扱えない。言い換えれば、問題とすべきは描かれている世界の論理的地位ではない、本章冒頭でも述べたように、読者が動的にどのように世界を認知しているのかが大事なんだよ……という話に戻ってきたところで本節〆。

7.3 Re-cognising new worlds

というわけで、そのためにまず談話分析における記憶のモデルが(本書の目的のもと簡略化された形で)紹介される6。具体的には、読書しているときの記憶はおおまかに以下の3つに分けられるというもの。

  • 活動的記憶 active memory
    • まさに読んでいる箇所に近いいくつかの意味単位程度の記憶。せいぜい句が7つぶんとかそれくらい
  • 準活動的記憶 semi-active memory
    • ↑よりもうちょっとスパンの長い記憶。内部照応的に参照された項目7からなるとかなんとか
    • ここまでの2つがあわさって、誰がどんな登場人物なのかとかいまどんな状況なのかとか、あるいはその虚構世界がどんなものなのかとかの談話モデルdiscource modelがつくられる
    • ざっくりいえば、読んでるときに明確に覚えてると思える「内容」みたいなものと考えてよさそう
  • 休止的記憶 dormant memory
    • 読んでるときにはおおむね意識されない現実世界(というかテキスト外の世界。つまりほかで読んだフィクションとかも含む)についての知識
    • 背景的とはいえ、もちろん読解に活かされはする

では、読者が作中で新語などに出会ったときおよびその後に、これらがどうはたらくのか。以下のように整理できる。

  • Evocation:活動的記憶のなかに(談話モデルにない)指示対象が作られること。以下の2通りがある
    • New evocation:まったく新しく作られる場合。それこそ新語に出会ったときが代表例。目下の文脈によりその対象が肉付けられ、以降の叙述によって更新されてく(つまり指示読者の頭の中では対象の性質は静的なものではない)
    • Old evocation:休止的記憶から引っ張り出される場合。現実にある固有名詞や一般名詞など(「東京」とか「太陽」とか)に出会ったときがこれにあたる。もちろんここの読者ごとにこの知識は異なってるし、知っている語が別の使われ方をされているなどでミスリードされる/勘違いしちゃうようなこともありうる
  • Invocation:すでに談話モデルにある対象が活動的記憶に現れること。以下の2通りがある
    • Recalling invocation:準活動的記憶から活動的記憶へ引き出される場合。プロット的に前のほうにあったエピソードがまさに問題になるような状況を考えるとわかりやすいか
    • Renewing invocation:活動的記憶のなかで改めて前面に出る場合。代名詞の使用や繰り返しや言い換えなどなどで指示対象に注意を引かせ続けるようなイメージか
  • Revocation:指示対象が活動的記憶から休止的記憶へと退くこと。以下の2通りがある
    • Gradual revocation:ゆっくり退くケース。言及がなければだんだん薄れてくわけだ。物語の主要な登場人物とかはこうならないように定期的に言及されるわけだ
    • Defeased revocation:ぱっと取り消されるケース。登場人物が死んだときや、もっといえば読み終えたときなど、自然に消えてくのではなく明確に退かされるようなこともあるということ。「エイリアンは(invocation)そこにいなかった(revocation)」みたいに出てきてすぐ消えるのもこれ(このへん、記憶とそのときどきのフレームをやや混ぜて使ってる気がするんだが……)

そのほか記憶の可塑性がどうこうとか。ざっくり言えばこうしたエンティティが静的なものでないことが強調されてると考えてよさそう。

ともあれ、こうしたモデルのもとであれば新語の重要性もわかりやすいのではないか。新語だけが背景知識を拡張できるわけだから。そして前章でみたとおり、新語のスタイルが多様であることがSFの特徴のひとつなわけだ。


続いて、ここまでの道具立てを使ってゼラズニイ「十二月の鍵」8の冒頭部分(タイトル部分から“But then it must be borne in mind that no one could have foreseen the nova which destroyed Alyonal”まで)が引用され、分析される。このあとの説明のために当該部分のさらに冒頭だけ抜き出しておく。

THE KEYS TO DECEMBER

BORN OF MAN and woman, in accordance with Catform Y7 requirements, Coldworld Class (modified per Alyonal), 3.2-E, G.M.I, option, Jariy Dark was not suited for existence anywhere in the universe which had guaranteed him a niche. This was either a blessing or a curse, depending on how you looked at it.

So look at it however you would, here is the story:

対応する浅倉訳。

十二月の鍵

人の子と生まれながら、G・M・I選択権契約に従って、三・二E(地球重力)、寒冷惑星種(アリヨーナル用修正済)、猫形態Y7クラスに改造されたジャリー・ダークは、彼に一つの住処を保証してくれたこの宇宙のどこにも生存不適当な体となった。これが祝福か呪いか、それはあなたの見かたしだいだ。

だから、どんな見かたをするかはあなたにおまかせするとして、まず物語を始めよう。

原文のほうを読めばわかるとおり新語でジャブを打つタイプのはじめかたをしている作品であって、続く補足を省くとまじでなに言ってるのかわからないと思われる。そういう意味ではそれこそ初出時のevocationや続く補足でのinvocationという形で説明しやすい作品ってことなのだろうが。一方浅倉訳ではEが重力の単位であることやAlyonalが惑星であることが最初から示されていたり、一文目前半の契約文書っぽい堅苦しさが減じられさらには「改造」という語がこの時点で使われていたりと、冒頭の冒頭時点で同時に補足されている/読み味の異なっているところも多い。したがって本書での分析を日本語訳にはそのまま適用はできない……のだけど、せっかくなので以下、浅倉訳の冒頭部分にしたがって最初の段落の分析をラフに再構成してみることにする(なので、本書の実際の分析と道具立ては同じでも内容としては乖離していることに注意)。最初の段落だけなので実際に見てとれるのはほとんどevocationだし、そもそもちゃんと再構成できているかどうかも自信ないのですが……9。

さて、まずは読む前の状況から。そもそも本作は短編集の2作目であり、読者はおそらくその前に置かれた「その顔はあまたの扉、その口はあまたの灯」をすでに読んでいると思われる。そのため読者は、手元の本がSFの短編集であること、したがって各作品が独立していてこれから新しい話が始まること、すなわち談話モデルを新たに構築すべきことを知っているだろう。また、ゼラズニイのあまり「SF的」でない文体10がどんなものかといったこともなんとなくわかっている状態にあるだろう。読者が初期状態で持ってる背景知識ないし談話モデルの前提はそんな感じ。

そして「十二月の鍵」というタイトルが来る。「十二月」も「鍵」も現実世界の知識として知っているから、それが活動的記憶に呼び出される(old evocation)。『十二月は鍵で開けられるようなもんじゃないよな。だからといって詩とか超現実の世界の話……ではなくて……』。 先述したとおりSFであることは背景的知識に含まれていて: 『まあ、タイトルなわけだし、「その顔は〜」みたいに隠喩かなにかだろう』。 実際のところ、半面ではたしかに本作のキーとなる「寒さ」を表している一方で、「十二月クラブ」という形でも出てくる……がともかくこの時点ではまだ知らない。

それから最初の段落である。「人の子と生まれながら」という、現実の知識としてもあり馴染みのある語からなる句(人の子という概念とかが背景知識からevocateされる)が、そのあとに新たにevocateされるジャリー・ダークという新しい固有名詞に紐づけられる。『なるほどどうやらジャリーという人間がいるらしい』。 ジャリーという人名やそれを指す代名詞はこれに続く段落でも繰り返し使われ(renewing invocation)、彼がどういう生活をしているのかがだんだんわかってくる。

ただ、その間に新語がいくつも出現していて……。『……が、「改造」されてもいるみたいだ。「猫形態Y7クラス」(合成による造語)というからにはなにかしら猫っぽい感じなんだろう。Y7がなにかはよくわからんが』。 ここでevocateされた「猫形態」はこれからちょくちょく出てきて(invocation)、ジャリーの様子からそれがどんな「形態」なのか(まあ、おおむね猫なのだが)だんだんわかってくる。

で、「なんとか権契約に従って」という言い回しからすれば「G・M・I」(アクロニムによる造語)は契約主体か法律かなにかを指してるみたいだ。 「契約書っぽい」言語使用域(これも現実世界の知識からのevocationが絡む)から推測しつつ11、この時点で空の指示対象がevocateされる。そして続く段落で「ゼネラル鉱業株式会社」が出てきたときにそれが引き出されることになる(recalling invocationないしold evocation)ただ、G.M.Iについては序盤を過ぎると触れられることがなくなるためgradualにrevocateされていくのだが。『ともかくその「G・M・I」とやらの関係する契約にもとづいて改造されてしまった、と。「選択権」というのは語としてはわかるけどここでの意味はちょっとよくわからないや』。 この「選択権」の意味もあとでわかる。

『「三・二E(地球重力)、寒冷惑星種(アリヨーナル用修正済)」はたぶんその「猫形態Y7クラス」の適応する環境かなにかだろう(「E」も「寒冷惑星種」も「アリヨーナル」も新語)。「E」ってのは括弧書きされているとおり重力の単位っぽいな。この世界には「地球」があって12、その3.2倍の重力ってことだろうか。「アリヨーナル」はカタカナで書かれている(原文だとキャピタライズされている)からには、そして「〜用修正」というからには、特定の惑星を指す固有名詞なのかな。重力が強くて寒い惑星なんやろな』。 ここでも各種evocation/invocationが起こっている。「アリヨーナル」についてはこのあといろいろ説明があり、たしかに寒い惑星であって、それがどのような運命を辿った(なぜジャーリーが「どこにも生存不適当」になったのか)のかもわかる。

……という感じで、読者が読み進めるに従って指示対象が作られ肉付けされ、どのような舞台設定なのか、どんな登場人物がいるのかといったモデルが読者のなかにできていく。そしてそれに従って、あるいはさらに変更を加えていきながら内容を解釈していくことになる。

7.4 Negotiating new worlds

読者のなかでこんなふうに作られた世界で、個々の場面はどのように読みとられていくのか。というわけで、続いては(第2章で触れた)Emmottの文脈的フレームのモデルを使って検討していく。以下、エモットを引いている部分とストックウェルが述べていることをちゃんと区別していないので注意。ざっくりいうと、「フレーム」のとりかたがやや拡張されているようだ。


さて、いわゆる現実性原理13というものがある。現実に反することがらが示されていないかぎりは、その虚構世界を現実世界に倣って理解するというあれ。エモットはこれに関して、「現実に反すること」の示され方(そして読者がそれをどう特定するか)にSF(を読むこと)の特徴が現れているとする。どういうことか。

たとえばビクスビイ「きょうも上天気」14の冒頭をみてみよう。ここではそのような文体的マーカーが2つ挙げられる。まずは「〝太陽〟」というふうに、「太陽」が引用符(邦訳ではダブルミニュート)で囲まれていること。そしてもうひとつは、アンソニーが「心でネズミをつかまえておいて」としている描写(物理的な因果関係によって起こるべきことが、アンソニーの心のままになっているように見える)。実際のところ本作は、アンソニーの子供っぽい思いつきのままに村のすべてが操られているというお話だ(そのつながりで、オチに至り、「太陽」がなぜ引用符で囲われていたかも明示される)。こうしたマーカーは、全体にたいする割合的でいえばほんのすこしだけ(7,000語ほどのうち26センテンスらしい)。にもかかわらず、これらほんのすこしの「相違点」が本作の世界をわれわれの現実世界とまったく違った、おそろしいものにしている。村の人たちはアンソニーを刺激するようなことを言ったり、考えたりするわけにはいかない。だって、不愉快な考えを持った住人は殺されてさえしまうのだ!(きょうも上天気!)そのため村の大人たちはみんな、いつも、曖昧にもぐもぐとしている。そして本作の語りそのものさえこれに倣って(このあとの信念フレームの話も参照)もぐもぐとしており、そういった「相違点」は、あくまで曖昧に、迂遠に示されるのみである。


正直なところ、以下は(本章ぜんたいにむずかしいなかでもとくに)よくわかんなかった。誤訳のあるときの典型である「意味のわかる部分をむりやりつなげました」感もあって、へんなまとめかたをしているかもしれない。

続いて「信念フレーム」について。ざっくりいえば登場人物のものの見方みたいな話(ざっくりまとめすぎかもしれない!)。読者は語りから直接構築される文脈的なフレームだけでなく、登場人物たちが持っているであろう信念フレームを想像してもいる。もちろんこのとき、登場人物たちのもつフレームには必ずしも直接的にアクセスできない。現実性原理にそって人間のものの見方を「投影」している(とはいえ、投影 projectionのニュアンスがいまいち掴めてない)ような形。また、「きょうも上天気」においては、村の人々の信念フレームと語り手のそれとを「重ね合わせる」ような手法が使われていたりとかなんとか(「投影」と同じようにこの「重ね合わせる overlap」もタームとしてやや特殊に使われてるっぽいんだけど、やっぱり若干ニュアンスがわからない……)。

あるいは、物語のなかでキャラクターが過去を回想したり、「こうであったかもしれない」と考えるような状況について考えてみる。これは別々のフレームに同じキャラクターが登場して「演じている enact」ように捉えられる。が、ここでタイムパラドックスものの話、たとえばハインライン「時の門」「輪廻の蛇」を考えてみるとどうだろうか15。こういった作品では、ひとつのフレームのなかで、本来同じキャラクターが、べつの登場人物を演じている……みたいな一見おかしな状況が起こる。そしてそれは、(「時の門」でいえば)一貫して特定のボブ・ウィルソンの経験に焦点化して語られる。つまり、現実の世界では時系列が一貫している一方で認識(記憶や予測)が非線形でありうるけど、タイムトラベルものでは認識が一貫している一方で時系列は循環している……みたいなことができる。(このへん、信念フレームの扱いがちょっと違うというか、ある種認識優先であるとかそういうことを言いたいんだろうか……? よくわかんなかった)

(よくわかんないところも多かったけど)ともあれ、こうした手法をしばしばとることは、SFのひとつの特徴であるよ、と。


引き続き、今度は「輪廻の蛇」を例にしながら、フレームの「修復 repair」について検討する。

本作は冒頭で「私生児の母」が(語り手である)バーテンダー=航時局員に対して自分の半生をしゃべるくだりをはじめとして、さまざまにフレームを投影させ重ね合わさせている(それぞれの時点/役割ごとでの信念フレームの「差」がキモになってる話なわけだ)。そしてオチに至り、これまでの語り手たる航時局員の信念フレームさえ見直しを迫られる……という構造になっている。

エモットのもともとのモデルでは、フレームは基本的に(そこにキャラクターがいるような)空間を個々の単位としており、そうした空間の切り替わりがそのままフレームへの出入りということになるものであった。そこでは現実と同様に時間が直線的に流れていて、回想や予期というのは、認知的にはフレームの切り替えやフレームの回想によって、文体的には時制や相の変化あるいは直示表現のともなうフラッシュバックや推測によって、処理されるものである。

けれど「輪廻の蛇」のようなSFにおいてはこうした前提が成り立たない。空間やキャラクターはむしろ固定的であって、フレームを区別するのは(直線的に経過しない)時間軸の切り替わりということになる。「回想」や「予期」をtangibleなもの(ちょっといい訳語が思い付かなかった)にしているわけだ。

こういうツイストはSF短編の常套手段ではある。タイムパラドックスものとは違う例として、クラーク「90億の神の御名」16が挙げられる。オチの直前に至るまでチベット僧たちの考えにずっと懐疑的な調子で(そのような信念フレームに焦点をあてて)進んできたのが最後に一転するみ、たいな。なお、科学技術的な認識が神秘にとってかわられるって話はクラークの十八番ではあるが、これはべつに反科学的なもんというわけでもない。神秘が神秘として曖昧なままにされるのではなくて、(それこそクラークの第三法則の言うとおり)われわれの現在の理解では魔術と変わらないとしか見てとれない、けれど曖昧ではないものに取って代わられるというだけなわけだ。

ミスリードとツイストについてもうちょい考察する。一貫性というのは認知の問題であり、読者は一般に、ものごとをあいまいなまま保持しておくことはできない(どうにか一貫した説明をつけようとしてしまう/ついた形で保持してしまう)。しかも現実性原理にしたがいつつ。これがミスリードとその結末でのツイスト(間違ったフレームを作らせて、最後にごりっと修復させる)を成功させる秘訣ですよ、と。このへんはミステリのほうが巧妙にはやってるだろうとは思うが……。

これにかんして、ブラッドベリ「骨」17におけるオチにもちょっと触れられる。最終行に至ってついに何が起こったかがはっきり明かされ、それによってその直前の「手術」がなんだったか、あるいはあの「棒パン」がなんだったかが遡及的に明らかになる。つまり、ここでも「修復」が行われるわけだ。


最後にフレームの「置き換え replacement」について。「修復」よりもっと劇的なイメージか。どんでん返しみたいな。読者は「説明のつかないできごとや状況」が説明され解消されること、つまりそういうどんでん返しを期待するし、SF(や探偵小説)はそういうのが得意ですよ的な。

わかりやすい例として、ディック『ユービック』が挙げられている。種明かしの段になって読者がつくった虚構世界のモデルのほとんどすべてが見直される。調整とか修復どころではなく、文字通り反転し置き換えられる例といえる18。ディックはこういうのよくやるよねとか。

7.5 Review

というわけで、本章では読書の過程でどのように読者のなかに虚構世界のモデルが作られ変化していくかを見てきた。可能世界のスタティックなモデルではこういう分析ができないので、認知的な観点からやったよ。

そのほか、伝統的な可能世界のモデルの「可能」「不可能」ではSFなどをうまくとらえられないという話とか。このへんも、読書の過程に相対的に、「その時点では、読者にとって可能そうにみえる(=もっともらしい)」みたいな言い方をするしかないんじゃないかとか。


  1. SEPのImpossible Worldsにかんする記事の冒頭にあるヒューム/シュリックとヘーゲルの話がおもしろい。このへん自分はやっぱヘーゲル寄りなわけだ。昔からある話なんだろうな……。
  2. ここではやや表現を弱めたが、本書では実際のところ暗黙に古典論理が前提されている、つまり排中律や無矛盾律が条件として課されている。けども、理論的には必ずしも古典論理に限らなくともよいはずだし、ある論理によって可能でない世界も含めた意味論を組み立てることだってできるはず。あと、次の「意味」もちょっと表現をふわっとさせた結果のもので、本文ではふつうに真理条件的な話をしてるだけです。
  3. 大森望訳が『20世紀SF1 1940年代 星ねずみ』および『ここがウィネトカなら、きみはジュディ:時間SF傑作選』に収録されている。現状手に入りやすいのは後者か。直球でコントみてえな話ではある。
  4. 翻訳作品集成を見るかぎり邦訳はなさそう。ただ、 Wikipedia(英語版)の「Time loop」の項で言及されてる 程度には先駆的な事例のようでもある(ちなみにこの項目は日本語版のほうが充実してるんだけど、本作への言及はない。あと「ループもの」といったときに「再挑戦する」系偏重になりがちなところが気になるな……)。なお、(こういうときの著作権の扱いがよくわからないのでとりあえずリンクはしないけど)ググってみれば「カナダでパブドメになってるから公開するよ」的な青空文庫っぽいサイトが見つかったりする。ざっと読んでみるとオチでかなりずっこけるんだが、繰り返しへの飽きやそれを打破しようとするときの手詰まり感とかはこの時点ですでに確立されていて、そのへんはちょっとおもしろい。
  5. Eco, U. (1990) The Limits of Interpretation, Bloomington and Indianapolis: Indiana University Press.
  6. 参考文献がいくつか挙げられているもののここでは割愛(おおざっぱにいって認知言語学の手法をもちいた談話分析に類するものにみえる)。そもそも現代的な観点からみてこうした記憶のモデルにどこまでの妥当性があるのかはちょっとよくわからない……(おおむね便宜的な区分と考えてほしいとも言われているが)。言語学-社会学にわたって「談話分析」「ディスコース分析」「会話分析」「テキスト言語学」等と呼ばれる分野およびその展開に関する概観として、 宇佐美「談話研究と言語教育:1960年代から現在までの流れ」 が参考になった。
  7. endophorically reffered items……なんだけどめちゃ無理のある訳だな。内部照応というのは、anaphora(前方照応)とcataphora(後方照応)でもいいんで、とにかく言語的なコンテクスト内部での照応ということのようだ。
  8. 冷凍睡眠テラフォーミング猫SF。『伝道の書に捧げる薔薇』所収。ここに引いているのも同書の浅倉久志訳から。
  9. なおそもそも冒頭部分からこんなに真面目に読むかって話もあると思うが(とりあえず雰囲気だけ追ってあとから帰ってきたりするよな)、無意識にこんな感じで受け取っているくらいに考えればまあわかるくらいには思っていただけるのではないでしょうか!!!/あと細かいことをいえば、本文のほうではタイトル前の連番(2.)も掲載されていて、短編集であることを表す特徴のひとつとしてとらえている。
  10. https://murashit.hateblo.jp/entry/2023/05/10/162940
  11. 上にも書いたけど、翻訳ではリーガルっぽさがかなり減じられておりただの説明口調になってるのでやや無理があるかもしれない。レジスターの話も絡むよということの例示と考えてください。
  12. 読んだことのある人ならわかってもらえると思うんだけど、この「(地球重力)」がある(「地球」と明確に言ってしまう)とない(あとで重力の単位であると示すに留める)とではそのあとの読み味が変わってきてしまうんじゃないだろうか(そりゃ、このあとの舞台たる惑星がそのまままったく「地球」ではないとはいえ)。原文ではここに限らずEarthって語は出てきていない……はず。とはいえストックウェルも指摘しているとおりGではなくEを使ってる時点ですでに地球のあることを暗示してはいるし、だからこそこの訳になってるんだろうけど。
  13. この手の話をするときにはだいたい出てくるあれですね。「現実性原理 Reality Principle」はウォルトン『フィクションとは何か』に出てきた呼びかたで、当時のメモには次のようにまとめた:「核心部の第一次の虚構的真理が許容するかぎり、できるだけ虚構世界を現実世界に似たものにする」という戦略。言い換えれば、「虚構世界と現実世界との間を最小にする」ような原理。本書ではこの表現は出てきてないのだが、わかりやすいのでこれでいかせてください(本書ではとくに名付けられてないしウォルトンへの言及もない。ただ、エモットがそういうことを言ってるという話のほか、ライアンの「最小離脱法則」として触れられている感じ)。
  14. ここでは『きょうも上天気:SF短編傑作選』に収録されている浅倉訳を参照した。これも浅倉訳では語りの迂遠さが(ちょこっとだけど)減じられてしまっているっぽいんだよな。わりと直球にホラーにしている感がないではない。
  15. 「輪廻の蛇」の入った傑作選は『プリデスティネーション』としての映画化のおかげで再刊されている一方で、「時の門」の入ったほうは絶版ぽい。ともあれこういうことを言うだけであれば広瀬(時の門を開いてるしそりゃあね)でも藤子Fでも大丈夫だと思う。ちなみにどちらもなぜかWkipediaに単体の記事があって、わりと細かく解説されていたりする(時の門/輪廻の蛇)。
  16. 『90億の神の御名:ザ・ベスト・オブ・アーサー・C・クラーク2』所収。バベルの図書館みたいな「あらゆる順列組み合わせ」系。そんな系があってたまるか。
  17. 『十月はたそがれの国』所収。本文ではそうは言われてるけど、わりとオチじたいは予測しやすい話ではある(ただその見せ方がめちゃくちゃうまいんだよな)。もちろん「こうだろうか、こうだろうな」と考えることと明確になることというのは、やっぱ違うのもたしか。
  18. ここで直接言及されているのは大オチじゃないほうだけど、そちらのほうもやっぱりこの味があるよな。