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村上春樹、エルサレム賞授賞式でイスラエルを批判

 とりあえず、速報的に、気になることをいくつか。

とりあえずの感想

 イスラエル最高の文学賞、エルサレム賞が15日、作家の村上春樹さん(60)に贈られた。エルサレム市で開かれた授賞式の記念講演で、村上さんはイスラエルによるパレスチナ自治区ガザへの攻撃に触れ、人間を壊れやすい卵に例えたうえで「私は卵の側に立つ」と述べ、軍事力に訴えるやり方を批判した。

……

 村上さんは、授賞式への出席について迷ったと述べ、エルサレムに来たのは「メッセージを伝えるためだ」と説明。体制を壁に、個人を卵に例えて、「高い壁に挟まれ、壁にぶつかって壊れる卵」を思い浮かべた時、「どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立つ」と強調した。

 また「壁は私たちを守ってくれると思われるが、私たちを殺し、また他人を冷淡に効率よく殺す理由にもなる」と述べた。イスラエルが進めるパレスチナとの分離壁の建設を意識した発言とみられる。
http://www.asahi.com/culture/update/0216/TKY200902160022.html

 単に批判したというだけでなく、「壁」とその意味に言及した点は大変大きい。是非全文を読んでみたいが、ソンタグより踏み込んだ批判と言えるかもしれない*1。また、「どんなに卵が間違っていても」という表現は、思わず胸にくるものがあった*2。とりあえず、村上春樹氏には感謝したい気持ちだ(とはいえ、全文を見て評価がひっくり返ることはありえます。ソンタグみたいに)。

報道が台無しにする

 しかし、村上春樹がどれほど踏み込んだ批判をしたとしても、次に、それをどう報じるかが問題である。たとえば、アーサー・ミラーの件では、次のようなことが指摘されていた。> http://ahoudori.tea-nifty.com/blog/2009/02/post-95a5.html

 警戒すべきは、メディアの報道姿勢である。たとえば、別のニュースでは、例の「どっちもどっち」臭が漂っている。

 【エルサレム15日時事】作家の村上春樹さん(60)は15日、イスラエル最高の文学賞「エルサレム賞」を受賞し、エルサレム市内の会議場でスピーチを行った。村上さんは、イスラエルのパレスチナ自治区ガザ侵攻を批判、日本で受賞をボイコットすべきだとの意見が出たことを紹介した。
 村上さんは例え話として、「高い壁」とそれにぶつかって割れる「卵」があり、いつも自分は「卵」の側に付くと言及。その上で、「爆弾犯や戦車、ロケット弾、白リン弾が高い壁で、卵は被害を受ける人々だ」と述べ、名指しは避けつつも、イスラエル軍やパレスチナ武装組織を非難した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090216-00000014-jij-int

 原文を見てみないとなんとも言えないところはあるが、確かに「壁」の例として「爆弾犯」や「ロケット弾」に言及しており、イスラエルだけでなくパレスチナ(より正確にはハマスやヒズボラ)をも批判していると、読めば読める。しかし、臆面もなく「イスラエル軍やパレスチナ武装組織」と並列的に記載しているのは、報道の姿勢によるものだ。

 村上春樹は明確に名指ししてはいない。「爆弾犯」や「ロケット弾」も、「白リン弾」や「戦車」と同様に「壁」である。ただし、同様な問題なわけではない。私たちは、イスラエルがパレスチナに対して占領し、排除し、入植しているという事実を知っており、そこに非対称性があることを知っている。また、そこで行使されている軍事力の大きさにも、圧倒的な非対称性があることを知っている。私たちは、知っている事実を前提に、このスピーチを読めばよい。そうすれば、「どっちもどっち」に読むことは絶対にできない。


 村上春樹は、十分以上に踏み込んだスピーチをしたように思える*3。それを前提して述べるなら、村上のスピーチを「どっちもどっち」的に読むならば、それは村上の問題であるというよりも、わざわざそのように読もうとする側の問題である。(村上氏が「イスラエルと同様に、ハマスやヒズボラをも批判している」と明言するなら別であるが、今のところ、そういうことはない。)

再確認しておくべきこと

 村上氏のスピーチが一定以上踏み込んだ批判をイスラエルに対して行った、というのは、それなりに重要な出来事だと思う。ただし、問題解決とは、問題が解決されることであり、誰かが解決されるべき問題に言及することではない。そして、それは村上氏の仕事ではないし、運動家の仕事でもないし、僕の仕事でもない。それらすべての人々を含む、「みんなの」仕事だ。つまり、目標はまだ先にあり、その仕事に対する責任は、すべての人にある。シンプルな話だ。

 村上氏のスピーチは、村上氏に対する評価のみならず、村上氏を評価する一人一人に対する評価にもつながっていくだろう。たとえば、村上氏のスピーチを通じて、村上氏を見直した、再評価した、という人がいるならば、その人は、この問題が解決されるべき問題であることを理解する能力がある、ということだ。ということは、すぐさま、次のように問わなければならない。「自分にできることは、なにか」。今回の村上氏のスピーチを評価するとは、そういうことだ。


 村上氏のスピーチを、なにかの終りとして、なにかの区切りとして位置づける態度は、それ自体が欺瞞である。私たちはそれを強く警戒しなければならない。村上氏のスピーチは、自分自身にとっての、新たなはじまりでなければならない。村上氏のスピーチを評価するとは、そういうことだと思う。必要なことは、次の記事の最終節でも書いた。>http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090110/p1


※ スピーチ全容を見てからにしようかと思ったのだけども、報道が次々出てきている今の段階で書いておいた方がいいと思い、とりあえずアップしておくことにする。村上氏のスピーチへの評価やその他は、また後日、丁寧に考えたい。

*1:正直、ここまでは期待していなかった。

*2:もちろん、本当に「卵が間違っている」かどうかなんて、誰にもわからないということが、その前提にある。

*3:もちろん、繰り返しになるが、この評価は全文を見た上でひっくり返る可能性はあるが。