モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

愚行権とか、啓蒙の暴力とか

 「問題は疑似科学ですらない」@地下生活者の手遊び
 「愚行権」にせよ、「啓蒙の暴力」にせよ、実に粗雑な使われ方をしてるのをよく見かける。あまりに酷いので、当面、自分で使うのは自粛しているくらいなんだけど、またか、という感じではある。

「愚行」を支えるもの

 とりあえず、愚行権とはどういうものか、tikani_nemuru_M氏の記事もあるわけだが、そのまた元ネタであるところのミル『自由論』に遡って引用してみる。

……社会が個人として強制と管理という形で干渉するとき、そのために用いる手段が法律による刑罰という物理的な力であっても、世論による社会的な強制であっても、その干渉が正当かどうかを決める絶対的な原則を主張することにあるのだ。その原則はこうだ。人間が個人としてであれ、集団としてであれ、誰かの行動の自由に干渉するのが正当だと言えるのは、自衛を目的とする場合だけである。文明社会で個人に対して力を行使するのが正当だといえるのはただひとつ、他人に危害が及びのを防ぐことを目的とする場合だけである。本人にとって物質的にあるいは精神的に良いことだという点は、干渉が正当だとする十分な理由にはならない。ある行動を強制するか、ある行動を控えるよう強制するとき、本人にとって良いことだから、本人が幸福になれるから、さらには、強制する側からみてそれが賢明か、正しいことだからという点は正当な理由にならない。これらの点は、忠告するか、説き伏せるか、説得するか、懇願する理由にはなるが、強制する理由にはならないし、応じなかった場合に処罰を与える理由にはならない。強制や処罰が正当だといえるには、抑止しようとしている行動が誰か他人に危害を与えるものだといえなければならない。個人の行動のうち、社会に対して責任を負わなければならないのは、他人に関係する部分だけである。本人だけに関係する部分については、各人は当然の権利として、絶対的な自主独立を維持できる。自分自身に対して、自分の身体と心に対して、人はみな主権をもっているのである。(pp.27-28)(太字強調はモジモジによる)

 太字強調したところを見てもらえれば分かるけれど、愚行(と思われること)をしている人に対して、忠告したり説得を試みたり懇願したりすることは、愚行権を侵害するとはみなされていないんですね。というわけで、僕が主張してきたことの中に、愚行権を侵害するようなことは含まれておりません。

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)

 ミルの議論*1においては、「愚行」というのは、他者の行為を「愚行」として禁止しようとするマジョリティに対して向けた一種の韜晦なわけです。マジョリティにとっての「愚行」が新たな可能性を開くこともある、自律した個人が自分自身を作り上げていくに際して「愚行」もまた必要なプロセスでありうる、そういった理由があって「愚行」が擁護されるわけです。挙げられる理由は様々ありうるけれども、ここでの「愚行」は、人間の可能性の条件として捉えられているのであって、「バカでいる権利」みたいな話とは全然違います*2。

 人々が「愚行」を通じて自らを作り上げていく、新たな考えを生み出していく、そういう可能性に開くためには、単に「愚行」が許される(強制によって禁止されない)以上のことが必要だということも主張されます。さまざまな人々がなぜ、いかなる「愚行」を行ったのか、そういう自由な思想と言論の流通を認め、一人一人がそうした異なる考え方に触れながら、個々人はそれぞれに自分の考えを作り上げていく。そういう枠組みがあるわけです。この線で考えるならば、先述の「忠告や説得や懇願」は、愚行権の侵害どころか、むしろ愚行権を可能にする必要なもの、奨励されるべきこととして捉えられるわけで。件の母親について言うならば、「あなたのやっていることは愚かなことではないのか」と言われ(う)ることは、その母親の「愚行権」を意味あるものにするための条件ですらある。

 もちろん、「忠告や説得や懇願」は、ある種の権力関係におかれれば強制を意味しうるでしょう。また、徒党を組んでの、あるいは強力な権威を背景にしての「忠告や説得や懇願」もまた、強制を意味しうるでしょう。それは考えるべきですし、まぁ、ミルでもそういう指摘はしてますね。だから、僕は疑似科学批判を批判したわけです。それは「忠告や説得や懇願」ではまったくなく、むしろ、「忠告や説得や懇願」が通用しない人々であると断罪することで、討議の空間から切り離そうとする態度だったわけですから。他方で、tikani_nemuru_M氏のように「バカはほっておく」というスタンスも、討議の空間から切り離すという意味ではまったく同じであり、愚行権を擁護するどころか、その前提を掘り崩している。そこでの愚行権は、まるきり形骸化してしまっているわけです。

「啓蒙の暴力」に無自覚なのはどっちか

 さて、エホバの証人輸血拒否事件について。

 エホバの証人の信者からすれば、そもそも「何が愚行か」が問われているわけです。で、あちらにすれば、みすみす永遠の命を失うことになる輸血なんてことが「愚行」なのであり、許しがたいわけです。あまり考えたくないですが、次のような状況を考えてみましょう。エホバの証人の信者が多数派であるような社会があるとし、そこではたとえば次のような主張がなされるわけです。「成人の非エホバ信者には愚行権があるから、自由に輸血したらよい、しかし、子どもにまで同様の愚行を強要するのは、子の「永遠の命」を毀損する他者危害行為であるから、親権の認められる範囲を超えている」。立場を入れ替えただけで、同じことをしてるわけですよ。

 また、子どもに問題を限定することも、根本的な解決にはなりません。仮に、15歳未満の子どもだからという理由で輸血をした場合、その子はエホバの信者になる権利をあらかじめ毀損されていることになります。エホバの教義に「15歳以前の輸血では汚れない」とでもされているなら別ですけども、そんなことはないわけですから。その子に輸血することは、その子を永遠にエホバから遠ざけることを意味します。輸血をした以上、エホバの教義の中では救われることはありえないわけですから。タバコや酒を禁止する、なんて話とは訳が違うんですよ。

 もちろん、僕のスタンスとして、輸血をするな、と言うのではありません。僕は断然、輸血支持です。しかし、その輸血は、相手が子どもであれ何であれ、それこそがまさに「啓蒙の暴力」なんですよ。エホバ信者の認識枠組みにおいてではなく、自分自身の認識枠組みに沿って「愚行」を規定する以上、それは「啓蒙の暴力」でしかありえないんですよ。「啓蒙の暴力」に無自覚なのは、まったく、どっちなんだか。

 エホバ信者の認識枠組みと、非エホバの認識枠組みは、ゾーニングして仲良くやっていきましょう、なんて話は無理なんですよ。最初から。ゾーニングするなら、エホバの掟はエホバに任せて、子どもが輸血を受けられずに死んでいくのも「コスト」として受け入れるしかありません。これはこれで、「非‐啓蒙の暴力」と呼ぶしかない事態になっているわけですが。どうしようもありませんな。結局、エホバ信者と非エホバ信者の間で、真理性をめぐって争うことを通じて、お互いの認識が変化する可能性を開いておくことだけが、「啓蒙の暴力」を小さくしていく可能性を持っていることになります。そして、これこそが「バカであるその人を目的とするようにバカにしろ」ということであり、言い換えれば、「こちらが啓蒙される可能性を開きつつ啓蒙せよ」ということなわけです。

 ついでに言えば、僕は成人のエホバ信者でも輸血すべきだ、と思いますね。仮に、ある医師が、成人のエホバ信者の命を救うために輸血をしたとすれば、僕はそれを擁護するでしょうね。tikani_nemuru_M氏だったら、「愚行権の侵害だ」といって批判するんでしょうが、バカげた話だと思いますね。そうやって批判されるリスクがあるから、医師が輸血をしなかったとしても、それはそれで責めはしませんがね。実際にどうするかは、そのときの医師の判断にゆだねるしかありませんから、現状では。僕は医師が輸血しようとしまいとその医師を責めませんが、公共的な討論における立場としては、成人だろうと子どもだろうと輸血すべきだ、という主張をしますね。

 で、少し話は変わって。ホメオパシーを施術する母親の話で。

虐待においては親権・愚行権は制限されるにゃ。ここで悲劇の加害者の側にたつ暇があったら、悲劇の被害者の側にたてよ。具体的な待ったなしの虐待の現場において、優先すべきは被害者の側にたつこと。

 虐待やネグレクトについては、少なくとも悪意と呼びうるものがあるかと思いますが、医療ネグレクトは違うわけです。その意味で、これを「医療ネグレクト」と呼ぶことは、誤解や混乱を招くと思いますね。現にtikani_nemuru_M氏において招いているように。

 通じないようなので、別様にいいましょう。この問題において子供の側に立つこととは、子どもの病気・ケガが改善するよう正しい医学的立場から子どもに対して治療を行うことですが、それは母親と対立することではないんですよ。母親の認識が「まちがっている」ために、対立しているように見えるし、母親の認識が「まちがっている」ために、この母親の認識において対立しているように思われるでしょうが。しかし、この母親の認識がまちがっている、という前提を置くのであれば、この対立は見かけ上のものに過ぎないわけです。逆に、この母親の認識がまちがっているという前提を置かないならば、「他者危害」だなんていえなくなります。お好みの方を選んでください。

 エホバの証人の輸血拒否についても同様です。エホバの証人における認識枠組みはまちがっているという前提で「輸血拒否は他者危害」になるのですから、その子に輸血をして助けることは、本来、親と対立することではないでしょう。見かけ上の対立に過ぎません。

 さて、ここで僕は母親の認識が「まちがっている」、エホバの証人の認識枠組みが「まちがっている」と断定しています。これは当然「啓蒙の暴力」です。これについては先に述べたとおりです。で、「啓蒙の暴力」を回避したいならば、そもそも子どもを助けようなどと思うな、ということです。それは「啓蒙の暴力」を回避するためのコストです。僕は賛成しませんけどね。それ自体、「非‐啓蒙の暴力」とでも言うべき悲惨な結果に過ぎませんから。僕なら、「啓蒙の暴力」を恐れず、子どもを助けよう、同時に親を助けよう、と思います。しかし、一人よがりな啓蒙による悲惨を招かないためには、最大限、相手を目的として語りかける、真理をめぐって争う、議論する、という態度が重要なわけです。それでも、完全に回避することはできませんが。しかし、対話の営みに徹底的にこだわることによってのみ、その可能性は開かれるわけです。それしか道はない、と思いますね。少なくとも、やることはやっておいて、自分は「啓蒙の暴力」を免れているかのような顔をしたくはないなぁ、と思います。それこそ、危険の兆候ですから。


※最後に細かい点を一つ。「NATROM氏の記事を読む限り、母親の悲劇に対する視線はまったくありませんね。そのような目線を持っているならば、あのような書き方にはならないと思います」については、「自分探しの旅」云々については、「NATROM氏が「自分探し」と結びつけているところは、「自分探し」なるものに対する蔑視が透けて見えこそすれ、それなりの経緯や理由があってそうなっているのかもしれない、という可能性への配慮を感じません」と述べてあります。

追記:トラックバックへの返事

 大幅に加筆・修正・再編成して http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080602/p1 に移動しました。

*1:tikani_nemuru_M氏が援用している加藤氏もそれを踏まえている。

*2:ホントのバカはしょーがない、みたいな話も一応ありますが。