モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

十字軍はバカに勝てるか

いわゆる「ニセ科学批判批判」をしている人の文章を読むと、こういうのを書いている人って切実に「これはまずいのではないか」と思うような体験がないのか、単に寛容な人なのか、なんなんだろうという。人によっては自分の周りの人たちは水からの伝言のことを話していてもそんなに真に受けてないし、何を騒いでるの?といったことを書いていたりもしますし。
「昨日のエントリについての補足」ï¼ Demilog

 ニセ科学にはまっている人を見て、切実に「これはまずい」と思うことならいくらでもあります。ただ、ニセ科学を討伐する十字軍をやっても無理だろう、と思っているだけです。バカは、バカとして主体的であることはできても、バカでなくなることはできません*1。怒ったところで宥めたところでスカしたところで、バカが治るわけではありません。バカはバカだからバカなのです。科学的な説明をしてみせても、わかるわけがありません。バカなんだから。それは、科学的な説明をしない、しなくてよい、ということではありません。何のためにするのか、何を狙ってするのか、という問題です。

バカにとって科学とは何か

 「ホメオパシーと医療ネグレクト」ï¼ NATROMの日記

 さて。これは確かに酷い。留保なく同意します。それは前提として、一つずつ丁寧に考えていきましょう。

 この母親に悪意はない、と推測するのは、それほど不合理なことではありません。悪意があるなら、文字通りのネグレクトすればいいけど、しかし、ホメオパシーといえども、(無駄とはいえ)コストがかかるのだから、この母親はコストをかけるつもりはあるのであって、だったら悪意はないのだろうと想定してよい。誤解のないように申し沿えておけば*2、善意だから構わない、善意だから仕方ない、善意である点は認めるべきだ、等々、あるいはそれに類するいかなる評価もするつもりもありません。ただ、善意からであろうということを確認するのみ。

 で、善意の母親がどうしてこんなバカげたことをするのか。それは、この母親がバカだからです。そして、この母を批判しようと叩こうと誹謗しようと何をしようと、バカはバカのままです。だからバカを批判するな、と言うのではありません。僕は面倒だからしませんが(しかるべき関係において知り合った誰かならともかく)、それをする人は、まぁ、大変ですね、とは思います。(ただ、それは何のためなんですか?とも思います。後述。)──その上で重ねて言いますが、この母親のバカはそう簡単には治りません。

 バカは治らなくても、行動は変わることがあります。そもそも、この母親は、ホメオパシーもわかっていなければ、現代医学もわかってはいないのであって、つまり、何にもわかっていないのであって、そして、何にもわかっていないことは本人がよくわかっているからです。信じているだけです。バカだから。──では、この母親がホメオパシーを信じるのをやめて、現代医学を信頼することにしたとしましょう。そのとき、この母親は賢くなったのでしょうか?そういうこともあるかもしれませんが、まずほとんどそうではありませんね。バカはそれほど簡単に治るわけではありません。この母親は相変わらずバカであり、バカのまま信じる対象を変えただけです。結果的に正しいものを信じただけであって、結果オーライに過ぎません。それ以上でもそれ以下でもありませんから、またさまざまなところで別のおかしなものに引っかかるでしょうし、再びホメオパシーに舞い戻る可能性さえあるでしょう。

 疑似科学批判には意味がない、というのではありません。それだけ激しく批判されるからには、やはりおかしいんだろうか、とバカが考えるきっかけにはなるでしょう。しかし、断言しますが、ホメオパシーにはまるようなバカな人たちは、疑似科学批判者が述べるような科学的説明など、まったく理解できないでしょう。仮に、ホメオパシーから足を洗ったとしても、です。理解できないからこそ、嵌るんですから。──自分は違う、元々ああいうおかしなものにはまっていたけれど、説明も納得して足を洗ったのだ、そういう人もいるでしょう。もちろん、いないとは言わないのです。しかし、そういう人は賢い人です。賢い人がいることくらいはバカでも知っています。ただ、賢い人がいることはバカがいないことを意味しませんし、実際、いるわけです。そして、バカであるがゆえに、やはり説明など理解できないのです。だから、バカの主観に即して言えば、似非科学も科学も何の違いもありません。ただ、その都度、どれを信じてみるのか、という問題でしかありません。

賢き人はバカをどう見ているのか

 さて、バカには区別がつかないわけです。でも、自分には区別がついている、という人がいますよね。たとえば、ここを読んでいるあなた。そういう人は、「あんな変なものを信じられるなんて不思議だ」とか言って済ませてませんか?不思議だ、じゃないんですよ。不思議なことにも理由があるんですよ。賢き人が自分を基準にして物を考えても、この種の問題についてなんら有効な視点を得ることなどできないでしょう。まじめに考えれば、次のようにしかなりません。──自分には簡単に区別をつけるための、それだけの能力や知識その他のものが備わっているのであり、バカにはそれがない、ということです。それがない人がいる、そういうバカがいる、ということです。で、忘れないように最初の方で書いたことを繰り返しておきますが、こういうバカを怒っても宥めてもスカしても、バカだからわかりません。

 それをただ「不思議だ」と言って済ませる態度、あるいは、ともかく、バカとはどのようなものかへの洞察を欠いた態度は、つまり、バカがいるという事実と正面から向き合わない態度です。それを問いとして受け止めない態度です。バカがバカであることなど、わかりたくないのです。そりゃそうですよね。救いがなさそうですから。しかし、少なくとも、バカへの侮蔑から何かが生まれるということも、ほぼありえないわけです。──では、なぜ、バカがバカであるという事実から目をそらすのでしょうか。インチキ精神分析的*3に言いますが、つまり、バカであることをとても恐れている、ということでしょう。自分がもしかしたらバカであるかもしれない。そう思うと夜も眠れないわけです。だから、外部にバカを見つけては、バカだバカだと罵る。オリエンタリズムですね。

 たとえば、NATROMさんはこういいます。

おそらく、ブログのタイトルの「自分探しの旅」というところにヒントがあるように思うが、そこから考えるべきなのだろう。

 この記述に、どこか合理的な根拠がありますかね?見当たりませんけど。にもかかわらず、どうして蛇足のようにこのような記述がなされるのか。またまたインチキ精神分析の登場ですが、推測できることはこうです。NATROMさんは自分探しの旅をしたことがないか、したことがあるならば、その自分探しの旅をイタイことだと認識しているか、まぁ、そのあたりでしょう。つまりは、問題の原因は、NATROMさんになくて問題の母親にはあるものだ、と言いたいわけです。テロ事件の解説なんかで、「イスラム教徒である」というところにヒントがあるように思うが、そこから考えるべきなのだろう、と言ったりする人がいますが、あれと同じじゃないでしょうか。

 バカを何とかしたいなら、まずは、バカであるとはどういうことかを考えることから、でしょう。そして、バカであるならば、怒っても宥めてもスカしても効果的ではない、ということは分かるでしょう。たまに、効果があったりもしますが、またまた繰り返しになりますが、それはその人がバカではなくなったからではないでしょう。単に宗旨替えをしただけで、依然としてバカなままです。ホメオパシーにはだまされない代わりに、ヤブ医者に騙されるかもしれませんが、まぁ、多分それはそれでいいのですよね。──いや、こういう人たちは、バカを何とかしたいとは、そもそも思ってないのかもしれませんね。二言目には、「バカが自滅する分には勝手だが」とか「バカには伝わらなくても、ギャラリーに伝わればいいや」とか言い出しますし。バカを散々バカにしといて、最後は捨てるわけです。で、切り捨てた上で。もう既に切り捨てたのだから、あとは罵詈雑言投げつけようが何しようが、お好きなように、というわけです。もちろん、バカの側から先に罵詈雑言投げつけてくるときがありますよね。バカですから。ただ、それって、賢き人の側からも罵詈雑言を投げ返す理由にはなってませんよね。

 しかし、それ以上に問題に見えるのは、「死者を冒涜するな」とか、「子どもはいかんだろ」とか、でしょうか。その単独の文言としては至極もっともに聞こえますけども。でも、死者は便利ですよね。「あのぉ、私は冒涜されてるわけではないんですけど……」とか異議申し立てしたりしませんし。靖国とか、そういう仕組みで成り立ってるものですよね。あと、子ども。子どもも、やはり、ほぼ異議申し立てしない。そういう、異議申し立てしない第三者に依拠して怒りを爆発させるのって、どうなんでしょうね。それはあなたの本心なんでしょうけれど、そういう素朴な代弁が孕む暴力について、一体どれほどまじめに考えているのでしょうか、大変心配です。

 ある種の問題を自分とは無関係な外部の問題として切り離した上で、さらにそれを叩く理由として、異議申し立てをしない第三者を持ち出す。こういう話は昨今の人文系では周知の論点だと思いますけれども、自然科学系の似非科学批判者におかれましては、そういう議論を露ほども念頭に置いてないんじゃないか、という記述がチラホラ見えますね。それって疑似「人文」科学と呼んでもよろしいでしょうか?
 

バカと向き合いながら暮らす覚悟を

 まぁ、でも、本当にバカが処置なしで、ほっとくしかなかろう、と思う気分は分からないではありません。その気分に、僕とて過去に思い当たることがないではないからです。ただ、残念ながら、その頃の僕は問題をずっと甘く見ていた、ということを今は思います。ギャラリーを見渡したとしても、その中にはバカの方がずっと多いはずだ、ということです。たとえば、madashan氏の次の記事。>「怒られるんだろーなー」@無産大衆

 バカを切り捨てるならば、私たちの社会が疑似科学を克服することなど夢のまた夢でしょうね。だとすれば、この人たちは、そもそも疑似科学を克服すべき問題だと考えているのか、というところに疑問を持たざるをえなくなりますね。バカを切り捨てる人は、自分はバカではないという安心感を得たいだけなのか、そうではないならば、バカを片っ端から切り捨てた先にどんな可能性を描いているのか、そのお考えを聞いてみたいとは思います。──多分、賢き人たちだけの理想郷があるのでしょう。一体、何人がそこに住む資格を持つのか知りませんが。

 この問題をどうにかしたいならば、ただ一つ、バカをバカでなくする以外にありません。一人ずつ。全員とはいいませんが、いずれにせよ、一人ずつ。マスに向かって科学的知識を散水してみても、理解できるのは賢い人だけです。圧倒的多数のバカは理解できません。一人ずつやっていくしかないのです。「バカにとって科学とは何か」では、散々「バカはバカのまま」と繰り返したのですけどね。でも、ここにしか突破口はありえないので、撤回します。バカをバカでなくする以外にありません。──こう言ってみただけで絶望したくなりますけどね。ただ、これで絶望するんなら、いっそ何もかもやめたらいいのに、とか思ったりしますね。ましてや、死者とか子どもとか持ち出すよりは。件の子どもにしても、母親をバカにする何もしてくれない人よりは、何かとせっせと世話を焼いてくれるバカな母親の方が頼りになるでしょうし、多分、懐いてもいるんでしょうよ。子どもだって同じかそれ以上にバカなんだから。

 以上を踏まえて。バカを批判するな、というのではないのです。むしろ、ジャンジャンやってください。それは必要なことです。ただし、せめてバカがバカでなくなる可能性に賭けているんだ、という一点くらいは堅持したらどうでしょうか?売り言葉に買い言葉で「お前は勝手に自滅してろ」とか、「お前が信じる分には勝手だが」とか言わずに。どれほど度し難いバカであっても、バカを通じてギャラリーに向かってしゃべるなどという回りくどいことはやめて、バカ本体に向かって話すことくらいはできるでしょう。──いちいち付き合ってられるか、時間が無限にあるわけじゃなし。だったら、「時間がないから」相手にしない、と言えばいいのです。このバカがバカでなくなる可能性がない、そんな風に言い切ることに何の根拠もないはずです。また、死者や子どもを代弁する必要はないはずです。自分がおかしいと思うから、自分を拠点にして文句を言う、もちろんその中で、子どもの利益に言及することはあるでしょうが、それは子どもの代弁とはまた別の話です。

 疑似科学批判の作業を、その一つ一つは、お勤めご苦労様、とねぎらいたい気持ちもないではないにも関わらず、ただ、僕にはどうしても引っかかる。それは、こうした疑似科学批判の作業の中で、バカをバカにする、バカをバカとして切断処理する、バカの可能性を否認する、バカを理解することを放棄する、さらに、第三者を引き合いに出して自らの感情を飾り立てる、こうした態度をも同時に広めているようにしか見えないからです。(全員が、とは言いませんけどね。)

 その意味でも、僕はt-keiさんの次の文句に、全面的に賛同するのです。

流通している及第点的な見解に身を置いて――つまりは知的に安全な立ち位置から――切断操作をおこない、そして対象の属性を固定するという展開を、僕はあまり趣味の良いものだとは考えない。そしてその人々の言説を批判するのではなく、そしてその人そのものを見ることもなく、その人そのものを侮辱するという行為を、僕は率直に言って軽蔑する。
「擬似科学批判をめぐって」@諸悪莫作

 バカと付き合っているうちに、バカについて、さまざまなことが分かってくるでしょう。バカには個性があります。躓くポイントが人により、さまざまです。躓き方も違います。また、その躓き方にある種の合理性が発見できたりします。そして何より、自分がかつてバカだったことについて、今の自分の中にもあるバカさ加減について、気づかせてくれます。バカに学ぶべきです。それは、バカを甘やかせ、ということではありません。カント風に言えば、バカであるその人を目的とするようにバカにしろ、ということです(バカにせずとも、単に向き合えばいいんですけど)。バカを手段として扱うな、ということです。圧倒的などうしようもないバカを前にして、「このバカとともに暮らそう」と言うことです。その先にしか未来はありえないのですから、そのように覚悟を決めるのが賢き人の責任というものでしょう。それは教育*4や労働*5といった、一見関係のなさそうな広い領域について考える必要があるでしょう。バカだって必死で生きているし、バカであることの辛さを引き受けて生きているんですから。──そう思えないなら、バカの自己責任論を振り回すのであれば、賢き人たちだけを連れて、どこか遠いお星様にでも行って下さい*6。

*1:以下で、バカを連発するけれど、バカを定義することはしません。それは分かっているもの、として扱います。

*2:本来、疑似科学批判に熱くなってファナティックになっているのでなければ、こんな誤解するはずもないけれど。

*3:インチキでなくとも精神分析自体がインチキだ、と言うかもしれませんけど。

*4:その人の力を伸ばすという意味で、すべての人を見捨てない教育が考えられるべきでしょう。

*5:物を考え、少しずつ前に進むためには、そのための余裕が必要です。

*6:そのうち、誰かがバカを大勢つれて滅ぼしにいくでしょうけど。