モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

疑似科学問題とはいかなる問題か

 似非科学とか疑似科学とか、区別せずに使ってますが。とりあえず僕の記事の中では同じ意味です。深く考えておりません。


 思うに、疑似科学問題とは、疑似科学と科学の区別問題ではない。あるいは、そのように言うだけでは、十分定式化できた、とは言えない。──どんな人であれ、時間が無限にあるわけじゃないのだから、少なくとも部分的にはある種の判断停止を前提しない限り、物を考える、ということはできない。自身の信念体系全体について全面的な反省をしているわけではなく(そんなことは不可能)、このあたりは大丈夫だろう、というあたりをつけて、そこは判断停止した上で、判断停止した領域との整合性をチェックすることによって体系全体を見直す。──このような作業を経てものを考えている、という意味では、疑似科学的な人とそうではない人の間に*1、それほど違いはない。

 違うのは、整合性がうまく保てなくなった場合の対処法。整合性がうまく保てない場合、判断停止した領域の再検討をせざるをえなくなることがある、という次第*2。でも、これはどんな人にとっても、とても難しい。僕の考えるところでは、自分が判断停止している領域がどこであるのかをあらかじめ自覚しておくよう努力することによって、スムーズに再検討の作業に入りやすくなる、ということがあるくらいだ。相対的に疑似科学的ではない、少なくともそのように見える人は、そういう自覚化がうまくできている、ということだろうと思う。

 ただし。判断停止している領域を、全面的に自覚化しておくことは、おそらくできない。少なくとも、できている、という確証を持つことはできない。なぜなら、判断停止している領域を自覚化していないならば、それは無自覚的に保持されているのであって、無自覚的に保持されているものを問い直すことなどできないからだ。自覚化の作業は口で言うほど簡単ではない。──よって、疑似科学の問題とは、程度の差こそあれ、すべての人にとっての問題のはずである。もちろん、程度の差はきわめて重要であるけれども。


 たとえば、飲んでるだけで健康になる水だの、なんだの、というのをしつこく勧誘してくる人がいたりする。こういうのは分かりやすい「疑似科学」だ。しかし。たとえば、ヤブ医者をヤブであるにも関わらず「ずっとお世話になってきたから」という理由で信じ込んでる人がいるとして、この人の思考回路はいかにも疑似科学的なんだけど、この人を「疑似科学的だ」といって批判することはあまりないだろう。というのも、この人が妄信しているのが、ニューエイジでも新興宗教でもなく、近代医学を修めたとされる医師であるから。こういう人は、ニューエイジとかにはひっかからなかったりするが、だからといって疑似科学的でないわけではない。──疑似科学問題とは、信じる対象の問題ではなく、信じ方の問題だと、僕は考える。

 Apemanさんが言うように、疑似科学とは、「陰謀論とか疑似科学的発想は「個別の」誤りではなく「体系的」に誤りを生みだす思考様式」だ。そのとおりだと思う。しかし、この種の問題を抱える特別な人たちがいるというのではなく、私たちのすべてが少なくとも部分的な(しかし結構広い範囲についての)判断停止を前提にしか物を考えられない以上、すべての人が抱える問題のはずだ。──たとえば、「私は特定の宗派に属していませんが」というエクスキューズは、「特定の宗派」とされるさまざまな宗教が真剣に普遍的なものを考え抜いてきたという歴史的事実を踏まえているとは到底思えない言われ方をしているし、そこに(分野は違えど)疑似科学的な態度を見ることは的外れではないだろう、と考える(すべて、とは言わないが)。以上のような意味で、疑似科学問題は「自身の問題でもあるもの」として考えられるべきもののはずだ。


 「擬似科学批判をめぐって」に共感しつつ、そう考える。


【追記】「疑似科学って言いたいだけちゃうんかと」
について。──疑似科学の定義は、定義なのでいかようにも。本エントリを、内容を完全に保持したまま、そちらの定義にあわせて書き直すことも可能だろう。──問題は、疑似科学の批判者が、自分の中に(不可避的にある)疑似科学性との折り合いをどうつけてるのか、という点。今回の一連の記事は、とてもそのようには読めない疑似科学批判があったから書いたもの。自分は違うと思う人は「自分は違う」と言えばいい。わざわざ定義問題を蒸し返す必要など、まったくないと思うけどね。

*1:この分離はどこまでキッチリやれるだろうか、という問題はとりあえず措く。

*2:実際には、整合性だけでなく、体系全体の簡素性のようなものも考える必要があるが、面倒なので、ここでは割愛。