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真実の中にしか生きられない人と共にあることは可能か

 姥捨山問題をめぐって広がった論点のひとつが、「それを人に向けて言うこと」の妥当性だった。たとえば、uumin3氏が、自分の記事の中で自身のコメントを引用している。

uumin3 『こんにちは。私が真っ先に書いたようなんですが、私もいろいろ皆さんの意見を見ました。見た限り大体が「他人をそれで責めるのをやめれ」というご意見だったと思いましたよ。/うちのとこでも「自分に向けて言うのはありだけど」って書いてましたし、……(「詐術2」@uumin3の日記)

この問題を巡っては単純化して言えば、「見殺しになるか」という問題と「見殺しになることを、口にするべきか」という問題の両方がある。これまでは前者に限った話しかしてこなかったが*1、今回は、この後者の問題について考える。


 応答責任について、何度か述べた*2。このことは、この問題とも大きな関わりがある。
 助けを必要とする誰かを目の前にしている。私と、その人が、二人いる。そのような状況の中で、「もうこれ以上はできない」としても、「まだできるけど、しない」と思うとしても、既に応答責任の中に置かれている。それを(法的であれ倫理的であれ)引き受けようと、引き受けまいと、引き受けるか受けないかを選ぶ選択の内に置かれている時点で、その人はある種の重苦しさの中に生きている*3。思い悩み、「これ以上はできない」と自分に言い聞かせ、その場を離れようとする。言うまでもなく、既にその人は息苦しさの中にある。そこに殊更に「本当はできるでしょう?」と言うことは暴力的だろう。それはx0000000000氏も含めて反対する人はいないはずだ。


 だとして、「だから言うな」という話になるかどうか、である。
「あなたの責任ではないんだよ。そんなに気に病むことはないよ」と言うとする。それはありがたいと感じられることもあろう。しかし、その人は、このように言われることを、ありがたいと思いつつ、それを慰めにしつつ、しかし、「できようとできまいと見殺しにしたという事実」はあるし、そして大抵の場合「もう少しできたんじゃないか」と、他ならぬ本人が思っているのである。それを直視することに耐えられないから、「仕方がなかった」、「これ以上は無理だった」と言うのであるが、これは自分を守るための自己欺瞞である。

「自己欺瞞だからよくない」という短絡的な議論をしているのではないのだ。ここは注意が必要である。自己欺瞞をうまく扱える人と、扱えない人がいるのだ。それは、他者の呼びかけを感じる人と感じない、感じにくい人がいるのと同じように。そして、うまく自己欺瞞を扱える人においては、自己欺瞞によって自分を守ることができる場合もあるだろう。ついでに言えば、そういう人に対しては、「本当はできるでしょう?」と言ったとしても、大した問題にならないだろう。追加的な自己欺瞞を作り出し、うまく乗り切ることができるだろう。というより、この論争に関連して書かれた記事のいくつかは、そのようなものであっただろう。

 他方で、自己欺瞞をうまく扱えない人がいる。そういう人がたくさんいる。どちらかといえば、僕自身は、うまく切断処理して自分自身は傷ついたり重苦しくなったりしないで、毎日を過ごすことができる人である。そういう僕から見て、そんなに気に病むことないのに、他にどうしようもないんだから、と思うことはよくある。もう十分にやったんだし、それ以上のことができなかったからってそれほど自分を責めなくても、と思うこともよくある。しかし、そのたびごとに思うのは、それができない人がいる、ということだ。これをその人の長所というべきか弱点というべきかは、僕には分からない。ただ、そういう人がいる、ということは紛れもない事実だと思われる。


 こういう人に向かって、「仕方ないんだよ」と(だけ)言うことは、何の意味もない。自己欺瞞を扱えない人に自己欺瞞を薦めることは、少なくとも、苦しむその人に対しては何の意味もない。このように考えてくれば、ここで持ち出された自己欺瞞の問題は明らかであろう。それは、嘘だからよくないのではなく(そのように述べてもいいが、そのように述べるまでもなく)、単に、役に立たないのだ。少なくともある種の人々に対して。──その上で、意味があるとすれば、自己欺瞞を薦めた当人が楽になることである。これは、自己欺瞞を薦めた人のための、自己欺瞞であるのだ。そのようにしかなっていない。このような言説は、傍観者の位置にいられる人々にとって余りにも都合が良すぎる。それは、真実から目を反らすことのできない人を、真実の牢獄の中に置き去りにするふるまいである。

 自己欺瞞をうまく扱えない人に必要なのは、自分を責めるでもなく、切断処理をするのでもない、別の道である。それがどのようなものかは分からないが、それは「その先に問題の解決があるような」道であろうと思う。救えなかった人のために、何かをできる人、できたはずの人がたくさんいる、それをどのように組織するか──真正の、経済問題──を問いとして掲げることである。この問いを掲げるためには、「私にも、本当はできたことがあった」という真実を、どこかで直視するしかない。これを外せない、ということだけはハッキリしているように思う。


 「本当はできるでしょう」が、人の傷の瘡蓋を剥がすような言葉でありうるとするならば、それを人前で明らかにすることを留保なく否定するならば、瘡蓋の下で傷が膿むに任せて放置するようなふるまいでありうる。真実を避けて通るわけにはいかない人が、当の困難に直面する人たち、そこで苦しむ人たちの中にいるのだ。これは、私たちが知らないというだけでなく、本人達にさえ自覚されていないこともあるように思える。自己欺瞞は時に己を守るために必要なことがある。少なくとも、そのように思えることがある。しかし、だからといって、真実の中でしか生きられない人たちを置き去りにしてよいわけではなく、どのようにやればよいか簡単には言えないとしても、この問いを隠蔽することは許されない、ということくらいは思う。

*1:「道徳的詐術とは何か」、「その2」等。

*2:「応答責任、再論」、「倫理の根源は呼びかけにある」等。

*3:「倫理の根源は呼びかけにある」で述べたように、「すべての人が」重苦しさを感じるわけではないのは周知のことである。元々、この問題は「それを感じている人」に向かって、外部からさらなる責めをかぶせることの問題であるのだから、「すべての人が」という条件は不要である。感じている人がいれば、その人に向かって言ってしまうことの意味を考えるだけでよい。