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道徳的詐術とは何か、その2

 先のエントリでは「x0000000000さんの主張が道徳的詐術である、という論証はどこにもなかった」とだけ述べ、uumin3さんの記事そのものは引用さえしないですませた。むしろ、x0000000000さんの議論を上書きする形で、僕自身の立ち位置を書いた。いわば、構築的に議論を進めたということだ。今回は、uumin3さんの批判記事を具体的に引用しつつ検討し、そちら側から見えるものを明らかにしていこうと思う。今回も、「道徳的詐術」@uumin3の日記を取り上げる。

あらゆる責任に先行する応答責任

 私がコンビニに持っていった「その200円」がなかったばかりに一家四人が死んだという仮定。これがまずあり得ないことを言っています。もしそこをアクロバティックに結びつけ得たとしても、そこで私が「その200円」をアフガニスタンのその家庭に贈ったために足りなくなった200円で、パキスタンの子供が飢えて死んでしまうかもしれません。それではともう200円用意して子供に贈ります。すると今度は私がその400円をまわせば助かったかもしれないミャンマーの老夫婦が死んでしまうのです。/こういう無限責任をふつう人は負うことはありません。だからそれを「間接的ではあろうが、私は人殺しである」とは表現しない(できない)のです。

 ここには責任という概念自体をめぐる対立がある。uumin3氏をはじめとして、責任を、「なんらかの約束事に従うこと」のレベルで考えようとする立場が広くある。責任は、規則として定式化され、それを引き受ける手続きというものが想定される。大雑把に言えば、法的手続きを経て確立した責任は法的責任であろうし、「私がそれを引き受ける」と決心して引き受けられた責任は倫理的責任と言うことができる。いずれにせよ、ここでの責任概念は、ある規則に従うことを意味し、規則と自分を結びつけるなんらかの手続きを想定している(それは集団的合意であったり、個人的決断であったりする)。ついでに言えば、法学者の多くもこういう立場であり、この立場そのものが(少なくとも表面的には)おかしいわけではない。


 これに対して今ひとつの立場は、(おそらく)デリダやレヴィナスに由来する責任であり、いわゆる応答責任と呼ばれるものである。高橋哲哉は応答責任について、次のように説明している。

 たとえば、「こんにちは」と呼びかけられたとします。他人が私に「こんにちは」というときにはあるアピールがあるわけです。「わたしはここにいますよ、私の存在に気づいてください、私の方を見てください、私の呼びかけに応えてください」ということで挨拶の言葉を発するわけですね。私はこの呼びかけを聞きます。聞かないわけにはいきません。向こうが目の前に現れて、「こんにちは」というわけですから、わたしは気づいたときにはそれを聞いてしまっているのです。私は呼びかけを聞いてしまう。そうすると、明らかに、私はその呼びかけに応えるか、応えないかの選択を迫られることになるでしょう。

 「こんにちは」に対して「こんにちは」といいかえすのか、あるいは無視して通り過ぎてしまうのか。レスポンシビリティの内に置かれるとは、そういう応答をするのかしないのかの選択の内に置かれることです。……「こんにちは」と応えれば、私はこの意味での責任をとりあえず果たしたことになるでしょうし、無視して応えなければ、責任を果たさなかったことになるでしょう。どちらの選択肢をとることも私はできるはずです。そのかぎり、その選択は私の自由に属するということもできるでしょう。……

……私は責任を果たすことも、果たさないこともできる。私は自由である。しかし、他者の呼びかけを聞いたら、応えるか応えないかの選択を迫られる、責任の内に置かれる、レスポンシビリティの内に置かれる、このことについては私は自由ではないのです。他者の呼びかけを聞くことについては私は自由ではないのです。……(「「戦後責任」再考」、『戦後責任論』所収、pp.33-34)

 同様に、人が生きていて助けを必要としているとき、その事実(の中に生きる人)は、その事実の改変にかかるコストを誰かが担うことを待っている。責任として引き受けられることを待っている。このレベルにある責任は、手続きを受けて引き受けられたりする前の、それどころか規則として記述される以前の、もっとさかのぼったところに位置する責任である。制度化される前の、さらに言語化されるまえの、いわば「存在」のレベルにある責任である。つまり、先の責任が制度や規則、すなわち「言語」と結び付けられているのに対して、応答責任という概念は「存在」と結び付けられている。


 ここで確認しておくべき大事な点は、言語のレベルにある責任は、この存在のレベルにある責任=応答責任と対立するものではない、という点だ*1。むしろ、応答責任が先にあることで、それを規則として記述し、手続きを経て制度化していく動機が与えられている。そこに引き受けられることを待っている事実があるから、それを引き受ける規則、制度を具体化していくのである(このことは、高橋哲哉氏が女性国際戦犯法廷のような言語化、制度化への努力を評価する姿勢とも無関係ではないと思われる)。
 人が実際に引き受けることのできる責任は有限である。しかし、それに先行して、責任を引き受けられることを待っている責任が無限に*2存在する。というより、そのような責任があるからこそ、有限であれ、責任が記述され、制度化され、実際に引き受ける行為を支えていくのである。


 以上の観点からすれば、uumin3氏のx0000000000氏への批判こそが、詐術的であるように僕は思う。すなわち、言語の次元にある責任と存在の次元にある責任がすりかえられている*3。ただ、これを「詐術」と呼ぶのは、予めuumin3氏の悪意を想定しているようで、どうも座りが悪い。本記事のタイトルとは不整合なものとなるが、これを「道徳的錯覚」、「錯誤」とでも言い直しておくことにする。
 もちろん、x0000000000氏は「責任」としか書かなかったのだから、この点について錯覚、混乱が生じたことについては、x0000000000氏にも責任の一端がある。しかし、それでも、x0000000000氏が言語レベルにある責任を否定しようとしたわけではないのに対して、uumin3氏は言語レベルにある責任をそれ以前の始原的な責任概念と切り離すことを意味する。この点から考えても、そこにある不備を対称的なものとみなすことも適切ではない、とやはり思う。

資源の代替的用途

 「アフガニスタンの家族に対する言及」と「その200円」という書き方で、問題をまるで「眼前で死んでいこうとしている人」を助けるかどうかの倫理判断と同等のものにされているようなのですが、これが詐術です。眼前で死んでいこうとしている人は今ここにいないのです。

 今ここにいないから、200円あってもどうしようもない、ということであろうか。だとすれば、これもまた、一つの錯覚である。
 今ここで200円募金しても、今そこ(=アフガニスタン)にいる誰かを救えないとしても、それは瑣末な話である。仮に、募金が様々な経路を通って実際にアフガニスタンの誰かの生存を支える資源になるのに2ヶ月かかるとしよう。その場合、今ここの200円は、2ヶ月先のアフガニスタンの誰かの一日を支える資源と代替関係にある。同時に、2ヶ月前の200円が、今日のアフガニスタンのその誰かの一日を支える資源と代替関係にあった。そういう話になる。目の前で倒れている野宿者の一日を支える資源とも代替関係にある。
 さらに、次のような再反論に備えておくとしよう。すなわち、異時点間を結びつけるならば、たとえば今日のパンは二ヵ月後のパンとは代替関係にはない。腐ってしまうからだ。とすれば、そこには資源の代替的用途の可能性はないのではないか。──この反論に、完全に不同意というわけではない。しかし、少なくとも次のようには言える。200円とは、この世界において、存在する貨幣量全体に対して200円という貨幣量が占める割合にしたがって、この世界に存在する資源を配分するチケットである。200円は、パンなどの具体的な財に対する支配権であると同時に、より根源的には、そのパンを作るために使用された天然資源および労働力等々あらゆる生産要素に対する支配権である。それを使えば、その他の何かを作ることもできた、そのような資源=生産要素に対する支配権である。とすれば、今日のパンが2ヶ月後の同じ大きさのパンと代替関係にあるとは言えないものの、そこに投じられた生産要素の一部が輸送や保存のための財の生産に用いられることで、やはり時間を越えて、空間を越えて、存在する(しうる)何らかの財と代替関係にある、ということを否定することはできない。
 200円という具体的な金額について、日本からアフガニスタンへという具体的な送り手・受け手について、一体どのような財が代替関係にあるのかを具体的に考えることには、あまり益はないと思う。今の時点で既にわかっていることは、次の事実である。私たちは生きている。アフガニスタンであれどこであれ、また数日後であれ数ヵ月後であれ数年後であれ(少なくとも、ある程度の狭い範囲の時間的範囲であれば、それを超えても)、そうした異なる時空に存在する人々が生きている。私たちの生を支える資源と、異なる時空に存在する人々の生を支える資源が、代替関係にある。この事実は、ハッキリしている。

 グローバルな市場経済の下では、あらゆるものが歴史上かつてないほど稠密に、広範囲に、こうした代替関係のネットワークの中に組み込まれることになっている。私たちはその恩恵も受けている。この「存在」のレベルで生じた劇的な変化が、「存在」のレベルにある責任概念の現実的意味をも大きく変えた(つまり、その適用範囲を大きく広げた)ことは、むしろ当然の話であると思われる。

まとめ

 実は、応答責任の問題、および資源の代替的用途の問題は、姥捨山問題状況(=本当はできる)に限った話ではない。救命ボート問題状況(=本当にできない)でも当てはまる。「本当にこれ以上はできない」としても、応答責任はあり、資源は代替的用途において使用可能であるからだ。

 その上で、以上の論点についての態度如何で、姥捨山問題や救命ボート問題の含意は大きく変わる。この点については、また別の記事を準備することにする。


 ついでながら、高橋哲哉『戦後責任論』は、受け入れるにせよ批判するにせよ、応答責任論について検討するにはとてもよい。引用した「「戦後責任」再考」は一般人向けの講演録であり、大変読みやすい。

戦後責任論 (講談社学術文庫)

戦後責任論 (講談社学術文庫)

追記:ブクマコメへの応答

# 2007年05月08日 aozora21さん
とすると姥捨山問題と200円募金では負うべき責任は別々のものであるような気がする…のですが理解が浅いのかも。続きをお待ちしています。
# 2007年05月08日 fuldagapさん
僕も200円問題は話が違うように思う…。他者の生死への応答責任って「200円の募金」的なもので応えたことにならないような…・・・

 元々、僕にせよ、あるいはx0000000000さんにせよ、200円募金に「応じる」ことで、応答責任に応えたことになる、と主張しているわけではありません。また、具体的にその場面で〜〜せよ、というような意味での責任については言及を避けています。ただ、どのようにかして引き受けられることを待っている責任がある、という話です。200円募金は、資源の代替的用途が存在することを私たちに知らせる、一つの道具に過ぎません。/だから、お二人とも、理解が浅いわけではなく、多分、正しく理解しているのです。誤解があるとすれば、x0000000000さんの主張が最初からそういうものだったと気づいておられないのではないか、という点だと思います(元々、x0000000000さんの問題提起が分かりにくかった面もあるかもしれませんが)。

*1:僕が見た範囲での応答責任論批判は、この点を根本的に勘違いしている、つまり両方の概念を対立的に扱うものが多い。uumin3氏の議論が明確にそうかは分からないが、そう考えているフシはある。具体的には、他の記事も含めて要検討。いずれにせよ、応答責任論批判を読み込む際の一つのチェックポイントであると思う。

*2:ここで「無限に」と言うのは正確ではないかもしれない。しかし、少なくとも引き受けることのできる責任をはるかに超えて大きい。

*3:ここに、uumin3氏は応答責任とそれ以外の責任を「対立的に」捉えているのではないか、という疑念が湧く。