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やいのやいの。

巻き込み型アニメを問う 新海誠の背景の仕組み

さて、先日高畑勲に関してこういう(http://d.hatena.ne.jp/kingfish/20140505)記事が新海誠批判の基点として掘り出されて、「巻き込み型アニメ」としての新海誠を問うような論調を先程見かけた。それに関して、少し思い出したことがあったので随筆する。

 

先にいっておくが、これはほとんど「君の名は。」があんだけ売れてしまい、しかも新海誠から童貞臭さが抜けてしまったので、その腹いせに文字通り朝飯前の時間にシコシコやっているだけで、「秒速5センチメートル」という作品に費やされるべき紙幅を折りたたんで展開される、愛ある嫉妬の文章だと受け取って欲しい。そもそもただ売れているだけの作品にミソつけるのはクソ野郎だし、最後に山崎まさよしを流さなかったことを恨んでるわけじゃないんですよ、本当に。

 

 

さて、このインタビューの指摘の中で、高畑勲が提起する「巻き込み型」という言葉に正しい注釈がされていなかったように思われるが、要するにそれは、「作品中の運動が、そのまま聴衆の評価を翻弄するような形で密かに織り込んでいく」運動だ。高畑勲が触れた新海誠の「青年だまし」というのは、こう表現される。

 

 

要するに、作者はみずから作り手になることによって見事に「そういう世界から卒業・脱出しないまま、それでも現実を生きる」ことに成功した一人であり、「卒業」や「自分の非成長の確認」をしたくない若者に支持され、その現象全体を情報メディア産業(とは何のことか分からないが)推進派の脳天気なおじさんたちが追認したのだと思われる。

 

 

つまり、ここでは作り手の情報が聴衆の評価を一気に織り込んでいく巻き込み、として機能する。パラリンピックみたいなものだ。ある種の人たちにとって、見る前から評価が決まっている。すごい、一人で「こんなにできるなんて」。五分もあればあとは最後に立ち上がって拍手するまで尻が収まらなくなる。そしてそれは客観的な作品の評価を不可能にする、というわけだ。なぜなら

 

こういう映像を見ていくら「勇気をもらっ」たつもりになっても、現実を生きていくためのイメージトレーニングにはならないことは当然である。それどころか、[成功している素晴らしい自分という]きわめて有害なイメージを身につける危険性がある。

 

まぁ補足しておくと、とある時代の人にとって、一つの作品とそれが放り込まれる社会は常にミッシングリンクを保っていて、劇場やビデオデッキの中で完全に閉じられた余興としての映像が蔓延することに常にある種の懸念を表明する必要がある、というわけだ。

 

 

しかし「巻き込み型」自体の運動に関して僕が言いたいことはすこし違う。新海誠作品における「背景」についてだ。これはバックグラウンドという意味ではなく、文字通り美術としての「背景」。新海誠の作品世界を表現する時、しばしば徴用されるが、しかしそれが「美しい」という言葉以外で表現されているのをほとんど見たことがないのが残念でならない。

 

 

彼の背景を僕は「ラッセン型」および「ドムホルンリンクル型」と理解している。この2つの型を参照すると、なんだかわからないがとにかくすごい新海誠世界の背景について少し考察を及ぼすことができるかもしれない。


先に「ラッセン型」。これよ、これこれ。

 

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こういうとにかくシャイニーでキッチュでファタズマゴリーな絵を見たこと無い人はそういない気がする。ところでラッセンの絵があれだけ日本で話題になったにも関わらず、実は欧米では誰も知らないという事実をご存知か。(ちなみに実家にも本人がサインを入れた奴が一枚ある。)

 


ラッセンがあれだけ日本で売れた理由は謎に包まれているし批評の介入する余地はあるのだが、ラッセン自体のイリュージョン的な特徴は列挙することができる。
 ①なんか七色の世界がとにかくキッチュ
 ②空の中にイルカが飛んでたりしてどこか非幻想的
 ③特に紫色がやたら強い。必ず入ってる


 さて、①七色の空、これは新海誠がよく虹やレンズフレアを入れることでしばしば達成される。「君の名は。」では彗星だったが。これだけでかなり画面にイリュージョンが発生していることがわかるだろう。虹を見れて「やったぜラッキー」ぐらいの話だが。

 

 ②でも流石に空に非現実的なものを写し込むと世界観が崩れるので、二番はやってない(と思う)。とはいえpixivのデイリーランキングではまぁよく見つかるから時間があったら君も探してみよう(読者参加型企画)
 

 ③そこで、最後の部分に着目しよう。紫色はデジタルの盲目と呼ばれ、虹の最も内側の色であることからも分かるように可視光の中で最も短い(大体380〜430nm)波長の光であり、映像の中では特別に加工しない限りほとんど出てこない。つまり、我々が普段見ているにも関わらず、カメラが取り逃がしやすい色なのだ。だからこそ、インスタグラムの加工アプリで補うだけで、あれだけ幻想的な雰囲気になりみんな夢中になるし、紫の入ったリアルな映像というのは、それだけで迫真のリアリティを獲得してしまうのだ。下の背景の右上の紫を隠してみると、案外イリュージョンが低減されることにお気づきだろうか。

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 新海誠以降、お前目がいかれたんじゃねぇのかってぐらい紫色した背景が、特に低予算アニメでやたら強調され、雰囲気が良くなったという事例もある。甚だしきは「ねらわれた学園」で、目が痛くなるぐらい眩しい紫色を一時間半拝むことができる。(東大卒の中村亮介監督は多分そういう細かい巻き込み効果みたいなのを全部意図してやってるので好きじゃないんだよな)

 

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やりすぎ。

 

次に、「ドムホルンリンクル」型。ドムホルンリンクルのCMをご覧になったことがあるだろうか。

www.youtube.com

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 この映像の中で、ドムホルンリンクルは精密な機械と手作業が交互に重なり合い、いくつもの重要な工程を経て消費者の手に届く、その過程がドラマチックに描写される。ここではその商品を使ってどんな効果が得られるかが重要なのではない。ただ、その商品が手元に届くまでにどれだけ複雑な過程を経てきたかどうか、そしてそれがCMの中で描かれるとき、機械の非常に繊細な動きのクローズアップや、作り手の真剣な眼差し、正確で狂いのない手元などひたすら「細部」が強調される。すると、この映像は密かな等号を用意し始める。この映像の中でこれだけ「細部」が描かれているのだから、細部の凝縮した映像であるこのCMは素晴らしいものだし、翻ってドムホルンリンクルという商品はとにかく質が高いものなのだろう。(なにしろ)これだけ凝った過程を経て我々の手に届くのだから、映像を見るだけで、もうすぐ自分の手に最高の瞬間が届く、その快感に酔ってしまうことだろう。

 

 このように、細部の凝縮にはそれだけで人を酔わせる性質があり、そのようなカットを連続させるだけで、観客の価値判断を「巻き込んで」用意に作品自体の価値を獲得してしまう。言の葉の庭の最初の数分を見てみよう、葉が雫を垂らし、水面に落ちる音、それら縮減された日常の細かい瞬間のクローズアップを繰り返すだけで、人は簡単に酔ってしまう。それらは端的に言えば強烈なドラッグであり、価値判断を抜きにしてひたすら気持ちよくなってしまうし、それのみならず作品が外に開かれなくても、円盤の中に細部が凝縮しているフェティッシュの所有のために、人は容易に諸手を挙げて賞賛し、円盤を買ったり映画館に足を運んでてしまうわけだ。

 

「新海アニメの風景描写は大好き
雨とか池の水の表現だけで満足できるレベル
やってることは平凡な短編青春小説のレベルなのになぜか好きだわ」

(どっかで拾ってきた人の感想)

 

 最新作の「君の名は」においても、細かい手元や異常なほど書き込まれた背景の描写が連続して、見るものを圧倒する。しかし確かにそこには語るべきメッセージはなく、語る内容の語られるべき価値ばかりが、その語り方によって語られる前に無限に増幅していく。しかしそれだけお膳立てされると、語られ方は語る内容に対して無尽蔵に拡大し続けていく。しかし最初の高畑の発言がまえぶれているように、それは「勇気をもらった」「良い映画を見た」気持ちにさせる機械であって、ここの感想を掘り返すと、どうして良い映画だったのかわからない。要するに映画が自らを良い映画だと宣伝し続ける、その一時間半の広告が存在するとき、観衆はそこに感想を挟む余地もなく、ただ圧倒されることしかできない。だから、「巻き込み」型という言葉には、単なるセンチメンタルとは別の形で、現代の多くの映画が持つ細部のフェティッシュの暴走という意味を含んでいる。高畑勲が「ほしのこえ」を見て危惧したのは、むしろこちらなんじゃないでしょうかと提起したいわけだ。

 

ちなみに最後になるけど僕は「秒速5センチメートル」の脚本は素晴らしい循環性を持っていると思うので、さきほどの感想にもいつか異論を挟みたい。

 

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