おもちもちもちMotical Material Ótico

やいのやいの。

2017年これは良かった声優ベストアクト

去年もやったので。

2016年声優の演技ベストアクト選 - おもちもちもちMotical Material Ótico

開始。

黒沢ともよ(フォスフォフィライト)『宝石の国』

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結局黒沢ともよについては各員書いてるので今回詳しくは扱わない。もともと赤城みりあ(モバマス)とかLiko(アクティブレイド)とかでガッチ萌え萌え声してたのに、ユーフォ以後は独特のやれてよれた地声演技でキャラ確立した人。いわば女性声優界の野沢那智(コブラの人)。

黒沢ともよは上手いのか問題は永遠に終着しないわけだが、それは結局、演技というの評価が、既にあるステレオタイプ(≒上手い演技)との距離感を行ったり来たりするからだろう。黒沢の演技が収まるステレオタイプは今のところ存在しないが非常に微妙な位置にいるからこそ独特な場所に落ち着いていると言える。強いて言うなら、宮﨑駿がジブリ声優やキムタクや庵野に求めていたのが「デジャブ的ステレオタイプ」(初めて聞いたのにどこかで聞いたような声)だったんだけど、それを一発撮りの使い捨てにせず自分のイメージに取り込んだ初の女性声優だった。友人の知り合いにいそうな感じだが、銀幕には居ない。

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画像は正直どうしていいのかわかってない感じの演技の黒沢ともよ(バンドリ)。

 

尾崎由香(サーバル)『けものフレンズ』

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けものフレンズってこの人がいなければ評価もそれなりだったと思っている。明らかに怜悧な知性と直感、そして動物的な残酷さを持っているんだけどそれを温和な人柄が抑制しているような、緊張感のある(しかしとぼけた)演技を通してサーバルが本当のアホの子にならずにボケとツッコミを兼任していた。冷静さ…?と少し伝わらなかったかもしれないが、例えばサーバルの殺し文句の「ひどいよー!」の中にも、自身の状況を冷静に判断して不当な扱いを受けていると感じながら、あくまでそれをジョークとしてその場では処理し、別の機会にそれをきっちり精算しようとする計算高さを感じるとおもいませんか。ないか。つかタモリとか古舘との受け答えとか見るにこの人実はかなり頭いいよね。俺はね、そういうのが好き。

 

能登麻美子(盛岡森子)『ネト充のススメ』

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能登麻美子って卑怯だな〜って演技。前…つっても2011年?ぐらいに『花咲くいろは』でかなりリアルおばさんアトモスフィアを出した仲居を演じてきたときに、こっちの方もやるのかな〜と思っていたが、それでもその後もアルテラ(『FGO』)とかミカ(『ガルパン』)とか若い女の子を演じていたし、成熟した大人の女性演技も弁天様(『有頂天家族』)とかやってたので、もう「おばさん」演技はやらないのかなぁと思っていた矢先、2つをうまく融合させた演技を好演した。ある部分では落ち着いているんだけど、部分的にはその落ち着いた内面のまま子供みたいにはしゃぐ(しかも乗り切れない)…みたいなすごく生生しくて良い演技だった。それにしても相手方の櫻井がまた出汁の効いたいい演技をしていた。正直最近の櫻井にはどことなく勢いを感じていませんでしたが、素直にW射精です。

 

日笠陽子(源内あお)『フレームアームズ・ガール』

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日笠陽子って面白い感じになったよね…というのを去年の『New game!!』の八神コウぐらいから感じていたが、それはもともと日笠がテン年代前半にツンデレヒロインを演じまくっていたので、 篠ノ之箒(『インフィニット・ストラトス』)みたいな棘のある生硬でありがちな演技に固執していた(ので筆者は嫌いだった)ところに、いきなり甘さを取り入れた柔軟な演技にシフトしてきたからよ。普通は年食うと渋くて大人な感じの演技に行く所を、日笠は逆のルートを通って甘さ多めにしてきた結果、どっちでもいけるかなり強いタイプの声優になったと思う。それがこの源内あおの演技で、他の若い新人声優に比べても声のトーンがめちゃくちゃ高い上に感情表現がとても上手い。この結果、今年の南禅寺玉蘭(『有頂天家族2』)の演技なんかでも、上記の生硬なツンデレヒロイン一本槍の頃にはできない柔軟な感情表現が可能になっている。

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これが成長か…と同時に一時代を風靡した声優でもこれだけ伸びしろってあるんだなぁと感慨深くなったりした一年だった。

 

中村悠一(滝谷真)と小野大輔(ファフニール)『小林さん家のメイドラゴン』

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 これは、メイドラゴンってなんか上手い場面あった気がする…って思い出して出てきたのがこの二人が半分だけ登場する六話だった。これってアニオリなんだけど、言っちゃうと原作者のクール教信者が『旦那が何を言っているかわからない件』の男同棲版なんですよね。声優の演技として紹介していいのか悩んだんだけど、男同士で同棲して、ものすごい近くで生活しながら他人の自由やプライバシーに極力干渉せず、しかし気遣っていることは常に伺わせるっていう絶妙な距離感の描写がうまいなぁと思った次第。そしてこのファフニールって奴がそういう距離感でのみ慰撫されるようなめんどくさい存在なんですよ。やっぱ別に声優の演技部門じゃない気がするが、この声優二人よく共演してるんだけど今回はなんか阿吽の呼吸感がそれ以前のどの作品よりもあってたのが、なんかしみじみした覚えがある。

( 2018年1/11追加)

早見沙織(アタランテ)『Fate/Apocrypha』

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 元々は理知的な戦士だったが、敵の精神汚染的なのを受けて、元々持っていた性質が暴走してしまって狂化した状態を早見沙織が好演していた。とはいっても、元々の願いが「すべての子供たちを幸福に」みたいなピュアでケアでありながら節度をわきまえたものだったわけだが、死んでしまった子どもたちに引きずられて願いが合理的な部分を超えてしまったのねん。

そしてこの部分の演技が本当に壮絶で、母性がひっくり返って恨み節になった祟る女のジャパニーズホラー的な恐ろしさをビンビンに感じて生理的な恐怖すら感じる。早見さん自体普段は理知的な幼馴染なんだけどあるラインを超えるとちょっとONRYO系になる感じあるよね。というわけで是非元祖祟り系女子である源氏物語の六条御息所とか演じて欲しい。

他。

 

出演者全員うまかったよね部門

・ひなろじfromLuck and Logic

・にゃんこデイズ

・兄につける薬はない!

・此の花綺譚

 

こいつ今年ちょっとうまくなったよな部門

浪川大輔(宝蔵院胤栄)『FGO』

 

・こいつめっちゃ上手くなってない?部門

川澄綾子(セイバー)『Fate』

具体的に言うと最初期のエクスカリバー⤵⤵⤵はマジで鞘から抜け落ちそうなテンションだったけど、年数を重ねるごとに弾道がホップしている。

 

解散です。だが、なんか足りない気がするので数日経って確認すると追加しているかもしれない。

 

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2017これはやっとけインディーゲー.tumeawase

開始。

 

 

『フィンチ家の奇妙な屋敷で起こったこと』

マジでーーーーやれ。

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www.jp.playstation.com

これを紹介したいだけでこの記事を書いているので後は備忘録です。

 

『リトルナイトメア』

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結構よく出来たゲームだと思う。キズナアイとかが実況してる。かわいいホラーゲー。

『INSIDE』とかにアイデアとかで劣ってるんだけど(じゃあ紹介すな〜)、緊張感と緩和のバランスが心地よかった。

 

『オクトパストラベラー』

www.jp.square-enix.com

これ体験版が今公開されてるんだけどかなり期待できる。自陣が三人いるタイプのTRPGだが、溜め行為でそれぞれの攻撃やスキルをブーストして効果を最大化していくタイプなので、単純に殴り続けて勝つという方法をうまく封印して戦略性を高めてる。あとストーリーも娼婦とか敗軍の将とか出てきてぴりっとしまっていて、タクティクスオウガとか思い出す感じがある。だが体験版。

『VA11-HALL-A』

 

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割引されてるやん!うせやろ?Sukeban Gamesはベネズエラのゲーム会社なので金を落としてあげよう。やってるだけでスクショがどんどん生まれてしまう以外は極めて快適なゲームなので、お酒を飲みながらリラックスしてやろう…するとゲーム内のカクテル制作の意外な難易度の高さと、ぐーたら毒吐きお姉さんのジルと客たちの知的な掛け合いが楽しいことに気づいてくるという、こう見えて小技の効いたゲーム。

『Thehunter Call of the Wild』

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一時間かけて鹿の尻と糞と僅かな血痕を追いかけて、結局逃げられる楽しいゲーム。諸々超リアル志向なのだが、高い所から落ちたり熊の攻撃を受けると普通に死ぬ。最初は広くて綺麗なマップに感動するかもしれないが、この世界はその秘密を容易に僕らに開いてはくれないんだよ…。何が言いたいかというと、鹿の尻と糞と僅かな血痕を延々追いかけながら紅葉や日没を楽しんでほっと一息つけないならプレイしない方が懸命だっつーことだ、OK?

『RUINER』

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インディーゲーの中では打率高めのゲーム。中華系サイバーパンクの世界観に没入するのを滴度に阻害するマゾい難易度と渡り合っていく(購入から一ヶ月ぐらいのパッチでようやくノーマルがノーマル級の難易度になった)。広い世界ではない見下ろしゲーだけどマップの作り込みが本当に綺麗でうっとりする。街の人がわちゃわちゃやってるのを眺めてるだけで楽しい。だけど一局面のセーブポイントがクソ遠いから釜男レベルでストレスたまる。

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これもまぁオススメ。新DMCとか作っていた会社がメンタルセラピストとかを招き入れて作ったらしい。北欧神話ゲーのはずだが主人公が統合失調症なので、バイノーラル録音で幻聴を聞きながらプレイしていく。念視して特定の場所を見ると道が開けるというゲーム性はまぁまぁ面白かったんだけど、話と人物関係が全然わからなかった。多分俺以外がプレイしてもわからないと思う。

『Hyper Light Drifter』

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別に今年発売ではないが聞いてはいたけどこれ面白いっすね〜という意味で紹介。敵の種類が沢山いて光弾の方向も多様だし、自分もゲームを進めるほど戦術が増やせるので攻め方に緩急がつけられて楽しい。あと劇伴がDisasterPieceで、今風にリファインされたビットサウンドが気持ちいい。敵がいなければ綺麗でどこか退廃的なマップもずっと眺めていられるしこういうのもっと欲しい。

Dishonored2(ギリインディー枠

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1のほうがのめり込んだ気がするけど、マップがやっぱ独特の雰囲気で、掲示物とか見てるのが楽しいですね。でもよく考えたらあんま楽しくなかったな。力作を感じるがノットフォーミー状態。なんだろ、よく考えたら無印では毎回酒場とホームベースに戻ってきて街の人と仲良くなってく部分が好きだったのに、今回は船でずっと移動してるからそういう部分がなかったのが不満だった気がする。

 

まぁ大概やったけど特に言うこと無いゲーム

・スプラトゥーン2

・ゼルダBotW

・FGO

・Dying Light

 

 

ついでに駄目だった感あるゲームの供養

・ウォッチドッグス2

基本的にUBIソフトが嫌いなんだと気づいてしまった。広くてリアルなだけで視線の引っかかりがない。あと前作のシカゴのほうが自然部分と都市部分で別れてて楽しかったのに、こっちはどこも観光地であまり回ってて楽しくないネ〜。ただ黒人の主人公は最高だったし、発達障害気味のオタクとかダース・ベイダーみたいなマスクした仲間も良かった。

 

んじゃ解散〜〜

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イカを焼いて食った

タイトル通り、これよりイカを食った話を始める。

ことは今日の夕方、昼から原稿のために喫茶店に詰めていて、心地よい虚脱感と共に帰りのスーパーに寄った折に、半額になっているイカ(全身)を発見して「あれ、これ食えるんじゃないか?」と考えた所から始まる。

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(写真はサンプルだが「アニサキスに注意!」と書いてあった)

断っておくが調理は好きでメバルやらイサキやら普段出回らない目新しい魚は大抵焼いて食っていた。その感覚でヤリイカも「焼いて調理するぐらいなら…」と合点し、不安になって聞いてみたものの、「かんたんにさばいて内蔵取り出して焼くだけで美味いヨ〜」と馬鹿でかい声で呼び込みをやってる店員のフィリピン人の言葉を信用して、浮かれ気分で小さな冒険に乗り出すことを決定した。



さて、帰って味噌汁やら他の品の調理を適当にこなしながら最後にイカを取り出す。よーしパパ頑張っちゃうぞ〜wとか適当なことを言いながらビニールを割いて胴の部分をぐっと触った。

 その瞬間、「あっ、違う」と呟いた(気がするが実際は絶叫した)。それより早く脳がいきなり最大出力で稼働して手指に指令、まるで熱いものに触ったかのようにイカを離して、イカは調理台から滑り落ちて床にぬちゃっと嫌な感じで落ちた。床の上に落ちたそれはあのデフォルメされた「スプラトゥーン」とか「イカ娘」のイカじゃなく、とんでもないリアリティーを持ってれっきとした生命としていきなりドカンと食卓に挙がってきた。生態学的に言うなら軟体動物門頭足綱十腕形上目(Decapodiformes

)です。

 今思いだすと手に持った瞬間、どこかぬめりを帯びてつるつるした触感を手に届けたがそれ以上に確かだったのが重量とディティールだった。内臓が詰まってて結構重い上に脚がまるで生きているようにゆらゆらと動いたので脳が「まだ生きてるじゃん!!」と判断したっぽかった。それよりそこで初めてイカは気持ち悪いという衝撃の事実に気がついてしまう。

キリスト教やユダヤ教では「鱗のない魚は食べてはいけない」とか教えてるそうだが、あれは割りと的を射ている気がする。イカはもうなんか世界観が違う。魚は形とか保ったまま調理場に乗るのだが、イカはどういう論理で動いてるのか外見から全く想像できない。大抵の人は脚を見るが、あれの恐ろしい所は頭の部分である。胴ぐらいだと思ってゆっくり昇っていった視線がふと白い外皮に浮かんだ2つの黒点を発見する。その眼が意外と大きくてその2つがこちらをぎょろんと見ていると感じた時の総毛立ち方はすごい。というかどこからが頭でどこからが胴だよ。あと頭の外皮が全部可食部分なのどういうロジックだよ、わからん…わからん…

この時点で絶対触りたくないし指つっこんで内蔵抜ける気なんてしなくなっていたが、ふとあの良質な蛋白質は火を通すとかなりしゃっきりした外側になるのを思い出して「しっかり火を通した後なら触れる…?」と機転を利かせて、とりあえずグリルにぶっこんで焼けてから内蔵処理に当ることにした。

だが、菜箸で摘もうとすると予想通り重くて何度も失敗する上にゲソの動く様が強烈なディティールを与えてきて、グリルに入れるときはもう泣きながら「こんなん食えるわけないゲソ」という気持ちだった。

 

閑話休題。本来、イカというのは刺し身とか下足とかそういう「食べ物化」した状態でお出しされているのであって、イカ(全体)に接する機会はそうない。あるとしても、それは内蔵やら目やらを抜かれた「串焼き」状態になって出てきているわけである。イカ(全体)は部分を包括する全体として生息しているわけだ。そしてイカ(全体)は途方もなくキモい。

 

新しい食べ物に手をだす時に、自分の反応がどれほど生理学的に理にかなっているを冷静に見聞してみて欲しい。例えば白子はまったりとしてくさみもすくないとても濃厚な味わいだが、あの見かけと触感を人間が信頼して常食するには途方もない条件付けが必要になる。今までの知識から言ってもそれが美味しいものだと脳が判断していても、咀嚼したときに「カリッ…」とか「ブチュ…」とか見知らぬ触感がしたらすわ脳が「出せ出せ出せ出せ」と指令を出してきてうべっと吐き出してしまう。そんなわけで白子を楽しく食べられるようになるには結構な時間がかかった覚えがある。あと牡蠣なんてよく考えるとすごいキモい見かけし味もかなりトリッキーだよね。あんなん生で食うとか現代以外だと罰ゲーム感ある。

 

 ところで人間のキモい食べ物の認定は往々にして多分先祖がそれ食ってひどい目にあったみたいな条件付けによって成立しているというのが自論なのだが、その沿線でいくと「ぐにゃぐにゃしてる」「ぬめってる」「ヤバイ色してる」「臓器見えちゃってる」「触覚がある」「棘がある」辺りが特徴として上げられるだろう(文字に起こすだけでキモい)。これらを叶えるのがタコ、カエル、カタツムリなどいわゆる「ゲテモノ」である。そんなもんでも料理にしてしまうのがいじましい。その点、イカは確かにヤバイ色はしていないが、あの形で泳ぎ、可食部分と内臓が相当近いので、食べ始めてからも美味しい調理法が確立するまで相当な時間がかかったといえる。大体、よほど腹減って食うもんない限り、原始人だって魚食いたいでしょ…。

 

七分ぐらいしてイカが焼けたらしいチャイムが鳴り、グリルの中から出てきたのは焼き色がついてちょっと食べ物ライクになったイカ(全体)だった。これはいけそうだと思ったが、手に持とうとすると笑いが出るぐらい身体がビビってしまい、調理台に載せるというより箸で打ち上げるという感じになった。

 ナイフで側面をおそるおそるかっさばいてみると全然火が通ってないため、生っぽいデロデロがどんどん出てくる。多分外皮がすごく優秀でほとんど火を通さないんだろう、とかそんなことはどうでもよく、キモすぎてなんかシンクに落とすだけ落としてキッチンペーパーで拭うぐらいが限界だった。手で拭う?オイオイ、直接触れる気がしないが?。あと頭からバリボリ食えるぜ!となんとなく思っていたのだが、なんと頭部には軟骨があって絶妙に火が通らない上に眼を摘出するという悪夢のような作業の存在に気がついてしまった。魚の眼にはDHAという脳に良いらしい成分が沢山入っていていつもちゅるちゅる吸っているのだが、このイカのぎょろっとした眼でそんなことやったら永遠に癒やされないかさぶたをボリボリとかきむしるインスマウス顔になりそうだった。

 というわけでなんとなく黒っぽい(墨?)を取り出して紙皿の上においたそれの横にマヨネーズを載せると料理とはとても呼べない未開民族めいた野趣が誕生。ハサミでとりあえず真ん中から切って輪切りにして順番に食べていくことにいたが、なんと切り込みを入れた瞬間中に残っていた内蔵ライクなデロデロがどんどん出てきて二度ほど皿の中身をシンクにあけなければならなくなった。そしてそれがなくなった後もやはり外皮が分厚いらしく火が通りきっていなくて中が半生だったので、口に入れた瞬間脳の中で敷田直人が「卍ポーズ」(三振の意)を取り、無事吐き出した。生理は勝つ。しかし予想通り身体にヤバそうな味はしなかったからかもう一度口に含むと存外脳はごまかせるような気がした。だが分厚く切りすぎて味のないゴムのようなものを延々噛んでいるという苦行が発生している。

 先程も言ったが脳が「これ食ったらまずそうやな」と判断しているときの味のジャッジは厳しいので、美味いのかどうかというと「わからん」側に収まり続ける。そもそも味付けを怠り塩も振ってないせいで汁気のあるゴムのような味の印象は変わらないのだ。魚は塩振らなくても美味しいのにね…。いちど口の中を切り裂くような感覚がしてオアーーー!!と吐き出したのだが昼に食った納豆の醤油パックの切り取り部分だった(謎)。

 かなりショッキングなのが、割りとうまい具合に切り取れてはいても、もはやイカのあの円筒部分の輪切りの一片一片がイカ(全体)との関係を持ったリアルな物体として存在し始め、その度に生命を食っているという割りとプリミティブな経験を実地でやってしまったことだった。いやぁ、イカって本当に生きてたんですね、僕スーパーで売ってるあの刺身の状態で生まれてくるんだと思ってましたよ…と「いのちのたべかた」とか、「人類は衰退しました」の狩猟離れしたおなごのような経験を本当にしてしまった。

 それにしてもイカを買って食ったというだけで一時間でさっき3日かけて作り終えた三千字と同量を書いてしまった…みんなもやってみようよ、とドナルドのような口上で提案します。あとイカの美味しい調理方法も募集してます。

 あと僕ぐらいの世代ってやっぱ文章の切れ味と博覧強記だけで勝負したゼロ年代のブログサイトへの憧れが異常に強いよね。『翡翠の日記帳』とか『好き好き大好きっ』とか。部分で文字大きくするのも真似してみました。結構エミュ成功してない?

『1.5次創作』の時代 ナオトインティライミサイコパス説・ヒカキン嘘字幕・画像文字コラブームに添えて

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インターネットで興る一過性の流行り(英語圏でいうMEME(ミーム})は、たいていそれに興味がない人間にとってはよくわからない。

しかし面白いと感じる事実自体が多くの人間に共有されている以上、そこには何か人の心を集める不思議な魅力があることは間違いないんで、流行ったりしたら、まずその流れに乗る前に「結局何が面白いんだこれ」と考えている。

そういうことを続けてるうちに、ここ最近twitterで流行っている文脈として「ナオトインティライミサイコパス説」「ヒカキン嘘字幕」「画像文字コラ」があるが、この3つには共通の傾向があることがなんとなく流れで判明したので、それを少しまとめてみたいと思う。

ツイッターやってないとどれも知らないとおもうので、順に解説したい。

 

①ナオトインティライミサイコパス説

 

 

当然ナオトインティライミはこんなことを言ってない。下世話な解説をすればナオトインティライミの顔がサイコパスっぽいという話題がなんとなく共有され、ナオトインティライミの画像にサイコパスっぽいキャプションをつける遊びが爆発的に流行った。「名誉毀損かも知れない…?」という意見もあるだろうが、しかし、インティライミという名前にはケチュア語で『太陽の祭り』という意味が込められている。次。

 

②ヒカキン嘘字幕

 

こちらもヒカキンはそんなことは言ってない。これはyoutubeの字幕自動生成システムを使うのだが、音声を認識して作られた字幕はまだまだ精度が低くアトランダムで自動翻訳な感じになる。それを使って『偶然の俳句』のように出会いを楽しむ流れだ。新しい動画が上がると、謎の有志がすぐに嘘字幕を消して公式の動画字幕を作るらしいので、鮮度が命のコンテンツだと言える。それよりこういう画像を作るためにヒカキンの動画を何十本も精査している人がいるらしい。お疲れ様。

  ところでヒカキンは知られていないが聖人らしいし、ナオトインティライミも多分サイコパスだけどいい人なので、それぞれキャプションでその人格を改変することに面白さがある。悪いヤツに悪そうな字幕つけても面白くない。この点ではヒカキンもナオトインティライミもむしろ評価が上がっているように思えるのだが、世相はそうは動かないだろう。最後。

 

③画像文字コラ

画像文字コラはもともとふたばのいもげとかで作られてきた文字コラとか、同人CG集とかの派出なのだが、人口に膾炙し始めたのは最近。(文字コラの画像は本当にいかがわしいので垢バンされてしまう)

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こういう画像が普通の画像に付されるとちょっと含みをもった淫猥な感じになるというので、いろいろな画像に適用されている。バリエーションは豊富だし、必ずしもエロだけに適用されるわけではない。こういう素材が示すイメージが用意されているということで、本来ありえない状況にも適用される遊びも出てくるものだ。

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さて、この3つ全てに共通する特徴がある。

それはこの3つがコンテンツ自体が画像の中にあって、そこからほとんど離れないまま、文字情報だけをいじって内容の性質を変えようとする試みであるということだ。

これはpixivではしばしばキャプション芸、タグ芸と呼ばれる行為だが、これらはオリジナルに対してどういう立ち位置を取っているかというと、1.5次創作とでも言うべき場所にある。2次創作は一般に設定やキャラクターを借りてオリジナルのストーリーとか自分の筆致で翻案するわけだが、1.5次創作はタイトルやら文字情報を入れ替えて展示し直している。コンテンツの領域としては、画像そのものより文字情報に当る。

ここからはもっと広範に1.5次創作の適用範囲を拡大していきたいが、最近のよくわからん笑いに関連したネットコンテンツの多くは、この1.5次創作が関与していることを強調したい。

例えば画像に覿面な唱題をあてて受けを狙う「bokete」も、同じようにキャプション芸および1.5次創作の仕事だ。

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ニコニコ動画にはもともと長い期間、嘘字幕シリーズというのがあった。外国語に会わせて動画製作者が言いたいことを言うという趣旨だ。当然言語の意味が見えてきてしまうと破綻するのでヒトラーやエミネムやハートマン軍曹(フルメタル・ジャケットの鬼軍曹)などのネイティブですら聴きとりにくいしゃべりの映像がしばしば徴用される。これも1.5次創作的な試みだが、まぁ動画製作者本人がやってるし微妙。

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一方で視聴者がコメントでもともとある動画に視覚的な効果を作るコメント芸という試みがあったけど、これは文字のキャラクターを利用したアスキーアート的文脈で、あくまで視覚的なオーバーレイの試みだ。

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どちらかというと淫夢動画以後に、ひとつの映像に関連する別の事例や他のイメージを"red big shita"で次々と列挙していく、いわゆる「赤字芸」が1.5次創作に位置している。ここでは動画の情報を多元化および撹乱することすら目的にしていて、ある種文字情報の乱雑さとカオス自体が欲望されている事が多い。どうでもいい画面にわけがわからなくなるほど埋め尽くして、とにかく雑な感想が押し寄せている感じが意味の分からない笑いを誘う。

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この例、つまりキャプション芸が歴史的に出てきたのは、まぁ芸術におけるポストモダン的パラダイムの後だろう。まぁ全員が思いつくだろうけどマグリットの『イメージの裏切り』だろうな。「これはパイプではない」とパイプの絵に書かれてる。まぁ作者本人がやってるわけだが、これは1.5次元の試みだと言える。そもそも『泉』もまぁ泉じゃなくてこれ便器だろって点では符号するが。(それより教科書レベルの事例しか上げられずクソ恥ずかしいので死んでいいか?}

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この沿線から上のツイッターの最近の試みを会わせて、この1.5次元的遊びにもある程度の俯瞰を与えることはできる気がする。

①画像情報が先にあり、文字でその題名をいじることに興みがある

②追加される文字は画像を撹乱したり、意味を移し替えたりする

③文字情報が乱雑になりすぎると画像は無意味なものになる

人は多分絵から情報を読み取ることが好きなのだと思うが、多分同じくらい文字を読むのが好きなのだ。この遊びは画像がコミュニケーションの基体(まさにお題)として使われ始めたあとの想像力だと思うけど、この運動が盛んなほどそれを有するコミュニティーも栄える。逆にやはり鮮度が命で、定形文として使いこなされるとすぐに萎え始める。

 

 それに1.5次創作な遊びはインターネット特有のものだし、それこそ評価項目が存在しないので大抵の功績は詠み人知らずのスタンドプレーに留まる。しかしある画像がはっきりその意味が移し替えられたと感じる場面では自然にその情報の投稿者に賞賛が集まるものだ。一時期ニコニコには「ニコる」という機能があって、このような1.5次創作の卓越したコメント製作者には無数のニコるが与えられた(結局とんでもない負荷がかかったらしくすぐ終ったが)。

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 しかし、1.5次創作に携わっているこういう陰の職人の仕事がときに大きなブームを作ったりするので、今後もこのような想像力を拡張するようなコンテンツの誕生に期待したい。というのは半分ウソで、どうせ面白いから、今後も各々が好き勝手にやっていくんだろう。

 

 

部活ものアニメの系譜 けいおん・ユーフォニアム・バンドリ

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バンドリ三話見てて、いわゆる「けいおん!」以後の演奏部活ものの系譜がまた更新されてしまったなと強く感じた。(この記事は雑で導入とかを端折ってます。できれば「けいおん!」「響け!ユーフォニアム」「BanG Dream!」の視聴を推奨します。)

bang-dream.com

 

もう全員忘れてるだろうが、けいおん!というアニメが2011年?にあった。特筆すべきその「部活系アニメ」としての特徴は、

 

①恋愛禁止(男は全員死んだ)

②事件が起こらない(少なくとも彼女たちのアイデンティティを貫通するような事件は)

③成長的描写を挟まない(ジュブナイルを経ないので)

 

という所だ。当然物語にあるべき姿などないので、この特徴にも良し悪しはない。ただそれ以後作られた作品に、以上のような特徴がある程度審級に付される。GJ部、ゆゆ式、人生、みんないい奴らだった…。

 

ところがけいおん!のあと、京都アニメーションが「響け!ユーフォニアム」というアニメをやるから話がややこしくなる。「響け!」は吹奏楽部の話だが、ガチもガチ。お遊びなし休み無し競争と裏切りの社会が一話から始まる。この特徴はけいおん!と完全に相反する。つまり

 

①男女恋愛あり(ただし女性相手も匂わせる)

②事件は起こる(しかも主体的に動かなければならない)

③成長する(演奏の技術、及び社会性)

 

要するに全然楽ではない。

 

この対比は簡単に言えば視聴の社会へのリアリティという点での対比を見せている。

 

つまり君は部活はガチ派?それとも楽しければいい派だったか?

 

けいおん!は部活をユートピア化し、非常に少ない人員でできるだけ事件を回避するように進む、事件が起きるとソーシャル=関係が変動するからだ。当然部活の内容は問題ではなく部活というゆるいつながりの形式が重要であり、特別に達成目標を定めることはない。ただしその次善策としてメンバーの仲から離反者が出ないように恋愛禁止、退部禁止と暗に網を強いている(禁止自体は見えにくい)。この点一見透明性が高いようで息苦しい世界だ。だからこそ目標がなく、他者との強い接触を避けているという問題を回避するための建前が正常に機能する。

 

ユーフォニアムの吹奏楽部の部活は逆に初めから大会出場という目標を達成する自体を目的としている厳しい集団だ。目標がある以上部室というソーシャルは非常に強い規律意識と目的で排他的になるが、だからこそ辞めやすく、入って順応してしまえば居心地がいい。ただし主人公自身から「うまくなりたい」という動機を引き出させたのはなんと11話で、まず強い協調性の軛があってそれに対して個人が従うかどうかは実は問題ではなく、崇高な全体の目標に個人がキャッチアップするにかは時間差がある。やはり非常に息苦しい世界だが、逆に言えばそこには何か報酬が待っているような気がする。やりがい搾取のブラック企業、と言ってしまうのは酷か?

 

この点問題になるのは、部室という場所の捉え方だ。部室でだけは他人とぶつからない私的な(日本的な)内部にしたいというのがけいおん!、むしろ部室をこそ公的な(欧米的な)外部にしたいというのがユーフォニアムだった。けいおん!の部室では極めて個々人の希望や欲求が優先され居心地の良さを最適化しているし、演奏も厳しくは見られない。対してユーフォニアムの部室は厳しい空間だ(部室では油断も冗談もない)し、演奏にも厳しい評価の目が入る。

 

 ここでバンドリが現れる。バンドリも部活ものアニメだが、これは上記の問題に改めて一筆を投じることで、部活ものアニメの系譜を更新することになった。

 

 このバンドリ、とにかく主人公がすごい。主人公はとにかく学園生活をエンジョイしたいという欲望のもと、色々な部活を試した果てに、とあるギターと運命的な出会いを果たしてバンドを始めようと考え始める。彼女にとって(けいおん!の平沢唯とは異なり)バンドとギターはそれでなければならないものである。だがバンドを始めることより先に、彼女は「何かしたい」という漠然とした衝動のほうが第一次のようである。

 

そして三話でまだギターもひけないままライブ会場に飛び出すというおそろしいシーンに突入する。主人公の女の子はまだバンドファンの立場でバンドすら結成していないが、知り合いのバンドが飛行機の不備で遅れ、間が持たなくなるとわかると、突然友人を引きつれてバックステージから飛び出し、友人にはカスタネットを叩かせながら(カスタネットは「けいおん!」一話で主人公の平沢唯が唯一引けた楽器として思い出深い)「きらきらぼし」を歌い始める。おそらく六分程度。最後にはもうひとり友人がかけつけて簡単なベース音をつけてくれるが、それでもその幼さを露骨にあらわにする演奏をして場を持たせるためだけに延々と続ける。

 

 この場面を見れば誰もがゾッとして、誰もが再生を止めたくなるはずだ。だがこれは実は先に上げた2つの作品が持っている問題を止揚した形になる。思い出そう、けいおん!世界では私的な場所から出られず、大きな達成感を得ることができない。しかし逆に「ユーフォニアム」の世界では達成感の代わりに、安全な場所と肯定を確保することが難しい。

 

 ならば2つの同質の解答が考えられる、部室という空間について、「私的な場所」を公的にするか、「公的な場所」を私的にするか、だ。要するに、

①自己達成すべき厳しい場所を甘々にしてしまうか、

②甘々な場所で自己達成してしまうのか。

 

 前者は個人の内的な感性を通して(つまり思い込み)、後者は環境によって(つまりお情け)達成されるだろう。だがこの場合、バンドリは両者を通して達成したことになる。本来、ライブ会場というのは散々練習した主人公たちを試す試練の場だ。それをよりにもよって最初にやって、しかも未塾なまま続ける。それに対してなんだかよくわからんがやりきった感に観衆も拍手を送って大団円になる。相当気持ち悪い場面だが、これ我々が望んでいた空間によく似ているような気がする。そうだ、これyoutubeだ。

 

 youtubeおよびニコ生とは視聴者一体型コンテンツであり、視聴者との近さが非常に両者の間に横断的なコンテンツを形成する。あまりにも孤高だったりうますぎる芸を提供されても賛意を表明しづらいし自分がいいねを押しても彼には無数のうちの一つでしかないだろうと肩を落とすはずだ。むしろ逆に、少し下手でも頑張ってる感が伝わってくる健気なもののほうが「推し甲斐」があるのがわかるはずだが、これは明らかに成長途中のコンテンツであるのがわかるほうが、賞賛することでその貴重な一票がコンテンツを育てていく感覚があるからである。つまり今、コンテンツを作る時「拙さ」「未完成さ」を強調することははからずも手落ちではない。確信犯的に機能させている地下アイドル達の状態を見れば明らかだ。

 

 というわけで、実は「バンドリ」ってバンドというよりは「地下アイドル」アニメなのだ。そもそも高校生バンドの演奏にお金を払うなんて、自分が育てていく感覚を共有するため以外にない(だから彼女たちはちゃんとライブハウスにサイリウムを持ってきている)。なんとも陳腐だがリアルな、演者と視聴者の境目の蕩尽。つまり、私的で公的なものという「第四の壁」を超えた夢のような空間が「けいおん!」が放送されてたった五年の間に達成されてしまい、その欲望に答えるようなコンテンツが現れてきて、部活の性質にまた変化が訪れたというわけだ。ハイブリッド型とでもいうべきこのSNS的な空間は、多分今の視聴者にとってもかなりリアルなものなのではないだろうか。

 

 一応指摘しておかなければならないが、 このyoutube的空間はもうかなりアニメの表現でも出現して浸透している。例えば「アイドルマスター」ではライブ場面に観客の顔やリアクションが出ることはそうなかったが、「アイドルマスター シンデレラガールズ」では、後半島村卯月がミスりまくる演奏に対して観客がフォローを入れるという場面がある(ちなみにこちらもシリーズ監修はバンドリと同じ綾奈ゆにこ)。綾奈ゆにこはキンプリの応援上映なども評価していたが、このyoutube的な相互補完コンテンツの能力をかなり高く評価しているのだろう。この演出はいわばそれを過剰にさせた結果だった(成功したかどうかは別にしても)。

 

 ただし視聴者に対しても未熟で未完成なコンテンツの穴を見せつけることでその応援したい気持ちを買うようなやり方は、からくりが割れているだけに正直やられすぎると鼻につく(もちろん嫌いではないが)。大体バンドリのメディアミックスで、声優に楽器渡してバンドやらせているが、もちろん上記の構造の完全な複流だ。だが、付け焼き刃でライブさせて、果たして出来上がったものを提供されるのか怪しい。ファンは応援すると決めたものならもうそういう所も愛しいんだろう、「あばたもえくぼ」という奴だ。しかしこれについては、そういう自堕落な構造を露呈させて冷水をあてたいというより、それを了承した上でなお何に乗るべきかを見定めるべきだと言いたい。

 

 

フリースタイルダンジョン雑感 

  ランニングマシンでふんふんやってたらFSD(フリースタイルダンジョン)やっていたわけで、最近ヒップホップの歴史とか最近のヒップホップも履修した俺は(界隈がやたらその方向に向かっている)、そろそろわかるんじゃねーの?という淡い期待をいだきながら視聴した。まぁ相も変わらず、という印象もあったが。そこで何が起こっているのかは少し輪郭がつかめてきた。というより、何が自分にとって不服なのか(それは良い悪いではない)、FSDにとって何が重要なのかが分かってきたような気がする。というわけでそれについてささっと触れたい。

 

 

 

 自分にとってFSDがどうしても好きになれなかった部分は、①その場で起きていることから極端に外れた内容を言うと場の評価が絶対に落ちること、②そして韻を踏むこと自体の素朴な気持ちよさがしばしば相手の直情的なDISに「場負け」してしまうこと。つまり③「簡潔な悪口」が「高潔な詩文」に勝つという、ね。こういう場面に出会ってしまうと陰キャラは大体反感覚えるんですよね〜。陰キャラは自分の「素朴な知性」みたいなのがいつかクラスのDQNを倒すと信じてるからな。

 

しかし世の中にしばしば場のモードというのが存在する。前述の問題だが、これが例えば和歌の読み合いとかなら、恒常的な美とかについて歌ったほうが絶対評価は高くなると思うが、FSDの方は判定がその場に居合わせた人たちの一体感に任されている。

 

 その場に居合わせるということにおいてすごく大事なのは、次に何を言うのか、この言葉に対して相手はどう返すのか、という緊張感を共有できないこと(そしてその習得に時間がかかること)だと思う。しかしこの分離を用意してしまっているのが字幕だ。字幕を見ると、返し始めた瞬間に話す内容がもう全て出てきてしまっている。それでは言葉が生成する場には立ち会えないし、言葉を口語ではなく文字としてみてしまう。まずこれが一つ目で、字幕をやめろ。

 

 そしてこの点で字幕で見ると良さそうな文章なのに、ということが頻発する。だが大体実際に立ち会うとそんなに響かないということはなんとなく想像がつく。長いけどかっこいい文章というのは文字にすると凄みはあるけど、しばしば口にすると鬱陶しくて大仰だし、相手に対する応答に応えてないことも多い。家で考えてきた構築的な長文の韻文は、まぁ噛まずに言えてよかったね、ぐらいの評価に落ち着くのも仕方がないが、これは座学としての弁論術がだいたい文章の精錬に頼りすぎてるからだと思う。実際の話は違う。

 

実際の良い話し手というのは大体要典を絞って簡潔に話しつつ、しかも場の空気を鑑みて内容の仔細を変えてる。例えば講義の前に与太話をせずいきなり先週の続きからギリシャの詩劇の部分を教科書を読むように解説する老人は、自分が「真実を伝えている」という安心感にあぐらをかいている結果、多くの無関心と快眠を誘うことになるが、反対に我々に響くのは大体、与太話六割ぐらいで簡潔な要点だけを伝えるような人物で、結局その人の言動や考え方に後々影響されることが多い。それは聴衆に対する慮りがなせる技だろう。要するに話し手のことを考えたら、本でしか機能しない難しい言葉は控えるものだ。

 

 その場が求めてるステレオタイプとか相手の持っている雰囲気や小さな齟齬をうまく切り取って言葉にすると観客は湧くが、この作業は用意が効かない上、利発さとひらめき、繰り返しの修練が必要なものだと思う。結局その替えの効かない観察眼の技術が、常套句のパッチワークに対して優越するのは、まぁ仕方がない。「悪口が詩文に勝つ」というよりは、単純に、観客を見ている人が観客を見てない人に勝つ、という構図なのだ。

 

ただし、視聴者は悪口を期待しながらエスプリ自体の博覧もしばしば見たがっている。それは間違いない。その技術は、この二つの性質の両方を兼ね備えたものでなければならない。つまりその場の人間に応答しながら、その場と関係ないものを引き寄せて融合させる技術、全員が本当にフリースタイルラップに期待しているのは実はそこなんだろ、難度が高すぎるわけだが。

 

 だがここが悲しい所だが、そのすげぇ一文が回ってくる回まで待たないといけないのだろう。人がその場でジャムって作ってるんだから仕方ない。TV版マクロスの美樹本晴彦や板野回を待っている間の作画がクソな回を延々繰り越した先の至高の作画の一回みたいなもんだ。俺だって至高の一回が見たいがそんなの待ってるには根気がいる。そして俺は「まぁこんな回もあるよね」という根気が出ないので、誰かベストアクトだけ集めたオムニバス作ってくれ。買うから。 

 

おわり。

 

最近のツイート。

 

 

おわり。

 

空間についてつらつら

 師走ですが、僕は全然忙しくないです(ノージョブでフィニッシュです)(今年一つお仕事もらったので、来年は二つにしたいね)

 

 カメラワーク論が少し長じて、今回はゲームと映画においてちょっと思う所を。

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 小津の『東京物語』はまぁ非常に有名だし何回も論議されてるから今から触れるのもどうなんだ問題あるけど、この平山医院のカメラワークはなんど見ても新鮮さがある。それは我々がひそかに持っているカメラにこう動いて欲しいという生理に全て背いているからだ。

 複雑で入れ子状になっている日本の平屋において空間は格子(グリッド)状に配置されており、一人の人間をカメラが迎え入れるときですらその動きを動的に捉えることはなく、動き自体が空間によってぶつ切りにされる。建物の中での人員の動きがその能動性によって捉えられることはなく、他の人員との出会いは全て「唐突」に演出される。

 これはそのまま日本の「サザエさん」的複数世帯の混成を表象していて、常に画面の横から唐突に現れる新規の人員は別々のコミューン(夫婦同士の親密な間柄から、家族としての形式的な間柄へ)複数の生活空間の中で横断的で不確定に定まっていることを表している。(例えば子どもたちは大人が歓談する場所に境域的な女性を介さなければ入っていけない。これは現代の感覚からすると少しいびつに見えるだろうが。)

 

 そんで俺は初代しかやったことないけどバイオハザードにおけるゾンビの登場と小津映画『東京物語』の関係性。

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 初代バイオハザード(4以降は完全にカメラ追随型だが)では、西洋の洋間を舞台にしながら、狭い道路を主体にカメラが移動していく。広い空間にあってもカメラは非常に狭い空間として寸断し、常に画面の中で見えない部分が存在する。これが意図する所は明白で、常に見えない所からゾンビが現れる恐怖をプレイヤーは一定量担保することになる。ただし小津のカメラよりは親切で、いわゆるイマジナリーラインみたいなのを超えることはない。

 問題はそれがゾンビ自体の早さより先にその呻きによって代替されることで、常にゾンビの身体は遅れてやってくるという点にある。ゾンビは次のカメラの角度からすればまるごと収まっているかもしれないが、それは今の自分のカメラからは見えないしわからない。ここがカメラの不親切とでも言うべきポイントで、出現はつねに奇妙なうめき声によって先行される。(音が現前に先行するというJオング的状況とか書きたかったけど読んでないのでコンプラ)

  

 

 更にこれを再び「東京物語」に照射すると、平山医院は楽しい歓談の場というよりは、ホーンテッドハウスというべきが正しいのではないだろうか、という試論。つまり複数の境域的な身体が一つのカメラの中に収まらず別の場所に存在していくことをカメラの限定性によって常に印象づけられることで、カメラには一人しか映っていなくても(あるいは誰も映っていなくても)、どこかにいるだろう別の存在の刻印が常に映像の中でこだまとして響きわたり、幻視されることになる(『お父さん、お風呂!』『お母さん、何の話?』の掛声)。よく歳取った主人公が昔来た場所を見渡したら、子供の頃の自分が横を走り抜けていくみたいな演出あるじゃん。あんな奴に近いイメージ。おーい、これだけだと絶対誰かもう言ってそうやな。

実はオカルティックナインとかアニメの話にしたかったんですけど、今日は左様な感じで。

 

おわり。

 

 

 

 

 

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