研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

「内田樹の研究室」からのメモ1

「階層化=大衆社会の到来」
http://blog.tatsuru.com/archives/000880.php

  • 「現在の享楽を志向し、学校を通した成功物語を否定する-すなわち業績主義的価値観から離脱することが社会階層の相対的に低い生徒たちにとっては〈自信〉を高めることにつながるのである。」(199頁)
  • 「結論を先取りすれば、意欲をもつものともたざる者、努力を続ける者と避ける者、自ら学ぼうとする者と学びから降りる者との二極分化の進行であり、さらに問題と思われるのは、降りた者たちを自己満足・自己肯定へと誘うメカニズムの作動である。」(211頁)
  • どうして、「学びから降りる」ことが自己満足や自己肯定に結びつくのか、その理路はわかりにくい。けれども、このような状況は決して「いまはじめて」起きたことではないように思われる。

前者二つは苅谷剛彦『階層化日本と教育危機-不平等再生産から意欲格差社会へ-』(有信堂)からの内田氏の引用。後者一つは内田氏のコメント。

これから大学院で私が入るゼミには、こういう問題を扱っている人が多いと思う。そして師匠が話しているのを聞く限り、彼はこういう現象は階級社会には普遍的なものであり、近年の新しい現象だと考えるのは誤りだという。私はそんなゼミに入りながら、あまりこういう問題をちゃんと勉強していないから、とりあえずはその是非に関しては留保しておこう。

だけど、苅谷剛彦の引用文に書いてある内容についていうならば、私は中学生のころからこのことは漠然と常に感じていた。今もしょっちゅう感じている。というか、私の人格の一部は、このような皮膚感覚に対応する過程で形成されてきたとすら言える。どういうことか。

私は小学校・中学校ともに神奈川県の公立に通っていたため、ニュータウンであるという地域的要因を除けば、そこに来る生徒たちの学力や家庭環境は様々であった。

そのような環境において、学力別に明確に区分けがされるのは高校からである。しかしその前に、高校受験の塾のクラス編成があり、そこで「学力に応じた社会集団の選別」が初めて行われることになる。私の地区では、主要な高校受験の塾がいくつかあり、高校進学ギリギリのレベルの生徒からトップ公立校クラスの生徒までが同じ塾に通っていた。(トップ私立校を目指す生徒は、もっとレベルの高い進学塾に通うか、違う校舎にある私立用クラスに通っていた)

そこでは当然、各クラスごとの特色がでてくる。私は一番上のクラスだったが、普段遊ぶ友達はそうではないクラスの友達が多かったので、一番上のクラスがどう見られていたかはよく覚えている。まぁ簡単にいえば「まじめクラス」ということである。あたりまえだと思うが、中学生の世界では通常「まじめ」は尊敬の言葉ではなく揶揄の言葉である。

私の記憶におぼろげに残っているのは、中学三年のころ、志望公立高校別に説明会があったときに、トップ公立校志望の生徒の集まる教室をのぞき見た私の友達の「うわっ」だったか、「げっ」だったか、そんな反応である。私は、塾では「まじめクラス」の雰囲気になじんでいたし、友達との付き合いでは「うわっ」とか「げっ」という雰囲気になじんでいたので、その両者の「空気」の違いをよく肌で感じていた。

確かに両者の「空気」の境界はあいまいであり、生徒個々人でみれば、両者の間をいったりきたりしている生徒ももちろんいる。だからあまり鬼の首をとったように、両者の「空気」の違いを強調したりするのはよろしくないだろう。だけど、そういう「空気」の違いは、私が大学に入って階級とか階層とか学歴とかについて学者がいろいろ考えているのを知る前から、私の体に染み込んでいる。

そして今、私は大学生を終えて大学院生になろうとしているが、大学以外で普段付き合いのある友達は中卒や高卒、もしくは言い方は悪いが俗に言う「二流・三流大学」出身の友達が多い。フリーターもけっこういる。中学時代の友達の影響や私の好みがたぶんに反映されているだろうが、「うわっ」とか「げっ」の「空気」や「のり」を引き継いだ友達が多い。

で、だからなんだというとりとめのない話だが、そろそろ眠いのですっとんでまとめに入る。私にとってここから二つの問題が生まれる。

一つ目は、私は彼・彼女ら(の一部。とくにフリーター)の今後の生活水準が気になるということ。(その前に自分の生活水準・・・以下略)二つ目は、私が彼・彼女らにあこがれているということ。どうあこがれているのか、今の自分では上手く言語化できない。簡単にいうと、彼・彼女らの持つ/持っていた『レール』からの実質的もしくは精神的自由だろうが、どうもそれも正確でない気がする。

一つ目の問題は、今はやっていて、いろんな学者が取り上げている。有名どころでは、佐藤俊樹や苅谷剛彦や橘木俊詔や山田昌弘や玄田有史などである。残念ながら私はあまり勉強していないのでなんともいえない。

二つ目の問題は、私の知る限りでは宮台真司が問題にしている。最近のM2対談とか。しかし彼の取り上げ方はちょっと極端すぎるのであのままだとだめだと思う。

あとは『ハマータウンの野郎ども』http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480082964/qid%3D1112289145/249-0838647-9677959
とか、その周辺を読めばいいのかしらん。

そして個人的には、一つ目と二つ目、両方に目配りをしている(政策的?)議論が欲しい。いまのところ、そういうのがあるのかないのかはわからない。

ちょっと最後のほう、わけわからないので、ヒマを見つけてもう一度まとめてみたい。その前にそっち系の本たちをちゃんと読んでみないとなぁ・・・。うぅ。