「第四の権力」という誤訳がマスコミとマスコミ批判者を誤解させている件について(←こういうのサイテー)

なんか、今日は以下のブログのテキストを引用すればだいたい終わりなんですが、その前に「はてなダイアリー・キーワード」の現行テキストなど。
→第四の権力とは - はてな

(the Fourth Estate)
 
マスコミの異名。

本来、「マスコミには立法・行政・司法の三権を監視する使命がある」という意味合いで言われ出した言葉だったはずなのだが、「マスコミが現に持っている権力は立法・行政・司法の三権に並んでおり、警戒すべきものである」という意味に用いられる場合も散見される。

で、この「本来、「マスコミには立法・行政・司法の三権を監視する使命がある」という意味合いで言われ出した言葉」というのが本当なのか、という話です。
 
以下のところなど。
→【海難記】 Wrecked on the Sea - おそまきながらEPIC2014について〜「第四の権力」についての誤解

専門学校での授業でEPIC2014を見せる準備のため、調べ物をしていて気づいたことがあるので忘れないうちにメモ。久しぶりに「EPIC2014」のフラッシュムービーhttp://www.probe.jp/EPIC2014/をトランスクリプトと照らし合わせながら見ていたら、EPICの登場によって退場を迫られる「ニューヨークタイムズ」のことを、Fourth Estateと表現していることに気づいた。
日本だと、この言葉はよく「第四の権力」と翻訳されて、『司法・立法・行政の三権に次ぐ力をもつ「権力」』という意味で理解されることが多いようだけど、前からどうもおかしいと思っていた。三権の「権」とは権力、つまりPowerだけれど、Estateには権力という意味はない。高校の授業でフランス革命を習うと必ず出てくる「第三階級とは何か」という本があるけれど、階級とか身分というのがEstateの本来の意味で、その流れでいけばFourth Estateは「第四階級」ということになる。

「ええ〜っ!?」と思った人も、メディア・リテラシーについて言及している人には多かったんじゃないでしょうか。
 
で、この「おそまきながらEPIC2014について〜「第四の権力」についての誤解」では、文中引用として以下のブログのテキストが挙げられています。
→So-net blog:Multicultural Gazette:第四権力の奇妙な構図

そもそも「第四権力」と訳される英語の”The Fourth Estate”には、「権力」という意味はなく、本来なら「第四階級」とか「第四の地位」といった訳語のほうが適切と思われる。しかし、こうした翻訳の問題以前に、事実として、いかなるメディアも実質的な(法的根拠に基づいた)権力などは所有していないし、独裁国家、民主的国家にかかわらず、メディアが国家権力に匹敵する権力を持っている国家など存在しない。もちろん、日本のメディアは、言うまでもなく、「権力機構」と目されるような権力など一切与えられていないし、メディアが唯一所有することを許された特権とは、憲法で保障された「言論・表現の自由」のみである。
「第四権力」の由来は、18世紀のイギリスで、新たに登場してきた新聞・新聞記者などを、聖職者・貴族・平民に次ぐ第四の社会的勢力として「第四の階級」と呼んだことに始まるといわれる。それが、近年、新聞などのメディアに対して「第四権力」という呼称が与えられるようになったのは、伝統的な欧米のジャーナリズムの価値観、特に、国家より新聞のほうが古い歴史と伝統を有するアメリカ合州国において、国家権力の腐敗を防ぎ、政府の横暴を監視・批判しながら市民の声を代弁する役目を担ったジャーナリズムに、司法・立法・行政という三権(国家権力)と対峙する「第四番目の地位」という意味で比喩的に用いられた俗称が広まり、一般化したからである。日本では、「第四権力」という訳語が定着してしまっているが、ジャーナリズムとは、反権力の立場で、体制批判をすることに、本来の存在意義がある。本来の責務である「反権力」の立場で、政府や巨大資本の不正を追及するジャーナリズムに対して、稲垣氏のように「マスコミは政府や企業に恐れられることによって、権力を維持しようとしている」といった観点からの「メディア批判」に、私が違和感を覚え、奇異の念を抱く理由がお分かり頂けたであろう。

ということで。
 
さらに、このような興味深いテキストもあったので、併せて紹介しておきます。
→aku1009 「第4番目の権力」に成り下がった「メディア」との甚だしき誤解に基く岩波書店全4冊仰天早仕事

私は、今、昨年来の事態への対応として、関連の旧著を総合して最近の事態をへの提言を加える新しい決定版、仮題『放送メディアの歴史』を準備している。内容の理論の中心は、ジャーナリズムとか、メディアとか、マスコミとか呼ばれる業界が、権力そのものであることの論証にある。
その作業の参考資料として、つい最近、目に付いた本がある。日本経済新聞(2005・5・1)の広告を見て、岩波書店発行の新刊書、「ジャーナリズムの条件」全4冊の3冊目、「メディアの権力性」であるが、図書館に注文しておいたら、5月9日に、用意ができたとの連絡の電話があり、即座に受け取りに行った。
(中略)
手元の3冊目の「メディアの権力性」の執筆者は、目次で見ると全部で20人である。私は、「やったな!」と思った。昨年来の放送業界の騒動に当て込んでの早仕事に違いない。以上のような早仕事の判断は、念のために、岩波書店に直接電話して確かめたが、やはり、その通りだった。何と、最後の4冊目が出たのは、前記の大型広告の10日後の5月11日だったそうだ。
私は、この本の題名から、この3冊目は、てっきり、メディアを、権力そのものとして批判する趣旨であろうと思っていた。ところが、本文をめくり始めたら、いきなり、序章の題名に、「第四番目の権力」に成り下がったジャーナリズム、とあり、「ジャーナリズム」が、かつて、「第四の権力」と呼ばれていたとし、「立法、行政、司法の三大権力の暴走をチェック・監視」する「一定程度の役割を果たしてきた」との主旨なので、これは誤解も甚だしいのである。「ジャーナリズム」は最初から、権力の主要な道具であり、権力そのものという理解が、これでは薄められてしまう。
唖然、呆然、愕然、寒心の至りと相成った。
以下、その部分だけ、原文を、そのまま紹介する。

ジャーナリズムは、かつて「第四の権力」と呼ばれていた。立法、行政、司法の三大権力の暴走をチェック・監視し、客観的に批判・検証する役割を自任し、それに期待する国民の要望に応える一定程度の役割を果たしてきたからである。
しかし、いまやジャーナリズムはそうした輝かしき座から滑り落ち、三大権力に次ぐ、もしくはそれを補完する存在になりつつある。文字通り、「四番目の権力」に転落しようとしているのである。

この部分を含む「総論」の筆者は、「責任編集」の佐野眞一となっている。佐野眞一は1947年生まれで、私より10歳若い。いわゆる戦後の団塊の世代、もしくは全共闘世代である。
この際、一応、若いのだから仕方ないとして置くが、「第四番の権力」という位置付けの表現は、日本語訳が1978年に日本経済新聞社から発行されたジャン=ルイ・セルバン=シュレベール著、『第四の権力/深まるジャーナリズムの危機』によって、人口に膾炙するようになったのである。
ジャン=ルイ・セルバン=シュレベールは、当時のフランスのジャーナリズムを、権力そのものとして、批判していたのである。立法、行政、司法の三大権力を監視する役割を説いたのではなくて、ジャーナリズム、またはマスメディアが、立法、行政、司法の三大権力と肩を並べる権力となっていることを、厳しく批判したのである。
ジャーナリズム、メディア、マスメディア、マスコミ、などの用語の意味は、非常に曖昧(あいまい)である。この曖昧さの追求も、欠かせない仕事である。ともかく、この「業界」の商売人は、偉そうに「正義の味方」を気取り、自分でもそう思い込むのである。自分の大見込みが先行し、原著の誤読というよりも、未読の勝手な解釈に堕するのである。
私は、前記のような「誤解も甚だしい」実例を、かなり前に発見していた。『週刊金曜日』が創刊前の見本のような準備号を出し、そこで、同じような誤解も甚だしい位置付けを、自らの誇号にしていた。私は、その時、『週刊金曜日』編集部は、ジャン=ルイ・セルバン=シュレベール著、『第四の権力/深まるジャーナリズムの危機』の訳本を読んでいないな、と判断したのである。この訳書は、2段組で文字も小さく、そう簡単には、読み通すことはできないのである。
「民衆の味方」とか、「正義の味方」とかは、政治屋の業界の得意芸だが、この業界の誇号の典型でもある。朝日新聞は、講談社の雑誌、『ヴューズ』で、「正義を売る商店」と題する連載記事の材料になり、その記事の中のリクルート・スキー場接待問題が、裁判沙汰にまでなった。
仕方ない。ジャン=ルイ・セルバン=シュレベール著、『第四の権力/深まるジャーナリズムの危機』を、丁寧にめくって読んだ。原題は、LE POUVOIR D'INFORMERである。直訳すると、「情報権力」である。主題がジャーナリズムなのだから、それが「情報権力」なのだという意味である。
本文の目次や小見出しには、「第四の権力」という言葉は出てこない。しかし、「訳者あとがき」には、次の数行がある。

民主主義社会において、報道は立法、行政、司法に次ぐ第四の権力といわれるが、その権力を、だれが、どのように行使しているのか?あすはどうなるのか?そういった危機感が、記者であり、経営者でもある著者の早熟で敏感な心情をゆすぶった。本書は、その結実である。

以上のように、原著からは、「第四番目の権力」に成り下がったジャーナリズムとか、「第四の権力」と呼ばれていたとか、「立法、行政、司法の三大権力の暴走をチェック・監視」する「一定程度の役割を果たしてきた」との主旨は、まったく読み取れないのである。

まぁ元テキスト作成者が木村愛二さんという、すごい反権力の人なのでアレとかナニなんですが、
何だよぉ、「第四の権力」って、フランスの元本にもない言葉を訳者が作って、それが広まっただけなのか!
と、こちらのほうに驚きました。
ちなみに、訳者は「岡山隆・勝俣誠」というお二人のようです。
 
ただ、現在は「fourth power」(第四の権力)という言いかたもそれなりに普及しているみたいなので、
→fourth power journalism - Google 検索
「元の意味」から離れて、マスコミやジャーナリズムに関して言及する場合は「The Fourth Estate」とは関係なく使ってもいいのかもしれません(いいのかな? 誰かくわしい人がいたら教えてください)。
ただ、マスコミに対して何かを言いたいことがある人が、「マスコミは『第四の権力』と言われておりまして」と話しはじめたら、「いつ誰がどの本で言ったのか。その言葉をお前はそもそも誰がどこで使っているのを聞いたのか」と、子供のようにあれこれ聞いてみるのも面白いと思います。
「えーと、誰が言ったのか覚えてないんですが、とにかくみんなそう言ってます」という答が返ってきたら、その人が「メディアリテラシー」と言うたびに、ちょっと「フン」と鼻で笑ったりすると効果的かもですね。
→第四の権力 といわれ - Google 検索
 
ちなみに、このテキストを書く前に、ぼくが自分の日記でまず「第四の権力」という言葉を使っているか(使っているとしたらどのように使っているか)を知るために検索してみたことは秘密だったのでした(使ってなくてホッとしたよ)。
(2006年8月21日記述)