製糸工場の工女は結核にならない?(その1):驚愕の事実

『凡宰伝』(佐野眞一・文春文庫)(→bk1)(→amazon)という、小渕恵三に関する本を読んでいたら(とても面白い本なのでおすすめ。それはともかく)、以下のことが書いてあったのでおどろき。小渕さんの本家は群馬で製糸業を営む家だったんですが(今はもうやめてます)、となりの渋川市にひとつだけ残っている製糸工場を筆者がおとずれた時の記述。p77。

群馬県製糸協会の会長をつとめる同製糸社長の金井朗によれば、糸をとり終わったあとのサナギは鯉のエサや製薬会社の薬品原料になるという。
「ドイツでは結核治療薬のパスの材料になっています。製糸工場の女工さんは昔から結核にかからないといわれたのもそのためです。(後略)」

いくらなんでも製糸協会の会長が言うことなのでフカシはないと思いますが、そんなことは全然知らなかったので少し調べてみました。
ネットではたとえばこんなテキストがあるわけですが、
→人口動態統計からみた結核の100年

1913年の石原修『女工と結核』によると工場労働者80万人のうち女子は50万人,繊維工女の年齢は16-20歳が最も多く,12歳未満の工女も存在した.また病気のために解雇され帰郷後に死亡したものについて見ると,死亡者1,000人について703人と7割強が結核あるいはその疑いのあるものである。
中部・関西地方で繊維産業が盛んだった点,その繊維産業の労働者は圧倒的に女子であった点,女子労働者の年齢が15-20歳だった点および結核の初期感染学説(戦前の日本で青年に結核が多いのは,青年期に結核の初感染を受け,引き続き発病するものが多いためであるという学説)などを考慮すると,これらの事実の反映として日本女子の結核の特徴が生じていたと考えることができよう.

この石原修『女工と結核』というのは、農商務省の嘱託技官で、「衛生学上より見たる女工之現況」というテキストに添付する形で、講演として発表されたものです(大正2年10月国家医学会例会席上にて)。大変興味深いテキストで、たいていの「女工には結核が多かった」というネタの一次資料になっているもので、おまけに著者の死後50年以上経っているので(1947年に亡くなられてます)、機会があったらフリーテキスト化してみようかとも思います。今後も引用することが多いテキストになると思いますので、覚えておいてください。
『女工と結核 生活古典叢書 5』(籠山京・光生館)という本で読めますが、1970年刊行なので、ネット書店で手に入れるのは難儀かも。
他サイトからの引用を続けます。
→蚕糸王国・岡谷

次の日の長野県立歴史館常設展最後の部屋は近代蚕糸工業の展示である。大竹しのぶが主演した「ああ野麦峠」という映画を憶えている人はもう少なかろう。私はもう10数年も昔になろうか、木祖村の薮原から高山へ野麦峠を車で越えたことがある。小学校を出たばかりの女工の卵たちはこの道を歩いて岡谷に行き、7-8年の年季を終えるとやはりこの道を戻った。野麦峠は1700m近い標高である。小さい子供には苦しく危険な山道であったろう。「ああ野麦峠」では病に倒れたみねが野麦峠で「飛騨が見える」と云って事切れる。ノンフィクションで実話だそうだ。寄宿舎は鉄格子を付けて逃亡を防止した。映画では、火事の時に鉄格子に阻まれて逃げ場を失い焼死する女工を写していた。工女の死亡率は高かった。大部分は結核だった。女工達の1日のスケジュールが展示室に出ていた。寝る時間と食事の、それも15分程度の短い時間以外は労働で、1日13-4時間労働だったようだ。夕食後も寝るまで働かせたようだった。

だいたいまぁ、こんなところが個人の認識としてはあると思うんですが、まず、驚愕の事実その1。
→ああ野麦峠

諏訪地方には豊富な水のおかげもあり、製糸工場が集中していました。周辺農村部から集められた大半の少女達は、山深い飛騨の山中の村々から連れてこられた貧しい農家の子供達であった。多くの少女達が半ば身売り同然の形で年季奉公に出されたのだった。工女たちは、朝の5時から夜の10時まで休みもほとんどなく過酷な労働に従事しました。工場では、蒸し暑さと、さなぎの異臭が漂う中で、少女達が一生懸命、額に汗をしながら繭から絹糸を紡いでいた。苛酷な労働のために、結核などの病気にかかったり、自ら命を絶つ者も後を絶たなかったという。

明治42年11月20日午後2時、野麦峠の頂上で一人の飛騨の工女が息を引きとった。名は政井みね、二十歳、信州平野村山一林組の工女である。またその病女を背板にのせて峠の上までかつぎ上げて来た男は、岐阜県吉城郡河合村角川の政井辰次郎(31)、死んだ工女の兄であった。
角川といえば高山からまだ七、八里(約30キロ)、奥越中(富山)との国境に近い、宮川沿いの小さな部落である。ここから岡谷まで七つの峠と30数里の険しい山道を、辰次郎は宿にも泊らず夜も休みなしに歩き通して、たった2日で岡谷の山一林組工場にたどりついた。
 「ミネビョウキスグヒキトレ」という工場からの電報を受取ったからである。
辰次郎は病室へ入ったとたん、はっとして立ちすくんだ。美人と騒がれ、百円工女ともてはやされた妹みねの面影はすでにどこにもなかった。やつれはててみるかげもなく、どうしてこんな体で十日前まで働けたのか信じられないほどだった。病名は腹膜炎、重態であった。工場では辰次郎を事務所に呼んで十円札一枚を握らせると、早くここを連れだしてくれとせきたてた。工場内から死人を出したくないからである。辰次郎はむっとして何かいいかけたが、さっき言ったみねの言葉を思い出してじっとこらえて引きさがった。

当時は、今のように健康保険があるわけでなく医者代は高く、せっかく稼いだ少しばかりの金はたちまち消えてしまう。よほど重症にならない限り、医者にかかるということをしなかった。結核は不治の病とされ、村の年寄り衆は病気で帰る工女に出会うと生きているのにすでに仏に向かうように合唱して見送ったという。
工女千人について23人という高率の死亡推計があり、その7割が結核という。

どこが驚愕かというと、映画にもなっている『あゝ野麦峠』(山本茂実・角川文庫)(→bk1)(→amazon)の主人公(ヒロイン)は、肺結核で死んだわけではないんですね。病名は「腹膜炎」。
で、こんなテキストもあったりするわけですが。
→『結核という文化』(福田眞人・中公新書)(→bk1)(→amazon)p160

近年、とりわけ山本茂美の『あゝ野麦峠』(昭和43年)とその続編、およびその映画化によって、明治・大正時代の女工野劣悪な労働環境と悲惨な生活がふたたび広く人々の知るところとなった。取り立てて産業のない飛騨地方の農家の子女が、今日の高山市に集められ、山道を歩いて野麦峠を越え、岡谷の製糸場へ出た。(野麦とは熊笹の実で、不作の年にはそれを食べたのである。)峠に残る「政井みね」の碑は、兄の背中で故郷を眺めつつ肺病で死んだ女工の悲劇を今に伝えている。

いや、福田眞人さん、女工(工女)の政井みねさんは肺病で死んだんじゃないんですが。(追記:本を読み直してみたところ、どうも福田眞人さんは「肺病」という用語を「結核」とほぼ同義で使っているみたいなので、少し俺のほうの誤読が入ったかもしれません。世間的には肺病というと「肺の病気」ということで、肺ガンとか肺気腫のようなものを、肺結核とは別に含めることもある、というか多いみたいですが)
ただ、「結核が原因の腹膜炎」というのもあるわけで、
→Googleで腹膜炎 結核を検索
実際のところはどうか微妙なんですが、少なくとも肺病(肺結核)でないことだけは確かです。
で、驚愕の事実その2。
前に挙げた石原修『女工と結核』の中にある表から(福田眞人『結核という文化』でも引用されてます)。
工場職工未治解雇者病名別割合(明治39・40・41年)

病名 紡績 生糸 織布 製麻
肺結核 26.6% 3.4% 20.0% 11.4%
その疑いあり 21.7 4.7 38.0 11.4
他の結核 5.2 2.5 - 2.0
è„šæ°— 1.8 4.3 11.3 11.4
胃腸病 6.7 28.4 2.0 28.6
その他 38.0 56.7 25.7 25.2

圧倒的に「生糸(製糸)」業の結核の数は少ないわけですが。
で、実はここ、重要なことなんですが、紡績業と生糸業とは違います。
→せいし 0 【製糸】 - goo 辞書

繭を煮て糸を繰り、数本集めて一本の糸にする工程。
「―業」

→ぼうせき ばう― 0 【紡績】 - goo 辞書

1)短い繊維を平行に並べ、引き伸ばして撚(よ)りをかけ、一本の糸にすること。
「鉱山を開掘し綿毛を―する等…/露団々(露伴)」
(2)「紡績糸」の略。

→ぼうせき-し ばう― 4 【紡績糸】 - goo 辞書

紡績によってできた糸。綿糸・毛糸・麻糸など。
→フィラメント糸

→フィラメント-し 5 【―糸】 - goo 辞書

フィラメントを集束した糸。柔らかくて、撚(よ)りやけばがない。絹糸・レーヨン・ナイロンなど。
→紡績糸

要するに、「綿・毛・麻」と「絹」とは、同じ糸を扱う商売とはいっても昔は厳密に区分されていたんですね(今でもしていると思いますが、普通の人は「紡績」と「製糸」を区別しません)。
で、圧倒的に結核が多かった職種は「紡績」のほうで、「製糸」のほうはむしろ当時の世間相場から考えると少ないぐらいだったのでは(まるっきりならなかったというのはないと思いますが)、というのは、石原修さんも『女工と結核』の中で言っています。『女工と結核 生活古典叢書 5』(籠山京・光生館)より引用。p195-196。

それでもう一つ申しますが、斯様な具合に結核を作りそうして散布しておりますことはとにかく何の工業が一番責任を有たなければならぬかということを申さねばなりませぬ、一口に申せば第一に紡績工場が責任を有たなければなりませぬ。

ではなぜ、製糸工場の女工(工女)は悲惨で結核になる人間が多い、という都市伝説が生まれたのかということなのですが、これは製糸・紡績業界にあまりくわしくない人の伝言ゲームによる劣化(石原修『女工と結核』→山本茂美『あゝ野麦峠』→福田眞人『結核という文化』という流れを見てもわかると思います)と、それが「左翼的歴史観」にとって割と都合がいいため、あえてそういう関係の人たちがそういう情報の流布を止めなかった(積極的に推奨した)という事実があるんじゃないか、と俺は判断しています。
紡績業は国内の需要を満たすための国内産業なんですが、製糸業はそのほとんどが海外に輸出して外貨を稼ぐための輸出産業でした。明治時代の政府は、それによって日清・日露の戦争の軍事費をまかなっていた、というのが左翼史観。戦争許すまじ、と思っている人たちが、製糸業許すまじ、と思ったとしても無理はありません。そんなところに「なんか製糸業だか紡績業って、悲惨な環境だったらしいよ。肺病になる人もずいぶん多かったんだって」という伝言が回ってきたら、それはもうすぐに「血を吐きながら働く製糸工場の女工。日本の富国強兵・軍国主義は彼女たちの血を売ることで支えられてきた」ということになってもおかしくはありません。
ちょっと長くなりすぎたので、この話はまた次の日に続きます(多分)。
まとめると、
1・『あゝ野麦峠』のヒロインは肺病では死ななかった。映画とか小説とかみたいなフィクションにだまされてはダメ。
2・結核が多かったのは製糸業ではなくて紡績業。
あと、
3・当時の職場環境が劣悪だったことは事実なんだけど、当時の農作業ほか第一次産業も似たようなもの。
というのもつけ加えておきます。
本日の画像は野麦峠にある「政井みね」の碑です。元画像はこちら。
→野麦峠
 
(追記)
コメント欄で「工場職工未治解雇者病名別割合だけでなく工場職工にたいする未治解雇者の割合もないと」というご意見をいただいたので、前掲書の「女工と結核」「衛生学上より見たる女工の現況」から、参考になりそうなデータをちょっと調べて掲載しておきます。
「十人以上」の「私立」に限定しての染織工場の女工数(明治43年現在)と、「工場職工病者未治解雇者1千人に対する病名別」のデータの実数(明治39〜41年平均)です。ただし後者の数字は「寄宿人100人以上の工場」に限定したものなので、実数はもう少し多くなると思います(前者の数字も、十人以下の工場を除いてあるので、実数は多くなるかもしれません)。

紡績 生糸 織布 製麻
未治解雇者の実数 1175 228 41 35
女工数 66,766 178,877 112,990 -
肺結核 26.6% 3.4% 20.0% 11.4%
その疑いあり 21.7 4.7 38.0 11.4
他の結核 5.2 2.5 - 2.0

ちょっと「製麻」業の数が不明ですが、だいたいのところとして紡績業の女工は製糸業の3分の1ぐらいで、未治解雇者は実数としては製糸業の5倍ぐらい多かった、要するに15倍ぐらい危険だった、という感じでしょうか。逆に織物関係の「未治解雇者の実数」が少なすぎる気もするんですが、理由はよくわかりません。製糸業の3分の2ぐらいの数で、5分の1ぐらいの未治解雇者だから、製糸業と比べると危険度が15分の2ぐらい?
肺結核で未治解雇者になった製糸業の人の実数は、228×0.034で7〜8人、紡績業の人は1175×0.266で312〜313人、という感じでしょうか。紡績業と比べると「結核にならない」という都市伝説が生まれても不思議はない数字です。
『女工と結核 生活古典叢書 5』(籠山京・光生館)には、「工場で死んだ人の数」とか「帰郷して死んだ人の数」とかも出てるので、順を追ってこれらも紹介してみたいとは思いますが、とりいそぎ。
 
これは以下の日記に続きます。
→http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20051030#p1