ゲーセンとかけそばと泣ける話とゲラゲラ笑う人達

ゲーセンで出会った不思議な子の話:哲学ニュースnwk
 何だか知らないけど、ここ最近のネット上で流行ってるそうであり、流行を見つければ呼ばれもしないのにノコノコと顔を出して、鼻で笑って帰っていき場の空気を悪くするスタイルの僕ちんですが、これはまあ何だろうね。
 こういう言い方をするのはアレですが、アレですよね。
 一言で言うならばクソですよね。
 いや、だってね貴方、考えて御覧なさいよ。これが仮に本当の話だとしよう。
 だとしたら、自分の彼女が死んだってのに、それをちゃんと伏線を張って感動的ストーリーに仕立て上げ「どや泣けるやろ?」みたいな感じで長々と2chに書き込むような奴なんて心底気持ち悪いし、友達がそんな真似してたら、即座に縁切るよ。薄っぺらいにもほどがあるだろ、そいつは。トルコキキョウじゃないよ、まったく。
 で、これがフィクションだったら、わざわざ実話風に見せかけて「彼女が死んだのでとても悲しいです」なんてチンパンジーでもわかるようなことを長々と2chに書き込んでお涙頂戴誘うような奴なんて心底気持ち悪いし、友達がそんな真似してたら、即座に縁切るよ。辻仁成かよ。センスが無いにもほどがあるだろ、そいつは。ハッケイ島シープリズンじゃないよ、まったく。
 というわけでね、どう考えてもあの話を書いた奴はキモチ悪くて僕には付き合えそうにもないんだけど、こういうことを書くと、あの話で泣いたって人はカチンと来ると思う。少なくとも俺だったら「こいつ死なねえかなあ」と思ってウィンドウを閉じると思うのだけど、まあちょっと待って欲しい。
 さかのぼること約四半世紀。バブル絶頂で日本にお金が一杯あったころ、「一杯のかけそば」という実話風の話が大ブームを起こした。詳しい内容はwikipedia先生にでも聞いてもらうとして、とにかくその話を見て多くの人間がダバダバと涙を流したらしい。
 そんな中で、漫画家のとり・みきが「一杯のかけそば」を読んだ時の文章を引用しよう。

 泣かなかった。
 だが、泣く人の気持ちはわかるような気がした。別に泣いたっていいじゃないか、とも思った。問題はその先だ。多くの人が「ああ、自分は泣いてしまった。不覚ではあるが事実は事実だ。ここは厳粛にこの事実を受け入れ、この作品を評価せずばなるまい」と思い込んでいるようなのだ。これが私にはよくわからない。皆あまりに自分の生理現象を信頼しすぎているのではないか。人は梅干しの写真を見れば唾液が出てきてしまうのだ。
 私などそりゃもう恥ずかしいぐらいによく泣く。このあいだは、タイトルも知らない単発ドラマを、終了5分前から観始めて泣いた。登場人物の人間関係も、そこまでのストーリーすらまったくわからないのに、ある年配の役者が発したセリフのひと言に感じ入って涙が出てしまったのだ。これにはさすがの私もあきれ、そして理解した。
 人が涙を流すのは必ずしも作品の出来とは関係がないのだ、と。
 かつて自分が何かに感動した時にできた涙腺回路のようなものが頭の中にはあって、そこにピタリとはまるような場面だの言葉だのを見聞きしてしまうと、涙というのはどうやら自然に流れる仕組みになっているらしいのである。歳をとると涙もろくなるというのは、つまりそういう回路のパターンが増えているからではないか。かくして私はモスクワ同様、涙を信じない。

 
 僕も最近では映画の予告を見ただけで、涙ぐんだりしてしまうので、この意見には同意せざるをえない。
 そういう意味ではあのゲーセンの話には涙を搾り取るような仕掛けがあちこちに見られる。ってか難病の彼女が病気で死ぬってだけで、よっぽどの人非人じゃない限り涙を流すだろう。それは別にいい。泣く人は泣いてしまうだろう。
 しかし、だからといって、あの話が出来が良いかというとそんな風には思えないし、あの話を褒める人のほとんどは「号泣してしまった」とか「毎日を真剣に生きていこうと思った」とか小学生の読書感想文みたいな内容ばかりで具体的な箇所を褒めている人はあまり見かけられない。
 一方、あの話を批判する側の人間はガチである。「てめえ、こんなお涙頂戴の安っぽい話で2000ブクマとか稼いで、調子乗ってんじゃねえぞ、カスが!」「スト4に関する描写が適当すぎんだろ! ハイスラでボコんぞコラ!」というギラギラした殺意が見え隠れしている。
 その中でも秀逸だったのが、こちらでまとめられているid:amamakoの感想。
 微に入り細を穿つそのツッコミに、『ここまで過剰反応する方が痛々しい』『「創作だから」という理由で下に見る人も、「オレは泣けなかったわー」とミサワる人も、「それはそれは ご愁傷様です」としか言えませんね。 リアルでも作りでもいいから、「自分の言葉」で人の心を動かしてみろ!』『ここまで言うと怨嗟の念すら感じるけどワロタ。』
 と大絶賛のコメントが多く寄せられていた。
 しかし、あの話を読んで泣いたという人で、彼ほど深くあのまとめを読み込んだ人はそうはいないだろうし、ここまで論評できる人もいないだろう。
 もし、本当にあの作品が素晴らしいと思えるのならば、「泣けた」とか「感動した」という個人的な感情だけでなく、あの話の優れている具体的な部分を指摘して欲しい。それができないなら、ゲーセンの中心でアイでも叫んでいれば良い。
 確かにあれに感動して涙を流した人物が多くいるのは事実だろう。だからといって、その感動は他人からすれば、台所の陰で干からびているナメクジぐらいに無価値であり、そんなもんを御旗に掲げられて、「泣けたからいいじゃん」「嘘だとかって言う前に感情が動くほうが人生充実してない?」などといわれても困る。より多く感動した方が素晴らしい人生を送っているというのが正しいとすれば、我々の大半の人生はオウム真理教の信者よりもつまらないことになってしまう。
 ちなみに私のtwitterのタイムラインでもこの話が話題に挙がっていたが、あの話を読んで涙を流した人はほとんど見当たらず、ゲーセンのろくでもない思い出話に花を咲かせていたし、「トルコキキョウ」が一種の面白ワードとなって流通していた。
 みんなあの話を肴にゲラゲラ笑っていたし、俺も愉快な話がたくさん聞けて楽しかった。
 そういう意味であの作者には、素敵なお話をありがとうと言っておきたい。

とり・みきの大雑貨事典 (双葉文庫)

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 引用したかけそばの文章はこちらに載っています。