kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「残業代がもらえない」ことよりも「長時間労働」の方がはるかに深刻な問題

マルクスが『資本論』を書いた19世紀に、当時の先進資本主義国・イギリスの工場で行われていたのはまさに資本家による労働者の「搾取」そのものであって、青年の労働者のみならず児童までもが1日の生活時間の大部分を工場で労働をさせられ、労働者の平均寿命は非常に短かった。封建制から資本制に移行したあと、イギリス、フランス、ドイツなどの兵士の体格が封建制時代よりも目立って劣るようになった時期がある。子ども時代から強いられた長時間労働のせいである。それくらいむき出しの資本主義(市場原理主義!)の弊害はひどかった。ある意味で、(初期の)資本主義は封建制よりも悪質だったといえる。

それが、工業の発達していなかったロシア、中国などの国で社会主義革命が起こり、資本主義対社会主義の争いの時代になると、上記のような資本家が労働者を搾取するばかりの資本主義社会に勝ち目はなかったので、その欠点を克服すべく「修正資本主義」が生まれたのだった。

修正資本主義
しゅうせいしほんしゅぎ
revisionist capitalism


本来の資本主義経済の無計画性に基づくさまざまな弊害を国家が政策的に是正し,福祉国家を目指そうとする思想。資本主義における弊害としての所得分配の不平等は,労使の協調*1と国家の所得再分配政策によって,また失業の増大は完全雇用政策によって,恐慌の発生は経済計画によってそれぞれ是正され,克服されるとする。

「社会主義」を掲げるソ連や中国の実態は、共産党幹部のやりたい放題の暴政が跋扈する国であって、スターリンや毛沢東といった大量虐殺者が独裁政治を行った。それが、1991年のソ連崩壊につながった。そうなると、今度は修正資本主義の「修正」が後退し、無修正の資本主義(市場原理主義)への回帰を目指す悪弊が現れ始めた。

ソ連崩壊の少し前、1970年代あたりから新自由主義が勃興し、今世紀初めには日本でも堀江貴史だの「金儲けの何が悪いんですか」と吼えた村上世彰だのが現れ、当時の首相・小泉純一郎が「格差のどこが悪いんですか」と国会の答弁で言い放った。しかし、その頃以降、つまり現代の日本では、150年前のイギリスの工場を思わせるブラック企業が闊歩するようになった。また中国では、共産党の一党支配のまま経済はむき出しの資本主義、すなわち新自由主義なので、内実は資本家が労働者を搾取するという、マルクスに批判された社会そのものである。にもかかわらず今なお中国の指導者は自国の体制を「社会主義」と僭称する。

安倍晋三が第1次政権時代のホワイトカラー・エグゼンプション(WCEとかWEなどと略記されるようだ)を蒸し返すように持ち出した昨今の「残業代ゼロ」が議論を呼んでいるが、問題は「残業代が出ない」ことよりも「長時間労働を強いられる」ことである。適当にネット検索をかけたら、2011年に書かれた下記の記事が引っかかった。

「マネジメントの視点」に立つという上記記事の著者・広田薫氏の主張に私は全く賛成しないが、事実を記述した部分は参考になる。以下引用する。

1.フレックスタイム制と裁量労働制−早く帰れるのはどっち?

先日、あるメーカーの人事担当の方から相談を受けた。この会社では、研究部門に対してフレックスタイム制と裁量労働制を導入しているが、同じような研究開発の仕事をしているにもかかわらず、裁量労働制を適用されている社員のほうが、在社時間が20%程度長いのだそうだ。

「社員の健康のことを考え、長時間労働をやめさせるためには、いっそのこと裁量労働制をやめて研究部門全体をフレックスタイム制に統一したほうがよいのでしょうか。そもそも同じような仕事をしているのに、労働時間制度だけでこんなにも社員の在社時間が変わるものなのでしょうか。」

この相談に答える前に、フレックスタイム制と裁量労働制の特徴、違いを簡単に整理しておこう。

フレックスタイム制(労働基準法32条の3)とは、1カ月以内の一定期間(清算期間)の総労働時間を定めておき、労働者がその範囲内で、各日の始業および終業の時刻を選択して働く制度である。

一方、裁量労働制とは、研究開発などの専門業務(労働基準法38条の3)や企画・立案業務(労働基準法38条の4)など、その業務の性質上特に業務遂行の方法や時間の配分などに関し、使用者が具体的な指示をしないことを労使協定や労使委員会の決議等で定めた場合、当該協定や決議などで定める時間を労働したとみなす制度である。

要は、フレックスタイム制にしても裁量労働制にしても、始業・終業時刻の決定や労働時間の配分を従業員に委ねるという点では大きく変わるところはない。では一番の違いは何か。それは残業時間の算定方法である。フレックスタイム制の場合は、1カ月の総労働時間(例えば、1カ月の所定労働日数×標準となる1日労働時間)を決めておき、その時間を越えた部分が残業時間となるので、実質働いた時間がそのまま残業手当の対象となる。

これに対して裁量労働制は、あらかじめ労使協定で定めたみなし時間により残業時間が決定されるので、実際に働いた時間と残業手当の金額とは関係がない。ただし、これが裁量労働制のほうが在社時間が長くなるという理由にはならない。

なぜなら、1日5時間働いても、12時間働いても残業時間はあらかじめ定められた時間しか残業手当がつかない、ないしは全くつかないのであれば、早く帰ろうというインセンティブが働くからだ。

逆にフレックスタイム制の場合であれば、「生活残業」が可能になるので、在社時間(残業時間)が長くなることも考えられる。どうもフレックスタイムとか裁量労働とかいった労働時間制度そのものの問題ではなさそうだ。

ここで著者はフレックスタイム制と裁量労働制を対比しているが、この対比はおかしい。というのは、フレックスタイム制と裁量労働制は別に矛盾する制度ではなく、両立が可能だからである。実際、私は20年以上前にフレックスタイム制と裁量労働制がともに適用された職場で働いていたことがある。

どうやらこの著者が話した相手の会社における「裁量労働制」においては、出勤・退勤の時刻にかなり厳しい制限があるようだ。かつて富士通が採用していたのが(現在も採用しているかどうかは知らない)、出勤・退勤時刻の縛りの厳しい裁量労働制であったらしいことは聞いている。

以上は単なる前振りであって、私が注目したいのは、上記記事では「残業を普通につけられる」(=労働者が企業に残業手当を請求できる)勤務体系より、(実質的な)残業時間の長短にかかわらず給料の額が変わらない「裁量労働制」の方が、労働時間が長くなっているということである。

裁量労働制は、本来「成果さえ出していれば、早く帰っても遅くまで仕事をしていた人と同じ給料がもらえる」のはずで、だから第1次安倍内閣の厚労相を務めた現東京都知事の舛添要一がホワイトカラー・エグゼンプション制度を定める法律を「家庭だんらん法」などと僭称し(て失笑を買っ)たのだが、現実には「家庭だんらん」どころか労働時間が長くなるというわけである。

つまり、問題は「残業代が出ない」ことよりも、「長時間労働を強いられる」ことにある。これまで、裁量労働制が適用されてきたのは、記事にある通り「研究開発などの専門業務や企画・立案業務」であって、これらの部門では、それなりの時間と質の労働をしても、それに見合った成果が必ず出る保証は何もない。それでも結果が要求されるから、その要求に応えようとして、必然的に平均労働時間が長くなるのである。きっちり残業時間を申請できる制度の方が裁量労働制よりも平均労働時間が短いという事実は、もっと広く知られるべきであろう。たとえば中日新聞(東京新聞)論説副主幹の長谷川幸洋などは、そのことを全く理解していないから、下記のような頭の悪い記事を平然と書く始末である。

なお、私は一部上場企業の製造部門(「裁量労働制」は適用されない)で働いた経験もあり、それを思い出すと、私がいた職場では、当時30代前半だった長期出張者に、残業時間が月200時間を超えるような長時間労働で脳内出血を起こさせておきながら、上司が「○○さんは都合により元の職場に帰ってもらうことになりました」などと言って事実を公表しなかった事例があった。だから、問題は「裁量労働制」に限った話でもない。長時間労働の強制が野放しにされていることが問題の本質である。

なお、この例からもわかるように、長時間労働は、何も世に言われる新興の「ブラック企業」だけの問題に限らず、経団連の幹部を送り出しているような、名前だけは立派な世の「一部上場企業」でもかつて平然と行われてきたし、おそらく今でもそのような職場は少なくなかろうと想像する。それは、マルクスに槍玉に挙げられた19世紀のイギリスの工場と何ら変わりないのである。「ブラック企業」は、単にそれが目立った形で現れたものに過ぎない。単に彼らのやり方が稚拙とでもいうべきか、露骨に過ぎるために批判を浴びやすいだけの話である。

私個人は、だいぶ前にそのような企業、そのような働き方に見切りをつけ、現在ではほぼ毎日ウェブ日記を公開する程度の余裕はある生活をしているが、私自身の経験から言っても、人生において何が有害かといって長時間労働ほど有害なものはないと確信している。

「残業代ゼロ」よりも「長時間労働」の方がはるかに深刻な問題である。そして、安倍晋三はさらなる「長時間労働」の現出に加担しようとしている。

*1:「労使の協調」なるものが所得分配の不平等の是正につながるかは私には疑問である。=引用者註