日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正17年11月21日萩原昌之宛伊奈忠次知行書立(黒印状)

 

家康の七ヶ条定書を読むと、政策基調が秀吉とかなり異っていたことに気づかされる。そこで比較の意味も込めてしばらく家康や家康の代官頭らが発給した文書を読むことにする。

 

政策と社会構造がどのように対応するか一般論として述べることは難しいし、また安易にすべきでもない。ただ、ある文書が発せられる時「実現しようとする、あるべき姿」といった意図とともに「望ましくない現実」を反映していることは確かである。それを読み取っていきたい。

 

 

 

     甲州御知行書立*1

 

一、千五拾六俵壱斗七升弐合六勺五才      中下条郷内ニ而*2

一、六百拾五表*3壱斗五升五勺五才        吉沢郷内ニ而*4

 

    合千六百七拾表壱斗弐升三合弐勺*5(黒印)

 

右之分可有所務*6候、取高*7之外田畠上中下共二*8壱段ニ壱斗宛之夫銭*9有之、右之分百姓請負一札*10有之、仍如件、

   天正十七己丑年

      十一月廿一日*11           伊奈熊蔵(黒印)(花押)*12

 

    萩原甚之丞殿*13

 
(和泉清治編『江戸幕府代官頭文書集成』80号)

 

 

(書き下し文)

 

     甲州御知行書き立て

 

一、1056俵1斗7升2合6勺5才      中下条郷内にて

一、615表1斗5升5勺5才         吉沢郷内にて

 

    合わせて千六百七拾弐表壱斗弐升三合弐勺(黒印)

 

右の分所務あるべく候、取高のほか田畠上中下ともに1段に1斗ずつの夫銭これあり、右の分百姓請負一札これあり、よってくだんのごとし、

 

(大意)

   

    甲斐国における知行充行についての目録

 

一、1056俵1斗7升2合6勺5才         中下条郷のうちからこれを宛がう。

 

一、615俵1斗5升5勺5才           吉沢郷のうちからこれを宛がう

 

右の分所務しなさい。右の年貢のほか、上中下いずれの田畠にも1反当たり1斗の夫銭を徴収することを認める。この条件については百姓から請け負うとの一札をすでにとっている。以上。

 

 

 

Table. 萩原昌之宛知行書立検算

 

家康領国では石ではなく実用的な「俵」を基本とし、俵の小数点以下を十進法にもとづく斗升合を用いている。念のため1俵=4斗で計算してみたが、1俵=0.4石=4斗ほど「差」が生じた。秀吉の文書もそうだがこういった文書で合計が合う方が珍しいくらいなので気にしないこととする。

 

近世の地方(じかた)文書に「○○俵、但し四斗入り」といった表現をよく見かけるが、「1俵=4斗」であることをわざわざ断らねばならないほど不統一だったのだ。尺貫法が不統一なのはこうした歴史的事情を反映している。日本ではメートル法を採用することになったが、それでも灯油は「18リットル○○円」という言い方をする。1斗=約18リットルの名残であろう。

 

Fig. 萩原昌之知行地

                    『日本歷史地名大系 山梨県』より作成

吉沢郷と中下条郷のあいだはGoogleMapで「約7キロメートル、徒歩片道1時間47分」の距離があり、隣接しているわけでもなければ下線部「郷内にて」のように一郷すべてを「一円的に」与えられるわけでもない。こうした飛び地的状態は現代のわれわれからは「不自然」に見えるが、歴史的にはむしろ「常態」であった。

 

昭和恐慌時、全国の村々を歩いてまとめた猪俣津南雄『踏査報告 窮乏の農村』*14にはこういう一節がある。

 

 

親父さんは毎日汽車に乗ったり歩いたりして8里もある所へ通っている。そんな遠い所にある2反の田を作って12,3俵の米を取ろうというのだ

 

 

この「親父さん」は小作人である。8里はおよそ32キロメートルであり、新宿を8時ちょうどに出る「下りあずさ2号」ならば停車しない距離である。これにくらべれば7キロの距離はそれほどでもないが、いずれにしろこうした自宅から遠く離れた耕地で耕すケースは歴史上見慣れた光景である。

 

なおこうして歴史的には常態だった「飛び地」がいかにして一円的、領域的な「行政区画」に編成されていったのかにご興味のある方は、荒木田岳『村の日本近代史』(ちくま新書、2020年)を一読されることをお勧めする。

 

www.chikumashobo.co.jp

 

本年貢のほか1反当たり1斗の夫銭を徴収することを許しているが、下線部の「百姓請負一札これあり」という文言は注目に値する。百姓らの合意を得たことをわざわざ書き添えているのである。それぞれの領主に宛がう以前に百姓と合意形成を行っていることと、宛がう相手にその旨伝えているということは百姓らと領主の間に「双方向的な」回路があったということを意味する。宛がわれる地頭もその「百姓請負一札」を年貢徴収が、すなわち支配が「正当」であることを示すものと歓迎したことだろう。

 

戦国大名の発した禁制にしばしば見える「非分の課役」とはこのように公認されていない「課役」を地頭が「勝手に」百姓に課すことである。戦国大名や織豊政権、織豊大名らはこうした地頭の恣意的支配を制約することで支配体制を確かなものにしようとしたのである。

 

2024年8月8日追記

 

本文書中の「百姓請負一札」を七ヶ条定書としたが、12月26日付の家康家臣加藤正次に充てた三河国碧海郡河野之郷による「今度御縄打之上御請負代わヶ之事」*15という写があることに気づいたので訂正する。また次々回に採り上げる。

*1:個条書きに列挙した様式をもつ文書を古文書学で「書立」という

*2:甲斐国巨摩郡、下図参照

*3:ママ

*4:甲斐国巨摩郡、下図参照

*5:計算結果については下表参照

*6:本来は「職務」や「役目」だが、中世の「職」と同様、職務にともなう「得分」や「権利」といった意味を帯びるようになる。また『日葡辞書』(1603)には「年貢の取り立て」と見える。ここでは年貢を取り立てる権利という意味

*7:収穫量あるいはそこから得た年貢の取り立て量=領主の収入。ここでは後者の年貢取り立て量の意

*8:前回の七ヶ条定書で「上中下共に」を身分の上下と解釈したが、田畠の等級であると分かったのでここで訂正する

*9:本年貢のほかに1反当たり1斗の「夫銭」を課してよいという意味。「夫」の文字が示すように本来は現物の労働力として徴発した

*10:百姓が右の条件に合意したという文書,七ヶ条定書を指すのだろう。2024年8月8日追記参照

*11:グレゴリオ暦1589年12月28日、ユリウス暦同年同月18日

*12:家次、のちの忠次

*13:昌之、武田氏滅亡後家康の家臣となる

*14:180頁、岩波文庫、1982年。なお初出は1934年で、岩波文庫版は内務省の検閲による伏字をできるだけ復元したものである

*15:『愛知県史 資料編12 織豊2』1580号文書、810頁