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9世紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
千年紀: 1千年紀
世紀: 8世紀 - 9世紀 - 10世紀
十年紀: 800年代 810年代 820年代 830年代 840年代
850年代 860年代 870年代 880年代 890年代
ヴァイキング時代の到来。巧みな航海術を駆使した北欧の海賊はヴァイキングと呼ばれ恐れられた。画像はノルウェーのオーセベリ墳丘墓から出土した船葬用の船体オスロヴァイキング船博物館蔵)。
イングランドを襲撃するデーン人(ヴァイキング)。イングランド各地もデーン人の猛攻を受け、イーストアングリアエドマンド王が殺害された。画像は12世紀に書かれた『聖エドマンド殉教王伝』の挿絵。
スピリングスの秘宝英語版ゴットランド島はヴァイキングの通商・貿易の拠点であり、それを裏付けるよう1999年にこの島の北端スピリングスでヴァイキング時代の宝物が大量に発見されている。大量の銀製品の他にイスラムやハザールの貨幣も出土している。
マルウィヤ・ミナレット(サーマッラーのミナレット)。アッバース朝第8代カリフのムウタスィムが建築したサーマッラーの大モスク付属の螺旋式のミナレット。
ハールーン・アッラシード。アッバース朝最盛期のカリフで、『千夜一夜物語』では夜ごとにバグダードの街に繰り出す風流な君主として描かれている。
知恵の館(バイト・アル・ヒクマ)」。アッバース朝カリフ・マアムーンの治世にバグダードには翻訳事業や学問研究のための「知恵の館」が設置された。画像はここに集まる学者たちを描いた13世紀の細密画(フランス国立図書館蔵)。
銅細工師サッファール。アッバース朝の衰退に伴い最初にイラン人王朝を建てたのがヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファールである。ヤアクーブは銅細工師からアイヤール(イラン世界における任侠の徒)となり、貧者に尽くす義賊であったとの伝説もあり、今日でもイラン人の評判は高い。画像はデズフールにあるサッファールの銅像。
インド最後の仏教王朝のパーラ朝。ダルマパーラ王により9世紀末に北インドの大半が支配下に置かれた。画像は9世紀に造られたパーラ様式の文殊菩薩石像(ホノルル美術館)。
敦煌文書。敦煌には3万とも4万とも数えられる膨大な古文書が収蔵されている。画像は大英博物館所蔵の「金剛般若波羅蜜経」。これは現存する世界最古の木版印刷の巻子本(書籍)で唐の懿宗の治世の868年に作成されたもの。
入唐求法巡礼行記』。日本僧円仁最澄の下で天台教学を修めた後、遣唐留学生として中国に赴き詳細に渡る見聞をこの記録にまとめた。唐の武宗による会昌の廃仏に遭遇するなど辛酸を舐めたが、それも含めてこの記録は晩唐の貴重な資料となっている。
法門寺宝物。唐では武宗による会昌の廃仏以後も仏教は衰えを見せなかった。歴代皇帝の尊崇を集めた法門寺からは1987年に地下宮殿が発見され多くの宝物が出土した。画像は法門寺の金銀器の一つで禁止出境展覧文物中国語版でもある「八重宝函」。
「海東の盛国」。靺鞨人と高句麗遺民により建国された渤海は、国王大仁秀と続く大彝震のもとで国力を増進し、唐や日本との良好な関係もあって、この時期「海東の盛国」と呼ばれた。画像は大彝震の年号「咸和」が刻まれた「咸和四年銘仏龕(倉敷市大原美術館蔵)」。
密教招来。空海らによって日本に密教がもたらされ平安時代の仏教に大きな影響を与えた。画像は密教で用いる胎蔵界曼荼羅で京都東寺所蔵のもの。
崇文の治。薬子の変から承和の変までの嵯峨・淳和・仁明の三代の治世は、勅撰漢詩集の編纂にみられる文雅が重んじられた時代で、安定した政治が行われた。画像は三筆の一人でも名高い嵯峨天皇の肖像画(御物)。
神仏習合の深化。奈良時代に始まった神仏習合の流れから、平安時代前期には日本古来の神々の像が作られるようになった。画像は薬師寺休ヶ岡八幡宮にある国宝八幡三神比売神応神天皇皇后の仲姫命)の神像。
伊勢物語』の世界。この物語の主人公は政治では不遇でありながら歌才に恵まれた貴公子在原業平がモデルとされている。画像は伝俵屋宗達の『伊勢物語図色紙』(大和文華館蔵)六段芥川で業平が二条后高子を連れ出す場面。
応天門の変。藤原氏による他氏排斥が進んで摂関政治が確立し、律令国家体制から王朝国家体制へと政体が変化した。画像は12世紀に応天門の変の経緯を描いた「伴大納言絵詞」(出光美術館蔵)。
ティワナクボリビアラパス県の4000メートル近くの標高にある遺跡で、最盛期である9世紀には人口は1万人を越えたと想定されている。画像は半地下式方形広場で人面の装飾がなされている。
カバー遺跡。ユカタン半島北部の遺跡で、プウク式装飾で有名なコズ・ポープ神殿がある。画像は雨の神チャク神の仮面で覆われたコズ・ポープ神殿のファサードで、裏手と側柱に9世紀の日付がなされている。
イボウクウ遺跡英語版。9世紀から10世紀に発展したナイジェリア南東部の遺跡で、この地域最古の青銅器が発見されている。画像は巻き貝の形をした青銅製の儀式用具で細密な装飾文様が施されている(ナイジェリア国立博物館蔵)。
カロリング帝国の分裂。ヴェルダン条約と続くメルセン条約でカール大帝の遺領は三分割された。画像は両条約で西フランク王となった禿頭王シャルル2世の肖像で、フランス国立図書館所蔵の『ヴィヴィアンの聖書英語版』の細密画。
パリの戦い」。パリ伯ウードは、885年に始まったヴァイキングの攻撃からパリを死守し名声を高めた。画像はジャン=ヴィクトール・シュネッツの歴史画(ヴェルサイユ宮殿戦闘の回廊英語版」蔵)。
アルフレッド大王。デーン人を下しイングランドの再建に貢献したことでアングロ・サクソン史上唯一の「大王」の名がつけられた。画像は「AELFRED MEC HEHT GEWYRCAN(アルフレッドの命で作られた)」の銘を持つ「アルフレッドの宝飾英語版アシュモリアン博物館蔵)」。
ルーシ国家の成立。画像はラドガにて東スラブ人と出会うヴァリャーグリューリク一行を描いたヴィクトル・ヴァスネツォフの歴史画。
イコノクラスムの継続。第2ニカイア公会議以降も、東ローマ帝国では断続的に聖像破壊運動は続いた。画像はクルドフ詩編英語版挿絵で、キリストの受難になぞらえて836年にコンスタンティノポリス総主教となったヨハンネス7世の破壊運動を描いている場面。
イコノクラスムの完全終結。東ローマ帝国では843年のコンスタンティノポリスでの教会会議により聖画像崇敬派の勝利が確定し正教の教義が確認された。画像は870年頃に作られたハギア・ソフィア教会アプス半ドームにある聖母子のモザイク画。
スラブ人への宣教。東ローマ帝国出身のキュリロス・メトディオス兄弟はグラゴール文字を作成しキリスト教の宣教に努めた。画像は18-19世紀にロシアで描かれたこの兄弟のイコン(聖画像)。
プリスカの戦い。プリスカは第一次ブルガリア帝国の都で、ここをめぐり東ローマ帝国と死闘を繰り広げた。811年にはバルビツィア峠でブルガリア皇帝クルムが東ローマ皇帝ニケフォロス2世を戦死させ大勝利を収めた。画像は現在のプリスカ遺跡。

9世紀(きゅうせいき)は、西暦801年から西暦900年までの100年間を指す世紀

9世紀初頭の世界地図(東半球)
9世紀末の世界地図(東半球)

できごと

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800年代

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810年代

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820年代

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830年代

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850年代

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860年代

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870年代

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880年代

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890年代

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900年代

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時代の動向

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東アジア

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大陸

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朝鮮半島

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日本

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日本では平安時代前期にあたり、唐制に基づく律令制が衰退に向かい、戸籍に基づく人別課税から、田堵と呼ばれる実際に公田を請け負い経営している富豪層負名として土地課税する制度に移行する。変動する在地社会を現実に即して統治するために現地派遣の国司の筆頭者に大幅な権限が付与され、受領と呼ばれるようになる。

西アジア

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南アジア

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東南アジア

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ヨーロッパ

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人物

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キリスト教世界

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フランク王国

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イタリア

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イングランド・スコットランド

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東ローマ帝国

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東欧

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北欧

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イベリア半島

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イスラム世界

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アッバース朝

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イラン系諸王朝

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その他の王朝

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宗教指導者

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学者・詩人

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南アジア・東南アジア・チベット

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東アジア

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新羅

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日本

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関連項目

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外部リンク

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