論仏骨表
論仏骨表(ろんぶっこつひょう)は、中国唐代の韓愈が、鳳翔法門寺の真身宝塔(阿育王塔)に秘蔵され、30年に一度のご開帳の時に供養すれば国家安泰を得るという仏舎利の伝承を信じた憲宗皇帝に対して諌めるために上った上表文である。
古文復興運動の先駆となった韓愈の、四六駢儷文を排した名文として、また、中国における排仏論を代表する内容として知られている。
内容
[編集]そもそも仏というものは、夷狄の法の一つにしか過ぎません。後漢代に中国に伝わったものであり、上古三代には存在しておりませんでした。さて、中華の聖天子である黄帝は在位が100年、年寿が110歳、少昊は80年、100歳、顓頊は79年、98歳、帝嚳は70年、105歳、帝堯は98年、118歳、帝舜と禹王は100歳でした。しかも、この時、天下は太平であって、人民は平和に寿を得ていました。しかしながら、そんな中国にはまだ仏は居なかったのです。その後、殷の湯王もまた100歳、湯王の孫の太戊は在位75年、武丁は50年でした。周の文王は97歳、武王は93歳、穆王は在位100年でした。やはり、この時も仏法は中国に到達しておらず、仏に仕えて年寿を得たのではなかったのです。さて、後漢の明帝の時に初めて仏法が伝来しましたが、その明帝の在位は、わずかに18年にすぎません。その後戦乱が相次ぎ、目まぐるしく政権が交代しました。南朝の宋・斉・梁・陳、北朝の北魏といった王朝は、非常に熱心に仏に仕えたにもかかわらず、その年代は非常に短命でした。ただ、梁の武帝のみは在位48年に及びました。しかしながら、三度も捨身を行い、宗廟のお祭りに生贄を用いず、一日一食と菜食の戒律を厳守していたにもかかわらず、最期は建康の台城で餓死し、国も滅んでしまいました。つまり、仏に仕えて福を求めたにもかかわらず、結果的に禍を得たのです。これらのことを見る限り、仏が信ずるに足りないことは、非常に明白な事なのです。
高祖皇帝が初めて隋の禅譲を受けた時、仏教を廃毀しようとされました。しかし当時の群臣の識見は高くなく、古代の聖王の道を深く究めることができず、廃仏のことは沙汰止みとなってしまいました。非常に残念なことです。考えてみますと、今上陛下は、英明な君主であり、数千年来ならぶ者のない名君にあらせられます。即位当初には、俗人を得度して僧尼や道士とすること、新たに寺院や道観を建てることを許されませんでした。私は、その当時、高祖皇帝の遺志を継承されるのは、今上陛下であろうと思っていました。今はたとえ直ぐに実行され得なくとも、どうしてそんな仏教をさらに繁栄させようとなさるのか、全く私には分かりません。
現在、陛下が仏舎利を鳳翔の法門寺から迎え、盛大に供養を行なわれると聞きました。私は暗愚ではありますが、陛下が仏に惑わされておられるのではなく、仏事を行うことで福徳を祈願されようとなされていることをよく理解しております。つまり、豊年万作で人民が安楽ならんことを願い、都の人士の為に珍奇な物を設けて彼らの慰みものとしようとされているのだ、ということをです。どうして、叡明無比な聖天子が、このような無知蒙昧な事がらを信じたりなされましょうか。しかしながら、人民たちは愚昧であり、惑いやすく覚りがたい存在です。かりそめに陛下の仏舎利を奉迎しようとなさっていることを見て、真実心から仏を信奉しているものと誤解いたして居るのです。皆が、大聖の天子ですら、一心に崇敬されているのだから、微賎な百姓が仏に身命を賭するのは当然だ、と言うのです。それで、燃頂や燃指を行なったり、群れをなして衣服を脱いで金銭を散財して、朝から夕に至っています。このような習いは、ただ後生の報いを恐れて行なっているだけであり、老若の別なく奔走し、生業を怠っている有様です。もしも即刻禁圧を加え、諸寺に触れを出さなければ、必ずや腕を絶ち身を焼いて仏に供養するものが現われます。中華の風俗を損傷し、諸外国の物笑いとなることは、些細なこととは言えません。
仏というものは、本来が夷狄の人であり、中国とは言語や風俗が異なります。口では古代の聖王の箴言を述べず、身には聖王のような礼にかなった風習をそなえて居りません。君臣の義や父子の情すらも知りません。もし仮に、その身が今なお存在しており、彼の国の国命を奉じて都に来朝したとしても、陛下が接見されて、一席を設けられ、一襲ねの衣を賜い、護衛して国境の外に出させれば、大衆を惑わすこともないのです。況やその身は既に死して久しく、枯れはてた骨に過ぎません。どうして、宮中に入れていいと言うことがありましょうか。孔子は「鬼神は敬して之れを遠ざく」と仰っております。いにしえの諸侯も、巫祝たちを心から信奉するなどということはありませんでした。御史たちが仏舎利奉迎の非を取り上げないのを、私は実に心より恥じいっております。この骨を水や火に投じ、未来永劫に禍根を絶たれることを願ってやみません。天下の人士に対して、大聖人の為されることは、凡人より万万倍も優れているさまをお見せ下さい。それこそ、なんと盛大なことでしょう、なんと痛快なことでしょう。仏に若しも霊が存在して、祟りや禍いをなすようなことがあれば、その咎はすべて私の身に加えて下さい。天はご照覧になっております。私は恨んだり後悔したりいたしません。
— 韓愈、論佛骨表(翻訳[誰?])