コンテンツにスキップ

風雲 (駆逐艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
風雲
1942年3月28日の竣工時
1942年3月28日の竣工時
基本情報
建造所 浦賀船渠
運用者  大日本帝国海軍
艦種 一等駆逐艦
級名 夕雲型駆逐艦
艦歴
発注 1939年度(④計画
起工 1940年12月23日
進水 1941年9月26日
竣工 1942年3月28日
最期 1944年6月8日、ダバオ南南東沖のフィリピン海にて戦没
除籍 1944年7月10日
要目
基準排水量 2,077 トン
公試排水量 2,520 トン
全長 119.3 m
最大幅 10.8 m
吃水 3.76 m
主缶 ロ号艦本式缶×3基
主機 艦本式タービン×2基
出力 52,000 馬力
推進器 スクリュープロペラ×2軸
最大速力 35.0 ノット
燃料 重油:600 t
航続距離 5,000 海里/18ノット
乗員 225名
兵装
レーダー 22号電探
ソナー 九三式水中聴音機
九三式三型探信儀
テンプレートを表示

風雲(かざぐも)は[1]大日本帝国海軍駆逐艦[2]

概要

[編集]

日本海軍浦賀船渠で建造し、太平洋戦争で運用した駆逐艦[2]夕雲型駆逐艦(一等駆逐艦)の3番艦である[3]1940年(昭和15年)12月末に起工、1942年(昭和17年)3月28日に竣工し、第10駆逐隊に所属した[4][5]。甲型駆逐艦4隻(秋雲夕雲巻雲、風雲)を揃えた第10駆逐隊は[6][7]、第十戦隊に所属して6月上旬のミッドウェー作戦に従事する[8][2]南雲機動部隊壊滅時、「風雲」は僚艦と共に空母「飛龍」の救援と救助をおこなった[9][10]

第三艦隊新編後、第10駆逐隊は引続き第十戦隊に所属して第二次ソロモン海戦南太平洋海戦に参加した[2]第三次ソロモン海戦では、第七戦隊司令官西村祥治少将の指揮下で重巡洋艦「鈴谷」と「摩耶」を護衛し、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場砲撃作戦に従事した。その後、ソロモン諸島や東部ニューギニアでの輸送作戦に従事した(鼠輸送)。

1943年(昭和18年)2月初頭、第10駆逐隊はガ島撤退作戦に参加する[2][11]。 7月、アリューシャン方面に派遣され、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将の指揮下でキスカ島撤退作戦に従事する。つづいて南方方面の戦局悪化(ニュージョージア島の戦い)にともない、ソロモン諸島に進出した。10月上旬には第三水雷戦隊司令官伊集院松治大佐(旗艦「秋雲」)の指揮下で第二次ベララベラ海戦に参加した[12]

日本海軍は10月31日附で駆逐艦「朝雲」を第10駆逐隊に編入し[13]、駆逐艦3隻編制(秋雲、風雲、朝雲)となった[14][15][16]。「風雲」はろ号作戦にともないラバウルに進出[17]タロキナ逆上陸作戦ラバウル対空戦闘に参加した。その後、第10駆逐隊は艦隊の護衛任務に従事した。

1944年(昭和19年)4月11日、「秋雲」が米潜水艦の雷撃で撃沈され[18]、10駆は風雲と朝雲に減少する[19]。 6月初旬、「風雲」と「朝雲」は渾作戦に従事して戦艦「扶桑」や重巡洋艦を護衛した[20][21]。第五戦隊(妙高羽黒)と共に行動中の6月8日[22]、「風雲」はダバオ沖合で米潜水艦「ヘイク」の魚雷攻撃を受け、沈没した[2][23]

艦歴

[編集]

竣工まで

[編集]

「風雲」は1939年度(④計画)仮称第118号艦として、浦賀船渠で建造された[24]1940年(昭和15年)12月23日、起工[25]1941年(昭和16年)9月10日附で「風雲」と命名[1]、同日附で夕雲型駆逐艦に類別された[26]。9月26日、進水した[25]1942年(昭和17年)1月20日、吉田正義中佐が艤装員長に任命される[27]。翌日、浦賀船渠の艤装員事務所は事務を開始した[28]。 3月27日、性能調査終了[29]。 3月28日、竣工した[30][31]。艤装員事務所を撤去する[32]横須賀鎮守府[33]。吉田も正式に駆逐艦長(初代)となった[34]

昭和17年の戦い

[編集]

「風雲」竣工直前の3月14日、日本海軍は夕雲型1番艦「夕雲」と2番艦「巻雲[35]により第10駆逐隊(司令・阿部俊雄大佐)を編制した[6][36]。「風雲」は3月28日の竣工と同時に横須賀鎮守府海面防備部隊直率部隊に編入され、同日附で第10駆逐隊に編入された[4][37]。阿部司令が着任するまで、吉田中佐(風雲艦長)が職務を代行する[38]。4月13日、着任した阿部司令は第10駆逐隊司令駆逐艦を風雲に指定した[5]。 4月15日、陽炎型駆逐艦19番艦の「秋雲」が第10駆逐隊に編入され、定数4隻(秋雲、夕雲、巻雲、風雲)となった[7]

4月10日、戦隊改編により第一航空艦隊(司令長官・南雲忠一中将、通称・南雲機動部隊)の直衛に任ずる部隊として第十戦隊(司令官・木村進少将)が編制され、第10駆逐隊も第十戦隊に所属した[39][8]。これまでの第一水雷戦隊(司令官・大森仙太郎少将)に代わって南雲機動部隊の直衛に就く第十戦隊は、旗艦・軽巡「長良」以下[40]

  • 第10駆逐隊:司令・阿部俊雄大佐(第1小隊:1. 風雲、2. 夕雲、第2小隊:3. 巻雲、4. 秋雲)
  • 第17駆逐隊(第1小隊:1. 谷風、2. 浦風、第2小隊:3. 浜風、4. 磯風
  • 第7駆逐隊(第1小隊:1. 、2. 、第2小隊:3.

が所属していた[41][42][注 1]

4月18日のドーリットル空襲時、第10駆逐隊(夕雲、巻雲、風雲)[注 2]は前進部隊(指揮官・近藤信竹第二艦隊司令長官)に編入され、重巡洋艦戦隊や空母「祥鳳」等とともに米軍機動部隊追撃のため横須賀を出動した[45]。だが接敵できず、前進部隊各部隊・各艦は4月22日から23日にかけて横須賀に帰投した[46]

第十戦隊は6月5日のミッドウェー海戦が初陣となったが、まず主力空母3隻(赤城加賀蒼龍)がアメリカ軍機動部隊艦載機SBD急降下爆撃機[47]の空襲を受け、被弾炎上した[48][49]戦闘詳報では、「赤城」に座乗の南雲長官・草鹿龍之介参謀長・源田実参謀、淵田美津雄赤城飛行長等の司令部人員を救助するため「7時45分に『野分』が赤城に接近した」と記録している[50][51]。『戦史叢書、第43巻ミッドウェー海戦』によれば、司令部は「野分」に移乗したのち「長良」に移動して8時30分に将旗を掲げたとする[52][53]。だが司令部附信号兵やカメラマンの証言によると、司令部は駆逐艦を経由せず、装載艇で直接「長良」に移動している[54]。旗艦変更にあたり、草鹿は「最初は附近の駆逐艦にでもと思ったのであるが、折よく安否を気づかって接近してきた第十戦隊旗艦『長良』に移乗することにした。」と回想している[55]。機動部隊側の記録や回想に対し、吉田正義(当時、風雲駆逐艦長)[56]は「南雲長官以下司令部は赤城内火艇で風雲(第10駆逐隊司令駆逐艦)に移乗、風雲に将旗を掲げたのち第十戦隊旗艦の長良へ移動した」と回想している[57][58]

空母3隻被弾炎上後、第10駆逐隊は第二航空戦隊(司令官・山口多聞少将)の空母「飛龍」の支援に従事した[59]。最終的に「飛龍」も被弾炎上し[60][61]、「風雲」と「谷風」は「飛龍」の左舷に横付けして消火活動に協力した[62][63]。長益(当時、飛龍航海長)は、消火作業をおこなった駆逐艦の艦名について、「風雲、巻雲」と回想している[64]。「飛龍」の周囲には駆逐艦4隻(艦名不詳)がいて、消火に協力したという[65]。また「飛龍」の御真影と負傷者の一部は、「風雲」に収容された[63]。鎮火の見込みが立ったため加来止男飛龍艦長は「風雲」に離れるよう下令したが、その2時間後に誘爆が起ったという[66]。小林勇一(当時、飛龍戦闘機整備分隊長)は「やれもしない水雷戦隊の夜襲などと言わず、あの時そのまま駆逐艦に消火を続けさせ、母艦を徹底的に冷やしたら、『飛竜』を沈めずに持って帰れたのに」と回想している[67]。草鹿参謀長は「冷静に考えれば、『飛龍』の被爆と同時に、艦を救い人を救って、速やかに引きあげるべきであった。そのときも、そう思わぬでもなかったが、戦が不利だからといって、速やかに引きあげるということは、なんとなく軍人としてできにくいことであった。」と回想している[60]

山口司令官と加来艦長は総員退去を下令、「風雲」と「巻雲」は生存者を収容した[65][68]。「飛龍」接舷時、過失により接触事故がおこり、「風雲」はマストや測距義に損傷を受けている[66]。山口司令官、加来艦長は飛龍から脱出せず、戦死した[69][70][71]。「風雲」のカッターボートが「飛龍」右舷にいたところ上から拳銃が落ちてきたため、「飛龍」副長の鹿江隆大佐は「加来艦長はこの拳銃で自決したのでは」と語ったという[66]。なお、「飛龍」は「巻雲」によって雷撃処分されたが[72]、すぐには沈没しなかった[66]。アメリカ軍に鹵獲されるのを防ぐため、「谷風」が飛龍処分を下令され捜索に向かったが、発見できずに引き返した[73][74]。沈没寸前に「飛龍」から脱出した機関科生存者39名(4名漂流中死亡)は、のちにアメリカ軍によって救助された[75][76]。吉田は「飛龍を確実に処分して生存者を救助すればよかった」と回想している[66]。第十駆逐隊は6月13日にへ帰投した[77]

7月14日、第一航空艦隊が解隊されて第三艦隊が編制され[78]、引き続き南雲中将が第三艦隊司令長官、草鹿少将が同参謀長を務めた[79][70]。この再編にともない第十戦隊から第7駆逐隊が外れ、第4駆逐隊および第16駆逐隊が編入される。第十戦隊は軽巡長良以下駆逐艦16隻[80][注 3] という戦力を揃えた[81]

ガダルカナル島の戦い

[編集]

1942年(昭和17年)8月7日、連合軍はウォッチタワー作戦によりガダルカナル島およびフロリダ諸島フロリダ諸島の戦い)に来襲、同諸島に上陸して橋頭堡を築きガダルカナル島の戦いが始まった[82][83]。 8月16日、第三艦隊は柱島泊地を出撃してトラック諸島に向かう[84][85]。アメリカ機動部隊が出現した事によりトラック泊地寄港をとりやめ、ソロモン諸島東方海域に急行した[86][87]。8月24日の第二次ソロモン海戦では、空母の直衛を務めた[注 4]。 9月、「風雲」は「秋雲」とともにトラック周辺で警戒行動や対潜活動を行った[89]。9月中旬、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場に対する日本陸軍総攻撃を支援するため、前進部隊(指揮官・近藤信竹第二艦隊司令長官)と機動部隊(南雲長官)はトラック泊地を出撃した[90][91]。総攻撃失敗により、前進部隊と機動部隊は一部艦艇をソロモン諸島に派遣し、9月23日トラック泊地にもどった[92]

10月26日の南太平洋海戦では、機動部隊・前衛部隊[注 5]に配備される[93]

南太平洋海戦の後、11月3日付で「秋雲」以外の第10駆逐隊(夕雲、巻雲、風雲)は第二水雷戦隊(司令官・田中頼三少将)、第七戦隊(司令官・西村祥治少将)とともに外南洋部隊に加勢された[94][注 6]。 11月3日、重巡「鈴谷」と「摩耶」、第二水雷戦隊、第10駆逐隊(夕雲、風雲)はトラック泊地を出撃、11月5日にショートランド諸島に到着し[96]、外南洋部隊(指揮官・三川軍一第八艦隊司令長官)の指揮下に入った[97]。第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将は外南洋増援部隊指揮官の職務を田中少将に引き継ぎ、第三水雷戦隊各艦と共にトラック泊地へ戻った[98]

ガダルカナル島への駆逐艦輸送作戦(鼠輸送)に際して、第10駆逐隊は外南洋部隊増援部隊(指揮官二水戦司令官)に編入された[99]。田中司令官は増援部隊の編制変更をおこない、甲増援隊によるガダルカナル島輸送作戦を命じた[99]。今次輸送作戦における甲増援隊は、「風雲」を含む駆逐艦11隻で実施された[注 7]によって実施された[99]。 11月6日深夜、甲増援隊はショートランド泊地を出撃した[99][100]。途中でB-17の空襲を受けたが被害はなく、深夜にガ島に到着するとタサファロング隊とエスペランス隊にわかれる[101]。エスペランス隊(夕雲、風雲)は糧食を降ろしたのち、175名の傷病兵と便乗者(戦史叢書では海軍69名・陸軍3名)を乗せて8日昼前に帰投した[102]

11月10日9時、第10駆逐隊司令・阿部俊雄大佐指揮下の駆逐艦5隻(夕雲、巻雲、風雲、巻波、涼風)は、第38師団長・佐野忠義陸軍中将を含む陸兵600名、物資、第十一戦隊弾着観測員(飛行場砲撃時)を搭載してショートランドを出撃する[103]。空襲を受けたが被害はなく、揚陸地点でアメリカ軍魚雷艇4隻と交戦しこれを撃退、揚陸に成功し、傷病者585名を収容して11日午前中に帰投した[104]

11月中旬の第三次ソロモン海戦では、外南洋部隊支援隊指揮官・西村少将の指揮下、駆逐艦4隻(風雲、夕雲、巻雲、朝潮[注 8]で巡洋艦3隻(鈴谷、摩耶、天龍)を護衛した[107]。 11月13日深夜から約20分間、鈴谷と摩耶はガダルカナル島ヘンダーソン飛行場に対する対地砲撃を実施したが、決定的な損害を与えられなかった[108][109]。 14日午前6時頃、支援隊(重巡2、駆逐艦4)は主隊とニュージョージア島南方で合流し、ショートランド泊地へむかう[108][110]。だがニュージョージア諸島南方で、ヘンダーソン基地航空隊と空母「エンタープライズ」艦載機の空襲をうける[111]。対空戦闘により重巡「衣笠」が沈没した[112]。ほかに「鳥海」「摩耶」「五十鈴」等が損傷を受けた[108]。主隊・支援隊はショートランド泊地で急速補給をおこなったのち輸送船団(第二水雷戦隊)救援に向かうが、アメリカ艦隊と直接交戦する事はなかった[113][114]

第三次ソロモン海戦に勝利した連合軍は[115]パプアニューギニアブナに上陸作戦を敢行した(ブナとゴナの戦い[116][117]。連合軍の反撃を受けて、連合艦隊はガダルカナル島よりもニューギニア方面を重視する姿勢をとる[118]。 11月17日、風雲を含む外南洋部隊指揮官直率部隊[注 9]はラバウルに到着した[119][120]。第八艦隊司令部は陸上に移り[121]、4隻(鳥海、五十鈴、涼風、望月)はトラック泊地へ回航、他の巡洋艦(天龍)や駆逐艦はニューギニア方面の作戦に従事することになった[119][122]。同日夜、輸送部隊は駆逐艦5隻(夕雲、巻雲、風雲、親潮、陽炎)で出撃し、バサブア(ブナ地区)へ約1,000名を揚陸させた[120]

11月22日、輸送隊の駆逐艦4隻(巻雲、風雲、夕雲、荒潮)は陸兵800名のバサブア輸送を実施した[123]。同日、三川中将は新たな兵力部署を発令する[124][125]。 第10駆逐隊を含め、東部ニューギニア方面護衛隊[注 10]は、第十八戦隊司令官松山光治少将(旗艦「天龍」)の指揮下に入った[124]

11月28日、第10駆逐隊司令指揮下の駆逐艦4隻(夕雲、巻雲、風雲、白露)は、独立混成第21旅団[126](兵団長・山県栗花生陸軍少将[127]。今次輸送作戦では「巻雲」乗艦)の陸兵輸送作戦を実施することになった[128]。出撃後、29日昼間にB-17の空襲を受ける[129]。駆逐艦「白露」大破・「巻雲」至近弾損傷の被害をうけ、輸送作戦は中止された[129]。兵団長乗艦の「巻雲」は協議のため先に帰投し、「風雲」は「白露」の護衛を「夕雲」と「春雨」(ラバウルから救援のため出撃)にひきつぎ、11月30日14時ラバウルに単独帰投した[129]。 12月初頭におこなわれた第二次輸送作戦も不成功に終わった[130]。 12月8日、駆逐艦6隻(風雲、夕雲、朝潮、荒潮、磯波)で出撃した[131]。だが重爆の空襲により「朝潮」と「磯波」が損傷し、天候や敵機の触接等を理由に作戦は中止された[132]。 12月11日、駆逐艦5隻(風雲、夕雲、荒潮、磯波、電)でラバウルを出撃する[133]ニューアイルランド島カビエンを経由したのち、アドミラルティ諸島(ロレンガウ)で支援隊(熊野、鈴谷、望月)から燃料補給を受けつつ[134]、迂回路をとってブナへ向かう[135]。14日午前2時より揚陸を開始、輸送作戦は成功した[136]。被害は空襲至近弾の荒潮のみだった[136][137]

ニューギニア方面の作戦を進展させるため、日本軍はニューギニア島北岸のマダンウェワクを占領して飛行場を設置し、ラエ、サラモアに対する後方基地として強化することにした[138]。だが、ポートモレスビーの連合軍基地から激しい空襲を受ける可能性があり、ウエワク攻略部隊の上空警戒のため空母「隼鷹」(第二航空戦隊)と護衛部隊(阿賀野、磯風、浜風、村雨[注 11]を派遣した[139][140]。 第10駆逐隊(巻雲、夕雲、風雲)と輸送船「清澄丸」はウェワク攻略を、駆逐艦4隻と輸送船(愛国丸護国丸)および軽巡天龍がマダン攻略を実施した[139]。ウェワク攻略部隊は12月16日12時ラバウルを出撃、マダン攻略部隊は同日18時にラバウルを出撃した[141]。隼鷹航空隊の援護を受けたウェワク攻略部隊は、特に大きな戦闘もなく12月18日夜にウェワク揚陸を実施、12月21日朝にラバウルへ戻った[142]。一方、マダン攻略部隊は12月18日の空襲で「護国丸」が中破、アメリカ潜水艦「アルバコア (USS Albacore, SS-218) 」の雷撃で軽巡洋艦「天龍」(第十八戦隊旗艦)を喪失した[142]。本作戦終了とともに第10駆逐隊は前進部隊に編入された[142]

昭和18年の戦い

[編集]

1943年(昭和18年)1月18日、第10駆逐隊司令は阿部俊雄大佐から吉村真武大佐に交代した[143]。 第10駆逐隊は吉村司令のもとでガダルカナル島からの撤退作戦に参加した(ケ号作戦[11][144]。 1月23日、駆逐艦5隻(秋雲、夕雲、巻雲、風雲、雪風)は南東方面部隊(指揮官・草鹿任一南東方面艦隊司令長官)に編入され、そのまま外南洋部隊に所属する[145]。2月1日の第一次作戦および2月4日の第二次作戦ではエスペランス岬へ向かう輸送隊(風雲、巻雲[注 12]、夕雲、秋雲、谷風、浦風、浜風、磯風)に加わり、2月7日の第三次作戦ではラッセル諸島からの撤退作戦を行った[147]。撤退作戦は成功したが、第一次作戦で「巻雲」が触雷し「夕雲」により雷撃処分され、また駆逐艦「巻波」も空襲で大破した[11](三水戦司令官は旗艦を駆逐艦「白雪」に変更)[148]。第二次作戦では駆逐艦「舞風」が大破[149][150]、第三次作戦で「磯風」が中破した[11][151]

「巻雲」を喪失した第10駆逐隊は、当面の間3隻編制(秋雲、夕雲、風雲)で行動を続ける[14]。第10駆逐隊は、ひきつづき南東方面部隊隷下の外南洋部隊増援部隊に所属した[152]。同時期の日本軍は、日本陸軍部隊の中国大陸東岸~南東方面輸送作戦を実施しており、これを丙号輸送と呼称した[153](丙号輸送部隊指揮官は、第九戦隊司令官岸福治少将)[154]。 2月14日、外南洋部隊指揮官はウェワク輸送作戦の兵力部署を下令、ケ号作戦に従事していた駆逐隊・駆逐艦は丙号輸送部隊に編入された[155][156]。第10駆逐隊も丙号輸送部隊に組み込まれ、輸送部隊指揮官は「夕雲」と「風雲」を丙三号輸送作戦の第一輸送隊(北上大井、讃岐丸、相良丸)の護衛に加えた[155][157]。丙三号輸送は、第41師団(師団長・阿部平輔中将)をウェワクへ輸送する任務である[158][157]。輸送部隊に編入された駆逐艦は2月17日にパラオに到着[157]。第一輸送隊は2月17日にパラオから出発し、2月20日にウェワクに到着した[159]

3月上旬、日本軍はビスマルク海海戦の大敗をうけて南東方面への輸送作戦を変更する[160][161]。第10駆逐隊司令・吉村大佐を指揮官とする駆逐艦5隻(秋雲、風雲、夕雲、五月雨皐月)は、ウェワクとマダンの間にあるハンサ湾へ第21師団(師団長・青木重誠中将)の将兵を輸送する輸送6隻[注 13]の護衛を行った(第一次ハンサ輸送[162][163]。 3月8日にパラオを出発、陸軍戦闘機の掩護をうけて3月12日朝にハンサ湾到着、揚陸がおこなわれる[164]。護衛部隊は二分割される[165]。翌日未明、秋雲と五月雨は輸送船団を護衛してパラオへむかい[注 14]、駆逐艦3隻(風雲、夕雲、皐月)はラバウルに移動、3月14日朝に到着した[165]。 3月19日、「風雲」と「夕雲」はツルブへ弾薬、糧食を揚陸した[166]。その後はラバウルを経てショートランドへ再進出し、コロンバンガラ島への輸送作戦に加わる[167]。4月1日、駆逐艦5隻(五月雨、朝雲、夕雲、風雲、秋雲)でコロンバンガラ輸送を実施した[168]。4月3日、「風雲」はブイン入港時に触雷し第一缶室と機械室の一部に浸水した[169]。ブインにはアメリカ軍のTBFが3月20日と21日に機雷を敷設していた[170]。これ以降、輸送部隊から外された[167]。4月28日、横須賀に帰投した。5月、修理をおこなった[171]

5月29日、アッツ島地上戦によりアッツ島の日本軍守備隊は玉砕した[172]。 6月10日、第10駆逐隊(秋雲、風雲、夕雲)は北方部隊(指揮官・河瀬四郎第五艦隊司令長官)に編入された[173]幌筵島に到着と共に、水雷部隊(指揮官・第一水雷戦隊司令官木村昌福少将)に編入された[173][174]。同時期に行われていたキスカ島からの第一期撤収作戦は、投入された潜水艦が次々に損傷し、6月23日に中止された[175][176]。そこで水雷戦隊の出番となり、第二期ケ号作戦が実施される[177]。第10駆逐隊は、途中反転の第一次作戦、成功した第二次作戦ともに参加した。収容部隊(阿武隈〈木村少将旗艦〉、木曾島風[178]朝雲薄雲長波、秋雲、夕雲、風雲若葉[注 15]初霜[注 16]五月雨[180]、主隊(多摩[181]、燃料補給部隊(国後、日本丸)という部隊区分だった[182]。他の艦は収容した陸軍の装備を全て捨てていたが、「風雲」のみ発動艇を回収し、さらに陸戦隊が飼っていたキツネも持ち帰ったという[137]。このキツネは上野動物公園に寄贈された[137]。撤退作戦を終えた後、第10駆逐隊は8月3日付で機動部隊に復帰した[183]。横須賀を経て再び南方へと向かった[184]

9月15日附で「風雲」駆逐艦長は吉田中佐から橋本金松少佐(当時、「白露」駆逐艦長)[185]に交代した[注 17]。 9月20日、「風雲」は第三水雷戦隊(司令官・伊集院松治大佐、旗艦「川内」)の指揮下に入り、第10駆逐隊が揃う[186][187][注 18]。間もなくコロンバンガラ島からの撤退作戦である「セ号作戦」に参加した[188](セ号作戦の行動と経過詳細は当該記事を参照)。 9月21日附で吉村は第10駆逐隊司令の職務を解かれ[注 19]天野重隆大佐(8月20日まで第21駆逐隊司令)[190]に交代する[191]。 9月28日夜と10月2日夜に二度にわたって行われた作戦では夜襲部隊(指揮官・伊集院大佐、旗艦「秋雲」)として敵艦隊の出現に備えた[192]。連合軍の巡洋艦や水雷戦隊との間で小競り合いがあった程度で特筆すべき海戦は生起せず[193]、セ号作戦は成功裡に終わった[194]

戦いは間を置かず続けられ、日本軍はベララベラ島からの撤退作戦を実施した[12][195]。10月6日未明にラバウルを出撃し、ブーゲンビル島南方海域で欺瞞航路をとった後、ベララベラ島近海に向かった[196]。増援部隊指揮官・伊集院大佐(「秋雲」座乗)は夜襲隊(秋雲、風雲、夕雲、磯風、時雨、五月雨)を指揮して戦闘海域へ向かった[197]。同日夜、フランク・R・ウォーカー英語版大佐率いる第42駆逐群[198]の先制攻撃を受けて夜間水上戦闘が始まった[199](日本側呼称第二次ベララベラ海戦、連合軍呼称ベララベラ島沖海戦[12][200]。当時の日本側夜襲部隊陣形は、「秋雲」(三水戦旗艦)-「磯風」-「風雲」-「夕雲」の単縦陣であったという[201]。戦闘開始後、「風雲」に後続していた「夕雲」が第42駆逐群の集中砲火を浴びて沈没するが、アメリカ駆逐艦「シャヴァリア (USS Chevalier, DD-451) 」に「夕雲」の魚雷が命中して第42駆逐群の陣形は乱れ始めた[202]。「風雲」は二番砲塔に被弾(戦死1、負傷者数名)、使用不能となった[203][204]。甲型3隻(秋雲、磯風、風雲)は別働の第27駆逐隊(時雨、五月雨)[205]と共に駆逐艦「セルフリッジ英語版 (USS Selfridge, DD-357) 」と「オバノン (USS O'Bannon, DD-450) 」に対して魚雷を発射したが、距離が遠かったため命中しなかった[206][203]。「風雲」は「夕雲」の生存者を救助したが[207]、生存者の一部はアメリカ軍にも救助されている[203]。「夕雲」の沈没により、第10駆逐隊は「風雲」と「秋雲」の2隻となった[15]

ラバウルに帰投後、「風雲」「秋雲」10月7日限りで外南洋部隊(第八艦隊、第三水雷戦隊)の指揮下から離れ、原隊に復帰した[208][209]。「風雲」は「秋雲」とともにツルブへの輸送作戦を行った後[210][211]、第三艦隊(司令長官小沢治三郎中将)に合流してエニウェトク環礁へ進出した[210][212]。 10月28日、連合艦隊はろ号作戦を発動する[17][213]。第一航空戦隊の航空隊をラバウル陸上基地に転用し、第十戦隊や第二水雷戦隊から一部艦艇を抽出、一航戦の基地員や物件をトラックからカビエンもしくはラバウルへ輸送することになった[214][215]。「風雲」と駆逐艦「大波」は第二部隊として10月31日にトラックを出発、11月1日カビエンに到着した[214][216]

11月1日、南東方面部隊はブーゲンビル島タロキナ逆上陸作戦に関連し、第三襲撃部隊(阿賀野、若月初風、風雲、大波、長波)を編成した[217]。だが「風雲」と「大波」は輸送作戦に従事していたので、同日深夜に生起したブーゲンビル島沖海戦には参加できなかった[216]。ラバウルに進出した「風雲」はタロキナ逆上陸作戦部隊に加わる[218]。同時期にラバウルへ進出した第二艦隊司令長官・栗田健男中将指揮下の重巡洋艦戦隊は、11月5日のラバウル空襲により大打撃を受け[219]、即日ラバウルを撤収した[220]。ラバウルに残った水雷戦隊でタロキナ逆上陸作戦は続けられ、第一支援隊(阿賀野、若月、浦風)として輸送作戦を支援した[221]。11月11日、米軍機動部隊は再度のラバウル空襲を敢行、日本側は駆逐艦「涼波」が沈没するなど損害を受ける[222]。第十戦隊・第二水雷戦隊の大部分はラバウルから退却した[223]

「風雲」はトラックに帰投後、タラワ地上戦にともない機動部隊・遊撃部隊各艦と共にマーシャル諸島へ進出した[224]。その後、駆逐艦3隻(風雲、秋雲、山雲)は戦艦「大和」と空母「翔鶴」を護衛してトラックを出港、12月17日に横須賀へ帰投した[225]。12月21日、司令駆逐艦は「風雲」から「秋雲」にかわった[226]。その後、「風雲」は東京石川島造船所で修理、対空兵器増設、電探装備工事を行った。

昭和19年の戦い

[編集]

ろ号作戦実施中の1943年(昭和18年)10月31日附で満潮型駆逐艦「朝雲」が第10駆逐隊に加入、10駆は3隻編制(風雲、秋雲、朝雲)となる[16]。修理を終えた後の1944年(昭和19年)1月17日、「風雲」と「秋雲」は横須賀を出港し、「翔鶴」を瀬戸内海まで護衛した[227]。2月6日、桜部隊(瑞鶴、翔鶴、筑摩矢矧、秋雲、風雲、朝雲、初月、若月)として洲本沖を出撃し、2月13日昭南に到着した[228][229][230]。リンガ泊地で訓練に従事するが、「瑞鶴」に修理が必要となったため、2月20日に第10駆逐隊は「瑞鶴」を護衛して内地にむかった[231]。2月27日、呉に到着する[231]。 3月7日、第10駆逐隊は「瑞鶴」、重巡「最上」、第三戦隊(司令官・鈴木義尾中将)の戦艦2隻(金剛榛名)を護衛して瀬戸内海を出撃、リンガ泊地に向かい、3月15日到着した[231][232]。 3月20日附で第10駆逐隊司令天野重隆大佐は第61駆逐隊司令へ転任し、後任の司令は赤澤次壽雄大佐(当時、「涼月」駆逐艦長)となった[233]。3月25日、赤澤大佐は司令駆逐艦を「秋雲」から「風雲」に変更する[234]。リンガ泊地に到着後、第10駆逐隊は第十戦隊(旗艦「矢矧」)とともに航空戦隊との合同訓練に従事した[231][235]。 4月11日、「秋雲」がアメリカ潜水艦「レッドフィン (USS Redfin, SS-272) 」[236]の雷撃で撃沈された[18][237]。第10駆逐隊は風雲と朝雲の2隻となった[19]。5月12日にリンガ泊地を出撃してタウイタウイに進出し、タンカー護衛と対潜掃討に従事した[238]

この頃、ビアク島を巡って攻防が繰り広げられており[239]、帝国海軍は渾作戦を発動してビアク島救援作戦を展開[240][241]。 5月30日付で第10駆逐隊(風雲、朝雲)は渾部隊(指揮官・左近允尚正第十六戦隊司令官、旗艦「青葉」)に編入される[242]。間接護衛隊の戦艦「扶桑」と第10駆逐隊(風雲、朝雲)、警戒隊(指揮官・第五戦隊司令官橋本信太郎中将)の第五戦隊(妙高羽黒)と第27駆逐隊(春雨、五月雨、白露、時雨)[20]は、タウイタウイからダバオへ移動した[243][244]。 6月2日、警戒隊と間接護衛隊(扶桑、風雲、朝雲)は、輸送隊(青葉、鬼怒敷波浦波)等と共にダバオを出撃する[245][246]B-24爆撃機に触接されたため[247]豊田副武連合艦隊司令長官は6月3日夜に作戦の中止を発令した[248][249]。「敵機動部隊発見」は誤報と判明したため渾作戦は再開されたが、第五戦隊と間接護衛隊(扶桑、風雲、朝雲)は原隊復帰[248]、つづいてダバオ回航を命じられた[250]。 6月5日、警戒隊と間接護衛隊(扶桑、風雲、朝雲)はダバオに到着した[251][252]。このあと渾作戦は駆逐艦6隻のみで実施されたが空襲で「春雨」(第27駆逐隊司令戦死)を喪失し[253]、さらにアメリカの巡洋艦部隊に迎撃されて撃退された[254](第二次渾作戦)[255][256]。そこで、連合艦隊は第一戦隊司令官宇垣纏中将の大和型戦艦「大和」と「武蔵および早川幹夫少将指揮下の第二水雷戦隊なども投入して[257]、上陸船団撃破と機動部隊の誘い出しを図る事となった[258]

6月7日夕刻、連合艦隊は電令作第124号をもって第五戦隊(妙高、羽黒)と第10駆逐隊(風雲、朝雲)を渾部隊に編入し[259]ハルマヘラ島バチャン泊地への進出を命じた[22]。同日深夜、第10駆逐隊(風雲、朝雲)は第五戦隊(妙高、羽黒)を護衛してダバオを出撃した[260][21]。この時、ダバオ湾英語版口ではアメリカ潜水艦「ヘイク (USS Hake, SS-256) 」が哨戒を行っていた[236]。 翌6月8日未明、「ヘイク」のレーダーは湾の中央を高速で移動する4つの目標を探知[261]。午前2時12分、北緯06度03分 東経125度57分 / 北緯6.050度 東経125.950度 / 6.050; 125.950の地点で魚雷を6本発射した[262]。うち2本が「風雲」の左舷中央部と左舷艦尾に命中、搭載の魚雷が誘爆し[263]、4分で沈没した[264]。日本側記録によれば、午前3時13分に最初の魚雷が命中して航行不能になり、午前3時35分に再度の雷撃をうけて沈没した[265]

ダバオ湾を警戒中の駆逐艦「響」と「秋霜」は、駆逐艦「浜風」を通じて救援要請を受け[266]、直ちに出動する[267]。各艦は「朝雲」と共に救助活動に従事した[23]。乗員のうち136名は「秋霜」に移乗してダバオへ向かったが[268]、他の者は全員戦死した。「風雲」座乗中の第10駆逐隊司令赤沢次寿雄大佐も戦死した(少将に進級)[269][270]

「風雲」は7月10日附で夕雲型駆逐艦、帝国駆逐艦籍から除籍された[271][272]

歴代艦長

[編集]
艤装員長
  1. 吉田正義 中佐:1942年1月20日[27] - 1942年3月28日[34]
駆逐艦長
  1. 吉田正義 中佐:1942年3月28日[34] - 1943年9月14日[185]
  2. 橋本金松 少佐/中佐:1943年9月14日[185] - 1944年6月15日[273]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ だが第7駆逐隊は機動部隊から外されて北方部隊に所属しており、実際の機動部隊警戒隊(指揮官:第十戦隊司令官木村少将)は長良以下第10駆逐隊4隻、第17駆逐隊4隻、第四水雷戦隊/第4駆逐隊(司令・有賀幸作大佐:第1小隊〈野分〉、第2小隊〈萩風舞風〉)、燃料補給部隊という編成である[43][44]
  2. ^ 「秋雲」は南雲機動部隊を護衛しており、別行動。
  3. ^
    • 第4駆逐隊(嵐、野分、萩風、舞風)
    • 第10駆逐隊(秋雲、夕雲、巻雲、風雲
    • 第16駆逐隊(雪風時津風天津風初風
    • 第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)
  4. ^ 1942年8月14日発令の機動部隊軍隊区分によれば、本隊(翔鶴、瑞鶴、龍驤、第10駆逐隊〈風雲、夕雲、巻雲、秋雲〉、第16駆逐隊〈時津風、天津風、初風〉、秋風)[88]
  5. ^ 機動部隊前衛部隊は、第十一戦隊司令官阿部弘毅少将が指揮する。第十一戦隊(比叡、霧島)、第七戦隊(鈴谷)、第八戦隊(利根、筑摩)、第十戦隊(長良、秋雲、風雲、巻雲、夕雲、浦風、磯風、谷風)。
  6. ^ 「秋雲」は損傷艦(翔鶴瑞鳳筑摩熊野)や護衛の駆逐艦(秋月、第4駆逐隊、第17駆逐隊)と共に内地へ帰投している[95]
  7. ^ 第15駆逐隊司令佐藤寅治郎大佐が指揮する。
  8. ^ 本来ならば「朝潮」ではなく満潮が支援隊に編入されていたが、出撃前に泊地で空襲をうけ行動不能となっていた[105][106]。そこで、外南洋部隊指揮官・三川中将直率の外南洋部隊主隊(鳥海衣笠五十鈴、朝潮)から「朝潮」が第七戦隊の護衛にまわった[105]
  9. ^ 鳥海(第八艦隊旗艦)、夕雲、巻雲、風雲、親潮、陽炎。
  10. ^ 1942年11月22日時点の東部ニューギニア方面護衛隊は、駆逐艦朝潮荒潮春雨白露磯波早潮、夕雲、巻雲、風雲
  11. ^ 戦史叢書83 1975, p. 476では、母艦航空部隊について「隼鷹」「阿賀野」「磯風」「濱風」ほか艦名不詳の駆逐艦1隻とする。
  12. ^ 巻雲はケ号作戦第一次作戦で触雷、2月1日夜自沈[146]。第二次作戦以降の作戦には加わっていない。
  13. ^ 輸送船6隻の内訳は、「帝龍丸」「桃山丸」「旺洋丸」「阿蘇丸」「しどにい丸」「安昌丸」。
  14. ^ 3月13日18時50分、B-17の夜間空襲により「桃山丸」が沈没[164]、残船団は3月18日パラオに到着した。
  15. ^ 「国後」を起因とする多重衝突事故で損傷、単独で幌筵へ帰投[179]
  16. ^ 「国後」を起因とする多重衝突事故で損傷後、燃料補給部隊護衛にまわる[179]
  17. ^ 後日、吉田は第41駆逐隊(冬月涼月)司令として坊ノ岬沖海戦に参加する。
  18. ^ 「夕雲」と「秋雲」は昭和18年9月5日、先行して第三水雷戦隊の指揮下に入っていた。
  19. ^ 吉村真武大佐は、1943年10月11日より軽巡洋艦矢矧艤装員長[189]となる。

出典

[編集]
  1. ^ a b #達昭和16年9月 p.7
  2. ^ a b c d e f 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 93a風雲(かざぐも)
  3. ^ #艦艇類別等級表(昭和17年12月31日) p.4
  4. ^ a b #内令昭和17年3月(4)、p.42
  5. ^ a b 昭和17年5月1日(金)海軍公報(部内限)第4079号 p.2」 アジア歴史資料センター Ref.C12070411900 
  6. ^ a b #内令昭和17年3月(2)、pp.20-21
  7. ^ a b #内令昭和17年4月(4)、p.3
  8. ^ a b 戦史叢書43 1971, pp. 141–145主要幹部
  9. ^ 戦史叢書43 1971, pp. 379–382「飛龍」
  10. ^ 証言ミッドウェー 1999, pp. 329–331山本長官の誤算(吉田艦長証言)
  11. ^ a b c d 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 147奇跡のガ島撤退
  12. ^ a b c 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 150〔第二次ベラ・ラベラ海戦〕
  13. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 91朝雲(あさぐも)
  14. ^ a b #内令昭和18年3月(1) 、p.10
  15. ^ a b #内令昭和18年12月(1)、p.2
  16. ^ a b #内令昭和18年10月(5)、p.38
  17. ^ a b 戦史叢書62 1973, pp. 424–425第一航空戦隊の飛行機隊のラバウル進出
  18. ^ a b 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 93d秋雲(あきぐも)
  19. ^ a b #内令昭和19年6月(2)、p.12
  20. ^ a b 戦史叢書12 1968, pp. 494–495.
  21. ^ a b #あ号作戦日誌(2) pp.20-21
  22. ^ a b 戦史叢書12 1968, pp. 502–503.
  23. ^ a b #あ号作戦日誌(2) p.21
  24. ^ 福井 1983, p. 289.
  25. ^ a b #内令昭和17年5月(2)p.22
  26. ^ #内令昭和16年9月(1) p.47
  27. ^ a b 昭和17年1月20日(発令1月20日付)海軍辞令公報(部内限)第798号 p.25」 アジア歴史資料センター Ref.C13072083900 
  28. ^ 昭和17年1月26日(月)海軍公報(部内限)第4003号 p.11」 アジア歴史資料センター Ref.C12070410100 
  29. ^ #S1703横鎮日誌(4) p.19
  30. ^ #S1703横鎮日誌(1)pp.17-18
  31. ^ #S1703横鎮日誌(4) p.22
  32. ^ 昭和17年3月31日(火)海軍公報(部内限)第4056号 p.31」 アジア歴史資料センター Ref.C12070411100 
  33. ^ #内令昭和17年3月(3) p.42
  34. ^ a b c 昭和17年3月28日(発令3月28日付)海軍辞令公報(部内限)第835号 p.23」 アジア歴史資料センター Ref.C13072084700 
  35. ^ #S1703横鎮日誌(3) p.2
  36. ^ 昭和17年3月16日(発令3月14日付)海軍辞令公報(部内限)第828号 p.12」 アジア歴史資料センター Ref.C13072084600 
  37. ^ #S1703横鎮日誌(4), p.21
  38. ^ #S1703横鎮日誌(4) p.31
  39. ^ 戦史叢書43 1971, pp. 135–137空母の現状と編制
  40. ^ 昭和17年4月15日(水)海軍公報(部内限)第4068号 p.28」 アジア歴史資料センター Ref.C12070419900 
  41. ^ #ミッドウエー海戦戦闘詳報(1) p.8〔 第十戦隊戦時日誌(一)艦隊区分 〕
  42. ^ 戦史叢書43 1971, pp. 136–137.
  43. ^ #ミッドウエー海戦戦闘詳報(1) p.9〔 (二)軍隊区分(イ)五月二十日附機動部隊兵力部署 〕
  44. ^ 戦史叢書43 1971, p. 137第一機動部隊の編制
  45. ^ 戦史叢書29 1969, pp. 184–185前進部隊の作戦
  46. ^ 戦史叢書29 1969, p. 185.
  47. ^ 山口多聞 1989, pp. 222–224.
  48. ^ 磯風、特年兵 2011, pp. 42–45巨大空母の臨終
  49. ^ 草鹿 1979, pp. 139–140惨!わが空母群の壊滅
  50. ^ 戦史叢書43 1971, p. 373.
  51. ^ #第1航空艦隊戦闘詳報(2) p.28
  52. ^ 戦史叢書43 1971, p. 335.
  53. ^ 大和最後の艦長 2011, p. 153.
  54. ^ 牧島 2001, p. 261.
  55. ^ 草鹿 1979, pp. 140–141遂に旗艦変更に決す
  56. ^ 山口多聞 1989, p. 228.
  57. ^ 秋雲会 1986, p. 32.
  58. ^ 佐藤、艦長たち続篇 1984, p. 54.
  59. ^ 佐藤、艦長たち続篇 1984, pp. 55a-57空母「飛龍」の最期
  60. ^ a b 草鹿 1979, pp. 143–145転機を求めて東奔西走
  61. ^ 証言ミッドウェー 1999, pp. 245–248回避およばずついに被弾
  62. ^ 佐藤、艦長たち続篇 1984, p. 55b.
  63. ^ a b 山口多聞 1989, pp. 268–269.
  64. ^ 証言ミッドウェー 1999, pp. 248–250駆逐艦の応援消火もむなし
  65. ^ a b 戦史叢書43 1971, p. 380.
  66. ^ a b c d e 佐藤、艦長たち続篇 1984, p. 56.
  67. ^ 山口多聞 1989, p. 310.
  68. ^ #第1航空艦隊戦闘詳報(1) pp.42-44
  69. ^ 戦史叢書43 1971, pp. 382–383山口司令官の戦死
  70. ^ a b 山口多聞 1989, p. 296-297.
  71. ^ 証言ミッドウェー 1999, pp. 250–252艦と運命を共にした司令官
  72. ^ 戦史叢書43 1971, p. 381.
  73. ^ 戦史叢書43 1971, pp. 488–491主力方面敵空母機来襲
  74. ^ #第1航空艦隊戦闘詳報(2) p.2
  75. ^ 山口多聞 1989, p. 295.
  76. ^ 戦史叢書43 1971, pp. 383–385飛龍乗員の脱出、漂流
  77. ^ 木俣、水雷戦史 1986, p. 148.
  78. ^ 戦史叢書43 1971, pp. 637–642第三艦隊の新設
  79. ^ 草鹿 1979, pp. 150–151艦隊の編制替え
  80. ^ 草鹿 1979, p. 151.
  81. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 431–432聯合艦隊主力
  82. ^ 草鹿 1979, pp. 158–159米、反撃にたちあがる
  83. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 438–439ガダルカナル島及びツラギ上陸
  84. ^ 草鹿 1979, p. 161.
  85. ^ 戦史叢書49 1971, p. 541.
  86. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 545–547第三艦隊戦策
  87. ^ #S1704 第11戦隊戦時日誌 (1), p.21
  88. ^ 戦史叢書49 1971, p. 542.
  89. ^ 秋雲会 1986, p. 33.
  90. ^ 戦史叢書62 1973, p. 149前進、機動各部隊の「ガ」島北方海面への進出
  91. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 116–120前進部隊及び機動部隊
  92. ^ 戦史叢書83 1975, p. 143.
  93. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 273–275支援部隊の編制
  94. ^ 戦史叢書83 1975, p. 326昭和17年11月1日0821発令の聯合艦隊電令作第366号、翌日発令の聯合艦隊電令作第369号に依る。
  95. ^ #S1711七戦隊日誌(1), p.22
  96. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 350a-351七日の輸送
  97. ^ #S1711七戦隊日誌(1) p.6
  98. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 349–350.
  99. ^ a b c d 戦史叢書83 1975, p. 350b.
  100. ^ #S1711 第2水戦戦時日誌 (1), p.15
  101. ^ 戦史叢書83 1975, p. 351.
  102. ^ #S1711 第2水戦戦時日誌 (1), pp.15,16、木俣、水雷戦史 1986, p. 218
  103. ^ 戦史叢書83 1975, p. 353a十日の輸送
  104. ^ 戦史叢書83 1975, p. 353b.
  105. ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 377.
  106. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 339–341ショートランド泊地防空
  107. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 376–378「鈴谷、摩耶」のガ島飛行場砲撃と「衣笠」の喪失
  108. ^ a b c 戦史叢書83 1975, p. 378.
  109. ^ 重巡摩耶 2002, pp. 157–159.
  110. ^ #S1711七戦隊日誌(1) p.18
  111. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 381–383米航空部隊の戦闘
  112. ^ 重巡摩耶 2002, p. 161『重巡摩耶』では、風雲と巻雲が衣笠生存者を救助とする。
  113. ^ 戦史叢書83 1975, p. 398.
  114. ^ #S1711七戦隊日誌(1) pp.6-7
  115. ^ 重巡摩耶 2002, pp. 163–165.
  116. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 413–415連合軍のブナ上陸と南東方面部隊の対策
  117. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 415–418東部ニューギニア方面の連合軍の作戦
  118. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 418a-420聯合艦隊司令部の作戦指導
  119. ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 414.
  120. ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 419.
  121. ^ #S1711七戦隊日誌(1) p.46
  122. ^ #S1711七戦隊日誌(1) p.46
  123. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 423–425外南洋部隊兵力部署
  124. ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 424.
  125. ^ #S1711七戦隊日誌(1) p.52
  126. ^ 戦史叢書62 1973, p. 278独立混成第二十一旅団の南東方面への転用
  127. ^ 戦史叢書62 1973, p. 148中部太平洋方面に対する最初の陸軍部隊の進出下令
  128. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 426–427混成第二十一旅団第一次輸送
  129. ^ a b c 戦史叢書83 1975, p. 427b.
  130. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 427a-428混成第二十一旅団第二次輸送
  131. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 428–429混成第二十一旅団第三次輸送
  132. ^ 戦史叢書83 1975, p. 429.
  133. ^ 佐藤、艦長たち続篇 1984, p. 57.
  134. ^ #S1711七戦隊日誌(5) p.5
  135. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 447–448混成第二十一旅団第四次輸送
  136. ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 448.
  137. ^ a b c 佐藤、艦長たち続篇 1984, p. 58.
  138. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 474–476マダン、ウエワク攻略作戦
  139. ^ a b 戦史叢書83 1975, pp. 475–476.
  140. ^ #S1711七戦隊日誌(5) p.36、#S1712四水戦日誌(2) p.20
  141. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 476–478実施
  142. ^ a b c 戦史叢書83 1975, pp. 477–478.
  143. ^ 昭和18年1月18日(発令1月18日付)海軍辞令公報(部内限)第1036号 pp.9-10」 アジア歴史資料センター Ref.C13072089400 
  144. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 148〈表3〉ガダルカナル島撤収作戦
  145. ^ 戦史叢書83 1975, p. 534-536外南洋部隊兵力部署
  146. ^ 戦史叢書83 1975, p. 560.
  147. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 566–568第三次撤収(二月七日)
  148. ^ 磯風、特年兵 2011, p. 89.
  149. ^ 磯風、特年兵 2011, p. 90.
  150. ^ 大和最後の艦長 2011, pp. 214–216.
  151. ^ 磯風、特年兵 2011, p. 93.
  152. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 12–13.
  153. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 30–32.
  154. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 240–247丙号輸送の経過
  155. ^ a b 戦史叢書62 1973, p. 244.
  156. ^ 戦史叢書96 1976, p. 34-36.
  157. ^ a b c 戦史叢書96 1976, p. 35.
  158. ^ 戦史叢書62 1973, p. 243.
  159. ^ 戦史叢書96 1976, p. 36.
  160. ^ 戦史叢書07 1967, p. 176マダン輸送の再検討
  161. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 70–73.
  162. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 364–367ハンサ及びウエワク輸送の護衛
  163. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 72a-73.
  164. ^ a b 戦史叢書07 1967, p. 180-181.
  165. ^ a b 戦史叢書96 1976, p. 72b.
  166. ^ 戦史叢書96 1976, p. 74.
  167. ^ a b 秋雲会 1986, p. 40.
  168. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 132a-133.
  169. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 83–84.
  170. ^ 戦史叢書96 1976, p. 83.
  171. ^ 戦史叢書29 1969, p. 521.
  172. ^ 戦史叢書29 1969, pp. 562–563最終攻撃 5月19日~29日
  173. ^ a b 戦史叢書29 1969, p. 598.
  174. ^ #S1806 第1水戦戦時日誌 (1), p.8
  175. ^ 戦史叢書29 1969, p. 574.
  176. ^ 戦史叢書29 1969, p. 605.
  177. ^ 戦史叢書29 1969, pp. 593–594北方情勢
  178. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, pp. 161–162初陣、キスカ撤収作戦
  179. ^ a b 戦史叢書29 1969, p. 638.
  180. ^ 五月雨出撃す 2010, p. 226.
  181. ^ 重巡摩耶 2002, pp. 181–182.
  182. ^ 戦史叢書29 1969, pp. 607–614.
  183. ^ 戦史叢書29 1969, p. 666.
  184. ^ 秋雲会 1986, p. 47.
  185. ^ a b c 昭和18年9月15日(発令9月14日付)海軍辞令公報(部内限)第1216号 p.35」 アジア歴史資料センター Ref.C13072093000 
  186. ^ 戦史叢書96 1976, p. 290.
  187. ^ #S1807 第3水戦戦時日誌 (3), p.43
  188. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 293-295A表.
  189. ^ 昭和18年10月13日(発令10月11日付)海軍辞令公報(部内限)第1237号 p.17」 アジア歴史資料センター Ref.C13072093800 
  190. ^ 昭和18年8月21日(発令8月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1196号 p.2」 アジア歴史資料センター Ref.C13072092600 
  191. ^ 昭和18年9月22日(発令9月21日付)海軍辞令公報(部内限)第1221号 p.30」 アジア歴史資料センター Ref.C13072093100 
  192. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 297–300.
  193. ^ 戦史叢書96 1976, p. 302.
  194. ^ 戦史叢書96 1976, p. 286.
  195. ^ 磯風、特年兵 2011, p. 140.
  196. ^ 撃沈戦記 2013, pp. 213–214.
  197. ^ 撃沈戦記 2013, pp. 211–213「秋雲」旗艦となる
  198. ^ 木俣、水雷戦史 1986, p. 365.
  199. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 307–308.
  200. ^ 撃沈戦記 2013, pp. 214–216"東京急行"を阻止せよ
  201. ^ 磯風、特年兵 2011, p. 141第二次ベララベラ海戦図
  202. ^ 撃沈戦記 2013, pp. 216–218.
  203. ^ a b c 撃沈戦記 2013, pp. 219–221.
  204. ^ 木俣、水雷戦史 1986, p. 366.
  205. ^ 五月雨出撃す 2010, pp. 240–242.
  206. ^ 木俣、水雷戦史 1986, p. 367.
  207. ^ 木俣、水雷戦史 1986, p. 368.
  208. ^ 戦史叢書96 1976, p. 284.
  209. ^ #S1807 第3水戦戦時日誌 (4), p.28
  210. ^ a b 秋雲会 1986, p. 51.
  211. ^ 『栄光の駆逐艦 秋雲』51ページ
  212. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 418–419聯合艦隊決戦兵力のブラウン進出
  213. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 372–373.
  214. ^ a b 戦史叢書62 1973, p. 425.
  215. ^ 戦史叢書96 1976, p. 384.
  216. ^ a b 戦史叢書96 1976, p. 390.
  217. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 388–390.
  218. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 397–399.
  219. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 425–426遊撃部隊のラバウル進出直後の被害
  220. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 400–401.
  221. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 401–404.
  222. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 414–415.
  223. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 428–429「阿賀野」の被雷とその救難
  224. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 485–486遊撃部隊のマーシャル進出
  225. ^ #S1812 第10戦隊日誌 (1), pp.5,10,25,31
  226. ^ 昭和18年12月25日(土)海軍公報(部内限)第4575号 p.39」 アジア歴史資料センター Ref.C12070443300 
  227. ^ #S1812 第10戦隊日誌 (2), pp.6,10
  228. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 31–32聯合艦隊主力(水上部隊)の概況
  229. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 171–172リンガ方面在泊部隊
  230. ^ #S1812 第10戦隊日誌 (3), pp.5
  231. ^ a b c d 戦史叢書12 1968, p. 172.
  232. ^ #S1812 第10戦隊日誌 (4), p.4
  233. ^ 昭和19年3月22日(発令3月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1384号 p.25」 アジア歴史資料センター Ref.C13072096800 
  234. ^ 昭和19年4月24日(月)海軍公報(部内限)第4673号 p.39」 アジア歴史資料センター Ref.C12070462300 
  235. ^ 秋雲会 1986, p. 58.
  236. ^ a b 戦史叢書46 1971, pp. 446–447.
  237. ^ 昭和19.4.1~昭和19.6.30 太平洋戦争経過概要その8(防衛省防衛研究所)19年4月1日~19年4月20日、p.24」 アジア歴史資料センター Ref.C16120641100 
  238. ^ 戦史叢書12 1968, p. 373.
  239. ^ 草鹿 1979, pp. 233–234敵を誘い出してたたく
  240. ^ 草鹿 1979, pp. 234–236.
  241. ^ サイパン・レイテ海戦記 2004, pp. 36–40ビアク来攻と渾作戦
  242. ^ 戦史叢書12 1968, p. 490聯合艦隊電令作第102号(5月29日2343)
  243. ^ サイパン・レイテ海戦記 2004, p. 37.
  244. ^ 戦史叢書12 1968, p. 493.
  245. ^ #S1906五戦隊日誌 p.2
  246. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 496a-498第一次渾作戦経過
  247. ^ 昭和19.4.1~昭和19.6.30 太平洋戦争経過概要その8(防衛省防衛研究所)19年6月1日~19年6月10日、pp.7-8」 アジア歴史資料センター Ref.C16120642900 (昭和19年6月3日項)
  248. ^ a b 戦史叢書12 1968, p. 496c聯合艦隊電令作第115号(6月3日2025)
  249. ^ #S1906第27駆日誌(1) p.19
  250. ^ 昭和19.4.1~昭和19.6.30 太平洋戦争経過概要その8(防衛省防衛研究所)19年6月1日~19年6月10日、pp.11-12」 アジア歴史資料センター Ref.C16120642900 
  251. ^ 戦史叢書12 1968, p. 497.
  252. ^ サイパン・レイテ海戦記 2004, p. 39.
  253. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 90春雨(はるさめ)
  254. ^ 戦史叢書12 1968, p. 498第二次渾作戦
  255. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 151ニューギニア沖の退却戦
  256. ^ 草鹿 1979, pp. 236–237ビアク突入に失敗
  257. ^ #あ号作戦日誌(2) pp.4-5
  258. ^ 草鹿 1979, pp. 237–239武蔵、大和を加え再度決行
  259. ^ 昭和19.4.1~昭和19.6.30 太平洋戦争経過概要その8(防衛省防衛研究所)19年6月1日~19年6月10日、p.21」 アジア歴史資料センター Ref.C16120642900 
  260. ^ #S1906五戦隊日誌 pp.2-3
  261. ^ 「SS-256, USS HAKE」p.118
  262. ^ 「SS-256, USS HAKE」p.141,142
  263. ^ 木俣、水雷戦史 1986, p. 439.
  264. ^ 「SS-256, USS HAKE」p.141
  265. ^ 昭和19.4.1~昭和19.6.30 太平洋戦争経過概要その8(防衛省防衛研究所)19年6月1日~19年6月10日、p.25」 アジア歴史資料センター Ref.C16120642900 
  266. ^ #S1905日栄丸日誌(2) p.16
  267. ^ #S1905日栄丸日誌(2) p.17、#S1905日栄丸日誌(3), pp.6,17
  268. ^ #S1905日栄丸日誌(2) p.18
  269. ^ 秋雲会 1986, pp. 65–66.
  270. ^ 海軍少将赤沢次寿雄叙位の件」 アジア歴史資料センター Ref.A12090516900 
  271. ^ #内令昭和19年7月、p.11
  272. ^ #内令昭和19年7月、pp.13-14
  273. ^ 昭和19年6月21日(発令6月15日付)海軍辞令公報(甲)第1517号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C13072099600 

参考文献

[編集]
  • 池田清『重巡 摩耶』学習研究社〈学研M文庫〉、2002年1月(原著1986年)。ISBN 4-05-901110-X 
  • 井上理二『駆逐艦磯風と三人の特年兵』光人社〈光人社NF文庫〉、2011年10月(原著1999年)。ISBN 978-4-7698-2709-2 
  • 生出寿『烈将 山口多聞』徳間書店〈徳間文庫〉、1989年8月(原著1986年)。ISBN 4-19-598853-5 
  • 生出寿『戦艦「大和」最後の艦長 新装版』光人社〈光人社NF文庫〉、2011年11月。ISBN 9784-7698-2143-4 
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年。ISBN 978-4809901089 
  • 木俣滋郎「16.駆逐艦『夕雲』」『撃沈戦記』光人社〈光人社NF文庫〉、2013年6月(原著1988年)。ISBN 978-4-7698-2786-3 
  • 草鹿龍之介『連合艦隊参謀長の回想』光和堂、1979年1月。ISBN 4-87538-039-9 
  • 駆逐艦秋雲会 編『栄光の駆逐艦 秋雲』駆逐艦秋雲会、1986年。 
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編』光人社、1984年4月。ISBN 4-7698-0231-5 
  • 須藤幸助『駆逐艦「五月雨」出撃す』光人社〈光人社NF文庫〉、2010年1月(原著1956年)。ISBN 978-4-7698-2630-9 
  • 高松宮宣仁親王、嶋中鵬二『高松宮日記 第六巻 昭和十八年 二月~九月』中央公論社、1997年。ISBN 4-12-403396-6 
  • 橋本敏男、田辺弥八 ほか『証言・ミッドウェー海戦』光人社〈光人社NF文庫〉、1999年10月(原著1992年)。ISBN 4-7698-2249-9 
  • 福井静夫 著、阿部安雄・戸高一成 編『日本駆逐艦物語』光人社〈福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記 第5巻〉、1983年1月。ISBN 4-7698-0611-6 
  • 福田幸弘『連合艦隊 ― サイパン・レイテ海戦記』時事通信社、1981年7月(原著1983年)。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦』 第7巻、朝雲新聞社、1967年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書 マリアナ沖海戦』 第12巻、朝雲新聞社、1968年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書 北東方面海軍作戦』 第29巻、朝雲新聞社、1969年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書 ミッドウェー海戦』 第43巻、朝雲新聞社、1971年3月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書 海上護衛戦』 第46巻、朝雲新聞社、1971年5月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪還作戦開始まで』 第49巻、朝雲新聞社、1971年9月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書  中部太平洋方面海軍作戦<2> 昭和十七年六月以降』 第62巻、朝雲新聞社、1973年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで』 第83巻、朝雲新聞社、1975年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収後』 第96巻、朝雲新聞社、1976年8月。 
  • 牧島貞一『炎の海』光人社、2001年。ISBN 4-7698-2328-2 
  • 歴史群像編集部 編『水雷戦隊II 陽炎型駆逐艦』学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ 第19巻〉、1998年8月。ISBN 4-05-601918-5 
    • (85-94頁)向井学「艦隊型駆逐艦全131隻行動データ」
    • (143-158頁)日本駆逐艦の奮戦 PATR1〔水雷戦隊かく戦えり〕/PART2〔ルンガ沖夜戦〕
  • SS-256, USS HAKE(issuuベータ版)
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和17年3月1日~昭和17年3月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(1)』。JACAR:C08030315800 
    • 『昭和17年3月1日~昭和17年3月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(3)』。JACAR:C08030316000 
    • 『昭和17年3月1日~昭和17年3月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(4)』。JACAR:C08030316100 
    • 『昭和17年7月14日〜昭和17年11月30日 第11戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。JACAR:C08030051400 
    • 『昭和17年11月1日〜昭和17年11月15日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。JACAR:C08030098800 
    • 『昭和18年6月1日〜昭和18年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。JACAR:C08030084400 
    • 『昭和18年7月1日〜昭和18年12月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。JACAR:C08030106000 
    • 『昭和18年7月1日〜昭和18年12月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。JACAR:C08030106100 
    • 『昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(1)』。JACAR:C08030050000 
    • 『昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(2)』。JACAR:C08030050100 
    • 『昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(3)』。JACAR:C08030050200 
    • 『昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(4)』。JACAR:C08030050300 
    • 『昭和16年7月~12月達/昭和16年9月』。JACAR:C12070110800 
    • 『昭和16年9月~10月内令3巻/昭和16年9月(1)』。JACAR:C12070152800 
    • 『昭和17年1月~3月内令1巻/昭和17年3月(2)』。JACAR:C12070161300 
    • 『昭和17年1月~3月内令1巻/昭和17年3月(3)』。JACAR:C12070161400 
    • 『昭和17年1月~3月内令1巻/昭和17年3月(4)』。JACAR:C12070161500 
    • 『昭和17年4月~6月内令2巻/昭和17年4月(4)』。JACAR:C12070162400 
    • 『昭和17年4月~6月内令2巻/昭和17年5月(2)』。JACAR:C12070162800 
    • 『昭和18年1月~4月内令1巻/昭和18年3月(1)』。JACAR:C12070175800 
    • 『昭和18年9~10月内令4巻/内令昭和18年10月(5)』。JACAR:C12070181500 
    • 『昭和18年11月~12月内令5巻/昭和18年12月(1)』。JACAR:C12070182600 
    • 『自昭和19年1月 至昭和19年7月 内令/昭和19年6月(2)』。JACAR:C12070178200 
    • 『自昭和19年1月至昭和19年7月内令/昭和19年7月』。JACAR:C12070195500 
    • 『昭和17年12月31日現在10版内令提要追録第12号原稿/巻3第13類艦船(1)』。JACAR:C13072013300 
    • 『昭和17年6月1日~昭和17年6月30日ミッドウエー海戦戦時日誌戦闘詳報(1)』。JACAR:C08030040400 
    • 『昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(1)』。JACAR:C08030023800 
    • 『昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(2)』。JACAR:C08030023900 
    • 『昭和17年11月~昭和17年12月 第7戦隊戦時日誌(1)』。JACAR:C08030768400 
    • 『昭和17年11月~昭和17年12月 第7戦隊戦時日誌(5)』。JACAR:C08030768800 
    • 『昭和17年12月1日~昭和18年4月30 第四水雷戦隊戦時日誌(2)』。JACAR:C08030116100 
    • 『昭和19年6月1日~昭和19年6月30日 第5戦隊戦時日誌』。JACAR:C08030723500 
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年1月24日 第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。JACAR:C08030148200 
    • 『昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(2)』。JACAR:C08030039900 
    • 『昭和19年5月1日~昭和19年10月31日 特設運送船日栄丸戦時日誌戦闘詳報(2)』。JACAR:C08030685200 
    • 『昭和19年5月1日~昭和19年10月31日 特設運送船日栄丸戦時日誌戦闘詳報(3)』。JACAR:C08030685300 

関連項目

[編集]