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矢矧 (軽巡洋艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
矢矧
公試のため佐世保を出港する矢矧(1943年12月19日)[1]
公試のため佐世保を出港する矢矧(1943年12月19日)[1]
基本情報
建造所 佐世保海軍工廠[2]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 二等巡洋艦
級名 阿賀野型
母港 佐世保
艦歴
計画 1939年度(④計画
起工 1941年11月11日[2]
進水 1942年9月25日[3]
竣工 1943年12月29日[2]
最期 1945年4月7日沈没[4]
除籍 1945年6月20日[4]
要目(計画)
基準排水量 6,651英トン[5] または 6,652英トン[2]
公試排水量 7,710トン[2]
満載排水量 8,338.4トン[5]
全長 174.50m[2]
水線長 172.00m[2]
垂線間長 162.00m[2]
最大幅 15.20m[2]
深さ 10.17m[2]
吃水 公試平均 5.63m[5][2]
ボイラー ロ号艦本式缶(空気余熱器付)6基[2]
主機 艦本式タービン4基[2]
推進 4軸[2]
出力 計画 100,000hp[2]
公試成績 101,100hp[6]
速力 計画 35ノット[2]
公試成績 35.17ノット[6]
燃料 重油 1,420トン[2]
航続距離 6,000カイリ / 18ノット[2]
乗員 計画乗員 700名 + 司令部26名[7]
兵装 50口径15cm連装砲 3基6門 [8]
九八式8cm連装高角砲2基4門 [8]
25mm機銃 3連装2基、連装4基(竣工時)[9]
同 3連装8基、単装18挺(1944年6月)[9]
同 3連装8基、単装28挺(1944年12月)[9]
61cm四連装魚雷発射管 2基8門[10]
九三式一型改一魚雷16本[10]
九五式爆雷18個[10]
装甲 計画[11]
機関部舷側 60mmCNC、甲板 20mmCNC鋼
弾火薬庫舷側55mmCNC、甲板20mmCNC鋼
舵取機室舷側 30mmCNC、甲板20mmCNC鋼
操舵室舷側 30mmCNC鋼
搭載艇 竣工時[12]
11m内火艇1
9m内火艇1
12m内火ランチ1
9mカッター(救助艇)2
最終時[13]
12m内火ランチ1
9mカッター(救助艇)1
搭載機 零式水上偵察機2機[14]
レーダー 21号電探1基(竣工時)[15]
22号電探2基(1944年7月以降)[15]
13号電探1基(1944年7月以降)[15]
その他 呉式二号射出機5型1基[16]
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矢矧 (やはぎ)は、大日本帝国海軍軽巡洋艦[17]二等巡洋艦阿賀野型(阿賀野型軽巡洋艦)の3番艦[18]

艦名は長野県から岐阜県を経て愛知県に至る矢矧川にちなんで命名された(現在は矢作川と表記されている)[19][20]。帝国海軍の命名慣例については日本艦船の命名慣例を参照。この名をもつ帝国海軍の艦船としては、筑摩型防護巡洋艦2番艦矢矧(二等巡洋艦)に続いて2隻目[19][20]坊ノ岬沖海戦において、戦艦大和等と共に撃沈された[21]

艦歴

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1941年(昭和16年)11月11日、本艦(第134号艦)は阿賀野型軽巡3番艦として佐世保海軍工廠で起工[2][22]

1942年(昭和17年)8月20日、第134号艦は軍艦矢矧と命名され[17]、阿賀野型2番艦能代と共に二等巡洋艦阿賀野型として登録される[23]

9月25日[24]昭和天皇の名代として高松宮宣仁親王(海軍大佐、昭和天皇弟宮)臨席の元、矢矧は進水した[3][25]佐世保鎮守府所属となる[26][24]。機密保持のため、進水式で配られた記念酒盃には『矢矧』の艦名は記されておらず、かわりに矢に萩の花をあしらった絵が描かれていた[27]。帰京した高松宮宣仁親王は、天皇に矢矧進水式を終えたことを報告した[28]

1943年(昭和18年)10月11日、日本海軍は駆逐艦磯波艦長・第27駆逐隊(時雨、白露、有明、夕暮)司令・軽巡龍田艦長[29]・第10駆逐隊(秋雲、夕雲、風雲、朝雲)司令[30][31]等を歴任した吉村真武大佐を、矢矧艤装員長に任命した[32]

10月16日、佐世保工廠に矢矧艤装員事務所を設置[33]

12月29日、竣工[34][35]。同日附で矢矧艤装員事務所を撤去[36]。吉村矢矧艤装員長も制式に矢矧初代艦長となる[37]佐世保鎮守府[38]。同日、第三艦隊第十戦隊に編入[38]

1944年(昭和19年)1月10日、佐世保を出発して瀬戸内海へ向かう[39] [40]。 2月、リンガの哨戒および訓練のためシンガポールへ派遣された[41]

6日、第十戦隊(矢矧、第10駆逐隊《秋雲、風雲、朝雲》、第61駆逐隊《初月、若月》)は第一航空戦隊翔鶴瑞鶴)、重巡洋艦筑摩を護衛して内地を出発[42][43][44]

13日、シンガポールに到着する[43][45]。ここで第10駆逐隊や一航戦と別れ、18日に筑摩、矢矧はシンガポールを出発、同日着[46][43]。矢矧が航海中の2月17日、軽巡洋艦阿賀野が米潜水艦スケートに撃沈された事に伴い[47]、第十戦隊司令官木村進海軍少将はリンガ泊地で駆逐艦秋月(敷島部隊編入中)から矢矧に移乗した[48]

2月23日、第十戦隊旗艦となった[49][50][51]

3月[52]、4月[53]は、第十戦隊各艦および空母部隊と共にシンガポールとリンガ泊地を拠点に訓練と整備に従事[54]

5月12日、矢矧以下第十戦隊(旗艦《矢矧》、第10駆逐隊《朝雲、風雲》、第61駆逐隊《初月、若月、秋月》、第17駆逐隊《磯風》)は第一航空戦隊(空母大鳳翔鶴瑞鶴)、第五戦隊(重巡洋艦妙高羽黒)とともにシンガポールからタウィタウィ泊地へ向け出発した[55][56]

航海中、「矢矧」と「風雲」は敵潜水艦撃沈を報告した[57]

15日到着以後、タウィタウィ泊地で訓練と搭載水上偵察機による潜水艦哨戒任務に従事した[58]

1944年(昭和19年)6月19日、第十戦隊(第17駆逐隊《磯風、浦風》、第10駆逐隊《朝雲》、秋月型4隻《初月、若月、秋月、霜月》)[59]を率いて小沢治三郎中将指揮の第一機動艦隊に所属し、マリアナ沖海戦に参加した。午前8時10分、第一機動部隊旗艦大鳳(矢矧より距離3kmを航行)に米潜水艦アルバコアの発射した魚雷1本が命中した[60][61]。矢矧は大鳳から『ワレ航行ニ差シ支エナシ』の信号を受取っている[62]。午前11時20分、矢矧の目前で翔鶴が米潜水艦カヴァラに雷撃され魚雷4本が命中した[63]。翔鶴は午後2時前後に沈没し、随伴艦(矢矧、浦風、若月)等は翔鶴の乗組員の救助に従事した[64]。14時32分に大鳳が大爆発を起こし[65]、16時28分に沈没した[66]。第十戦隊各艦(磯風、初月)は共同で脱出乗組員の救助にあたった[67]

6月20日17時50分、第一機動部隊(旗艦《瑞鶴》、第五戦隊《羽黒、妙高》、第十戦隊《矢矧、磯風、浦風、初月、秋月、若月、朝雲》、秋月型《霜月》)、は米機動部隊から発進した戦闘機85、艦上爆撃機77、艦上攻撃機54と交戦。矢矧は主砲15 (18) 発、高角砲130発、機銃5,200発を発射した[68]。この戦闘で矢矧に損害はなく、瑞鶴も被弾したが小破に留まった。

6月24日、矢矧はに戻った[69]。ドックでレーダーや機銃の増強を行った後、7月8日に多くの戦艦、巡洋艦、駆逐艦と共に呉を出航し、東南アジア方面へ向かった。マニラを経由し、20日リンガ泊地に到着した[70]。その後はアメリカ軍との戦闘に備えて訓練に従事した。

レイテ沖海戦

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1944年(昭和19年)10月、矢矧は栗田艦隊(第一遊撃部隊)、第二部隊(指揮官鈴木義尾中将/第三戦隊司令官・旗艦金剛)に属してレイテ沖海戦に参加した。10月23日、栗田艦隊は米潜水艦2隻に襲撃され重巡2隻(愛宕、摩耶)を喪失、高雄が被雷して駆逐艦2隻(朝霜、長波)と共に離脱、第二艦隊司令長官栗田健男中将は旗艦を変更した(愛宕→大和)[71]10月24日シブヤン海海戦で栗田艦隊はアメリカ海軍第38任務部隊からの空襲を受ける。空襲直前、矢矧は艦載水上偵察機2機を発進させたが[72]、1号機(佐々木少尉機)が未帰還となった。この戦闘で各艦はアメリカ軍側の記録にないアメリカ潜水艦を発見し、空襲下にある艦隊は混乱した[73][74]。日本軍は、10時30分から16時30分にわたる五回の空襲によって戦艦武蔵が沈み、戦艦2隻(大和、長門)、重巡2隻(利根妙高)、駆逐艦2隻(浜風清霜)が命中弾を受けた。妙高、浜風、清霜は栗田艦隊から離脱。矢矧は第二次対空戦闘で左舷に至近弾、第三次対空戦闘で後部兵員室に小型爆弾命中、艦首至近弾で錨鎖機室で火災発生[75]という被害を受けた。右舷艦首に直径4-5m[要出典](2m程とも)の穴があき、速力は22ノットに低下した[76]。池田武邦航海士によると、応急修理で28ノット発揮可能になったが、30ノット以上出すと破孔が拡がって危険な状態になったという[77]。だが矢矧は翌日の戦闘で無理をして32ノットを発揮していた[78]

10月25日、矢矧はサマール沖海戦に参加した。午前6時30分に米護衛空母艦隊を発見[79](戦闘詳報の発見時刻は6時45分発見[80])。栗田艦隊全艦はこの部隊を正規空母部隊と誤認し[81]、重巡洋艦部隊を突出させその後に止め役として水雷戦隊を続行させた[82][83]。第十戦隊(旗艦《矢矧》、第17駆逐隊《浦風、雪風、磯風、野分〔臨時編入〕》)を率いて逃走する米空母部隊を追撃し護衛駆逐艦と交戦したが、午前7時25分にアメリカ軍機の機銃掃射で艦橋勤務兵に死傷者が出た[84]。午前9時、米駆逐艦の砲撃が左舷士官室に命中したのに加え[85]、アメリカ軍機の機銃掃射により再び艦橋要員に被害を出し[86]、小火災が発生し魚雷発射管1門が使用不能となった[87]。午前8時50分、米駆逐艦ジョンストンが煙幕を突破して偽装の魚雷発射姿勢を取った(なお、ジョンストンの魚雷は既に発射しており1本も残っていなかった)[88]。矢矧以下第十戦隊は魚雷回避のため右に舵をきり、これが第二水雷戦隊(軽巡能代、島風型島風等)の針路を妨害することになった[88]。第二水雷戦隊も右に回避行動をとったため米艦隊との距離が開いてしまい、同戦隊が魚雷を発射する機会は失われた[88]。午前9時6分、第十戦隊は矢矧が九三式酸素魚雷7本、第17駆逐隊各艦4本(磯風のみ8本)[89]、計魚雷27本を発射し[90]、エンタープライズ型空母1隻撃沈、同型空母1隻大破撃沈殆ど確実、砲撃により駆逐艦3隻撃沈を報告している[91]。実際には、魚雷は1本も命中していなかった[92]。矢矧の指揮下にあった磯風水雷長は矢矧(旗艦)が魚雷命中の期待できない遠距離雷撃命令を出したことに疑問を呈している[93]。矢矧の艦橋にいた池田は同艦水雷長は米空母がスコールに逃げ込み魚雷発射のチャンスを逸することを懸念していたと述べている[86]。アメリカ軍によれば、護衛空母カリニン・ベイセント・ローに迫る数本の魚雷があったものの、対空砲や艦載機の機銃掃射により、命中前に爆破されたという[94]。実際の第十戦隊の戦果は、砲撃による米駆逐艦ジョンストン撃沈のみであった。

栗田艦隊は撤退行動に移ったが、帰路にも18回にわたるアメリカ軍機の空襲を受けた。16時45分、矢矧は至近弾により魚雷発射連管室で火災が発生し、戦死者14名重傷者多数を出す損害を受けた[95]

10月26日にも艦隊は空襲を受け、軽巡洋艦能代が沈没した[96]。28日、残存日本艦隊はブルネイに帰投した。一連の戦闘で本艦は主砲通常弾367発、対空砲弾205発、高角砲600発、機銃2万7000発、爆雷6個を消費し[97]、戦死44名、行方不明3名、重軽傷者97名を出した[98]。水上偵察機も1機が未帰還となった[99]

11月15日、第十戦隊の解隊に伴い残存艦(矢矧、浦風、磯風、雪風、浜風、涼月、冬月)は第二水雷戦隊に編入された[100][101]。当事の第二水雷戦隊は多号作戦で島風型駆逐艦島風(二水戦旗艦)の沈没時に二水戦司令官早川幹夫少将が戦死したため、司令官不在だった。矢矧は日本への帰還を命じられ、戦艦3隻(大和、長門、金剛)、第17駆逐隊4隻(浦風、雪風、浜風、磯風)と共に16日ブルネイを出港した[102][103]。11月21日、戦艦金剛と駆逐艦浦風が米潜水艦シーライオンの雷撃で沈没し、浦風では総員戦死した[104]。金剛の生存者は2隻(浜風、磯風)に救助された[105]。大和や矢矧は金剛の救援に関しては何も出来ず[102]、現場海域を避退した[104]

11月23日本土到着、26日佐世保に回航、修理が行われる[106]。修理個所を明確にするため白ペンキで塗られた場所は1,000個所を越えた[107]。この間、第一水雷戦隊の解隊にともない木村昌福少将は第二水雷戦隊司令官に任命され[108]、軽巡大淀や駆逐艦霞を旗艦とした。

12月20日、吉村(矢矧艦長)は金剛型戦艦3番艦榛名の艦長を命じられた[109]。後任の矢矧艦長として、朝潮型6番艦山雲初代駆逐艦長・陽炎型9番艦天津風初代駆逐艦長・第27駆逐隊《時雨白露五月雨春雨》司令等を歴任した原為一大佐が任命された[109][110]

同時期、第二水雷戦隊(矢矧、時雨、第17駆逐隊)に対して、ヒ87船団と空母龍鳳の護衛として出撃、その後2隻(矢矧、時雨)のみ第二水雷戦隊麾下各艦が活動するフィリピンへの進出が下令される[111]。21日、修理を終えて佐世保を出港し、23日呉到着[112]。だが矢矧側は「補充乗組員を多く抱え訓練不足の為出撃できない」と連合艦隊に意見具申、矢矧の出動は取りやめられた[113]

1945年(昭和20年)1月3日(着任1月4日)、第二水雷戦隊司令官は木村昌福少将から古村啓蔵少将に交代した[114][115]。矢矧は内地で待機を続け2月20日、シンガポールから日本本土への強行輸送作戦(北号作戦)に従事していた『完部隊』(第四航空戦隊司令官松田千秋少将:日向伊勢大淀[116])、第二水雷戦隊3隻(初霜朝霜)が呉に到着した[117]。23日、旗艦は霞から矢矧に変更された[118]。その後、第二水雷戦隊各艦は内地で待機した。

3月19日の呉軍港空襲では、ドックで整備中で動けなかったが被害はなかった[119][100]。修理や各種装備の整備も、特攻兵器生産優先のため、万全とは云い難い状態だった[120]。 3月28日、大和や麾下駆逐艦と共に呉港を出港し、周防灘、続いて三田尻沖に停泊する。3月29日、指揮下の吹雪型駆逐艦(第7駆逐隊)が触雷して大破、朝霜は呉に向かう響を途中まで護衛すると艦隊に戻った[121]

坊ノ岬沖海戦

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坊ノ岬沖で米空母機の攻撃を受ける矢矧。沖縄水上特攻隊として、大和を護衛して出撃したが、雲霞のごとく襲来する敵機により、たちまち行動不能となり撃沈された。[122]
右上が磯風。攻撃を受けた矢矧の二水戦司令部を移乗させるため接近中。[123]
写真は第二波の攻撃にさらされている午後1時40分頃の姿で、白煙はボイラー室に海水が入ったためのものと思われる[124]

1945年(昭和20年)4月1日、アメリカ軍が沖縄に上陸を開始した。4月6日天一号作戦に参加すべく、第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将が座乗する矢矧は徳山沖に停泊中の戦艦大和に合流。矢矧の原為一艦長は少尉候補生23名を退艦させた。艦内の倉庫にあった米麦20日分も、5日分のこして徳山軍需部に返還している[126]。13時、大和士官室で草鹿龍之介連合艦隊参謀長が第二艦隊司令官・艦長達に作戦を説明すると一斉に不満の声があがり、原は「敵の後方補給路を『矢矧』で暴れて寸断する」と提案している[127]。15時20分、第二艦隊所属の10隻(旗艦《大和》、第二水雷戦隊《矢矧、17駆〔磯風、浜風、雪風〕、21駆〔朝霜、初霜、霞〕》)は沖縄へと出撃[128]。原は乗組員に「死に急ぐな」と訓示したという[129]。また沖縄に到着後は座礁して砲台になる事や、宮本武蔵の話をしたという乗組員の回想もある[130]。原自身は矢矧が被害担当艦となることで他艦への被害を減らそうと考えていたと回想している[131]。夕刻、伊予灘にて二水戦は大和を目標とした編隊訓練と襲撃運動訓練を実施した[132]

4月7日午前6時頃、第二艦隊は大隅海峡を通過、針路を280度とした[133]。午前6時57分、駆逐艦朝霜が機関故障を起こして速力が低下、第二艦隊から落伍した[134]。矢矧では、搭載水上偵察機を事前に退避させるよう意見具申された[135]。8時15分に零式水上偵察機1機(富原辰一少尉/機長、松田上飛曹/操縦、佐々木上飛曹/電信)を鹿児島県指宿基地に戻した[136][137][138]

12時32分からアメリカ軍の空襲が始まる。 。天候は不良で、雲高3000フィート(1000m以下)、視界5 - 8浬[139]。戦闘開始早々の12時46分、アメリカ軍の雷撃機TBF/TBMアベンジャー(空母ベニントン所属機)が投下した魚雷1本が命中し[140]、航行不能となった[141]、13時00分にも矢矧の艦尾に魚雷が命中した[142]。最初に命中したのは右舷後部という見解もある[143]。いずれにせよ13時前には航行不能となり、このため矢矧は護衛すべき大和から離れてしまった[139]。矢矧からは10-20km遠方に左舷に傾斜した大和が見えたという[144][145]。標的状態となった矢矧は多数の魚雷や爆弾直撃、至近弾で損傷が拡大した[21]。最初の魚雷命中直後に魚雷を投棄[143][146]。重巡三隈鈴谷のように酸素魚雷の誘爆による致命傷を避けることが出来た。そのため魚雷2本・爆弾1発で沈んだ矢矧の姉妹艦能代と比較して長い時間、戦闘を継続していた[147]。「もう早く沈んでくれと思うくらい沈まなかった」という艦橋で勤務していた池田武邦の回想が残っている[148]

一方、麾下の第二水雷戦隊各艦も次々に損傷していった。

まず、単艦で落伍していた朝霜が4発の直撃弾で沈没し総員(326名)が戦死した[149][150]。 次に浜風が12時48分に直撃弾と魚雷の直撃で爆沈した[151][152]。涼月は艦前部への直撃弾で大破し戦線を離脱[153]。霞は被弾して航行不能となった[154]。この時点での大和は魚雷や爆弾を数発被弾して多少の損害を受けたもののまだ余裕があり、二水戦旗艦(矢矧)の状況を確かめるべく反転しつつあったという[155]

13時すぎ、駆逐艦磯風(第17駆逐隊司令駆逐艦)のみが矢矧を護衛していた[156]。古村司令官は矢矧での水雷戦隊指揮は不可能と判断[157][158]。健在艦を率いて沖縄へ突入すべく、アメリカ軍機の空襲がやんだ時間を見計らって磯風(17駆司令艦)に接近命令を出した[159]。磯風は13時28分に矢矧に横付けを試みたが[160]、直後にアメリカ軍機攻撃隊第二波が来襲したため離れた[144][161]。二水戦参謀の進言で艦載艇を海面に降ろしたが、爆弾の直撃で将兵と共に四散[162][156]。このため第二水雷戦隊司令部が移乗するには、磯風側が矢矧に横付けするしか方法がなくなった。磯風は速度を落として矢矧に横付けした瞬間を米軍機に襲撃され、13時56分に被弾[163]。至近弾により速力12ノットに低下[164]、やがて航行不能となった。

救援の見込みがなくなった矢矧は最終的に合計魚雷6-7本・爆弾10-12発を被弾(アメリカ軍記録、矢矧に対し爆弾56発、魚雷17本、機銃9970発を投下・発射)[165][166]、14時5分に沈没した[167][21]。13時20分[168]、または13時30分頃という回想もある[169][170]

矢矧の沈没から十数分後の14時23分前後、大和も大爆発を起こして沈没した[171][169]。矢矧から脱出した将兵は、遠方に大和が爆発した際に発生した巨大なキノコ雲を目撃している[172]。14時40分、脱出者に対する銃撃を終えたアメリカ軍機が離脱した[173]。17時以降、駆逐艦3隻(初霜、雪風、冬月)が矢矧乗組員の救助を開始した[174]。矢矧の乗組員446名が戦死、133名が負傷した[175]。原(矢矧艦長)を含む乗組員500名以上と、古村司令官を含む第二水雷戦隊司令部が生還した[176]。矢矧の乗組員と大和の乗組員を救助した駆逐艦冬月の士官によれば、大和の乗組員は重油で真っ黒、矢矧の乗組員は長い対空戦闘により顔が火傷で腫れていたという[177](原艦長によると皆、重油で真っ黒だったとも言われている)。

4月15日、原大佐(矢矧艦長)は矢矧艦長の職務を解かれた[178]。 4月20日、初霜の艦上で解散式が行われ、第二水雷戦隊は解隊された[179][180]。6月20日、除籍。

その他

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  • 『矢矧』の名が艦艇に使われるのは本項の軽巡洋艦阿賀野型3番艦としての矢矧が2度目であり、以前に筑摩型防護巡洋艦の2番艦に矢矧 [I]の名が使われている。
  • 後に海上保安庁やはぎ型巡視船のネームシップとして名前が受け継がれた。
  • 現在、矢矧の慰霊碑が佐世保市の旧海軍墓地東公園にある。
  • レイテ湾海戦で損傷した矢矧艦橋の12cm高角双眼望遠鏡が曲折を経て池田武邦の手に渡り、海上自衛隊江田島第一術科学校内「教育参考館」に収蔵されている[181]
  • 沖縄出撃では艦長と副長が相談の上、20日分以上搭載していた米麦を5日分のみを残し徳山軍需部へ返納した[182]。また撃沈後の救命用に大量の角材を積載して出撃し、実際に使用された[183]
  • 矢矧の艦歴は航空機との戦いであった。沈没時の戦訓として艦橋頂上の防空指揮所に艦の全機能を集約して操艦の即応性を高め、飛行機の操縦席のようにキャノピーをつけたいと提言している[184]
  • 2022年6月23日海上自衛隊護衛艦で、もがみ型護衛艦の5番艦として「やはぎ」が進水した[185]。2024年5月21に就役し、護衛艦隊直轄第14護衛隊に編入され、舞鶴基地に配備された。[186]

歴代艦長

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※『艦長たちの軍艦史』174-175頁に基づく。

艤装員長

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  1. 吉村真武 大佐:1943年10月11日[32] -

艦長

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  1. 吉村真武 大佐:1943年12月29日[37] - 1944年12月20日[109]
  2. 原為一 大佐:1944年12月20日[109] - 1945年4月15日[178]

同型艦

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画像集

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脚注

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  1. ^ #日本海軍艦艇写真集巡洋艦p.179。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s #昭和造船史第1巻784-785頁。
  3. ^ a b #高松宮日記4巻627頁『九月二十五日(金)晴。「矢矧」進水式。長崎ニ赴キ上野屋泊。|〇四五七早岐着乗換、〇五一三発、〇五三四佐世保着。午前「矢矧」進水式〇八四〇。一七一九川棚発、一九二一長崎着。』
  4. ^ a b #写真日本の軍艦第9巻p.104。
  5. ^ a b c 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」2頁の計画値「註.上記ノモノハ昭和十四年十月十三日艦本機密決第五三八号ニ依ル基本計画当初ノモノヲ示ス」。
  6. ^ a b #JapaneseCruisersp.590.
  7. ^ 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」22頁。
  8. ^ a b 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」4頁。
  9. ^ a b c #JapaneseCruisersp.572.
  10. ^ a b c 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」6頁。
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  18. ^ #艦艇類別等級(昭和19年1月31日)p.1『軍艦|巡洋艦|二等|阿賀野型|阿賀野、能代、矢矧』
  19. ^ a b #軽巡二十五隻20頁
  20. ^ a b #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ129(原本204頁)『矢矧(やはぎ) 艦種二等巡洋艦 艦名考川の名、矢作川に採る、川は三河國にあり、矢作は古来矢矧・矢矯・箭作等と混用す、此艦名は矢矧として命名せられたるなり。艦歴大正3年乃至9年戰役(日獨)に從軍:同3年9月第二南遣支艦隊に属し西カロリン群島方面警戒、次で印度洋方面警備(艦長大佐長鋪次郎)、昭和6・7年事變(日支)に從軍:同7年1月南支那方面警備(艦長大佐井上保雄)。
    ―要目― 長134.11米/幅14.15米/吃水5.03米/排水量4,400噸/機關 タルビン2軸/馬力22,500/速力26/兵装 15糎砲 8/8糎砲 2/8糎砲 2/發射管 3/起工 明治43-6-20/進水 同44-10-3/竣工 同45-7-27/建造所 三菱長崎造船所』
  21. ^ a b c #軽巡二十五隻317-318頁『▽大和隊の水上特攻』
  22. ^ #S1812佐鎮日誌(1)p.20『矢矧(百三十四)|十六.十一.十一|十七.九.二十五|十八.十二.末』
  23. ^ #内令昭和17年8月(3)pp.5-6『内令第一五五四號 艦艇類別等級別表左ノ通改正ス 昭和十七年八月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦二等阿賀野型ノ項中「阿賀野」ノ下ニ「、能代、矢矧」ヲ加フ 同、航空母艦ノ項中「飛鷹」ノ下ニ「、冲鷹」ヲ加フ|駆逐艦、一等初春型ノ項中「子日、」ヲ、同白露ノ項中「山風、」ヲ、同朝潮型ノ項中「、霰」ヲ削リ、同秋月型ノ項中「新月」ノ下ニ「、若月」ヲ加フ(以下略)』
  24. ^ a b #S1709佐鎮日誌(4)p.62『二十五(略)二.飛龍ヲ軍艦籍ヨリ除カル/三.矢矧ヲ第十戰隊ニ編入セラル(略)五.矢矧ノ本籍ヲ佐鎮ト定メラル(略)矢矧佐廠ニ於テ進水|一.矢矧命名式ノ爲宜仁親王殿下御成即日御離佐/二.佐鎮艦船部隊残務整理班経理部内ニ於テ事務開始』
  25. ^ #昭和天皇実録八巻797頁『(昭和十七年九月)二十五日 金曜日(中略)佐世保海軍工廠において軍艦矢矧の命名式挙行につき、宣仁親王を差し遣わされる。』
  26. ^ #内令昭和17年9月(3)p.18『内令第千七百八十九號|軍艦 矢矧 右本籍ヲ佐世保鎮守府ト定メラル|昭和十七年九月二十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
  27. ^ 梯久美子『昭和二十年夏、僕は兵士だった』200頁
  28. ^ #高松宮日記4巻631-632頁『九月三十日(水)(略)一一〇〇御所、進水式ママスンダノデ申置キ、軍令部ヘ、一七〇〇皈。』
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  30. ^ 昭和18年1月18日(発令1月18日付)海軍辞令公報(部内限)第1036号 pp.9-10」 アジア歴史資料センター Ref.C13072089400 
  31. ^ 昭和18年9月22日(発令9月21日付)海軍辞令公報(部内限)第1221号 p.30」 アジア歴史資料センター Ref.C13072093100 
  32. ^ a b 昭和19年10月13日(発令10月11日付)海軍辞令公報(部内限)第1237号 p.17」 アジア歴史資料センター Ref.C13072093800 
  33. ^ 昭和18年10月28日(木)海軍公報(部内限)第4527号 p.2」 アジア歴史資料センター Ref.C12070442400 『○事務開始 第二百十二設営隊準備事務所ハ十月十八日呉海兵團内ニ於テ事務ヲ開始セリ|矢矧艤装員事務所ハ十月十六日佐世保海軍工廠内ニ於テ事務ヲ開始セリ|伊號第四十五潜水艦艤装員事務所ハ十月十九日佐世保海軍工廠内ニ於テ事務ヲ開始セリ』
  34. ^ #軽巡二十五隻338-339頁『矢矧(やはぎ)』
  35. ^ #S1812佐鎮日誌(1)p.21『十二月二十八日 伊四十五潜、十二月二十九日 矢矧夫々竣工』
  36. ^ 昭和19年1月8日(土)海軍公報(部内限)第4585号 p.25」 アジア歴史資料センター Ref.C12070457700 『○事務所撤去 矢矧艤装員事務所ハ昭和十八年十二月二十九日之ヲ撤去セリ』
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  42. ^ #S1812十戦隊(3)pp.4-5『(ロ)矢矧10dg61dg(初月若月)櫻部隊ニ編入1sfヲ護衛六日洲本発 矢矧61dg(初月若月)昭南ヲ経テ二十日「リンガ」着三十一日敷島部隊ニ合同爾後ノ行動前號通 10dg十三日昭南着二十日同地発瑞鶴護衛臼杵ヲ経テ二十七日呉着』
  43. ^ a b c #S1812十戦隊(3)pp.9-10『(四)麾下艦船部隊ノ行動』
  44. ^ #S1812十戦隊(3)p.27『六(天候略)矢矧10dg初月若竟〇六三〇昭南ニ向ケ翔鶴瑞鶴筑摩ヲ護衛洲本発〇六一五朝雲昭南ニケ洲本発』
  45. ^ #S1812十戦隊(3)p.28『一三(天候略)雪風〇七三〇呉発 一八二五10dg若月昭南着 一八四六矢矧昭南着』
  46. ^ #S1812十戦隊(3)p.28『一八(天候略)一〇〇〇筑摩矢矧リンガ泊地ニ向ケ昭南発一九三〇着』
  47. ^ #軽巡二十五隻336-337頁『阿賀野(あがの)』
  48. ^ #S1812十戦隊(3)p.4『(イ)當隊(秋月17dg)敷島部隊ニ編入2S 7S(筑摩欠)ヲ護衛一日「トラツク」発四日「パラオ」着十六日「パラオ」発二十一日「リンガ」着櫻部隊ト合同爾後「リンガ」方面ニアリテ南西方面作戰協力並ニ訓練ニ従事ス』
  49. ^ #S1812十戦隊(3)p.6『(ル)二十三日旗艦ヲ矢矧ニ変更ス』
  50. ^ #S1812十戦隊(3)p.23『二三 一〇一五(司令官)10S(宛略)旗艦ヲ矢矧ニ変更セリ』
  51. ^ 井川『軍艦「矢矧」海戦記』73頁
  52. ^ #S1812十戦隊(4)pp.14-15『(四)麾下艦船部隊ノ行動』
  53. ^ #S1812十戦隊(5)pp.12-13『(三)麾下艦船部隊ノ行動』
  54. ^ #S1812十戦隊(5)p.3『(イ)矢矧 五日第一類作業六日曳的艦九日曳的艦及第二類作業十三日第四回航戰教練十四日第五回航空戰教練及第一類作業ノ爲「リンガ」湾内ニ出動ス 十四日「ベルハラ」水道敵潜出現ノ報ニ依リ直ニ現場ニ急行友軍ト協力翌十五日夕刻迄之ガ掃蕩攻撃ニ任ズ 二十一日第三警戒錨地ニ回航二十三日昭南ニ回航月末迄機関ノ修理ニ從事ス』
  55. ^ S1812十戦隊(6)pp.3-4『(イ)矢矧 昭南ニ於テ機関修理中ノ所一日完成即日「リンガ」皈投将旗ヲ復皈ス 十日迄同方面ニ於テ訓練警戒待機ニ従事十一日「リンガ」発「ペンゲラツプ」ニ転錨十二日「タウイタウイ」ニ向ケ出撃・機動部隊本隊ノ警戒ニ任ジツヽ十五日「タウイタウイ」着…』
  56. ^ S1812十戦隊(6)p.12『一二(天候略)〇四三〇矢矧61dg10dg磯風「タウイタウイ」ニ向ケ「ペンゲラップ」発(1sf直衛)』
  57. ^ S1812十戦隊(6)pp.5-6『(ハ)第十駆逐隊(風雲朝雲)十日迄「リンガ」方面ニアリテ訓練警戒待機ニ從事十一日「リンガ」発「ペンゲラップ」ニ転錨十二日「タウイタウイ」ニ向ケ出撃十五日同地着此ノ間KdB本隊ノ警戒ニ任ジ風雲ハ十二日及十三日矢矧瑞鶴飛行機及矢矧翔鶴飛行機ト協同敵潜各一隻ヲ撃沈セリ(以下略)』
  58. ^ S1812十戦隊(6)pp.3-4『(イ)矢矧…十八日1sf発着艦警戒ニ從事ス尚「タウイタウイ」進出途上十二日及十三日風雲瑞鶴飛行機及風雲翔鶴飛行機ト協同敵潜各一隻ヲ撃沈セリ』
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  67. ^ 井川『軍艦「矢矧」海戦記』96頁
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  102. ^ a b #巡洋艦戦記47-49頁『鬼「金剛」無念の最後』
  103. ^ #昭和19年11月〜二水戦日誌(1)pp.10-11『11月16日「ブルネー」ヲ出撃セル第一遊撃部隊ノ大部ハ同23日内海西部着、本回航中17駆(浦風)ハ敵潜ノ雷撃ヲ受ケ沈没セリ』』
  104. ^ a b #撃沈戦記II183-185頁『嵐の中の雷撃』
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  110. ^ #軽巡二十五隻18頁
  111. ^ #昭和19年11月〜二水戦日誌(1)pp.47-48『21日1741GF/聯合艦隊電令電令579号 一.龍鳳、矢矧、第17駆逐隊ハ台湾方面作戦輸送ヲ実施スベシ(略)二.矢矧、時雨ハ龍鳳隊ノ船団(30日頃門司発)同行「カムラン」方面ニ進出、第二水雷戦隊ニ合同スベシ。右進出中矢矧、時雨ハ新浜発ヨリ「カムラン」附近迄ノ行動ニ関シ海上護衛司令長官ノ指揮ヲ受クベシ』
  112. ^ #昭和19年11月〜二水戦日誌(1)pp.16『(二)麾下艦艇ノ行動/「矢矧」12月21日佐世保[回航]21日徳山22日[回航]23日呉』
  113. ^ #昭和19年11月〜第17駆日誌(2)p.18『矢矧251510/本艦今朝補充交代(40%以上)ニ伴ヒ是非基礎訓練ヲ必要トスルニ付29日早朝門司集合今ノ事ニ御配慮ヲ得度シ』-『GF261145/GF電令作第579号中矢矧ヲ削除ス、矢矧ハ1月中旬迄内海西部ニアリテ訓練整備ヲ実施スベシ』
  114. ^ #昭和19年11月〜二水戦日誌(2)p.15『二.人員ノ現状(イ)司令部(一)主要職員氏名「司令官」木村昌福少将 1月4日退部/古村啓蔵少将 1月4日着任』
  115. ^ 昭和20年1月9日(発令1月3日付)海軍辞令公報(甲)第1688号 p.37」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102800 
  116. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(1)p.10『大淀ハ4sfニ編入…』
  117. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(1)pp.10-11『北号作戦部隊(除1dg)10日2030ジョホールバール出撃途中敵潜敵機ノ触接攻撃ヲ蒙リツツモ其ノ都度之ヲ避退、排除シ20日呉着其ノ任ヲ達成セリ』
  118. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(1)p.11『20日呉ニテ2F(大和)ト会シ回航部隊ハ第二艦隊長官麾下ニ復シ23日旗艦ヲ霞ヨリ矢矧ニ復帰セリ。爾後麾下各隊艦ノ実状ヲ確ムルト共ニ大部ハ呉、一部ハ内海西部方面ニ於テ夫々急速整備及各隊艦単独訓練ニ従事セシム…』
  119. ^ #戦争と人間10頁
  120. ^ #猛き艨艟345頁
  121. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(1)p.65『29日1832将旗2F/朝霜ハ響ヲ曳航呉ニ向ヘ響自力航行可能トナラバ艦隊ニ合同セヨ、艦隊ハ明三十日姫島北方海面ヲ行動予定』
  122. ^ 週刊 栄光の日本海軍 パーフェクトファイル (No.24) p.25
  123. ^ 保存版 戦艦大和 最後の証言 生存者が語る歴史の真実! The Japanese Navy battle ship Yamato mechanic and story p.38
  124. ^ 【決定版】写真 太平洋戦争(4)p.312
  125. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(1)p.43『(ハ)作戦指導(一)編制区分/3月27日以後21駆逐隊司令艦ヲ朝霜ニ変更』-p.53『(三)麾下艦艇ノ行動』
  126. ^ 梯久美子『昭和二十年夏、僕は兵士だった』210頁
  127. ^ 井川『軍艦「矢矧」海戦記』264頁
  128. ^ #猛き艨艟347頁
  129. ^ スパー『戦艦大和の運命』180頁
  130. ^ #戦争と人間18-19頁、#巡洋艦戦記63頁
  131. ^ #軽巡二十五隻24-26頁『自殺作戦かくて発動す』
  132. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.14『1520出港後約1時間2sd高速編隊運動及対大和襲撃教練実施』
  133. ^ #図説太平洋海戦史第3巻238頁
  134. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.26『0657 朝霜(旗)機関故障後落(速力12節)』
  135. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)pp.26-27『0600 2sd矢矧機使用ニ関スル判断|一.水偵発艦又ハ搭載ノ利害(イ)搭載ノ儘空襲ヲ蒙ラバ使用不能トナルハ殆ド必至但シ空襲ナキカ小規模ナル中ハ保全投機使用可能|(ロ)発刊基地ヨリ行動セシムル場合之ガ使用意ノ如クナラズ機ニ投ジ得ザル算大|二.判決 最小限1機ハ突入時使用可能ナラシムル為1機ハ五分待機敵艦上機ヲ見バ発艦基地ヨリ行動1機ハ昼間燃料ヲ抜キ搭載ス|三.右判決ニ基キ1YBニ意見具申ス』
  136. ^ スパー『戦艦大和の運命』1238頁
  137. ^ 阿部三郎『特攻大和艦隊』単行本86頁
  138. ^ #大塚、錨と翼48頁
  139. ^ a b #軽巡二十五隻201-202頁『▽記録的だった矢矧の損傷』
  140. ^ #猛き艨艟357頁
  141. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.38『1246矢矧被弾被雷航行不能』
  142. ^ 井川『軍艦「矢矧」海戦記』316頁
  143. ^ a b 阿部三郎『特攻大和艦隊』単行本85頁
  144. ^ a b 「軍艦矢矧艦歴等」p.32
  145. ^ 井川『軍艦矢矧海戦記』319頁
  146. ^ #戦争と人間34頁
  147. ^ 井川『軍艦矢矧海戦記』308-309頁
  148. ^ 井川『軍艦矢矧海戦記』325頁
  149. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.36『1210朝霜→YB「我敵機ト交戦中」《冬月30度方向ニ朝霜交戦中ラシキ砲煙ヲ認ム》』-『1221朝霜→YB「90度方向ニ敵機30数機ヲ探知ス」《爾後同艦ノ消息ナシ》』
  150. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(3)p.31『朝霜:分離行動中ニシテ敵機ト交戦中ノ電ヲ発進後消息不明、船体沈没総員戦死セルモノト推定ス。准士官以上18名、下士官兵308名』
  151. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.38『1245浜風被弾航行不能1機撃墜《後甲板右舷爆弾命中両舷推進器切損》』-『1247浜風被雷火災』-『1248浜風船体切断沈没(30度47分北128度8分東)』
  152. ^ #大塚、錨と翼49頁(大塚によれば、浜風の轟沈は矢矧の被雷後。司令部移乗のため浜風を呼び寄せたところ、矢矧の目前で浜風は轟沈したという)
  153. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.39『1308凉月前部ニ直撃弾火災』-p.43『1430凉月後進ニテ北方ニ避退炎上中』
  154. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.39『1325霞直撃弾2至近弾ニ依リ航行不能』
  155. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.39『本時機ニ於ケル1YB判断處置 一.大和当面ノ戦闘航海支障ナシ|二.被害増大ノ情況ニ於テ突入期日時機変更ヲ要ス|三.損傷艦特ニ将旗2sd状況確認ノ為矢矧ノ方向ニ向フ』
  156. ^ a b #軽巡二十五隻239-242頁『艦尾に魚雷命中』
  157. ^ 井川『軍艦「矢矧」海戦記』320-321頁「断末魔の『矢矧』」
  158. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.38『1300 磯風二水戦旗艦変更ノ為矢矧ニ近接《當時矢矧主隊ト離隔約20粁》』
  159. ^ 『駆逐艦磯風と3人の特年兵』324頁、『我が青春の追憶』
  160. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.38『1328磯風、矢矧ニ横付ヲ試ム』
  161. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)pp.38-39『1330敵艦上機約150機来襲《第二波》』-『1332敵機来襲ニ依リ磯風横付中止矢矧ノ警戒ニ任ズ』
  162. ^ #巡洋艦戦記89頁
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  164. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.45『1535磯風→初霜「長官如何」左片舷航行出シ得ル速力12節』
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  166. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.40『1405矢矧沈没(累計直撃弾12被雷7)敵機生存者ヲ銃撃』
  167. ^ #図説太平洋海戦史第3巻242頁
  168. ^ 生命ある限りを国に捧げて(1990年)、77ページ
  169. ^ a b #大塚、錨と翼50頁
  170. ^ #軽巡二十五隻242-243頁『沈みゆく艦を目のあたりに』
  171. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.40『1417大和左舷ニ大傾斜《艦底露呈》ノ後誘爆瞬時ニシテ沈没』
  172. ^ 井川『軍艦「矢矧」海戦記』332頁、#戦争と人間41頁
  173. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.43『1440敵機矢矧、浜風生存者ヲ銃撃後脱去』
  174. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.48『1720冬月雪風、矢矧乗員救助 冬月(准士官以上22名、下士官兵254名)、雪風(准士官以上13名、下士官兵143名)』
  175. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(3)p.28『二.被害「矢矧 2sd司令部ヲ含ム」一.被弾及被雷情況(魚雷左舷4、右舷3、爆弾10発以上)|二.船体 7日1405沈没|三.戦死 446名(内准士官以上28名)、戦傷133名(内准士官以上9名)』
  176. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.57『三.収容人数(イ)2F司令部 准士官以上4名(参謀長砲術参謀副官ヲ含ム)、下士官兵3名|(ロ)大和 准士官以上副長以下23名、下士官兵246名|(ハ)矢矧 准士官以上艦長以下37名、下士官兵(2sd司令部附ヲ含ム)466名、2sd司令部職員異状ナシ|(ニ)磯風 准士官以上全員、下士官兵326名|(ホ)浜風 准士官以上駆逐艦長以下12名、下士官兵244名|(ヘ)霞 准士官以上駆逐艦長以下15名、下士官兵307名』
  177. ^ 阿部三郎『特攻大和艦隊』単行本90頁
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  179. ^ #昭和19年11月〜第17駆日誌(9)pp.37-38『旭部隊本部191310→初霜雪風冬月凉月/20日ノ儀礼ヲ左ノ通リ定ム|一.1330メクカメ(駆逐艦長)以上初霜ニ参集伺候訓示|二.1330司令官退艦将旗ヲ撤去ス(使用短艇防備隊内火艇)|三.服装第三種軍装短剣、畧授|四.初霜ハ司令官退艦時総員見送ノ位置ニ就ク』-『201330将旗2sd→大臣、総長、GF、潮(11S)、31S、各鎮/本職将旗ヲ撤ス』
  180. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(1)p.52『4月20日第二水雷戦隊戦時編制ヨリ除カレ1330将旗ヲ徹ス』
  181. ^ 井川『軍艦「矢矧」海戦記』219-221頁「高角望遠鏡との再会」
  182. ^ 『最後の巡洋艦・矢矧』226頁
  183. ^ #戦争と人間37頁
  184. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(3)p.54『(イ)現在ノ艦橋ハ防空指揮所施設不良操艦戦闘指揮見張等全部防空指揮所ニテ行フ如ク改造ヲ要ス、飛行機ノ操縦席ノ如ク風防式トナスヲ可トス|(ロ)水上艦艇ノ旋回圏ヲ極小ナラシムル為速ニ前舵ヲ附スル必要アリ《全部揚錨機ヲ使用シテ出入可能ナル如ク計画ス』
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参考文献

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  • 『大日本帝国海軍 巡洋艦「矢矧」はるか―愛知県岡崎市矢作神社に遺る奉納遺物等について―』小林清司編著 編著者 2016.08 1冊 30cm
  • 『大日本帝国海軍 巡洋艦「矢矧」はるか―愛知県岡崎市矢作神社に遺る奉納遺物等について―』別冊資料 小林清司翻刻 翻刻者 2016.10   30P 30cm「軍艦矢矧ニ於ケル流行性感冒患者発生当時ノ実況(山口傳一)」
  • 『大日本帝国海軍 巡洋艦「矢矧」はるか―愛知県岡崎市矢作神社に遺る奉遺物等について―』改訂版 小林清司編著 編著者 2016.10 1冊 30cm 別冊資料「軍艦矢矧ニ於ケル流行性感冒患者発生当時ノ実況(山口傳一)」(翻刻 30P)
  • 『大日本帝国海軍 巡洋艦「矢矧」はるか―愛知県岡崎市矢作神社に遺る奉納遺物等について―』改訂増補新版 小林清司編著 編著者 2021.03 1冊(150P) 30cm 別冊資料「軍艦矢矧ニ於ケル流行性感冒患者発生当時ノ実況(山口傳一)」(翻刻 30P)
  • 『防護巡洋艦「矢矧」(矢矧Ⅰ)絵葉書集 附矢作橋絵葉書』小林清司編集 編者 2021.03 13P 30cm
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  • 井上理二『駆逐艦磯風と三人の特年兵』光人社、1999年。ISBN 4-7698-0935-2 
  • 生出寿『戦艦「大和」最後の艦長 海上修羅の指揮官』光人社、1996年12月。ISBN 4-7698-2143-3 
  • 大塚常夫『海軍十三期飛行予備学生 錨と翼の一年十ヶ月』アサヒ出版、1993年12月。  大塚は矢矧水上偵察機搭乗員。矢矧沈没から生還。
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  • 宮内庁 編『昭和天皇実録 第八 昭和十五年至昭和十七年』東京書籍株式会社、2016年3月。ISBN 978-4-487-74408-4 
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    • 「戦術の極意」<駆逐艦「」艦長・石塚栄少佐の証言>(太平洋戦争時、村雨水雷長、北上水雷長、矢矧水雷長、槇艦長等)
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  • 立花譲『帝国海軍士官になった日系二世』(築地書館、1994年) 坊の岬海戦当時「矢矧」通信士官。
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  • 外山操『艦長たちの軍艦史』(光人社、2005年)ISBN 4-7698-1246-9
  • 永井喜之・木俣滋郎「第2部 第二次世界大戦/日本編 第7章 日本空母「翔鶴」」『新戦史シリーズ撃沈戦記・PARTII』朝日ソノラマ、1988年10月。ISBN 4-257-17223-1 
  • (社)日本造船学会 編『昭和造船史(第1巻)』(3版)原書房〈明治百年史叢書 第207巻〉、1981年(原著1977年)。ISBN 4-562-00302-2 
  • 原勝洋「「大和」特攻に殉じた「矢矧」絶望の対空戦 軽巡洋艦「矢矧」」『猛き艨艟 太平洋戦争日本軍艦戦史』文春文庫、2000年8月。ISBN 4-16-745602-8 
  • 原為一『帝國海軍の最後』(河出書房、1962年)
  • 原為一『帝国海軍の最後』河出書房新社、2011年7月(原著1955年)。ISBN 978-4-309-24557-7 
  • 原為一ほか『軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌』潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8 
    • 当時「矢矧」艦長・海軍大佐原為一『戦艦大和に殉じた巡洋艦「矢矧」秘話』有効な戦法はないものか-艦長の脳裏にひらめいた起死回生の秘策
    • 当時「矢矧」第五機銃群指揮官・海軍少尉安達耕一『沖縄特攻に賭けた矢矧の断末魔を見た』襲いくる敵艦上機の大群を迎えうった機銃指揮官の対空戦闘
    • 戦史研究家伊達久『航跡でたどる軽巡二十五隻の栄光と悲惨』
    • 「丸」編集部『外国戦史に見る日本軽巡の最後』
    • 戦史研究家柏木浩『日本の軽巡洋艦かく戦えり』
    • 戦史研究家落合康夫『日本海軍軽巡洋艦戦歴一覧』
  • 福井静夫 編『-海軍造船技術概要別冊- 海軍艦艇公式図面集』今日の話題社、1987年。ISBN 4-87565-212-7 
  • 福田幸弘『連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記』時事通信社、1981年7月。ISBN 4-7887-8116-6 
  • 福地政男『戦争と人間 沖縄特攻』文芸社、2013年8月。ISBN 978-4-286-14033-9  著者は「矢矧」水雷科。飛行甲板左舷機銃射手。
  • 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦 第9巻 軽巡II』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0459-8 
    • 梅野和夫『阿賀野型の航空兵装』、112-113頁。 
  • 「丸」編集部編「井上芳太 赤道の海を奮戦した軍艦「矢矧」の壮絶なる最後」『巡洋艦戦記 重巡「最上」出撃せよ』光人社、2011年8月(原著1990年)。ISBN 978-4-7698-2700-9 
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  • 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」
  • 柴田芳三『我が青春の追憶 上巻』。ASIN B014OQA6VShttps://web.archive.org/web/20151222084320/http://aimy.or.tv/book/  - 磯風乗員の手記。
  • 柴田芳三『我が青春の追憶 下巻』。ASIN B015424UQIhttps://web.archive.org/web/20151222084320/http://aimy.or.tv/book/  - 磯風乗員の手記。
  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集 15 軽巡川内型・阿賀野型・大淀・香取型』光人社、1997年、ISBN 4-7698-0816-X
    • 103-105ページ、落合康夫「軽巡洋艦『阿賀野・能代・矢矧・酒匂』行動年表」
  • 井上芳太「生命ある限りを国に捧げて 赤道の海を奮戦した軍艦「矢矧」の壮絶なる最後」『生命ある限りを国に捧げて』証言昭和の戦争 リバイバル戦記コレクション2、光人社、1990年、ISBN 4-7698-0486-5、13-82ページ

外部リンク

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