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岸波 (駆逐艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
艦歴
計画 1942年度(マル急計画
起工 1942年8月29日
進水 1943年8月19日
就役 1943年12月3日竣工
その後 1944年12月4日戦没
除籍 1945年1月10日
性能諸元
排水量 基準:2,077t
公試:2,520t
全長 119.3m
全幅 10.8m
吃水 3.76m
主缶 ロ号艦本式缶3基
主機 艦本式タービン2基2軸 52,000hp
最大速力 35.0kt
航続距離 18ktで5,000浬
燃料 重油:600トン
乗員 225名
武装(新造時) 50口径12.7cm連装砲 3基6門
25mm連装機銃 2基
61cm4連装魚雷発射管 2基8門
九三式魚雷16本)
爆雷×18乃至36

岸波(きしなみ)は[1]日本海軍駆逐艦[2]夕雲型駆逐艦の15番艦である。

概要

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一等駆逐艦岸波(きしなみ)は、日本海軍が浦賀船渠で建造した夕雲型駆逐艦で、1943年(昭和18年)12月3日に竣工した[3]。 竣工直後は訓練部隊の第十一水雷戦隊に所属し、訓練や護衛任務に従事した。 1944年(昭和19年)2月10日[2]、岸波は第二水雷戦隊隷下の第31駆逐隊に編入された[4][注 1]。船団護衛や松輸送に従事したあと、6月中旬以降の「あ号作戦」(マリアナ沖海戦)に機動部隊前衛部隊として参加した[5]。 7月末、リンガ泊地に進出し、訓練に従事する[2]

10月下旬の捷一号作戦では第一遊撃部隊(第二艦隊基幹)[6]に所属してレイテ沖海戦に参加、10月23日に第二艦隊旗艦(第一遊撃部隊旗艦)「愛宕[7]が米潜水艦の魚雷攻撃で沈没すると岸波と朝霜は生存者を救助[8]栗田健男第二艦隊司令長官は戦艦大和に移乗するまで岸波に滞在し、本艦に第二艦隊司令長官の将旗を掲げた[9]。 11月初頭からは第二遊撃部隊(第五艦隊基幹)に所属し[10]、岸波は油槽船護衛任務につく[2]。12月4日、南シナ海で米潜水艦フラッシャーの魚雷攻撃により沈没した[3]

艦歴

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建造

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岸波は1942年度(マル急計画)仮称第343号艦として浦賀船渠で建造された[11]1943年(昭和18年)5月25日に岸波と命名され[1]、夕雲型駆逐艦として登録された[12]。 10月16日、浦賀船渠の岸波艤装員事務所は事務を開始する[13]11月12日、日本海軍は11月上旬まで白露型駆逐艦海風艦長[14][15]を務めていた三舩俊郎(三船俊郎)中佐を、岸波艤装員長に任命する[16]

12月3日、岸波は竣工した[3](残工事を横須賀で実施)[17]。岸波艤装員事務所は撤去された[18]。三船中佐(岸波艤装員長)は制式に岸波駆逐艦長(初代)となる[19]。主要幹部(初代)は、航海長藤川勘治大尉、砲術長宮嵜武男大尉、水雷長曾出久大尉、機関長城野市三機関大尉[19]舞鶴鎮守府[20]。 同時期に竣工した姉妹艦朝霜(11月27日竣工、藤永田造船所)[21]沖波[22](12月10日竣工、舞鶴海軍工廠)[23]と共に、訓練部隊の第十一水雷戦隊に編入された[24]

昭和19年前半の行動

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1944年(昭和19年)1月19日、空母雲鷹が米潜水艦の雷撃で大破し、駆逐艦の護衛でサイパンから横須賀に回航される[25]。岸波と沖波は29日に柱島泊地を出港、小笠原諸島周辺を航行中の雲鷹救援に向かった[26]。雲鷹を護衛中の重巡高雄(2月1日、雲鷹と合流)[27]や他の駆逐艦と合流した[28]。 2月7日[27]、雲鷹と岸波をふくむ護衛部隊は横須賀に到着した[29][30]

2月10日、夕雲型駆逐艦長波単艦になっていた第二水雷戦隊隷下の第31駆逐隊(駆逐隊司令福岡徳治郎大佐)に岸波[2]、沖波[22]、朝霜[31]が編入され、同駆逐隊は夕雲型4隻となった[4]。福岡大佐は、31駆司令駆逐艦を岸波に指定した[32]。長波は前年のラバウル空襲で受けた損傷を呉海軍工廠において修理中のため[33]、第31駆逐隊は当面3隻で輸送作戦に投入された。

第31駆逐隊は26日に広島・宇品を出港し、マリアナ諸島にむかう第29師団[34]を乗せた安藝丸(11,409トン)、東山丸(8,666トン)、崎戸丸(9,247トン)の3隻を護衛した[35][36]。 29日未明に米潜水艦に襲撃され、被雷した崎戸丸が沈没、安藝丸も魚雷1本が命中して戦死者30名を出した[35]。崎戸丸沈没により歩兵第18聯隊長の門間健太郎大佐以下約2,000名が戦死、生存者は1720名で、歩兵第18連隊の軍旗は岸波に移った[35]。岸波と朝霜は米潜水艦を攻撃、朝霜の爆雷攻撃で米潜水艦トラウトを撃沈した[37]。沖波は東山丸と安藝丸を護衛し、サイパン島グアムに送り届けた[38][39]。岸波と朝霜に救助された崎戸丸生存者も、6日になりサイパンへ上陸した[38][39]

第31駆逐隊の3隻は横須賀に帰投後、松輸送に従事した[40]。3月20日、東松三号特別船団の輸送船3隻(浅香丸山陽丸さんとす丸)を護衛して館山を出港、25日にサイパン行の山陽丸を分離し、28日トラック泊地に到着した[41]。その後も第31駆逐隊は船団護衛を行い、5月上旬にリンガ泊地へ進出、14日からはタウイタウイ方面で対潜警戒に従事した[42]

マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦

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6月中旬までに、連合艦隊の大部分の戦力はタウイタウイ泊地に集結した[43]。6月19-20日のマリアナ沖海戦で、第31駆逐隊は第二艦隊を中心とする前衛部隊(指揮官栗田健男中将、第二艦隊司令長官。旗艦「愛宕」)に所属した[44](海戦の経過は当該記事を参照)。前衛部隊は20日に対空戦闘をおこない、損傷艦数隻(千代田、榛名、摩耶)を出した[45]。日本軍は海戦に敗れた[46]。前衛部隊は沖縄・中城湾を経て、24日に柱島泊地に帰投した[47]

マリアナ諸島の戦局が悪化する中、日本海軍は南西方面に第一遊撃部隊[6](第二艦隊基幹)[注 2]の主力を移動させることを決めた[48][49]。7月8日、第一戦隊(大和武蔵)、第四戦隊(愛宕〔第二艦隊旗艦〕、高雄鳥海)、第七戦隊(熊野鈴谷利根筑摩)、駆逐艦部隊(岸波、沖波、朝霜、長波、浜波島風時雨五月雨)をもって編成された「甲部隊」として内海西部を出撃[50]、第31駆逐隊は第四戦隊の護衛に当たった[2]。沖縄に立ち寄って輸送物件をおろし、第31駆逐隊は武蔵から燃料を補給した[51]。7月16日、甲部隊はシンガポールとリンガ泊地に進出[52]、乙部隊や輸送作戦に従事していた小部隊も7月末までにはリンガ泊地に到着した[53]。以後、遊撃部隊はリンガ泊地で訓練にはげむ[54]。8月中旬になると、第31駆逐隊はシンガポール~クチン(ボルネオ島)間の船団護衛任務に従事した[55]

10月18日、日本軍は捷一号作戦を発動した[56]。第31駆逐隊は第二艦隊司令長官栗田健男中将(旗艦「愛宕」)が率いる第一遊撃部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官、通称栗田艦隊または栗田部隊)の第一部隊(第四戦隊〈愛宕、高雄、摩耶、鳥海〉、第一戦隊〈大和、武藏、長門〉、第五戦隊〈妙高、羽黒〉、第二水雷戦隊〈軽巡〔能代〕、第2駆逐隊〔早霜、秋霜〕[注 3]、第31駆逐隊〔岸波、沖波、朝霜、長波〕、第32駆逐隊〔浜波、藤波〕、島風型〔島風〕)に所属した[57](海戦の経緯と推移は当該記事を参照)。第一遊撃部隊はリンガ泊地からブルネイ湾に移動し、補給をおこなう[58]。22日、西村部隊(第二戦隊司令官西村祥治中将)と補給部隊をブルネイ泊地に残し、栗田艦隊は同地を出撃した[59][60]

23日未明、栗田艦隊はパラワン水道で米潜水艦ダーターとデースの攻撃を受けた[61][62]。第二艦隊旗艦の重巡愛宕はダーター[7]の魚雷攻撃を受けて航行不能となり、第一部隊の中央にいた岸波と朝霜は救援命令を受けて愛宕に接近した[63][64]。愛宕に横付けを試みたが、急傾斜のため接舷できなかった[65][66]。愛宕は午前6時53分に沈没し、生存者は岸波と朝霜に救助された[65]。岸波には栗田中将や小柳冨次参謀長[注 4]ら第二艦隊司令部も泳ぎ着き、200名以上の将兵と愛宕の御真影が移乗した[65][67]。栗田長官は岸波を臨時の第二艦隊旗艦としたが、実際の指揮は第一戦隊司令官宇垣纏中将が戦艦大和より代行している[68]。 この日、米潜水艦デースの攻撃で重巡摩耶が沈没[69]、ダーターの雷撃で高雄が航行不能になった[27][70]。高雄は朝霜[31]と長波[注 5]の護衛下で戦場を離脱した[72]。同日午後3時以降、岸波は大和に接舷して栗田長官ふくめ第二艦隊司令部を移乗させる[73]。大和と岸波は洋上に停止したが、安定している大和に対し、岸波は波の影響により常に動揺していた[74]。そこで、栗田長官等はロープを使って岸波から大和に引き上げられている[73]。栗田長官は大和に将旗を掲げ、大和は第二艦隊旗艦と第一戦隊旗艦を兼ねることになった[75][76]

栗田艦隊は24日にシブヤン海で空襲を受け、武蔵が沈没する[77]。ほかに重巡妙高[78]と駆逐艦浜風および清霜[79]が損傷および武蔵生存者救助のため艦隊を離脱した[80]。 25日、栗田艦隊はサマール島沖で米護衛空母部隊を追撃するが、岸波など第二水雷戦隊に大きな戦果はなかった[注 6]。レイテ沖海戦は、日本の大敗で終わった[83]。二水戦は、軽巡能代と駆逐艦藤波[84]および早霜[85]を失った[86]。岸波は小破認定であった[87]。 戦場離脱中、燃料が不足した駆逐艦5隻(岸波、島風浦風浜波秋霜)はコロン島でタンカー日栄丸や重巡洋艦那智から燃料を補給した[88]

南西海域での輸送作戦、沈没

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レイテ沖海戦から帰投中、第31駆逐隊は第二遊撃部隊(指揮官志摩清英中将、第五艦隊司令長官)に所属変更となった[10][89]。29日午前1時、岸波含め駆逐艦5隻はブルネイ湾に帰投し、先行していた第一遊撃部隊主力と合同した[90]。同日午前、妙高と長波はコロン湾に到着した[91][92]。妙高は翌日ブルネイを出発[93]、岸波と第34号掃海艇は妙高の護衛を命じられていた[94]。11月3日、妙高はシンガポールに到着した[92]

11月11日、第三次多号作戦に従事中の長波が沈没する[33]。 13日にマニラ湾は米軍機動部隊艦載機による大規模な空襲を受け、日本軍は大損害をうける[95]。夕雲型では沖波[23]と秋霜[96][97]が大破着底した。 15日、海軍は艦隊の再編を実施、第31駆逐隊から朝霜が転出し、かわりに浜波が編入された[98]。だが浜波はすでに第三次多号作戦で沈没しており[99][100]、健在の第31駆逐隊は岸波1隻だった。

11月22日の時点で、岸波は第二遊撃部隊各艦と共にリンガ泊地にいた[101]。 26日、岸波は敷設艇由利島、第17号海防艦と共に海軍配当船八紘丸を護衛してシンガポールを出港した[102]。12月1日夜、マニラ到着[103]。荷揚げ後、船団は3日にマニラを出発、シンガポールへ帰路についた[104]。だが船団は米潜水艦ホークビルに通報され、米潜水艦フラッシャーが船団の前方で待ち伏せした[105]

12月4日午前10時30分、フラッシャーはパラワン島北西沖で船団を発見し、魚雷4本を発射した[106]。魚雷1本が岸波の前部機関室右舷(第二魚雷発射管の下部)に命中し、航行不能となった[107][108]。続いてフラッシャーは八紘丸に魚雷4本を発射[109]、2本が命中し八紘丸も航行不能になった[106]。僚艦が岸波を曳航しようとしたが、午後2時2分、再度の魚雷攻撃をうける[106]。魚雷2本が岸波に命中した[106]。命中箇所は、第一缶室(艦橋後部付近)と、先に被雷した前部機械室付近[108]。岸波は左舷に傾斜したあと、被雷部分で船体が折れて沈没した[110]。 第二水雷戦隊の記録によると、沈没海域は北緯13度12分 東経116度39分 / 北緯13.200度 東経116.650度 / 13.200; 116.650[2]。三舩艦長ら90名が戦死する[111]。戦死者の中には、南雲忠一海軍大将の長男、南雲進少尉(海兵73期)も含まれていた[112]。生存者は150名であったという[106]。フラッシャーはさらに八紘丸に魚雷を命中させ、八紘丸は沈没した[113][114]

1945年(昭和20年)1月10日、岸波は帝国駆逐艦籍から除籍され、稼働艦がなくなった第31駆逐隊[103]も解隊された[115][116]

幻の駆逐艦「イワナミ」

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アメリカ潜水艦フラッシャー

ところで、フラッシャーはこの時の5回目の哨戒で岸波・八紘丸のほかに12月22日にタンカー音羽山丸(三井船舶、9,204トン)、ありた丸(石原汽船、10,238トン)、御室山丸(三井船舶、9,204トン)を撃沈して、都合5隻を撃沈した。フリーマントルに帰投後作成された報告書でも、「駆逐艦1隻、タンカー4隻を撃沈。計41,700トン」と記されてある[117]。ところが、戦争終結後にJANAC英語版の再調査を経て公認されたフラッシャーの戦果に変化が起こった。フラッシャーの5回目の哨戒で挙げた戦果は「駆逐艦2隻、タンカー4隻を撃沈。計42,868トン」に上方修正されたのである[118]。そして、この増加分は駆逐艦「イワナミ」[119]であり、フラッシャーは12月4日の一連の攻撃で、最初の攻撃で岸波を、三度目の攻撃で「イワナミ」を撃沈したという事になった。

この「イワナミ」撃沈はフラッシャーにとって値千金の「戦果」となった。JANAC の再調査を経て認定されたフラッシャーの総合戦果は21隻、100,231トンとされ、第二次世界大戦において10万トンを超える敵艦を撃沈したアメリカ海軍唯一の潜水艦として称賛されることとなった。「イワナミ」なる駆逐艦は日本海軍には存在していない。JANAC の記録は日本側の記録を厳格に精査して作成された記録であるにもかかわらず[120]、フラッシャーによる「イワナミ」の「撃沈」が取り消されることはなかった。ただし、全てのアメリカ側記録が「イワナミ」の「撃沈」を認定したり記載しているわけではなく、例えばThe Official Chronology of the U.S. Navy in World War IIには「イワナミ」の名前は記載されていない。ちなみに、計42,868トンの内訳のうち岸波と「イワナミ」のトン数は2,100トンで計算されており、タンカーは実際と同じトン数になっている[118]

歴代艦長

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艤装員長
  1. 三舩俊郎 中佐:1943年11月12日[16] - 1943年12月3日[19]
駆逐艦長
  1. 三舩俊郎 中佐:1943年12月3日[19] - 1944年12月4日 戦死、同日付任海軍大佐[111]

参考文献

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  • 井上理二波濤の中の青春 駆逐艦磯風と三人の特年兵』光人社〈光人社NF文庫〉、2011年10月(原著1999年)。ISBN 978-4-7698-2709-2 
  • 池田清『重巡摩耶 元乗組員が綴る栄光の軌跡』学習研究社〈学研M文庫〉、2002年1月(原著1986年)。ISBN 4-05-901110-X 
  • 宇垣纏、成瀬恭発行人『戦藻録 明治百年史叢書』原書房、1968年1月。 
  • 大井篤「第6章 崩れ去る夏の陣(昭和19年6月から同年8月まで)」『海上護衛戦』株式会社KADOKAWA〈角川文庫〉、2014年5月(原著1953年)。ISBN 978-4-04-101598-8 
  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、発売:第一法規出版、1995年。
  • 岸見勇美『地獄のレイテ輸送作戦 敵制空権下の多号作戦の全貌光人社〈光人社NF文庫〉、2010年12月。ISBN 978-4-7698-2666-8 
  • 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年7月。 
  • 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年3月。 
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年3月。 
  • 木俣滋郎『日本海防艦戦史』図書出版社、1994年9月。ISBN 4-8099-0192-0 
  • 木俣滋郎『潜水艦攻撃 日本軍が撃沈破した連合軍潜水艦』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2016年5月(原著1989年)。ISBN 978-4-7698-2949-2 
  • 小板橋孝策『海軍操舵員よもやま物語 艦の命運を担った"かじとり魂"』光人社〈光人社NF文庫〉、2015年1月(原著1995年)。ISBN 978-4-7698-2868-6 
  • 小島清『栗田艦隊退却す 戦艦「大和」暗号士の見たレイテ海戦』光人社〈光人社NF文庫〉、2009年9月(原著1979年)。ISBN 978-4-7698-2617-0 
  • 駒宮真七郎『続・船舶砲兵 救いなき戦時輸送船の悲録』出版協同社、1981年
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年、ISBN 4-87970-047-9
  • 古村啓蔵ほか『重巡十八隻 軍縮条約が生んだ最先端テクノロジーの結晶』潮書房光人社、2015年4月。ISBN 978-4-7698-1590-7 
  • 重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8 
    • (255-342頁)戦史研究家伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧 太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後
  • 永沢道雄『戦艦「大和」暗号士の終戦 一海軍予備学生のフィリピン戦記』光人社〈光人社NF文庫〉、2003年6月(原著1995年)。ISBN 4-7698-2384-3 
  • C・W・ニミッツ、E・B・ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1962年12月。 
  • 原為一ほか『軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌』潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8 
  • 深井俊之助『戦艦「大和」反転の真相 海軍士官一〇四歳が語る戦争』宝島社〈宝島社新書〉、2018年7月。ISBN 978-4-8002-8494-5 
  • 福井静夫 著、阿部安雄・戸高一成/編集委員 編『福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記 日本駆逐艦物語』 第5巻、光人社、1993年1月。ISBN 4-7698-0611-6 
  • 福田幸弘『連合艦隊 ― サイパン・レイテ海戦記』時事通信社、1981年7月(原著1983年)。 
  • 淵田美津雄奥宮正武『機動部隊 新装版戦記文庫』朝日ソノラマ、1992年12月(原著1951年)。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦(1) マリアナ玉砕まで』 第6巻、朝雲新聞社、1967年7月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 マリアナ沖海戦』 第12巻、朝雲新聞社、1968年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍捷号作戦(1) 臺灣沖航空戦まで』 第37巻、朝雲新聞社、1970年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海上護衛戦』 第46巻、朝雲新聞社、1971年5月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降』 第54巻、朝雲新聞社、1972年3月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍捷号作戦(2) フィリピン沖海戦』 第56巻、朝雲新聞社、1972年6月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營陸軍部<8> ―昭和十九年七月まで―』 第75巻、朝雲新聞社、1974年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營陸軍部<9> ―昭和二十年一月まで―』 第81巻、朝雲新聞社、1975年2月。 
  • 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦 重巡 I 妙高・足柄・那智・羽黒 巡洋艦の発達』 第5巻、光人社、1989年11月。ISBN 4-7698-0455-5 
  • 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦 重巡 II 高雄・愛宕 鳥海・摩耶 古鷹・加古 青葉・衣笠』 第6巻、光人社、1990年1月。ISBN 4-7698-0456-3 
  • 雑誌『丸』編集部 編『ハンディ判日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年10月。ISBN 4-7698-0818-6 
  • 「丸」編集部編『重巡洋艦戦記 私は決定的瞬間をこの目で見た!』光人社、2010年11月。ISBN 978-4-7698-1485-6 
    • (233-243頁)当時第二艦隊司令長官・元海軍中将栗田健男述『レイテ湾突入ならず 米戦略爆撃調査団に対する栗田長官の証言記録
  • 矢花冨佐勝『駆逐艦勤務 日本海軍兵士の艦上での日常』新風社、2007年8月。ISBN 978-4-289-01255-8 
  • 山本平弥ほか『秋月型駆逐艦<付・夕雲型・島風・丁型> 戦時に竣工した最新鋭駆逐艦の実力と全貌』潮書房光人社、2015年3月。ISBN 978-4-7698-1584-6 
    • (220-229頁)戦史研究家伊達久『夕雲型駆逐艦十九隻&島風の太平洋戦争』
  • 歴史群像編集部編『水雷戦隊II 陽炎型駆逐艦 究極の艦隊型駆逐艦が辿った栄光と悲劇の航跡』 第19巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、1998年8月。ISBN 4-05-601918-5 
    • (85-94頁)向井学「艦隊型駆逐艦全131隻行動データ」
  • 歴史群像編集部編『秋月型駆逐艦 対空戦に威力を発揮した空母直衛艦の勇姿』 第23巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、1999年10月。ISBN 4-05-602063-9 
    • (158-168頁)文・作図=岡田幸和 特別企画1 損傷と応急対策『日本駆逐艦の戦闘被害調査 太平洋戦争で被害を受けた駆逐艦129隻の中から29隻を抽出し、魚雷・爆撃・砲撃・機雷の被害別に損傷を検証し応急対策等に言及する。
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和18年1月~8月 達/5月(3)』。Ref.C12070118900。 
    • 『昭和18年5~6月内令2巻/昭和18年5月(7)』。Ref.C12070177800。 
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    • 『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第11水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030126800。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030101800。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030102000。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030102100。 
    • 『昭和18年9月1日~昭和19年3月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030085900。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年11月30日 軍艦高雄戦時日誌(1)』。Ref.C08030569700。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年11月30日 軍艦高雄戦時日誌(2)』。Ref.C08030569800。 
    • 『昭和17年12月1日~昭和19年5月26日 特設水上機母艦山陽丸戦時日誌(7)』。Ref.C08030661300。 
    • 『昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030039900。 
    • 『昭和17年5月3日 昭和17年6月24日 あ号作戦日暦/昭和17年5月3日~昭和17年6月2日』。Ref.C16120697700。 
    • 『昭和17年5月3日 昭和17年6月24日 あ号作戦日暦/昭和17年6月3日~昭和17年6月24日』。Ref.C16120697800。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年11月30日 軍艦高雄戦時日誌(6)』。Ref.C08030570200。 
    • 『昭和19年10月23日 軍艦愛宕戦闘詳報並に戦訓所見』。Ref.C08030569000。 
    • 『昭和19年10月24日~昭和19年10月26日 第31駆逐隊(岸波)戦闘詳報』。Ref.C08030590000。 
    • 『昭和19年10月22日~昭和19年10月28日 駆逐艦秋霜戦闘詳報』。Ref.C08030589400。 
    • 『昭和19年10月17日~昭和19年10月28日 軍艦大和戦闘詳報第3号(1)』。Ref.C08030564500。 
    • 『昭和19年10月22日~昭和19年10月28日 第17駆逐隊戦闘詳報』。Ref.C08030589300。 
    • 『昭和19年10月1日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(1)第十戦隊』。Ref.C08030037400。 
    • 『昭和19年10月1日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(2)第十戦隊』。Ref.C08030037500。 
    • 『昭和19年10月1日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(3)第十戦隊/第十六戦隊』。Ref.C08030037600。 
    • 『昭和19年10月1日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦時日誌(2)第五戦隊』。Ref.C08030039200。 
    • 『昭和19年10月1日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦時日誌(3)第7戦隊』。Ref.C08030039300。 
    • 『昭和19年10月1日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦時日誌(4)第10戦隊』。Ref.C08030039400。 
    • 『昭和19年10月1日~昭和19年11月5日 捷号作戦戦時日誌(7)軍艦能代・軍艦妙高』。Ref.C08030038600。 
    • 『昭和19年10月24日 軍艦妙高戦闘詳報』。Ref.C08030567900。 
    • 『第1表/2.1944年10月18日以降増援兵力』。Ref.C14061098700。 
    • 『S士官の手記 史実調査部/沖波戦闘行動関係』。Ref.C14061106300。 
    • 『S士官の手記続篇史実調査部』。Ref.C14061106400。 
    • 『第3/2.海上作戦(レイテ海戦)(1)』。Ref.C14061134700。 
    • 『第3/2.海上作戦(レイテ海戦)(2)』。Ref.C14061134800。 
    • 『第3/3.陸上作戦』。Ref.C14061134900。 
    • 『昭和19年10月 昭和19年12月レイテ作戦 第3/4.輸送作戦』。Ref.C14061135000。 
    • 『昭和19.9.1~昭和19.11.30太平洋戦争経過概要 その10/19年10月1日~19年10月17日』。Ref.C16120646200。 
    • 『昭和19.9.1~昭和19.11.30太平洋戦争経過概要 その10/19年10月18日~19年10月31日』。Ref.C16120646300。 
    • 『昭和19.9.1~昭和19.11.30太平洋戦争経過概要 その10/19年11月1日~19年11月27日』。Ref.C16120646400。 
    • 『昭和19.9.1~昭和19.11.30太平洋戦争経過概要 その10/19年11月1日~19年11月14日』。Ref.C16120646500。 
    • 『昭和19.9.1~昭和19.11.30太平洋戦争経過概要 その10/19年11月16日~19年11月30日』。Ref.C16120646600。 
    • 『多号作戦経過概要(史実調査部資料による)業績課艦船班』。Ref.C14061108500。 
    • 『昭和19年6月1日~昭和19年12月13日 第30駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030149800。 
    • 『昭和19年9月1日~昭和19年11月11日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030087300。 
    • 『昭和19年9月1日~昭和19年11月11日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030087600。 
    • 『昭和19年11月20日~昭和19年12月30日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030102400。 
    • 『昭和19年11月20日~昭和19年12月30日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030102500。 
    • 『昭和19年11月1日〜昭和20年2月5日 第5艦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030019800。 
    • 『昭和19年11月1日〜昭和20年2月5日 第5艦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030019900。 
    • 『昭和19年7月~昭和20年3月 各護衛担任部隊指定航路と敵潜に依る被害一覧図(2)』。Ref.C08030708500。 
    • 『昭和19.1.1~昭和19.3.31 太平洋戦争経過概要 その7/第三段作戦19年2月23日~19年2月29日』。Ref.C16120639300。 
    • 『昭和19.1.1~昭和19.3.31 太平洋戦争経過概要 その7/第三段作戦(船舶被害「沈没」之部)19年2月1日~19年2月29日』。Ref.C16120639600。 
    • 『昭和19.1.1~昭和19.3.31 太平洋戦争経過概要 その7/第三段作戦(船舶被害「損傷」之部)19年2月1日~19年2月29日』。Ref.C16120639700。 
    • 『昭和19.1~昭和20.2 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2/昭和19年12月』。Ref.C16120660300。 

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 1944年2月10日の岸波編入時点で、第31駆逐隊は夕雲型駆逐艦長波のみ。岸波と同日附で沖波朝霜を編入し[4]、岸波・長波・沖波・朝霜の4隻編制となる。
  2. ^ 1944年8月1日に第五艦隊を基幹とする第二遊撃部隊が編成され、従来の遊撃部隊は第一遊撃部隊と改称。
  3. ^ 第2駆逐隊所属の清霜は、第一遊撃部隊第二部隊所属。
  4. ^ 小柳参謀長は、愛宕から脱出する時に右脚を負傷した。
  5. ^ 翌24日、重巡妙高が空襲で損傷すると、長波は妙高のブルネイ回航を護衛するよう下令された[71]
  6. ^ 第二水雷戦隊は、0900から0922にかけて、巡洋艦1隻を撃沈したと記録している[81]。これは駆逐艦ホエールと推定されている[82]

出典

[編集]
  1. ^ a b #達昭和18年5月(3)pp.4-6「達第百二十一號 昭和十七年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦三隻、潜水艦三隻、海防艦二隻、驅潜艇二隻及特務艦一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十八年五月二十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 沖波(オキナミ)|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 驅逐艦 岸波(キシナミ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 朝霜(アサシモ)」
  2. ^ a b c d e f g 山本ほか、秋月型 2015, p. 227a岸波(きしなみ)
  3. ^ a b c 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 94a岸波(きしなみ)
  4. ^ a b c #内令昭和19年2月(2)p.18〔内令第三百十四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年二月十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、巻波、大波」ヲ「長波、岸波、沖波、朝霜」ニ改ム〕
  5. ^ 日本水雷戦史 1986, p. 452〈マリアナ海戦の日本水戦―昭和十九年六月十九日〉
  6. ^ a b 戦史叢書37巻 1970, pp. 390–391第一遊撃部隊
  7. ^ a b #丸写真6重巡II、37頁「重巡洋艦『高雄・愛宕』行動年表 ◇愛宕◇」
  8. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 141–142旗艦愛宕の被雷沈没
  9. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 146–147混乱からの事態収拾
  10. ^ a b 戦史叢書56巻 1972, pp. 507–508護衛艦艇のマニラ集結
  11. ^ 福井1993・日本駆逐艦物語、290頁
  12. ^ #内令昭和18年5月(7)pp.4-5〔内令第千二十七號 艦艇類別等級別表左ノ通改正ス 昭和十八年五月二十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|駆逐艦、一等夕雲型ノ項中「濱波」ノ下ニ「、沖波、岸波、朝霜」ヲ加フ(以下略)〕
  13. ^ 昭和18年10月22日(金)海軍公報(部内限)第4523号 p.17」 アジア歴史資料センター Ref.C12070442200 「○事務開始 波勝艤装員事務所ハ十月十日兵庫縣相生市播磨造船所内ニ於テ事務ヲ開始セリ 追テ十月三十一日事務所撤去ノ豫定|第七三二海軍航空隊ハ十月二日豊橋海軍航空隊ニ於テ事務ヲ開始セリ|第二百三十二設營隊事務所ハ十月十日舞鶴海軍施設部内ニ於テ事務ヲ開始セリ|驅逐艦岸波艤装員事務所ハ十月十六日神奈川縣横須賀市谷戸六番地浦賀船渠株式會社浦賀造船所内ニ於テ事務ヲ開始セリ」
  14. ^ 昭和18年2月13日(発令2月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1052号 p.9」 アジア歴史資料センター Ref.C13072089700 
  15. ^ 昭和18年11月5日(発令11月5日付)海軍辞令公報(部内限)第1256号 p.4」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094300 
  16. ^ a b 昭和18年11月17日(発令11月12日付)海軍辞令公報(部内限)第1262号 p.38三船補職」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094400 
  17. ^ #S1812十一水戦(1)p.11「三日一四五〇岸波駆逐艦長(宛略)機密第〇三一四一五〇番電 一三〇〇浦賀発一四〇〇横須賀着」
  18. ^ 昭和18年12月17日(金)海軍公報(部内限)第四千五百六十八号 p.4」 アジア歴史資料センター Ref.C12070443300 「○事務所撤去 岸波艤装員事務所ハ十二月三日之ヲ撤去セリ」
  19. ^ a b c d 昭和18年12月6日(発令12月3日付)海軍辞令公報(部内限)第1274号 p.40三船・藤川・宮嵜・曾出・城野補職」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094700 
  20. ^ #内令昭和18年12月(1)p.44「内令第二千六百二十六號 驅逐艦 岸波 右本籍ヲ舞鶴鎮守府ト定メラル 昭和十八年十二月三日 海軍大臣 嶋田繁太郎」
  21. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 94b朝霜(あさしも)
  22. ^ a b 山本ほか、秋月型 2015, p. 226沖波(おきなみ)
  23. ^ a b 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 94c沖波(おきなみ)
  24. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 430–431朝霜、トラウトを撃沈
  25. ^ 日本空母戦史 1977, pp. 575–576.
  26. ^ #S士官の手記p.4「19-1/29 雲鷹救援ノ爲父島海面ニ向ケ桂島發護衛部隊、高雄以下十五隻」
  27. ^ a b c #丸写真6重巡II、36-37頁「重巡洋艦『高雄・愛宕』行動年表 ◇高雄◇」
  28. ^ #S1812高雄日誌(1)p.17「(5日)沖波、岸波合同」p.56「5日0112高雄艦長|(略)針路40度速力3節、夕刻迄ニ白雲猿島第33号掃海艇及鳩来着セルモ皐月、潮、曙ハ補給ノ為横須賀ニ回航中、高雄及初霜モ明日中ニ燃料限度トナル見込」-p.57「5日1145高雄艦長|雲鷹隊ノ状況(略)5日午前白雲及初霜去リ沖波岸波駆潜44成生合同現在ノ警戒艦右ノ外高雄鳩猿島掃33(略)」p.59「6日1430|高雄及初霜本日1500横須賀発明7日0600頃雲鷹ト合同ノ予定」
  29. ^ #S1809一水戦日誌(4) pp.52-53「(二)水雷部隊ノ行動」p.62「六日(司令)7dg(宛略)機密第〇六〇六〇〇番電 雲鷹護衛ノ爲七駆ヲ率ヰ横須賀發」、#S1806二水戦日誌(4)p.19「7日高雄→2420(将旗2sd司令官)能代|雲鷹ハ東京湾ニ入港任務終了」
  30. ^ #S1812高雄日誌(1)「5日|2045重油補給ノタメ雲鷹ト分離」「6日|0910横須賀入港/2249出港」「7日0440雲鷹ニ合同/2003横須賀入港」
  31. ^ a b 山本ほか、秋月型 2015, p. 227b朝霜(あさしも)
  32. ^ 昭和19年2月23日(水)海軍公報(部内限)第四千六百二十三号 p.19」 アジア歴史資料センター Ref.C12070458900 「○司令驅逐艦指定 第三十一驅逐隊司令ハ二月十一日司令驅逐艦ヲ岸波ニ指定セリ」
  33. ^ a b 山本ほか、秋月型 2015, p. 222長波(ながなみ)
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  35. ^ a b c 戦史叢書6巻 1967, pp. 304–305.
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  38. ^ a b 戦史叢書6巻 1967, p. 306.
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  41. ^ 戦史叢書12巻 1968, p. 148東松三号特船団
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  50. ^ 戦史叢書37巻 1970, pp. 382–383遊撃部隊主隊
  51. ^ 戦史叢書37巻 1970, pp. 383–384呉から中城湾までの行動
  52. ^ 戦史叢書37巻 1970, pp. 384–386中城湾以後の甲部隊の行動
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  95. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 544–546十一月十三日の空襲、「木曾」、駆逐艦等の沈没
  96. ^ 山本ほか、秋月型 2015, p. 228c秋霜(あきしも)
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  99. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 94f浜波(はまなみ)
  100. ^ 山本ほか、秋月型 2015, pp. 225b-226浜波(はまなみ)
  101. ^ #S1911第五艦隊(1)p.8「(二)十一月二十二日「リンガ」入泊時2YB麾下兵力 5F(旗艦足柄) 4Sf(旗艦日向、伊勢)、5S(旗艦羽黒)、榛名、大淀、2Sd〔旗艦霞、潮、朝霜、21dg(初霜)、41dg(霜月)、先着ノ岸波、昭南ニテ修理中ノ清霜〕」
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  104. ^ 戦史叢書54巻 1972, pp. 454a-455水上兵力の漸減
  105. ^ 「SS-249, USS FLASHER」p.170
  106. ^ a b c d e 日本水雷戦史 1986, p. 584.
  107. ^ 歴群23、秋月型 1999, p. 162a「岸波」(夕雲型、二〇七七トン)
  108. ^ a b 歴群23、秋月型 1999, p. 163魚雷による被害(岸波被害図)
  109. ^ 「SS-249, USS FLASHER」pp.170-171,188-190
  110. ^ 歴群23、秋月型 1999, p. 162b.
  111. ^ a b 昭和20年7月14日(発令昭和19年12月4日付)海軍辞令公報(甲)第1856号 p.29」 アジア歴史資料センター Ref.C13072106100 
  112. ^ サイパン・レイテ海戦記 2004, pp. 85–86.
  113. ^ 「SS-249, USS FLASHER」p.191
  114. ^ #被害一覧図(2)p.6(八紘丸 12/4)
  115. ^ #秘公報昭和20年1月(2)pp.8-10「内令第二九號|横須賀鎮守府在籍 軍艦 厳島|呉鎮守府在籍 軍艦 八十島|舞鶴鎮守府在籍 軍艦 神鷹|右帝國軍艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 曙、驅逐艦 満潮、驅逐艦 朝雲、驅逐艦 山雲、驅逐艦 野分、驅逐艦 早霜、驅逐艦 秋霜、驅逐艦 若月、驅逐艦 霜月|呉鎮守府在籍 驅逐艦 浦風、驅逐艦 島風|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 秋風、驅逐艦 卯月、驅逐艦 夕月、驅逐艦 初春|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 長波、驅逐艦 濱波、驅逐艦 沖波、驅逐艦 岸波|右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル(以下略)昭和二十年一月十日海軍大臣」
  116. ^ #秘公報昭和20年1月(2)p.7〔昭和二十年一月十日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「早霜、秋霜」ヲ削ル|第四驅逐隊ノ項ヲ削ル|第七驅逐隊ノ項中「曙、」ヲ削ル|第十七驅逐隊ノ項中「浦風、」ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、」ヲ削ル|第三十驅逐隊及第三十一驅逐隊ノ各項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「霜月、」及「、若月」ヲ削ル〕
  117. ^ 「SS-249, USS FLASHER」p.212、Blair, 966ページ。タンカーは10,000トン、岸波は1,700トンで計算
  118. ^ a b Roscoe, 534ページ
  119. ^ 駒宮『続・船舶砲兵』38ページ、木俣滋郎『日本水雷戦史』584ページでは「岩波」と記載
  120. ^ 大塚好古のホームページ UMAXな人・第二十二回:ミッドウェイ海戦におけるアメリカ潜水艦ノーチラスの戦い[出典無効]

関連項目

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