利根 (重巡洋艦)
利根 | |
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基本情報 | |
建造所 | 三菱重工業長崎造船所 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 二等巡洋艦(実際は重巡洋艦) |
級名 | 利根型 |
艦歴 | |
発注 | 昭和9年度(②計画) |
起工 | 1934年12月1日 |
進水 | 1937年11月21日 |
竣工 | 1938年11月20日 |
最期 | 1945年7月28日艦載機の攻撃で大破着底、戦後解体 |
除籍 | 1945年11月20日 |
要目 | |
基準排水量 | 11,213トン |
公試排水量 | 13,320トン |
全長 | 201.6 m |
最大幅 | 19.4 m |
吃水 | 6.23 m (公試) |
主缶 | ロ号艦本式缶8基 |
主機 | 艦本式タービン4基4軸 |
出力 | 152,189馬力 (公試成績) |
最大速力 | 35.55ノット (公試成績) |
燃料 | 2,700トン(実測値) |
航続距離 | 18ノットで9,240海里(公試成績) |
乗員 | 竣工時定員869名[2] |
兵装 |
竣工時 20.3cm連装砲4基8門 40口径12.7cm連装高角砲4基8門 25mm連装機銃6基12挺 13mm連装機銃2基4挺 61cm3連装魚雷発射管4基12門 1945年 20.3cm連装砲4基8門 40口径12.7cm連装高角砲4基8門 25mm三連装機銃14基42挺 25mm連装機銃2基4挺 25mm単装機銃21挺 (機銃は推定) 61cm3連装魚雷発射管4基12門 |
装甲 | 舷側:145mm 甲板:35mm |
搭載機 |
計画:水上機6機 定数(-1942年6月25日):零式水偵3機、九五式水偵2機[3] 定数(1942年6月25日-):零式水偵5機[3] (カタパルト2基) |
利根(とね)は、大日本帝国海軍の重巡洋艦。利根型重巡洋艦(二等巡洋艦利根型)の1番艦[4]。その艦名は二等巡洋艦の命名慣例に従い、関東地方を流れる利根川からちなんで名づけられた[5]。この名を持つ帝国海軍の艦船としては4隻目[6]。艦前部に主砲塔4基を集中し後部を飛行機発進甲板・水上偵察機待機所とした[7]、第二次世界大戦当時としては珍しい艦型である。艦内神社は香取神宮である。艦名は海上自衛隊のあぶくま型護衛艦「とね」に継承された。
概要
[編集]重巡洋艦であるにもかかわらず河川名が付けられた理由は最上型重巡洋艦(当初は軽巡洋艦であり、改装後も書類上は二等巡洋艦)5番艦として計画されたためである[8]。後に再設計により重巡洋艦となるが艦名はそのまま使用された[9]。
最初の計画では、最上型と同じ15.5cm砲を装備するいわゆる条約型として1934年(昭和9年)12月1日に起工した[10][11]。諸外国に通知した時の数値は、基準排水量8,636トン、水線全長187.21mである[10]。しかし友鶴事件や第四艦隊事件の教訓によって計画を変更した。20.3cm主砲2連装4基8門を艦首に集中配置することによって艦尾を空け、水上偵察機搭載能力を増した独特のシルエットを持つ1万t級の重巡洋艦として就役する。艦橋が中央部にあるため、舵を取る時の感度は抜群で操艦しやすい艦だったと伝えられている[12]。
艦歴
[編集]開戦前
[編集]利根型は②計画(第二次補充計画)に基づく巡洋艦の整備計画で建造が決まった。利根は1934年(昭和9年)12月1日、三菱重工業長崎造船所で起工した[13][11]。同日、利根と命名[14]。艦艇類別等級表に利根型が新設された[15]。
1937年(昭和12年)11月21日に進水、1938年(昭和13年)11月20日に竣工し、横須賀鎮守府籍となった[11][16]。
1939年(昭和14年)5月20日に筑摩が竣工し、同日附で利根と筑摩で第六戦隊を編制した[16]。 7月下旬、第六戦隊は舞鶴港に初入港[17]。舞鶴に帰港するときは、艦載機を栗田水上機基地に預けることになった[17]。
11月15日、利根と筑摩は第八戦隊となった。 12月1日、利根と筑摩は舞鶴鎮守府に転籍した[16]。利根と筑摩は舞鶴市民に親しみのある軍艦となった[17]。『舞鶴戦艦、利根、筑摩』の俗称もあったという[18]。
1940年(昭和15年)9月17日、利根は呉を出撃し、21日に海南島三亜港に到着した[19]。22日、IC作戦が発動され、重巡鳥海、第二航空戦隊(空母蒼龍、空母飛龍)、第一駆逐隊、第四駆逐隊、舞鶴第一特別陸戦隊、神川丸と共に北部仏印進駐の支援を行った[20]。第八戦隊は船団護衛、上空哨戒任務に従事し、この任務が利根と筑摩の最初の作戦行動となった。9月29日に帰還命令が下り[21]、10月6日に日本へ戻った[16]。
10月11日の紀元二千六百年記念行事で筑摩と共に観艦式に参列した[22][23]。12月、航空機定数が三座水偵(零式水上偵察機)1機、二座水偵(九五式水上偵察機)3機に変更された[24]。
- 「戦藻録」を残した宇垣纏が1941年(昭和16年)4月~7月にかけ第八艦隊司令官に就任し、利根を旗艦とした。宇垣は戦藻録に『餘が最も眞劍に且最も愉快に指揮統率せし戦隊』と記し、真珠湾攻撃から帰還した際は『よくぞ偉勲を奏して目出度帰着せる子供の凱旋を迎ふる親心なるべし』と喜んでいる[25]。
8月1日、第八戦隊司令官は阿部弘毅少将となった[26]。9月1日からドック入りし補修と点検を行った[16]。9月22日に舞鶴を出港[16]、9月26日に宿毛湾へ入った[27]。水偵隊は遠距離索敵や夜間緩降下爆撃の訓練に従事した[28]。
10月25日、第八戦隊は第一特別行動部隊に編入され、真珠湾攻撃に向けて第一航空艦隊と行動することになった。11月3日、第一航空艦隊は有明湾に集合した[29]。11月10-13日、呉軍港で燃料補給、弾薬補給を行い、搭乗員は太平洋全域の地図を受け取った[30]。11月14日、呉を出港して佐伯湾に入港した[31]。18日、佐伯湾を出港[16]。21日、択捉島の単冠湾に入港、乗組員はタラバガニを釣って英気を養った[32]。11月26日、第八戦隊は第一航空艦隊を中心とする機動部隊と共に、真珠湾に向けて出撃した[33]。
太平洋戦争緒戦
[編集]日本時間1941年(昭和16年)12月8日午前0時、艦長の岡田為次大佐は艦内神社に参拝[34]。午前1時、利根1号機(零式水上偵察機)が本艦を発進し、淵田美津雄総飛行隊長率いる空襲部隊より一足先に真珠湾へ向かった[35]。姉妹艦筑摩からも索敵機が発進しており、利根機と筑摩機は第一次攻撃隊より1時間前にハワイ上空に潜入し気象や湾内の状況を報告した。午前1時30分、空母6隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍、瑞鶴、翔鶴)より攻撃隊183機が発進、午前2時、利根2号機が所在不明の米空母を捜索し、午前5時30分に帰投した[35]。利根1号機は、戦艦霧島のマストを超える飛沫があがるほど荒れた海への着水に失敗し、転覆して失われた[36]。
南雲機動部隊は日本への帰路についたが、ウェーク島では島を守る少数のアメリカ軍の海兵隊によって、上陸作戦を決行した南洋部隊(指揮官:第四艦隊司令長官井上成美中将)が撃退された。ウェーク島第一次攻略作戦の失敗により南雲機動部隊に支援命令があり、第八戦隊司令官阿部弘毅少将指揮下の第八戦隊(利根、筑摩)は、第二航空戦隊司令官山口多聞少将指揮下の空母2隻(蒼龍、飛龍)、第17駆逐隊第1小隊(谷風、浦風)と共にウェーク島へ向かった。 12月21日から始まったウェーク島第二次攻略作戦では、利根・筑摩の水偵が周辺索敵と対潜哨戒のため発進する[37]。日本軍は島に航空機地下格納庫があると推測し、陸戦隊により完全占領するしかないと考えていた[37]。23日、日本軍はウェーク島の占領に成功する[38]。任務を終えた第八戦隊は12月29日、呉に入港した[39][16]。
1942年(昭和17年)1月9日、南太平洋における日本軍の作戦拠点を獲得すべく南雲機動部隊(赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴)は出撃、第八戦隊(利根、筑摩)も随伴して日本を出撃した[40]。1月15日トラック入港、17日に出港してラバウルへ向かう[41]。1月23日、利根水上偵察機部隊がブーゲンビル島北方のブカ島を爆撃した[42][43]。高橋の著作では「零式水偵1機、九五水偵3機」だが、戦闘詳報では「三座水偵2機、二座水偵1機」となっている。1月24-25日には、第八戦隊(利根、筑摩)と軽巡洋艦阿武隈が南雲機動部隊より分離し、水偵隊がアドミラルティ諸島を爆撃する[44][45][43]。ビスマルク諸島攻略の終了によって、1月27日トラック泊地に戻った[46][45]。
2月1日、マーシャル諸島に空母2隻を含むアメリカ軍機動部隊出現の報告を受けて出撃するが会敵せず[46][47]、南雲機動部隊は南洋艦隊に編入されて蘭印作戦の支援に向かった[48][47]。2月8日、パラオ泊地に到着し、第四戦隊(愛宕、高雄、摩耶)等と合流する[49]。2月15日、パラオを出港して南下し、オーストラリアへ向かう。2月19日、南雲機動部隊によるポート・ダーウィン空襲を支援、空襲中に利根2号機が特設巡洋艦ヘクターを発見して日本軍攻撃隊を誘導、撃沈に貢献した[50][51]。2月21日、セレベス島スターリング湾に入港した[50][52]。
2月25日、スターリング湾を出港し[50]、クリスマス島近海で行動する[53]。3月1日、南雲機動部隊はアメリカ海軍駆逐艦エドサル(USS Edsall, DD-219)と遭遇、第八戦隊(利根、筑摩)は第三戦隊(比叡、霧島)と共に追跡したが「軽快艦艇に対する射撃は遠距離に於いては命中率不良にして意外に多量の弾丸を消費す」と述べるように、なかなかエドサルを撃沈できなかった[54][55]。そこで日本空母から九九式艦上爆撃機が発進、爆撃で航行不能になったエドサルに砲撃で止めをさした[56][57]。 続いて3月3日、利根水偵搭乗員の高橋によれば、利根は商船を発見し砲撃で撃沈したと述べている[56][58]。なお、南雲中将司令部付の信号兵だった橋本廣(兵曹)によれば、商船モッドヨカードを攻撃した際に筑摩の砲撃が空母赤城(旗艦)の艦上を通過し、南雲中将が第八戦隊を叱責したと証言している[59]。このエピソードも戦闘詳報によれば、駆逐艦磯風・不知火・夕暮・有明による撃沈である。3月11日、スターリング湾に戻った[60][58]。
3月26日、セイロン島攻撃命令を受けてスターリング湾を出港し、オンバイ海峡を通過してインド洋に進出、スンバ島南方を西進した[60][61]。4月、イギリス軍東洋艦隊の進出にともなってセイロン沖海戦が発生し、南雲機動部隊は大きな戦果をあげた。4月5日午後1時、利根の九四式水上偵察機がイギリスの重巡洋艦ドーセットシャー、コーンウォールを発見した[62]。だが九四水偵は燃料不足のため触接を断念した[62]。午後2時55分、零式水上偵察機(利根1号機)がイギリス軍重巡洋艦を再発見し、艦爆隊を誘導した[62][63]。ドーセットシャーとコーンウォールの2隻は攻撃開始からわずか17分で沈没したという。4月9日、南雲機動部隊はイギリスの空母ハーミーズを撃沈するなどの戦果をあげたが、利根・赤城はウェリントン爆撃機(戦闘詳報や著作によってはブリストル ブレニム)の奇襲を受けている[64]。 第八戦隊は南方作戦の終了にともなって日本本土に戻り、4月23日に舞鶴着[16][65]。舞鶴海軍工廠で各部の修理を行う[66][67][68]。5月16日、舞鶴出港[16]。翌日、柱島泊地に集合する[69]。
アメリカ軍機動部隊との激戦
[編集]1942年(昭和17年)6月上旬、第八戦隊は第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将の指揮下、南雲機動部隊(第一航空戦隊《赤城、加賀》、第二航空戦隊《飛龍、蒼龍》、第三戦隊第2小隊《榛名、霧島》、第八戦隊《利根、筑摩》、第十戦隊《長良、谷風、浦風、浜風、磯風、風雲、夕雲、巻雲、秋雲〔燃料補給部隊護衛〕、嵐、野分、萩風、舞風》)としてミッドウェー海戦に参加する[70]。この時、利根のカタパルトが故障し利根4号機(甘利一飛曹、大熊一等飛行兵)の発進が30分遅れ日本海軍敗北の一因となったとする文献がある[71]。 後年の研究では、筑摩1号機(黒田信大尉)は米軍機動部隊の上空を飛んでいたが、雲量のため発見できなかった(第一次攻撃隊隊長友永丈市大尉が「第二攻撃の要ありと認む」を発信する前)[71]。また利根4号機の発進が遅れたからこそアメリカ艦隊を発見できたのであり、定時に発進していたらかえって発見できなかった可能性が高いと言われている[72]。また土井美二中佐(当時の第八戦隊参謀。利根座乗)は利根4号機のコンパスが狂っており、このためアメリカ艦隊を発見できた可能性を指摘している[72]。後日、甘粕少尉は夜間索敵に出撃して戦死した(1945年5月13日)[73]。 ミッドウェー海戦後にアリューシャン作戦を支援した。6月24日、内地(大湊)に帰投した[16]。
7月14日、原忠一少将が第八戦隊司令官となった[74]。北方作戦支援を終えた第八戦隊(利根、筑摩)は桂島泊地を経て舞鶴に回航され、7月16日帰港[16][75]。修理と整備に従事した[76][77]。この時利根の右舷前機タービンに故障が見つかり、応急措置を行った結果、合計出力は152000馬力から148500馬力に減少した[66]。
8月6日、第八戦隊(利根、筑摩)は舞鶴を出発[16][78]。その後、ガダルカナル島の戦い生起にともないソロモン諸島方面へ進出[79]。第二次ソロモン海戦や南太平洋海戦に参加した。 第二次ソロモン海戦では、分遣隊(空母《龍驤》、第八戦隊《利根》、第16駆逐隊《天津風、時津風》)として参加、利根甲板の水上偵察機より偽電を発信した[79]。その後、8月24日の対空戦闘に参加、龍驤の沈没に遭遇した[80][79]。 南太平洋海戦では第十一戦隊司令官阿部弘毅少将が指揮する機動部隊前衛部隊(戦艦《比叡、霧島》、重巡《筑摩、利根、鈴谷》、軽巡《長良》、駆逐艦《谷風、浦風、磯風、秋雲、風雲、巻雲、夕雲》)として行動。本海戦で筑摩が大破、内地に回航し修理と整備に従事した[81]。
昭和18年の行動
[編集]1943年1月、ガダルカナル島撤退作戦の牽制として「利根」はカントン島西方450浬付近で偽電を発することとなり、1月19日にトラックを発して1月22日にヤルートに到着[82]。翌日ヤルートを出港し、偽電を発した後1月27日にヤルートに戻った[83]。「利根」は2月2日にヤルートを出港すると、再び偽電の発信を行い、2月7日にトラックに戻った[84]。
2月15日、利根は重巡洋艦「鳥海」、第三戦隊(金剛、榛名)、空母「隼鷹」、「冲鷹」、水上機母艦「日進」、駆逐艦「時雨」、「大波」、「黒潮」、「陽炎」、「嵐」と共にトラック泊地を出港し内地へ向かった[85][86]。 だが悪天候のため航空隊を収容できなかった「隼鷹」、「陽炎」、「黒潮」のみトラックへ引き返した[87][88]。 「利根」、「日進」は舞鶴に帰投(「利根」は21日着、「日進」は24日着)[16][89][90]。 同地で入渠各艦(那珂、龍田、霞、不知火、初春、日進、太刀風、刈萱)等と共に修理と整備に従事する[91][92][93]。 3月15日、第八戦隊司令官は岸福治少将に交代[94]。翌日、「利根」は舞鶴を出発し[95][16]、修理を終えた筑摩と合流する。
3月22日、第八戦隊は空母「隼鷹」、「飛鷹」、駆逐艦「夕暮」、「陽炎」、「初月」、「涼月」と共に内地を出発、3月27日[16]にトラックへ到着した[96][97]。第八戦隊は5月17日、戦死した山本五十六連合艦隊司令長官の遺骨を載せた戦艦「武蔵」、「金剛」、「榛名」、空母「飛鷹」、駆逐艦「海風」、「有明」、「時雨」、「初月」、「涼月」と共にトラック泊地を出発[98][99]。5月22日、横須賀帰着(武蔵のみ木更津冲入泊)[100][101]。 各艦はアッツ島の戦いにより北方作戦に備えたが[102]、同島守備隊は5月29日に玉砕した。
7月、第八戦隊(「利根」、「筑摩」)と第十戦隊(「阿賀野」、駆逐艦5隻)、重巡洋艦「最上」、軽巡洋艦「大淀」、水上機母艦「日進」からなる第一部隊は陸軍南海第四守備隊の第一次進出部隊を輸送した[103]。陸軍部隊を乗せた第一部隊は7月10日に空母「翔鶴」、「瑞鶴」などとともに内海西部を出発し、7月15日にトラックに到着[104]。それからラバウルへ向かい、7月21日に着いた[105]。その先の輸送は第十戦隊と「日進」により行われたが、その際「日進」が沈んでいる[105]。その後、ラバウルに残された第四駆逐隊以外は7月26日にトラックに戻った[105]。
10月16日、利根の機関室タービンに故障が見つかり[106]、第八戦隊旗艦を筑摩に移した。利根はトラック泊地で応急修理をおこなったものの、10月28日に再調査したところ別の機械にも破損を発見した[107]。前線での修理は不可能と判断され、10月31日に日本・呉工廠へ向け出発した[107][16]。 戦艦2隻(伊勢、山城)、空母2隻(隼鷹、雲鷹)、巡洋艦2隻(利根、龍田)、護衛駆逐艦(第24駆逐隊《海風、涼風》、第17駆逐隊《谷風》、第7駆逐隊《曙》)という編制である[108][109]。 11月5日朝、隼鷹が日本近海でアメリカの潜水艦ハリバットから雷撃され、魚雷1本を艦尾に被雷して直進不能となった[110]。このため、利根は隼鷹を曳航[111][112]、11月6日呉に到着した[16][113]。
修理は12月14日に完了[114]。陸軍部隊のカビエンへの輸送(戊号輸送)に参加することとなり、利根は第五戦隊(重巡妙高、重巡羽黒)、駆逐艦白露、駆逐艦藤波と共に「戊二号輸送部隊」となった[115]。呉で陸軍部隊を乗せた戊二号輸送部隊は12月24日に内海西部を出撃し、12月29日にトラックに到着[116]。
昭和19年の行動
[編集]1944年(昭和19年)1月1日、第八戦隊は解体され、利根と筑摩は重巡熊野、重巡鈴谷のいる第七戦隊(西村祥治中将)に編入した[117][118][119]。戊二号輸送部隊は1月2日にトラックを出撃し、4日にカビエンへの揚搭を行った[120]。利根では黛艦長が小銃をまとめて運ぶよう陸軍側と交渉するなどしていて、第五戦隊の半分ほどの時間で作業を終了した[121]。1月5日、戊二号輸送部隊はトラックに戻った[116]。
1月25日附で利根は敷島部隊に編入され[122][123]、2月1日、トラック泊地出撃[124]。2月3日(4日とも)、パラオ入港[125]。16日、パラオを出発[126][16]。シンガポールに向け移動し、21日にリンガ泊地到着[127][16]。利根と筑摩は南西方面艦隊(司令長官高須四郎中将)の指揮下に入り、27日にリンガ泊地を出撃[128][129]。スマトラ島南東方のバンカ泊地へ移動、重巡青葉でインド洋方面通商破壊作戦(サ号作戦)の打ち合わせを行った[130][131]。
1944年(昭和19年)3月2日、第七戦隊(利根、筑摩)はバンカ泊地を出撃[132][133]。重巡3隻(青葉、利根、筑摩)、軽巡2隻(大井、鬼怒)[134]、駆逐艦数隻(敷波、浦波、天霧)等でサ号作戦に従事する[135][136]。 日本軍の船舶不足を補うため、連合国軍の商船を拿捕することを作戦目標としていた[135][137]。 中央が青葉、右が利根、左が筑摩という横一列陣形で索敵中、3月9日午前11時30分にイギリスの武装商船ビハール号(ベハー号)と遭遇した[135][138]。拿捕を試みた利根はアメリカ巡洋艦に偽装して接近[139][140]。 ビハール号武装射程圏外の距離9000mで軍艦旗を掲げ停船命令を発したがビハール号は救難信号を発信しつつ逃走を試み[135][141]、拿捕を諦めた利根は同船を砲撃で撃沈した[142]。沈没現場で生存者115名を救助した[135][143](戦闘詳報によると104名[144]または129名[145])。 3月15日、利根はバタビアに入港[146]。サ号作戦部隊における戦果はビハール号の撃沈のみであった[147]。サ号作戦を指揮した南西方面艦隊は捕虜の処刑命令を出しており、黛治夫艦長は捕虜35名をバタビアへ送ったものの、サ号作戦が終了し約80名の処遇が宙に浮いた[147][143]。3月18日にジャワ島バタビア(ジャカルタ)を出港してシンガポールへ回航[16][148]。3月19日、艦上で捕虜を虐殺するビハール号事件が発生した。
3月25日、第七戦隊司令官は白石萬隆少将[149]に交代。 利根はリンガ泊地およびタウイタウイ泊地で待機[16]。機動部隊に所属しマリアナ沖海戦(1944年6月)に参加した。海戦では利根が所属する前衛部隊が小沢機動部隊本隊の攻撃隊を誤射、利根も誤射した[150][151]。6月24日、内地帰投[16]。射出された利根偵察機は各地を転々とし、7月中旬になって母艦に戻ってきたという[152]。
7月8日、陸軍部隊輸送を兼ねて内地を出撃[16]。陸軍輸送物資を積載した戦艦部隊(大和、武蔵、長門、金剛)、重巡熊野等を護衛してリンガ泊地へ向かった[153]。14日午前3時頃、駆逐艦五月雨が悪天候の中で落伍し、行方不明となった[153][154]。五月雨は捜索に出た利根に発見されて艦隊に戻った[153]。
10月、第七戦隊は捷一号作戦に参加。10月22日、ブルネイを出港した。10月23日朝、栗田艦隊はパラワン島沖でアメリカの潜水艦2隻(ダーター、デイス)から襲撃され、重巡2隻(愛宕、摩耶)が沈没したが、利根に被害はなかった。
10月24日、シブヤン海にて栗田艦隊はアメリカ軍機動部隊(第38任務部隊)艦載機の空襲を受け、第一遊撃部隊・第二部隊(第三戦隊《金剛、榛名》、第七戦隊《熊野、鈴谷、筑摩、利根》、第十戦隊《矢矧、浦風、浜風、磯風、雪風、野分、清霜》)は旗艦(指揮官鈴木義尾第三戦隊司令官、金剛座乗)を中心とする輪形陣を形成[155]。利根は中心(金剛)の斜め左后方2kmに配置された[156][157]。 一連の戦闘で武蔵が沈没し、損傷を受けた3隻(妙高、浜風、清霜)が艦隊から離脱した。 戦闘中、黛艦長は第二部隊(第三戦隊)司令部に「武蔵を掩護する必要ありと認む」と意見具申した結果[158][159]、武蔵への掩護を命じられる[160][161]。利根では武蔵掩護中に爆弾1発が命中したが不発、小型爆弾の被害も限定的だった[162][163]。利根と共に武蔵掩護中の清霜にも爆弾が命中して速力低下をきたした[164]。日没後、黛(利根艦長)は原隊復帰を幾度か意見具申[165][166]、栗田長官より下令があり第二部隊に復帰した[167][168]。
10月25日、利根はサマール沖海戦に参加[169]。護衛空母から発進した戦闘機や雷撃機の妨害に悩まされ、機銃掃射により黛も負傷した[169]。408発の主砲弾を発射、うち7発を敵艦に命中させた(黛はさらに命中していたと主張)[170][171]。利根は空母ガンビア・ベイの至近距離まで進出し、砲撃で撃沈した[172]。利根は漂流するガンビア・ベイ生存者達の至近距離を通過したが、機銃掃射することなく、利根乗組員は敬礼して米兵を見送った[173]。戦後、黛治夫艦長はガンビアベイ生存者会に、同艦の奮戦を称える手紙を送っている[174]。
一方、米艦隊の反撃により、第七戦隊では重巡3隻(熊野、鈴谷、筑摩)が落伍[175]。第二艦隊長官栗田健男中将から反転命令がでると、黛艦長は第五戦隊司令官橋本信太郎少将に「現状、砲撃中の敵空母を追撃すべき」を意見具申しようとしたが、最終的に断念した[176][177]。つづいて酸素魚雷の誘爆により大火災となった鈴谷より白石第七戦隊司令官を受け入れる[176][178]。利根は鈴谷の救援のためカッターボートを派遣した[179][178]。利根短艇乗組員11名は駆逐艦沖波に救助されたが[180]、同艦における対空戦闘で4名が戦死した[181]。 一方、第七戦隊旗艦となった利根では午後1時40分頃、爆弾1発が後部に命中し一時舵故障となるが復旧に成功した[182][178]。 本海戦における戦死者は19名(愛宕乗員2名を含む)、負傷者81名と記録されている[183][184]。
レイテ沖海戦後、栗田艦隊はブルネイに退避していた[185]。利根は駆逐艦島風に便乗中だった摩耶生存者を受け入れ、内地に戻ることになった[186]。損傷のため、速力は20ノットに制限されていたという[187]。 利根は輸送任務のためマニラへ向かう空母隼鷹、軽巡木曾、第30駆逐隊(夕月、卯月)と合流[185]。11月10日、隼鷹輸送隊はマニラで木曾と[185]駆逐艦時雨を入れ替え、内地へむかった[188]。隼鷹隊と別れた利根は11月17日に舞鶴へ戻った[16][189]。舞鶴海軍工廠で損傷箇所の修理と機銃の増設を行う[187]。残存重巡2隻(利根、熊野)となった第七戦隊は11月21日附で解隊された[190]。
昭和20年以降の行動
[編集]1945年(昭和20年)1月1日附で利根は練習艦に指定される[191]。同日附で利根は呉練習戦隊(司令官堀江義一郎少将)に編入した[192]。呉練習戦隊は4隻(利根、磐手、出雲、八雲)となる[193]。 2月15日、戦隊に軽巡大淀が加わった[194]18日、舞鶴港を出港し、20日に呉に到着した[195][16]。
3月19日、利根は海軍兵学校練習艦として呉にて停泊中、アメリカ第58任務部隊による空襲で至近弾1発を受け、三番砲塔が使用不能となった[196][197]。江田島湾の津久茂沖合に錨泊したのち、大破着底した場合に備えて能美島の海岸付近に移動する[196][198]。松や小枝などで偽装を施した[196]。 7月24日、第38任務部隊によって再度空襲を受け、左舷中央部に直撃弾を受ける(呉軍港空襲)[199][200]。7月28日にも再度空襲を受け、アメリカ軍艦載機の空襲により左舷後部に直撃弾2発と至近弾6発を受けた[201][200]。左舷後部の直撃弾は1000ポンド爆弾で、地上施設破壊用の瞬発信管であり、利根の水平装甲板を貫通せずに爆発したが被害は甚大であり[200]、至近弾もあいまって大浸水をきたした。一時は左舷に20度以上傾斜したが[200]、対岸の海軍兵学校などからも応援を呼んでダメージコントロールに努め、転覆を防ぐため注水作業を実施[199][200]。7月29日に着底[202][203]。終戦を迎えた[199]。
アメリカ軍による調査実施後、利根は同年11月20日に除籍された[204]。1947年(昭和22年)4月7日から播磨造船所呉船渠により解体に着手[204]。「利根」は左に10.5度傾斜、後トリム6mで、満潮時には上部構造物以外水につかる状態であった[205]。左舷には長さ30m、高さ14mの破孔があり、それを塞ぐなどした後、80万トンを排水して1948年(昭和23年)5月4日に浮揚に成功した[205]。同年9月30日、解体完了[204]。利根の解体をもって呉地区沈没艦の解体は完了した[204]。
兵装変遷
[編集]利根型重巡洋艦は開戦の時点で最新鋭巡洋艦であり戦没まで大規模な改装はなかった。しかしながら戦時中には戦訓によりレーダー(電探)の装備と対空機銃の増備を実施している。以下にその変遷を記述するが、いずれも推定であることに注意。
- 1943年(昭和18年)2月 後部予備指揮所両側に25mm連装機銃各1基増備、21号電探装備(前檣)
- 同年12月ころ 25mm連装機銃4基を同3連装機銃に交換。その他に13mm機銃4挺があったとされる。
- 1944年(昭和19年)6月以降、マリアナ沖海戦の戦訓により機銃の大幅な増備。25mm3連装機銃4基、同単装25挺を増備。また22号電探2基(前檣)、13号電探1基(後檣)を装備する。
- 1945年(昭和20年)2月 レイテ沖海戦の損傷修理において後甲板に25mm3連装4基を追加。同単装は若干減少し21挺(もしくは18挺)とした。レーダーは21号を撤去し、代わりに22号を1基増備した。
最終時の機銃とレーダーは、
- 25mm3連装機銃14基、同連装2基、同単装21挺(もしくは18挺)。合計67挺。
- 電探:22号3基、13号1基。
とされている。
歴代艦長
[編集]※『艦長たちの軍艦史』122-125頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。
艤装員長
[編集]艦長
[編集]- 原鼎三 大佐:1938年11月20日[208] – 1939年11月15日[209]
- 大西新蔵 大佐:1939年11月15日[209] – 1940年10月15日[210]
- 西田正雄 大佐:1940年10月15日[210] – 1941年9月10日[211]
- 岡田為次 大佐:1941年9月10日[211] – 1942年7月14日[74]
- 兄部勇次 大佐:1942年7月14日[74] – 1943年12月1日[212]
- 黛治夫 大佐:1943年12月1日[212] – 1945年1月6日[213]
- 岡田有作 大佐:1945年1月6日[213] - 1945年8月15日[214]
同型艦
[編集]- 筑摩 [II]
慰霊碑と資料館
[編集]広島県江田島市能美町中町には「軍艦利根戦没者慰霊碑」が建立されており、隣接して軍艦利根資料館が設けられている[215]。資料館では、利根の舵輪、副碇、信号燈、コンパスなどの遺品(装備品)や精密なミニチュア模型などが展示されている。
-
利根の慰霊碑
-
軍艦利根資料館
-
艦内で使われていた浴槽
参考文献
[編集]- 岩崎剛二「遺骨なく遺髪なく 第十六戦隊司令官・左近允尚正中将の運命」『海と空の八人の武人の生涯 最前線指揮官の太平洋戦争』光人社NF文庫、2003年4月(原著1995-1)。ISBN 4-7698-2379-7。
- 宇垣纏、成瀬恭発行人『戦藻録 明治百年史叢書』原書房、1968年1月。
- 生出寿『砲術艦長 黛治夫 海軍常識を覆した鬼才の生涯』光人社NF文庫、1996年6月(原著1988年)。ISBN 4-7698-2124-7。
- 大内健二「第3章 航空巡洋艦」『航空戦艦「伊勢」「日向」 航空母艦と戦艦を一体化させた恐るべき軍艦 付・航空巡洋艦』光人社NF文庫、2014年6月。ISBN 978-4-7698-2834-1。
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- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 北村源三「呉地區沈没艦艇の引揚作業並概略」船の科學 第1巻第2號、船舶技術協會、1948年、13-15ページ
- 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年。
- 木俣滋郎「11.重巡洋艦『筑摩』『鳥海』」『撃沈戦記 海原に果てた日本艦船25隻の航跡』光人社NF文庫、2013年6月(原著1988年)。ISBN 978-4-7698-2786-3。
- 小板橋孝策『海軍操舵員よもやま物語 艦の命運を担った"かじとり魂"』光人社NF文庫、2015年1月(原著1995年)。ISBN 978-4-7698-2868-6。
- 古村啓蔵回想録刊行会編『海の武将-古村啓蔵回想録』原書房、1982年2月。ISBN 4-562-01216-1。
- 古村啓蔵ほか『重巡十八隻 軍縮条約が生んだ最先端テクノロジーの結晶』潮書房光人社、2015年4月。ISBN 978-4-7698-1590-7。
- 戦史研究家伊達久『重巡戦隊の編成変遷とその航跡の全貌』
- 当時「筑摩」掌飛行長・海軍飛行兵曹長福岡政治『ミッドウェーの地獄を見た筑摩機悲し 筑摩を発着して眼下に見た空母炎上、敵空母発見と飛龍の最後』
- 元航空本部員・海軍大佐永石正孝『海上決戦の花形 重巡洋艦とその搭載機 連合艦隊の前衛として重巡の果たす役割と艦載水上偵察機の変遷』
- 元軍令部部員・海軍大佐三代一就『軍令部の秘策は利根型で実現されたか 主砲を前部に集中、後部を航空兵装にあてた利根型誕生の背景と内幕』
- 当時「鈴谷」艦長・海軍大佐寺岡正雄『「鈴谷」最後の艦長レイテ沖決死の突撃行 至近弾により次々と誘爆、全艦火の海と化し沈没したサマール沖の実相』
- 元「筑摩」艦長・海軍大佐古村啓蔵『先頭第一の栄光に生きた重巡「筑摩」 真珠湾から南太平洋海戦の被弾、遂には比島沖に没した獅子奮迅の記録』
- 当時「利根」艦長・海軍大佐黛治夫『不滅の重巡「利根」の悔いなき航跡 落日せまる太平洋を縦横無尽に疾駆したライオン艦長の戦場報告』
- 当時「利根」艦長・海軍大佐岡田有作『怒れる洋上砲台「利根」は沈黙せず 敢然と戦いぬいてきた勇者の最後をみとった最後の艦長が綴る鎮魂譜』
- 戦史研究家落合康夫『日本海軍重巡洋艦十八隻戦歴一覧』
- 左近允尚敏『捷号作戦はなぜ失敗したのか レイテ沖海戦の教訓』中央公論社、2010年10月。ISBN 978-4-12-004169-3。
- 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社NF文庫、1993年。ISBN 47698-2009-7。
- 戦史の戦訓 <重巡洋艦「利根」艦長・黛治夫大佐の証言>(マリアナ沖海戦・レイテ沖海戦時、利根艦長)
- 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』光人社NF文庫、1995年12月。ISBN 4-7698-2106-9。
- 「貴重な勝利」<駆逐艦「清霜」艦長・梶本顗中佐の証言>(太平洋戦争時、駆逐艦夕風艦長、弥生艦長、三重空教官、兵学校教官、清霜艦長、第22戦隊先任参謀等)
- 佐藤清夫『駆逐艦野分物語 若き航海長の太平洋海戦記』光人社、1997年。ISBN 4-7698-0803-8。
- 佐藤清夫『駆逐艦野分 若き航海長の太平洋海戦記』光人社NF文庫、2004年1月(原著1997年)。ISBN 4-7698-2408-4。
- 高戸顕隆『私記ソロモン海戦・大本営海軍報道部 海軍主計大尉の太平洋戦争』光人社、1999年。ISBN 4-7698-2227-8。
- 高橋一雄『神龍特別攻撃隊 潜水空母搭載「晴嵐」操縦員の手記』光人社NF文庫、2001年。ISBN 4-7698-1015-6。
著者は利根2号機操縦員。1939年5月14日着任。1942年5月2日、転勤。 - 「高松宮宣仁親王」伝記刊行委員会編『高松宮宣仁親王 自明治三十四年至大正二年』朝日新聞社、1991年3月。ISBN 4-02-256278-1。
- 田中三也『彩雲のかなたへ 海軍偵察隊戦記』光人社NF文庫、2016年2月(原著2009年)。ISBN 978-4-7698-2932-4。
著者は利根水偵搭乗員。1942年7月から1943年8月まで利根勤務。 - 手塚正己『軍艦武藏 上巻』新潮文庫、2009年8月。ISBN 978-4-10-127771-4。
- 手塚正己『軍艦武藏 下巻』新潮文庫、2009年8月。ISBN 978-4-10-127772-1。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
- 豊田穣『航空巡洋艦利根・筑摩の死闘』講談社、1980年2月。
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- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年5月。
- 防衛庁防衛研修所戦史部『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』戦史叢書第62巻、朝雲新聞社、1973年
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- 重巡利根型 軽巡香取型 丸スペシャルNo.44、潮書房、1980年
- 雑誌「丸」編集部『丸スペシャルNo122 重巡最上型/利根型』(潮書房、1987年)
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- 安永弘『死闘の水偵隊』朝日ソノラマ文庫、1994年。 著者は筑摩の乗組(水上偵察機操縦)。レイテ沖海戦から生還。
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- 『昭和18年12月1日〜昭和18年12月31日 軍艦利根戦時日誌』。Ref.C08030573000。
- 『昭和19年1月1日〜昭和19年1月31日 軍艦利根戦時日誌』。Ref.C08030573100。
- 『昭和19年2月1日〜昭和19年2月29日 軍艦利根戦時日誌』。Ref.C08030573200。
- 『昭和19年3月1日〜昭和19年3月31日 軍艦利根戦時日誌』。Ref.C08030573300。
- 『昭和19年4月1日〜昭和19年4月30日 軍艦利根戦時日誌』。Ref.C08030573500。
- 『昭和19年5月1日〜昭和19年5月31日 軍艦利根戦時日誌』。Ref.C08030573600。
- 『昭和19年3月9日 軍艦利根戦闘詳報』。Ref.C08030573400。
- 『昭和19年6月20日 軍艦利根戦闘詳報 第7号(あ号作戦中対空戦闘に対する分)』。Ref.C08030713100。
- 『昭和19年5月1日〜昭和19年11月25日 軍艦熊野戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030572400。
- 『昭和19年7月1日〜昭和19年10月25日 軍艦筑摩戦時日誌(1)』。Ref.C08030575000。
- 『昭和19年7月1日〜昭和19年10月25日 軍艦筑摩戦時日誌(2)』。Ref.C08030575100。
- 『昭和19年10月2日 軍艦武蔵戦闘詳報』。Ref.C08030565200。
- 『昭和19年10月1日〜昭和19年10月31日 捷号作戦戦時日誌(3)第7戦隊』。Ref.C08030039300。
- 『昭和19年10月20日〜昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)』。Ref.C08030037100。
- 『昭和19年10月18日〜昭和19年11月5日 軍艦利根戦闘詳報(1)』。Ref.C08030568500。
- 『昭和19年10月18日〜昭和19年11月5日 軍艦利根戦闘詳報(2)』。Ref.C08030568600。
- 『昭和19年6月1日〜昭和19年11月15日 軍艦利根戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030573900。
- 『昭和19年6月1日〜昭和19年11月15日 軍艦利根戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030574000。
- 『昭和19年6月1日〜昭和19年11月15日 軍艦利根戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030574100。
- 『昭和19年6月1日〜昭和19年11月15日 軍艦利根戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030574200。
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- 『昭和19年6月1日〜昭和19年12月13日 第30駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030149800。
- 『昭和18年12月1日〜昭和20年5月31日 呉練習戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030079000。
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- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍有終会編『幕末以降帝国軍艦写真と史実』海軍有終会、1935年11月。
- 海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版』海軍研究社、1937年2月。
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- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻4(1939年印刷) info:ndljp/pid/1886711』海軍大臣官房、1939年。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886716』海軍大臣官房、1940年。
- 第二復員局残務処理部『本土防衛作戦・其の三(自一九四一年十二月至一九四五年八月) info:ndljp/pid/8815644』第二復員局、1949年5月。
脚注
[編集]- ^ 週刊 栄光の日本海軍 パーフェクトファイルNo.51 p.6
- ^ 昭和13年11月20日付 海軍内令 第974号制定、海軍定員令「第48表ノ2 二等巡洋艦定員表 其ノ5」。この数字は飛行科要員を含む。
- ^ a b #昭和17年6月横鎮戦時日誌(3)画像12、6月25日官房機密第152番電
- ^ #艦艇類別等級表(昭和15年12月25日)p.2『艦艇類別等級表|軍艦|巡洋艦|二等|利根型|利根、筑摩|』
- ^ #ハンディ判艦艇写真集12p.140『艦名の由来』
- ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.86『利根(とね) 艦種二等巡洋艦 二檣(信号用) 艦名考川名に採る、關東第一の大河なり 艦歴(略)昭和6年4月1日除籍。同8年4月實艦標的として爆撃戰技に依つて撃沈さる。(備考)明治6年横須賀造船所にて建造せる運送船に第一、第二利根川丸(後に「利根」と改稱)のものあり。』
- ^ #生出、黛(文庫)121頁
- ^ 「艦本第9490号」p.2
- ^ #豊田利根筑摩(1980)38-39頁
- ^ a b 「第5275号 9.12.14利根」p.2
- ^ a b c #艦船要目(昭和15年12月25日)p.3『利根|二等巡洋艦|(要目略)|三菱長崎造船所|9-12-1|12-11-21|13-11-20|15.5c/m…12 12.7c/m高角8(性能略)』
- ^ #海軍操舵員よもやま話82-83頁
- ^ #ハンディ判艦艇写真集12p.142(利根進水式写真)
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.203『◎二等巡洋艦利根命名ノ件 昭和九年十二月一日(達二〇二)艦艇製造費ヲ以テ昭和九年度ニ於テ建造ニ着手ノ二等巡洋艦一隻ニ左ノ通命名セラル 三菱重工業株式會社長崎造船所ニ於テ建造 八千五百噸級巡洋艦 利根トネ』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.69『昭和九年十二月一日(内令五〇三) 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 巡洋艦、最上型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |利根型|利根|』
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z #ハンディ判艦艇写真集12pp.160-161(重巡洋艦『利根・筑摩』行動年表)
- ^ a b c #舞廠造機部158-161頁『重巡利根・筑摩の母港初入港』
- ^ #彩雲のかなたへ38頁
- ^ #海軍生活放談442-443頁、#操縦員手記30頁
- ^ #海軍生活放談442頁、#操縦員手記31-32頁
- ^ #海軍生活放談444頁
- ^ #海軍生活放談445頁
- ^ #ハンディ判艦艇写真集12p.147(観艦式写真)
- ^ #操縦員手記35頁
- ^ #戦藻録(1968)57頁
- ^ 「昭和16年8月1日(発令8月1日付)海軍辞令公報(部内限)第683号 p.3」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081700
- ^ #操縦員手記38頁
- ^ #操縦員手記39頁
- ^ #操縦員手記40頁
- ^ #操縦員手記41頁
- ^ #操縦員手記42頁
- ^ #操縦員手記44頁
- ^ #操縦員手記45頁
- ^ #豊田利根筑摩(1980)51頁
- ^ a b #操縦員手記48頁
- ^ #操縦員手記49頁
- ^ a b #操縦員手記55頁
- ^ #豊田利根筑摩(1980)54頁
- ^ #操縦員手記58頁
- ^ #操縦員手記59頁、「昭和17年〜昭和19 第8戦隊(1)」p.9
- ^ 「昭和17年〜昭和19 第8戦隊(1)」pp.10-11
- ^ #操縦員手記62頁
- ^ a b 「昭和17年〜昭和19 第8戦隊(1)」p.4
- ^ #操縦員手記63頁
- ^ a b 「昭和17年〜昭和19 第8戦隊(1)」p.5
- ^ a b #操縦員手記64頁
- ^ a b 「昭和17年〜昭和19 第8戦隊(1)」p.17
- ^ #操縦員手記65頁
- ^ #操縦員手記66頁
- ^ a b c #操縦員手記66頁
- ^ 「昭和17年〜昭和19 第8戦隊(1)」p.22
- ^ 「昭和17年〜昭和19 第8戦隊(1)」pp.30
- ^ 「昭和17年〜昭和19 第8戦隊(1)」p.31
- ^ 「昭和17年〜昭和19 第8戦隊(1)」p.47
- ^ #豊田利根筑摩(1980)57-59頁
- ^ a b #操縦員手記70頁
- ^ 「昭和17年〜昭和19 第8戦隊(1)」p.36
- ^ a b 「昭和17年〜昭和19 第8戦隊(1)」pp.39
- ^ 橋本廣『機動部隊の栄光』(2001年、光人社)
- ^ a b #操縦員手記71頁
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- ^ #操縦員手記74頁
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- ^ #S1704舞鎮日誌(1)p.62『二三(天候略)〇九三〇 第八戰隊(利根、筑摩)入港(以下略)』
- ^ a b #舞廠造機部217-221頁『ミッドウェー海戦の前後』
- ^ #S1704舞鎮日誌(1)p.9『(2)其ノ他ノ主要工事 利根、筑摩、第三十三潜水隊、長良及君川丸ノ整備工事、薄雲ノ特定修理工事、其ノ他ノ艦船兵器及陸上部隊等ノ主要訓令通牒工事ハ概ネ豫定通進捗シ長良、君川丸整備工事ハ夫々本月末完成セリ』
- ^ #S1705舞鎮日誌pp.10-11『(2)艦船其ノ他ノ工事 利根筑摩第三十四驅逐隊及第三十三潜水隊ノ整備工事竝ニ薄雲ノ特定修理工事、大潮ノ損傷復舊工事、其ノ他艦船兵器及陸上部隊ノ主要造修訓令通牒工事ハ概ネ豫定通進捗中ナリ』
- ^ #海の武将35頁
- ^ #木俣空母261-263頁『第八章 ミッドウエー海戦』
- ^ a b #豊田利根筑摩(1980)66-67頁
- ^ a b #豊田利根筑摩(1980)69-70頁
- ^ #彩雲のかなたへ274-276頁
- ^ a b c 「昭和17年7月14日(発令7月14日付)海軍辞令公報(部内限)第899号 p.1原補職・大西補職・岡田免職・兄部補職」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086300
- ^ #S1707舞鎮日誌(2)p.20『一六(天候略)〇六一五 八戰隊(利根筑摩)入港(以下略)』
- ^ #S1707舞鎮日誌(1)pp.7-8『(b)艦船整備工事 名取(十日)神威(十八日)三十一驅潜隊(三十一日)呂六三潜(十七日)ノ整備工事ハ何レモ概ネ順調ニ進捗各附記ノ通完成作戰地ニ向ケ進出セリ 利根、筑摩ニ對スル整備工事ハ十六日入港以来極力進捗中』
- ^ #S1708舞鎮日誌p.5『(a)損傷復舊工事 大潮、那珂工事=豫定通進捗中/霞工事=損傷復舊工事ノ爲本月十三日入港目下損傷部調査中 (b)利根筑摩ノ整備工事ハ六日完成シ作戰地ニ向ケ進出セリ 夕風(二十一日)、室戸(二十四日)ハ附記ノ通入稿以來極力進捗中』
- ^ #S1708舞鎮日誌p.60『六(天候略)一一四五筑摩出港 一三〇〇利根出港(以下略)』
- ^ a b c #彩雲のかなたへ42-46頁『第二次ソロモン海戦』
- ^ #木俣空母322-326頁『竜驤の沈没(八月二十四日)』
- ^ #S1701第八戦隊日誌(5)p.18『(二)戰備 利根ハ二十一日ヨリ、筑摩ハ十七年十一月初旬以降夫々舞鶴及呉ニ在リテ修理整備ニ從事 筑摩ノ諸工事ハ二月末完了セリ』
- ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』247-248、250ページ、「昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(5)」第10-11画像
- ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』250ページ、「昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(5)」第11-12画像
- ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』256ページ、「昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(5)」第20-21画像
- ^ S1712四水戦日誌(2)p.29『一三日一七三八(長官)GF(宛略)GF電令作第四八九號 (GF電令作第四八〇號ニ依ル回航区分(鳥海冲鷹ヲ加フ)ヲ左ノ通定ム/(イ)3S 8S(筑摩欠) 2sf(飛鷹欠) 嵐黒潮陽炎日進鳥海冲鷹ハ(司令官)3S指揮下ニ二月十五日「トラツク」發/(ロ)尓余ノ艦ハ各長官所定/二 AdB(指揮官)ハd×2ヲシテ(司令官)3Sノ指揮ヲ受ケ第一項へ威力ノ内地回航護衛ニ任ズベシ GF電令作第四二一號ニ依ル沖鷹護衛駆逐艦ノ派出ヲ解ク』
- ^ S1712四水戦日誌(2)pp.30-31『一四日〇八一七(指揮官)AdB(指揮官)(宛略)AdB電令作第一四五號 一.(司令官)2sdハ15dg(親潮欠)ヲシテ二月十五日「トラツク」發呉ニ回航修理整備ニ從事セシムベシ本回航中右駆逐艦ヲシテ(司令官)3Sノ指揮ヲ受ケシムベシ/二.GF電令作第四八九號第二項ニ依リ(司令官)3Sノ指揮ヲ承ケ内地回航部隊ノ警戒ニ任ズベキ駆逐艦ヲ27dg(時雨)及大波ニ指定ス/三.AdB電令作第一一八號ニ依ル(司令官)4sdノ冲鷹警戒任務ヲ解ク』
- ^ S1709三戦隊日誌(2)p.37『一五(天候略)一一〇〇「トラツク」発/一四一五2sf15dg解列「トラツク」ニ引返ス/一二五五ヨリ一七二〇迄之字運動|3S 8S 2sf鳥海冲鷹日進及駆五ヲ率ヰ内地ニ回航』
- ^ #S1801二水戦日誌(3)p.20『15日1100 3S時雨(佐世保ニ向ケ)鳥海冲鷹嵐大波(横須賀)2sf(飛鷹缺)日進黒潮陽炎(呉)8S(筑摩缺)(舞鶴)各軍港ニ向ケ「トラック」発|四.1700 2sf(飛鷹缺)陽炎黒潮天候不良ノ為Y収容不能ニ付「トラック」入泊』
- ^ #S1802舞鎮日誌(2)p.18『二一(天候略)行動 利根入港』
- ^ #S1802舞鎮日誌(2)p.19『二四(天候略)行動 日進入港(以下略)』
- ^ #S1802舞鎮日誌(1)p.5『(a)損傷復舊工事 那珂、霞、不知火、初春、何レモ豫定通進捗中/(b)修理艦船 太刀風(二日)利根(二十一日)日進(二十四日)刈萱(二十五日)}何レモ附記ノ通入港修理工事中/龍田 操舵試験ノ結果更ニ修理ヲ要スルコトトナリ極力工事中』
- ^ #S1803舞鎮日誌(1)pp.6-7『(a)損傷復舊工事 霞不知火初春何レモ豫定通工事進捗中/那珂ハ三十一日工事完成セリ (b)修理工事 龍田 操舵装置修理豫想外ニ困難ニシテ一日試運轉ノ結果徹底的修理ヲ要スルコトトナリ陸揚修理二十七日試運轉成績良好二十八日出動セリ/太刀風八日、日進十三日、利根十六日}整備完成何レモ出動/刈萱 整備工事中/眞鶴(十六日)、長波(十七日)、木曾(二十日)、室戸(二十三日)何レモ附記ノ通入港極力整備工事中』
- ^ #S1701第八戦隊日誌(5)p.18『(二)「トラック」ニテ警泊待機中ノ處十五日發内地ニ回航二十一日舞鶴着、整備ニ從事』
- ^ 「昭和18年3月15日(発令3月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1069号 p.6」 アジア歴史資料センター Ref.C13072090000
- ^ #S1803舞鎮日誌(2)p.19『一六(天候略)利根出港』
- ^ #S1801二水戦日誌(4)p.5『3月22日-3月28日|陽炎(将旗15dg)|2sf(隼鷹飛鷹)8S(利根筑摩)|佐伯-「トラック」』
- ^ #S1712四水戦日誌(5)p.25『21日1203(将旗)2sf|2sf及61dg(秋月欠)15dg(陽炎欠)夕暮「トラック」ニ向ケ佐伯発』-p.38『22日|(天候略)|一.夕暮陽炎初月涼月ト共ニ2sf8Sノ直衛ニ任ジツツ佐伯発トラックニ回航ス(略)』
- ^ #S1801二水戦日誌(6)p.14『一七(天候略)一.一〇〇〇武藏3S 8S 2sf(飛鷹)横須賀ニ向ケ「トラック」發61dg(d×2)27dg(d×2)24dg〇七〇〇出港右護衛ニ任ズ海風本日附主隊編入』
- ^ #武藏上142頁
- ^ #S1801二水戦日誌(6)p.6『五月十七日 五月二二日|海風|武藏 3S 8S 2sf(隼鷹欠)|「トラック」→横須賀|海風主隊編入中』
- ^ #S1805四水戦日誌(1)pp.6,33『27dg(時雨、有明)ハ前記任務ノ後17日GF電令作第564号ニ依リGF主隊ニ編入セラレ内地回航部隊(1S(大和欠)、3S、8S、2sf(隼鷹欠))直衛任務ニ従事「トラック」発 22日横須賀着』
- ^ #S1709三戦隊日誌(3)p.13『2.敵ノ「アッツ」島来襲ニ伴ヒ主隊ニ編入ノ上五月十七日「トラツク」発東京湾ニ回航二十二日機動部隊本隊ニ編入セラレ急速北方作戰準備ヲ實施セルモ作戰取止メトナリ内地ニ於テ訓練整備ニ從事スルコトヽナレリ』
- ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』357、372-373ページ
- ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』357、372ページ
- ^ a b c 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』373ページ
- ^ 「昭和17年〜昭和19年 第8戦隊(7)」p.31
- ^ a b 「昭和17年〜昭和19 第8戦隊(7)」p.32
- ^ #S1804十一水戦(5)p.75『第十一水雷戰隊命令 一.聯合艦隊電令作第七七八號ニ依ル内地回航部隊(當隊(龍田)山城伊勢隼鷹雲鷹利根 二十四驅逐隊(海風涼風)谷風 第七驅逐隊(曙))ハ別紙計画ニ依リ内地ニ回航ス(以下略)』
- ^ #S1806二水戦日誌(4)pp.84-85『三一(天候略)大波〇四〇〇「トラツク」発/24dg(海風涼風)〇四四〇「トラツク」発/五月雨一四三〇「ラバウル」発|24dg(海風涼風)伊勢山城龍田隼鷹利根ヲ護衛シ呉ニ向ケ「トラツク」発/31dg(大波)2sf基地員物件輸送ノ爲「カビエン」ニ向ケ「トラツク」発/島風〇八〇〇東亜丸日本丸護衛ヲ止メ一四一五日章丸日榮丸ニ合同護衛任務ニ付キ「トラック」ニ向フ/五月雨一四三〇敵輸送船団及護衛艦隊撃滅ノタメ「ラバウル」発|GF電令作第七八一号31dgヲNTBニ編入ス/三十一日附24dgノ項中ニ満潮ヲ加フ』
- ^ #S1804十一水戦(6)p.15『五日〇五五〇隼鷹|五日〇五五〇(司令官)11sd|魚雷一本命中』
- ^ #S1804十一水戦(6)p.18『五日一〇〇三隼鷹艦長(宛略)利根ニテ曳航開始對潜哨戒機二機着』
- ^ #S1811佐伯防備隊(2)p.14『十一月五日一〇一五鹿屋空(指揮官)(宛略)隼鷹警戒ノ為艦爆二機発』
- ^ #S1804十一水戦(6)p.26『六日一五二一隼鷹艦長(宛略)隼鷹利根呉着』
- ^ #S1701第八戦隊日誌(8)p.31『一四(天候略)利根修理完成』
- ^ 戦史叢書第62巻 中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降、526-527ページ、戦史叢書第96巻 南東方面海軍作戦<3>ガ島撤収後、462ページ
- ^ a b 戦史叢書第62巻 中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降、527ページ
- ^ #戦隊行動調書p.8『昭和19 一.一 利根筑摩 7Sニ編入』
- ^ 第八戦隊日誌(8)p.27『(ハ)昭和十九年一月一日附ヲ以テ第八戰隊解隊セラレ、筑摩及利根ハ第七戰隊ニ編入セラル』
- ^ 「昭和18年11月1日(発令11月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1249号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094100
- ^ 戦史叢書第96巻 南東方面海軍作戦<3>ガ島撤収後、463、465ページ
- ^ 極秘「戊号輸送部隊」の真実、248、252、254-255ページ
- ^ #S1901利根日誌p.7『二十五(天候略)(略)二十五日附遊撃部隊ヨリ除カレ敷島部隊ニ編入』
- ^ #S1901利根日誌p.8『三十(天候略)〇五〇〇出撃 〇五四〇引返ス 〇六三三入港|遊撃部隊主隊ニ復皈 敵「マーシャル」方面ニ來襲』-『三十一(天候略)(略)敷島部隊ニ復歸』
- ^ #S1902利根日誌p.3『一(天候略)〇七三五「トラツク」出撃』
- ^ #S1902利根日誌p.3『三(天候略)一三三〇「パラオ」入港』
- ^ #S1902利根日誌p.6『十六(天候略)〇八〇五「パラオ」出撃』
- ^ #S1902利根日誌p.7『二十一(天候略)一九三〇「リンガ」入港』
- ^ #S1902利根日誌p.8『二十七(天候略)一五〇〇「リンガ」出港 一七五五第十六戰隊合同』
- ^ #S1902利根日誌p.20『二十九日〇八三五(長官)GF(宛略)GF電令作第九六九號 筑摩利根ヲ南西方面部隊ニ編入ス』
- ^ #S1902利根日誌p.8『二十八(天候略)一一三〇第十六戰隊ト共ニ「バンカ」泊地入港 「サ」第一號作戰ニ対スル打合会(青葉)|筑摩利根南西方面部隊ニ編入セラル』
- ^ #生出、黛(文庫)131-132頁
- ^ #八人武人生涯88-89頁
- ^ #S1903利根日誌p.3『二(天候略)〇九〇〇「バンカ」出港|〇七〇〇青葉鬼怒敷波出港』
- ^ #S1902利根日誌pp.19-20『二十八日一〇一〇(旗艦)青葉|艦|「バンカ」泊地ノ警戒ニ関シ左ノ通定ム 第四配備列法第一(機密第十六戰隊命令第四十五號所定)但シ (一)警戒當直艦ハ當直艦之ヲ兼ネルモノトス (二)筑摩利根當直艦ニ當リタル場合ノ該艦ノ射撃準備ハ足柄ノ項ヲ適用ス (三)本日ノ當直艦ヲ鬼怒トシ以後青葉筑摩利根大井ノ順トス』
- ^ a b c d e #海軍操舵員よもやま話84-90頁『サ号作戦発動』
- ^ #重巡洋艦戦記184-186頁『「サ一号」作戦の後難』
- ^ #サ号利根p.17『(司令官)16S|一八一五 本|機密「サ」第一號作戰部隊奇襲隊命令作第一號別紙第四項敵舩舶處理要領ニ依レバ敵舩舶ハ之ヲ拿捕スルヲ立前トシ情況止ムヲ得ザル場合ノミ之ヲ撃沈スルコトト定メラレアル處撃沈スルニ至リタル件参考ノ爲承知シ度』
- ^ #S1903利根日誌p.5『九(天候略)(略)英貨物船「ベハー」号(約七〇〇〇屯)撃沈 南緯二〇度三四分東経八七度〇〇分(戰斗詳報参照)』
- ^ #サ号利根pp.8-9『一三〇五|敵舩ハ舟首舟尾ニ、八乃至一〇糎砲二門ヲ有スルヲ認メ其ノ有効砲戰距離ヲ八〇〇〇米ト判断ス 敵ノ送信妨害ノ目的ヲ以テ「電報ヲ打ツ勿レ」次デ僞瞞ノ目的ヲ以テ「我ハ米國巡洋艦ナリ」「重要通信アリ近寄レ」ヲ國際信號(旗流及ビ發光)ニ依リ送信セルモ敵ハ了解セズ』
- ^ #サ号利根p.25『(a)英舩多キ海面ナルニ鑑ミ大型米國軍艦旗ヲ前檣桁端ニ掲揚ス/(b)御紋章ヲ秘匿ス(御紋章ハ十二糎双眼鏡ヲ以テセバ二〇〇〇〇米以上ニ於テ視認シ得ルコトアリ)/(c)敵舩長以下ヲシテ敵味方判別ヲ困難ナラシムグガ如キ信號ヲ連發シ之ヲ忙殺シテ注意ヲ牽制ス』
- ^ #生出、黛(文庫)136-137頁
- ^ #サ号利根pp.9-10『一三二二|「主砲高角砲打方待テ」ヲ令シ敵舩ニ注意セルニ停止スルヲ認ム(發射彈數珠法通常彈二四發高角砲通常彈一五發)』-『一三三四|「主砲打方待テ」ヲ令ス(發射彈數通常彈八發、徹甲弾七發/一三三六|「高角砲打方待テ」ヲ令ス(發射彈數通常彈五四發)』
- ^ a b #重巡洋艦戦記187-188頁
- ^ #サ号利根pp.19-20『(イ)戰果 英商舩(七六〇〇屯)一隻撃沈 捕虜英人四一名 中國人三名 印度人、ゴア人 計六〇名 總計一〇四名』
- ^ #サ号利根pp.12-14『一五四〇 本|一六〇〇(司令官)16S|(略)(ホ)捕虜舩長以下一二九名(内白人士官二一人外一六人其ノ他印度人)』
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- ^ #佐藤 艦長続編(文庫)218-224頁『戦艦「武蔵」が沈む』
- ^ #レイテ利根詳報(1)p.16『一八三〇|利根→(司令官)3S、(司令官)7S 発光「此處ニ居ルモ如何トモ爲シガタキニ付決戦うニ参加シ得ル様御願ヒス」』
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- ^ #重巡洋艦戦記197-198頁『最後の追撃戦』
- ^ #レイテ武蔵詳報p.19『2F長官|仝右|利根ハ原隊ニ復歸セヨ』
- ^ a b #佐藤 艦長(文庫)153-154頁『サマール島沖海戦』
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- ^ ETTO vol.6 江田島市役所企画振興課 2020年11月