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三隈 (重巡洋艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三隈
軽巡洋艦時代。鹿児島港にて(1939年)
軽巡洋艦時代。鹿児島港にて(1939年)
基本情報
建造所 三菱造船長崎造船所
運用者  大日本帝国海軍
艦種 重巡洋艦
級名 最上型重巡洋艦
艦歴
発注①計画
起工 1931年12月24日[1]
進水 1934年5月31日[1]
竣工 1935年8月29日[1]
最期 1942年6月7日沈没
北緯29度20分 東経176度30分 / 北緯29.333度 東経176.500度 / 29.333; 176.500
除籍 1942年8月10日[2]
要目
基準排水量 11,200トン
全長 200.6 m
最大幅 20.6 m
吃水 6.9 m (新造時)
主缶 ロ号艦本式缶大型8基、同小型2基
主機 艦本式タービン4基4軸
出力 154,056馬力(新造時公試成績)
速力 36.47 ノット (新造時公試成績)
燃料 重油:2,178 t (新造時実測値)
航続距離 14ノットで8,778海里(新造時公試成績)
乗員 竣工時定員944名[3]
兵装 竣工時
60口径15.5cm3連装砲塔5基
40口径12.7cm連装高角砲4基
25mm連装機銃4基
13mm連装機銃2基
61cm3連装魚雷発射管4基
主砲換装後
50口径20.3cm連装砲塔5基
40口径12.7cm連装高角砲4基
25mm連装機銃4基
13mm連装機銃2基
61cm3連装魚雷発射管4基
装甲 舷側:100mm 弾薬庫:140mm 甲板:35 - 60mm
搭載機 3機(カタパルト2基)
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三隈(みくま)は、最上型重巡洋艦(二等巡洋艦最上型)の2番艦[4][5][6]。艦名は大分県日田盆地を流れる三隈川筑後川の一部)に由来する[7][8]1935年(昭和10年)8月に竣工した。大東亜戦争(アメリカの呼称 太平洋戦争)でマレー作戦蘭印作戦に参加し、1942年(昭和17年)3月1日のバタビヤ沖海戦で米豪の巡洋艦2隻の撃沈に貢献した。同年6月7日、ミッドウェー海戦で米艦載機の攻撃を受け沈没し、大東亜戦争(太平洋戦争)で最初に失われた日本海軍の重巡洋艦となった。

艦歴

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建造~太平洋戦争開戦まで

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日本海軍は艦齢を重ねた旧式艦の代艦を建造することになり、軽巡の場合は最初に4隻(龍田天龍球磨多摩)を以下4隻(最上鈴谷三隈熊野)と置換することにした[9]。 三隈は1931年(昭和6年)12月24日三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)で計画排水量8,636トン、水線全長190.5m、15.5cm3連装砲塔5基を備えた二等巡洋艦として起工した[1][10]

  • 建造に当たっては、鋼材の接合に当時の日本海軍では少数だった電気溶接が多用された[11]

1932年(昭和7年)8月1日、最上型1番艦が最上、2番艦が三隈と命名された[6]。 同日付で艦艇類別等級表に最上型が新設された[12]

1934年(昭和9年)5月31日に進水した[1][13]。翌年5月末の完成を目指して艤装工事が行われていたが[14]藤本喜久雄少将 が設計した千鳥型水雷艇友鶴が転覆する友鶴事件が発生し、藤本の設計による最上型二等巡洋艦の工事も急遽中断された[15]。最上を調査したところ船体推進軸付近や内部構造に破損が見つかり、三隈も補強工事を行う[16]

1935年(昭和10年)8月29日に竣工[1][17]。 この時点で基準排水量は1万トンを超えていたが、対外的には8,600トン公表のままだった[10][18]艦内神社大原八幡宮[19]

竣工した三隈は第四艦隊に編入されたが、1ヵ月後の9月26日三陸沖にて第四艦隊事件に遭遇した[20]。 11月15日、三隈は第2予備艦に指定[21]。三隈は11月30日より呉工廠に入渠、修理や調整を行う[21]

1936年(昭和11年)2月5日に出渠、4月1日より第3予備艦となる[21]

1937年(昭和12年)5月7日から10月31日にかけて呉工廠に入渠[21]。12月1日、最上型巡洋艦で第七戦隊が編制された[21]

艦首主砲(1939年)

1939年(昭和14年)5月20日、第3予備艦に指定された[21]。11月15日、第七戦隊旗艦は熊野に指定された[22]。三隈は特別役務艦となり、主砲換装工事にとりかかる[21]12月30日、5基の15.5cm三連装砲塔を、他の日本軍重巡洋艦と共通する20.3cm連装砲塔5基に換装した。1940年(昭和15年)5月1日、工事を終えた三隈は第七戦隊に復帰した[21]

第七戦隊は1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争の開戦を、司令官栗田健男少将、第一小隊に熊野、鈴谷、第二小隊に三隈、最上の編制で迎えた。

太平洋戦争緒戦

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太平洋戦争の開戦時、第七戦隊は南遣艦隊(小沢治三郎中将)の一員として南方作戦に投入された。マレー作戦蘭印作戦に従事し、船団護衛や上陸支援を行った。 1942年(昭和17年)3月1日のバタビア沖海戦で、三隈と最上、駆逐艦敷波は海戦の終盤に戦場へ到着、共同で米ヒューストンと豪軽巡パースを撃沈した[23][24]

ベンガル湾で通商破壊作戦に参加し、最上、駆逐艦天霧と共に南方隊を編制し、共同で商船5隻を撃沈した[25]。4月10日、南遣艦隊は南西方面艦隊に再編され、ミッドウェー島の攻略作戦に備えて編制から外れた第七戦隊は内地に帰投した。

ミッドウェー海戦

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1942年(昭和17年)4月、ミッドウェー島攻略の作戦構想が海軍で内定した。第二艦隊近藤信竹中将)がミッドウェー島攻略部隊となり、南方戦線から戻った第七戦隊と、第8駆逐隊の荒潮朝潮の6隻で、占領部隊の上陸作戦を掩護する支援隊(栗田健男中将)が編制された(編制の詳細はミッドウェー海戦参照)。第七戦隊は整備後、5月中旬に内海西部へ移動し、作戦に備えて訓練に従事した[26]

支援隊は5月26日、給油艦日栄丸と共にグアム島に到着した[26][27]。28日夕に出港し、29日に洋上で占領隊を乗せた輸送部隊と、護衛の第二水雷戦隊(田中頼三少将)と合流し、ミッドウェー島に向かった。30日に輸送部隊が米潜水艦の緊急電を傍受し、輸送部隊と第二水雷戦隊は潜水艦の攻撃を回避するため進路を変更し、支援隊とは別行動をとった。無線封鎖のため両隊は別々に進行し、支援隊は6月4日に輸送部隊の位置を把握したが、ミッドウェー島近海に至るまで両隊は合流しないまま、6月5日にミッドウェー海戦が生起した[28][29]

ミッドウェー島の砲撃命令と反転

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6月5日午前7時25-30分、第一航空艦隊の主力空母3隻(赤城加賀蒼龍)は米第16任務部隊スプルーアンス少将)と第17任務部隊の空母3隻(ヨークタウンエンタープライズホーネット)の艦載機の急襲を受け、炎上した。 連合艦隊司令部(山本五十六司令長官)は、第一航空艦隊で唯一健在だった空母飛龍の航空戦力で米機動部隊の空母群を殲滅した後、水上艦艇の夜戦に持ち込めば、攻略作戦の続行は可能と判断した[30][31]。しかし周辺海域で遊弋する米機動部隊の他に、ミッドウェー島の航空戦力が健在とみられ、飛龍1隻で両面の航空戦に対応するのは困難が予想された[32]。司令部はミッドウェー島飛行場の攻撃を水上戦力で行う方針を決定し、午前10時10分、第二艦隊に対し、攻略部隊の一部戦力でミッドウェー島基地の砲撃と破壊を命じた[31][33][34]

電文を受けた近藤中将は、輸送部隊に同行する支援隊がミッドウェー島に最も近いと考え、基地航空隊が夜間で反撃できない6月6日夜明けまでの砲撃を命じた[31][35]。 しかし第七戦隊からの報告で、支援隊の位置は近藤中将の予想より80海里以上遅れ、第二艦隊の南120海里にいることが判明した[31][36][37][34]。ミッドウェー島周辺の日の出は日本時間の午前2時で[38]、近藤中将は第七戦隊が夜明けまでにミッドウェー島に到着するのは困難と考え、連合艦隊司令部に報告した[34][39]

支援隊は第二艦隊との合流を目指して北北東に28ノットで航行中、第二艦隊から砲撃命令を受けた。栗田中将は外洋で高速航行が難しい駆逐艦2隻を分離し、第七戦隊を最大戦速の35ノットで南進させ、朝潮と荒潮を後から追走させた[40][41][42][43]。司令部は近藤中将の報告を受けても砲撃の方針を変更せず、午後5時30分には潜水艦伊168に対し、午後11時までミッドウェー島航空基地を砲撃することを命じた[44][42]

飛龍が米艦載機の攻撃で炎上し、日没後も復旧と消火作業が続いたが、午後6時半以降に爆弾や魚雷が誘爆し戦闘復帰は絶望的となった[45]。 連合艦隊司令部は午後9時15分、第七戦隊を含む第二艦隊と南雲機動部隊に主力部隊との合流を命じ、ミッドウェー島の攻略を断念した[42][46]。第七戦隊は、ミッドウェー島を主砲の射程内に入れるまで2時間程の距離まで近づいたが、命令を受けて反転し、主力部隊との合流をめざして退避行動に移った[47][48][49]

最上との衝突

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第七戦隊は熊野鈴谷、三隈、最上の順に各艦800mの距離を置く縦列隊形をとり、速度28ノットで北北西に向かった。 午後11時半、浮上中の米潜水艦タンバーが高速で接近する第七戦隊を発見し、急速潜航した。第七戦隊も右45度前方にタンバーを発見し、熊野は僚艦に信号灯で左緊急45度一斉回頭を指示した。熊野当直参謀の岡本功少佐が左45度1回では回避角が足りないと判断し、無線電話で追加の左45度回頭を連絡した。熊野は90度回頭したが、後続の3艦は無線連絡が信号指示の確認と誤認して混乱し、熊野が後続艦の前方右から左に横切る隊形となった。直後の鈴谷は面舵30度で熊野の艦尾をかすめ、隊列右に外れた[49][50]

三隈は熊野を視認すると左に舵を切って衝突ルートを回避した。最後尾の最上も熊野を視認し、左25度に変針したが、熊野を直前の三隈と誤認した。このため熊野との中間右から三隈が併進することを想定せず、縦列隊形に戻って追尾するため右45度に転舵した結果、三隈と最上が急接近した。最上が前方を横切る三隈を視認し左に舵を切ったが、三隈の左舷中央部に衝突した[49][51]

三隈は艦橋~煙突下の舷側に長さ20m、幅2mの破孔が生じ、電信室で火災が発生。左舷燃料タンクが破損、浸水で左に4度傾斜したが、右舷に注水して復元し、消火にも成功した。最上は艦首が圧壊して前進が困難になり、栗田中将は連合艦隊司令部に報告した後、第七戦隊の第1小隊と第2小隊を分離し、鈴谷と熊野は連合艦隊主隊との合流のため北西に向かい、三隈の崎山釈夫艦長には最上を掩護してトラック島への撤退を命じた[49][52][53]

  • 戦史叢書は、栗田中将が『事故地点がミッドウェー島から約100海里で翌朝の空襲は必須であり、現場にとどまれば健在の2隻ごと全滅が予想されるので、せめて健在2隻だけでも避退させるのが有利であると判断した』と記述している。宇垣纏連合艦隊参謀長は『戦隊全艦で最上を護衛した方が良かったのではないか』と指摘した[49][47][54]

最上は最大速力が14-16ノット程度まで復旧し、三隈が護衛して避退を続けた[49]。タンバーの報告を受けた米第16任務部隊は、第七戦隊を追撃するため南下した[55]6日午前6時30分、三隈と最上にPBYカタリナ飛行艇が触接し、ミッドウェー基地航空隊のB-17重爆8機、SB2Uビンジゲーター6機、SBDドーントレス6機が攻撃に向かった[56][57]。午前8時40分に攻撃を開始し、最上で2名が戦死したが命中弾はなく、三隈は第二艦隊に被害なしと報告した[58][59]

三隈の最期

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7日午前3時30分頃、三隈と最上は索敵行動中のSBDドーントレス2機と遭遇し、三隈が1発被弾した[60] 三隈と最上は午前5時、荒潮朝潮と合流した[61]。最上を護衛し、4隻は速力14ノットで西方への退避を続けた[62]。午前6時45分、三隈は連合艦隊司令部に被弾を報告した[60]

この日は穏やかな天候で、少し低い雲がかかっていた[63]。午前8時、ホーネットなどの索敵機が遁走する4隻を発見した[64]。米第16任務部隊ホーネットからF4Fワイルドキャット8機、SBDドーントレス26機、エンタープライズからワイルドキャット12機、ドーントレス31機(+艦攻3機とも)を発進させた[65][66]

同時刻、崎山艦長は米軍機が触接すると『敵水偵二機触接、附近ニ水上艦艇アルモノノ如シ 我敵空母水上艦艇ノ追躡ヲ受ケツツアリ 今ヨリ「ウェーキ」島ニ向フ 地点「ウェーキ」三〇度七一〇浬』と連合艦隊司令部に報告し、最上に朝潮と荒潮の護衛をつけて北の第二艦隊に向かわせ、三隈はウェーク島基地航空隊の活動圏内に引き込むため28ノットで西に向かった[60][67]。 連合艦隊司令部は第二艦隊に救援を命令し、近藤中将が攻略部隊を率いて南下したが、駆逐艦の残燃料の関係で20ノットしか出せなかった[68][69]

午前10時、ホーネットの攻撃隊が最上を攻撃し、後部砲塔が破壊され、艦中央部で火災が発生した[70]。続くエンタープライズの攻撃隊は三隈を集中攻撃し、さらにホーネットの第二波攻撃隊が最上と三隈を攻撃した。エンタープライズ隊は三隈に1,000ポンド爆弾命中5発、至近弾2発[63]、ホーネット第二波隊は三隈に1発、最上に6発命中と報告した[63][71]

三隈は3番砲塔、右舷機械室、左舷後部機械室に直撃弾を受け、破片で艦橋の崎山艦長が重傷を負った[67]。機銃砲座の弾薬が炸裂して火災が発生し、さらに魚雷が誘爆して大爆発を起こした[67]。煙突にも直撃弾があって白煙が噴出し、三隈は洋上で完全に停止した[72]。午前10時58分、救援に向かった朝潮が『三隈大爆発見込なし』と報告した[60]

艦の指揮権を継承した高島秀夫副長は総員退去を命じ[73]、脱出用の筏を作らせた[67]が、高島副長は爆弾の直撃で戦死した[74][75]。空襲下で朝潮と荒潮が救援に駆け付け、接舷した荒潮は乗員240人を収容したが、後部砲塔に直撃弾を受けて多数の死者を出し、作業の途中で撤収を余儀なくされた[67][76]。朝潮と荒潮はカッターボートなどで漂流する乗員の救助を続けたが、被弾した朝潮は戦死者22名・重傷者35名を出した[77]

戦闘の続行が不可能になり艦が放棄されてなお、三隈は洋上に大破した艦姿をとどめていた。戦果の確認のためエンタープライズのドーントレス2機が飛来し、三隈の最期の姿を至近距離で撮影した[78][79]

ミッドウェー海戦最上と衝突後、米軍機の攻撃で大破した三隈[80]
ミッドウェー海戦で被弾炎上中の三隈。米軍はこの時の撮影で、最上型が主砲を換装して重巡化したことを確認したとされる[81]
  • 米軍のある艦攻電信員兼機銃手は、三隈を『屑鉄とガラクタでいっぱいの巨大なバスタブ』と表現した[82]

空襲の危険が去った日没後、朝潮が残る乗員の救援と三隈の処分に向かった[83]。しかし艦影を発見できず[67]、『三隈所在海面に至りしも艦影を認めず。付近捜索すれども空し』と報告した[84]。米軍も、三隈の沈没の瞬間を視認していない[85]。三隈機関科員の石川健一は「日没直前に沈下をはやめたのち左舷に転覆し、沈没した」と証言している[79]

6月8日午前、第二艦隊は三隈の生存者を乗せた最上、荒潮、朝潮と合流した[86]。生存者は熊野と鈴谷に移乗した[87]。崎山艦長は鈴谷移乗後に死亡した[73][88]。連合艦隊の参謀長宇垣纏少将は[89]、陣中日記戦藻録に以下のように記述した[90]

最上及八驅逐隊も損傷の身を以て、攻略部隊の前程を西方にかわり、其の収容を為すを得たり、一時は全滅かと危ぶまれたる之等が三隈の犠牲に於て事済みたり、最上は潜水艦回避に当り三隈と衝突航行不能なりしも、逐次修復して、二〇節迄出し得るに至る。三隈は損傷なく専ら最上の援護に当たりしつつありしに其身反りて斃れ、最上の援護の目的を果たす。右両艦の運命こそ奇しき縁と云ふべく、僚艦間の美風を発揮せるものなり — 宇垣纏、宇垣纏『戦藻録』146ページ

6月9日、米潜水艦トラウトが漂流する救命筏から2名の三隈乗組員を救助した[91]。当初19名が筏に乗っていたが、最終的に2名になったという[92]。救助された2人は、アメリカ本国のリビングストン収容所へ送られた[93]

8月10日、三隈は軍艦籍から除籍された[2]。 12月8日、山本五十六連合艦隊司令長官はバタビア沖海戦における3隻(最上、三隈、敷波)の活躍に感状を与えた[94]

艦名は海上自衛隊護衛艦「みくま」(初代2代目)に継承された。

歴代艦長

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※『艦長たちの軍艦史』117-119頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長

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  1. 吉田庸光 大佐:1934年6月1日[95] - 7月4日[96]
  2. 鈴木田幸造 大佐:1934年7月4日[96] - 8月29日[97]

艦長

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  1. 鈴木田幸造 大佐:1935年8月29日[97] - 11月15日[98]
  2. 武田盛治 大佐:1935年11月15日[98] - 1936年12月1日[99]
  3. 岩越寒季 大佐:1936年12月1日[99] - 1937年12月1日[100]
  4. 入船直三郎 大佐:1937年12月1日[100] - 1938年11月15日[101]
  5. (兼)平岡粂一 大佐:1938年11月15日[101] - 1938年12月15日[102]
  6. 阿部孝壮 大佐:1938年12月15日[102] - 1939年7月20日[103]
  7. (兼)久保九次 大佐:1939年7月20日[103] - 1939年11月15日[104]
  8. 木村進 大佐:1939年11月15日[104] - 1940年11月1日[105]
  9. 崎山釈夫 大佐:1940年11月1日[105] - 1942年6月7日戦死(同日附、海軍少将)[106]

同型艦

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脚注

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  1. ^ a b c d e f #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.3『三隈|二等巡洋艦|190.50|18.20|4.50|8,500|33.0節|9|昭和6-12-24|9-5-31|10-8-29|15.5c/m…15 12.7c/m高角8|發射管12|探照燈3(機関略)』
  2. ^ a b #S1708舞鎮日誌p.27『九日二三〇〇大臣(宛略)官房機密第四二九番電 八月十日附 蒼龍、三隈及加賀ヲ軍艦籍ヨリ除カル』
  3. ^ 昭和10年8月29日付 海軍内令 第334号改正、海軍定員令「第50表ノ2 二等巡洋艦定員表 其ノ5」。この数字は飛行科要員を含み特修兵を含まない。
  4. ^ #艦艇類別等級(昭和15年12月25日)p.2『艦艇類別等級表|軍艦|巡洋艦|二等|最上型|最上、三隈、鈴谷、熊野』
  5. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.203『◎二等巡洋艦最上及三隈命名ノ件 昭和七年八月一日(達一〇五)艦艇製造費ヲ以テ昭和六年度ニ於テ建造ニ着手ノ二等巡洋艦二隻ニ左ノ通命名セラル 呉海軍工廠ニ於テ建造 八千五百噸級巡洋艦 最上モガミ 長崎三菱造船所ニ於テ建造 八千五百噸級巡洋艦 三隈ミクマ』
  6. ^ a b #達昭和7年8月p.7『達第百五號 艦艇製造費ヲ以テ昭和六年度ニ於テ建造ニ着手ノ二等巡洋艦二隻ニ左ノ通命名セラル|昭和七年八月一日 海軍大臣岡田啓介|呉海軍工廠ニ於テ建造 八千五百噸級巡洋艦 最上モガミ|三菱長崎造船所ニ於テ建造 八千五百噸級巡洋艦 三隈ミクマ』
  7. ^ #ハンディ判艦艇写真集12p.2『艦名の由来』
  8. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.138『三隈(みくま) 艦種 二等巡洋艦 最上型 艦名考 川名に採る、三隈川は筑後川の中流部を云ふ。最上(二代)と姉妹艦なり。』
  9. ^ #昭和9年度海軍予算査定資料p.15『昭和六年補充計畫被代艦調』
  10. ^ a b 日本軍艦集2600年版p.29『二等巡洋艦 三隈(みくま) 基準排水量8,500噸、長さ190,5米、幅18,20米、平均吃水4.5米、速力33節、備砲15.5糎砲15門、12.7糎高角砲8門、魚雷發射管12門、起工昭和6年12月24日、竣工昭和10年8月29日、建造所三菱長崎造船所-最上と同型。この排水量で、この重武装を施した軽巡は世界に皆無である。』
  11. ^ #高松宮日記2巻98頁『六月二十六日(略)一〇時五分前、三菱造船所につく。極めて時間少く説〔明〕をきゝ巡覧。「三隈」のものが多かつた。東洋汽船の宇洋丸を艤装し船台にもすべて船がゐた。電気鎔接は検査の関係上、商船にはまだ余りつかはれてゐなか〔つ〕たが「三隈」には盛んに用ゐられてゐた。その技術も古いだけにストレスのない様に甘くやるらしい。(以下略)』
  12. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.68『昭和七年八月一日(内令二四五)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 軍艦、巡洋艦、二等ノ部中夕張ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |最上型|最上、三隈| 驅逐艦、一等ノ部中吹雪型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |初春型|初春、子日、若葉| 潜水艦、一等ノ部中大型五型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |海大六型|伊號第六十八、伊號第六十九| 水雷艇ノ部中艦(艇)型ノ欄ニ「千鳥型」ヲ、艦艇名ノ欄ニ「千鳥、眞鶴」ヲ加フ 掃海艇ノ部中第九號型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |第十三号型|第十三號、第十四號|』
  13. ^ 昭和9年6月1日(金)海軍公報第2184号 p.8」 アジア歴史資料センター Ref.C12070343500 『○軍艦進水 三菱長崎造船所ニ於テ建造ノ軍艦三隈去月三十一日午前九時十五分進水セリ』
  14. ^ 「軍艦三隈工事概括表変更認許の件」p.2
  15. ^ 「巡洋艦最上、三隈竣工期日変更の件」p.3
  16. ^ 「最上三隈船体部補強工事に伴ひ工事予定変更に関する件」p.2
  17. ^ #ハンディ判艦艇写真集12p.46(三隈竣工式写真)
  18. ^ 宇都宮俊雄「大巡洋艦 三隈・最上・鈴谷 排水量八五〇〇噸 MIKUMA、MOGAMI、SUZUYA」『軍艦写真帖』宇都宮本店、1936年9月https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112209/11 
  19. ^ 「寄贈物品受納の件」p.3
  20. ^ #ハンディ判艦艇写真集12p.49
  21. ^ a b c d e f g h #ハンディ判艦艇写真集12p.45(重巡洋艦『三隈』行動年表)
  22. ^ 昭和14年11月15日 海軍公報(部内限)第3363号 p.51」 アジア歴史資料センター Ref.C12070381900 『○旗艦指定 第二艦隊司令長官ハ第二水雷戰隊ノ旗艦ヲ神通ニ、第七戰隊ノ旗艦ヲ熊野ニ、第八戰隊ノ旗艦ヲ利根ニ、第三潜水戰隊ノ旗艦ヲ五十鈴ニ十一月十五日孰モ指定セリ|第八戰隊司令官ハ十一月十六日旗艦ヲ利根ニ指定セリ』
  23. ^ #重巡最上出撃せよ271頁
  24. ^ #十人提督(下)304-305頁
  25. ^ #重巡最上出撃せよ274-276頁『インド洋をわが手に』
  26. ^ a b 戦史叢書ミッドウェー海戦179-180頁『支援隊のグァム進出』
  27. ^ 戦史叢書ミッドウェー海戦(付図第二)『ミッドウェー及びアリューシャン方面における各部隊の進撃行動図(ミッドウェー部隊は六月四日まで、アリューシャン部隊は六月五日まで)』
  28. ^ 戦史叢書ミッドウェー海戦266-271頁
  29. ^ #重巡最上出撃せよ283頁
  30. ^ #プランゲ下112頁
  31. ^ a b c d 戦史叢書ミッドウェー海戦442-444頁
  32. ^ #戦藻録(九版)132頁、#プランゲ下116頁
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参考文献

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  • 奥宮正武『太平洋戦争と十人の提督(上)』朝日ソノラマ、1983年8月。ISBN 4-257-17030-1 
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  • 亀井宏『ミッドウェー戦記 さきもりの歌』光人社、1995年2月。ISBN 4-7698-2074-7 
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    • 戦史研究家伊達久『重巡戦隊の編成変遷とその航跡の全貌』
    • 当時「最上」側的士兼照射指揮官・元海軍大尉香取頴男『バタビア沖「最上」砲煙たえることなし 遠洋航海もなく直ちに実戦に投じられた少尉候補生の海戦初体験
    • 当時「最上」側的士兼照射指揮官・元海軍大尉香取頴男『七戦隊三隈と最上の衝突 ミッドウェー海戦もうひとつの悲劇
    • 当時「三隈」通信科員・海軍三等水兵和田正雄『血染めの重巡「三隈」にあがった絶叫悲し 繰り返し襲いくる敵機の前に潰えた三隈から生還した通信科員の証言
    • 戦史研究家落合康夫『日本海軍重巡洋艦十八隻戦歴一覧』
  • エドワード・P・スタッフォード、井原裕司 訳『空母エンタープライズ THE BIG E 上巻』元就出版社、2007年。ISBN 978-4-86106-157-8 
  • 高松宮宣仁親王嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第二巻 昭和八年一月一日~昭和十二年九月二十六日』中央公論社、1995年6月。ISBN 4-12-403392-3 
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
  • 中島親孝『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争 参謀が描く聯合艦隊興亡記』光人社NF文庫、1997年10月。ISBN 4-7698-2175-1  中島は近藤中将の第二艦隊参謀として愛宕に乗艦していた。
  • チェスター・ニミッツ、E・B・ポッター、実松譲・富永謙吾訳『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1962年12月。 
  • イアン・トール著、村上和久訳「第十二章 決戦のミッドウェイ」『太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで 下』文藝春秋、2013年6月。ISBN 978-4-16-376430-6 
  • 野村實『天皇・伏見宮と日本海軍』文藝春秋、1988年2月。ISBN 4-16-342120-3 
  • 橋本敏男田辺弥八ほか『証言・ミッドウェー海戦 私は炎の海で戦い生還した!』光人社、1992年。ISBN 4-7698-0606-X 
  • 橋本敏男田辺弥八ほか『証言・ミッドウェー海戦 私は炎の海で戦い生還した!』光人社NF文庫、1999年。ISBN 4-7698-2249-9 
    • 血染めの重巡三隈にあがった絶叫かなし 元重巡三隈の通信科員・三等水兵和田正雄
    • 不死身の最上ミッドウェー沖の雄叫び 元重巡最上の航海長・海軍中佐山内正規
  • 藤田千代吉ほか『証言 昭和の戦争*リバイバル戦記コレクション6 ミッドウェーの海に鋼鉄の浮城が燃えている』光人社、1990年7月。ISBN 4-7698-0504-7 
    • 連合艦隊の守護神・第八駆逐隊「朝潮」艦橋からの血戦レポート-藤田千代吉(測距員)「ミッドウェーの海に鋼鉄の浮城が燃えている」
  • ゴードン・ウィリアム・プランゲ千早正隆訳『ミッドウェーの奇跡 上巻』原書房、2005年。ISBN 4-562-03874-8 
  • ゴードン・ウィリアム・プランゲ、千早正隆訳『ミッドウェーの奇跡 下巻』原書房、2005年。ISBN 4-562-03875-6 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ミッドウェー海戦』 第43巻、朝雲新聞社、1971年3月。 
  • 雑誌「丸」編集部『丸スペシャルNo122 重巡最上型/利根型』(潮書房、1987年)
  • 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦 重巡Ⅲ 最上・三隈・鈴谷・熊野・利根・筑摩・海防艦』 第7巻、光人社、1990年2月。ISBN 4-7698-0457-1 
  • 雑誌『丸』編集部 編『ハンディ判日本海軍艦艇写真集12 重巡 最上・三隈・鈴谷・熊野・利根・筑摩』光人社、1997年5月。ISBN 4-7698-0782-1 
    • 宮崎良純「夜戦の雄 "重巡三隈" バタビア沖の勝鬨 敵巡洋艦二隻に砲撃と雷撃の乱打を浴びせた"バタビア沖"勝利の海戦記!
  • 丸編集部編『重巡洋艦戦記 私は決定的瞬間をこの目で見た!』光人社、2010年11月。ISBN 978-4-7698-1485-6 
    • 元最上航海長・海軍大佐山内正規『七戦隊三隈と最上の衝突 ミッドウェー海戦もうひとつの悲劇
  • 「丸」編集部編「曾爾章 重巡最上出撃せよミッドウエー」『巡洋艦戦記 重巡最上出撃せよ』光人社、2011年8月(原著1990年)。ISBN 978-4-7698-2700-9 
  • 吉田俊雄(元大本営海軍参謀)『良い指揮官 良くない指揮官 14人の海軍トップを斬る!』光人社、1996年1月。ISBN 4-7698-0746-5 
  • 「歴史群像」編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.38 最上型重巡』(学習研究社、2002年) ISBN 4-05-602880-X
  • ウォルター・ロード、実松譲訳『逆転 信じられぬ勝利』フジ出版社、1969年7月。 

関連項目

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