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津島文治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
津島 文治
つしま ぶんじ
金木町長時代(1926年)
生年月日 1898年1月20日
出生地 日本の旗 青森県北津軽郡金木村
没年月日 (1973-05-06) 1973年5月6日(75歳没)
出身校 早稲田大学政治経済学部政治学科[1]
所属政党立憲政友会→)
日本進歩党→)
民主党→)
自由民主党→)
無所属→)
自由民主党
称号 従三位
勲一等瑞宝章
親族 義甥・津島雄二(元厚生大臣)
娘婿・田沢吉郎(防衛庁長官)
大甥・津島恭一(元衆議院議員)
大甥・津島淳(衆議院議員)

選挙区 青森県地方区
当選回数 2回
在任期間 1965年7月4日 - 1973年5月6日

選挙区 (青森県全県区→)
旧青森1区
当選回数 3回
在任期間 1946年4月10日 - 1947年3月31日
1958年5月22日 - 1963年10月23日

青森県の旗 公選初代・2・3代 青森県知事
当選回数 3回
在任期間 1947年4月12日 - 1956年
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津島 文治(つしま ぶんじ、1898年明治31年)1月20日1973年昭和48年)5月6日)は、日本実業家政治家地主[1]、青森県多額納税[2][3]

金木銀行頭取。衆議院議員(3期)。参議院議員(2期)。青森県知事(公選初代-3代)。陸奥銀行、津軽鉄道、津軽酒造各取締役[1]。東北鳩協会顧問[4]農業[3]

作家の太宰治(津島修治)は弟、俳優津島康一は長男。元衆議院議員の津島雄二は義理の甥。

来歴

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大地主で銀行家の津島源右衛門旧姓松木)とタ子(たね)の三男として青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)に生まれた。

金木第一尋常小学校から五所川原農学校(現青森県立五所川原農林高等学校)を卒業後上京し、早稲田大学政治経済学部に入学。早稲田大学文学部の同期入学者に井伏鱒二がいた(井伏は学生時代から津島が津軽の大地主の息子であることを噂に聞いていた)。当初は政治評論家を志望。大学時代、長唄の稽古に通う。太宰治『思ひ出』『兄たち』によれば演劇を勉強しており、雑誌に『奪ひ合ひ』という戯曲を発表したこともある。書棚にはイプセンなどの戯曲集を揃えていた。大学在学中の1922年12月に結婚。

1923年、大学卒業[1]の翌日に父が急死したため、津島家の家督を継ぐ。1925年金木町長に選ばれ、2年間務める。1927年、青森県議選で最高位当選を果たし、最年少の県議となり、2期を務める。

1930年11月、弟修治(太宰)がカフェの女給田部シメ子心中未遂事件を起こし自殺幇助容疑で鎌倉警察署に逮捕された時には、担当刑事が金木出身で津島家の小作の息子だったことや、管轄の横浜地裁の所長が黒石市出身で父源右衛門の姻戚だったことを利用し、自らの政治的影響力を行使して、修治を起訴猶予処分に持ち込んだ。

1937年立憲政友会から第20回衆議院議員総選挙に立候補。その若さや家柄から「青森県の近衛公」と呼ばれ、将来を嘱望される。4月30日に投票がおこなわれ、5月1日に開票、第2位で当選するも、5月4日選挙違反の容疑で五所川原警察署に逮捕される。留置場から衆院議員当選不承諾届と県議辞任届を提出、さらに金木銀行頭取、西北畜産利用組合長、北津軽郡青年団長、神社の氏子総代などの公職をことごとく辞任。のち、公判にて罰金2000円および10年間の公民権停止の判決を言い渡された。以後、第二次世界大戦中は自邸の書斎にこもる日々が続く。蟄居時代は養鶏や園芸について学ぶ[5]

1945年7月、疎開先の甲府で空襲にあった修治の一家を自邸に迎える。

1946年進歩党から戦後初となる第22回衆議院議員総選挙に立候補。修治も背広にリュックサック姿で選挙運動に協力。同年4月10日の選挙において、全県一区(大選挙区制)定員7名中6位で当選。衆議院議員となり、公務のため東京に住む。

1947年日本国憲法施行に伴う国政・地方首長の全面改選を機に青森県知事選挙に立候補して当選、初代の民選知事となった。 同年8月の昭和天皇の戦後巡幸では、青森県の県政について奏上し、県内の随行役を務めた[6][7]。県知事は3期(9年余)を務めた。十和田湖湖畔の裸婦像(「乙女の像」)は、津島が高村光太郎に依頼して制作されたものである。1948年、修治が自殺。

県知事退任後の1958年におこなわれた第28回衆議院議員総選挙青森1区から無所属で立候補して当選、2期を務める。1963年第30回衆議院議員総選挙には次点で落選した。

1965年第7回参議院議員通常選挙青森県選挙区から立候補して当選。なお、この時期は自由民主党に所属していた。1968年春の叙勲で勲二等旭日重光章受章[8]

参議院議員2期目在任中の1973年5月6日死去、75歳。死没日をもって勲一等瑞宝章追贈、従三位に叙される[9]

人物

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私生活では修治(太宰治)の型破りな性格のために衝突をしばしば繰り返した。そのため、弟の自殺後にその名声が高まって文豪に加えられていく世間の状況には困惑していたという。

1965年、芦野公園に太宰の文学碑が建立され、除幕式に津島美知子井伏鱒二らと出席したが、野原一夫によれば、愛想のいい好々爺になっていたという[10]

親族

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長男康一に子供はないので直系は絶えた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
津島美知子
 
太宰治
 
(文治の
弟)
 
 
 
津島文治
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
津島佑子
 
 
 
(文治の
甥)
 
津島康一
 
(文治の
娘)
 
田澤吉郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
津島恭一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
太田静子
 
太宰治
 
津島美知子
 
津島文治
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
太田治子
 
津島佑子
 
(治の
長女)
 
津島雄二
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
津島淳
 
 


ここでは津島文治の親族に該当する者を中心に図示した。

脚注

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  1. ^ a b c d 『早稲田大学紳士録 昭和15年版』ツ549頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年11月18日閲覧。
  2. ^ 『日本紳士録 第37版附録 多額納税者名簿』全国多額納税者 青森県50頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年8月4日閲覧。
  3. ^ a b 『人事興信録 第13版下』ツ3頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年11月17日閲覧。
  4. ^ 『東奥年鑑 昭和5年』p.742(1930年発行)”. 東奥日報社 . 2023年9月9日閲覧。
  5. ^ ちょっとお邪魔 前知事 津島文治氏 如才ない学者政治家 養鶏と園芸はベテラン級(『金木だより』 第44号 1958年2月20日発行)”. 金木町役場 . 2023年9月9日閲覧。
  6. ^ 宮内庁『昭和天皇実録第十』東京書籍、2017年3月30日、405,406頁。ISBN 978-4-487-74410-7 
  7. ^ 原武史『昭和天皇御召列車全記録』新潮社、2016年9月30日、97頁。ISBN 978-4-10-320523-4 
  8. ^ 『官報』号外第43号2頁 昭和43年4月30日号
  9. ^ 『官報』第13908号16頁 昭和48年5月9日号
  10. ^ 野原一夫『太宰治 生涯と文学』ちくま文庫、1998年、12-17頁。 

参考文献

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  • 交詢社編『日本紳士録 第37版附録 多額納税者名簿』交詢社、1933年。
  • 早稲田大学紳士録刊行会編『早稲田大学紳士録 昭和15年版』早稲田大学紳士録刊行会、1939年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第13版下』人事興信所、1941年。
公職
先代
早坂冬男
青森県の旗 青森県知事
1947年-1956年
次代
山崎岩男
議会
先代
仲原善一
日本の旗 衆議院建議委員長 次代
内藤誉三郎
先代
宮沢才吉
日本の旗 参議院地方行政委員長
1968年-1969年
次代
村井八郎