松平慶民
松平 慶民(まつだいら よしたみ、1882年(明治15年)3月13日 - 1948年(昭和23年)7月18日)は、大正・昭和期の宮内官僚。最後の宮内大臣で初代宮内府長官。子爵。元福井藩主・松平慶永の三男。
来歴・人物
[編集]1882年、元福井藩主・松平慶永の三男として生まれる。慶永の養子として家督を継いだ松平康荘の養子に入るが、1893年に康荘の実子である康昌が誕生している。
1896年よりイギリスへ留学し、1908年にオックスフォード大学を卒業して帰国した。帰国後は陸軍に進み、世田谷の陸軍野戦砲兵第一連隊に所属した。この間の1906年9月17日に分家し、父の明治維新における功労によって子爵に叙せられる。
1912年に侍従に就いて以降、一貫して宮内省に奉職。侍従兼式部官、式部次長兼宗秩寮宗親課長を経て、1934年7月17日、式部長官に就任。1945年7月9日、宗秩寮総裁。1946年1月16日、宮内大臣に就任。 同年2月から始まる昭和天皇の戦後巡幸では、お召し列車に同乗。神奈川県、群馬県訪問に供奉した[1]。 1947年5月3日、宮内府の移行に伴い、その初代長官となった。1948年6月3日、宮中改革を推し進めるGHQなどの意向により退任した。
戦後、康昌らと「五人の会」を結成して昭和天皇から聞き取りを行い「昭和天皇独白録」の作成にあたった。宮内省では珍しい外国通として知られ、昭和天皇のヨーロッパ訪問や秩父宮雍仁親王のイギリス留学の実現、また戦後のGHQとの交渉に手腕を発揮した。
皇族や上級華族であろうと、問題が発生すれば、宮内省幹部として遠慮なく問責した。東久邇宮稔彦王の帰国拒否・臣籍降下騒動、不良華族事件など、皇室の権威を損なう事件が頻発した戦前昭和期に、果たした役割は大きかった。その硬骨漢ぶりは、「昭和の殿様」「閻魔大王」と称された。
栄典
[編集]- 1906年(明治39年)9月17日 - 子爵[2]
- 1907年(明治40年)9月20日 - 正五位[3]
- 1911年(明治44年)9月4日 - 木杯一組[4]
- 1915年(大正4年)11月7日 - 大正三四年従軍記章[5]
- 1920年(大正9年)
- 1928年(昭和3年)
- 1932年(昭和7年)8月16日 - 勲三等瑞宝章[10]
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[11]
- 1948年(昭和23年)7月18日 - 正二位[12]
- 外国勲章佩用允許
- 1919年(大正8年)
- 1922年(大正11年)6月22日 - イギリス帝国:ブリティッシュエンパイア勲章コマンダー[15]
- 1929年(昭和4年)7月22日 - イギリス帝国:ヴィクトリア勲章ナイトコマンダー[16]
- 1931年(昭和6年)4月28日 - シャム王国:クーロンヌ勲章グランクロア[17]
- 1934年(昭和9年)12月28日 - ベルギー王国:レオポール勲章グランオフィシエー[18]
- 1937年(昭和12年)2月9日 - 満洲帝国:勲三位景雲章[19]
- 1939年(昭和14年)9月30日 - イタリア王国:クーロンヌ勲章グランクロア[20]
- 1942年(昭和17年)
系譜・家族
[編集]関連資料の所在
[編集]出典
[編集]- ^ 原武史『昭和天皇御召列車全記録』新潮社、2016年9月30日、90-91頁。ISBN 978-4-10-320523-4。
- ^ 『官報』第6968号「叙任及辞令」1906年9月18日。
- ^ 『官報』第7271号「叙任及辞令」1907年9月21日。
- ^ 『官報』第97号「彙報 - 褒章」1912年11月26日。
- ^ 『官報』第1411号・付録「辞令」1917年4月18日。
- ^ 『官報』第2460号「叙任及辞令」1920年10月13日。
- ^ 『官報』第2711号「叙任及辞令」1921年8月13日。
- ^ 『官報』第506号「叙任及辞令」1921年9月1日。
- ^ 『官報』第602号「叙任及辞令」1928年12月29日。
- ^ 『官報』第1690号「叙任及辞令」1932年8月17日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 『官報』第6462号「叙任及辞令」1948年7月30日。
- ^ 『官報』第1950号「叙任及辞令」1919年2月4日。
- ^ 『官報』第2062号「叙任及辞令」1919年6月19日。
- ^ 『官報』第2969号「叙任及辞令」1922年6月26日。
- ^ 『官報』第771号「叙任及辞令」1929年7月25日。
- ^ 『官報』第1298号「叙任及辞令」1931年5月1日。
- ^ 『官報』第2404号「叙任及辞令」1935年1月10日。
- ^ 『官報』第3056号・付録「辞令二」1937年3月13日。
- ^ 『官報』第3826号「叙任及辞令」1939年10月4日
- ^ 『官報』第4521号「叙任及辞令」1942年2月5日。
- ^ 『官報』 1942年7月11日 叙任及辞令 「式部長官 従三位 勲二等 子爵 松平慶民 満州国皇帝陛下ヨリ贈与シタル勲一位柱国章ヲ受領シ佩用スルヲ允許セラル 七月六日賞勲局」
- ^ 曽木颯太朗「あの人の蔵書(第6回)旧蔵者は誰?! 松平慶民の蔵書」『国立国会図書館月報』(734), 2022-06
参考文献
[編集]- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』(霞会館、1996年)
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (福井)松平家(分家)初代 1906年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |
公職 | ||
先代 石渡荘太郎 |
宮内大臣 第13代: 1946年 - 1947年 |
次代 宮内省廃止(宮内府に改組) |