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小笠原信成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小笠原 信成
時代 江戸時代中期
生誕 宝永6年5月12日1705年7月2日
死没 享保15年7月14日1730年8月27日
改名 斎宮(幼名)、信成
別名 弾正(通称)
戒名 承徳院殿仁艘量寛大居士
墓所 東京都台東区松が谷の海禅寺
福井県勝山市の開善寺
官位 従五位下、能登
幕府 江戸幕府
越前勝山藩
氏族 酒井氏小笠原氏
父母 父:酒井忠隆、養父:小笠原信辰
正室:小笠原信辰の娘
実子なし、養子:信胤
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小笠原 信成(おがさわら のぶなり)は、越前勝山藩の第3代藩主。信嶺小笠原家5代。

生涯

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宝永2年(1705年)5月12日、旗本酒井忠隆酒井忠次の曾孫[1])の四男として江戸で生まれる。享保5年(1720年)7月4日、越前勝山藩第2代藩主・小笠原信辰養子となり、享保6年(1721年)4月25日に信辰が隠居したため家督を継いだ。

享保9年(1724年)、享保12年(1727年)に大坂加番に任じられ、享保11年(1726年)に火山性地震で領内に大被害を受けるなど、出費が重なって藩財政は悪化した。享保15年(1730年)2月に再び大坂加番に任じられたが、病気に倒れて赴任できないまま死去した。享年26。

実子がなかったため、末期養子となった信胤が跡を継いだ。

系譜

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父母

正室

養子


開善寺の墓(中央)。左は信辰、右は信胤の墓。

脚注

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  1. ^ 酒井忠村の子で、酒井忠知の孫。