大給近孝
大給 近孝(おぎゅう ちかたか、1879年(明治12年)7月3日[2][注釈 1] - 1958年(昭和33年)3月25日[2][4])は、明治から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。
経歴
[編集]子爵・大給近道[注釈 2]の長男として生まれた[2][6]。父の死去に伴い、1902年(明治35年)11月22日、子爵を襲爵した[2][7]。近孝は学習院初等科・中学科を卒業後、とくに職には就かず、日本弘道会評議員[8]、子爵会幹事などを務めた[9]。学習院では大正天皇の学友であり[10][9]、1908年(明治41年)の九州視察に際し旧藩主として大分県で出迎えている[10]。1915年(大正4年)、皇子浴場之儀鳴弦控となる[4]。同年12月25日付[11]で貴族院子爵議員補欠選挙に当選すると吉田清風の次席に序され、第3部研究会所属[12]として活動し1925年(大正14年)7月9日まで2期在任した[4]。
親族
[編集]酒井忠篤の娘・米子(1885年[6] - 1974年)と結婚して[13]三女をもうけ[9]、長女・カ都子の夫・大給近憲(上杉茂憲の子・正金銀行香港支店副支配人[6])を養嗣子とし、二女・幸子は五代友厚の孫・土居保太郎に、三女千賀子は岡村武に、それぞれ嫁がせた[6]。近道の二男・大給近清[疑問点 ]は洋画を研究して黒田清輝の娘と結婚し南青山[10]に分家[6]したが夭折した[9]。近孝の娘婿・大給近憲の没後はその長男(当人の孫)・近達(1930年 - 2013年、文化人類学者・国立民族学博物館名誉教授・淑徳学園元理事長)が大給家を継いだ[14]。
ゆかりの地
[編集]明治初期に父・大給近道が屋敷を構えた旧東京市本郷区駒込千駄木坂下町(現・千駄木3丁目)には「大給坂」と名付けられた坂が遺る[14]。また、地元青年団のために大給近孝が寄付して1926年(大正末年)に建てられた文武道場「芳林閣」が現存する[17]。
千駄木林町(現・千駄木3-12)にあった近孝邸は、鈴木三樹之助に売却されたのちに大平正芳邸を経て文京区千駄木第2児童遊園となり、近孝が遺してほしいと希望したいちょうの大木が立つ[14][18]。 墓所は代々の菩提寺である小石川の見樹院。
著作
[編集]- 大給近孝「春寒絕峭憶鄕國」『大正詩文』第5巻第4号、雅文会、1918年4月、31頁(コマ番号0020.jp2)。doi:10.11501/1512295、全国書誌番号:00014248。
- 大給近孝「挨拶」『弘道』第314号、日本弘道会、1918年5月、41-42頁(コマ番号0028.jp2)、doi:10.11501/6057857。
- 広瀬淡窓「1、旧府内藩主大給近孝子爵(淡窓先生関係文書)」『淡窓全集』下巻、大分県日田郡:日田郡教育会(編)、1925-1927年、20-21頁(コマ番号0543.jp2)、doi:10.11501/1913251、全国書誌番号:51003782。広瀬貞治に宛てた書状、大正4年(1915年)12月1日付。先代の広瀬求馬(1856年没)と伯父・久兵衛(1871年没)の位階追贈を祝う。
- 「我が団の防訓について」『警防』第7巻第11号、警防社、1941年11月、28-29頁(コマ番号0016.jp2)、doi:10.11501/1537831、全国書誌番号:00006664。
叙位叙勲
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 杉謙二(編)『華族画報』華族画報社、1913年。NCID BB08841541、CRID 1130282268813416576。
- ^ a b c d 『平成新修旧華族家系大成』上巻、359-360頁。
- ^ a b c 大日本華族大鑑 1911, p. 60.
- ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』38頁。
- ^ 大分県士録 1914, p. 19.
- ^ a b c d e f 『人事興信録』第14版 上、84-85頁(オ(ヲ)之部)。
- ^ 『官報』第5818号、1902年(明治35年)11月24日、507頁。
- ^ 弘道 1918, p. 41-42.
- ^ a b c d 日本弘道會評議員 子爵 大給近孝『大分県人士録』18-20頁。
- ^ a b c 大分県人士録 1914, p. 20.
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、23頁。
- ^ 『官報』第1022号、1915年(大正4年)12月27日、697頁。
- ^ 「名門の夫人(子爵大給近孝氏夫人 男爵波多野田敬直氏夫人)」『女子文壇』第6巻第5号(4月号)、女子文壇社、1910年4月、__頁(コマ番号0023.jp2)。doi:10.11501/11186243、全国書誌番号:00011822。
- ^ a b c “大給子爵家こぼればなし”. kugenuma.sakura.ne.jp. 鵠沼を語る会. 2015年4月25日閲覧。
- ^ “【千駄木, 建物】芳林閣” (2006年12月14日). 2018年7月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年4月25日閲覧。
- ^ 「特集 未完 みんなで作る林町事典林町特集」『谷中・根津・千駄木』28林町特集(48p)、1991年7月10日、 オリジナルの2009年7月3日時点におけるアーカイブ、2015年4月25日閲覧。
- ^ 芳林閣は駒込林町に住んだ大給近孝子爵の寄付に基づき1926年(大正15年)に建設。財務省の管理に移り、会合などに使う町会は賃貸費を払うようである(2006年時点)[15]。情報源は地域雑誌『谷中 根津 千駄木』[16]。
- ^ “大給坂(おぎゅうざか)”. 文京区 (2012年3月26日). 2015年4月25日閲覧。
- ^ 『歴史写真』2月号(249)、歴史写真会、1934年。全国書誌番号:0007409。
参考文献
[編集]- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』 上巻、霞会館、1996年。全国書誌番号:97010733。ISBN 4-642-03670-9。1994年(平成6年)6月1日時点。皇室・皇族の系譜、旧皇族・旧王公族の系譜、旧華族の系譜(ア〜ソ)
- 「敍任及辞令 / 大給近孝(宮内省)」『官報』第5818号、1902年(明治35年)11月24日、507頁 (コマ番号0002.jp2)、doi:10.11501/2949121。
- 「帝国議会/ 貴族院 - 子爵議員当選」『官報』第1022号、1915年(大正4年)12月27日、698頁(コマ番号0024.jp2)、doi:10.11501/2953133。
- 衆議院・参議院(編)「子爵議員」『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年、33頁- (0025.jp2-)、おの部134頁- (0140.jp2-)頁。doi:10.11501/9673684。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 『人事興信録』 上巻(第14版)、人事興信所(編)、1943年、オ(ヲ)之部84-85頁(コマ番号367)頁。doi:10.11501/1704391。
- 「日本弘道会評議員 子爵 大給近孝」『大分県人士録』大分県人士録発行所、1914年、18-20頁(コマ番号0032.jp2-0033.jp2)頁。doi:10.11501/908965。全国書誌番号:42003938。肖像あり。
- 筒井住蓮(編)「を之部 — 従四位大給近孝君」『大日本華族大鑑』都通信社、1911年(明治44年)、60頁(コマ番号0056.jp2)頁。doi:10.11501/780820。全国書誌番号:40017846。
関連項目
[編集]- 大給近孝の趣味
関連資料
[編集]- 垣本言雄『府内藩年中行事』大分史談会、1943年(昭和18年)、doi:10.11501/1460094。
- 「府内藩記録」『大分県立大分図書館所蔵郷土資料目録』大分図書館、1962年、107-144頁。doi:10.11501/2936074。
- 渡辺克己(編)『写真集明治大正昭和大分 : ふるさとの想い出』第22巻、国書刊行会、1979年2月、doi:10.11501/9770500。
- 竹中重義「豊後府内藩(不正廃絶)」『歴史と旅』第17巻第17号(通号248)、秋田書店、1990年11月、124-125頁。 特集「廃絶大名一五〇家」
- 平井義人「研究ノート 売り払われた拝領屋敷--豊後府内藩江戸中屋敷放出の背景」『大分県地方史』第162号、大分県地方史研究会、1996年7月、50-68頁(0027.jp2)、ISSN:0287-6809、doi:10.11501/4436990。
- 大野雅之「大給府内藩と廣瀬家--近説と旭荘の関係を中心に」『史料館研究紀要』第14号、大分県立先哲史料館(編)、2009年6月、11-42頁。
- 佐々木直「幕末維新期の府内藩の動向に関する試論 : 松平近道擁立について」 『史料館研究紀要』第23号、大分県立先哲史料館(編)、2018年10月、13-22頁。
日本の爵位 | ||
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