戦国と宗教 (岩波新書)
日本人の宗教についての理解は、いまだにキリスト教をモデルにしている。浄土真宗や日蓮宗などの「鎌倉仏教」は宗教改革に似ており、それは一向一揆という「市民革命」を生んだが、織田信長につぶされた――というのが従来の理解だが、これは宣教師の報告にもとづく「オリエンタリズム」である。

当時の仏教の主流は、まだ天台宗や真言宗だった。親鸞の「信仰のみによって救われる」という教義がルターに似ていると宣教師は報告したが、実際の真宗は各地の神仏と混合した雑多な信仰だった。それが広まったのは『歎異抄』(16世紀まで知られていなかった)のような高度な教義のおかげではなく、ひたすら「南無阿弥陀仏」を唱えていれば極楽にいけるという単純な信仰が民衆に受け入れられたからだ。

「一向一揆」という言葉は中世の史料にはなく、本願寺を設立した蓮如も「一向宗」という言葉は使わなかった。本願寺は武士と戦う「反権力」の教団ではなく、いろいろな戦国大名と連携して戦う軍団だった。信長と一向宗の「石山合戦」も後世につくられた物語で、石山という地名は同時代の史料にはない。そもそも宗教と世俗権力の対立という図式がオリエンタリズムであり、信仰の中心は戦国大名だった。
権力が宗教を生んだ

天台宗や真言宗が「鎮護国家」を目的とする下等な宗教で、内心の救いを与える鎌倉仏教が高度な宗教だというのも、キリスト教をモデルにした分類である。人々の年収が(今の物価で)数万円だった時代に、巨大な寺院を建てることが権力の援助なしにできるはずがない。カトリック教会はもちろん、ルターもカルヴァンも封建領主と一体だった。

宗教の最大の目的は、どこの文化圏でも死からの救済である。その宗教を信じていたら命が助かることが重要なので、宗教の発達は戦争と一体だった。一向宗も戦国大名が戦争で生き残るための動員装置であり、本願寺は最大規模の軍団だった。「聖と俗」という区別はヨーロッパ固有のもので、日本にはなかった。

さらにメリットが大きいのは、死んでも魂は不滅だ、あるいは死んだら天国に行けるという信仰だった。この点で、戦国時代にキリスト教が急速に広がったのは当然だった。それは浄土真宗と同じ「コペルニクス的転回」であり、戦争に強い。それがキリスト教やイスラム教が人類の半分を占めるまでに広がった原因だろう。浄土真宗も、この点は同じだ。

宗教を教義の内容で判断してはいけない。中世の識字率は1割程度であり、人々が教義を理解することは布教の必要条件ではない。本書は当時の日本に「天道」信仰が多かったというが、これも体系的な宗教ではなく「お天道様」を信じる素朴な民間信仰だった。そもそも宗教という概念が19世紀のデュルケーム以来の新しい概念で、日本では明治以降の言葉なのだ。