シュミットはハイデガーと同様、ナチスに協力した「危険な」哲学者だが、その危険性ゆえにいまだに多くの人々を引きつけてやまない。彼の敵は、ワイマール体制に代表される「決められない政治」であり、現代の日本とも無関係ではない。
自由主義や民主主義の前提とするのは、合理的個人である。ケルゼンの実定法主義(法実証主義)では、法の正統性は数学のように、その論理整合性のみで決まると考えられている。しかし法律を数学になぞらえるとすれば、ユークリッド幾何学も非ユークリッド幾何学もともに成り立ち、どちらが正しいかを決めることはできない。このような非決定性が実定法主義の欠陥であり、それは「ナチスの制定した法律も無矛盾であるかぎり正しい」という結論を導く。
自由主義や民主主義の前提とするのは、合理的個人である。ケルゼンの実定法主義(法実証主義)では、法の正統性は数学のように、その論理整合性のみで決まると考えられている。しかし法律を数学になぞらえるとすれば、ユークリッド幾何学も非ユークリッド幾何学もともに成り立ち、どちらが正しいかを決めることはできない。このような非決定性が実定法主義の欠陥であり、それは「ナチスの制定した法律も無矛盾であるかぎり正しい」という結論を導く。
これに対してシュミットは「主権者とは、例外状態にかんして決定をくだす者をいう」という『政治神学』の冒頭の有名な言葉で、法を超える主権者――経済学者なら残余コントロール権者と呼ぶだろう――が法秩序の本質だとする。法の正統性は論理ではなく暴力によって決まり、「敵か味方か」という政治力学が法の衣をまとっているだけだ。この意味で著者も指摘するように、シュミットの法哲学は「法とは政治のレトリックにすぎない」とするポストモダン法学に通じる面がある。
このような主権者を欠いたワイマール憲法は、シュミットの警告した通り、何も決まらないという欠陥を露呈し、「決定できる」ナチスに乗っ取られてしまう。何も決まらない状態は民主主義の失敗ではなく本質的な欠陥であり、決定する主権の存在こそ真の問題だというシュミットの指摘は、現代日本にとっても重要だ。選挙区の定数削減さえ決められない国で、憲法改正なんてできるのだろうか。
本書はシュミットのテキストを逐語的に解説するだけで、そのインプリケーションにはほとんどふれていないが、「ネットでみんなの一般意志2.0を集計したら民主的社会ができる」とか「官邸の前でデモをしたら社会が変わる」という類の議論のバカバカしさを理解するにはいいかもしれない。
このような主権者を欠いたワイマール憲法は、シュミットの警告した通り、何も決まらないという欠陥を露呈し、「決定できる」ナチスに乗っ取られてしまう。何も決まらない状態は民主主義の失敗ではなく本質的な欠陥であり、決定する主権の存在こそ真の問題だというシュミットの指摘は、現代日本にとっても重要だ。選挙区の定数削減さえ決められない国で、憲法改正なんてできるのだろうか。
本書はシュミットのテキストを逐語的に解説するだけで、そのインプリケーションにはほとんどふれていないが、「ネットでみんなの一般意志2.0を集計したら民主的社会ができる」とか「官邸の前でデモをしたら社会が変わる」という類の議論のバカバカしさを理解するにはいいかもしれない。